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讃美歌21 434番 主よ、みもとに
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「信徒の成長」
フィリピの信徒への手紙1章1~11節
関口 康
「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
今日は日本キリスト教団の定める「信徒伝道週間」の初日にあたり、お2人の教会員の証しを伺いました。ご準備くださったお2人に心から感謝申し上げます。
今日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までです。この手紙は使徒パウロが書いたものです。今日の箇所に記されているのは、パウロがフィリピの信徒のためにささげた祈りの言葉(9~11節)と、その祈りをささげた理由(3~8節)です。
パウロはフィリピの教会のみんなのことを思い出すたびに、神に感謝し、喜びをもって祈っていると言います(3~4節)。なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっているからだと言います(5節)。
「最初の日」(5節)の意味は、パウロとフィリピ教会が最初に出会った日を指していません。その意味で受け取ると、私パウロと出会ったことで初めてあなたがたがイエス・キリストの福音を受け入れることができた、その日から今日に至るまで、ということにならざるをえませんので、まるでパウロの伝道者としての個人的な力量について書いているかのように読めてしまいます。
「福音」は宣べ伝えられた途端に伝道者の手を離れます。また、手を離さなければなりません。伝道者は「福音」そのものが持つ力を信頼し、「自分が宣べ伝えた、自分が教えた」という思いを捨て、教会の信徒を自分の支配から解放しなければなりません。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)の「その方」は、神です。福音宣教の主体は、神です。神はご自身が始めたことを最後まで成し遂げてくださり、完成してくださる方であるとパウロは言っています。パウロが始めたことをパウロが完成するわけではありません。
12節の「福音の前進」も、私パウロが福音を前進させた、という意味ではないし、あなたがたフィリピ教会に連なるみんなが福音を前進させた、という意味でもありません。福音それ自体が、自らの力で前進した、という意味です。福音そのものに躍動的な意志がある、ということです。
いま申し上げていることは、私が声を大にして言わなくても、比較的長いあいだ、教会生活、信仰生活を続けて来られた方々はよくご存じです。自分自身のことを振り返っても、家族や友人、教会の中で出会った方々のことを思い返しても、たとえば、教会が立てた伝道目標として、毎年何人を教会に招き、受洗者を何人生むかを決めて、その通りになったことがあったでしょうか。仮にあったとして、教会が計画通りに右肩上がりに教勢を拡大し、財政的にも潤い、社会的にも大きな影響を及ぼすようになっていく、というようなことが、どれほど続いたでしょうか。
もし続いていないのであれば、それはわたしたち人間の失敗でしょうか。「偉大でない」伝道者の力量不足が教会衰退の原因でしょうか。そのようなことを教会の中で言い争うこと自体が教会衰退の原因かもしれないと、手を胸に当てて考えてみることには、意味があるかもしれません。
パウロの祈りは9節以下です。注目すべき言葉は「あなたがたが清い者、とがめられるところのない者になるように」(9節)です。「清い者」と「とがめられるところのない者」はニュアンスが違います。前者は内面の状態を指し、後者は目に見える外面の状態を指します。「ひたむきに神を求めること」と「非の打ちどころのない生活を送ること」です。それが「知る力と見抜く力を身に着けて、愛がますます豊かになった」(9節)状態を指していることは明らかです。
これで分かることは、パウロは、イエス・キリストの福音は、信じて歩む人間の性質に内面的にも外面的にも変化をもたらすと信じているということです。信徒は福音と出会った最初の状態のままにとどまりません。人間としての性質が善きものへと変化し、成長します。それがパウロの信仰であり、代々の教会の教えです。「聖化」(sanctification)と言います。
このように言うと、教会の内からも外からも非難の声があがります。教会の外からは「それはキリスト者の傲慢である」とか「教会に通っている人より通っていない人のほうがはるかに誠実で高潔な生活を送っている」と。
教会の内からは、今日の箇所の「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて」の意味はあくまで「キリストの義」であって「人間の義」ではない。人間にはキリストの義が転嫁されるに過ぎず、人間はどこまでも罪人であり続ける、と。
教会の外からの非難については、私たち教会の反省材料として甘んじて受けるほかありません。しかし、教会の中の我々は、今日の箇所の「義の実」の意味を過小評価すべきではありません。たとえば、「日本基督教団信仰告白」(1954年制定)の「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」は、今日の箇所が典拠です。
「実」(英語のフルーツ)は、キリストの義が人間へと転嫁された「結果」を指します。原因と結果を混同してはいけません。「結果」は、聖霊(「聖霊」は「神」です)によって「与えられる」ものですが、聖霊の働きにおいては、人間の意志と主体性が排除されないことが重要です。
「あふれるほどに受けて」は新共同訳(1987年)ですが、以前の口語訳(1954年)でも、最新の聖書協会共同訳(2018年)でも「満たされて」と訳されています。新共同訳のように「受けて」と訳すほうが人間の主体性を後退させて、神の主体性と恩恵の一方性を強調することができますが、それではパウロの意図に反します。「知る」のも「見抜く」のも、「愛する」のも、「清い者となる」のも「とがめられるところのない者」となるのも、すべて人間が主体だからです。
人間の意志も感情も主体性も奪われて、まるで夢にうなされているかのように「させられる」のではありません。わたしたちの身代わりにイエス・キリストが「知り」「見抜き」「愛し」「清い者となり」「とがめられるところのない者になってくださった」のであって、私たち人間自身には何の変化もないと、パウロは言っていませんし、考えてもいません。
「キリストの義」が転嫁された結果としての「実」(フルーツ)は、人間の側の主体的な行動の変化です。それもまた十分な意味で神の恵みです。人間が自分の努力で自分をつくりかえることはできません。神の導きと助けなしに自分の力で成長したと言い張るなら、傲慢のきわみです。またそれは事実ではありません。しかし、教会に何年、何十年と通っても、何の変化も無かったというのであれば、それはそれで寂しいことだと言わざるをえません。
「決してそうではない」ということを、今日証しをしてくださったお2人が教えてくださったと信じます。「この教会に通って良かった」とわたしたち自身が心から思えるような教会を、神の導きと助けのもとに、共に作り上げていくことを祈ろうではありませんか。
(2023年10月15日 聖日礼拝)
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「豊かさと貧しさ」
ルカによる福音書16章19~31節
関口 康
「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」
今日の聖書箇所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。登場する人物は3人です。
ひとりは「ある金持ち」です。名前は明かされません。西暦3世紀のエジプトの写本では名前が付けられていますが、後代の加筆です。名前がないことに意味があると考えるほうがよいです。名前があるとこの人物の言動が他人事になるからです。イエスさまの意図はむしろ、この金持ちは自分のことだと、自分に当てはめて受け取るように、聴衆(読者)に求めることにあります。
2人目には「ラザロ」という名があります。多くの方はヨハネによる福音書11章に登場するマルタとマリアの弟のラザロを思い出されるでしょう。しかし、今日の箇所のラザロは架空の人物です。とはいえ、大事な点があります。イエスさまのたとえ話の中で名前がある登場人物は、今日の箇所のラザロだけです。また、ラザロという名前は、ヘブライ語で「神が助ける」という意味の「エルアザール」をラテン語化したものです。この名前に大きな意味があると考えることができます。
3人目はアブラハムです。ユダヤ人の先祖です。しかし、アブラハムは血縁としてのユダヤ民族の父であるだけでなく、使徒パウロがローマの信徒への手紙4章で詳しく論じているとおり、キリスト者にとっての信仰の父でもあります。ただし、今日の箇所でアブラハムはやはりイエスさまのたとえ話の中に登場しているにすぎません。しかも、登場場面は死後の世界です。
「ある金持ち」は「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)とあります。「紫の布」は上着で、「麻布」は下着。上下とも高価な衣服を身に着けていた、という意味です。「ぜいたくに遊び暮らす」は毎日宴会を開いていた、という意味です。
金持ちの門前に「ラザロ」が横たわっていました。「できものだらけ」と訳されているのは医学用語で「ただれ」という意味です。ラザロが金持ちの門前にいた理由は「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」(21節)からです。ただし、書いてある通りに理解すべきなのは、ラザロはその家の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと「思っていた」だけで、実際には、食卓から落ちる物すらもラザロの口に入るものはなかった、ということです。
しかも、当時の金持ちは、自分の(汚れた)手を拭くためにパンの切れ端を使い、使用後は食卓の下に投げ落としていたそうですので、「食卓から落ちる物」の中にそれが含まれている、と考えることができます(J. エレミアス)。「犬もやって来ては、そのできものをなめた」(21節)とあるのは、当時のユダヤ人にとって「犬」が不浄な動物と考えられていたことと関係あります。
ラザロの苦痛は肉体的にも精神的にも激しかったに違いありません。しかし、彼の口からの苦情については何も言及されていません。金持ちは自分の家の門前に横たわっている人がいることを知っていましたし、その名が「ラザロ」であることも知っていましたが、何も与えず、何もしませんでした。
そして、2人の人生が終わりました。ラザロは「神が助ける」という名前にふさわしく「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」ました(22節)。天国です。「アブラハムのすぐそば」(アブラハムの胸)はユダヤ人にとって最高の名誉ある場所です。そこは涼しいそうです。
「金持ちも死んで葬られ」ました(22節)。ラザロは「葬られた」と記されていませんので、葬儀はなかったかもしれません。金持ちのほうは葬儀が行われましたが、行き先は「陰府(よみ)」(ハデス)でした。いわゆる死後の世界です。ただし、このたとえ話において「陰府」は中間状態を指しています。最後の審判の判決が下る前の「未決」(pending)の状態の人々が置かれる場所です。
陰府の金持ちから、アブラハムのすぐそばのラザロの姿が見えたそうです。ただし、「はるかかなたに」(23節)とあるとおり、距離が遠い。それで「大声で」、金持ちがアブラハムに「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と(24節)と言う。
丁寧な言い方をしているようですが、ラザロに対してはもちろんアブラハムに対しても事実上命令しています。金持ちの習性かもしれません。彼が「ラザロ」の名前を知っているのは、ある意味で驚きです。ラザロが自分の家の前にいたのだから名前を知っていて当然かもしれませんが、生前のラザロに対して何もせず、見て見ぬふりしていました。自分が陰府の業火で苦しんでいるときだけ、ラザロの名前を呼び、しかも、自分に仕えさせようとする。そうするようにラザロに言ってほしいとアブラハムに依願するような言い方で、アブラハムに対しても事実上命令する。
この傲慢な金持ちに対するアブラハムの対応はとても冷静で公平でした。天において報いを受けるのはラザロであってあなたではないということを、この金持ちに明確に示しました。そもそもの前提として、この人が金持ちだったのは地上の人生においてだけで、死後は無一文です。死んだ後まで貧富の差は無いし、財産争いもありません。そういうのはすべて地上の事柄です。
金持ちとアブラハムの対話の中で特に大事な点は、金持ちが、自分が陰府(ハデス)の火で焼かれても仕方ないほどひどい仕打ちをラザロにしたことを認め、自分の救いは断念したうえで、まだ生きている5人の兄弟たちには「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28節)とアブラハムにお願いしたとき、アブラハムが「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)と答えているところです。
「モーセと預言者」とは、わたしたちの呼び方では「旧約聖書」のことです。「モーセ五書」と呼ばれる創世記から申命記までが、ユダヤ教の聖書の第1部「律法」(トーラー)です。そしてユダヤ教の聖書の第2部が「預言者」(ネビイーム)、第3部が「諸書」(ケトゥビーム)です。ここで「モーセと預言者」はトーラーとネビイームを指しています。
「彼らに耳を傾けるがよい」(29節)とアブラハムが答えたと、イエスさまがおっしゃっている、という点を忘れないようにしましょう。これはイエスさま御自身の教えです。わたしたちは律法主義を避ける勢いで、律法を否定する危険があります。自分は贅沢三昧で、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するような人生を送らないために旧約聖書の律法が役に立つことをイエスさまが教えておられます。
イエスさまはマタイ福音書の「山上の説教」では「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5章3節)とおっしゃっていますが、ルカ福音書の「地上の説教」では「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6章20節)とおっしゃっています。後者は明らかに物質的な貧困を指しています。「貧しさ」自体は「悪いもの」と今日の箇所(ルカ16章25節)で呼ばれています。しかし貧しい人を「神が助ける」(エルアザール=ラザロ)と信じることができるのが、わたしたちの信仰です。
助けを求めている人を助けなかった人々が、自分の救いと報いを求めるのは、虫が良い話です。豊かな人々のためにもイエスさまは死んでくださいました。しかし、それを免罪符にして贅沢三昧を続け、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するのがキリスト教なのかと自問することが求められています。
(2023年10月1日 聖日礼拝)
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「十字架を背負う教会」
ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節
関口 康
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」
先週は夏期休暇を取らせていただき、別の教会の礼拝に出席させていただきました。どの教会に行くか考えていたとき■さんのお怪我の話を伺い、にじのいえ信愛荘でも聖日礼拝が行われているので、ご出席なさってはと、おすすめをいただきました。
そうしようと思い、にじのいえ信愛荘に電話したところ、■先生ご夫妻は療養のため別のところにおられると教えていただきましたので断念し、別の教会に出席しました。
「のんびりできたか」とお尋ねがありましたが、あまり休めませんでした。文句を言っているわけではありません。私が行った教会の牧師もずいぶん疲れておられる様子で、私も同じだなと、いろいろ考えさせられる機会になりました。
今日開いていただいた聖書の箇所は、これも日本キリスト教団聖書日課に基づいて選びました。聖書日課には「十字架を背負う」とだけ書かれていましたが、私が「教会」という言葉を加えて「十字架を背負う教会」としました。
この箇所は使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の結びの部分です。「パウロが書いた」と言ったばかりですが、11節の意味は、パウロ自身が自分の手で書いた部分は今日の箇所だけだということです。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」というのは、この箇所より前の部分は別の人に書いてもらっていた、という意味です。
つまり口述筆記です。パウロが口で話すことを書記役の人に書いてもらっていました。しかし、手紙の最後の部分だけは自筆で書きます、しかも大きな字で書きますというのは、手紙ですから「声を大にして言う」ことはできませんが、これだけは分かってほしいと、パウロが強調したい内容を書いた部分であるという意味です。
パウロは何をそれほど強調したがっているのかといえば、ひと言でいえば、教会の中に分裂が起こっているが、それを食い止めなければならないということです。12節の「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」というのが、教会の分裂の原因です。この問題はガラテヤの信徒への手紙の始めから終わりまで一貫して取り上げられているものです。事件の経緯が比較的詳しく記されているのは2章ですので、ぜひお読みください。
そこに書かれていることを短く言えば、この手紙で「ケファ」と呼ばれている使徒ペトロまでがイエス・キリストの十字架の福音を信じて律法の束縛から全く解放されて自由になったはずのキリスト者にユダヤ教の割礼を受けさせようとする勢力に負けて妥協していることに、パウロが我慢できず、ペトロ本人に面と向かって抗議した、というのです。
教会の洗礼は「水」を用います。水はかけたら流れ落ちるだけで、からだに証拠は残りません。しかし、割礼はからだに傷をつけることですから、動かぬ証拠が残ります。旧約聖書に基づいているので権威が生じますし、いわゆる包茎手術と同じですので、相応の費用がかかったはずです。そういうことで優越感と主導権と実利を得ようとした人々がいました。
私の教会生活は生まれたときからなので、もうすぐ58年になります。24歳で伝道師になってからも33年目です。そのことで悩んだことまではありませんが、キリスト者であることについて、目に見える客観的な「証拠」や「しるし」を求める人々のニードに、何度となく接してきました。
揶揄したいわけではないので、具体例を挙げること自体に躊躇がありますが、何も言わないと分かりにくいので例を挙げます。たとえば、仏教や神道にあるような仏壇や神棚のようなものがキリスト教には無いのか、というようなニードです。あるいは、カトリック教会の人々が用いるロザリオやベールのようなものはあなたがた(日本キリスト教団はプロテスタントです)に無いのか、というようなニードです。「ありません」と答えると、とても残念がられました。
いま申し上げていることは、パウロが直面した問題と本質的に同じです。この手紙の5章6節に「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記されていることの意味は、わたしたちキリスト者には第三者の目に見える客観的な「しるし」や動かぬ「証拠」となる割礼のようなものは何も無いし、要らないし、有害無益なのであって、外側からは決して見えない心の中の信仰だけが必要である、ということです。
なぜそういうものが何も無いし、要らないし、有害無益なのかといえば、そのような「しるし」を持っているかどうかで争いが始まり、教会を分裂させるからです。それを持っている人たちは持っていない人たちを見下げてもよいと思い込んで威張り、押し付けたり売りつけたりしようとするからです。西暦1世紀の生まれたばかりの赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きの小さな教会の中で主導権争いが始まり、コップの中の嵐が起こり、教会が分裂して弱くなり、イエス・キリストの福音を宣べ伝える、教会本来の使命を果たすことができなくなるからです。
パウロは言います、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。
この言葉は正確に理解される必要があります。特に後半の「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」の意味は何かをよく考えることが大切です。
「はりつけにされる」の意味は、死ぬこと、または殺されることです。しかし、「この十字架によって」が「イエス・キリストの十字架」を指していることは明らかですので、イエス・キリストの十字架にわたしまではりつけにされるという意味ではありません。ここに書かれているとおり「世がわたしにはりつけにされている」のであり、「わたしが世にはりつけにされている」という意味です。その意味は、わたしと世とは「死んだ」関係であり、つまり「終わった」関係である、ということです。わたしが「世」のマナーやルールに従う理由はもはやない、ということです。
「世」とは現代の世俗社会(Secular society)よりも広い意味です。しかし、かなり近い意味です。教会の中にまで持ち込まれる「心の中の信仰」だけでは足りないとする、目に見える客観的な動かぬ「証拠」を見せつけてまで主導権争いをしようとする人の動きそのものが「世」です。
「イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはならない」とは、そのような争いとは一切手を切って生きる者に自分はされた、というパウロの信仰告白です。
パウロだけでしょうか。わたしたち「教会」もそうでなければならないのではないでしょうか。私が今日の宣教題に「教会」と付け加えたのは、そのことを申し上げたかったからです。
(2023年9月10日 聖日礼拝)
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「心の支えがあるか」
テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節
「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」
今日の聖書の箇所は、使徒パウロのテサロニケの信徒への手紙一1章1節から10節までです。この手紙はパウロがキリスト教の伝道者としての生涯の最も早い時期に書いたものです。
この手紙の趣旨は、はっきりしています。パウロにとってテサロニケ教会は、いわば自分自身にとっての命の恩人たちであり、思い返すたびに感謝の思いを抱いていたので、その思いを言葉にしてテサロニケ教会の人々になんとかして伝えようとしている、ということです。
言い方を換えれば、テサロニケ教会の存在は伝道者パウロにとっての「心の支え」だったとも言えます。その教会を思い起こすたびに感謝があふれてくるというのですから。人生の中でそういう教会に出会えた人は幸いです。
自分の「心の支え」が教会でなければならないことはありません。家族や友人が「心の支え」であるという方もおられるでしょうし、学校や会社がそうだという方も、動物や自然がそうだという方も、哲学や趣味がそうだという方もおられるでしょう。しかし、教会の存在が「心の支え」である方々もおられる、というくらいで止めておきます。人の考え方や感じ方は自由ですので。
キリスト者の「心の支え」が「神」であり「イエス・キリスト」であることは、そうだと言われればそのとおりです。しかしまた、地上に現実に存在する/した特定の教会と、その教会に集うキリスト者たちの存在が「心の支え」であると言ってはならないわけではありません。使徒信条の「われは教会を信ず」という信仰箇条を思い起こすべきです。しょせん教会は人間の集まりにすぎない。人間に頼ると裏切られる。神とキリストだけを頼りにするのがキリスト者であって、教会は信仰の対象ではないという考えは、退けられるべきです。
ただし、いま申し上げたことは教会によるところがあります。パウロにしても、すべての教会に対して同じことを言えたわけではありません。きわめて厳しい言葉で非難しなければならない教会がパウロにもありました。たとえばコリント教会です。内部に道徳的な腐敗が発生し、混乱と分裂をきわめていました。あるいはガラテヤ教会。パウロも激昂して「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(ガラテヤ3章1節)とまで書いています。テサロニケ教会はコリント教会やガラテヤ教会のようでなかった。だからパウロの「心の支え」になったということは考えてよいでしょう。相対評価には残酷な面があります。しかし、地上の教会は複数あります。「この教会」と「あの教会」を比較してどちらがよいかと考えることを止めることはできないでしょう。
テサロニケ教会がどういう教会だったかについてパウロが書いている言葉には、美しい響きがあります。3節がそれです。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。
ここでパウロは「信仰、愛、希望」という順で書いています。希望と愛を入れ替えて、「信仰、希望、愛」という順に並べ替えるとパウロの別の手紙の一節を思い起こされる方が多いでしょう。コリントの信徒への手紙一13章13節です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。
パウロが「信仰、希望、愛」の三つを一組にして書いた手紙はまだあります。ガラテヤの信徒への手紙です。この手紙もパウロが若い頃に書いたものです。5章5~6節に「信仰、希望、愛」の三つが出てきます。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。
ここで大事なことは、テサロニケの信徒への手紙一とガラテヤの信徒への手紙はパウロが若い頃の著作であるのに対し、コリントの信徒への手紙一は晩年の作であるということです。これで浮かび上がる可能性は、パウロは若い頃から晩年に至るまで「信仰、希望、愛」の三つを一組にして語ることにおいて一貫していたであろうということです。偶然の一致でなく、パウロが意図的に三つを結び付けたのです。
パウロが説いた「信仰、希望、愛」の三つを「キリスト教の三元徳(さんげんとく)」と言い、特に西暦4世紀に活躍したラテン教父アウグスティヌスが強調したと、高校向けの倫理の教科書に記されています(濱井修・小寺聡他2名著『現代の倫理』山川出版社、2016年、58ページ)。高校の教科書に記されているということは、日本社会で一般教養に属しているということです。
テサロニケ教会の人々と知り合う前のパウロの身に何があったかについては、使徒言行録16章に記されています。エルサレムで行われた使徒会議(使徒言行録15章)終了後の第2回伝道旅行の途中、パウロはテサロニケでしばらく過ごします(同上書17章)。そのテサロニケに行く直前のフィリピでパウロは逮捕・収監されます(同上書16章)。
フィリピで何があったのかといえば、奴隷の少女が占いの商売をさせられていたのをパウロがやめさせました。すると、その少女で商売していた人たちが金もうけできなくなったと激怒し、パウロと同行者シラスを暴力で捕まえて、役人に引き渡して逮捕させる事件に発展しました。
そして、パウロとシラスが牢の中でも讃美歌を歌い、お祈りをするといういつも通りのことをしている最中に地震が起こり、牢の扉がみな開いてしまい、そのことに責任を感じた看守が自害しようとしたとき、パウロが「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と大声で叫んで食い止め、看守が「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」とパウロたちに尋ね、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答える場面も、フィリピでの出来事です。そのフィリピの次にパウロが訪ねたのがテサロニケでした。
テサロニケでパウロは安心できたかと言うと、そうではありませんでした。またもや騒動です。テサロニケのユダヤ人の集会で「3回の安息日にわたって」聖書を引用しながら、十字架につけられたイエスこそ真のメシアであることをパウロが論証したら何人かの人たちが信じて受け入れました。特に「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人(パウロとシラス)に従った」(同上書17章4節)という点が重要です。それを見たユダヤ人たちが嫉妬して、暴動を扇動しました。そのときパウロたちの命を救ったのが、テサロニケでイエス・キリストを信じた人々でした。彼らがテサロニケからアテネまで、二人を連れて行ってくれました(同上書17章15節)。その人々がその後、テサロニケ教会の基礎を築きました。
苦労の多い人生の中で、「心の支え」になる教会に出会えた人は幸いです。感覚の問題が含まれますので、強制はできません。自由意志で「自分の教会」を選ぶことが、すべての人に可能です。
(2023年8月13日 聖日礼拝)
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「悪を憎み、敵を愛せよ」
ローマの信徒への手紙12章9~21節
関口 康
「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」
先週予告しましたとおり、今日は日本キリスト教団の定める「平和聖日」です。78年前の1945年8月15日の日本敗戦の日を思い起こし、戦争に反対し、平和を祈るために設けられました。
今日の聖書箇所は、ローマの信徒への手紙12章9節から21節です。全体を詳しく話すことはできません。戦争の問題、平和の問題と直結する言葉を中心に見ていきたいと願っています。
最初に申し上げるのは、この箇所を取り上げるたびに同じ説明をしていることです。ローマの信徒への手紙12章9節「愛には偽りがあってはなりません」から始まり、13章10節「だから、愛は律法を全うするのです」までのすべてが「愛とは何か」をテーマにして書かれた部分であるということです。「愛とは何か」というテーマとは無関係に思える部分があるとしても無関係ではありません。少なくとも著者パウロの中で「愛とは何か」という問いに結びついています。
その点との関係で特に問題になるのは13章1節から7節までの箇所です。この中に登場する「支配者」ないし「権威者」が警察や軍隊を伴う国家権力を指していることは明らかです。そのような存在に「従うべきである」(5節)とパウロは述べています。軍隊のことまでは言及されていませんが、剣をもって悪を取り締まる存在を指していますので警察の存在は肯定されています。
しかし、そのことと「愛とは何か」というテーマとがどのような関係にあるのかを、よく考えなければなりません。パウロが言おうとしていることをまとめれば、警察の存在はわたしたちが愛し合うために必要である、ということになります。
13章3節の言葉が、比較的理解しやすいでしょう。「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい」。
警察を恐れるのは悪事を働いている人たちだけであって、そうでない人たちまで警察を恐れることはないと言い換えれば、よく分かる話になるでしょう。その意味での「悪」は社会的な犯罪行為です。殺人、窃盗、詐欺、偽証、姦淫、性犯罪。その意味での「悪」を「憎む」ことと「神と隣人を愛する」という聖書の教えは一致している、ということになります。
しかし、今の説明で納得していただけるとは思っていません。警察もまた悪事を働くからです。法律の中にも他国から見れば犯罪に加担しているとしか言えないような悪法が存在するからです。法律を決める人々の中にとんでもない悪人がいるからです。そのような人たちに「従いなさい」などと、なぜパウロは言えるのかとお考えになる方々がおられるでしょう。
しかし、矛盾しません。聖書の言葉はすべて「神の存在」を前提しています。権力者はどんな犯罪をいくらおかそうと、だれからも裁かれない絶対不可侵の存在などではなく「神」が鉄槌で打つのです。
権力者はどんな犯罪をおかそうと裁かれることはないというほうが真実であるならば、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12章19節)という教えを受け容れることなど、わたしたちには到底できません。人間は悪事を黙って堪えられるほど忍耐強くないからです。精神と肉体を鍛えても無理です。もし神が復讐してくださらないなら自分で復讐するしかなくなります。そのときこそ問われるのが、私の代わりに悪を倒してくださる「神」を信じる信仰です。
私は抽象的な話をしているつもりはありません。ウクライナ戦争が始まっても、教会で私が何も言わないでいるのは関心がないからではありません。
戦争は、いったん始まればどちらが善で、どちらが悪でと区別できなくなります。他国に届く情報は必ずどちらか一方を利するものです。教会が、あるいはどなたか個人が真実の情報を常に確保できる情報源を持っているなら別ですが、どちらが勝つどちらが負けると、勝負ごとに教会が加担すべきでないと私は考えていますので、教会では何も言わずにいます。
しかし、日本が戦争に直接巻き込まれることになれば話は別です。どのような求人方法になるのか、徴兵なのか志願兵なのかは分かりませんが、いずれにしても兵隊になるのは若者たちです。
そうだと思うので、今は夏休みですが、高校の授業で私はほぼ毎週のように、生徒に戦争反対を訴えています。そのことを生徒たちは知っています。私は教会で言わないでいることを、学校では口を酸っぱくして言っています。
しかし、わたしたちに、今の教会に、何ができるでしょうか。昭島教会に来る前の私のことは、皆さんとは関係ないので言わずに来ました。
2012年の原発再稼働反対官邸前デモにも、2013年の特定秘密保護法反対の国会前デモにも、2015年7月の安保関連法案の国会前デモにも、ひとりで参加しました。無力さを痛感しながら、そこにいた人々と一緒に声を上げました。
教会も、ほかのだれも、私の態度決定に引きずり込むことはできないと思い、デモに行くときは必ずひとりで行きました。千葉県松戸市に住んでいましたので、千代田線直通常磐線で、国会議事堂前駅まで片道55分、往復1000円で行けました。
だから何ができたと私は思っていません。私たちは悪を憎まなければなりません。そのために私にもできそうだと思えた行動を起こしただけです。
神さまは、ご自身がお造りになったこの世界と人間をとても愛しておられますので、罪を憎み、罪をなくしたいと神ご自身が望んでおられます。
悪を憎むことは、人間を憎むことではありません。人間の心の中から悪が取り除かれることを求めるだけです。「敵を愛しなさい」とイエスさまがおっしゃったこととそれは矛盾しません。
昨日の午前中、今日の礼拝のための看板を書いていたときに、「悪を憎み、敵を愛せよ」という説教題の中に「心」という字が3つもあると気づきました。「悪」と「憎」と「愛」です。
聖書は日本語で書かれた本ではありませんので、漢字の話は余談です。しかし、悪も憎しみも愛も「心の問題」であることは確かです。
心が変われば人は変わります。戦地に出かけた兵隊たちが戦後も敵への殺意に満ちたままなら、戦後復興は無かったでしょう。
日本の敗戦から78年。日本と世界の平和のために祈ろうではありませんか。
(2023年8月6日 平和聖日)