2025年6月19日木曜日

キプリアヌスの「教会の外に救いなし」の意味を調べる

キプリアヌス『偉大なる忍耐・書簡抄』(創文社)


【キプリアヌスの「教会の外に救いなし」の意味を調べる】

昨日(6月18日)、キプリアヌス『偉大なる忍耐・書簡抄』(創文社)が古書店から届く。第73書簡の「なぜなら教会の外に救いはないからである」(quia salus extra ecclesiam non est)の意味を調べたかったが、本『書簡抄』には全81書簡中5、8、52、54、56、57、77の計7書簡しかないことが分かった。

今日(6月19日)、キプリアヌスの「教会の外に救いなし」のテキストをドイツ語版でやっと見つけた。ドイツ語は責任を持てないが、要は「異端の洗礼もどきは洗礼ではないので、異端から教会への入会者に対して洗礼式を執行すべき」という話のようで、現代でも受け入れられているルールのように読める。

キプリアヌス『書簡集』第73書簡21(ドイツ語版)
https://bkv.unifr.ch/de/works/cpl-50/versions/briefe-bkv-8/divisions/421

初見の印象にすぎないが、この箇所にキプリアヌスが「教会の外に救いはないからである」(ドイツ語版 weil es außerhalb der Kirche kein Heil gibt)と書いているときの「教会」(der Kirche)は、父・子・聖霊なる三位一体の神への信仰を共有していない「異端」(der Ketzerei)の対義語である。

そして、この箇所全体(第73書簡21)でキプリアヌスが最も言おうとしていることが「異端から教会に来た方々には洗礼を受けていただかなくてはなりません」(Und darum müssen sich diejenigen taufen lassen, die von der Ketzerei zur Kirche kommen)であることは、ドイツ語が苦手な私でも分かる。

言い換えれば、キプリアヌスは「異端の洗礼の無効性」を語っているだけである。異端にだまされた人々にきっぱり手を切ることをすすめる流れといえる。それと、もしかして当時「教会の外に救いなし」という標語かことわざのようなものがすでにあって、それをひょいと持ち出しただけのような印象もある。

キプリアヌスの意図がかろうじて判明して、私は安堵している。西暦3世紀(200頃-259頃)の人が書いた「教会の外に救いはないからである」(quia salus extra ecclesiam non est)という一言が、文脈から切り離されて独り歩きし、時空のはざまを漂流し、1800年後の我々の心をざわつかせる。いろいろすごい。

2025年6月18日水曜日

まだ始まっていない

 【まだ始まっていない】

1999年に数名と立ち上げたファン・ルーラー研究会は2014年に解散した。オランダ語テキストに基づく研究を続けている方々の消息は不明。ファン・ルーラーは1908年に生まれ、1970年に62歳で亡くなった。我々が研究会を立ち上げた時点で彼のテキストはすべて完結していた、はずだったが、事情が変わった。

1970年12月以降、ファン・ルーラーの蔵書と未公開論文を彼の妻が保管していたが、1990年代にご子女がたがユトレヒト大学図書館と古書店へ譲渡・売却。未公開論文を多く含む『ファン・ルーラー著作集(Verzameld Werk)』の刊行開始が2007年。約10年で完結予定だったが、2025年現在いまだ完結していない。

ファン・ルーラーの「古い」著作集(Theologisch Werk)は全6巻で、出版は1969年から1973年まで。小規模ではないが網羅的でなく、読解において多くの想像力を必要とするものであった。それがどうだ。「新しい」著作集(Verzameld Werk)は超弩級。全7巻だが、分冊が多く、現在11冊。これでまだ続きがあるという。

ファン・ルーラー『神学著作集』(Theologisch Werk)全6巻(1969-1973)

ファン・ルーラー『著作集』(Verzameld Werk)全7巻(2007-現在刊行中)

今書いていることの趣旨は私の釈明である。「まだファン・ルーラー、ファン・ルーラー言っているのか」と私に面と向かって言う人はさすがにいない。しかし、そう思われている節はある。「まだ?いやいや、とんでもない。まだ言っているのか、ではなく、まだ始まっていない」とお答えしたい気持ちである。

しかしファン・ルーラーの「新しい」著作集のおかげで、ファン・ルーラー研究は飛躍的に前進した。想像力で補っていた部分が彼自身の字で説明され、整理されつつある。組織神学・教義学はOSでありプラットフォームなので、それ自体は面白くないかもしれないが、思想の自由空間が飛躍的に広がる。

「新約は旧約の巻末用語小辞典である」「キリストの贖罪は緊急措置であり間奏曲である」「終末においてキリストの受肉は解消される」などの発言で危険視されることも多かったファン・ルーラーだが、「新しい」著作集のおかげで、前後の文脈が解明されて来ている。嫉妬を受けやすい人気の神学者だった。

先週読んだばかりのファン・ルーラーの文章にボンヘッファーに対する敬意ある批判が記されていた。真の成熟は脱宗教ではなく、宗教を持つことこそ成熟であると。言えば言うほど不人気な言葉だっただろうし、その状況は今も変わらない。時代の流行に直角に逆らい、不人気な言葉を語れる勇気の人だったと言える。

私は自分が権威なき者なので、ファン・ルーラーの言葉の陰に隠れて支えてもらおうと考えて来たところがある。しかし、彼の敵があまりに多く、支えてもらうどころか、一緒に苦しむ場面が多かった。プラットフォームは使い倒すに限る。私自身が良い実を結ぶことで、彼の神学の使い勝手を証明するしかなさそうだ。

2025年6月16日月曜日

1890年の信仰告白を初めて読む

 【1890年の信仰告白を初めて読む】

旧日本基督教会の1890年の信仰告白を直視するのは初めて。日本基督教団信仰告白に似ているのだろうと予想していたが違う。気になる言葉遣いもある。なぜ「凡(おおよ)そ」なのか、なぜ「之(これ)」なのか。「之」が指すのは「イエス・キリスト」(之?)でいいのか「完全(まった)き犠牲」なのか。

「聖霊が(原文「は」)我等が魂にイエス・キリストを顕示す」が聖霊の内的証示(testimonium Spiritus sancti internum)を指しているのは分かる。失礼な発想かもしれないが、ひながたは何かを考えてしまう。1890年時点の旧日本基督教会にカール・バルト(1886-1968)の影響はありえない。バルト4歳。

「キリストに於(お)ける信仰」(?)も翻訳調を強く感じる。外部から持ち込まれたひながたの日本語訳だと言ってもらえれば納得するが、日本語としてこれで理解できた人は相当すごい。批判の意味で書いていない。日本基督教団信仰告白にはこの種の謎の要素は見当たらない。日本語としてこなれている。

2025年5月31日土曜日

ファン・ルーラーの予定論ノート(1941年)を読んでいる

 

ファン・ルーラー『著作集』(Verzameld Werk)第4A巻(2011年)


【ファン・ルーラーの予定論ノート(1941年)を読んでいる】

いま続けている日本基督教団信仰告白に基づく教理説教。次回は「神の恵み」。恵みの選びの教理、予定論。ファン・ルーラーの1941年の予定論が『著作集』4a巻(2011年)で世界初公開。オリジナルは全495頁の手書きノート。『著作集』で全250頁(本文184頁+校註66頁)。待望の一冊。それを読んでいる。

1941年といえば太平洋戦争の始まりの年。当時ファン・ルーラーはヒルファーサム教会牧師。ユトレヒト大学神学部教授になるのは1947年。同年、神学博士号請求論文提出。教会の牧師として働きながら博士論文を書き、予定論の巨大なノートを書きためていたことになる。そのノートをいま読むことができる。

ファン・ルーラーの予定論を私の説教にただちに反映できるかどうかは分からない。一方のカイパーとバーフィンクの「新カルヴァン主義」予定論と、他方のバルトの予定論の緊張関係が意識されている点はベルカウワーの予定論と共通している。予定論は私にとって最大の神学的関心事なので慎重でありたい。

余計なことかもしれないが、「予定論」を2、3行の文章で批判し、悪いほうのラベルを貼って片づける人たちが少なからずいる。そんな簡単な話ではないと思うが、その傾向は止まらない。なんとかしなければと長年頭を抱えて来たが、ファン・ルーラーの巨大な予定論を読めるようになったのは良い知らせ。

2025年5月22日木曜日

ファン・ルーラーは「ラテン型」贖罪論を選ぶ

聖書とアンセルムスとアウレンとファン・ルーラーの贖罪論を学んでいる
アンセルムス『クール・デウス・ホモ』岩波文庫版

【ファン・ルーラーは「ラテン型」贖罪論を選ぶ】

ファン・ルーラーの「イエスの苦しみの意味」(1956年)を読む。『著作集』4a巻収録。キリストの苦しみと死による救いは「何からの」救いかについて従来説を7つ挙げ、「答えが多様なのは、教会は飽くことなく問い続ける謎を扱っているからだ」と言う。並の勉強量の人には言えない言葉。公平かつ寛大。

ファン・ルーラー自身はアンセルムスの充足説に感謝すると言っている。それはグスタフ・アウレンの3類型の「古典型」でも「主観型」でもなく「ラテン型」の贖罪論だが、ファン・ルーラーとしては改革派教会信仰告白諸文書が「ラテン型」贖罪論に基づいていることも、それを選ぶ理由の中に挙げている。

罪(zonde ゾンデ)を負い目ないし罪悪感(schuld スフルト)としてとらえるのがファン・ルーラー神学の特徴。新共同訳聖書で主の祈り(マタイ6:12、ルカ11:4)が「負い目」。オランダ語聖書でマタイ6:12はschuld。キリストの贖罪で我々から取り除かれるのはschuldであるとファン・ルーラーは考えた。

キリストの贖罪によって「負い目」(schuld)を取り除かれた我々は 「ふつうの地上の世間の生」(het gewone aardse, wereldse leven)に戻される。より高次元の超自然性は追加されず、負い目を取り除かれるだけなので、新しい一日を白紙の状態から始めようではないかとファン・ルーラーは呼びかける。

グスタフ・アウレンの『勝利者キリスト』(原著1931年)の英語版(1961年)と日本語版(1982年)も読み返している。アウレンはルーテル教会の立場からアンセルムスから改革派教会にうけつがれた「ラテン型」贖罪論を批判。どの立場を選ぶかは最終的には各自に任されているとしか私には言いようがない。

2025年5月16日金曜日

当ブログ「説教」アクセスランキング

当ブログ「説教」アクセスランキングを作りました。「関心を持たれた」というより「心配された」に近そうですし、桜美林大、東京女子大等ビッグネームや、著名な教会に助けていただきましたが、私生活丸出しのほうがアクセスが多いです。応援いただきたくお願いいたします。


第1位 「私は福音を恥としない」

聖書 ローマの信徒への手紙1章16~17節 

日付 2018年3月18日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/03/18.html


第2位 「どうすれば親孝行できるか」

聖書 ルカによる福音書16章27~31節

日付 2018年6月20日(水)

場所 桜美林大学(東京都町田市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/06/20obirin.html


第3位 「ツルになりたかった牧師」

聖書 コリントの信徒への手紙一1章18~25節

日付 2018年7月22日(日)

場所 日本基督教団王子北教会(東京都北区)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/07/22.html


第4位 「信仰が与えられる」

聖書 ローマの信徒への手紙4章1~12節

日付 2018年6月10日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/06/10.html


第5位 「どうすれば天国に行けるか」

聖書 ルカによる福音書14章21~24節

日付 2018年6月18日(月)

場所 東京女子大学(東京都杉並区)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/06/18twcu.html


第6位 「大いなる光キリストの誕生」

聖書 ルカによる福音書2章1~14節

日付 2017年12月24日(日)

場所 日本基督教団上総大原教会(千葉県いすみ市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2017/12/24.html


第7位 「敵を愛しなさい」

聖書 マタイによる福音書5章43~48節

日付 2018年8月19日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/08/19.html


第8位 「天国と十字架」

聖書 マタイによる福音書20章1~19節

日付 2018年1月28日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/01/28.html


第9位 「信仰の力」

聖書 ローマの信徒への手紙1章8~15節

日付 2018年2月18日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/02/18.html


第10位 「罪人を招く」

聖書 マタイによる福音書9章9~13節

日付 2018年9月23日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/09/23.html

(2025年5月16日現在)

2025年5月11日日曜日

聖書と生活

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教 「聖書と生活」

テモテへの手紙二4章1~8節

関口 康

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(2節)

「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」(日本基督教団信仰告白)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」の2回目です。私は1冊の本を書こうとしているわけではありません。教会ブログで公開しているのは説教原稿です。実際の礼拝では、もっと多くのことをお話ししています。礼拝に来てくださっている方々にご理解いただけば、目標達成です。ご意見があればぜひご来会ください。お待ちしております。

前回から「聖書とは何か」についてお話ししています。ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の文章を参考にしつつ、聖書が「ユダヤ人によって書かれた書物」であることが「外部の真理」であることを意味し、聖書の教えを受け入れることが過去の歩みとは異なる方向への「転換」をもたらし、「回心」をもたらすということをお話ししました。

今日は前回の続きです。今日取り上げるのは「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」という条文です。聖書の霊感(れいかん)の教理と言います。

証拠聖句はテモテへの手紙二3章16節「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」です。「霊感」と聞くと「霊感商法」を連想する人が多い時代になりました。しかし「霊感」とはインスパイア(inspire)のことです。名詞形はインスピレーション(inspiration)です。ごく普通の文脈で用いられています。

聖書が「神の霊感によって成った」とは「神の霊」すなわち「聖霊」の導きの下に100パーセント人間によって書かれたことを意味します。それ以外の意味はありません。

「神の霊は、神ご自身ではない」と考えられることもありますが、それは誤解です。神の中から噴き出した気体(?)や、流れ出た液体(?)のようなものを想像するのは間違いです。

次回は三位一体の神について学びます。「神の霊」は「父、子、聖霊なる三位一体の神」としての「聖霊」ですので、端的に「神」(God)です。聖書の霊感の教理も、「聖書は〝聖霊なる神〟の導きによって(人間によって)書かれた」と言っているだけです。

ですから、この教えは決して難しい話ではありません。むしろ、すっきりした気持ちになれるほど、聖書は100パーセント人間によって書かれた書物であると、何の躊躇もなく説明することができます。そこに魔術の要素はありません。

「その説明で大丈夫ですか。我々が今まで教えられてきたことと違うのですが」とお思いの方がおられるでしょうか。「聖書は神さまが書いたものであって、人間が書いたものではない」でしょうか。この「聖書は人間によって書かれたものではない」という考え方は、私は最も危険だと考えています。

ある朝、マタイは目を覚ましました。すると、机の上にイエス・キリストの生涯を描く福音書が置いてありました。パウロも目を覚ましたら、同じように、いろんな教会や個人に宛てた手紙が机の上に置いてありました。しかし、彼らにはそれを書いた記憶がありません。彼らが寝ている間に、意識を失っている間に、聖書のすべてが書かれましたというようなことは起こりませんでした。それはオカルトの世界です。

聖霊なる神は、人間の中で、人間と共に、人間を活かし用いて、働いてくださいます。人間の理性も感情も判断力も、人間の真・善・美も、活かされたままです。聖霊はわたしたちの身代わりに死んでくださることはないし、私たちの身代わりに聖書を書いてくださったりもしません。聖霊が働いてくださっている間、人間は眠っているわけではないし、気絶しているわけでもないし、サボっているわけでもないのです。その点を間違うと、全キリスト教がオカルト化します。

そういうことではなく、聖書の霊感の教理は、(三位一体の)聖霊なる神ご自身が私たち人間に接触し、私たち人間へと影響・感化を及ぼし、浸透し(沁みていき)、私たち人間に感銘・感動を与えてくださる過程を経て「インスパイア」された人間が聖書を記した、と言っています。

しかし、そこでストップです。神は聖書の著者の人間性も歴史性も排除しません。そこでもし人間性の排除が起こるなら、それを「洗脳」というのです。私たちが聖書を読むときに、当時の歴史について調べたり考えたりする必要があるのは、聖書は100パーセント人間が書いた書物だからです。

日本基督教団信仰告白が聖書について書いている「誤りなき規範」の「誤りなき」の意味は、「無謬性」(インフォーリビリティ:Infallibility)のことだと考えるのが妥当です。「無謬性」は「無誤性」(インエランシー:inerrancy)との比較で考えるのが理解しやすいです。

インフォーリビリティ(無謬であること)は「フォール(堕落)していない」という意味です。インエランシーは「エラー(誤記)がない」という意味です。日本基督教団信仰告白が肯定しているのは前者(「聖書は堕落していない」)のほうであって、後者(「聖書は誤記がない」)のほうではありません。

聖書に「誤記」はあります。しかし、「堕落していない」とは「神のみこころにかなっている」ということです。その意味は、聖書に記された言葉を読んで、その教えを信じたとしても、その教えに基づいて生活したとしても、それによって罪を犯すことにはならないので大丈夫です、ということです。

だからこそ、聖書は「信仰と生活の誤りなき規準」なのです。

(2025年5月11日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年5月10日土曜日

誇る者は主を誇れ

松戸朝祷会(カトリック松戸教会 千葉県松戸市松戸1126)

教会堂外見
礼拝堂
マリア像
朝祷会讃美選集

奨励「誇る者は主を誇れ」

コリントの信徒への手紙二10章12~18節

関口 康

「誇る者は主を誇れ」(17節)

過去の記録を調べたところ、松戸朝祷会で奨励させていただくのは3回目であることが分かりました。最初は2014年12月6日、2回目は2016年6月4日、そして今日です。9年ぶりです。

最初の私は千葉県松戸市民でした。2回目の私は千葉県柏市民でした。そして3回目の今日は東京都足立区民です。

短期間に目まぐるしく移動したのは、教団の指示で動いた、というようなことではありません(そのような指示を出す仕組みは日本基督教団にはありません)。悪い意味で私がどこに行ってもうまく行かず、転々としてきました。

前回お話しさせていただいた2016年の翌年、2017年の私は無職でした。ハローワーク松戸に1年間通いました。翌年の2018年4月から昨年2024年2月まで、東京都昭島市の教会の牧師でした。その最初の1年間は、牧師をしながらアマゾンの倉庫で週30時間の肉体労働のアルバイトをしました。

翌年(2019年度)から2013年度までの5年間は、やはり牧師を続けながら、東京都東村山市にある学校で非常勤講師(聖書科)をしました。2020年度から2年間は、昭島教会牧師も東村山の学校も続けながら、神奈川県茅ヶ崎市にある学校でも非常勤講師をしました。当時は、東村山に週2日、茅ヶ崎に週2日、計4日、牧師が週日に教会を不在にしました。

茅ヶ崎に通った2年間は、最初の頃は電車、途中から原付バイクで通勤しました。片道70キロ。原付バイクで2時間半から3時間。朝4時半ごろ昭島教会を出発して、午前7時ごろ湘南海岸に到着し、昇ったばかりの太陽を見つめていました。

すべては生活のため。食べるため。子どもたちの教育のため。俗臭芬々(ぞくしゅうふんぷん)に違いありませんが、それが私の現実でした。

先ほど朗読していただいた聖書箇所は使徒パウロの手紙の一節です。注目していただきたいのは12節です。

「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです」(12節)。

12節に言葉遊びがあると解説する註解書を読みました。日本語訳で読んでも分かりませんが、ギリシア語から直訳すると「自分たちを(エアウトゥース)他の人々(ティシン)に推薦する(スニステーミ)人々は、自分たちに(エアウトイス)自分たちを(エアウトゥース)比較しているので、そんな人たちの計測(メトレオー)や比較(スンクリノー)の中に自分(パウロ)たち(エアウトゥース)を置くのは無意味(ウー・スニエーミ)である」となります。

自分たちが有利になるように決めた評価規準で自分たちを測って「私は優秀である」と誇っているような人たちの中に入って、その人たちの評価基準で評価してもらうことには意味がない、ということです。

どの評価規準であれ、それを決めるのは権力を持っている人たちです。今の国や社会で言えば税金とか、学校の偏差値とか、学費とか。そういうものを決める人たち自身が不利になるような規準をその人たち自身が決めるわけがないので、巻き込まれた時点で初めから負けているということです。

私も学校で働いたときは、授業だけでなくテストをして成績を出さなくてはならなかったので、そのときは評価する側にいました。テストは成績上位者と下位者がくっきり識別できるような問題を出さなければならないことが(文部科学省の指導で)決まっているので、いやでも応でも、そういう問題をつくらざるをえませんでした。パウロが書いていることは事実です。

イエス・キリストの教会には、別の評価規準があります。「私は何々大学の出身で、一流会社に就職し、財をなし、広い家を建て、家族に恵まれ、幸せな生活をしております」と誇る人が悪いとは言いません。しかし、パウロはそのようなこととは全く違うことを言いはじめます。どちらを選ぶかは、自分で決めるしかありません。

たとえばこの手紙の11章26節以下には、パウロ自身が受けた「難」がたくさん紹介されています。

「しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともある」。

パウロは、自分の弱さや、ダメだったことや、苦しかったことを誇ります。パウロが言おうとしていることの中心にあるのは、「誇る者は主を誇れ」(17節)ということです。

私もそうだと申し上げたいです。良かったことはなく、ダメだったことばかりです。しかし、こんなに弱くてダメな私を神が用いて、神のみわざとしての「神の宣教」(ミッシオ・デイ)を進めてくださっていることを、私は誇ります。

弱くてダメな私ですが、これからも松戸朝祷会の仲間に加えていただきたく、よろしくお願いいたします。

(2025年5月10日 松戸朝祷会 於 カトリック松戸教会)

2025年5月9日金曜日

信仰とは何か

日本基督教団東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会
(日本基督教団信濃町教会 東京都新宿区信濃町30番地)

教会堂外見
礼拝堂前方
礼拝堂後方
集会案内板

奨励「信仰とは何か」

マタイによる福音書8章5~13節

関口 康

「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10節)

この聖書箇所を選んだことに特別な意図はありません。日本基督教団聖書日課『日毎の糧』の今日の箇所を参考にしました。ただし、それはヨハネの並行記事で、話しにくさを感じましたので、マタイに変更しました。

「これは史実でない」と『NTD新約聖書註解』マタイの著者、エドゥアルト・シュヴァイツァー教授(Eduard Schweizer [1913-2006])が書いておられます。しかしそのシュヴァイツァー先生も、8節から10節までの主イエスと百人隊長の対話の部分は「Q資料」にあっただろうと認めておられますので、そこだけは歴史的な根拠があると堂々と言ってよさそうです。

イエス・キリストがガリラヤ湖畔の町カファルナウムにおられたとき、「百人隊長」が近づいてきました。「百人隊長」は古代ローマ軍の職名ですが、ローマ人だったとは限りません。ひとつの可能性として言われているのは、異邦人の傭兵だったのではないかということです。

マタイ福音書では、その人自身が主イエスのもとに行き、「僕」のために助けを求めています。マタイが「僕」という意味で用いているギリシア語「パイス」は、ルカの並行記事(7章1~10節)では「ドゥーロス」です。「ドゥーロス」はあからさまに「奴隷」です。しかし「パイス」は自分の子どものように愛する対象を意味します。その事実を活かし、聖書協会共同訳(以下「SKK訳」)は「子」と訳しています。

百人隊長のパイス(自分の子どものように愛していた僕)は、新共同訳では「中風」(SKK訳「麻痺」)を起こし、家で寝込んで(SKK訳「倒れて」)ひどく苦しんでいました。そのことを百人隊長自身が主イエスに伝え、助けを求めました。

その願いを受けて、主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」と応じてくださる姿勢を表してくださいました。しかし、J. M. ロビンソンのQ資料研究書『イエスの福音』(加山久夫、中野実訳、新教出版社、2020年)によると、主イエスの「わたしが行って、いやしてあげよう」(7節)は、Q資料では「わたしが行って、彼をいやすのか?」という拒否反応でした。それを17世紀の英語聖書(1611年刊行のキング・ジェームズ・ヴァージョン)が肯定的な反応のように訳したことで、意味が逆転してしまいました(ロビンソン、141頁以下)。

しかし、新共同訳聖書どおりだと主イエスは好意的な反応を示されましたが、それを百人隊長が断ります(8節)。このときの百人隊長の返事の中に、彼の《信仰》が明確に表現されました。

百人隊長は言いました。

「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕(パイス。SKK訳「子」)はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下(ドゥーロス。SKK訳「僕」)に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(8~9節)。

百人隊長の言葉に主イエスは感心し(SKK訳「驚き」)、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10節)と評価されました。そして主イエスが百人隊長に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」とおっしゃったら、ちょうどそのとき、僕(パイス。SKK訳「子」)の病気がいやされました(13節)。

* * *

さて、問題です。主イエスは、百人隊長の返事のどの点を評価なさったのでしょうか。

この答えが分かれば、私たちも同じように言えば、イエスさまからほめていただけるでしょう。主イエスが称賛するほどの模範的な《信仰》があるならば、全キリスト教に影響するでしょう。

第一の可能性は、主イエスが軍隊調の命令と服従の関係で信仰をとらえ、百人隊長がそのような《信仰》を持っていることが分かったので高く評価された、というとらえ方です。

これは私が思いつくかぎりの最悪の可能性です。手と指を前にまっすぐ突き出すナチス式敬礼は、古代ローマ軍の敬礼から受け継いだとナチスが主張しました。そういうことをこの百人隊長もしていたと思います。あれでいいでしょうか。

第二の可能性は、ひとつの註解書に記されていたことです。Fernheilung(フェルンハイルンク)をどのように訳せばよいでしょうか。「遠隔治療」でしょうか。言葉を発するだけで、祈るだけで、遠くの人の病気が治る。そのような《信仰》を百人隊長が持っていることをイエスが高く評価なさった、という説明です。ユダヤ教のタルムードに「遠隔治療」の類似例があるそうです。

厚生労働省のホームページに「遠隔医療(リモート医療)」についての説明があることを知りました。医療の現場ではそういうのが日進月歩で進んでいるようです。しかし、インターネットは電気信号です。きわめて物理的な手段です。何の物理的な媒体もないわけではありません。

教会はどうでしょうか。「出会い」や「ふれあい」は教会に無くてはならないものでしょうか。「握手」や「ハグ」が必要でしょうか。体に触らないと「愛」が伝わらないでしょうか。

もし皆さんの中にそういうことをなさっている教会の方がおられるとしたら申し訳ありませんが、私はそういうのが苦手です。私はだれにも触りません。私は「非接触牧師」です。

しかし、そういう私も、教会員のお宅や病床には可能なかぎり訪問したいと考えています。対外的な働きが続いたりすると、訪問がおろそかになって心苦しいです。

ですから、今日の箇所を「リモートワーク」の話としてとらえてよければ、私は救われた気持ちになります。「うちに来ないでください。祈ってくださるだけで結構です」とか「すべてリモートで大丈夫です」と言ってもらえれば、気がラクになります。これでよろしいでしょうか。

第三の可能性は、私にとって最も納得できる説明です。それは最初にご紹介したエドゥアルト・シュヴァイツァー教授の説明です。次のように記されています。

「いずれにしてもここには(中略)神の行動をあてにしている信仰がはっきりと現れている」(281頁)。

シュヴァイツァー先生のおっしゃるとおりです。《信仰》とは「神を信じること」です。そして「神の行動をあてにすること」です。シンプルですが、ベストの答えです。

「ミッシオ・デイ」(神の宣教)も、「神の行動」を信じることにおいて、今申し上げていることと趣旨は同じです。そもそも「宣教」は神ご自身のみわざなのであって、人間の働きではありません。

「ミッシオ・デイ」(神の宣教)を悪く言う論調に接しました。なぜそういうことを言うのか、私は理解に苦しみます。

そもそも皆さんは「神」を信じていますか。このような失礼なことを、あえて問わなくてはなりません。

「神を信じる」と言いながら、いつのまにか「私」や「私たち」や「自分の教会」の努力をそのように呼んでいるだけになっていませんか。だからこそ、自分の働きを認めてもらえないという不満の理由になったりしていませんか。「神のみわざ」は人間の手柄ではありません。

シュヴァイツァー先生の説明には、続きがあります。

「この物語は(中略)決して自分の力で獲得したのではない、ないしは、それを自分の力で獲得することはできないと知っているものに対して救いを開く」(254頁)。

百人隊長は、自分の子どものように愛する僕(パイス)の病気を自分の力では治してあげることができないことを悟り、自分の無力さに打ちのめされ、人間になしえないことをなさる「神」を信じました。

これが《信仰》です。

(2025年5月9日 東京教区東支区・北支区合同連合祈祷会、於 日本基督教団信濃町教会)

2025年5月4日日曜日

聖書と教会

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教「聖書と教会」

テモテへの手紙二3章10~17節

関口 康

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)

「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」(日本基督教団信仰告白)

今日から「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」を始めます。全10回の予定です。

私は昨年3月より足立梅田教会にいます。これまでは基本的に「教会暦説教」をしてきました。聖書箇所も日本基督教団聖書日課『日毎の糧』から選んできました。

「教会暦説教」には長所と短所があります。長所はクリスマス、イースター、ペンテコステなどの行事に合わせた説教ができることです。短所は毎年同じ話になりがちなことです。出口がない円をぐるぐる回っている感じです。

「教理説教」には出口があります。聖書の教えを歴史的な順序で説明しますので、「初め」も「終わり」もあるからです。ただし、それは現代的な意味の「歴史」とは異なります。私たちの場合は「天地創造」(創造論)から「神の国の完成」(終末論)までを描く「神のみわざの歴史」です。

「抽象論だ」「おとぎ話だ」と日本に限らず世界中で嘲笑を受けて来ました。このことについては実際の説教を聞いていただかないかぎり理解してもらえませんので、これ以上は言いません。

日本基督教団信仰告白が「我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は」から始まり、「聖書とは何か」という問いに答えることから出発しているのは、わたしたちがかくかくしかじかのことを信じると言っているのは、そのように聖書に書かれているからであると述べようとしています。

「あなたたちは聖書に書かれていることを全部信じるというのか。たくさん間違いがあることは学問的に証明されている」と言われます。おっしゃるとおりと思いますが、問題は何をもって「間違い」と言うかです。現代の科学技術を駆使した歴史学や考古学の観点から矛盾や間違いを指摘されるのはありがたいことです。だからといって信じることをやめるかどうかはダイレクトに結びつきません。

日本基督教団信仰告白の「旧新約聖書は(中略)教会の拠るべき唯一の正典なり」の「正典」は、一般的に言えば「経典」ですが、わざわざ「正典」と呼ぶのはCanonという決まった用語の翻訳だからです。Canonは「はかり、物差し、規準」などの意味です。

したがって、この条文の意味は、日本基督教団は「聖書というはかり」に収まる範囲のキリスト教信仰を共有しているということです。この「はかり」を超えて主張されることになれば、異端または別の宗教であると判定せざるをえないということです。

20世紀オランダのプロテスタント神学者ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が聖書について述べた複数の文章が『ファン・ルーラー著作集』第2巻(原著オランダ語版、2008年)に収録されていることが分かりました。「聖書の権威と信仰の確かさ」(1935年)、「信仰の土台としての聖書」(1941年頃)、「聖書の権威と教会」(1968年)、「聖書の扱い方」(1970年)など。

これらのファン・ルーラーの文章すべてに一貫していたのが「私たちは聖書に書かれていることだから信じている」という主張の線です。また「聖書の権威」と「信仰の確かさ」は両方あって初めて成り立つ、ということも繰り返し主張されていました。

たとえば、創世記3章にエバと蛇が会話する場面が出てきます。民数記22章にはバラムがロバと会話する場面が出てきます。こういう箇所を読んで「蛇やロバが人間と会話できるはずがない。聖書に書かれていることはウソばかりだ」と言い出すのは聖書の本質が分かっていないからだとファン・ルーラーは言います。「聖書」には、歴史、文学、書簡、詩歌など、さまざまな文学形式で記されている文書が収められています。

また、ファン・ルーラーが書いていることの中でこのたび私が最も感銘を受けたのは、〝聖書がユダヤ人によって書かれたものであることは、私たちゲルマン人にとって、自分たちの内側には真理が無かったことを意味する〟と彼が主張しているくだりです。

以下、ファン・ルーラーの説明を要約してご紹介いたします。

本など他にもたくさんあるのに、聖書を「本の中の本」と呼ぶのはなぜだろう。古い本を読んで我々ゲルマン人の魂の本質を知りたいだけなら、ヴァイキング時代を描いた北欧神話『エッダ』に手を伸ばすほうがよいのではないかと思うのに、そうしないで聖書を読もうとすることに、我々はもっと違和感を抱くべきであるとファン・ルーラーは言います。あまりに慣れすぎて我々はその違和感を認識できないのだ、と。

我々ゲルマン人が「外部からもたらされた救い」によって「改宗」したのは「クローヴィス」の頃だと書いています。それはフランク国王クローヴィス1世(西暦466~511年)が、妻のひとりがキリスト者だったことで自分自身も西暦496年にキリスト教に改宗したことを指しています。

その「クローヴィスの改宗」こそ、ゲルマン人にとっての「転換」であり、最も深い自己意識と決別したことを意味する。それは「いまだに完全には癒えていない我々の魂の傷」であり、だからこそ「国家社会主義〔ナチス〕はその転換を覆そうとしたし、現代の西洋社会はその転換を超克したいと望んでいる」とファン・ルーラーが書いています(「聖書の扱い方」1970年参照)。

ファン・ルーラーの文章を読んで私が考えさせられたのは、1549年フランシスコ・ザビエル来日から476年、ベッテルハイム宣教師の沖縄伝道開始1846年から179年、ヘボン、ブラウン両宣教師の横浜到着1859年から166年を経ても日本の大半の人々に「転換」が起こらないのは、「外部の真理」によって転換させられることを恐れているからだ、ということです。

今申し上げたことは、日本基督教団信仰告白に明記されていません。しかし「聖書」は「日本にとっての外部の真理」であるという点が勘案されるべきです。そのことが認識されないかぎり「改宗」が起こることはありません。私の父も母も戦後に洗礼を受けてキリスト者になりました。1945年の敗戦という事実を突きつけられて「我々の内側には真理は無かった」と思い知らされたからだと思います。

「外部から持ち込まれた真理」によって、まず自分自身が変えられ、それを広く宣べ伝えるのが「教会」ですから、「身内で固まりたい人たち」や「民族主義的な人たち」からは嫌われます。違和感を示されることが多いです。

だからこそ逆に、教会は「身内で固まりたい人たち」や「民族主義的な人たち」から排除された人たちにとっての「避けどころ」(シェルター)や「出口」になり、そこに新しい共同体が生まれます。「日本人」という概念の今日的な意味は、少なくとも私には明確には分かりません。

「キリスト教は敵国の宗教だ」と言われた時期が長かったと思います。しかし、キリスト教の起源は、アメリカでもヨーロッパでもなく、アジアです。

オランダ人のファン・ルーラーが1970年の時点で「聖書」は「外部の真理」だと言っているのですから、私が申していることも「今この瞬間に日本列島に在住している私たち」にとってだけ「外部」だという意味ではありません。実はユダヤ人にとっても「外部」でした。究極的には神ご自身が人間にとっての「外部」です。「改宗」のために「外部の真理」が必要なのです。

(2025年5月4日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)