2010年9月28日火曜日

USBメモリと「クラウド」の違い

USBメモリと「クラウド」(私がかかわりうる規模のことなら「オンラインストレージ」というべきでしょうけど)の違いは何かと考えてみました。



それは要するに、「財布」と「金庫」の関係に該当するのではないかと、遅ればせながら思い至りました。



話を分かりやすくするために例を極端化しますが、たとえば今の私が一億円のお金を持っているとする。それを私は「財布」に入れて持ち歩くでしょうか(たぶんそんな巨大な「財布」はありませんが)、それとも「金庫」に入れるでしょうか。その違いが、USBメモリと「クラウド」の違いではないかと思った次第です。



このところUSBメモリが高性能、低価格になってきましたので、私が扱っている程度の規模のデータファイルなら、たとえ10年分くらいでも、入るか入らないかといえば、入ります。最近のSDカードも大容量化してきましたので、同じことが言えるでしょう。



しかし、「それをその中に入れることが可能であること(can)」と「それをその中に入れたいと願うこと(will)」とは全く違います。私は、自分の(かけがえのない)宝物をUSBメモリやSDカードのようなものの中に入れたくはないし、あのような形で持ち歩きたくありません。入れてみたことはあるし、持ち歩いたことはありますが、もう嫌です。二度としたくありません。



「どこかで落とすかもしれない」とか「だれかに盗まれるかもしれない」とか、そういうことは私にはあまり関係ありません。もうちょっと、美意識にかかわることです。私の感性から出てくる問いは、これは「財布」で気軽に持ち歩いてよいものか、それとも「金庫」の中で大切にされるべきものか、です。



クラウド翻訳術

今の私にとって、Twitterよりもはるかに魅力を感じ、ハマっているのは「クラウド」です。



去年くらいだったか雑誌で「クラウド」という言葉を知り、それは何かを知りたくて、先週たまたま立ち寄った書店で『クラウド仕事術』(岡田充弘著、明日香出版社、2010年、定価1500円)なる本を買って、15分ほどで読みきりました。



「クラウド」(その意味は雲)の定義はいろいろあるようですが、要するにインターネット上のデータ保管場所に複数のコンピュータがつながれている状態を指していて、どのコンピュータからでも全く同一のデータを引き出せることに魅力がある、とまあ、ごく大雑把に言えばこんな感じでしょうか(大雑把すぎますかね)。



10年前、いや5年前、いやいや2年前までは、こんなこと、悩みもしなかったのですけどね。そもそも一台のパソコンを買うこと(ローンを支払うこと)にもとても苦労していましたので、複数のパソコンを所有すること自体「ありえないこと」だったわけで、「クラウド」の必要性を認識する機会は皆無でした。



しかし、ここ2年ほどの間に(おそらくは「ネットブック」の大流行あたりを機に)パソコン自体の値段が急速に求めやすいものとなり、またヤフオクなどで中古パソコンを8千円とか1万円くらいで落札したりもするようになりましたので、我が家のパソコンの所有台数がどんどん増えはじめたのです。



そして、そのことによって、私の中で俄かに浮上してきた問題がありました。私はふだん、教会の仕事の合間を見つけては、ファン・ルーラーはじめオランダ語の神学書の翻訳をしているのですが、パソコンの台数が増えていくにつれて、それら複数のパソコンの中に、それぞれ異なるヴァージョンの(同じタイトルの)訳文が置かれたままになる、ということに気づき始めました。



これは致命的な問題であると私には感じられました。これまでのささやかな体験から言いうることは、「翻訳」の出来具合はその日の精神や肉体の状態に大きく左右される面があるということです。また「訳文」そのものにはパーフェクトな正解などは無く、これは日々変わっていく「生き物」であるということです。そのため、私にとって必要なものは「最新版」だけでした。たった一文字でも、わずか一つの句読点でも、自分の手で変更した翻訳原稿は、過去のものとなったゴミでした。



手持ちのパソコンの数が増えたことで「これは困ったことになった」と天を仰いだ問題は、私に必要な(かけがえのない)「最新版」が、どのパソコンのどのフォルダの中にあるのかがだんだん分からなくなってきたことです。訳文は金魚のようなもので、別の水槽に移し変えても生きていればいい。しかし、金魚もまた日々成長していくのです。



私にとって翻訳は「本業」ではありませんし(本業は牧師です)、「副業」と呼ぶのもおこがましいほどのスピードや頻度でしか取り組むことができない状態ですので、一つの部屋の一つのパソコンだけに集中して翻訳に取り組むというやり方ができません。また、かつて、大事にしていたノートパソコン(VAIO)を、手を滑らして落下させて壊してしまったことがあり、そのとき以来、パソコンはなるべく動かしたくない。だから、パソコンを持ち運ばないで済み、かつ仕事場所を選ぶ必要がない、パソコンが複数ある状態は、とても便利で有りがたいものでした。



しかし、そういうやり方で続けていく中でどうしても必要になったのがUSBメモリでしたが、あれはあれで取り扱いに苦労しました。USBメモリに関して痛感した困難の内容は文章では表現しにくいことですが、貴重な時間と心血を惜しみなく注いで翻訳した文章(のデータ)は私の宝物ですので、あんなちゃちな棒(USBメモリ)の中に入れて「持ち歩く」のが、心理的に嫌でした。



パソコンが増えてもデータが拡散せず、ちゃちな棒(USBメモリ)を使わずに済むことが私の理想でしたが、それがまさに「クラウド」で実現しそうだと気づいたときには、小さくガッツポーズしました。



金魚を同じ一つの水槽の中で飼い続けることができ、なおかつ、その水槽を世界のどこからでも監視し、餌をやり、育て、愛しむことができる「クラウド」は、翻訳を志す者たちの救いです。



Twitterはいまだに分かりません

「Twitterはいまだに分かりません」とTwitterに書くのもどうかと思うのですが、分からないものは分からないし、これを(こんなことを)何日でも何年でも楽しんで続けることができる人がひたすら羨ましいと、今やすっかりオジサン化したらしい我が身を顧みて、しばしボォッとするこの頃です。



どこが、または何が分からないのかさえ分からない、「二重の音痴」のような状態です。「屈託無くつぶやくこと」ができない自分に気づいて、ぶつぶつオフラインでつぶやいています。



もしかしたら、そんなもの有っても無くても/この世界がそれほど大きく変わるわけでもなさそうなのに/必死でしがみついている「私の中の理性」のようなものが、いくばくか強固すぎるのかもしれません。



もとより脳みその中身が非常に少ない人間なので、それを覗かれているような気がするときに、無意識に戦慄を覚えているのかもしれません。「・・・見、見ないでください(ポッ)」。



そういうわけで、今のところ、Twitterはブログの更新通知にだけ利用させていただいています。そんな通知、Twitter界の怒涛の中では、かき消されてしまうまでに一瞬も無いことは分かっていながら。



テレビ出演者系の有名人以外は、フォローしてくださった方だけフォローさせていただいています。「それでも結構増えたなあ(フォローしてくださっている方の人数が)」と驚いています。



一応、たまに読んでいますよ。全く知己の無い方が「いまメシ食べました」とか「さっき風呂入りました」とか書いておられるのを拝見して、「へえ」と、これまたオフラインでつぶやいています。



2010年9月24日金曜日

ゴタクを並べながら仕事することの勧め

私が何か「四の五の」ゴタクを並べはじめるときは、たいてい心身にひどく疲れがたまってきているときです。



教会の仕事、牧師の仕事は、「とても楽しい」仕事なんですけどね。私の本来の仕事そのものが忙しいときには、疲れなどほとんど感じません。私の頭や体に疼痛が走りはじめるのは、別の面でのストレスを抱え込んでいるときです。



もう数年前になりますが、養老孟司氏は、いくつかの著書の中で繰り返し「楽しい仕事など無い。もしそのような仕事があるなら、それは遊園地に行くのと同じだから、自分から会社に入場料を支払うべきである。仕事して会社からお金をもらえるのは、仕事は楽しくないからであり、つらいことを我慢しているからだ」と主張なさいました。



なるほどそのとおりと養老氏に同意できる面と、「でも牧師の仕事は違う」と言いたい面とがあります。会社の仕事と教会の仕事はまるで違うので比較にならないし、すべきでないと言われれば、それもそのとおりですが、心と体を酷使しなければ成し遂げられない部分があるという点では少なくとも似ているし、ある面では全く同一とも言えるはずです。



しかし、私自身は、教会そのものの仕事そのもので疲れるのではなく(いま「そのもの」を二回続けて言いました)、疲れるときは、ほとんどの場合、何か別の面で疲れるのです。今も少しだけ、その状態になりかかっているかもしれません。



ひょっとすると、人は、忙しいときよりも、ヒマなときにこそ激しく疲れるのかもしれません。たとえば、「自分は誰からも必要とされなくなった」と感じるときに。あるいは、「自分の役割は終わった」と自覚させられるときに。あるいは、体力は有り余り、気力もあるのに、その使い道が見当たらないときに。



今書いたことは、今の私の状態についての描写ではありません。もしかしたらそうではないかと、想像してみただけです。



「四の五の」言っても、いいんじゃないですか。おそらくは、そうしながら(「四の五の」ゴタクを並べながら)仕事を続けていくことが、心理的にも肉体的にもちょうどよいことなのです。そのことは「もちろん」すべての人に許されていることだと私は信じていますし、そうすることを私自身にも許したいと思っています。



イエス・キリストは十字架の上で「四の五の」おっしゃいませんでした。しかしこの点でこそ私たちは堂々と「私たち自身はイエス・キリストではない。私たち自身は神でも救い主でもありえない」と言い放ってよいのではないか。そう思うのです。



ただし、私たちが「四の五の」言ってよいのはブログの中だけに止(とど)めておくほうがよいかもしれません。「だれも読まなくてもよい」このブログの中だけに。



「このゴタクを、誰かに聞いてもらいたい」という願いを持つことは、人間の当然の感情ではありますが、人の話を聴くこと自体も、カウンセラーたちの活躍に象徴されるように、「これぞまさに仕事」として立派に成立するものです。



ということは、私のゴタクは、それを誰かに聴いていただくことによってその誰かを疲れさせるものになるわけですから、養老理論からいえば、私のゴタクを聴いて疲れたその誰かは「お金を受けとってよい」のであり、私はその人に支払わなければならない、ということにもなるわけです。



お金を受けとる働きだけを「仕事」と呼ぶことに私は大反対している者ですが、「仕事」の意味をそのようにだけ理解している人は少なくないかもしれませんので、今この一瞬だけ、その意味で使います。その前提のうえで書くことですが、「他人のブログを読む仕事」というのがあるのかどうかを私は知りませんが、だれかのブログを読むというただそれだけで、そのこと自体の報酬を受け取っているという人は、たぶんいないのではないでしょうか。



結論でも何でもありませんが、要するに、ブログにゴタクを並べることが他の誰かのストレスになるとは思いたくない、と言いたいのです。そのことを了解できない人は他人のブログを読むべきではないのです。何か言いたいことがある人が、言いたいことを言っているだけなのですから。放っておいてもらえることが、いちばんの慰めだったりするのです。



ブログに何かを書いている人が読者に求めていることがあるとしたら、黙って読み流してもらいたい、ただそれだけなのです。



「四の五の」書いたことに対して「四の五の」(否定的なことを)言われたくはない、そう思っているのです(よね?)。



今日もがんばれそうです。





2010年9月20日月曜日

神学的孤独感

このところ、そういう(どういう?)年齢になって来たからか、何をどう考えればいいのかが分からないことが多くなりました。



教会的・中会的・社会的責任が重くなって来る年齢に差しかかっているからなのか、それとも、単なる若年性認知症なのかは分かりません。



ファン・ルーラーのオランダ語テキストは、ほぼ毎日開いて少しずつでも訳し続けていますが、そのことが自分自身の目の前の現実の教会的実践や、歴史におけるカルヴァンと改革派教会の歩みとどのように絡み、関係しているのかというあたりまで十分に考え抜くことができません。



また、事務系の仕事に忙殺されればされるほど神学的コミュニティから引き離される時間が長くなるわけですが、そうなればそうなるほど「神学的孤独感」(theological lonliness)が深まり、自分の考えていることが虚しく感じられることが多くなります。



私はもしかしたら神学校のようなところで教えがっているのかもしれません。「私は“亡命者”にすぎず、語学力に乏しく、カリスマは皆無で、かつ、あくまでも教会の牧師として召された者なのだから」と、自分では打ち消して来た感情なのですが・・・。改革派神学研修所の東関東教室は、つまらない事件で崩壊しましたし。



ともかくそんな感じの状態ですので、カルヴァンも改革派神学もファン・ルーラーも、すべてが断片化し、まとまらないまま私の脳内とパソコン内に漂っている状態です。思想面においてはカオティックで非生産的な状態であると自覚しています。



そのような状態に加えて、私は最近、自分のメールのシステムを全面的に変更しました。10年以上利用してきたMicrosoft Outlook(有料版)を使用するのをやめ、すべてをGmailに移行しました。その関係で、とても便利になった面と、不便になった面が出て来て、喜んだり困ったりしています。



「Gmailって何?」な方に・・・



Google社が提供する無料メールアドレスです。
詳しくはこちら→ http://mail.google.com



便利になった面は、Gmailは「ウェブメール」なので、どのパソコンから開いても、過去のメールをすべて読むことができること。不便になった面は、Gmailは「スレッド式」という方式を採用しているため、過去のメールが時系列順に並ばず、届いたメールに返信したかどうかがだんだん分からなくなってしまうこと、です。



スター(星)を付ければ既返信か未返信かを見分けることができるとか何とか、そういう機能があるようですが、そういうテクを勉強している時間が無いのです。



「最近、関口のメールが(以前よりも)少ない」とか、「あいつにメールを送ってもなかなか返って来ない」と思われているとしたら、Gmailへの移行に伴う若干の混乱と関係していることは間違いありませんので、心からお詫びいたします。



Gmailのメールアドレスはyasushi.sekiguchi@gmail.comです。従来のysekiguchi@nifty.comに送っていただいても、全く問題なく届きます。



2010年9月18日土曜日

マンガに描けないマンガ

そもそも私は、マンガはおろか、絵というものを上手く描くことができない人間なのですが、最近見た場面に内心爆笑し、「これはマンガだ」と心の中でつぶやくも、「これをマンガ家たちはどういう絵に描くのだろう」と思い、私にできないことができるマンガ家はエライという結論に至りました。



それは、今週火曜日、神戸から東京に向かう新幹線の中での一コマでした。



私の席の通路を挟んで斜め前に座った、身長は180センチほどもある20代か30代くらいの男の子が、座るなり机を引き出し、その上にドン!ドン!ドン!と置いたのは、「21世紀の三種の神器」(と呼ばれているかどうかは知りませんが)として名高い(かどうか分かりませんが)、いかにも高価そうな、いずれも黒塗りのアイパッド(i Pad)とアイフォン(i Phone)とディーエス(DS)でした。



そこまでは、まあ、いいのですが(どうぞご自由に)、アイフォンは車内なので使えないようで最後まで机の上に置いたままでしたが、アイパッドとディーエスは、頻繁に持ち替えては交互に使っておられるのですが、どうみても彼の後ろに座っているみんなの前での「見て見て感」が見え見えで、やたら高く掲げて操作している様子が、まず笑えました。



しかし、それよりも(声を出さずに)爆笑したのは、彼がアイパッドを操作しながら真剣に見ていたものが見えてしまったときです。それを私は、見ようとして見たわけでは決してなく、いかにも「見て見て」的に(親指と人差し指を広げて操作するあのアイパッド的な方法で)わざわざ大きく拡大して見せるので、思わず見えてしまったのですが。



彼が見ていたのは(私はすぐ分かりましたが)いわゆる「キターAA集」というサイトで、「キタ━(゚∀゚)━!!!!!」とか「キタ Y⌒Y⌒(。A。)!!!」とか、こういう感じの字のような・絵のような文字サンプルがたくさん紹介されているサイトでした。彼はそのサイトを一時間くらい見続けていました。



そして彼は、そのこと(アイパッドで「キターAA集」を見ること)を一方でしながら、同時に他方でディーエス(DS)でファイティングゲームをしていたのですが、彼はそのゲームにすぐに負けるんです(笑)。私が右を向いて左を向くと、画面に大きく「GAME OVER」と書かれているというくらいに早く負ける(笑)。しかし、それを彼は、ほとんど無表情で、真剣そうに続けているんです。



これまで私は「いまどきの若い人は」というようなジジくさい言葉は一切口にしないで生きてきたつもりですが、今回ばかりは流石に参りました。



2010年9月17日金曜日

とりあえずほっとしています(民主党代表選挙に関して)

民主党代表選挙が終わり、その結果として「首相交代が行われなかった」ことで、とりあえずほっとしています。



私の思いは、現首相に対する積極的な支持ではありません(全く!)。何度も書いているとおり、鳩山元首相から数えて「次の次の次くらいの(政権与党としての)民主党への期待」を持っているだけであって、いわば「まだ見ぬ将来の日本への期待」です。



とはいえ、そこに至るまでの間に与党内の権力闘争や政策論争は避けて通れないものなのだろうと認識していますので、あまりひどく野次馬的にならないように心がけながら、深い関心をもって現在の政治を見つめているというあたりが今の心境です。



ところで、「次の次の次くらい」は、いったい誰なのでしょうか。



鳩山氏から数えてと申し上げているわけですから、「鳩山氏の次」は今の菅氏です。「次の次」はこのたび新しい幹事長に選ばれることになった岡田氏あたりかなと、そのような近未来が見えてきます。



「蓮舫氏が首相になる日」を思い描くときには、なんだか夢見心地な気分にさせてもらえるものがありますが、はたして夢以上のものになりうるでしょうか。ちょっと分かりません。



私が期待しているのは、その次くらいです。時間にすれば、あと5年後くらい(だからこそ、小刻みに首相交代が起こらないことを願うわけでもあります)。鳩山首相時代の次の次の次くらいの、(私の願いでは)あと5年後くらいの、その頃の「新しい日本」に期待したいのです。



その場合、私がやはり、自分がキリスト教会の牧師である者として「キリスト者である政治家」に大きな期待を持つのは、当然のことです。たとえば、私の念頭にあるのは、ホームページ等で「クリスチャン」であることを公言しておられる羽田雄一郎氏のような人です。



「のような人」とわざわざ書くのは、羽田氏とは面識などは無く、選挙区も遠く、声なども聞いたことが無いので、「サポーター」を自任することができないからです。



しかし、こういう方にはぜひがんばってほしいと願っています。ぜひ(政権与党としての)民主党の代表者になっていただき、日本の首相になっていただきたいと期待しています。



このようなことを私は考えていますので、私の言う「次の次の次くらい」は、ただ単なる傍観者的な予想ないし“予言”ではなく、運動をもって獲得すべきものである、と捉えています。



「クリスチャン」であることを公言しながら活動している政治家の方々には、つまらないゴシップなどで足をすくわれないように、身を慎んで行動していただきたいと願っています。



2010年9月6日月曜日

ドイツ人の「フォン」とオランダ人の「ファン」

神学者ファン・ルーラーのことを「ルーラー」とか「リューラー」とだけ呼ぶ方がおられますが、おそらくドイツの神学が得意な方ではないかと推察します。ドイツ人名の場合には、たとえばAdolf von Harnack(アドルフ・フォン・ハルナック)が「フォン」抜きの「ハルナック」と表記されるといった例は珍しくないからです。もっとも私は、旧約学者フォン・ラートのことを「ラート」とだけ記している例を、まだ見たことがありませんけれども。



しかし、私の知るかぎり、オランダ語で書かれたどの論文を見ても、「ファン」(van)抜きの「ルーラー」(Ruler)だけでこの神学者の名前を記している例は見当たりません。必ず、Van Rulerまたはvan Rulerと記されています。



これはもちろんファン・ルーラーだけの話ではありません。先日南アフリカで行われたFIFAワールドカップサッカーのテレビ中継は私も食い入るように見ましたが、オランダチームの中に「ファン」さんがたくさんいたことを憶えておられる方は多いでしょう。ファン・デル・ファールト、ファン・ペルシー、ファン・ボンメル、ファン・ブロンクホルスト・・・。アナウンサーたちは彼らの「ファン」を省略しませんでした。また、新聞等での表記においては、「ファン」のあとに必ず「・」(中黒)がついていました。



なぜドイツ人は「フォン」を略すことが多いのにオランダ人は「ファン」を略さないのか、その理由を私は知りませんが、ともかくこのような事情であることは事実のようです。



とはいえ、オランダの有名な画家Vincent van Goghのことだけは、オランダ語の発音どおりに「フィンセント・ファン・ホッホ」と書いても、日本では、誰のことだか分かってもらえないでしょう。数年前、インターネットでオランダ語のラジオ放送を聞いていたとき、繰り返し「ファン・ホッホ」という言葉が聞きとれるのですが、「あ、ゴッホか!」と気づくまでに、しばらくの時間が必要でした。