2008年11月9日日曜日

再会によって悲しみが和らぐ


フィリピの信徒への手紙2・25~30

「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。」

今日の個所にパウロが詳しく書いているのは、エパフロディトのことです。男性でした。年齢は分かりませんが、想像できるのは若い人です。この手紙をパウロが書いているとき、エパフロディトはパウロの近くにいました。その人を目の前に見ながらこの手紙を書いていたかもしれません。

しかしこの人をパウロはフィリピ教会のみんなのもとに帰さなければならないと考えています。パウロの側から言えば、淋しいけれどエパフロディトとはそろそろお別れしなければならないということです。エパフロディトはフィリピ教会のメンバーだったからです。パウロを助ける役目を果たすために、フィリピ教会から送り出された人だったからです。そして彼はその役目を立派に果たしました。その彼を、パウロとしてはいつまでも自分のところに引きとめておくのではなく、フィリピ教会に帰す責任があると考えているのです。

しかしまた、この話には、今申し上げたようなことだけではなく、もう少し複雑な事情があったようです。エパフロディトはパウロを助けるためにフィリピ教会から送り出され、その務めを果たしているなかで「ひん死の重病」にかかってしまったというのです。その病気が具体的にどのようなものであったのかは記されていません。しかし、高い可能性として考えられることは、その病気はエパフロディトが具体的に担った役割そのものと深く関係していることだったであろうということです。もしそうであるなら、エパフロディトがかかった病気は何だったのかを考えるためにわたしたちが問うべきことは、彼はパウロのために具体的にどんなことをしたのだろうかということです。

ヒントはこの手紙の中に二個所あります。一つは「彼は・・・あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」(2・25)です。またもう一つは「わたしはあらゆるものを受け取っており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(4・18)です。

これでエパフロディトの果たした役割の内容がほぼ分かります。要するに彼はパウロが伝道のためのお金や物資に行き詰ったとき、フィリピ教会のみんなから献金や献品を集め、それをパウロのもとまで持ち運ぶ仕事をしたのです。

このようなことは、言葉にして言うと少し変なふうに受けとられてしまうことかもしれませんが、現実の教会においては非常に大切なことです。しかし、気になることは、そのような働きがなぜ、エパフロディトをひん死の状態にまで追いやってしまったのかということです。

いつ病気にかかったのかという点で考えられることは、まさか教会のみんなから献金や献品を集めるときではないでしょうから、その次の段階の、それをパウロのもとまで持ち運んでいるときであろうということです。おそらく彼は、とても長くてつらい旅をしたのではないでしょうか。もちろんこれは昔の話です。教会のみんなから預かった大切な献げものを抱えて。重い荷物をもって、海を越え、山を越え。体を張って盗賊からそれを守り抜き、また自分自身もまたそれをうっかりどこかに落としたり無くしたりすることがないように緊張しながら。人のお金を預かり、それを運ぶ仕事というのは今も昔も決して楽なものではありません。

しかしまたわたしたちが決して見誤ってはならないことは、エパフロディトが果たしたその仕事の意義です。

「教会も結局お金か」と、そんなふうには考えないでいただきたいのですが、それでもお金は重要です。パウロの場合もそうでした。伝道そのものがストップしてしまうのです。事柄が何一つ前に進んで行かないのです。伝道旅行は中断を余儀なくされたでしょうし、元いた場所に帰ることもできなかったでしょう。遠い外国の地でのたれ死ぬしかなかったでしょう。そのことをフィリピ教会の人々は十分に理解し、何とかしてパウロを助けたいと願い、彼らの力と思いを集めてそれをエパフロディトに託したのです。

エパフロディトもまた、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうとした」とパウロが書いているとおり、まさに教会の委託と期待を一心に背負いつつ、自分に託された使命はイエス・キリストの教会の宣教を支えるために重要なものであるという自覚とプライドをもって、その仕事に熱心に取り組んだに違いないのです。

ところがです。そのエパフロディトが、おそらく無理もしたのでしょう、ひん死の病気にかかってしまいました。そして、その情報がフィリピ教会の人々に伝えられたのです。それで彼は非常に苦しんだのだと思います。このわたしを信頼し、活躍を期待してくれた教会のみんなに申し訳ないという思いがあったでしょう。また大切な任務を彼に託した人々の側からすれば、旅先で彼が病気にかかったという話を完全には信用しない人もいたに違いありません。大げさに言っているだけではないかと考える人も当然いたでしょう。あるいは「パウロに渡す」と言いながら病気を装って使い込みや持ち逃げをしようとしている可能性はないのだろうかと疑った人々もいたかもしれません。そのような疑いをもつこと自体が完全に間違っているとも言いきれません。エパフロディトとしては、教会の人々からそのようなことを思われたり言われたりすることは責任上当然のことでもあるだけに、病気そのものよりもつらかったに違いないのです。

ですから、このように考えていきますと、今日の個所にパウロが書いていることの意図がだんだん分かってくると思います。

この段落のなかにパウロは、エパフロディトの病状の重さについて「ひん死の重病」と書き、また「死ぬほどの目にあった」と書いて、同じことを二度繰り返しています。このように書いてパウロが力説していることは「フィリピ教会の皆さん!エパフロディトさんは本当に病気にかかったのです!」ということです。

皆さん、彼をどうか信頼してください。疑わないでください。彼についてあなたがたが聞いていることは、うそや誇張ではありません。距離が遠くなればなるほど不安が募り、疑心暗鬼になることもあるでしょう。しかし、エパフロディトさんはあなたがたのところにいたときと変わらぬ忠実さをもって、自分に託された使命を立派に果たすことができました。彼のおかげで、あなたがたの献げものはわたしのもとに届きました。それによってイエス・キリストの福音は今なお力強く前進しています。

このように、パウロは、エパフロディトの潔白を証明するために、事実と真実をもって弁護しているのです。それこそが今日の個所におけるパウロの意図であると理解することができるのです。

ここから先はやや余談的なことではありますが、私が考えさせられたことを申し上げておきます。三つほどあります。

第一は、パウロのような力強い弁護人を得ることができたエパフロディトは幸せであるということです。他人のお金を預かって管理する仕事をする人は、あらゆる疑惑や憶測、さらに中傷誹謗に至るまでを受けることが避けがたいからです。

第二は、わたしたちは、どんなことであれ、誰かがしていることや言ったことが真実であるか虚偽であるかを、どこかで聞いたような噂話や憶測のようなもので判断してはならないということです。

第三は、フィリピ教会の人々の前でエパフロディトの潔白を主張し、弁護するパウロのような人間に私もまた、なれるものならなってみたいということです。

言い方はおかしいかもしれませんが、パウロがこのように書いていることの裏側に秘められている思いは、フィリピ教会の人々は、このわたしパウロの言うことならきっと信頼してくれるだろうということです。本来ならばエパフロディトはフィリピ教会のメンバーなのですから、教会の人々が信頼すべきは彼自身です。またエパフロディトは本当に病気にかかっていたのですから、彼が疑われるのは酷なことであり、彼はむしろ十分な意味でかばってもらわなければならない存在であったわけです。ひん死の重病にかかったうえに愛する教会の人々から疑われるという二重の苦しみを味わうことがどれだけその人の心を傷つけるものであったかは想像に難くありません。しかし、その信頼関係に翳りや歪みが生じたときには、そのあまりよろしくない雰囲気を払拭するために、(相撲で言えば)行司役、(野球で言えば)審判員のような人が必要なのです。教会にとって牧師の存在は、そのようなものでありたいし、そのようなものでなければならないと思うのです。

しかしまたパウロは、いま私が申し上げた点に甘んじるような態度は取りませんでした。そのことも重要です。わたしの言葉を信頼してください。エパフロディトは本当に病気にかかりました。しかしそれにもかかわらず、きちんと役割を果たしましたと、そのようにフィリピの教会の人々に伝え、パウロ自身の言葉によって説得することだけで済まそうとしませんでした。エパフロディト自身をフィリピ教会に帰すことを願い、そのようにしました。それによってパウロは、エパフロディトが自分の口と自分の存在をもって、彼自身の証しを立てることを願ったのです。あなたの病気はもう治ったのだから、あとは自分で説明してくださいと、彼自身の説明責任を求めているのです。

「そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい」とパウロは書いています。

今日の個所の読み方として重要なことは、ここにパウロが書いている「再会の喜び」の中身は、かつて教会員だった人と久しぶりに会うことができてああ嬉しい、というようなこととは全く違うことであるということです。何度も申し上げるようですが、今日の個所の大前提は、エパフロディトとは教会の人々のお金を預かってパウロのもとまで運ぶ仕事をした人であるということです。教会の大きな責任を託された人であるということです。その信頼関係の歯車が、少しおかしい状態になった。ねじが何本か外れているような感じになった。そのことをどのように解決するのかというテーマが裏側に隠されている個所であるいうことです。この点を抜きにして今日の個所を読むことは不可能なのです。

その解決策は単純です。とにかく顔を合わせることです。そして真実を知っている人がきちんと弁護してあげることです。また中立の立場にある審判者も必要です。もしどこかに弁護できない事実があるのなら、それを率直に示すことです。しかしまた、本人の反論や弁明の機会も確保されるべきです。そのようにして本人が説明責任を果たすことこそが重要です。

それが、そしてそれだけが、教会にふさわしい解決策なのです。

(2008年11月9日、松戸小金原教会主日礼拝)