2023年10月29日日曜日

永遠のいのち(2023年10月29日 永眠者記念礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 434番 主よ、みもとに





「永遠のいのち」

ヨハネによる福音書3章1~21節

関口 康

イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない。」

今日の礼拝は永眠者記念礼拝です。「永眠者」というのは日本キリスト教団の教会暦の表現ですが、難しい問題を含んでいます。人の死を「眠りにつく」と表現する聖書箇所はあります。たとえば、使徒パウロのコリントの信徒への手紙一15章20節には「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と記されています。

しかし、続く15章31節には「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」と記されていて、亡くなった方は永遠に眠るのではなく、眠りから覚めて復活すると教えていますので、「永眠者」という表現でよいかどうかを熟考する必要が生じます。しかし、「永眠」を「永遠に眠る」ではなく「永く眠る」という意味でとらえれば、目を覚ますときが必ず訪れることを含みますので、大きな矛盾は無くなります。

「召天」という表現については、使うべきかどうか、先日ある方から相談を受けました。この表現にも問題があります。私の知るかぎり30年以上前から議論があります。「天に召された者」という意味で用いられますが、漢文の知識がある人によると「召天」は「天を召す」としか読めない、というのが「召天」という表現を使うべきでないとする理由のひとつです。聖書で「天」は「神」の言い換え表現で用いることが多いので、「神を呼びつける者」という意味になってしまうというわけです。

しかし、主にプロテスタント教会が用いてきた「永眠」や「召天」、またカトリック教会では「帰天」という言葉が用いられますが、いずれにせよ意図していることは、人間の死を「一巻の終わり」であるとキリスト教会は考えていないことの意思表明です。わたしたちは、先に召された信仰の先達たちが、神から「永遠の命」を授かり、まさに生きておられることを信じています。そして、あとに続くわたしたちも同じ道を歩んでいると確信しています。

いま私はキリスト教主義学校で聖書科の非常勤講師をしている関係で、週2日の授業の他に月1回、全校生徒1200名が出席する学校礼拝で話す立場にいます。9月の学校礼拝では「永遠の命」について話しました。今はコロナ対策で、学校礼拝で説教者に与えられた時間は3分です。1200人の中高生に3分で「永遠の命」の話をしました。ひとりの生徒が「今日の話よかったです」とほめてくれました。

話した内容まで言わないと消化不良ですが、今日の聖書箇所に触れてからにします。共通する要素があるからです。今日の箇所に登場するのはイエス・キリストと、ニコデモという人です。「ユダヤ人たちの議員であった」(1節)とは、70人の議員と議長・副議長各1名で構成されたユダヤの最高法院(サンヘドリン)の議員であったということです。ニコデモが裕福で、多くの人から尊敬され、地位も名誉もあった人であることは確実です。

そのニコデモが「ある夜」(2節)イエスさまを訪ねて来たというのは、人目につかぬように、夜の暗闇に隠れて来たということです。地上の富に恵まれ、地位や名誉がある人は、かえって逆に、本当の自分をすべての人の前で隠して生きて行かねばならず、寂しさや孤独を感じ、心に飢え渇きを覚えている可能性があります。そのような〝裕福で孤独な人〟の代表として、ニコデモが登場します。

そのニコデモにイエスさまが「神の国に入る」とはどういうことか(3節以下)、また「永遠の命を得る」とはどういうことか(16節以下)をお教えになるのが、今日の箇所の流れです。聖書で「天」は「神」の言い換え表現として用いられると先ほど言いました。ここでも同じことが言えます。「天国」と「神の国」は同義語です。そして「永遠の命を得ること」とも同義語です。「永遠の命」は「天国で生きていること」以外の何を意味するでしょうか。ですから、イエスさまのみことばの要点は次の3点ですが、どれも同じ意味であると考えることが可能です。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」(3節)。

「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(5節)。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。

「新たに生まれる」の意味が、母の胎内に戻って生まれ直すことではないということは、ニコデモとイエスさまの対話から分かります(4節以下)。「新たに生まれる」とは「水と霊によって生まれること」(5節)であると言われます。その意味は、キリスト教会の伝統においては「洗礼を受けること」です。しかし、そのように教会が説明しますと大きな反発が返ってきます。「要するに『洗礼を受けていない人は天国に行けない』という意味か。それはキリスト教の独善ではないか」と。

先ほど途中までお話ししたことの続きをお話しします。私が学校礼拝で「永遠の命」について3分で話したことの内容です。それは2009年から2010年にかけてアメリカで制作された「人類滅亡 Life after people」という映像作品の話でした。それは、もし突然全世界から全人類が消滅したら、その後世界はどうなっていくかを検証する科学的ドキュメンタリー作品でした。

それによると、現在はピラミッドから博物館へと保管場所が移動している古代エジプト王のミイラも、マイナス196度に保たれた液体窒素で氷漬けにされている人の体も、冷凍保存されている何十万個もの人間の受精卵も、保管施設を管理する人がいなくなれば結局いつかは腐敗して消えてしまう、つまり「永遠の命」を得ることにならないというのです。結局は人の助けが必要で、自分の体やDNAの保存をしてくれる人たちが死のうが生きようが、ミイラや氷漬けの人は知る由もないというわけです。

それで、私は全校生徒に問いかけました。「みなさんは『永遠の命』が欲しいですか。他の人のことなどどうでもいい、自分だけ生き残りたいと願うよりも、目の前にいる人、大切な人、困っている人を助けるほうが先ではないですかと、イエスさまが教えておられるのではないですか」と。

その「人類滅亡 Life after people」という作品で紹介される冷凍人間やクローン技術とその限界の問題は、今日の箇所のニコデモの質問に通じるところがあります。「母の胎から生まれ直す」ことは、生物学的な「延命」以上ではなく、「永遠の命」ではありえないからです。「延命」というのは、結局のところ裕福な人だけにしか実現できないので、ニコデモの願いの中に含まれていた可能性があります。イエスさまはニコデモの心を見抜いて、先回りして言われたのです。

「水と霊とによって生まれること」すなわち「洗礼を受ける」とは、教会の仲間に加わることを意味します。ここは教会なので、そう言わせてください。しかし、「教会」とは「イエス・キリストの体」であり、神が独り子イエス・キリストの命をお与えになったほどに愛された「世」の「一人も滅びない」道を開くために、御子を信じる信仰をもって生きる者たちの場を神が作り出してくださったものです。

教会には「目の前にいる人、大切な人、困っている人」がいます。お互いを大切にする訓練を教会で受けることができます。〝孤独で寂しい〟と感じておられる方は、ぜひ教会の仲間、助け合いの仲間に加わってください。教会でこそ、真の意味の「永遠の命」を得ることができます。

(2023年10月29日 永眠者記念礼拝)

2023年10月15日日曜日

信徒の成長(2023年10月15日 信徒伝道週間)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 504番 主よ、み手もて

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「信徒の成長」

フィリピの信徒への手紙1章1~11節

関口 康

「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」

今日は日本キリスト教団の定める「信徒伝道週間」の初日にあたり、お2人の教会員の証しを伺いました。ご準備くださったお2人に心から感謝申し上げます。

今日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までです。この手紙は使徒パウロが書いたものです。今日の箇所に記されているのは、パウロがフィリピの信徒のためにささげた祈りの言葉(9~11節)と、その祈りをささげた理由(3~8節)です。

パウロはフィリピの教会のみんなのことを思い出すたびに、神に感謝し、喜びをもって祈っていると言います(3~4節)。なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっているからだと言います(5節)。

「最初の日」(5節)の意味は、パウロとフィリピ教会が最初に出会った日を指していません。その意味で受け取ると、私パウロと出会ったことで初めてあなたがたがイエス・キリストの福音を受け入れることができた、その日から今日に至るまで、ということにならざるをえませんので、まるでパウロの伝道者としての個人的な力量について書いているかのように読めてしまいます。

「福音」は宣べ伝えられた途端に伝道者の手を離れます。また、手を離さなければなりません。伝道者は「福音」そのものが持つ力を信頼し、「自分が宣べ伝えた、自分が教えた」という思いを捨て、教会の信徒を自分の支配から解放しなければなりません。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)の「その方」は、神です。福音宣教の主体は、神です。神はご自身が始めたことを最後まで成し遂げてくださり、完成してくださる方であるとパウロは言っています。パウロが始めたことをパウロが完成するわけではありません。

12節の「福音の前進」も、私パウロが福音を前進させた、という意味ではないし、あなたがたフィリピ教会に連なるみんなが福音を前進させた、という意味でもありません。福音それ自体が、自らの力で前進した、という意味です。福音そのものに躍動的な意志がある、ということです。

いま申し上げていることは、私が声を大にして言わなくても、比較的長いあいだ、教会生活、信仰生活を続けて来られた方々はよくご存じです。自分自身のことを振り返っても、家族や友人、教会の中で出会った方々のことを思い返しても、たとえば、教会が立てた伝道目標として、毎年何人を教会に招き、受洗者を何人生むかを決めて、その通りになったことがあったでしょうか。仮にあったとして、教会が計画通りに右肩上がりに教勢を拡大し、財政的にも潤い、社会的にも大きな影響を及ぼすようになっていく、というようなことが、どれほど続いたでしょうか。

もし続いていないのであれば、それはわたしたち人間の失敗でしょうか。「偉大でない」伝道者の力量不足が教会衰退の原因でしょうか。そのようなことを教会の中で言い争うこと自体が教会衰退の原因かもしれないと、手を胸に当てて考えてみることには、意味があるかもしれません。

パウロの祈りは9節以下です。注目すべき言葉は「あなたがたが清い者、とがめられるところのない者になるように」(9節)です。「清い者」と「とがめられるところのない者」はニュアンスが違います。前者は内面の状態を指し、後者は目に見える外面の状態を指します。「ひたむきに神を求めること」と「非の打ちどころのない生活を送ること」です。それが「知る力と見抜く力を身に着けて、愛がますます豊かになった」(9節)状態を指していることは明らかです。

これで分かることは、パウロは、イエス・キリストの福音は、信じて歩む人間の性質に内面的にも外面的にも変化をもたらすと信じているということです。信徒は福音と出会った最初の状態のままにとどまりません。人間としての性質が善きものへと変化し、成長します。それがパウロの信仰であり、代々の教会の教えです。「聖化」(sanctification)と言います。

このように言うと、教会の内からも外からも非難の声があがります。教会の外からは「それはキリスト者の傲慢である」とか「教会に通っている人より通っていない人のほうがはるかに誠実で高潔な生活を送っている」と。

教会の内からは、今日の箇所の「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて」の意味はあくまで「キリストの義」であって「人間の義」ではない。人間にはキリストの義が転嫁されるに過ぎず、人間はどこまでも罪人であり続ける、と。

教会の外からの非難については、私たち教会の反省材料として甘んじて受けるほかありません。しかし、教会の中の我々は、今日の箇所の「義の実」の意味を過小評価すべきではありません。たとえば、「日本基督教団信仰告白」(1954年制定)の「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」は、今日の箇所が典拠です。

「実」(英語のフルーツ)は、キリストの義が人間へと転嫁された「結果」を指します。原因と結果を混同してはいけません。「結果」は、聖霊(「聖霊」は「神」です)によって「与えられる」ものですが、聖霊の働きにおいては、人間の意志と主体性が排除されないことが重要です。

「あふれるほどに受けて」は新共同訳(1987年)ですが、以前の口語訳(1954年)でも、最新の聖書協会共同訳(2018年)でも「満たされて」と訳されています。新共同訳のように「受けて」と訳すほうが人間の主体性を後退させて、神の主体性と恩恵の一方性を強調することができますが、それではパウロの意図に反します。「知る」のも「見抜く」のも、「愛する」のも、「清い者となる」のも「とがめられるところのない者」となるのも、すべて人間が主体だからです。

人間の意志も感情も主体性も奪われて、まるで夢にうなされているかのように「させられる」のではありません。わたしたちの身代わりにイエス・キリストが「知り」「見抜き」「愛し」「清い者となり」「とがめられるところのない者になってくださった」のであって、私たち人間自身には何の変化もないと、パウロは言っていませんし、考えてもいません。

「キリストの義」が転嫁された結果としての「実」(フルーツ)は、人間の側の主体的な行動の変化です。それもまた十分な意味で神の恵みです。人間が自分の努力で自分をつくりかえることはできません。神の導きと助けなしに自分の力で成長したと言い張るなら、傲慢のきわみです。またそれは事実ではありません。しかし、教会に何年、何十年と通っても、何の変化も無かったというのであれば、それはそれで寂しいことだと言わざるをえません。

「決してそうではない」ということを、今日証しをしてくださったお2人が教えてくださったと信じます。「この教会に通って良かった」とわたしたち自身が心から思えるような教会を、神の導きと助けのもとに、共に作り上げていくことを祈ろうではありませんか。

(2023年10月15日 聖日礼拝)

2023年10月8日日曜日

弱さへのいたわり(2023年10月8日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 197番 ああ、主のひとみ


「弱さへのいたわり」

フィレモンへの手紙 8~22節

関口 康

「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる人としても、愛する兄弟であるはずです。」

今日はフィレモンへの手紙を開きました。使徒パウロの手紙です。しかし、他の手紙とは性質が違います。ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙といった、教会に宛てて書かれ、多くの人が目にすることを前提して書かれたものではありません。きわめて個人的な性格を持ち、厳格に言えばこの手紙が公開されるのは守秘義務違反ではないかと言いたいほど「デリケートな」内容を含んでいます。しかし、2千年前の「事件」は時効です。そして、この手紙こそ、パウロの「人となり」と「熱い思い」がよく表れているものです。

フィレモンはコロサイにいたと考えられます。コロサイは現在のトルコの町です。「アフィア」(2節)はコロサイから出土した墓碑に名が刻まれているそうですが、フィレモンの妻の名前としてよいだろうと言われています(P. シュトゥールマッハー)。

フィレモンは裕福な人で、広い家を持ち、その家が教会(家の教会)となり、その教会の牧師だったと考えられます。そのフィレモンの家に「オネシモ」という名の奴隷がいました。この点は2千年前の話として我慢して読まざるをえません。奴隷制度をパウロは否定もしていません。

しかし、そのオネシモがフィレモンの家で働いているうちに、そこは「家の教会」でもあったのでイエス・キリストの福音に接するようになり、その影響で、自分はもっと自由であるべきだと考え始めたようです。しかも、当時多くのキリスト者から尊敬されていたパウロがコロサイにいるという情報をオネシモが手に入れ、パウロのもとに行きたいという願いを持ちました。

それでオネシモは、主人のフィレモンに黙って家から逃亡したようです。しかし、奴隷である以上、奴隷を購入した主人から逃げること自体が主人の損失ですし、それだけでなく、オネシモはフィレモンの家から逃亡する際に金品の持ち逃げのようなことをしたようです。盗みを働いた、ということです。

いま私は「ようです」とか「考えられます」という言葉を繰り返していますが、私の想像ではなく、この手紙の研究者が書いていることをまとめています。ただし、想像の域は越えません。

この手紙は「デリケート」な問題を扱っていると、先ほど申し上げました。パウロは牧師です。フィレモンも牧師です。つまり、この手紙は牧師同士のやりとりです。教会の中で口にできないトップシークレットの手紙です。しかし、この手紙を読むと分かることは、たとえ極秘の手紙の中であっても、パウロはオネシモがしたことについての描写においてかなり言葉を選んでいるということです。わたしたちとしては言葉の端々に基づいて当時の状況を想像するしかありません。

しかし、それこそパウロの「人となり」だったと言えます。オネシモ本人がいないところでは犯行内容を克明に暴露し、口汚く罵るような使い分けをしていません。ただし、ひとつの可能性として、この手紙をオネシモは読んだかもしれません。そう言える理由を後で言います。

話を戻します。オネシモがフィレモンの家から逃げてパウロのところに来たことで、パウロが喜んだかというと、必ずしもそうでなかったというのがオネシモの誤算でした。2点あります。

ひとつは、オネシモとしては自分が奴隷であることを憎み、自由を求めてフィレモンの家から逃亡してパウロのもとに行ったつもりだったのに、そのパウロ自身が捕らわれの身であることが分かったという点です。当時の囚人は、今ほど世間から隔絶された閉鎖状態に置かれていませんでしたが、パウロがオネシモにできることは、ほとんど何もありませんでした。

もうひとつが、パウロとしては、オネシモがフィレモンの家の奴隷であることを続けるほうがオネシモにとって善いことなので、元いたところに帰るべきだと考えたようです。パウロがなぜそのように考えたのかははっきりとは記されていませんが、奴隷であることには嫌な面やつらい面があるとしても、フィレモンの家は「教会」なので、教会の中でのキリスト者としての奉仕において、神の前での自由と平等を味わうことができる、と言いたかったのではないでしょうか。

「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(16節)とパウロがフィレモンに迫っています。

別の言い方をすれば、オネシモとパウロの出会いは、全く無駄だったわけではなかったということです。無駄どころか素晴らしい出会いとなりました。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(10節)とあるのは、信仰上の親子関係の意味であって、血縁関係ではありません。オネシモはパウロのもとでイエス・キリストへの信仰を告白してキリスト者になりました。それがオネシモとしても、パウロとしても、2人の出会いの最大の収穫でした。

それで、パウロはこの手紙をフィレモンに書き送った次第です。この手紙の主旨は、あなたの家から逃げたオネシモを赦してもう一度受け入れてほしいと説得することです。ひとつの可能性は、この手紙はオネシモがフィレモンの家に到着したときに添えられていたもので、フィレモンとオネシモがいる前で読まれたものではないかということです。「あとで申します」と言った点はこれです。この手紙にオネシモの犯行内容が詳細に暴露されていないのは、オネシモ自身が読む可能性があったからかもしれません。パウロはオネシモを傷つけたくないのです。

興味深い解説を読みましたのでご紹介いたします。「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」(11節)で「役に立たない(無用な)」(アクレストス)と「役立つ(有用な)」(エウクレストス)が語呂合わせで、要するにダジャレであるというのです。しかも、オネシモという名前が「役立つ者」という意味だそうで、そのオネシモ(役立つ者)が「役立たない者」だったのに「役立つ者」になったというのはパウロが場を和ませるためのジョークを言っている、というのです。

そしてパウロは、オネシモがフィレモンの家から逃げたことで発生した損害ばかりか、盗みを働いた分まで、すべてわたしが肩代わりして弁償しますと言い出します(18~19節)。パウロは「年老いて」いる(老人である)(9節)と自分で書いています。若い人や困っている人を信仰的に励ますだけでなく、物質的・金銭的に支援することは年長者の役目であると考えているようでもあります。今日の宣教題「弱さへのいたわり」に直接つながるのは、この部分です。

しかもパウロは、フィレモンが若い人だったようで、少しばかり威嚇する言い方を混ぜているのも興味深い点です。「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう」(19節)の意味は、わたしこそあなたをキリスト教信仰へと導いた恩師なのだから、言うことを聞きなさい、ということです。これもユーモアです。信頼関係があるからこそ言えることです。

しかめ面ではなく、笑顔と安心を保てることが教会の良さだとしたら、ユーモアは大事です。

(2023年10月8日 聖日礼拝)

2023年10月1日日曜日

豊かさと貧しさ(2023年10月1日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 518番 主にありてぞ



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「豊かさと貧しさ」

ルカによる福音書16章19~31節

関口 康

「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」

今日の聖書箇所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。登場する人物は3人です。

ひとりは「ある金持ち」です。名前は明かされません。西暦3世紀のエジプトの写本では名前が付けられていますが、後代の加筆です。名前がないことに意味があると考えるほうがよいです。名前があるとこの人物の言動が他人事になるからです。イエスさまの意図はむしろ、この金持ちは自分のことだと、自分に当てはめて受け取るように、聴衆(読者)に求めることにあります。

2人目には「ラザロ」という名があります。多くの方はヨハネによる福音書11章に登場するマルタとマリアの弟のラザロを思い出されるでしょう。しかし、今日の箇所のラザロは架空の人物です。とはいえ、大事な点があります。イエスさまのたとえ話の中で名前がある登場人物は、今日の箇所のラザロだけです。また、ラザロという名前は、ヘブライ語で「神が助ける」という意味の「エルアザール」をラテン語化したものです。この名前に大きな意味があると考えることができます。

3人目はアブラハムです。ユダヤ人の先祖です。しかし、アブラハムは血縁としてのユダヤ民族の父であるだけでなく、使徒パウロがローマの信徒への手紙4章で詳しく論じているとおり、キリスト者にとっての信仰の父でもあります。ただし、今日の箇所でアブラハムはやはりイエスさまのたとえ話の中に登場しているにすぎません。しかも、登場場面は死後の世界です。

「ある金持ち」は「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)とあります。「紫の布」は上着で、「麻布」は下着。上下とも高価な衣服を身に着けていた、という意味です。「ぜいたくに遊び暮らす」は毎日宴会を開いていた、という意味です。

金持ちの門前に「ラザロ」が横たわっていました。「できものだらけ」と訳されているのは医学用語で「ただれ」という意味です。ラザロが金持ちの門前にいた理由は「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」(21節)からです。ただし、書いてある通りに理解すべきなのは、ラザロはその家の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと「思っていた」だけで、実際には、食卓から落ちる物すらもラザロの口に入るものはなかった、ということです。

しかも、当時の金持ちは、自分の(汚れた)手を拭くためにパンの切れ端を使い、使用後は食卓の下に投げ落としていたそうですので、「食卓から落ちる物」の中にそれが含まれている、と考えることができます(J. エレミアス)。「犬もやって来ては、そのできものをなめた」(21節)とあるのは、当時のユダヤ人にとって「犬」が不浄な動物と考えられていたことと関係あります。

ラザロの苦痛は肉体的にも精神的にも激しかったに違いありません。しかし、彼の口からの苦情については何も言及されていません。金持ちは自分の家の門前に横たわっている人がいることを知っていましたし、その名が「ラザロ」であることも知っていましたが、何も与えず、何もしませんでした。

そして、2人の人生が終わりました。ラザロは「神が助ける」という名前にふさわしく「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」ました(22節)。天国です。「アブラハムのすぐそば」(アブラハムの胸)はユダヤ人にとって最高の名誉ある場所です。そこは涼しいそうです。

「金持ちも死んで葬られ」ました(22節)。ラザロは「葬られた」と記されていませんので、葬儀はなかったかもしれません。金持ちのほうは葬儀が行われましたが、行き先は「陰府(よみ)」(ハデス)でした。いわゆる死後の世界です。ただし、このたとえ話において「陰府」は中間状態を指しています。最後の審判の判決が下る前の「未決」(pending)の状態の人々が置かれる場所です。

陰府の金持ちから、アブラハムのすぐそばのラザロの姿が見えたそうです。ただし、「はるかかなたに」(23節)とあるとおり、距離が遠い。それで「大声で」、金持ちがアブラハムに「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と(24節)と言う。

丁寧な言い方をしているようですが、ラザロに対してはもちろんアブラハムに対しても事実上命令しています。金持ちの習性かもしれません。彼が「ラザロ」の名前を知っているのは、ある意味で驚きです。ラザロが自分の家の前にいたのだから名前を知っていて当然かもしれませんが、生前のラザロに対して何もせず、見て見ぬふりしていました。自分が陰府の業火で苦しんでいるときだけ、ラザロの名前を呼び、しかも、自分に仕えさせようとする。そうするようにラザロに言ってほしいとアブラハムに依願するような言い方で、アブラハムに対しても事実上命令する。

この傲慢な金持ちに対するアブラハムの対応はとても冷静で公平でした。天において報いを受けるのはラザロであってあなたではないということを、この金持ちに明確に示しました。そもそもの前提として、この人が金持ちだったのは地上の人生においてだけで、死後は無一文です。死んだ後まで貧富の差は無いし、財産争いもありません。そういうのはすべて地上の事柄です。

金持ちとアブラハムの対話の中で特に大事な点は、金持ちが、自分が陰府(ハデス)の火で焼かれても仕方ないほどひどい仕打ちをラザロにしたことを認め、自分の救いは断念したうえで、まだ生きている5人の兄弟たちには「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28節)とアブラハムにお願いしたとき、アブラハムが「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)と答えているところです。

「モーセと預言者」とは、わたしたちの呼び方では「旧約聖書」のことです。「モーセ五書」と呼ばれる創世記から申命記までが、ユダヤ教の聖書の第1部「律法」(トーラー)です。そしてユダヤ教の聖書の第2部が「預言者」(ネビイーム)、第3部が「諸書」(ケトゥビーム)です。ここで「モーセと預言者」はトーラーとネビイームを指しています。

「彼らに耳を傾けるがよい」(29節)とアブラハムが答えたと、イエスさまがおっしゃっている、という点を忘れないようにしましょう。これはイエスさま御自身の教えです。わたしたちは律法主義を避ける勢いで、律法を否定する危険があります。自分は贅沢三昧で、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するような人生を送らないために旧約聖書の律法が役に立つことをイエスさまが教えておられます。

イエスさまはマタイ福音書の「山上の説教」では「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5章3節)とおっしゃっていますが、ルカ福音書の「地上の説教」では「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6章20節)とおっしゃっています。後者は明らかに物質的な貧困を指しています。「貧しさ」自体は「悪いもの」と今日の箇所(ルカ16章25節)で呼ばれています。しかし貧しい人を「神が助ける」(エルアザール=ラザロ)と信じることができるのが、わたしたちの信仰です。

助けを求めている人を助けなかった人々が、自分の救いと報いを求めるのは、虫が良い話です。豊かな人々のためにもイエスさまは死んでくださいました。しかし、それを免罪符にして贅沢三昧を続け、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するのがキリスト教なのかと自問することが求められています。

(2023年10月1日 聖日礼拝)

2023年9月17日日曜日

愛はすべてを完成させるきずな(2023年9月17日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 520番 真実に清く生きたい

礼拝開始チャイム

「愛はすべてを完成させるきずな」

コロサイの信徒への手紙3章12~17節

関口 康

「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」

コロサイの信徒への手紙3章12節から17節を開いていただきました。最初に申し上げたいことは、今日の箇所に限らず、コロサイの信徒への手紙の全体に書かれていることはすべて「教会」に関することであり、しかも具体的な現実としての「キリスト者同士の交わりとしての教会」のあり方に関することである、ということです。

16節以下に「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と記されています。「キリストの言葉」とは聖書に基づく説教を指していると言いたいところですが、この手紙が書かれた当時は「新約聖書」は存在せず、あったのは「旧約聖書」だけでした。

しかし、イエス・キリストが多くの人々の前で、または12人の使徒たちの前でお語りになった言葉は口づてに、または文書として教会に伝えられていました。それがなければ、その後の教会が「新約聖書」をまとめることはできませんでした。教会は「新約聖書」の成立以前からイエス・キリストの言葉を知っていました。

その言葉が「あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と勧められているのは聖書の知識を増やすべきだということではなく、イエス・キリストにおいて現わされた神の御心があたかも自分自身の心になったかのように自分のからだと心に浸透させ、現実生活を御言葉通りに生きてみる、という意味です。

また、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」とあるのは教会の具体的な交わりそのものです。「互いに教え」の「互いに」や、「諭し合い」の「合い」が大切です。一方通行ではなく相互関係です。教会はミーティングであり、コミュニケーションが交わされます。それが大事です。

過去3年、コロナ禍で教会の最も大事な要素であるミーティングとコミュニケーションが破壊された感がありました。全世界の教会が同じ状況でした。インターネットのやりとりでも十分に代用できると私個人は考えたことがありませんし、考えることができません。全く別物です。

そして「詩編と賛歌と霊的な歌によって神をほめたたえる」のが教会です。讃美歌を歌うことは教会の存在にかかわります。祈りを込めて共に歌う人々の具体的な交わりこそ教会の存在そのものであるという理解は、西暦1世紀から今日まで、なんと2千年以上も引き継がれています。

16節と17節についての説明を先にしました。12節以下に記されているのは、教会の中の具体的な人間関係のあり方についてです。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と記されています。

これを読むと心配になる方がおられるとしたら、ご心配には及びませんと申し上げたいです。「身に着けなさい」と言われている「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」はすべて、イエス・キリストが持っておられます。「あなたがたは神に選ばれ、聖なるものとされ、愛されている」は、直前の11節の「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」と結びつけて考えるべきです。

その意味は、キリストはすでにわたしたちの中におられるので、わたしたちがこれから無理をしてでも努力して得ようとする以前から、キリストの恵みはわたしたちの中へと注がれ、宿っているのであって、「身に着けなさい」と確かに言われているが、実際にはすでに身に着いているし、少なくとも身に着きはじめているので、「私には憐れみの心も慈愛も謙遜も柔和も寛容もないし、得ようと努力する忍耐もない」と嘆いたり卑下したりする必要は全くない、ということです。

この箇所で私にとって特に興味深く考えさせられたのは「憐れみの心」と訳されている言葉の意味です。カール・バルト(Karl Barth [1886-1968])が興味深い解説をしていました。

バルトによると、「神の愛と神の恵みは数学的で機械的な関係ではなく、神の心の動きの中にその本来な場所と起源を持っている」のであり、「人格的な神は心を持っておられ、神は感情を持っておられ、心を動かされる」のであり、「他のものに対して、同情し、他のものの苦しみを助け、みずから身代わりとなるべく心を開き、用意し、進んでそのように心がけておられる」のであり、それが「神の憐れみ」の意味であるということです。

しかも、「憐れみの心」というギリシア語の言葉のヘブライ語の原意は「はらわた(内臓)」であるということを、バルトも書いています。聖書の神は、機械仕掛けの神(Deus ex machina)ではなく人格的(パーソナル)な存在であり、神は心を持ち、苦しんだり痛んだりする「はらわた(内臓)」を持ち、人間と世界を愛するために苦しむ方であるというのが「神の憐れみ」の意味だというのがバルトの説明です(Vgl. Karl Barth, Die Kirchliche Dogmatik, II/2, S. 416 f.)。

なるほどたしかに、私たちは人間ですから、どこまで行っても神になることもキリストになることもできません。神とキリストが持っておられる「憐れみの心」や「慈愛、謙遜、柔和、平和、寛容」を「身に着けなさい」とか言われても無理です。それはそのとおりです。しかし、それは「身に着ける」という言葉を自分の努力目標であるかのような意味でとらえるから出てくる反発や不安なのであり、実際の意味はそうではない、ということです。

すべてのもののうちにキリストがすでにおられ、わたしたちの中にもキリストはおられるのだから、意図的に猛然と拒否しないかぎり、「憐れみの心」はわたしたちの心の中に生まれ、育ち、わたしたちはそのようにして内部からつくり変えられているのだ、と信じてよいということです。ですから、「身に着けなさい」とは「すでに身に着きはじめているし、十分に身に着いて来ていることを感謝して受け取りなさい」という意味です。

今日の宣教題と今週の聖句として選んだ「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです」も趣旨は同じです。この「愛」はイエス・キリスト自身であり、十字架において現わされた真実の犠牲の愛です。人間が生まれつき持っている情愛とは別物です。

「私には愛がない」と嘆くか、「あの人には愛がない」「あの教会には愛がない」と不満を言うか、どちらにせよその意味で14節をとらえ、完全な愛を身に着ける努力をしたり、「身に着けてください」と他人に要求することに用いてはいけません。むしろヨハネによる福音書13章34節のイエス・キリストの言葉を思い起こすべきです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

わたしたちはイエス・キリストに愛されているから、互いに愛し合うことができるようになるのです。すべてを完成させるきずなは、イエス・キリストの愛と憐れみの心(はらわた(内臓))です。わたしたちのために心を動かし、はらわたを痛め、苦しんでくださるほどにわたしたちを愛してくださったイエス・キリストの愛が、教会の一致と平和をもたらすきずなです。

(2023年9月17日 聖日礼拝)

2023年9月10日日曜日

十字架を背負う教会(2023年9月10日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)



讃美歌21 430番 とびらの外に

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「十字架を背負う教会」

ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

関口 康

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」

先週は夏期休暇を取らせていただき、別の教会の礼拝に出席させていただきました。どの教会に行くか考えていたとき■さんのお怪我の話を伺い、にじのいえ信愛荘でも聖日礼拝が行われているので、ご出席なさってはと、おすすめをいただきました。

そうしようと思い、にじのいえ信愛荘に電話したところ、■先生ご夫妻は療養のため別のところにおられると教えていただきましたので断念し、別の教会に出席しました。

「のんびりできたか」とお尋ねがありましたが、あまり休めませんでした。文句を言っているわけではありません。私が行った教会の牧師もずいぶん疲れておられる様子で、私も同じだなと、いろいろ考えさせられる機会になりました。

今日開いていただいた聖書の箇所は、これも日本キリスト教団聖書日課に基づいて選びました。聖書日課には「十字架を背負う」とだけ書かれていましたが、私が「教会」という言葉を加えて「十字架を背負う教会」としました。

この箇所は使徒パウロが書いたガラテヤの信徒への手紙の結びの部分です。「パウロが書いた」と言ったばかりですが、11節の意味は、パウロ自身が自分の手で書いた部分は今日の箇所だけだということです。「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」というのは、この箇所より前の部分は別の人に書いてもらっていた、という意味です。

つまり口述筆記です。パウロが口で話すことを書記役の人に書いてもらっていました。しかし、手紙の最後の部分だけは自筆で書きます、しかも大きな字で書きますというのは、手紙ですから「声を大にして言う」ことはできませんが、これだけは分かってほしいと、パウロが強調したい内容を書いた部分であるという意味です。

パウロは何をそれほど強調したがっているのかといえば、ひと言でいえば、教会の中に分裂が起こっているが、それを食い止めなければならないということです。12節の「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」というのが、教会の分裂の原因です。この問題はガラテヤの信徒への手紙の始めから終わりまで一貫して取り上げられているものです。事件の経緯が比較的詳しく記されているのは2章ですので、ぜひお読みください。

そこに書かれていることを短く言えば、この手紙で「ケファ」と呼ばれている使徒ペトロまでがイエス・キリストの十字架の福音を信じて律法の束縛から全く解放されて自由になったはずのキリスト者にユダヤ教の割礼を受けさせようとする勢力に負けて妥協していることに、パウロが我慢できず、ペトロ本人に面と向かって抗議した、というのです。

教会の洗礼は「水」を用います。水はかけたら流れ落ちるだけで、からだに証拠は残りません。しかし、割礼はからだに傷をつけることですから、動かぬ証拠が残ります。旧約聖書に基づいているので権威が生じますし、いわゆる包茎手術と同じですので、相応の費用がかかったはずです。そういうことで優越感と主導権と実利を得ようとした人々がいました。

私の教会生活は生まれたときからなので、もうすぐ58年になります。24歳で伝道師になってからも33年目です。そのことで悩んだことまではありませんが、キリスト者であることについて、目に見える客観的な「証拠」や「しるし」を求める人々のニードに、何度となく接してきました。

揶揄したいわけではないので、具体例を挙げること自体に躊躇がありますが、何も言わないと分かりにくいので例を挙げます。たとえば、仏教や神道にあるような仏壇や神棚のようなものがキリスト教には無いのか、というようなニードです。あるいは、カトリック教会の人々が用いるロザリオやベールのようなものはあなたがた(日本キリスト教団はプロテスタントです)に無いのか、というようなニードです。「ありません」と答えると、とても残念がられました。

いま申し上げていることは、パウロが直面した問題と本質的に同じです。この手紙の5章6節に「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と記されていることの意味は、わたしたちキリスト者には第三者の目に見える客観的な「しるし」や動かぬ「証拠」となる割礼のようなものは何も無いし、要らないし、有害無益なのであって、外側からは決して見えない心の中の信仰だけが必要である、ということです。

なぜそういうものが何も無いし、要らないし、有害無益なのかといえば、そのような「しるし」を持っているかどうかで争いが始まり、教会を分裂させるからです。それを持っている人たちは持っていない人たちを見下げてもよいと思い込んで威張り、押し付けたり売りつけたりしようとするからです。西暦1世紀の生まれたばかりの赤ちゃんのようなヨチヨチ歩きの小さな教会の中で主導権争いが始まり、コップの中の嵐が起こり、教会が分裂して弱くなり、イエス・キリストの福音を宣べ伝える、教会本来の使命を果たすことができなくなるからです。

パウロは言います、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(14節)。

この言葉は正確に理解される必要があります。特に後半の「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている」の意味は何かをよく考えることが大切です。

「はりつけにされる」の意味は、死ぬこと、または殺されることです。しかし、「この十字架によって」が「イエス・キリストの十字架」を指していることは明らかですので、イエス・キリストの十字架にわたしまではりつけにされるという意味ではありません。ここに書かれているとおり「世がわたしにはりつけにされている」のであり、「わたしが世にはりつけにされている」という意味です。その意味は、わたしと世とは「死んだ」関係であり、つまり「終わった」関係である、ということです。わたしが「世」のマナーやルールに従う理由はもはやない、ということです。

「世」とは現代の世俗社会(Secular society)よりも広い意味です。しかし、かなり近い意味です。教会の中にまで持ち込まれる「心の中の信仰」だけでは足りないとする、目に見える客観的な動かぬ「証拠」を見せつけてまで主導権争いをしようとする人の動きそのものが「世」です。

「イエス・キリストの十字架以外に誇るものがあってはならない」とは、そのような争いとは一切手を切って生きる者に自分はされた、というパウロの信仰告白です。

パウロだけでしょうか。わたしたち「教会」もそうでなければならないのではないでしょうか。私が今日の宣教題に「教会」と付け加えたのは、そのことを申し上げたかったからです。

(2023年9月10日 聖日礼拝)

2023年8月27日日曜日

栄光は主にあれ(2023年8月27日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 280番 馬槽の中に

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「栄光は主にあれ」

ローマの信徒への手紙14章1~10節

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」

(2023年8月27日 聖日礼拝)




2023年8月20日日曜日

信仰と実践(2023年8月20日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 493番 いつくしみ深い


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「信仰と実践」

ヤコブの手紙1章19~27節

関口 康

 「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」

(2023年8月20日 聖日礼拝)


2023年8月13日日曜日

心の支えがあるか(2023年8月13日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 484番 主われを愛す

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「心の支えがあるか」

テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節

「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来たるべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」

今日の聖書の箇所は、使徒パウロのテサロニケの信徒への手紙一1章1節から10節までです。この手紙はパウロがキリスト教の伝道者としての生涯の最も早い時期に書いたものです。

この手紙の趣旨は、はっきりしています。パウロにとってテサロニケ教会は、いわば自分自身にとっての命の恩人たちであり、思い返すたびに感謝の思いを抱いていたので、その思いを言葉にしてテサロニケ教会の人々になんとかして伝えようとしている、ということです。

言い方を換えれば、テサロニケ教会の存在は伝道者パウロにとっての「心の支え」だったとも言えます。その教会を思い起こすたびに感謝があふれてくるというのですから。人生の中でそういう教会に出会えた人は幸いです。

自分の「心の支え」が教会でなければならないことはありません。家族や友人が「心の支え」であるという方もおられるでしょうし、学校や会社がそうだという方も、動物や自然がそうだという方も、哲学や趣味がそうだという方もおられるでしょう。しかし、教会の存在が「心の支え」である方々もおられる、というくらいで止めておきます。人の考え方や感じ方は自由ですので。

キリスト者の「心の支え」が「神」であり「イエス・キリスト」であることは、そうだと言われればそのとおりです。しかしまた、地上に現実に存在する/した特定の教会と、その教会に集うキリスト者たちの存在が「心の支え」であると言ってはならないわけではありません。使徒信条の「われは教会を信ず」という信仰箇条を思い起こすべきです。しょせん教会は人間の集まりにすぎない。人間に頼ると裏切られる。神とキリストだけを頼りにするのがキリスト者であって、教会は信仰の対象ではないという考えは、退けられるべきです。

ただし、いま申し上げたことは教会によるところがあります。パウロにしても、すべての教会に対して同じことを言えたわけではありません。きわめて厳しい言葉で非難しなければならない教会がパウロにもありました。たとえばコリント教会です。内部に道徳的な腐敗が発生し、混乱と分裂をきわめていました。あるいはガラテヤ教会。パウロも激昂して「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(ガラテヤ3章1節)とまで書いています。テサロニケ教会はコリント教会やガラテヤ教会のようでなかった。だからパウロの「心の支え」になったということは考えてよいでしょう。相対評価には残酷な面があります。しかし、地上の教会は複数あります。「この教会」と「あの教会」を比較してどちらがよいかと考えることを止めることはできないでしょう。

テサロニケ教会がどういう教会だったかについてパウロが書いている言葉には、美しい響きがあります。3節がそれです。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。

ここでパウロは「信仰、愛、希望」という順で書いています。希望と愛を入れ替えて、「信仰、希望、愛」という順に並べ替えるとパウロの別の手紙の一節を思い起こされる方が多いでしょう。コリントの信徒への手紙一13章13節です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。

パウロが「信仰、希望、愛」の三つを一組にして書いた手紙はまだあります。ガラテヤの信徒への手紙です。この手紙もパウロが若い頃に書いたものです。5章5~6節に「信仰、希望、愛」の三つが出てきます。「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。

ここで大事なことは、テサロニケの信徒への手紙一とガラテヤの信徒への手紙はパウロが若い頃の著作であるのに対し、コリントの信徒への手紙一は晩年の作であるということです。これで浮かび上がる可能性は、パウロは若い頃から晩年に至るまで「信仰、希望、愛」の三つを一組にして語ることにおいて一貫していたであろうということです。偶然の一致でなく、パウロが意図的に三つを結び付けたのです。

パウロが説いた「信仰、希望、愛」の三つを「キリスト教の三元徳(さんげんとく)」と言い、特に西暦4世紀に活躍したラテン教父アウグスティヌスが強調したと、高校向けの倫理の教科書に記されています(濱井修・小寺聡他2名著『現代の倫理』山川出版社、2016年、58ページ)。高校の教科書に記されているということは、日本社会で一般教養に属しているということです。

テサロニケ教会の人々と知り合う前のパウロの身に何があったかについては、使徒言行録16章に記されています。エルサレムで行われた使徒会議(使徒言行録15章)終了後の第2回伝道旅行の途中、パウロはテサロニケでしばらく過ごします(同上書17章)。そのテサロニケに行く直前のフィリピでパウロは逮捕・収監されます(同上書16章)。

フィリピで何があったのかといえば、奴隷の少女が占いの商売をさせられていたのをパウロがやめさせました。すると、その少女で商売していた人たちが金もうけできなくなったと激怒し、パウロと同行者シラスを暴力で捕まえて、役人に引き渡して逮捕させる事件に発展しました。

そして、パウロとシラスが牢の中でも讃美歌を歌い、お祈りをするといういつも通りのことをしている最中に地震が起こり、牢の扉がみな開いてしまい、そのことに責任を感じた看守が自害しようとしたとき、パウロが「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」と大声で叫んで食い止め、看守が「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」とパウロたちに尋ね、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答える場面も、フィリピでの出来事です。そのフィリピの次にパウロが訪ねたのがテサロニケでした。

テサロニケでパウロは安心できたかと言うと、そうではありませんでした。またもや騒動です。テサロニケのユダヤ人の集会で「3回の安息日にわたって」聖書を引用しながら、十字架につけられたイエスこそ真のメシアであることをパウロが論証したら何人かの人たちが信じて受け入れました。特に「神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人(パウロとシラス)に従った」(同上書17章4節)という点が重要です。それを見たユダヤ人たちが嫉妬して、暴動を扇動しました。そのときパウロたちの命を救ったのが、テサロニケでイエス・キリストを信じた人々でした。彼らがテサロニケからアテネまで、二人を連れて行ってくれました(同上書17章15節)。その人々がその後、テサロニケ教会の基礎を築きました。

苦労の多い人生の中で、「心の支え」になる教会に出会えた人は幸いです。感覚の問題が含まれますので、強制はできません。自由意志で「自分の教会」を選ぶことが、すべての人に可能です。

(2023年8月13日 聖日礼拝)

2023年8月6日日曜日

悪を憎み、敵を愛せよ(2023年8月6日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌531番 こころのおごとに

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「悪を憎み、敵を愛せよ」

ローマの信徒への手紙12章9~21節

関口 康

「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」

先週予告しましたとおり、今日は日本キリスト教団の定める「平和聖日」です。78年前の1945年8月15日の日本敗戦の日を思い起こし、戦争に反対し、平和を祈るために設けられました。

今日の聖書箇所は、ローマの信徒への手紙12章9節から21節です。全体を詳しく話すことはできません。戦争の問題、平和の問題と直結する言葉を中心に見ていきたいと願っています。

最初に申し上げるのは、この箇所を取り上げるたびに同じ説明をしていることです。ローマの信徒への手紙12章9節「愛には偽りがあってはなりません」から始まり、13章10節「だから、愛は律法を全うするのです」までのすべてが「愛とは何か」をテーマにして書かれた部分であるということです。「愛とは何か」というテーマとは無関係に思える部分があるとしても無関係ではありません。少なくとも著者パウロの中で「愛とは何か」という問いに結びついています。

その点との関係で特に問題になるのは13章1節から7節までの箇所です。この中に登場する「支配者」ないし「権威者」が警察や軍隊を伴う国家権力を指していることは明らかです。そのような存在に「従うべきである」(5節)とパウロは述べています。軍隊のことまでは言及されていませんが、剣をもって悪を取り締まる存在を指していますので警察の存在は肯定されています。

しかし、そのことと「愛とは何か」というテーマとがどのような関係にあるのかを、よく考えなければなりません。パウロが言おうとしていることをまとめれば、警察の存在はわたしたちが愛し合うために必要である、ということになります。

13章3節の言葉が、比較的理解しやすいでしょう。「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい」。

警察を恐れるのは悪事を働いている人たちだけであって、そうでない人たちまで警察を恐れることはないと言い換えれば、よく分かる話になるでしょう。その意味での「悪」は社会的な犯罪行為です。殺人、窃盗、詐欺、偽証、姦淫、性犯罪。その意味での「悪」を「憎む」ことと「神と隣人を愛する」という聖書の教えは一致している、ということになります。

しかし、今の説明で納得していただけるとは思っていません。警察もまた悪事を働くからです。法律の中にも他国から見れば犯罪に加担しているとしか言えないような悪法が存在するからです。法律を決める人々の中にとんでもない悪人がいるからです。そのような人たちに「従いなさい」などと、なぜパウロは言えるのかとお考えになる方々がおられるでしょう。

しかし、矛盾しません。聖書の言葉はすべて「神の存在」を前提しています。権力者はどんな犯罪をいくらおかそうと、だれからも裁かれない絶対不可侵の存在などではなく「神」が鉄槌で打つのです。

権力者はどんな犯罪をおかそうと裁かれることはないというほうが真実であるならば、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12章19節)という教えを受け容れることなど、わたしたちには到底できません。人間は悪事を黙って堪えられるほど忍耐強くないからです。精神と肉体を鍛えても無理です。もし神が復讐してくださらないなら自分で復讐するしかなくなります。そのときこそ問われるのが、私の代わりに悪を倒してくださる「神」を信じる信仰です。

私は抽象的な話をしているつもりはありません。ウクライナ戦争が始まっても、教会で私が何も言わないでいるのは関心がないからではありません。

戦争は、いったん始まればどちらが善で、どちらが悪でと区別できなくなります。他国に届く情報は必ずどちらか一方を利するものです。教会が、あるいはどなたか個人が真実の情報を常に確保できる情報源を持っているなら別ですが、どちらが勝つどちらが負けると、勝負ごとに教会が加担すべきでないと私は考えていますので、教会では何も言わずにいます。

しかし、日本が戦争に直接巻き込まれることになれば話は別です。どのような求人方法になるのか、徴兵なのか志願兵なのかは分かりませんが、いずれにしても兵隊になるのは若者たちです。

そうだと思うので、今は夏休みですが、高校の授業で私はほぼ毎週のように、生徒に戦争反対を訴えています。そのことを生徒たちは知っています。私は教会で言わないでいることを、学校では口を酸っぱくして言っています。

しかし、わたしたちに、今の教会に、何ができるでしょうか。昭島教会に来る前の私のことは、皆さんとは関係ないので言わずに来ました。

2012年の原発再稼働反対官邸前デモにも、2013年の特定秘密保護法反対の国会前デモにも、2015年7月の安保関連法案の国会前デモにも、ひとりで参加しました。無力さを痛感しながら、そこにいた人々と一緒に声を上げました。

教会も、ほかのだれも、私の態度決定に引きずり込むことはできないと思い、デモに行くときは必ずひとりで行きました。千葉県松戸市に住んでいましたので、千代田線直通常磐線で、国会議事堂前駅まで片道55分、往復1000円で行けました。

だから何ができたと私は思っていません。私たちは悪を憎まなければなりません。そのために私にもできそうだと思えた行動を起こしただけです。

神さまは、ご自身がお造りになったこの世界と人間をとても愛しておられますので、罪を憎み、罪をなくしたいと神ご自身が望んでおられます。

悪を憎むことは、人間を憎むことではありません。人間の心の中から悪が取り除かれることを求めるだけです。「敵を愛しなさい」とイエスさまがおっしゃったこととそれは矛盾しません。

昨日の午前中、今日の礼拝のための看板を書いていたときに、「悪を憎み、敵を愛せよ」という説教題の中に「心」という字が3つもあると気づきました。「悪」と「憎」と「愛」です。

聖書は日本語で書かれた本ではありませんので、漢字の話は余談です。しかし、悪も憎しみも愛も「心の問題」であることは確かです。

心が変われば人は変わります。戦地に出かけた兵隊たちが戦後も敵への殺意に満ちたままなら、戦後復興は無かったでしょう。

日本の敗戦から78年。日本と世界の平和のために祈ろうではありませんか。

(2023年8月6日 平和聖日)