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『教会とヒューマニズム』(1956年)と「実用オランダ語入門』(1994年) |
序
冷たい雨のエイプリルフールに古書が2冊届き、その温もりで暖を取る。
(1)ヘンドリク・クレーマー『教会とヒューマニズム』(オランダ語版、1956年)
(2)戸部実之『実用オランダ語入門』泰流社、1994年)
Ⅰ クレーマー『教会とヒューマニズム』(1956年)
クレーマーの『教会とヒューマニズム』の全文をChat GPTが瞬時に要約してくれた。かなりいい線だと思う。積ん読よりはるかにまし。ありがとう!
(以下、ChatGPT要約)
本書はキリスト教会とヒューマニズム(人文主義)との歴史的関係性を探求しています。キリスト教会はギリシャ・ローマの古代世界で誕生し、そこでのヒューマニズム的な思想と相互作用を持ちながら発展してきました。初期の教父たちは、信仰と理性の関係性についてさまざまな立場を取り、例えばアレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスは、ギリシャ哲学をキリスト教的思索に取り入れる試みを行いました。
中世においては、トマス・アクィナスが『神学大全』の中で、キリスト教の啓示と古代哲学を統合し、「恩寵は自然を廃止するのではなく、完成させる」という考えを示しました。しかし、宗教改革期には、ルターが福音の純粋性を強調し、キリスト教とヒューマニズムの間に再び距離が生じました。現代においても、カール・バルトなどの神学者が、キリスト教とヒューマニズムの統合を根本的に拒否する立場を示しています。
本書は、ヨーロッパ文化の形成において、キリスト教とヒューマニズムが相互に影響を与えながら発展してきたことを強調しています。また、現代における技術や科学の進展、全体主義的な世界観の台頭により、これらの伝統的な精神的価値が挑戦を受けていることを指摘しています。さらに、アジアの大宗教との対話を通じて、新たなヒューマニズムの形態が現れる可能性についても言及しています。
結論として、本書は、キリスト教とヒューマニズムの関係性を再評価し、現代社会における精神的再生の可能性を探求する必要性を訴えています。先入観や偏見を排除し、歴史的背景と現状を正直に見つめることで、真実と現実に基づいた結論に到達できると述べています。
Ⅱ ファン・ルーラー『政府とヒューマニズム』(1954年)
クレーマーの『教会とヒューマニズム(Kerk en humanisme)』(1956年)出版の前年、ファン・ルーラーが『政府とヒューマニズム(Overheid en humanisme)』(1955年)を出版。内容はオランダ政府が「ヒューマニスト協会」(Het Humanistisch Verbond)の要請にどのように対応すべきかを検討する論考。
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ファン・ルーラー『政府とヒューマニズム』(1955年) |
具体的には、刑務所や軍隊等での精神的ケアに同協会が公式に関与することの是非が議論されている。ファン・ルーラーは、この問題が全く新しい現象であり象徴的な意味を持つと指摘。ヒューマニスト協会は人間の存在全体に焦点を当てる運動であり、世界と人生の包括的な見方を提供していると評価。
他方、ヒューマニズムが独立した全体主義的ビジョンとして現れ、国家組織に影響を与える可能性もあるという。ファン・ルーラーは、国家と教会の関係、そしてヒューマニズムの役割について、憲法的な視点から再評価する必要性を強調している。
第4章が「キリスト教とヒューマニズムの関係」について。ファン・ルーラーによると、ヒューマニズムは精神的価値を重視し、時にキリスト教と共鳴するが、必ずしもキリスト教に至るとは限らない。キリスト教徒とヒューマニストは共通の目的で協力できるが、本質的には異なる基盤を持つ。
歴史的に見ればヒューマニズムの起源はキリスト教に根ざしていると言いうるが、現代ではそれが忘れられ、独自の哲学として発展。現代のヒューマニズムは包括的性格を持つゆえにキリスト教との関係が相互排他的になることが予測される。しかし両者が分断されていることは西洋文化にとって危機的である。
ファン・ルーラーはボンヘッファーの獄中書簡の視点を導入。極限状況での叫びであるゆえ世界観の土台ではないが、キリスト教とヒューマニズムの関係を考える一つの視点となるという。ファン・ルーラーは、キリスト教とヒューマニズムの分裂は回避されるべきで両者の関係を再考する必要があると結論。
Ⅲ クレーマーとボンヘッファーの神学の関係
「クレーマー」+「ヒューマニズム」で探したら、クレーマーとボンヘッファーの神学の関係が詳述された素晴らしい論文に出会えた。「バルト→ボンヘッファー→クレーマー→ファン・ルーラー」の線が見えて来た。
佐藤全弘「成人せる世界 : ボンヘッファーとわれわれ(2)」
大阪市立大学文学部『人文研究』19巻1号(1967年)、37~69頁。
https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp
(以下、佐藤全弘氏の同上論文の62~63頁の抜粋。まだ続きがあるので、未読の方はぜひリンクをクリックしてご一読を)
この外にもボンヘッファーに注目している人は数多いが,最後にオランダの平信徒神学者 Hendrik Kraemer をあげたい。クレーマーはボンヘッファーも関与していた世界教会(エキュメニカル)運動の指導者の一人であり、戦後日本を訪れたこともあり、その後著した大著 World Cultures and World Religions, 1960.の日本についての一章は、短いながら日本精神の特質を鋭くとらえている。いまここにとりあげるのは、The Communication of the Christian Faith, 1956である。この本は、「人間と人間との間の伝達」と、「神から人間への伝達」という、対話・伝達の根本的に異る二つの種類についての深い洞察を中軸として、現代世界における対話喪失の問題伝達回復の問題を論じたもので、読者の思索反省を迫ってやまない。
人間と言葉と宗教とは時を同じうしてつくられたものである。個人として唖〔ママ〕の人もあり無宗教の人はあっても、全く言語をもたぬ社会、宗教を欠いた社会はない。両者は人間に本質的なものである。ところが現今ではこの言葉が破壊され、伝達が失われている。それはボンヘッファーもいう世俗化の果てにみられる現象である。ことにクレーマーは神から人への伝達を担う教会の問題に注意をむける。
世俗化を教会外のことと考え、教会とキリスト者とはそれに縁がないように思っては誤りである。 「実は、教会も、この世同様(仕方はちがうけれども)いたるところで徹底的に世俗化している、いな教会の世俗化は、この世の世俗化より一層由々しいものでさえある。すべてが「神聖なる」 「聖式の」マントをまとっていて、たいがいその世俗化が目に見えないからである。」クレーマーはしかし世俗化を単に福音の敵とだけみないで、教会とこの世に共通の現実であり、そこには最大の危険とともに最大の可能性もが含まれていると考える。これもボンヘッファーの成人せる世界に対する考えと同じである。つまり世俗化には積極的側面,本当の利点があるとみるのである。ではそれは何か、 「聖書の福音の光に照らしてみた場合、世俗化はたしかに精神がとほうもなく痩せ細る過程、人生の規範の基礎となるものに対する破局的な認識混乱・盲目 を意味する。しかしキリスト者の間ではとくに、世俗化はまた浄化作用をも有する。すなわちもしわれわれが賢明にもそれをみとめ確と把むならば,われわれ を徹底した現実直視へ導かずにはおかぬものであるというべきである。」世界の世俗化によって教会の世俗化はあらわとなり、教会は世俗世界の方法を用いその本来の職務から外れたのである。世俗化の浄化作用を言いかえれば、「世俗化の全過程は、神が教会をその真の性質と本来の職務へ召し戻し給い、キリストが生の一切の領域に王たるべきことを断乎として宣べるという教会の真の主張を、よりよく弁え知らしめ給うところの,皮肉なる仕方の一つである。」神は世俗化を通して教会にいやでも伝達の崩壊を知らしめ給うのであるから,教会はこれに達巡 ・不平 ・防衛的態度をとってはならない。しかも今なお教会は、自らを省みよ、自らを正せ、というこの神の声に十分耳を傾けていない。教会には既に確立した組織体があって、この事態を真剣に扱う勇気と信仰を奪っているのである。 さらにまた、世俗化のおかげで、教会と世界との境界を、伝統が確固としていた時よりはっきり見ることができる。真の教会はいつも少数であって、教会は成員の増減によって盛衰しないことが判るが、これも浄化の一面である。
教会の世俗化の一面は福音の世俗的解釈にもみられる,宗教が倫理化されるのもその一つ、キリスト教信仰が聖書の文言の不可謬性と共に立ちもし倒れもするように考えるのもそれである。非神話化というおぞましい方法を用いて、福音に制限を加えることに対するボンヘッファーの批評に、クレーマーも満腔の賛意を表するのである。
世俗化の積極面から目を離さぬ限り、この世は教会の解放者であるといえ、近代の聖書研究にも神の器としての意味がある。「教会にはこの大衝撃が必要であった。というのは、教会は、聖書はイエス・キリストが真理であることを教えるのだということを忘れ、聖書が真理だという誤った基礎に日を送っていたからである。」しかしクレーマーは決して基本主義(ファンダメンタリズム)ではない、これは神がわれわれをその摂理の下なるこの世俗的近代世界の中に置き給うたことを否むからである。
以上の世俗化に鑑みるとき、今日キリスト教国と呼ばれる国も、実はキリストを棄てた異教の虚無的世界であることが判る。クレーマーの現代世界の精神的情況についての洞識は、前稿(1)でのべたボンヘッファーのそれと根本的に同じで、誤るところがない。(引用終わり)
結
私個人の感覚に最もなじむのは「世俗化」を肯定的な意味で言うこと。「世俗化」が悪いと言われても困る。否定されると生きる場所が無くなる。それにしても寒い一日だった。冷たい雨がやんだら、春のうららの隅田川までニンジャ1000でまた行きたい。いま願っていることはそれ以上でもそれ以下でもない。