2025年9月17日水曜日

ハイデルベルク信仰問答

『足立梅田教会の歩み』(1989年)25頁


【ハイデルベルク信仰問答】

書棚の整理が苦手でないタイプでもあり、足立梅田教会に赴任して早々、かなりランダムに並べられていた教会の書棚をジャンル別に分類しながら置き直した。そのとき、まとまった数の「ハイデルベルク信仰問答」(竹森満佐一訳)があるのに気づき、何代目の牧師の頃に取り組んだのだろうと興味を持った。

気づいたのが赴任直後で、事実を明らかにできるほどの情報をまだ持っていなかったので、それ以上のことを考えようとしなかった。今月9月7日(日)教会創立72周年記念礼拝の説教準備のために読み直した創立36周年の出版物『足立梅田教会の歩み』(1989年)に事実が明記されていることに初めて気づいた。

以下は当教会初代牧師の藤村靖一先生の文章。「なお、37年(※「1962年」)の9月30日の礼拝から、礼拝の中に『ハイデルベルク信仰問答』を共に読み勉強してゆくプログラムを入れまして」(同上書25頁)。1962(S37)年は、1953年開設「美竹教会梅田伝道所」が「足立梅田教会」として独立した年である。

やっと分かった。足立梅田教会がハイデルベルク信仰問答を礼拝の中で読み学んだのは「初めから」であり、初代の藤村牧師による取り組みだった。これは感謝しかない。私が日本キリスト改革派教会にいたころ働いた2つの教会(山梨、松戸)はどちらも元CRC伝道所でハイデルベルク信仰問答が土台にあった。

「CRC」はChristian Reformed Churchの略。オランダ系と言われる北米拠点の改革派教会。ハイデルベルクはドイツだが、この信仰問答が強い影響を与えたのはオランダの教会。日本キリスト改革派教会の「東部中会」と「東関東中会」の多くの教会が元CRC伝道所。ハイデルベルク信仰問答を学ぶ伝統を持つ。

私も実際にしていたことだが、52主日分ある問いと答えを主日礼拝ごとに読む。読むだけの主日もあれば、解説がなされる主日もある。足立梅田教会の初代牧師がその形を目指した形跡を、ご自身の文章からうかがえる。藤村先生は主任牧師として約34年間在任。創立72周年の教会の歴史の最初の半分に当たる。

「だからどうする」は別問題。おそらくはエキュメニズムとの関係で人口に膾炙した「カルヴァンは本当は毎週聖餐式をしたかったが、周囲の圧力で年4回とせざるをえなかった」論に似ている。カルヴァンの夢を叶えてあげるべきか、それとも年4回になった事実のほうが尊いのか。私はどちらかといえば後者。

足立梅田教会の現在の教会堂は1994年に建てられたが、レンガの外壁や合理的な縦長でオールインワンの構造を最初に見たとき、2008年の初めてのオランダ旅行のときに4泊5日お世話になった、アムステルダムの国立美術館の近くのビジネスホテルに似ていると思った。礼拝形式も簡素。きわめてオランダ的。

住所間違いで返送されてきた敬老ハガキを書き直し、2日遅れで申し訳なく思いつつ、たったいま徒歩で届けてきた。教会の方々のほとんどが、徒歩か自転車で教会に来てくださる。自転車カルチャーもオランダ的。牧師(私)はニンジャ1000。今は暑すぎてヘルメットをかぶりたくなくて、徒歩か電車に逃避。

2025年9月15日月曜日

同い年の小説家

釜揚げうどんと天ぷら 4 種(2025年 9 月15日 自作夕食)

【同い年の小説家】

小説を読む力がないことに幼少期から悩んできたが、同い年の作家が書いたものなら読めるかもと思い至る。申し訳ないが、男性作家のもの。あと、なるべく私小説。「それそれ、あるある」ノリで読めるものなら。検索してみたが、私が知っている名前がない。同い年は漫画家のほうが著名人が多い気がする。

そう思ったのは、実は昨日から、30代半ばの作家の500ページ近い話題の小説をキンドル版でがんばって読んでみているからだが、正直きつい。私の子どもたちよりは少し年上の方だが、彼らが苦々しく見ている相手の中に私もいる。求められていそうな猛省をするべきかもだが、読書を楽しめる気分ではない。

無いだろうか、ぴったりの小説は。「それ知りたかった、それ言いたかった」と感動できるもの。上であれ下であれ年齢が離れた人たちの勉強をしたいわけではない。ただ楽しみたいだけだし、心のすき間を埋めてもらいたいだけ。「こうではなくそう生きていればよかったのかも」という反省ならしてみたい。

神学に関しては、著者がそれを書いた年齢に私が達したときから「急に」理解できるようになるものが多い。その現象が起こるのは「教会」という共通基盤があるからではないかと推測している。小説に同じことが当てはまるかどうかは分からない。若い人の小説を読むのがつらいことだけは今のところ分かる。

2025年9月10日水曜日

教会に「戻る」という感覚を持てる最後の世代

昨日撮った写真をGeminiにフィギュア風に描いてもらいました


【教会に「戻る」という感覚を持てる最後の世代】

岡山に男子が通えたキリスト教主義学校はごく最近までなく、教会に通うことがその種の学校への入学のアドバンテージになるらしいなどの都市伝説は一切無かったが、それでも私が小学校の低学年だった1970年代前半までは、教会学校に「信者の子かどうか」を問わず、大勢の子どもが集まったものだった。

私が再来月60歳。同い年の中に職場の規定で定年の人もいる。「定年退職しました」連絡がちらほらある。私が改革派教会にいた頃は70歳定年制があり、同一教会で毎年延長願を中会で承認してもらって75歳までできるという仕組みに納得していたが、日本基督教団に定年制は無い。死ぬまで続けても問題ない。

危機感などは私には無いが、本人の自覚や動機は何であれ、おそらくは親が行かせようと意志する仕方で「幼少期に教会(学校)に行ったことがある」世代が、私の前後で切れる。私は1965年11月生まれ。正確な線を引く話ではないが、「教会に戻る」という感覚を持てる最後の世代が私と同世代かもしれない。

「定年退職」が直接の理由でなくてももちろん構わないが、会社勤めをしていた頃より時間の余裕ができただろう。今年60歳を迎える私と同い年の方々に「もしよろしければ、教会に戻って来ませんか」と呼びかけたくなる。当時と同じ讃美歌をうたっていたりするので、きっと「懐かしい」と思ってもらえる。

2025年9月8日月曜日

敬老ハガキの聖書の言葉

焼き秋茄子と丸揚げイワシ丼(2025年9月8日 自作昼食)


【敬老ハガキの聖書の言葉】

気にしすぎかもしれないが、敬老ハガキに聖書の言葉を、と考えはじめるも、落ち着く言葉が見つからない。どれもこれもずけずけ言い過ぎ感があって、身も蓋もないというか、すべてお見通しですよ的というか、当てに行っていると疑われても仕方なさそうな危険球的というか、クッションが欲しいというか。

よく知りもしないことを書くのはよすほうがよさそうだが「もののあはれ」とか「わびさび」とか?そういう感じの方向を持つ感覚を私も全く共有していないわけではない。逃げるつもりはないけど言われなくても分かってて準備中なのでちょっと黙っててくんないかな的というか、皆まで言うな的というか。

私はまだ敬老ハガキを受け取る側にいないが、そう遠い未来でもなくなった。自分が受け取るようになったときに初めてどういう聖句が書いてあれば慰めを得られるかが分かるのだろう。「神は愛である」とあると「どうせ私には愛がないと言いたいんでしょ」的な反発を感じる人間になっていそうな気がする。

やっとひとつ無難な言葉を詩編に見つけて引用。敬老ハガキ投函完了。翌日配達とかしてくれなくなったので早めに投函しないと9月15日に間に合わぬ。聖書の言葉はそのまま使うと致死レベルのものが多い。うまくたとえられないが何かの原液とか原石のよう。希釈やよほど上手に料理しないとただの毒物だ。

2025年9月2日火曜日

説教の主語を各個教会にするとブログ読者が減る現象

イサキの塩焼き納豆朝食(2025年9月2日)

【説教の主語を各個教会にするとブログ読者が減る現象】

立証の段階はまだ程遠いが、興味深い現象を見つけた気がしている。教会ブログで公開する説教原稿などで、中心的な主語を「足立梅田教会」にするとアクセス数が下がる。ブログ説教に期待されているのは、ネットのかなたで読んでくださる方々が主語であること。それは教会の説教の本質とは矛盾することだ。

説教盗用の問題が最近どうなのか私は分からない。私のごく身近で説教盗用で免職戒規が起こったのがゼロ年代後半。ちょうどそのころ英語圏で同じ問題を扱う本が書かれたほど騒がれていたが、はや20年近く前。沈静化したのだろうか。各個教会を主語とする説教であれば第三者に盗用できるはずないのだが。

生成エーアイに説教原稿を書かせる牧師がどれぐらい出現するだろう。説教の目的が聖書釈義だけでなく「地域に根差した語り」でも(でこそ)あるなら生成エーアイの情報収集能力は期待できるかもしれない。私も「足立区の歴史」や「地元の名所」などは不勉強だし、どこから手をつけてよいか分からない。

山内眞先生が亡くなられたことを教団新報で知る。この話を覚えておられる方がいるだろう。山内先生が組織神学者としたらしい論争の話を当時教わった。

山「組織神学は飛行機の上からタネをまくようだ」

組「何を言う。聖書学はミミズの目を探すようだ」

山「何を言う。ミミズに目はないっちゅうねん」

足立梅田教会に来て1年半。感謝しているのは、礼拝に出席してくださる方々が教会ブログで説教原稿も読んでくださっていること。板書説教を続けているが、スピードやテンポも大事。「細かいことはブログに書いておきます」で済むようになった。日本語には同音異義語が多い。板書とブログが補足になる。

2025年8月22日金曜日

「足立前」と「足立後」

「自炊ライダー」原作・関口康、作画・ChatGPT 

【「足立前」と「足立後」】

「本を減らしたい」と願い、実践したが、減るどころか増える。廃棄または譲渡した本も「これはあれに書かれていたはず」と思い出して捜す羽目になって当然見つからず、古書店で同じのを買い戻す。異端やトンデモ本も、それはそれでそれとしての価値がある。その価値は、売れるかどうかの意味ではない。

特に足立の今の教会に来てから、これまで直接対面したことがなかった方々との新しい出会いが多くあり、その方々の関心や愛読書がこれまでの私の関心に無く、かろうじて死蔵だけしていたりして、それをやっと読む気になったりもした。「棄てなくてよかった」と安堵する場面が多いが、棄てたものもある。

本の話は長くなるので、やめる。私の人生に「足立前」と「足立後」の線が引かれたことを実感している。全共闘世代の分断と明らかに関係している。私はどちら側でもないし、どちら側でもある。和解や調和は彼らの問題。正反合の弁証法が起こるとも思わない。両者に生存権があると思っているに過ぎない。

2025年8月21日木曜日

教会が好きなので教会が嫌いになりそうになる

「東京スカイツリーが見える」と言いたがっている 2024年10月24日撮影

【教会が好きなので教会が嫌いになりそうになる】

日本で創立以来100年越えのプロテスタント教会が少ないとも言えなくなってきた昨今の状況はうれしいかぎり。しかし、「歴史的建造物だから」「我々の『格』ならこれくらいは」などの理由で数百名収容可能規模の礼拝堂を維持しているものの、空席が目立つ「さびしい」礼拝の教会の苦しさは、私なりに理解している。

苦しみを感じている個人や集団についての言説に必要なのはデリカシー。また、私個人は現時点で「数百名収容可能規模の礼拝堂を維持している教会」の牧師ではないが、教団・教区・支分区などのつながりがあるため「部外者」とも言いがたい立ち位置にいるので、ずけずけ言うつもりはない。

逆転発想と言えるほど逆ではないが、最近よく考えるのは、どれほど広い礼拝堂で空席が目立つような気がするとしても、果たしてそれは「空席」なのかと、その教会自身が自問自答することが大切かもしれないということ。古めかしい横長のベンチにぎゅうぎゅう詰めで座りたいと思う人は、もういないだろう。

それと、「数百名収容可能規模の礼拝堂を維持している教会」の牧師がたが、教団・教区・支分区や対外的な仕事で忙しいからか、原稿なしのアドリブトークライブかと思える、ずいぶん雑駁な説教をしておられる気がして心配している。説教準備しかすることがない牧師の説教のほうが聞きごたえがある場合があると思う。

足を引っ張る意図は無い。日本のキリスト教宣教の進展だけが私の願い。1990年春、日本基督教団東中国教区の常置員会だったかで補教師受験資格にかかわる面接を受けたとき「日本の」を言うと「アジアの視点が欠落している」と私を非難したどなたか(不明)の言葉を忘れたことは無い。私が気に入らなかったらしい。

昨日出席した会合で初めて知った。教団総会に出された重要な議案が「時間切れ審議未了廃案」になることを願った人たちが総会閉会時刻直前に「カウントダウン」をして提案者を侮辱したという話。私が教団を離れていた間(1997年1月から2015年12月まで)らしい。私は詫びる立場にないが、申し訳なく思う。

2025年8月20日水曜日

外国語の神学書をどんどん読んでくれるエーアイ

キリスト教神学資料室(牧師館内) 2024年10月24日撮影

【外国の神学書をどんどん読んでくれるエーアイ】

人工知能の使い道の話に私の出る幕は無いと思っているが、個人的に期待しているというかすでにフル稼働中の分野は、大量に譲り受けた外国語の神学書の乱読。古くて忘れ去られたものばかりで、翻訳出版の話などありえず、プロ翻訳家の出版物を待っても無駄。「正確な訳」かどうかより「読むこと」が重要。

来春、研究発表してくれと言われている日本の昔の神学者の背景を調査する中、その人が留学先で指導を受けた可能性があるアメリカの組織神学者が書いた教科書が私の書斎にある。そういうのをざっくり読むために人工知能の翻訳能力は大いに頼れる。積(つ)ん読(どく)が読(よ)ん読(どく)になる。

語学が得意な人たちがときどきSNS等で、自慢の語学で暗号のように何かつぶやくのを見かける。ボタンひとつで何を言っているかほぼ分かる。あいさつ程度の場合が多い。ドイツ語のひげ文字も、ヘブライ語も、ペルシア語なども同じ。くさび形文字はどうかは知らないが、たぶんボタンひとつで訳してくれそう。

人工知能のせいで「語学を学ばない人が増えるかもしれない」ことを危惧する向きがあるかもしれないが、別の考え方もできるだろう。死蔵する他なかった諸外国の文献の思想世界に突入できるようになった。出版に値するかどうかを「正しい訳」というなら別の話になっている。読むか読まないかだけが問題。

神学書の翻訳出版は今後も期待したいが、私個人は新刊書籍を定価どおり買えたためしがない。図書館という空間に馴染めない人間なので、自分で本を所有したいが、わが書斎の本はどれもこれも初めから20年30年経て安くなってから買ったものばかり。最近は某オクに出品された遺品と思われるもの。

自分で買ったものではなく無償で譲り受けた大量の本の中に外国語のものが多い。ルターの英語版全集。大量のカルヴァン研究書(英語、ドイツ語、オランダ語)。数十年分の米国カルヴァン神学校の紀要。これまた大量の現代の組織神学。カール・バルト、ボンヘッファー、ユンゲル、パネンベルク、ハンス・キュンク。

日本語版を新刊の定価で買うお金が無いので、人工知能に読んでもらっている。それを私が出版するわけではないので「正しい訳」かどうかは、さほど問題ではない。そこで何が話題になっているか、どういう解決策が提案されているか、その提案が日本のキリスト教宣教にとって有益かどうかが分かればよい。

「出版」の概念も昔とは大きく変わっただろう。ブログやSNSの記事は訂正や削除や改変が容易すぎるので、学術論文などの土台にするのはいまだに難しそうだと私も思う。しかしネット記事の可変性や流動性は長所でもある。「正しい訳」よりも「いま必要な言葉」を得ることのほうが重要な場面がある。

2025年8月18日月曜日

博士の従者ではない

キリスト教歴史資料室(牧師館内) 2024年10月24日撮影

【博士の従者ではない】

宗教法人うんぬんの話ではないし、教団・教派の「構造」の話に近いが同じではない。自分の属するグループのようなものがあり、その中に博士(Th. D.)の学位を持つ神学者がいて、その人の判断がグループを拘束するほどの力を持っていれば、自分で考えなくて済む教師(牧師)が増えて、私なども助かる。

そういう「構造」になっていない場合や、そもそも何のグループにも属していない教師(牧師)たちは、すべてを自分で考えなくてはならない。あえて大げさに言うが、キリスト教史2000年分をカバーするだけの規模の本の自己所有が必要。それができない場合は、だれかのコピー、または従属関係に置かれる。

極端な言い方なのは自覚している。買って持っているというだけで1ページすら読めていない本がかなりあることを隠すつもりはない。すべての教師(牧師)がTh. D.である必要は当然ない。自分で考え、自分で判断できる自由を得るためのコストはけっこう重いということを認識してもらいたくて書いている。

今これを書きながら福沢諭吉さんの『学問のすゝめ』を思い出していることも隠さないでおく。基本的なことは何でも自分でできるようになるために学問がある、自分にできないことがあってそれを学ぶ気がなければ誰かに従属する立場に置かれざるをえない、というわけだろう。教師(牧師)も同じだと思う。

2025年8月16日土曜日

普通自動二輪車免許取得2周年

2025年4月16日撮影


【普通自動二輪車免許取得2周年】

一昨日8月14日は「普自二」(ふじに)2周年。10月24日が「大自二」(だいじに)2周年。パニアとかつけて250キロほどの取り回しは慣れた。完こけしたとき起こせるかどうかの問題もあるが、発進時エンストで「あっ」てとき、250キロが200キロでも支えられないと思う。同じなので、ニンジャ1000おすすめ。

「大自二」が2周年ということはSHAKENなのだ。分かっていたこととはいえ重い。ぜいたくのつもりはないけれど。あっという間の2年だった。まあでも、この巨体をあれだけの速度(法定速度内)で走らせている立場としては車検なしだと逆に怖い。今回通れば次は2年後なので、しっかり診てもらおうと思う。

そもそも私の「大自二」取得の目的が「高速道路(特に首都高)を安心して走るため」だったので、PA・SA以外ノンストップ走行が前提。途中で分解とかされると困る前提(それは高速でなくても)。タイヤのバースト経験はまだ無い、いや待て、四輪時代はあったかも。四輪なら転倒はしないが二輪はこける。

20年ほども前から、ちょうど20歳若い牧師が私のことを「20年早い」と言ってくれていて、うれしいのか悲しいのか分からない。20年後の牧師は大型バイクに乗っているのだろう。紙の本は無しで、オールデジタル。そうすれば転任のたびにダンボール100箱とかにならずに済む。良い将来と言えない気がする。