2012年7月2日月曜日
「あたかも神であるかのように」想定することはもはや無理なのだから
今夜は松戸市内の小中学校の校長とPTA会長の合同懇親会に行ってきました。
松戸市長も同席していました。市長があいさつの中で、松戸市が現在、全33校の市立小中学校のすべての校舎・校庭の除染作業を行っていると言いました。その予算は今年度30億円です。
こういうことを迅速・敏速かつ徹底して行ってくれる松戸市に、ぼくは感謝と敬意を持っています。しかし、その30億円は我々の税金から支出されるものであり、そもそもあのような仕方で放射能が東北地方と首都圏一帯にばらまかれなかったら、そんな30億円なんていうお金を注ぎ込まなくて済んだわけです。
こう考えてみると、もはや悪の根源は原発の存在そのものであると言わざるをえない。
この国が地震などというものが全く起こりえない不動の大地の上に立っており、かつ、原発を管理する人たち・操作する人たちが決して一度も過ちを犯さない完璧な人間なのであれば、話は別かもしれません。
しかし、そんなことは科学的にも・哲学的にもありえないことが、はっきり証明されたじゃないですか。
そういう意味では、原発こそは「最も科学的なものが最も神話的である」典型例である気がします。なぜなら、あれは、原発を管理・操作する人間が「あたかも神であるかのように」想定しなければ成り立たない仕組みだからです。
この国のマジョリティはさんざん宗教を叩き、過小評価しますので、ぼくらは背中を丸め、息をひそめて生きてきました。しかし、彼らも「宗教の一種」だと分かった以上、今後は、遠慮なく言わせていただくことにします。