日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 436番 十字架の血に
フィリピの信徒への手紙4章10~20節
関口 康
「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」
今日朗読していただいたのは先々週2月11日にお話しする予定だった聖書箇所です。それは、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』で2月11日の朗読箇所として今日の箇所が定められていたからです。しかし、このたび2月末で私が昭島教会主任担任教師を辞任することになりましたので、そのような機会に今日の箇所についてお話しすることはふさわしいと感じていました。
ところが、全く予想できなかったことですが、1月半ばから私の左足が蜂窩織炎を患い、2月11日の礼拝も私は欠席し、秋場治憲先生に説教を交代していただきましたので、今日の箇所を取り上げる順序を変えました。昭島教会での最後の説教のテキストにすることにしました。
今日の箇所でパウロが取り上げているテーマは新共同訳聖書の小見出しのとおり「贈り物への感謝」です。パウロは「使徒」です。しかし、彼の任務はイエス・キリストの福音を宣べ伝えること、新しい教会を生み出すこと、そしてすでに生まれている教会を職務的な立場から霊的に養い育てることです。現代の教会で「牧師」がしていることと本質的に変わりません。なかでも「使徒」と「牧師」の共通点の大事なひとつは、教会員の献金でその活動と生活が支えられているという点です。
パウロが「使徒」であることとは別に「職業」を持っていたことは比較的よく知られています。根拠は使徒言行録18章1節以下です。パウロがギリシアのアテネからコリントに移り住んだときコリントに住んでいたアキラとプリスキラというキリスト者夫妻の家に住み、彼らと一緒にテント造りの仕事をしたことが記され、そこに「(パウロの)職業はテント造り」だった(同18章3節)と書かれているとおりです。現代の教会で「牧師たちも副業を持つべきだ」と言われるときの根拠にされがちです。
しかし、この点だけが強調して言われますと、それではいったい、パウロにとって、使徒にとって、そして現代の牧師たちにとって、説教と牧会は「職業ではない」と言われなければならないのかという疑問が、すべての人の心の中に浮かぶかどうかは分かりませんが、少なくとも当事者たちの心の中に絶えず去来することは、この機会に証言させていただきたいと願っています。
ずっと前にお話ししたことがある記憶が残っていますが、大事なことですので繰り返します。私が千葉県松戸市の教会で牧師をしていた頃は、息子も娘も学校に通っていたころで、私も地元の小学校や中学校のPTA活動に参加したり、PTAの推薦で松戸市の少年補導員になったりすることで地域の人々と交流を持っていました。中学校のPTA会長を2年しました。その関係の中で少年補導員の大先輩の女性から言われたことを思い出すのです。「関口さんは牧師さんですよね。ふだん仕事しておられないので、こういう活動に参加していただけるのですよね。とてもありがたいことです」と。
20年ほど前の会話です。当時の私は30代半ば。同世代の方々はバスに乗って、電車に乗って、自家用車で毎日会社まで通勤している。しかし、牧師さんはいつも遊んでいる。近所のスーパーやコンビニで日中に買い物している。ぶらぶらしている。本当にそう見えたと思います。それでよいという意味ではありませんが、20年ほど前はスーパーで男性が買い物をする姿はほとんど見当たりませんでした。時間帯だけでなく、男性が野菜やお肉を買いにスーパーに行くこと自体でも目立っていたと思います。
「牧師は仕事をしていない」という認識が間違っているかと言うと、そうでないどころか、きわめて正確な認識だとすら言えると当時の私も思いました。しかも、私の誤解ではないと言わせていただきますが、その女性の言葉に悪気はありませんでした。むしろ独特の意味で尊敬してくださいました。「仕事」という言葉をお使いになるとき一瞬戸惑うような言い方をされたからです。その方にとって「仕事」はあくまでも“世俗的な事柄”(This Earthly Things)を指すのであって、宗教は「仕事」に含まれないようでした。「仕事をしている」だなんて、そんな失礼なことを宗教者に言ってはいけないと、おっしゃりたかったようでした。
しかし妻子がいる30代半ばだった私にとって「仕事していない」と言われたときはショックでした。牧師の姿は、客観的にはそういうふうに見えるのかと愕然としました。しかし、問題はその先です。「客観的には」と言えば済む問題でしょうか。教会員である方々の中にも、さほど大差ない認識が無いでしょうかと、あえて問わせていただきたいのです。
昭島教会の皆さんから言われたことはありませんが、「牧師は教会員の献金を食い物にしている」と、陰にひなたに囁かれている現代の牧師は決して少なくないと、私なりに認識しています。
今日の箇所でパウロが書いていることが、少なくとも形式的には、献金とお祈りによって彼自身の伝道と牧会の働きを支えてもらっている教会の皆さんへの感謝の言葉であることは間違いありません。しかし、みなさんはこの箇所をお読みになって、何をお感じになるでしょうか。私がいつも参考にしているオランダ語の聖書註解(A. F. J. Klijn, Filippenzen, PNT, 1969, p. 91)で、10節の註解に「パウロが実際には贈り物に感謝していないことは注目に値する」(Opmerkelijk is dat Paulus eigenlijk niet bedankt voor de gave)と書かれているのを見て笑いが込み上げてきました。
笑ってはいけないと思います。不謹慎な態度は厳に慎むべきです。しかし、パウロが問題にしていることをわたしたちの時代にも通じる言葉に置き換えるとしたら、教会における伝道と牧会はその人の「職業」なのかどうかという点に尽きます。長年会社にお勤めになった方、あるいは短期間でもパートやアルバイトをした方が退職のとき、「私に給料を支払ってくださった会社の皆さんに感謝します」と、おっしゃるかもしれませんが、どの程度の真剣さがあるでしょうか。労働の対価であるという思いが強ければ、むしろ会社のほうが私に感謝すべきであると言いたくなる人もいるのではないでしょうか。
この箇所でパウロが言いたいのは次のようなことです。わたしはあなたがたに感謝の思いを抱いている。しかし、だからといってわたしはあなたがたに、びた一文、負債はないということです。「返せ」と言われる筋合いにない、ということです。
「物欲しさで言っているのではない」(11節)、「贈り物を当てにして言うわけではない」(17節)とパウロが書いている言葉は真実です。「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(12節)という言葉は、パウロの働きを支えてきた人たちには嫌がらせのように響いたかもしれません。「わたしたちの献げものが足りなかったとでも言いたいのか」と。
誤解がないように最後に言います。今日私はパウロの言葉を借りて、使徒の権威の衣をかぶって、自分の言いたいことを言おうとしているのではありません。私は6年前、命からがらの状態で、昭島教会のみなさんに拾っていただいた人間です。6年間、みなさんからいただいた物心両面のお支えに心から感謝しております。あのとき私がどんな状況にいたかをお話しする時間は残っていませんし、どうでもいいことです。神がすべてご存じです。そして神が新しい道を切り開いてくださいました。
昭島教会のこれからの歩みのために、特に秋場先生のお働きのため、お祈りさせていただきます。
(2024年2月25日 聖日礼拝)