2008年11月2日日曜日

親身になってあなたを思ってくれる人は誰ですか


フィリピの信徒への手紙2・19~24

「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを思い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。」

今日の聖書の個所からはっきりと伝わってくることがあります。それは、使徒パウロがフィリピの教会の人々のことを心の底から愛し、心にかけ、心配しているということです。彼は何とかしてフィリピに行き、教会の人々に再び会いたいと切望しています。しかし、その願いが叶いません。このときパウロは監禁されていたからです。

しかしそのような中で、パウロはある意味で潔い態度を取りました。彼自身が今すぐに獄中から出てフィリピの町に行くということだけにこだわりませんでした。もちろん本心では彼自身が行きたいと思っているのです。しかし今のわたしは自分の思いどおりにならない。そのことを静かに受け入れています。そしてパウロは彼の代理人を立てることにしました。フィリピの教会の人々の安否を気づかう役割を他の人に任せることにしたのです。何が何でもこのわたしが行かなければ気が済まないという態度を取らなかったのです。

このことはもしかしたら見過ごされてしまう点かもしれませんが、実はとても重要です。わたしたちが「教会とは何か」という問題を考えていくことにおいて重要です。単純な事実は、教会はだれか個人のものではないということです。どんなに間違っても教会は牧師個人のものではないし、長老のものでもありません。目立つ位置に立っている特定の個人のものではありません。教会とは第一義的にはイエス・キリストのものです。このことは声を大にして語る必要があります。この点はだれが何と言おうと決して譲ることができません。そして、そのうえで、教会はイエス・キリストを信じるすべての人のものであると語ることができます。このことを、パウロはよく知っていました。

そしてまた同時に言えることは、教会の働きもまた、この中の誰か特定の個人の働きではなく、教会にかかわるすべての人々の協力の中で行われるものであるということです。パウロとフィリピの教会の関係ということも、個人的な関係という面が全く無いとは言えませんが、その面だけで終わるものでもないと言わねばなりません。なぜなら、繰り返し申し上げてきましたように、パウロの伝道旅行もしくは海外派遣は、彼の個人的な活動ではなかったからです。それはどう間違えても、彼のスタンドプレーというようなものではありえません。あくまでも教会による正式で公的な任職と派遣行為に基づく活動なのです。

そのため次のように語ることができます。パウロがいちばん最初にフィリピの町に行き、そこで伝道したときでさえ、そこにいたのは個人としてのパウロではなく、教会の代表者としてのパウロであったということです。パウロにとって重要であったことは、フィリピに行くべき人が彼であるかどうかではなく、その人が教会の代表者であるかどうかでした。何が何でもこのわたしでなければならない理由は無かったのです。

さらに言い換えることができます。先ほど申し上げましたとおり、教会とは第一義的にはイエス・キリストのものです。ということは、教会の代表者であることの意味はイエス・キリストの教会の代表者であるということです。またその意味は同時にイエス・キリスト御自身の代理人であるということにもなります。パウロがフィリピに行ったとき、そこにいたのは、もちろんパウロです。しかしパウロにその役割を委ねたのはイエス・キリスト御自身です。パウロはイエス・キリストの代理人としてフィリピに行ったのです。代理人とは当の本人の意思と判断を伝えるために正式に任命された者ですから、そこにいたのは代理人に自らの意思と判断を委ねたイエス・キリスト御自身でもあったということです。

これは、わたしたち一人一人のこととして考えることができる内容です。わたしたちもまた、日常生活の中では、それぞれの置かれた場所に、教会の代表者として立っています。ということは、わたしたちが立っているその場所にイエス・キリストも立っておられるということです。また、わたしたちが言葉を発しているその場所でイエス・キリストも言葉を発しておられるということです。わたしたちの存在がイエス・キリストの存在を表わし、わたしたちの言葉がイエス・キリストの言葉を表わしているのです。

実際、わたしたちの周りにいる人々は、わたしたちの姿を見ながら、わたしたちの言葉を聞きながらイエス・キリストとはどのようなお方なのかを考えています。わたしたちを見てイエス・キリストは素晴らしいと称賛してくれる人もいるかと思えば、わたしたちを見てイエス・キリストはがっかりだと落胆する人もいるでしょう。代理人の責任は、それほどに重大なのです。

話が少し横道にそれてしまったかもしれません。今日の個所で重要なことは、パウロは何が何でも自分自身がフィリピの教会まで行かなければならないとは考えなかったということです。「何が何でもこのわたしでなければならない」ということにこだわりすぎるとき、教会の私物化が始まっているのではないかという点を疑わなくてはなりません。

しかし、です。今日の話は、今申し上げた点だけで終わってはなりません。加えて申し上げなければならないことがあります。それは要するに、パウロの代理人は誰でも良いというわけでもなかったということです。信頼できないと感じられる相手に自分の代理人を任せる人はいません。信頼できる相手を、だれでも探すでしょう。パウロも同じでした。わたしの代理人はわたしが心から信頼できる相手でなくてはならない。その相手はテモテであるとパウロは信じました。この点にはパウロ自身の個人的な判断が重要なのです。

このことはわたしたちにも十分に当てはまることでしょう。言い方はおかしいかもしれませんが、わたしたちはあまりにもお人よしすぎるべきではありません。人の本質を鋭く見抜く眼を持たなければなりません。この人が本当に信頼できる人なのかどうかを冷静に判断できる力を持たなければならないのです。

しかも、その判断だけは人任せにすることはできません。ある人にとっては信頼できる相手であっても、このわたしにとっては信頼できない相手であるということがありえます。それは別におかしいことではありません。職業的な弁護士の人々のことを考えるとよいかもしれません。ある人の弁護をするとき、他の人々から憎まれることがあります。それが弁護士の仕事でもあります。憎まれ役を買って出る仕事です。

パウロにとってこのわたしの意思と判断を委ねようと信じることのできる人は、彼自身が選ばないかぎり他の誰が選んでくれるわけでもないのです。その選択はきわめて主観的なものであってよいです。なぜならば、パウロが代理人に委ねる事柄の中には、教会の人々に対する批判的な要素をも含んでいたからです。パウロが選んだ人はフィリピの教会の人々から憎まれる可能性を含んでいたからです。誰からも愛される人、あるいは誰からも信頼される人というのは、実はあまり信用できない人かもしれません。

パウロは次のように書いています。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。」「ほかにいない」とパウロが書いているのを見たとき、テモテ以外の他の人々は腹を立てたかもしれません。パウロはテモテばかりをえこひいきする。冗談じゃない。わたしたちだってテモテ以上に親身になってフィリピ教会のことを心にかけている。しかしここから先は誰が何と言おうとパウロの判断です。ある人を選ぶことの裏側には他の人を選ばないという面が必ず付随します。選ぶ人も相当悩むでしょうけれど、選ばれた人は「なぜわたしが選ばれたか」に悩み、選ばれなかった人は「なぜわたしは選ばれなかったか」に悩むでしょう。しかし、ここから先は問うても仕方がない。答えは見つかりません。

この続きにパウロは非常に興味深いことを書いています。その内容は、パウロがテモテを代理人として選んだ理由ないし根拠です。テモテがパウロと同じ思いを抱いてフィリピ教会の人々のことを親身になって心にかけている人だからという点はすでに触れました。この点に関してはテモテ以外には誰もいないとパウロは断言しています。この件に関して大変興味深いと私に感じられましたのは21節以下です。「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」とあります。そして「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり」とあり、続きに「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」とあります。

これのどこが興味深いのか。驚くべき言葉であるとも感じられました。ここに書かれていることの内容をよく考えてみていただきたいのです。考えてみていただきたいことは、ここでパウロが言っていることはわたしたちが通常の日本語で考えているようなこととはかなり隔たっているのではないかということです。

通常、わたしたちが「親身になって心にかける」という言葉を聞くときに連想することは、だれかのことに関心を持つこと、またその相手のことをひたすら考えることではないでしょうか。同情心をもつこと、そして共感することではないでしょうか。

しかし、です。続きに書いていることはパウロがテモテを選んだ理由です。その理由として挙げていることを裏側から言い直しますと、テモテは他の人とは違い、自分のことではなく、「イエス・キリスト」のことを追い求めているからだということです。またテモテはパウロと共に「福音」に仕えているからだということです。

わたしたちの通常の感覚は、おそらくこれとは大きく異なるものです。「あなたのことを親身になって心にかける」とはまさに「あなた」のことを追い求めることであり、「あなた」に仕えることであると考えるのではないでしょうか。「あなた」に関心を持ち、「あなた」に同情し、「あなた」に共感することです。

しかし、テモテが示した模範はそういうものではなかったのです。テモテが示した模範は、フィリピの教会の人々を「親身になって心にかけている」からこそ「イエス・キリスト」を追い求めることに熱心であり、また「福音」に仕えることに熱心であるというあり方でした。これは非常に重要な点であると私には思われるのです。

パウロの趣旨ははっきりしています。パウロが書いている意味での「親身になって心にかける」とは、ただ単なる同情心や共感とは明らかに異なるものであるということです。どのような例を挙げれば、このことをわたしたちが正しく理解できるようになるでしょうか。教会の中にはさまざまな立場の人やいろんな意見の人がいます。すべての人に対する同情心をもつことと「親身になって心にかけること」とは別の話であるということです。

「親身になること」の中には「親になること」、つまり息子または娘に対する父または母として「心を鬼にする」面が含まれて然るべきです。もっとも、「鬼」は不適切な表現かもしれません。申し上げたいことは、厳格な態度を貫くことも必要であるということです。同情できないことに同情しないこと、共感できないことに共感しないことも必要なのです。わたしたちは「信仰生活をやめたい。教会を離れたい」という願いをもつ人々に同情することはできないのです。

テモテのように、ひたすらイエス・キリストを追い求め、福音に仕えつつ、厳しい意見を言ってくれる人こそが、あなたのことを「親身」に思ってくれているかもしれません。わたしにとってそれは誰なのだろうかということを、ぜひ考えてみてください。

(2008年11月2日、松戸小金原教会主日礼拝)