日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌531番 こころのおごとに
「悪を憎み、敵を愛せよ」
ローマの信徒への手紙12章9~21節
関口 康
「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」
先週予告しましたとおり、今日は日本キリスト教団の定める「平和聖日」です。78年前の1945年8月15日の日本敗戦の日を思い起こし、戦争に反対し、平和を祈るために設けられました。
今日の聖書箇所は、ローマの信徒への手紙12章9節から21節です。全体を詳しく話すことはできません。戦争の問題、平和の問題と直結する言葉を中心に見ていきたいと願っています。
最初に申し上げるのは、この箇所を取り上げるたびに同じ説明をしていることです。ローマの信徒への手紙12章9節「愛には偽りがあってはなりません」から始まり、13章10節「だから、愛は律法を全うするのです」までのすべてが「愛とは何か」をテーマにして書かれた部分であるということです。「愛とは何か」というテーマとは無関係に思える部分があるとしても無関係ではありません。少なくとも著者パウロの中で「愛とは何か」という問いに結びついています。
その点との関係で特に問題になるのは13章1節から7節までの箇所です。この中に登場する「支配者」ないし「権威者」が警察や軍隊を伴う国家権力を指していることは明らかです。そのような存在に「従うべきである」(5節)とパウロは述べています。軍隊のことまでは言及されていませんが、剣をもって悪を取り締まる存在を指していますので警察の存在は肯定されています。
しかし、そのことと「愛とは何か」というテーマとがどのような関係にあるのかを、よく考えなければなりません。パウロが言おうとしていることをまとめれば、警察の存在はわたしたちが愛し合うために必要である、ということになります。
13章3節の言葉が、比較的理解しやすいでしょう。「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい」。
警察を恐れるのは悪事を働いている人たちだけであって、そうでない人たちまで警察を恐れることはないと言い換えれば、よく分かる話になるでしょう。その意味での「悪」は社会的な犯罪行為です。殺人、窃盗、詐欺、偽証、姦淫、性犯罪。その意味での「悪」を「憎む」ことと「神と隣人を愛する」という聖書の教えは一致している、ということになります。
しかし、今の説明で納得していただけるとは思っていません。警察もまた悪事を働くからです。法律の中にも他国から見れば犯罪に加担しているとしか言えないような悪法が存在するからです。法律を決める人々の中にとんでもない悪人がいるからです。そのような人たちに「従いなさい」などと、なぜパウロは言えるのかとお考えになる方々がおられるでしょう。
しかし、矛盾しません。聖書の言葉はすべて「神の存在」を前提しています。権力者はどんな犯罪をいくらおかそうと、だれからも裁かれない絶対不可侵の存在などではなく「神」が鉄槌で打つのです。
権力者はどんな犯罪をおかそうと裁かれることはないというほうが真実であるならば、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12章19節)という教えを受け容れることなど、わたしたちには到底できません。人間は悪事を黙って堪えられるほど忍耐強くないからです。精神と肉体を鍛えても無理です。もし神が復讐してくださらないなら自分で復讐するしかなくなります。そのときこそ問われるのが、私の代わりに悪を倒してくださる「神」を信じる信仰です。
私は抽象的な話をしているつもりはありません。ウクライナ戦争が始まっても、教会で私が何も言わないでいるのは関心がないからではありません。
戦争は、いったん始まればどちらが善で、どちらが悪でと区別できなくなります。他国に届く情報は必ずどちらか一方を利するものです。教会が、あるいはどなたか個人が真実の情報を常に確保できる情報源を持っているなら別ですが、どちらが勝つどちらが負けると、勝負ごとに教会が加担すべきでないと私は考えていますので、教会では何も言わずにいます。
しかし、日本が戦争に直接巻き込まれることになれば話は別です。どのような求人方法になるのか、徴兵なのか志願兵なのかは分かりませんが、いずれにしても兵隊になるのは若者たちです。
そうだと思うので、今は夏休みですが、高校の授業で私はほぼ毎週のように、生徒に戦争反対を訴えています。そのことを生徒たちは知っています。私は教会で言わないでいることを、学校では口を酸っぱくして言っています。
しかし、わたしたちに、今の教会に、何ができるでしょうか。昭島教会に来る前の私のことは、皆さんとは関係ないので言わずに来ました。
2012年の原発再稼働反対官邸前デモにも、2013年の特定秘密保護法反対の国会前デモにも、2015年7月の安保関連法案の国会前デモにも、ひとりで参加しました。無力さを痛感しながら、そこにいた人々と一緒に声を上げました。
教会も、ほかのだれも、私の態度決定に引きずり込むことはできないと思い、デモに行くときは必ずひとりで行きました。千葉県松戸市に住んでいましたので、千代田線直通常磐線で、国会議事堂前駅まで片道55分、往復1000円で行けました。
だから何ができたと私は思っていません。私たちは悪を憎まなければなりません。そのために私にもできそうだと思えた行動を起こしただけです。
神さまは、ご自身がお造りになったこの世界と人間をとても愛しておられますので、罪を憎み、罪をなくしたいと神ご自身が望んでおられます。
悪を憎むことは、人間を憎むことではありません。人間の心の中から悪が取り除かれることを求めるだけです。「敵を愛しなさい」とイエスさまがおっしゃったこととそれは矛盾しません。
昨日の午前中、今日の礼拝のための看板を書いていたときに、「悪を憎み、敵を愛せよ」という説教題の中に「心」という字が3つもあると気づきました。「悪」と「憎」と「愛」です。
聖書は日本語で書かれた本ではありませんので、漢字の話は余談です。しかし、悪も憎しみも愛も「心の問題」であることは確かです。
心が変われば人は変わります。戦地に出かけた兵隊たちが戦後も敵への殺意に満ちたままなら、戦後復興は無かったでしょう。
日本の敗戦から78年。日本と世界の平和のために祈ろうではありませんか。
(2023年8月6日 平和聖日)