2010年9月24日金曜日

ゴタクを並べながら仕事することの勧め

私が何か「四の五の」ゴタクを並べはじめるときは、たいてい心身にひどく疲れがたまってきているときです。



教会の仕事、牧師の仕事は、「とても楽しい」仕事なんですけどね。私の本来の仕事そのものが忙しいときには、疲れなどほとんど感じません。私の頭や体に疼痛が走りはじめるのは、別の面でのストレスを抱え込んでいるときです。



もう数年前になりますが、養老孟司氏は、いくつかの著書の中で繰り返し「楽しい仕事など無い。もしそのような仕事があるなら、それは遊園地に行くのと同じだから、自分から会社に入場料を支払うべきである。仕事して会社からお金をもらえるのは、仕事は楽しくないからであり、つらいことを我慢しているからだ」と主張なさいました。



なるほどそのとおりと養老氏に同意できる面と、「でも牧師の仕事は違う」と言いたい面とがあります。会社の仕事と教会の仕事はまるで違うので比較にならないし、すべきでないと言われれば、それもそのとおりですが、心と体を酷使しなければ成し遂げられない部分があるという点では少なくとも似ているし、ある面では全く同一とも言えるはずです。



しかし、私自身は、教会そのものの仕事そのもので疲れるのではなく(いま「そのもの」を二回続けて言いました)、疲れるときは、ほとんどの場合、何か別の面で疲れるのです。今も少しだけ、その状態になりかかっているかもしれません。



ひょっとすると、人は、忙しいときよりも、ヒマなときにこそ激しく疲れるのかもしれません。たとえば、「自分は誰からも必要とされなくなった」と感じるときに。あるいは、「自分の役割は終わった」と自覚させられるときに。あるいは、体力は有り余り、気力もあるのに、その使い道が見当たらないときに。



今書いたことは、今の私の状態についての描写ではありません。もしかしたらそうではないかと、想像してみただけです。



「四の五の」言っても、いいんじゃないですか。おそらくは、そうしながら(「四の五の」ゴタクを並べながら)仕事を続けていくことが、心理的にも肉体的にもちょうどよいことなのです。そのことは「もちろん」すべての人に許されていることだと私は信じていますし、そうすることを私自身にも許したいと思っています。



イエス・キリストは十字架の上で「四の五の」おっしゃいませんでした。しかしこの点でこそ私たちは堂々と「私たち自身はイエス・キリストではない。私たち自身は神でも救い主でもありえない」と言い放ってよいのではないか。そう思うのです。



ただし、私たちが「四の五の」言ってよいのはブログの中だけに止(とど)めておくほうがよいかもしれません。「だれも読まなくてもよい」このブログの中だけに。



「このゴタクを、誰かに聞いてもらいたい」という願いを持つことは、人間の当然の感情ではありますが、人の話を聴くこと自体も、カウンセラーたちの活躍に象徴されるように、「これぞまさに仕事」として立派に成立するものです。



ということは、私のゴタクは、それを誰かに聴いていただくことによってその誰かを疲れさせるものになるわけですから、養老理論からいえば、私のゴタクを聴いて疲れたその誰かは「お金を受けとってよい」のであり、私はその人に支払わなければならない、ということにもなるわけです。



お金を受けとる働きだけを「仕事」と呼ぶことに私は大反対している者ですが、「仕事」の意味をそのようにだけ理解している人は少なくないかもしれませんので、今この一瞬だけ、その意味で使います。その前提のうえで書くことですが、「他人のブログを読む仕事」というのがあるのかどうかを私は知りませんが、だれかのブログを読むというただそれだけで、そのこと自体の報酬を受け取っているという人は、たぶんいないのではないでしょうか。



結論でも何でもありませんが、要するに、ブログにゴタクを並べることが他の誰かのストレスになるとは思いたくない、と言いたいのです。そのことを了解できない人は他人のブログを読むべきではないのです。何か言いたいことがある人が、言いたいことを言っているだけなのですから。放っておいてもらえることが、いちばんの慰めだったりするのです。



ブログに何かを書いている人が読者に求めていることがあるとしたら、黙って読み流してもらいたい、ただそれだけなのです。



「四の五の」書いたことに対して「四の五の」(否定的なことを)言われたくはない、そう思っているのです(よね?)。



今日もがんばれそうです。