2012年7月28日土曜日

このデモに「主催者」は、もはやいない


原発抗議行動、今週も 日曜日に「国会包囲」実施へ(朝日新聞)
http://www.asahi.com/national/update/0727/TKY201207270517.html

「これまで呼びかけてきた『首都圏反原発連合』の主催ではなかったが、午後6時すぎには多くの人が集まり、『原発止めろ』『子どもを守ろう』などと声を上げた。」

脱原発:デモ:政党は距離感つかめず
http://mainichi.jp/select/news/20120728k0000m040174000c.html

「自発的に集まる人々がほとんどで、政党側には意思疎通のパイプがない。矛先が既成政党全体に向かうきざしもあり、『なめたらえらいことになる』(自民党幹部)という声も出ている。」

これでますます明白なことは、総理官邸前デモには、厳密な意味での「主催者」は、もはやいない、ということです。

率直に言って、もう、そういうたぐいの恣意的なコントロールは効かない状態だと思うんです。

なので、あくまでもぼくの印象ですが、これからは、「主催者」の側から、「今日はしません」とか、「次はいつにする」とか、「今度はどこで」とかいうような“指示”を、もうあまりしないほうが、このデモは続くんじゃないかという気がします。

「毎週金曜日の午後○時」には、とにかく総理官邸前に行く。だれが“指示”をしなくても、そうする。

というふうな感じの運動は、単純素朴ゆえに長続きするんじゃないかと思うんです。

それは、たとえはピッタリではないかもしれませんが、ぼくたちキリスト教徒が「毎週日曜日の午前○時」には、とにかく教会に行くということを、誰かに”指示”されて、というわけでもなく、してきたのと、どこかしら似ている感じです。

“指示”されるのは、もううんざりなんです、よね。集まっている人たちの感覚は、そのようなものだと思いますよ、一人一人に聞いたわけじゃありませんけどね。

2012年7月27日金曜日

ぼくのラスボスってダレなんですか

脈絡は全くありません。

今朝からなんとなくぼんやり考えていることです。

「自分探し」ってあるじゃないですか。

あれ、ぼくしたことないし、興味も無いんですが...って、してる人をけなす意味は無いですよ、無いです無いです。

だけど、振り返ってみて「ラスボス探し」っていうのは、けっこうしてきたかも、と気づかされるものがあったんです。

ぼくにとっての「ラスボス」って誰なんだろ、という関心です。

分かんないですね、いまだに。

闇夜に怯える子どものようです。

「...だ、だれなんだっ?ぼ、ぼくのラスボスはっ?!」と叫びたいくらいです。

実は自分の父だったという、「銀河鉄道スリーナインかっ!」的なオチも考えなくもないのですが、いやいや、ぼくの父に限っては、それは無い無い。無いです。

えっと、ダレなんですか、ぼくのラスボスは?

「ぼくで~す!」って名乗り出てほしいっす。

あ、もし、実は自分の妻だったという展開だったら、ぼくやられてもいいや(笑)。

それも無いですからね、無い無い(笑)。

2012年7月17日火曜日

「大きな音だね」と言ってください、総理。



【撮影:野田雅也(JVJA)】

この映像はすごいです。

7月13日(金曜日)の官邸前デモのときは、ヘリ撮影は許可されませんでした。だから、警察発表「1万人」と言われても、だれも反論できなかった。

しかし、7月16日(月曜日)は、こういう写真を撮ることができました。

これで総理が「大きな音だね」とか言ったら、今度こそ何か起こると思います。

いっそ、そう言ってほしいと思うくらいです。

「大きな音だね」と言ってください、総理。

2012年7月14日土曜日

まあ、いいですよ。分かりました。


昨日7月13日(金)は、残念ながら総理官邸前に行くことができませんでしたので、フェイスブックとツイッターとユーストリームから流れるデモの情報を集めていました。

それでだんだん分かってきたことは、6月29日(金)と昨日7月13日(金)の大きな違いは、ヘリコプターからの撮影が許可されなかったことにある、ということです。

そのうえでデモの流れが数カ所でせきとめられ、いくつかのブロックに分断され、一つのブロックから他のブロックへの移動ができなかったため、主催者にデモ規模の全容を把握することができなくされた。

それで、政府発表として「1万人」と言ってしまえば、だれも反論できない。

このようにして「主催者発表」の数字を封じる作戦だったのかな、と思いました。

これでは、いくらデモの人数が増えても、首相側は痛くもかゆくもありません。

まあ、いいですよ。分かりました。

2012年7月13日金曜日

「偽装」では何も変わらない

別の話。

忘れないうちに書いておきます。

昨夜、波勢邦生さんとスカイプで一時間くらいしゃべりました。

「波勢邦生、だれ?」の質問に応えるのは著名な彼に失礼なので控えますが、オモロイ人です。

でも、スカイプでしゃべったといっても、ぼくのほうがかなり一方的にしゃべってたというのが実際のところでした。波勢さんはニヤニヤ笑いながら聞いてくれました。

で、ぼくが言ったことは、「伝道」という名のもとに、説教(ないし「メッセージ」)を「若者向けにする」とか、「一般に分かりやすくする」とか、「文脈化する」とか、「非神話化する」とか言ってみたところで、根本の部分は少しも見直そうとしないで、変えるべき点を変えようとしないで、ただアウトプットの様式を変えて見せているだけだとすれば、それって「偽装」っていうんだよ、ということでした。

ま、それ以上のことは、こんなところには書けませんけどね。

「本丸」が問題なら、そこに踏み込まざるをえない。

そういう話をしていました。これはキリスト教界の内輪話です。

波勢さん、夜遅く付き合ってくれてありがとう。またね!

迅速な政治判断を求めます

松戸市が「ホットスポット」になったことは明白です。

それは松戸市だけではなく、千葉県の北西部全体、あるいは東京都の葛飾区あたりもそうです。この事実を否定できる人はもはやいません。

最初は子どもたちのことを心配し、もし彼らが求めるなら、せめて子どもたちだけでもぼくの実家のある岡山に避難させようかと考えました。

しかし、子どもたち自身が、各学校から十分な説明を受けたうえで「ぼくらは逃げたいとは思わない」と言うので、彼らの意思を尊重することにしました。

松戸市は、除染にしろ、情報公開にしろ、非常に迅速かつ率先しておこなってくれるので(それで問題そのものが解決するわけではないにしても)、ぼくは松戸市に感謝と敬意を持っています。

しかし、「原発再稼働反対」は、ぼくにとっては、何ら他人事ではありえません。

6月29日(金曜日)は首相官邸前抗議にぼくも行きましたが、今日はどうか分かりません。

いちばん良いことは、今日の午後6時までに、首相が原発再稼働を撤回する政治判断をすることです。

今日のデモは、首都圏の交通機能をマヒさせるほどの規模になる可能性がある。そのようなデモは、しないに越したことはない。

原発再稼働が撤回されさえすれば、デモそのものをしたいわけではない人はたくさんいると思います。

6月29日(金曜日)ぼくは、本当はデモの最後まで首相官邸前にいたかったのですが、少し早めに帰宅しなくてはなりませんでした。

東京メトロ「国会議事堂前駅」のホームにかけおりるとき、20代か30代くらいの背広を着た男の子たち(省庁職員のような感じの子たち)が「あのデモって、組合とかの掛け声に従わざるをえなくて集まってるやつらばっかなんだよね」とか話している声が聞こえました。

違うよ、それは。

マジで言ってるとしたら、きみら勉強しなおしたほうがいい。

2012年7月9日月曜日

牧師の笑顔は「営業」なのか...ま、まさか(汗)

ウソかホントか、ちまたで「タイムリーな話題」らしいので、調子に乗って書いておきます。

お題は、「牧師の笑顔は『仕事だから』なのかどうか、という謎について」。

もちろん「そうじゃない(営業スマイルではない)ですからねっ!」ということにしておきます。

ま、でもね、逆算してみていただきたいのですが、Yahoo!の報道(?)にもあったように「牧師の平均年収267万円」だったりする。

それで、妻子がいて、子どもが高校だ大学だに行きはじめたりして、その学費だなんだを払うために、牧師でないほうの配偶者が外に働きに出たりしている。

だから、牧師のほうは「家にいる」という理由で「ヒマそうだ」と思われ、子どもの弁当を作ったり、炊事・洗濯をしたりしている。

世間からも「あの人ヒマそうだ」と見られて、PTA会長とか、少年補導員とか、町内会の仕事を押しつけられたりする。

でもでも、教会の説教や牧会の質を落とすとすぐに批判が出るので、聖書の熟読、神学の研鑽、病床訪問などを怠ることは一切できない。

それで、会議だ、学会だ、出張だ、そのための資料づくりで、徹夜だ、寝不足だ。

そんなフラフラの状態でも、「あの仕事ができてない。ここが片付いてない」と畳みかけられ、そのうえ「営業的でないスマイルが欲しい」と要求されるのが牧師だったりするんですが...。

「えっとー、ぼく、どんだけスーパーな人間であることを求められてるんだろう...(遠い目)」と考えるだけで、アタマの中がぼーっとしてしまうところがあります。

「スマイル0円」ですが、牧師の笑顔を保つためには、教会にたくさん献金してくださるのが、実はいちばんイイ感じです。

あ、これ書くと、「キリスト教よ、お前もか、金満体質め!」とか叩かれそうですね。あーあ。

2012年7月6日金曜日

教会の教勢低下と「少子高齢化」と「経済不況」はダイレクトな相関関係にある


いまどきは、EXCEL(EXILEではない)とか使えば、ぼくごときシロウトでも、いろんな統計の折れ線グラフとか、いとも簡単に作れてしまうのです。

実際にそういうものを作ってみればはっきり分かることは、教会の教勢(会員総数や集会出席者数などのことです)と、この国で現在進行中の「少子高齢化」とが、またそれだけではなく「経済不況」が、きわめてダイレクトに連動している、ということです。

実際の統計の数字やグラフは、会社等で言えば「企業秘密」のようなものですので、こういうところに大っぴらに公開することはできません。

しかし、とにかく明白なことは、教会の教勢低下と「少子高齢化」と「経済不況」はダイレクトな相関関係にあるということです。

そうであることを明示する「波形」を、EXCEL(EXILEではない)は見事に(?)描き出してくれます。

しかし、「少子高齢化」と「経済不況」は、はっきり言って、日本のキリスト教会の手に負える問題ではありません。

手をこまねいて傍観しているつもりはありません。全く。しかし、我々の教会会議がこれらの問題についての対策を仮に考えてみたところで、世の趨勢を変えることができるわけではない。

だから、ある意味で、教会は、世の趨勢の影響をもろに受けながら、世の中で、世と共に生きていくしかない。世が「少子高齢化」になれば、教会も「少子高齢化」になる。世が「経済不況」になれば、教会も「経済不況」になる。これは甘受するほかはない。

「少子高齢化」なり「経済不況」なりに実効力ある対策を講じうるいわば唯一の存在は、行政です。ほかのどこにあるんですかと、聞いてみたいですよ。

でも、ここから先、よく分からなくなっていくのは、今の行政なり政府なりが、今の趨勢である「少子高齢化」や「経済不況」を、まるで不可避的な運命か宿命でもあるかのように、すっかり悟りきった諦念の僧のように、落ち着き払って受け入れてしまっているように見えるのは、どうしてだろうかということです。

まあ、でも、今のぼくは、行政や政府の人々に文句を言いたいわけではない。文句を言いたいのは、教会です。

EXCELが描き出す折れ線グラフを見るかぎり、「少子高齢化」と「経済不況」の影響が如実に反映されていると思われる「波形」を示しはじめたのは、今から約20年前だと思います。1990年代以降です。それ以前とそれ以降とでは「波形」が違います。

ところが、幸か不幸か(もちろん「幸」であると言いたいわけですが!)、今の教会の中で「現役で」活躍している方々のほとんどは、1990年代以前から教会生活を続けてきた人たちです。

そして、その人たちの多く(いや「ほとんど」)は、教会の教勢が次第に低下していく様子を、数値や「グラフ」で、というよりも、教会内部のいきさつを自分の目で見、その空気を肌で感じてきた人たちだということです。要するに、教会の「現実」を視覚と肌感覚で「リアルに」知っている「と思っている」人たち(ぼく自身を含めて)だ、ということです。

そして、そういう感覚の持ち主(教会内部にずっと前からいた者たち)からいえば、教会の教勢低下の原因は「少子高齢化」でも「経済不況」でもないということに、たいていなります。

あの牧師が、あの長老が、あの人が、トラブルメーカーだったからだ。

あの牧師の説教がなんと貧しく、牧会が乏しかったことが原因だ。

だから、うち(の教会)はこうなった。

というような「リアルな」認識が、どうしても支配的になってしまいがちです。

まあ、もちろん、その種の認識も、たしかに「リアル」ではあります。

しかし、ぼくに言わせていただけば、それは「リアルの一面」ではありますが、別の面の「リアル」もあるのです。それが「少子高齢化」と「経済不況」です。

この影響を全く受けないで過去20年間を生きてきた日本人がいるだろうか。ぼくは「いない」と断言します。

そうであるならば、教会も然りです。教会は人間によって構成されています。悪い意味だと受けとるなかれ。「教会」から「人間」を引くと(教会-人間=)ゼロです。人間不在の教会を目指すなかれ。そんなのは「教会」じゃないよと、ぼくは思いますよ(汗)。

そして、ぼくが考えていることは、日本社会の「少子高齢化」と「経済不況」に対する「教会としての」対策なるものがもしあるとすれば、それを字に書くことを若干躊躇してしまうことだったりします。

しかし、書きましょう。

それは、教会の年配者たち(1990年代以前から教会生活を続けてきた人々。ぼくもここに属する)が、「ぼくたち/あたしたちが日曜学校の生徒や教師だった頃には、百人も二百人も日曜学校に集まっていた。が、いまは惨憺たる有り様だ。なんたることか」とか、「あの人は今日も礼拝に来ていない。仕事だそうだ。子どもは塾、部活。『安息日を覚えてこれを聖とせよ』という教えを知らないのかね」というようなことを、むやみにつぶやくべきではない、ということです。

その言葉がどれほど過酷で冷酷な響きを持っているかを自覚してもらいたいと願うばかりです。

そういうのは一言で言えば「時代が違う」と言わざるをえないし、もっと厳しめの言い方をすれば「世間を知らなさすぎる」と言わざるをえません。高校からストレートで神学校に入って牧師になった関口康に「世間を知らなさすぎる」だなんて言われたくないでしょうけどね(あっはっは)。

悔しかったら、EXCELで折れ線グラフ作ってみてね、と言いたいですよ。

あ、言っときますが、松戸小金原教会の中にそういうイヤミったらしいことをつぶやく人は、一人もいませんからね。あくまでも(教会的な)一般論です。

2012年7月2日月曜日

「あたかも神であるかのように」想定することはもはや無理なのだから


今夜は松戸市内の小中学校の校長とPTA会長の合同懇親会に行ってきました。

松戸市長も同席していました。市長があいさつの中で、松戸市が現在、全33校の市立小中学校のすべての校舎・校庭の除染作業を行っていると言いました。その予算は今年度30億円です。

こういうことを迅速・敏速かつ徹底して行ってくれる松戸市に、ぼくは感謝と敬意を持っています。しかし、その30億円は我々の税金から支出されるものであり、そもそもあのような仕方で放射能が東北地方と首都圏一帯にばらまかれなかったら、そんな30億円なんていうお金を注ぎ込まなくて済んだわけです。

こう考えてみると、もはや悪の根源は原発の存在そのものであると言わざるをえない。

この国が地震などというものが全く起こりえない不動の大地の上に立っており、かつ、原発を管理する人たち・操作する人たちが決して一度も過ちを犯さない完璧な人間なのであれば、話は別かもしれません。

しかし、そんなことは科学的にも・哲学的にもありえないことが、はっきり証明されたじゃないですか。

そういう意味では、原発こそは「最も科学的なものが最も神話的である」典型例である気がします。なぜなら、あれは、原発を管理・操作する人間が「あたかも神であるかのように」想定しなければ成り立たない仕組みだからです。

この国のマジョリティはさんざん宗教を叩き、過小評価しますので、ぼくらは背中を丸め、息をひそめて生きてきました。しかし、彼らも「宗教の一種」だと分かった以上、今後は、遠慮なく言わせていただくことにします。

6月29日(金)の総理官邸前の抗議者の中にぼくもいました


6月29日(金)の総理官邸前での原発再稼働反対のための抗議行動(20万人=主催者発表)に、ぼくも参加しました。そのとき様子を、忘れないうちに、証言しておきます。

ぼくは午後4時半から6時半までの2時間、「総理官邸前」交差点の一角にいました。デモ隊のお立ち台が設けられた国会記者会館とは対角線の位置にいました。

そこは官邸側でした。百人くらいの制服警官がいる前に、ぼくはいました。立っていた場所のすぐ近くの総理官邸の通用口(っていう名前かどうかは知りません)に、何台も何台も黒塗りのデカイ車がびゅんびゅん入っていきました。

デモ隊の中心に行くと身動きが取れなくなりそうだったので近づきませんでしたが、ぼくがいたあたりにも大勢の抗議者がいましたので、ぼくは別に傍観者だったつもりはありません。

ぼくが現地に到着した午後4時半から30分か1時間ほど経っていたと思うのでたぶん5時は過ぎていましたが、その頃にぼくの近くで、小競り合いというほどのことじゃありませんでしたけど、70代くらいのインテリっぽい男性が、若い警官を相手に、一方的にはげしく怒鳴りはじめました。別に酒に酔ってる様子はありませんでした。

なんでそんなことになったかは、よく分かりました。

若い警官たちが、ぼくらの背中に向かって、「え~っと、ですね~、抗議する人たちは~、道を渡った向こう側に移動してくださ~い。他の通行者の迷惑になりますんで~、この道に立ち止まらないでくださ~い。ご協力をよろしくお願いしま~す」みたいなことをすんごくソフトな調子で繰り返してたんです。

でも、ぼくらは、そんなの関係ねぇみたいな感じで、その声を無視してました。

そうすると、その警官たちが、ぼく以外の何人かには、ほんの少しだけ近づいて同じことを言い出しました。なぜだか理由は分かりませんが、警官たちはだれひとり、ぼくには何も言わなかったし、近づいてもきませんでした。ある方によると、もしかしたらぼくが公安に見えたからではないかということですが、まあそうかもしれません(定かではない)。

そしたら、突然、その70代くらいのインテリっぽいおじさんがブチ切れて、警官相手に怒鳴りはじめました。

「てめえら、うっせーんだよ。警察より憲法のほうがエラインダ。おれたちがここにいて、なんか迷惑なことしてるかよ。だまってすっこんでろよ、おらー」とか言いました。

そしたら、その若い警官たちみんなが苦笑いして、決して口にはしませんが「ま、そーっすねー、へへへ」みたいな顔をしてました。

そういう雰囲気だったんです、金曜日の「デモ」は。

しかし、ぼくが金曜日に官邸前に行くことができたのは、たまたまその日だけ時間的な余裕があったので「行ってみるか」と思い立っただけのことでして、偶然の産物でしかありません。

ですから、現地にいたことをイバルつもりなどは毛頭ありませんし、デモに参加できなかった方々のことをうんぬんするつもりも毛頭ありません。

そして、いま感じていることは、既成の政党やグループによって組織・統制されたデモだったら、ぼくは参加しなかった、ということです。「こうしろ、ああしろ」と指図されるようなデモなら、行ってもすぐに帰ったかもしれない。

少なくともぼく個人は、これだけの人数が抗議してるんだという「絵」を政権担当者に見てもらいたくて行っただけです。

ですから、ぼくのしたことの本質は「示威行動」です。

もし先週金曜日と同じことであれば、ぼくは毎週でも続けられるかもしれません。往復交通費の「1,440円」は自腹ですけど(痛てて)。

ですが、「なんとか党に入党しろ」「なんとかグループに参加しろ」と勧誘され、入ったらすぐに、年会費いくらだ、なんだと徴収され、ニュースレターが届き、デモの前後の飲み会に誘われ、そのうちなんとか委員会に出席しろと言われはじめる。

そういうのだったら、ウザくてイヤですね、ぼくは。