2012年7月6日金曜日

教会の教勢低下と「少子高齢化」と「経済不況」はダイレクトな相関関係にある


いまどきは、EXCEL(EXILEではない)とか使えば、ぼくごときシロウトでも、いろんな統計の折れ線グラフとか、いとも簡単に作れてしまうのです。

実際にそういうものを作ってみればはっきり分かることは、教会の教勢(会員総数や集会出席者数などのことです)と、この国で現在進行中の「少子高齢化」とが、またそれだけではなく「経済不況」が、きわめてダイレクトに連動している、ということです。

実際の統計の数字やグラフは、会社等で言えば「企業秘密」のようなものですので、こういうところに大っぴらに公開することはできません。

しかし、とにかく明白なことは、教会の教勢低下と「少子高齢化」と「経済不況」はダイレクトな相関関係にあるということです。

そうであることを明示する「波形」を、EXCEL(EXILEではない)は見事に(?)描き出してくれます。

しかし、「少子高齢化」と「経済不況」は、はっきり言って、日本のキリスト教会の手に負える問題ではありません。

手をこまねいて傍観しているつもりはありません。全く。しかし、我々の教会会議がこれらの問題についての対策を仮に考えてみたところで、世の趨勢を変えることができるわけではない。

だから、ある意味で、教会は、世の趨勢の影響をもろに受けながら、世の中で、世と共に生きていくしかない。世が「少子高齢化」になれば、教会も「少子高齢化」になる。世が「経済不況」になれば、教会も「経済不況」になる。これは甘受するほかはない。

「少子高齢化」なり「経済不況」なりに実効力ある対策を講じうるいわば唯一の存在は、行政です。ほかのどこにあるんですかと、聞いてみたいですよ。

でも、ここから先、よく分からなくなっていくのは、今の行政なり政府なりが、今の趨勢である「少子高齢化」や「経済不況」を、まるで不可避的な運命か宿命でもあるかのように、すっかり悟りきった諦念の僧のように、落ち着き払って受け入れてしまっているように見えるのは、どうしてだろうかということです。

まあ、でも、今のぼくは、行政や政府の人々に文句を言いたいわけではない。文句を言いたいのは、教会です。

EXCELが描き出す折れ線グラフを見るかぎり、「少子高齢化」と「経済不況」の影響が如実に反映されていると思われる「波形」を示しはじめたのは、今から約20年前だと思います。1990年代以降です。それ以前とそれ以降とでは「波形」が違います。

ところが、幸か不幸か(もちろん「幸」であると言いたいわけですが!)、今の教会の中で「現役で」活躍している方々のほとんどは、1990年代以前から教会生活を続けてきた人たちです。

そして、その人たちの多く(いや「ほとんど」)は、教会の教勢が次第に低下していく様子を、数値や「グラフ」で、というよりも、教会内部のいきさつを自分の目で見、その空気を肌で感じてきた人たちだということです。要するに、教会の「現実」を視覚と肌感覚で「リアルに」知っている「と思っている」人たち(ぼく自身を含めて)だ、ということです。

そして、そういう感覚の持ち主(教会内部にずっと前からいた者たち)からいえば、教会の教勢低下の原因は「少子高齢化」でも「経済不況」でもないということに、たいていなります。

あの牧師が、あの長老が、あの人が、トラブルメーカーだったからだ。

あの牧師の説教がなんと貧しく、牧会が乏しかったことが原因だ。

だから、うち(の教会)はこうなった。

というような「リアルな」認識が、どうしても支配的になってしまいがちです。

まあ、もちろん、その種の認識も、たしかに「リアル」ではあります。

しかし、ぼくに言わせていただけば、それは「リアルの一面」ではありますが、別の面の「リアル」もあるのです。それが「少子高齢化」と「経済不況」です。

この影響を全く受けないで過去20年間を生きてきた日本人がいるだろうか。ぼくは「いない」と断言します。

そうであるならば、教会も然りです。教会は人間によって構成されています。悪い意味だと受けとるなかれ。「教会」から「人間」を引くと(教会-人間=)ゼロです。人間不在の教会を目指すなかれ。そんなのは「教会」じゃないよと、ぼくは思いますよ(汗)。

そして、ぼくが考えていることは、日本社会の「少子高齢化」と「経済不況」に対する「教会としての」対策なるものがもしあるとすれば、それを字に書くことを若干躊躇してしまうことだったりします。

しかし、書きましょう。

それは、教会の年配者たち(1990年代以前から教会生活を続けてきた人々。ぼくもここに属する)が、「ぼくたち/あたしたちが日曜学校の生徒や教師だった頃には、百人も二百人も日曜学校に集まっていた。が、いまは惨憺たる有り様だ。なんたることか」とか、「あの人は今日も礼拝に来ていない。仕事だそうだ。子どもは塾、部活。『安息日を覚えてこれを聖とせよ』という教えを知らないのかね」というようなことを、むやみにつぶやくべきではない、ということです。

その言葉がどれほど過酷で冷酷な響きを持っているかを自覚してもらいたいと願うばかりです。

そういうのは一言で言えば「時代が違う」と言わざるをえないし、もっと厳しめの言い方をすれば「世間を知らなさすぎる」と言わざるをえません。高校からストレートで神学校に入って牧師になった関口康に「世間を知らなさすぎる」だなんて言われたくないでしょうけどね(あっはっは)。

悔しかったら、EXCELで折れ線グラフ作ってみてね、と言いたいですよ。

あ、言っときますが、松戸小金原教会の中にそういうイヤミったらしいことをつぶやく人は、一人もいませんからね。あくまでも(教会的な)一般論です。