2008年11月23日日曜日

あなたの人生の目標は何ですか


フィリピの信徒への手紙3・12~16

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」

今日の個所にパウロが書いていることは、単純明快なことではありますが、深くて重い意義があります。語られていることは、ただ一つです。まとめていえば、わたしパウロはまだゴールにたどり着いていないということです。まだ走っている最中である。何ひとつ諦めないで、投げ出さないで、わたしはまだ走り続けている。一等賞をもらってもいないが、ビリでもない。何の決着もついていない。勝敗は決していないのです。

もちろんこれは、パウロの人生そのものについて彼自身がそのようにとらえていたことを表わすものです。彼の人生観であると言ってもよいでしょう。人生とはいわばひとつのレースである。スタートがあって、ゴールがある。そのあいだをひたすら走り続けるのがわたしたちの人生であるということです。

もちろん、人生の時間の長さには人それぞれの面があります。客観的・時間的な意味で短かったと言わざるをえない人生もあり、長い人生もあるでしょう。しかし言い方は少しおかしいかもしれませんが、人生は長ければ長いほど必ず良いというわけではなく、短い人生が必ず悪いというわけでもありません。レースには短距離走も長距離走もあります。重要なことは、スタートからゴールまで走り切ることです。やるべきことは、すべてやる。途中で諦めないこと、嫌にならないこと、投げ出さないことです。すべての道を自分なりの力を尽くして走り終えることができたと思えるなら、人生の時間的な長さそのものは、あまり大きな問題ではないのかもしれません。

ただし、今申し上げましたことの中では「やるべきこと」と「やりたかったこと」とは一応区別しておく必要がありそうです。「やりたかったこと」とは、主にわたしたちの欲求に属することです。あれもやりたかった、これもやりたかった。しかし、その欲求を満足させることができなかった。この意味での欲求不満は誰にでもあるものですが、あってもよいものですし、なければならないものでさえあります。一人の人間が抱く欲求のすべてを人生の中で満たし尽くす。そのことをどこまでも、とことんまで追求しようとする人がいるとしたら、はっきり言えばモンスターです。

やりたかった。だけど、できなかった。そこにはもちろん、地団太を踏みたくなるほどの悔しさもあるでしょう。しかしその悔しさは、わたしたちの人生の中で与えられる宝物であると信じなくてはなりません。すべての欲求を満たし尽くすことはできないし、してはならないことです。それを最後までやり遂げようとする人はモンスターなのです。

しかし、今の点は横に置きます。「やるべきこと」については、しなければなりません。わたしたちの人生がたとえどれほど短かろうとです。ごく幼いうちに、あるいは生まれて間もなく命が奪われる場合もありますので、その場合は親たち大人たちが「やるべきこと」という意味でご理解いただきたいところです。

わたしたちの人生には「やるべきこと」があります。果すべき役割があり、目指すべき目標があります。「そんなものはありません」と感じている人がおられるかもしれません。「今それを探している最中である」と考える人もいるでしょう。「人生の目標を探すことがわたしの人生の目標です」と、ちょっぴり格好をつけて言いたくなる人もいるでしょう。それらの考えはすべて尊重されるべきです。

しかし、今日取り上げておりますのはパウロの手紙です。彼が書いている、キリスト者としての人生の目標は何かという問題です。それについてパウロはどのように書いているのでしょうか。

注目していただきたいのは、12節の「既にそれを得たというわけではなく」の「それ」が指している内容です。それは10節から11節までに書かれています。「わたしはキリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。

これがパウロの人生の究極目標です。彼自身の目標は、はっきりしています。ところが、そのことをパウロは、やや遠慮がちに書いているように感じられます。

今申し上げましたことの根拠は、15節です。「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」。

「このように考えるべき」とある「このように」の中に、パウロがここまで書いて来たこと、とくに彼が10節以下に記している「わたし」の人生の目標の内容がすべて含まれています。ということは、パウロの意図は明らかに、「わたし」の目標は「わたしたちの中で完全な者」のすべてにとっての目標でもあるべきだということです。

ところが、ここから先が遠慮がちです。あなたがたには「わたし」とは「別の考え」もあるかもしれませんと続けています。わたしが確信していることをあなたがたに何が何でも無理やり押しつけるつもりはありません。ここから先はどうぞ各自で判断してくださいというくらいの意味ではないかと思われます。

しかし、パウロの本音は、どうやら違います。彼自身のなかでは、すべてのキリスト者が、いえいえ、地上に生きているすべての人、まさに全人類(!)が人生の目標とすべきことはこれであると、はっきり言いたいものをもっているのです。それが先ほど一度読みました10節から11節までに書かれていることです。それは四点に分けられます。

第一は「キリストとその復活の力を知ること」です。

第二は「キリストの苦しみに与ること」です。

第三は「キリストの死の姿にあやかること」です。

第四は「何とかして死者からの復活に達すること」です。

何のことでしょうか。書いてあることをただ読むだけでは、ほとんど意味が分からないと思います。それでもわたしたちにとって少しくらいは引っかかりがありそうなのは第二と第三の点です。すなわち、キリストの苦しみにあずかること、そしてキリストの死の姿にあやかることです。

なぜこの点が、わたしたちに引っかかるのでしょうか。そうです、わたしたちの人生にも多くの「苦しみ」があるからです。また、わたしたちは人生の最後に必ず「死」の日を迎えるからです。皆さんの中にも「死ぬほどの苦しみを味わったことがある」と自覚しておられる方は少なくないでしょう。人生のなかで二度や三度は、そのようなことを体験します。それがわたしたちの人生の現実なのです。

しかしまた、今申し上げたことのすぐ後に言わなければならないことがあります。それは、パウロが書いていることは、わたしたちが人生の中で体験するのと全く同じ意味での単なる苦しみ、また単なる死でもなさそうだということです。なぜなら、ここで語られているのは「キリストの苦しみ」だからであり、また「キリストの死の姿」だからです。

「キリスト」とは、もちろん、わたしたちの救い主イエス・キリストのことです。このお方は歴史上に実在した人物です。この方が地上の人生において深く味わい続けなさった苦しみ、そしてこの方が多くの人の前にさらされたあの十字架上の死の姿、この苦しみと死とにこのわたしも与るのだ。それが、それこそが、このわたしの、わたしたちの人生の目標であると、パウロは語ろうとしているのです。

「与(あずか)る」とは、第一義的には「参加すること」です。参加するとは、英語でparticipate(パーティシペイト)と言います。その意味は、パートになること、パートを受け持つことです。全体の中の一部分を構成する要素になるということです。

このことがパウロの言葉にもそのまま当てはまります。キリストの苦しみにわたしたちが与るとは、キリストの苦しみの一部をわたしたち自身が受け持つことです。

もちろん、わたしたちはキリスト御自身ではありませんので、キリストが味わわれたのと全く等しい苦しみをわたしたち自身が味わうことはできないし、そこまでのことがわたしたち自身に求められているわけではありません。しかし、キリストの苦しみの一部を分け与えられていただき、その一部を受け取ることができ、味わうことができる。そのことをわたしたちの光栄とし、誇りとし、喜びとする。それこそが「キリストの苦しみに与ること」の意味なのです。

これは難しい話ではないはずです。キリストが苦しまれた理由を、わたしたちは知っているからです。父なる神の御心に忠実であり続けることにおいて、赦しがたい人類の罪を赦すことにおいて、助けを求める人々のもとを訪ね、力を尽くして助けることにおいて、わたしたちの救い主イエス・キリストは、苦しみ続けられたのです。つまり、「キリストの苦しみ」とは、イエス・キリストが現実に働いてくださったこと、まさに働きに伴う苦労や疲労と決して無関係ではないし、むしろ、まさにそのことを指していると言ってよいものであるということです。

これなら十分に理解可能でしょう。「キリストは労働者である」と表現するのはおかしいかもしれませんが、ある意味でそのとおりです。わたしたちもまた、その意味での労働者です。教会のなかで、教会を通して、さまざまな奉仕を行うことにおいて、苦労があり、疲労があります。わたしたちが教会のなかで、教会を通して味わう苦労や疲労は、歴史のなかで活躍されたキリストから受け継いだものなのです。

実際たとえば、わたしたちが聖書を読んで正しく理解すること、この中に描かれているイエス・キリストが地上でなさったのと全く同じことを真似してみることは一苦労です。イエスさまは、毎週会堂で説教なさいました。また病気の人々を訪問なさいました。信仰に反対する人々と戦われました。集会を開くこと、団体を運営すること、それらすべてのことをイエスさまもなさいました。それを今、わたしたちもしているのです。

それらの苦労や努力を避けて通らないことです。それをやってみたらよいのです。教会活動に参加することによってそれが十分可能です。それこそが「キリストの苦しみに与ること」なのです。

しかしまた、それは単に教会のなかで、教会を通して、ということだけに限定すべきものではありません。ご本人を前にして申し上げるとちょっとお困りになるかもしれませんが、たとえば佐々木冬彦長老のハープコンサートのことを考えるとよいでしょう。また、先週は千城台教会の田上雅徳長老(慶應義塾大学法学部准教授)が立教大学でオランダのカルヴィニズムについての講演をしてくださいました。私はその講演会の司会をしました。

教会の外へと出て行くこと、社会のなかで、多くの人々の前でキリスト者としての証しを立てること、喜んでもらうこと、このこともわたしたちにとっては多くの苦労を味わうことですが、やりがいのあることです。

あなたの人生の目標は何ですか。パウロの場合は、はっきりしていました。わたしたちも、はっきりしています。「まだ分からない」という方は、ぜひ教会に通ってください。

(2008年11月23日、松戸小金原教会主日礼拝)