2023年7月30日日曜日

苦しみの意味(2023年7月30日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 460番 やさしき道しるべの

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「苦しみの意味」

ペトロの手紙一3章13~22節

関口 康

「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」

来週8月6日(日)は日本キリスト教団の「平和聖日」です。78年前の1945年8月15日の日本の敗戦を想起し、戦争反対を貫き、平和のために祈るために「平和聖日」が設けられました。

来週の「平和聖日」の礼拝で取り上げる聖書の箇所を本日の週報で予告しています。ローマの信徒への手紙12章9節から21節です。その箇所の冒頭の12章9節以下に「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と記され、14節に「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とあり、さらに17節に「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」とあります。

ローマの信徒への手紙の著者は、使徒パウロです。その中でも特に「悪を憎み、迫害する者のために祝福を祈りなさい」という教えは、イエス・キリストの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)という教えの系譜につながるものです。

そのように考えて、私は来週の「平和聖日」の宣教題を「悪を憎み、敵を愛しなさい」とさせていただきました。あえて分けるなら前者の「悪を憎みなさい」のほうは使徒パウロの言葉であり、後者の「敵を愛しなさい」のほうは主イエス・キリストの言葉としてマタイによる福音書の著者マタイが書いた言葉であるという違いがあります。しかし出所が違う2つの言葉をひとつなぎにしたのは、両者の教えの間に何の矛盾もないことを言い表したいからに他なりません。

ここまで申し上げたのは、来週の「平和聖日」の聖書箇所についての予告です。今日の箇所は主イエス・キリストの言葉でも使徒パウロの言葉でもなく、使徒ペトロの言葉です。先ほど朗読していただいたのはペトロの手紙一3章19節以下ですが、少し前の3章8節には「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」と記されています。これも、主イエス・キリストの教えとも使徒パウロの教えともつながる、同じ系譜の教えであることは明らかです。

そしてその教えの流れの中に今日の朗読箇所があります。「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」(13~14節)とあり、さらに「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が悪を行って苦しむよりはよい」(17節)とあります。

今日の問題は、たったいま読んだばかりのペトロの手紙一3章17節の「善を行って苦しむ方が悪を行って苦しむよりはよい」という言葉の意味は何か、ということです。それを考えるための材料または土台として、先ほどは主イエス・キリストの言葉と使徒パウロの言葉を紹介しました。

主イエス・キリストと使徒ペトロと使徒パウロという3者の教えが本質的に一致していて全く矛盾がないとすれば、新約聖書の教え、ひいては二千年のキリスト教の教えとして確定したものだと言えるかどうかは、よく考えなければならないことです。

なぜそう言わなければならないかといえば、「悪を憎みなさい」という教えも「敵を愛しなさい」という教えも、たとえそれがイエスさまの御言葉であろうとだれの言葉であろうと、わたしたち自身が日々営んでいる現実の生活とその中で形成される生活感情が、その教えを拒絶し、生理的な不快感や反感を抱き続けるかぎり、それは決してわたしたち自身の心の中で納得し、受け入れ、喜んで従う教えになることはありえないからです。聖書と教会の教えは、現代社会においては、どこまで行っても参考意見にすぎず、不服であれば拒否すれば済むことだとみなされています。

今日の問題が「善を行って苦しむほうが、悪を行って苦しむよりはよい」の意味は何かであると先ほど申しました。この言葉で分かる一つのことは、苦しみそのものが悪ではないということです。わたしたちは、人から苦しめられること、あるいは自分自身に原因や発端が無いと感じることで苦しむ経験をするとどうしても、苦しみそのものが悪であるかのように感じてしまいます。私自身はどこまで行っても善であり続けているのに対し、あくまでも私を苦しめる人/事/物が悪であると言いたくなります。しかし、そうではないということを17節の言葉が教えています。悪を行って味わう苦しみとは区別される、善を行って味わう苦しみがある、というのです。

この意味での「善」が「悪を憎むこと」と「敵を愛すること」を少なくとも必ず含んでいることは明らかです。具体例を挙げれば、すぐ分かることです。

悪を憎めば、たちまちわたしたちに苦しみが襲いかかってきます。政治の問題、社会の問題、経済の問題、そして信仰の問題においても、正義に反すること、すなわち「悪」が行われる場所や状況は、ほとんどの場合、光のもとではなく、陰や闇に隠れています。それを明るみに出そうとすると、必ずや激しい抵抗にあい、抹殺されかねませんので、その抵抗や殺意に堪えなくてはなりません。それが悪を憎み、善を行って苦しむことの意味です。

敵を愛すれば、味方が敵になりかねません。敵でなかった相手から敵視され、拒絶され、孤立する可能性が生じます。たとえイエスさまが「敵を愛しなさい」とおっしゃったとしても、味方を失いたくないから、仲間外れにされるのが嫌だから、孤立するのが怖いから、そのこと自体が苦しみだから、苦しみそのものが悪だから、私は敵を愛することなどできないし、自分のことを愛してくれるほんの一握りの人たちとだけ一緒に生きていきたいと願うなら、「善を行って苦しむこと」になっていないと言われても仕方がありません。

今日の箇所の後半、特に18節から始まる箇所に、イエス・キリストが十字架のうえで味わわれた苦しみの意味が記されています。「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(19節)と記されているのは、旧約聖書のノアの洪水物語(創世記6~9章)で、箱舟に入らず滅ぼされた人たちのところまでイエス・キリストが行かれ、福音を宣べ伝えられた、ということです。それは、イエスさまが地獄の底まで罪人を追いかけて愛してくださった、という意味になります。イエス・キリストは、悪を悪でないと白黒を差し替えるのでなく、悪を憎んだうえで、敵をどこまでも愛し抜くために、十字架のうえで地獄の苦しみを味わわれました。

「わたしたちは罪ある人間なのであって、イエス・キリストではないのだから、敵を愛することなど絶対できない」と言い張り、善のために苦しもうとしないわたしたちのためにイエスさまが苦しみの模範を示してくださいました。

実際には、イエスさまの教えのとおり「敵を愛すること」なしに、戦争が終わることも平和が実現することもありません。敵を愛する苦しみは、愛さないで苦しむよりはよい。どれほど堪えがたかろうと、憎い相手を受容し、共存する道を探ることが、わたしたちに求められています。

(2023年7月30日 聖日礼拝)

2023年7月16日日曜日

重荷を負う務め(2023年7月16日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 226番 輝く日を仰ぐとき 


「重荷を負う務め」

ガラテヤの信徒への手紙6章1~10節

関口 康

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気を付けなさい。」

今日の聖書箇所は、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙6章1節から10節です。この箇所を理解するために大事な点は、パウロが書いていることはすべて教会の内部のことであるということです。一般論ではありません。この箇所は教会の中で読まれ、教会の中で出会う様々な出来事と結びつけて理解されるとき初めて、意味が分かるようになります。

ご承知のとおり私は4年半前の2019年4月から明治学院中学校東村山高等学校(東京都東村山市)で聖書科非常勤講師をしています。学校の授業で繰り返し言ってきたのは「学校は教会ではない。学校は学校である。教会は教会である」ということです。私の授業に出席した生徒は覚えているでしょう。

私がそれを言うのは「なぜ自分はクリスチャンでもないのに聖書を読まされて、期末試験を受けさせられて成績まで付けられるのか」と思っている生徒がいるからです。説明する必要があります。

しかし、だからといって私は、教会と学校とで、人が変わったように変貌するわけではありません。そのようなことはできませんし、したくありません。それでも学校の授業が成り立っているということは、教会と学校の間で通じ合う点があることを意味していると、私なりに理解しています。

さて、今日はいつもと少し趣の違う話をさせていただきます。昭島教会を含む日本キリスト教団は歴史的にいえば、プロテスタント教会の系譜を受け継いでいます。プロテスタント教会のはじまりが16世紀のドイツの宗教改革者マルティン・ルターの名前と結びつくことは確実ですが、スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンの存在も忘れることができません。

そこで今日はルターとカルヴァンが今日の箇所、特に6章1節と2節について何を書いているかをご紹介したいと思い、準備してきました。両方とも日本語版があり、多くの人に読まれてきました。

パウロは2000年前の人です。ルターとカルヴァンの時代は500年前です。パウロと比べて1500年分はわたしたちに近い感覚の持ち主たちです。本を読んで理解可能な要素があると思います。

今から14年前の2009年に「カルヴァン生誕500年記念集会」が日本で行われました。開催委員会の書記は私でした。会場は東京神学大学(東京都三鷹市)を借りました。参加者約200人。カルヴァン生誕500年祭は世界中で行われました。その後、今から6年前の2017年に「宗教改革500年記念集会」が、これも世界中で行われました。ルターが1517年10月31日にドイツ・ヴィッテンベルク城教会に95か条の提題を貼りだしたときから数えて500年を記念したものです。

ルターのほうから紹介します。今日の私たちのテキストであるガラテヤ書6章1節についての解説文だけで、日本語版で9ページ分も割かれていました。どういう内容かといえば、ルターの論争相手だった当時のローマ・カトリック教会の人たちが、このガラテヤ6章1節の言葉を用いて、教会の中で大事なのは「柔和な心」なのだから、ルターが問題にしているような教会の教義上の小さな問題に振り回されて教会の一致と平和を乱すべきではないなどと説教しているが、それは断じて違う、という趣旨のことを日本語版で9ページ分も書いています。よほど腹に据えかねる事件があったのではないでしょうか。ルターの立場からすれば、今日の箇所の「柔和な心」は、読み方次第で諸刃の剣になる、ということです。真理を語り、正義を貫こうとする人々の口封じの一手になりえます。

しかし、そのルターが、次のガラテヤ6章2節について書いている言葉は重くて深くて温かいです。「愛するということは、詭弁家たちが想像するように、他の人のためによいことを願うことではない。他の人の重荷を負う、すなわち、あなたにとって大変な、できれば負いたくないものを負うということである。それだから、キリスト者はがっちりした肩と力強い骨を持って、兄弟たちの肉、すなわち弱さを負うことができるようであるべきである」(『ルター著作集 第二集』第12巻「ガラテヤ大講解下」徳善義和訳、1986年、400頁)。

ルターが述べているキリスト者が持つべき「がっちりとした肩と力強い骨」は、もちろん比喩です。心の問題であり、信仰の問題です。

カルヴァンは何を書いているかを、次にご紹介します。だれが言い出したか、ルターは豪放磊落な人だったのに対し、カルヴァンは学者肌で神経質で厳しい人だったというような評価があるようですが、今日はぜひそのピリピリした評価を吹き払えるようなカルヴァンの良い面をご紹介したいです。

ガラテヤ6章1節についてカルヴァンは、人の心の中の「野心」の問題から書き起こしています。ただし、これもルターと同様、あくまでも教会の内部の話です。人に野心がある。外見上は熱心のように装いながら、実は傲慢で、他人を軽蔑したり侮辱したりしている。他人の欠点を見つけると、それを材料にいつでもその人を抗議できると考え、ますます追い打ちをかける。野心があるゆえ相手を非難することに熱心だからそういうことになると、カルヴァンは書いています。

しかし、カルヴァンはこのことを、自分自身を棚に上げて言っていません。それが大事です。教会の中で起こる問題を扱っていることは明らかですし、カルヴァン自身も当事者のひとり、ないし代表者として、自分の胸に手を当てながら書いている文章だと思います。

そして、とても素敵な言葉がありました。「酢の中には油も混ぜておかねばならない」(『カルヴァン新約聖書註解』第10巻「ガラテヤ書・エペソ書」森井真訳、新教出版社、1962年、135頁)。

私はいま毎日自分で食事を作っているので、この意味が分かりました。ここで「酢」の意味は、人の過ちを非難する辛辣な言葉です。酢は生のままで飲むと焼け付いたように喉がしびれます。しかし、「酢」に「油」を混ぜると美味しいドレッシングになります。酢に卵黄と塩を加えて泡立てながら油を少しずつ加えると、美味しいマヨネーズになります。いろいろ混ぜると酢は人に優しくなり、肉も野菜も美味しくなります。カルヴァンが書いている意味は、きつい言葉は控えるべきだ、ということです。

そしてカルヴァンは、この箇所の解説で「キリスト教的な𠮟責の目的」は、「倒れたものを引き立て、建て直すことであり、すなわち、まったく回復させることである」(同上書、同上頁)と書いています。

6章2節についてカルヴァンは、「パウロは我々の弱さや悪徳を『重荷』と呼んでいる」と解説したうえで、次のように書いています。「他人の重荷を背負うことをパウロが命じているのは、むしろ我々が自分の荷をおろすためである。それは、柔和で友情に満ちた正し合い(日本語版「矯正」)によって初めてなしうることである」(同上書、137頁)。

わたしたちの教会が「自分の荷をおろせる」教会であるかどうかは、わたしたちに任されています。人の重荷を背負う務めが教会にあると言えますし、それが教会の存在理由であるとも言えます。野心も、外見上の熱心も、傲慢も、わたしたちにこびりついた性質のようなものなので、努力や手術で取り除くことはできません。しかし、そのわたしたちの性質こそがイエス・キリストを十字架につけたのだと十字架を見上げて心を落ち着けることが大事です。最後に申し上げたのは、私の言葉です。

(2023年7月16日 聖日礼拝)

2023年7月9日日曜日

生命を重んじる(2023年7月9日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌 532番 ひとたびはしにしみも



「生命を重んじる」

使徒言行録20章7~12節

関口 康

「人々は生き返った青年を連れ帰り、大いに慰められた。」

今日の聖書箇所について私が最初に申し上げたいのは、あくまで私個人の感想です。それは、この箇所の物語は、使徒言行録の中でだけでなく、新約聖書全体の中でだけでもなく、旧約聖書を含む聖書全体の中で見ても、違和感がある箇所だ、ということです。

今申し上げた点については、あとで再び取り上げます。その前に、もう少し大きな視野から、使徒言行録という書物を読む人が必ず引っかかる、ひとつの大きな問題を取り上げます。

それは、たとえば今日の箇所の7節に「わたしたち」という表現が出てきますが、これです。この「わたしたち」とは誰のことなのかが必ず問題になります。

もう少し詳しく申し上げますと、わたしたちが使徒言行録の最初の1章から最後の28章までを前から順々に読んでいきますと、最初のほうには出て来ない「わたしたち」を主語とする文章が16章10節から突然出てきます。「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」(16章10節)。

その後も、すべての文章が必ずそうであるわけではありませんが、かなり頻繁に「わたしたち」を主語とする文章が出てきます。共通しているのは、パウロを団長とする伝道旅行団のメンバーを指していると思われる点です。しかし、だからといって、使徒言行録の著者がパウロではないことは明白ですので、団長パウロが自分を含めた団員全員を指して「わたしたち」と書いているわけではありません。

使徒言行録の著者は、ルカによる福音書の著者ルカです。使徒言行録1章1節に「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して」とあります。また、ルカによる福音書1章3節にも「敬愛するテオフィオさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」と記されていて、ルカによる福音書と使徒言行録が同一の著者によって記された2巻本の書物だったことを明らかにしています。

しかし、いま申し上げたことと、だからといって使徒言行録16章10節から出てくる「わたしたち」の中に、必ずルカが含まれていると考えることができるかどうかは別問題です。

パウロ団長率いる伝道旅行団の行き先を挙げていきますと、マケドニア、アカイア、エフェソ、ミレトス、そしていったんエルサレムに戻ります。そのあいだは繰り返し「わたしたち」を主語とする文章が出てきます。しかし、その後パウロが逮捕されて捕虜としてローマに連行されます。そのパウロが逮捕され尋問を受けている場面では「わたしたち」文はストップしますが、ローマに連行される最中と到着してからの部分で、再び「わたしたち」文が出てくると言った次第です。

それでは、それらすべての「わたしたち」文が出てくる箇所のすべての場面に必ずルカが同行していたと考えなければならないかというと、そうとは言えません。すべての箇所にルカが同行していたと考える論理的可能性が全くないわけではありませんが、そのように考えると矛盾する箇所がいくつも出てきます。

いまここで詳細な議論を説明することはできませんので、現時点で最良の結論を申し上げます。使徒言行録16章10節以降の「わたしたち」は、読者を物語の中に引き込むための文章表現上の工夫ないし技巧です。ドイツの新約聖書学者エルンスト・ヘンヒェン(Prof. Dr. Ernst Haenchen [1894–1975] )がそのように主張したと、私は別の資料で読みました。私もその線で納得します。

さて今日の箇所の内容です。ここに書かれているのは要するに、使徒パウロの説教が長すぎて、「ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった」青年エウティコが死んだので、パウロは説教をいったんやめて、エウティコのもとに駆けつけて抱きかかえましたが、そのときエウティコが息を吹き返したので「騒ぐな。まだ生きている」とパウロがそこにいた人々を制し、そのパウロがまた元の位置に戻り、さらに夜明けまで説教を続けてから出発したという物語です。

最後の12節に「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた」と記されているので、物語自体はハッピーエンドであると言えば言えなくありません。しかし、このとき何が起こったのかを、それこそ「わたしたち」がこの物語の中に引き込まれて、パウロが延々と説教を続けて、死ぬほど眠くて、実際に死んでしまった人がいるほど人々を退屈させている場所に、わたしたち自身が居合わせていることを想像してみたとき、パウロがとった態度や言動に問題が全く無いと思えるかどうかを、ぜひ皆さんに考えてみていただきたいと私は思いました。

最大限にパウロの立場を擁護する方向で考えるとすれば、礼拝説教は最も大切なことであり、いかなる理由でも中断されるべきではないが、死者が出たのでいわばやむを得なく短時間の中断を余儀なくされたものの、エウティコがなんとか息を吹き返したので、その場にいた他のだれかにエウティコを任せたうえで、礼拝説教を続行したパウロは、神の言葉の説教者としての責任を果たすことにどこまでも忠実だったのだ、というふうに理解することも不可能ではないでしょう。

しかし、本当にそういう理解で大丈夫だろうかと私はどうしても気になります。パウロは説教者であるのと同時に牧会者でもあったはずです。一度は生命活動を停止した人が息を吹き返したからと言って、まるでそれはすでに終わったことであるかのように、そこにいた人に「騒ぐな」(黙れ)と一喝までして、エウティコを人任せにして、礼拝説教を続行するというのは、牧会者としてどうなのだろうと、疑問を抱く人がいてもおかしくないと、私には思えてなりません。

12節の「人々は大いに慰められた」というのも、一度は死んだエウティコを奇跡的によみがえらせたパウロの力に慰められた、という意味で書かれてはいません。あくまでも、エウティコが息を吹き返したことを神に感謝し、慰めを受け、喜んでいるだけです。

最初に申し上げた、この箇所に対して私が覚える「違和感」は、まさに今申し上げている点についてです。私にはこの箇所を書いているときの著者の心の中に、パウロがとった態度や言動に対する厳しい批判が含まれているように感じられます。著者ルカがこのときの事態について自分の意見を交えず、事実のみをたんたんと記していることが、かえって気になります。このときのパウロを皆さんはどう思いますかと、すべての読者に問いかけていると考えることが可能です。

今日の説教題を「生命を重んじる」としたのも、この点にかかわります。ひとりの人がわたしたちの目の前で突然亡くなった、緊急事態が発生した。それでも、なにがなんでも、礼拝と説教を続行することが、わたしたちのなすべきことかどうかは、わたしたち自身がよく考えるべきことです。私もいま「わたしたち」という言葉を繰り返して、みなさんを巻き込もうとしています。

「教会にとっていちばん大切なこと/ものは何なのか」を根本的に考え直す必要すら感じます。杓子定規は禁物です。柔軟で臨機応変な姿勢と対応が、わたしたちに求められています。

(2023年7月9日 聖日礼拝)

2023年7月2日日曜日

さらに開かれた教会へ(2023年7月2日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 405番 すべての人に



「さらに開かれた教会へ」

使徒言行録11章1~18節

関口 康

「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

今日の聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストの十字架と復活、そして聖霊降臨の出来事を経て人類の歴史における最初のキリスト教会が誕生した紀元(=西暦)30年代からそれほど後に起こったことではないと思われます。10年から20年後くらいでしょう。

最初のキリスト教会の最初のリーダーになったのは、使徒ペトロです。教会ですからペトロを「初代牧師」と呼んでも大きな問題はないはずです。そして、最初の教会が置かれた出発の地はエルサレムでした。しかも最初のキリスト教会がユダヤ人中心の集まりだったことは確実です。ペトロや他の使徒、そしてイエス・キリストの死後に使徒になったパウロも、ユダヤ人でした。

だからといってユダヤ人でない人は、教会の仲間に加わることができなかったのかと言えば、決してそうではありません。「ユダヤ人でない人」のことを聖書は「異邦人」と呼びます。ただし、それは単なる民族や人種の問題ではなく、信仰の問題です。「異邦人」は、いわばもともと異教徒だった人です。その意味での「異邦人」に対して、キリスト教会は最初から開かれていましたし、今も開かれ続けています。

なぜそう言えるのかといえば、イエス・キリストが異邦人に対して開かれた姿勢を終始一貫、示されたからです。最初のキリスト教会も、歴史における教会も、さらに現代の教会も、それはわたしたちのことですが、その全員がイエス・キリストの弟子なのですから、イエス・キリストが示されたのと同じ、どんな人にも開かれた姿勢を持つ必要があります。

しかし、それは単純な話ではありません。哲学用語で「所与(しょよ)」という言葉があります。定義や説明は難しいですが、強く意識したり努力したりしなくても容易に得ることができる自明(=当たり前)の前提として、すでにあらかじめ先に与えられている事柄を指して言います。

たとえば、もしわたしたちが「教会はだれに対しても開かれた姿勢を持っている団体である」と言えば、「そんなことはない」と必ず反発されるでしょう。実態に即していないし、そうでない現実の中で苦しんだり戦ったりした経験を持つ人たちからすれば、虚偽でしかありません。いま申し上げたことを「所与」という言葉を用いて言い直せば、「どんな人に対しても開かれた姿勢を持つことは、教会にとっては必ずしも所与とは言えない」となります。

「所与」でないとしたら何なのかといえば「教会とはだれに対しても開かれた姿勢を持つべき団体である」ということです。つまり、そのことに対して強い意識や努力が必要であるということです。放っておいてもそうであるとか、自動的にそうであるというわけではありません。

事実は逆です。放っておくと教会はあっと言う間に閉鎖的になります。新しい考え方や新しいやり方を外部から持ち込まれることを嫌います。従来の方式を学び、なじみ、受け入れ、従ってくれる相手は歓迎しますが、そうでない相手は問答無用で拒絶します。

今申し上げているのは、教会がだれに対しても開かれた姿勢を持つことは「所与」ではなく、強い意識と努力が必要であると申し上げたことの意味を説明しているだけです。「そうだ、そうだ、そのとおり。教会は閉鎖的な団体だ」とシュプレヒコールがあがるとしたら、私は悲しいです。

現実の教会は、最初から今日に至るまでその努力を積み重ねてきました。何もしなかったとは言われたくありません。今ある教会の現実は、キリスト教史二千年の努力の結晶です。それでもなお、教会に閉鎖性ゆえの葛藤や対立があるとしたら、わたしたちの努力がまだ足りていないと言う他はありません。

「それはいくら努力しても無理なのだ」とあきらめて、放り投げて、新しい要素が加わることを拒否し、守りの姿勢に終始しようとするのは「もはや教会ではない」と言わざるをえません。

私はいま、今日の聖書の箇所の話をしようとしています。要するに何が書かれているかといえば、最初はユダヤ人中心だったキリスト教会でしたが、その後次第に異邦人が洗礼を受けて教会の仲間に加わり、その数が多くなった頃に、教会の中でユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が険悪な関係になり、対立し始めたという歴史的な事情と関係しています。

ユダヤ人と異邦人の決定的な違いは、生まれてすぐに割礼を受けたかどうかという外見で判断できるところがあります。割礼そのものは男性だけにかかわるわけですが、男性の性器の包皮を切り取る行為です。それをユダヤ人は、まさに「所与」として与えられていますが、異邦人ではそうではありません。

異邦人は割礼を受けることができないかというと、当時も今も変わりなく不可能ではなく可能です。しかし、成人になってからの割礼は、麻酔技術が発達している現代社会でならともかく、古代社会でそれをするとなると死ぬほどの苦しみを伴うことだったことは想像に難くありません。異邦人があえて割礼を受けようとすることは無かったと思います。

ところが、西暦1世紀の教会の中で、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が対立したときユダヤ人キリスト者の側が持ち出した論点が、要するに、我々はモーセの律法に基づく「割礼」を受けている、由緒正しい信仰の持ち主である、ということでした。それはつまり我々ユダヤ人キリスト者のほうが優位にあり、割礼を受けていない異邦人キリスト者は、我々と比べれば下位または劣位にある、ということでした。

そして、そのような考えを持っていたユダヤ人キリスト者が、ペトロがしたことを見たときに腹を立てました。ペトロがしたことは3節に書かれています。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」。しかし、ペトロは事の次第を順序正しく説明して、理解を得ようと努力しました。

そしてペトロは結論的に言いました。「こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

この箇所がわたしたちに教えていることは、最初のキリスト教会が気づいたことは、わざわざ痛い目をしてまで異邦人たちが割礼を受ける必要は無いし、仮に割礼を受けたからと言って他の異邦人キリスト者より優れた信仰の持ち主とみなされて、より上位にいるユダヤ人キリスト者の仲間入りができるというような変化が起こるわけでもないということです。そもそも、ユダヤ人キリスト者が異邦人キリスト者よりも上位にいるかどうかも考え方次第の面がありますが、神の目から見れば大差ありません。

そもそも、あの人よりも私のほうが上だと競ったり争ったりすること自体が「もはや教会ではない」ということです。その結論にペトロもパウロも到達しました。

わたしたちも、「さらに開かれた教会」を目指すなら、この種の競争をやめることが最優先です。

とにかくみんな仲良くしましょう。幼稚なほど単純ですが、それがいちばん大事です。

(2023年7月2日 聖日礼拝)

2023年6月18日日曜日

主は必ず来てくださる(2023年6月18日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 343番 聖霊よ、降りて

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「主は必ず来てくださる」

ルカによる福音書8章40~56節

関口 康

「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」

今日の朗読箇所は長いです。しかし、途中を省略しないで、すべて読むことに意義があります。

なぜなら、この箇所には2つの異なる出来事が記されていますが、もしそれを「第一の出来事」と「第二の出来事」と呼ぶとしたら、第一の出来事が起こっている最中に横から割り込んで来る仕方で第二の出来事が起こり、それによって第一の出来事が中断されますが、その中断の意味を考えることが求められているのが今日の箇所であると考えることができるからです。別の言い方をすれば、その中断は起こらなければならなかった、ということです。

出だしから抽象的な言い方をしてしまったかもしれません。もっと分かりやすく言い直します。

たとえていえば、教会に長年通い、教会役員にもなり、名実ともに信徒の代表者であることが認められているほどの方に、12歳という今で言えば小学6年生の年齢なのに重い病気で瀕死の状態の子どもさんがおられたので、一刻も早くそのお子さんのところに行ってください、来てくださいと、教会役員からも、その子どもさんのご家族からも緊急連絡が入ったので、イエスさまがすぐに行動を起こされ、その家に向かっておられる最中だった、と考えてみていただきたいです。

しかし、イエスさまがかけつけておられる最中に、見知らぬ女性がイエスさまに近づいて来ました。その女性はイエスさまが急いでおられることは理解していたので、邪魔をしてはいけないと遠慮する気持ちを持っていました。しかし、その女性は12年も病気に苦しみ、あらゆる手を尽くしても治らず、生きる望みを失っていましたが、イエスさまが自分の近くをお通りになったのでとにかく手を伸ばし、イエスさまの服に触ろうとして、そのときイエスさまが着ておられたと思われるユダヤ人特有の服装、それは羊毛でできたマント(ヒマティオン)だったと考えられますが、そのマントについていた、糸を巻いて作られた2つの房(タッセル)のうちのひとつをつかんだとき、イエスさまが立ち止まられて「わたしに触れたのはだれか」と探し始められた、という話です。

しかしそのとき、イエスさまには先約がありました。イエスさまのお仕事は客商売ではありませんので「上客」という言い方は当てはまりませんが、教会生活が長く、多大な貢献を果たし、教会内外で多くの人から絶大な信頼を獲得していた方のご家族が危篤であるという一刻の猶予もない状況の中で、まるでイエスさまが寄り道をされているかのように見えることをなさっているのを快く思わなかった人が、そのとき少なからずいたであろうことは、想像するに難くありません。

次のような問い方をすれば、そのときの状況をさらにリアルにご理解いただけるかもしれません。まるでイエスさまは、教会生活が長い信徒のわたしたちは後回しにしてもよいかのようにお考えで、わたしたちなどのことよりも、初めて出会う人とか、通りがかりの人とか、ふだんは教会に来ようともしない人とかばかりに夢中になられ、そういう人たちを優先する方でしょうか、それはわたしたちへの侮辱ではないでしょうかと疑問を抱いた人がいるのではないか、ということです。

このたび私はたいへん興味深い解説を読みました。それは、今日の箇所の46節に、「しかし、イエスは『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた」とありますが、この「わたしから力が出て行った」というイエスさまのお言葉には、もうひとつの翻訳の可能性がある、という解説です。それは「その力はわたしから出たものだ」という訳です。

私はこのイエスさまの言葉の意味を理解できていませんでした。通りがかりの女性がイエスさまの服に触ったら「わたしから力が出て行った」というのであれば、まるで風船に穴が開いて空気が抜けるようにイエスさまが脱力なさったのだろうかと想像していました。それだとまるでイエスさまが迷惑な通行人がいたものだと認識なさり、しかし私に助けを求めている人がいるようだから仕方ないとでもお考えであるかのようで、腑に落ちたことがありませんでした。

しかし、そういう意味ではないかもしれないと分かりました。「わたしから力が出て行った」のではなく、「その力はわたしから出たものだ」とイエスさまがおっしゃったとしたら、話は変わります。

たしかに、たまたますれ違っただけの人には違いないし、イエスさまには大切な先約があり、急いで駆けつけておられる最中であったことは間違いないけれども、それでもなお、今このとき、この瞬間に、12年もの間、病気に苦しんできた女性に神の力が働き、その人の病気がいやされるというみわざが起こったのだ、その神の力とみわざはこのわたしから出たものであると、イエスさまがその女性のいやしと救いの保証人になってくださった話に変わります。風船から空気が抜けた話ではありません。今このとき、この人を助け、救うことが神の御心であると、イエスさまが公に宣言なさったのです。

しかしその出来事は、最初に申し上げたことを繰り返せば「第二の出来事」であり、「第一の出来事」が起こっている最中にそれを中断する形で割り込んできたものであることに変わりはありません。

教会役員のような存在だったと、先ほど説明しました。ヤイロという男性は「会堂長」(ルーシュ・ハーケセット)と呼ばれるユダヤ教のシナゴーグ(会堂)の管理責任者でした。それは、安息日ごとに行われる礼拝に必要なあらゆる準備の責任者でした。名誉ある職責だったことは間違いありません。

その男性に「12歳ぐらい」の「一人娘」がいて「死にかけていた」(42節)と記されています。その家にイエスさまが駆けつけている最中に「第二の出来事」が起こり、そのために時間も削られ、会堂長ヤイロの危篤の娘さんが息を引き取る時刻までに、イエスさまは間に合いませんでした。

それで、会堂長ヤイロの家から人が来て「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」とイエスさまに伝えに来ました。丁重な物言いですが、「もう来てくださらなくて結構だ」と訪問を断っているようでもあります。ヤイロの中ではもはやイエスさまの存在は不要になっていたし、憎しみや怒りの対象になっていた可能性すらあります。

よく似た話が、ヨハネによる福音書11章に出てきます。弟ラザロの臨終の瞬間に間に合わなかったイエスさまに対してあからさまに腹を立てて非難する姉マルタと妹マリアの物語です。姉マルタも妹マリアも同じ言葉で「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11章21節、11章32節)と、イエスさまに抗議しています。まるで「わたしたちの弟が死んだのはあなたのせいです」と言わんばかりです。会堂長ヤイロもイエスさまに、マルタとマリアと同じような感情を抱いたのではないでしょうか。

しかし、イエスさまは、ご自分が遅れたとは全く考えておられません。イエスさまにとっては、事柄は終わっていませんし、始まってもいません。人は死んだらすべて終わりだというお考えが、そもそもありません。イエスさまがヤイロの家に到着なさり、「娘よ、起きなさい」(アラム語「タリタ・クム」)と呼びかけられたとき、その子は起き上がりました。

主は必ず来てくださいます。必ず助けてくださいます。イエスさまは、12年も病気で苦しんでいた女性も、12歳の少女も、どちらも助けてくださいました(両者の「12年」という年数は関係していると思われます)。優先順位を争うのは、イエスさまに求めすぎです。後回しにされたと腹を立てないでください。主は救いの約束を必ず果たしてくださいます。

(2023年6月18日 聖日礼拝)

2023年6月11日日曜日

喜びと真心をもって(2023年6月11日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌第2編 26番 ちいさなかごに



「喜びと真心をもって」

使徒言行録2章43~47節

関口 康

「こうして、主は救われる人を日々仲間に加え一つにされたのである」

今日の聖書箇所は、先週の箇所の続きです。先週の箇所には、最初のペンテコステ礼拝で使徒ペトロが行った説教に多くの反応があり、その日に3千人ほどがキリスト教会の仲間に加わったことが記されていました。

もっとも、統計学的な見地から考えれば、最初のキリスト者人口は1千人ほどだっただろうというのが、今年1月8日の説教でご紹介した米国の宗教社会学者ロドニー・スターク教授(故人)の見解です(R. スターク『キリスト教とローマ帝国』新教出版社、2014年)。聖書の言葉を疑うような言い方はしたくありませんが、ひとつの参考意見です。

そして、今日の箇所に記されているのは最初のキリスト教会がどのような活動をしていたかについての比較的詳しい情報です。しかし、今日の箇所だけでなく4章32節以下にも同様の記事がありますので、両方を合わせて情報を整理することが肝要です。以下、箇条書きで整理します。

(1)最初のキリスト教会の人々は一人として持ち物を自分のものだと言う者は無く、すべてを共有していました(4章32節)。

(2)最初のキリスト教会の人々は、心も思いも一つにしていました(2章44節、4章32節)。

(3)最初のキリスト教会の中には自分の財産や持ち物、たとえば自分の土地や家や畑を売却して、教会に献金する人々までいました(2章45節、4章34節、4章37節)。

(4)その自分の不動産を売却した収益金は、教会の中の使徒職にある人々に預けられました(4章35節、4章37節)。

(5)使徒に預けられた献金は、教会内で必要に応じて分配されました(2章45節、4章35節)。

(6)その結果、最初のキリスト教会の中には貧しい人が一人もいませんでした(4章34節)。

(7)しかし、教会の仲間に加わった人々にとって、自分の不動産を売却することは義務ではありませんでした(5章4節)。

(8)さらに教会の中には、実際はすべてでなく一部だけ献金しながら、あたかも全財産を献げたかのように虚偽申告して自分の虚栄心を満たそうとする人々までいました(5章1節以下のアナニアとサフィラの例)。

(9)最初のキリスト教会の人々は、毎日エルサレム神殿の境内地で集会を開いて祈り、さらに家ごとに集まって「喜びと真心をもって」食事をしていました(2章46節)。

(10)そのような最初のキリスト教会の人々の様子を見ていた人々は、彼らに好意を寄せていました(2章47節)。

最初のキリスト教会の人々がこのようなことをしていた動機を想像するのは難しくありません。長い歴史と豊かな伝統を有するユダヤ人社会の中で、それまではだれも信じていなかった教えを受け入れ、新しい信仰共同体としての歩みを始めたばかりの人々は、爪弾きされる存在でした。仕事にありつくことすら、ままなりませんでした。その中で、とにかく互いに助け合って難局を乗り越えて行こうではないかという一心で、共に歩んでいたに違いありません。

しかし、その彼らにも、必ずしも賛成も同意もしてくれない家族や友人がいたでしょう。自分の不動産を売り払ってまで守るべき信仰なのかと周囲の人から問い詰められたに違いありません。けれども、物は考えようです。そもそも私有財産とは何なのかと根本から問い直すときがわたしたちにもあっていいでしょう。新しい信仰共同体に属する者たち同士が、金品を共有し合うほどまでに互いに助け合うことで、難局を乗り越えようとすることがあってもいいでしょう。

現代社会の只中でこのような話をしますと、たちまち非難の的になることは分かっています。しかし、大人も子どもたちも貧困にあえいでいるのに税金ばかり重くなっていく国の中に生きているわたしたちです。自分の子どもたちの教育費に苦しむ家庭も少なくありません。お金を何に使うかは各自に任されています。損得勘定だけで語ることはできません。

それと、これは比較的一般常識として広く知られていることですが、使徒言行録2章や4章に描かれた最初のキリスト教会の実践内容を指して「原始共産制」という名で呼ぶ人々がいます。現代の共産主義の方々にとって、どこまでが共通していて、どこからは違うのかをどのように理解しておられるかは私には分かりません。しかし、はっきりしているのは、最初のキリスト教会のあり方は、どこからどう見ても資本主義の原理とは正反対であるということです。

しかしまた、誤解を避ける必要を、いま私は感じています。最初のキリスト教会の実践内容において、私有財産の放棄そのものが目的でも義務でもなかったことは強調しなくてはなりません。比較対象として挙げうるのは、最初のキリスト教会が活動を始めたのと同じ時代のユダヤ教内部に存在した「クムラン教団」と呼ばれた人々です。彼らは私有財産を拒否しました。結婚することも許されませんでした。ルールを破った人は罰を受けました。

しかし、最初のキリスト教会のあり方は、クムラン教団とは全く正反対でした。イエスさまは独身でしたし、パウロも単身で伝道旅行に出かけました。しかし、ペトロは結婚していましたし、パウロも結婚を奨励こそすれ禁じたことはありません。とはいえ、キリスト教会も長い歴史の中で変質してきた面があることも否定できません。教会が反省すべき点は多々あります。

とにかくはっきりしているのは、教会の活動も奉仕も、最初から今日に至るまで「義務」ではないという点です。義務でないなら何なのかを説明するのは難しいですが、今日の箇所の「喜びと真心をもって」(46節)の意味を考えることによってヒントを得られるように私には思えます。

聖書における「喜び」とは「義務」の反対です。「楽しむこと」や「遊ぶこと」と同義語です。教会は会社でも学校でもありません。外部のルールを持ち込まれても困るだけです。まして国家権力のようなものとは完全に違います。ただ楽しみ、ただ遊ぶために教会は存在します。

「真心」の意味は単純(シンプル)であることです。正直であること、作為も技巧もないこと、作り笑いや下心や二枚舌がないことです。容赦なくずけずけ言えばいいのではありません。大切なのは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマの信徒への手紙12章15節)ことです。相手の言葉と思いを肯定し、共感することです。相手の言葉や表情の裏側を常に詮索してしまう傾向を持っていると自覚しておられる方は、「裏を取ること」をやめて、相手の発する言葉どおりにまっすぐ受け止めて信頼することです。

教会はそういうところです。たとえば、教会員になるために戸籍や住民票など「証拠書類」の提出を求める教会を、私は寡聞にして知りません。愚者だと言われれば愚者かもしれませんし、最もだまされやすいタイプかもしれません。しかし、互いにそれができるようになれば、教会は最も安心できる場所になります。他のどこでも得られない喜びと安心を得ることができます。

(2023年6月11日 聖日礼拝)

2023年6月4日日曜日

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 494番 ガリラヤの風

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「悔い改めと赦し」

使徒言行録2章37~42節

関口 康

「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」

先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。

キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。

しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。

それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。

昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。

教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆ではないかと警戒心を抱かれる方がおられるかもしれません。しかし、聖霊降臨の意味は、わたしたち人間の体と心に聖霊なる神が宿ることですから、矛盾はありません。教会は「神」ではありませんが、神の御心を体現する存在です。

ただし、教会は多くの人によって構成されています。イエス・キリストはただおひとりです。しかし、教会は二千年前から今日に至るまでのすべてのキリスト者によって構成されています。今は天の御国におられる雲のように多くの信仰の先達と地上に残るわたしたちが一緒に集まって会議を開いたり、くじを引いたり、じゃんけんしたりすることはできませんが、教会の意志決定はいわばそのような形で行われます。いま地上にいる者たちだけの多数決で決められることは、ひとつもありません。聖なる公同の教会が簡単に人の手に落ちることはありません。聖霊なる神を宿すすべてのキリスト者が教会の過去・現在・未来においてひとつとなり、神の御心をたずね求めつつ、共に生きて行きます。教会の伝統を重んじるとは、そのようなことです。

今日の聖書箇所に記されているのは、最初のペンテコステ礼拝でなされた使徒ペトロの説教を聴いた人々の反応と、それに対するペトロの答えです。

ペトロはそこに集まった多くの人々に二度、「あなたがたがイエスを十字架につけて殺した」と言いました。「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、(イエスを)十字架につけて殺してしまったのです」(23節)、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)とあるとおりです。

ペトロの説教に人々は激しく動揺しました。わたしたちがメシアを殺してしまったというのが事実であれば神の裁きを免れないと恐れたに違いありません。人々はペトロとほかの使徒たちに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。

神の言葉の説教を聴いた人々が「それでは、わたしたちはどうしたらよいのですか」と説教者に問い返す例が新約聖書の中にいくつかあります。たとえば、ルカによる福音書3章7節以下において、洗礼者ヨハネに対して群衆が「それでは、わたしたちはどうしたらよいのですか」と、三度も繰り返し問うています(ルカ3章10節、12節、14節)。また、言葉づかいは少し違いますが、使徒言行録16章で、使徒パウロがフィリピの牢で出会った看守がパウロとシラスに対して「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(使徒16章30節)と問うています。

その使徒言行録16章におけるパウロの答えは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16章31節)でした。今日の箇所のペトロの答えは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)です。

ペトロの答えとパウロの答えは、趣旨が同じとも言えますし、違うとも言えます。自分の罪を悔い改めて罪を赦していただくことと、イエス・キリストを信じて救われることは別々に扱おうと思えばできなくありませんし、そうしたい気持ちがわたしたちに起こらないとも限りません。なぜなら、自分の罪を悔い改めるためには、その前に自分が罪人であることを認め、自分の罪を真摯に直視しなければなりませんので、そこに心の痛みが生じるからです。

心の痛みを避けたい人は悔い改めることができません。もし可能なら、自分の罪を認めることも直視することもせずに、悔い改めないまま、ありのままの私のままでイエス・キリストの愛と恵みのうちに受け入れられて救われるほうがありがたいに決まっています。

ここで語られている「悔い改め」(メタノイア)とは、罪から目を背け、間違った方向から向きを変え、新しい方向に進むことを意味しています。イエス・キリストも洗礼者ヨハネも、人々に「悔い改め」を迫りました(マタイ3章2節、4章17節)。その教えをペトロが受け継ぎました。パウロは受け継がなかったでしょうか。パウロは「悔い改めを求めない信仰と救い」を教えたでしょうか。私はそのように考えることはできません。パウロもイエス・キリストの弟子です。

「悔い改めなさい。洗礼を受けてください。罪を赦していただきなさい」というペトロの言葉は、今のわたしたちにも語りかけられています。すでに洗礼を受けている方々が二度目の洗礼を受ける必要はありません。自分の罪を認めて直視する痛みを避けず、自分の行動を変更する勇気をもって生きるとき、イエス・キリストの愛と恵みが、わたしたちの心に深く沁みます。

(2023年6月4日 聖日礼拝)

2023年5月28日日曜日

聖霊に満たされて(2023年5月28日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

旧讃美歌500 みたまなるきよきかみ



「聖霊に満たされて」

使徒言行録2章1~11節

秋場治憲

「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

 今日のテキストには聖霊が弟子たちの上に降った時の様子が描かれています。私たちは今までに何度もこの個所を読んできて、暗唱するほどになっています。そして慣れてくると、段々と何の感動もしなくなる。「使徒信条」も「主の祈り」もいつの間にか、惰性で祈り、告白するようになっていないだろうか。危惧するところです。

 

 今日は暗記するほどに聞かされてきた、また覚えてしまったこの個所に、今一度新鮮な風が吹き込んでこないものか、祈りながら立ち向かってみたいと思います。

 

 「五旬際の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるようなが天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のようなが分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」と記されています。よく読んでみると激しい風が吹いてきたとは言っていない。激しい風が吹いてきたようなが、天から聞こえ、彼らがいた家中に響いた、というのです。また炎のようながであって、炎が燃えていたわけではない。

 

 しかしこの音に驚いた周辺の人たちが、一体何事が起ったのかと集っ

てきた。この集ってきた人たちというのは、世界中から集ってきていた人たちです。そして聖霊が降った弟子たちは、その彼らの故郷の言葉で、神の偉大なわざを語ったというのです。神の偉大なわざとは、主イエスの十字架と復活のことでしょう。詳細は続く「ペテロの説教」に述べられています。

 

 ここでこのペンテコステの出来事から少し距離をおいて、この出来事の位置づけを見てみたいと思います。この使徒言行録というのは、ルカ福音書を書いたルカによるものとされています。ルカという人は最初から第一巻と第二巻を書こうという目的をもって、第一巻で主イエスの生前の言葉と行いを書き、第二巻で聖霊を通して主イエスがその働きを継続していることを明らかにしようという意図をもって書き始めたと言われています。

 

 そのことが分かるのはルカ福音書の2:30の老シメオンの言葉です。

「私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です。」と老シメオンは告白していますが、ルカ福音書24章まででは、「万民のために整えて下さった救い」、「異邦人を照らす啓示の光」は未だ実現されていません。

 

ルカ福音書の中で主イエスは、ローマの百人隊長の信仰を称賛したり、重い皮膚病を患っていた10人を癒した際、神を賛美しながらイエスのもとに戻ってきたのは、当時外国人と言われていたサマリヤ人一人だけだったと、異邦人、外国人に対して光は当てられていますが、それらはまだユダヤの地においてであり、決して「万民の救い」「異邦人を照らす啓示の光」が実現されたわけではありませんでした。

 

ルカはルカ福音書で生前の主イエスの活動を述べ、第二巻使徒言行録で昇天された主イエスが、聖霊を通して働き続けておられることを伝えようとしているのです。確かに使徒言行録を読んでいて印象的なのは使徒言行録でありながら、同時に、あるいはそれ以上に、度々、主イエスが指示を与え、力を発揮しておられるのです。使徒言行録であると同時に、聖霊の活動記録と言うこともできるものとなっています。

 

例えば牢に閉じ込められたペテロの鍵を外し、その扉を開け放してペテロを救出したり、幻の中でペテロに現れ、律法で禁じられていた物を食することが求められます。ペテロが拒んでいると、それらは神が清めたものであるという言葉があり、異邦人への道を開いて行きます。

 

更に印象的なのはパウロがまだサウロと呼ばれていた時、大祭司の書状を懐にキリスト信者たちを捕らえ、投獄する目的をもって息はずませながらダマスコへ向かっていた時、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかけ、彼を回心させ、異邦人伝道の器として彼を召し出される。この書は確かに使徒言行録にはちがいないのですが、その主人公は、今は神の右に座しておられる主イエスご自身です。

 

そして私たちはこの主が私たちに語りかけ、私たちを励ましておられることを知っています。今ここに昭島教会が70年という歴史を背負って、今もなお存在し続けているということは、復活し、昇天された主イエスが、この教会の中におられ、働き続けておられるということを忘れて、私たちのペンテコステはないのです。

 

現在の私たちは、私たちの教会は、福音書に記された主イエスの十字架と復活によって支えられ、今現在聖霊によって主イエスが証しされ、励まされながら、再び来たりたもうこの主イエスを待ち望みながら、日々その歩みを進めています。

 

 「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者(聖霊)を遣わして、永遠に(私が)あなたがたと一緒にいるようにして下さる。[1]」他ならぬ主イエスが私たちと一緒にいたいというのです。一緒にいるために父なる神にお願いしようというニュアンスをもった言葉です。どういうことかと申しますと、肉体をもって生まれた主イエスの活動範囲は、生きている限りそれは限定されています。しかし霊となるならその活動範囲は、全世界に広がり、一度に500人以上の人々に現れることも可能となります。今日のテキストはユダヤという小さな民族の民族宗教でしかなかったユダヤ教を土台として、キリスト教という世界的な普遍妥当性を有した世界宗教が誕生したことを証ししている個所でもあります。

 

主イエスの十字架の死の意味というのは、主イエスが死ななければ、分からなかったことです。十字架の死こそ、主イエスが「救い主」であることを示すものだったからです。しかし死んでしまっては、自分の死の意味について語ることはできません。だからと言って語らないではいられない。このことは必ず語らなければならない。そこで主イエスの霊をイエスの死後に世界に遣わして、主イエスの死の意味について明らかにしたのがペンテコステです。大音響が響きわたったというのは、この主イエスの思いが次元的、空間的な壁を突き破られた時の音ということもできるかもしれません。またこの知らせを世界中の人々に届かせよという、神の大願の響きということもできるのではないかと思います。

 

 私たちは「神は愛である。」という言葉を知っています。父なる神、子なる神、聖霊なる神、私たちはこれを三位一体の神と呼んでいます。すでに学んだように父なる神は確かに、人間を愛された。しかしその愛し方は、罰すべき者を罰しないではおかない仕方で愛された。そのことはアダムに対しては、園の中央にある木からは取って食べてはならないという命令として与えられた。しかしエバは蛇の「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ。」つまりはあなたは善悪を知り、神と並ぶ者となるというのです。それはエバには素晴らしいことのように思われたのです。蛇の誘惑もまるでそのことを、神が望んでおられるかのような装いの下に差し出されたのです。主イエスの荒野におけるサタンの誘惑の時も同じように、一見神の意志ではないかと思われるようなベールに包まれて主イエスに差し出されています。蛇の誘惑に負けたエバは、取って食べ、そしてアダムにも食べさせました。その結果神は二人を楽園より追放しなければなりませんでした。

 

出エジプトの際には、モーセを通して更に広範にわたる十戒が与えられた。しかしイスラエルの民はこれを守らず、金の子牛を造って拝んだり、他国の神々を礼拝したりして主なる神に従おうとはしませんでした。神は多くの預言者たちを使わして、この民に警告を与え、御もとにあつめようとしましたが、彼らは預言者たちを殺して、主なる神に聞き従おうとはしませんでした。神はこのイスラエルという国を滅ぼさざるをえなかったのです。父なる神の愛し方は、Be my people, then I shall be your God. (我が民であれ、そうすれば、私はあなたがたの神でいよう)というものでした。それは人間の状態如何により、救われたり、救われなかったりするものでした。私たちの状態如何により「然り」ともなり、「否」ともなるのでした。

 

これに対してキリストは、神に背いている人間を赦し、受け入れるという仕方で愛された。しかし、父なる神は罰すべき者を罰しないで、赦し愛する者を罰しないではおきませんでした。ゴルゴタの丘の上では、神と神が戦ったと言われるのはそのことです。父なる神は徹底的に神の義を貫かれた。これは罪ある人間には、神の怒りとして臨みました。この怒りはすべての人間の罪を背負った、十字架上の主イエス・キリストの上に下されたのです。しかし、独り子なるキリストも父なる神の裁きに、最後まで従順に従った。使徒信条によれば、陰府(よみ)にまで従順であった。

 

しかしここで終わってしまっては、主イエスの死の意味というのは、日の目を見ることなく、そんな生き方をした人がいたという言い伝えくらいにしかならず、二千年後の世界にまでつたえられることはなかったでしょう。これを確かなものにしたのが、主イエスの復活でした。復活は罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、神の怒りに打ち勝った神(主イエス・キリスト)の愛が勝利したことを示しているのです。

しかしこのことを伝える者がいない。この役割を担ったのが、聖霊です。

「『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』[2]聖霊は復活者イエスの霊なのです。聖霊は勝利者イエスの霊なのです。そしてこの方が永遠に私たちと共におられるのです。

 

第2コリント人への手紙1:20には「私たち、つまり私とシルワノとテモテが、あなた方の間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において、『然り』となったからです。それで私たちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます。[3]」と記されています。かつて神は人間に対して、人間が神の愛に価するような状態になれば「然り」と言い、その愛に価しないようになるなら「否」と言われた。申命記11:26~28には、「見よ、私は今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、私が命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、私が命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。」と言われていた時は、私たちの救いは私たちの状態によって、「然り」ともなり、「否」ともなったのです。

 

しかし、今や罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、神の怒りに打ち勝った方が、私たちの内に住みたもうというのです。もはや私たちの内に自分の救いについて何の不安も残されてはいないのです。自分の罪に対して、死に対して、神の審きに対して、不安要素は何も残されてはいないのです。パウロは、「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、私たちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、(「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、[4]」)私たちのために執り成して下さるのである。だれが、キリストの愛から私たちをはなれさせるのか。[5]」と力強く証しをしています。父なる神は聖霊によって、勝利を獲得したのです。父なる神は子なるキリストを通して、聖霊において、人間の救いのわざを完成したのです。この聖霊(主イエスの霊が)が、時には「助け主」として、時には「弁護者」として、父なる神の御前にまで私たちに同行されるというのです。「私は、あなた方をみなしごにはしておかない。」と言われるのです。

 

マタイ福音書は、1:23の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」という言葉で始まり、28:20の「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という言葉で締めくくっています。この聖霊が私たちを励ましつつ、自分の負う十字架に押しつぶされることがないように、いつも主イエスの平安に包まれていることを私たちに語り続けておられるのです。



[1] ヨハネ福音書14:16

[2] ヨハネ福音書20:22

[3] 第2コリント人への手紙1:20~22参照

[4] ローマ人への手紙8:26(口語訳)

[5] 同書9:33(口語訳)

2023年5月21日日曜日

主イエスの遺言(2023年5月21日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)










讃美歌21 356番 インマヌエルの主イエスこそ

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「主イエスの遺言」

ヨハネによる福音書14章15~31節

秋場治憲

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」

 



今日のテキストは「聖霊を与える約束」という小見出しがついています。来週は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。4月9日(日)のイースターから数えて40日目の今月18日(木)がキリストが天に帰られる昇天日でした。皆様の所へはよみがえられた主イエス・キリストは訪れましたでしょうか。復活した主を迎えることができましたでしょうか。きっと親しく臨まれたことと思います。今日は主イエスの昇天を記念する礼拝ということになります。日本基督教団の聖書日課は、マタイ福音書の最後28:16~20を選んでいます。復活した主が弟子たちを派遣する記事で、「私は天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ福音書はこの言葉をもって終わっています。



 



我らの主イエス・キリストはすでによみがえって天にのぼられたというのに、どうして今日のテキストは依然として十字架前夜にとどまっているのかと思われた方もおられるかもしれません。それは主イエスは自分がいなくなった後の弟子たちのことを心配し、切々とその時の心構えを説いておられるからです。また聖霊についても詳しく説明しておられるので、今日の昇天を記念する礼拝、また来週にペンテコステ(聖霊降臨節)を迎えるに当たって、今日のテキストを選ばせていただきました。



 



ヨハネ福音書ではこの主イエスの「告別の説教」ともいうべきものが、13章の31節から16章の終わりまで続きます。来週はペンテコステ(聖霊降臨節)です。これから主イエス亡き後「聖霊の時代」に入ります。是非お帰りになりましたら、この長い告別の説教を一気にお読みになることをお勧め致します。



 



今日のテキストはその前半の一部分です。13章31節以下には「新しい掟」という小見出しがついています。「掟」という言い方は少々きつい言い方のような気も致しますが、その内容は「『互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。』[1]」というもの。主イエスの遺言の冒頭の言葉です。



 



戦国時代の武将で毛利元就という人が、三人の息子たちに自分亡き後を託して「三本の矢」の譬えを教えたという逸話が残っています。元就は3人の息子たちそれぞれに、矢を1本ずつ渡し、折ってみよと言う。矢は簡単に折れる。今度はそれぞれに3本の矢を渡し、同じように折ってみよと言う。矢は簡単には折れない。これによって父である元就は、自分(あるじ=主)亡き後、兄弟3人がお互いに助け合い、一族が結束することの大切さを説いたというもの。主イエスの遺言とは、その趣旨を異に致しますが、主(あるじ)亡き後を心配して語られた言葉として相通じるものがあると思います。主イエスはこれに先立って、弟子たち一人一人の足を洗い、互いに足を洗い合うこと、互いに愛し合うことの手本を示されています。そうすれば周りの人たちはみんな「あなたがたが私の弟子」であることを知るようになるというのです。神の国はこのようにして、互いの足を洗い合うことによって広がっていくというのです。



 



 そしてユダの裏切りの予告、ペテロの離反の予告をしながらも、主イエスは事が起こったとき、弟子たちが信じるようにと切々と16章の終わりまで、主イエス逮捕の直前まで語りつづけます。私はここに書かれている内容もさることながら、主イエスが最後に渾身のエネルギーをふり絞って弟子たちの今後に向けて、語り続けている姿に圧倒されるのです。闇の世界へと出て行ったユダが祭司長、ファリサイ派の人たちが遣わした下役どもを引き連れて[2]イエス逮捕に戻ってくるまでには、もう時間が残されていません。その逮捕までに残されたわずかな時間に主イエスは父なる神に祈りを捧げられます。それは17章です。そこでも祈ることは、弟子たちの今後のことです。そういう流れの中で、主イエスは弟子たちに自分の代わりに聖霊を遣わすという約束をします。



 



 聖霊というのはギリシャ語でパラクレートスと言います。パラというのは「傍ら」で・に」「そば」で・に」という前置詞で、クレートスというのはカレオ―「呼ぶ」「呼び出す」という動詞から派生した形容詞で「呼び寄せられた」「招かれた」という意味があります。これらが結び合わされてパラカレオーという動詞になると、「側へ呼ぶ」「呼び寄せる」という意味になり、また「助けを求める」「願う」更には「元気づける」「慰める」「励ます」という意味になります。



 



従ってパラクレートス(聖霊)というのは、私たちの傍らに呼び寄せられて「慰める者」「励ます者」「助ける者」「執成す者」「弁護する者」という広い意味を持った言葉であり、それは主イエス・キリストの霊であるというのです。新共同訳は「弁護者」を採用していますが、文語訳、口語訳、新改訳は、「助け主」を採用しています。どれが正しくて、どれが間違っているというものではありません。文脈上しっくりくると思われる訳を選べばいいと思います。



 



 今日のテキストの冒頭に「あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る。私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」



この「真理の霊」が永遠に私たちと一緒にいて下さるというのです。しかもこの「真理の霊」は、私たちと共におられるだけではなく、私たちの内におられるというのです。「私はあなた方をみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」と言われる。この「みなしご」という表現はもはや師弟関係ではなく、父と子の関係であると言うのです。          少し前にトマスが「主よ、どこへ行かれるのか私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と質問したのに対して、「私はであり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。[3]」と言われたように、聖霊は「真理の霊」であると同時に、「主イエス・キリストの霊[4]」であると言うことができます。私たちはこの言葉を忘れないようにしたいと思います。この言葉を忘れると、私たちは主イエスを通らずに、直接父なる神のもとへのぼろうとする



のです。そうすると私たちは自ら十字架を背負うことになり、自分が罪の内にあり、何と不信仰な者であるか思い知らされることになります。主イエス・キリストを通るということは、「主よ、信じます。信仰なき我を助けたまえ。」という我らを受け入れ、その衣をもって覆い、傷なき者として父なる神の御前に立たしめてくださるということです。人はだれもこの方を通らなければ、父のもとへ行くことは出来ないのです。私たちが自分の信仰に懐疑的になる時、この方を見失っています。次の15章にはぶどうの木の譬えが語られています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。[5]」とは、先に述べた「私こそが道である」「私だけが真理である」「私以外に命はない」という言葉を分かりやすく解説している譬えだと思います。肝に銘じておきたい言葉です。



 



 「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた方は私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。」この「しばらくすると」という言葉は、ギリシャ語でミクロンという言葉が使われています。「今少しで」「間もなく」というニュアンスで、事が切迫してきている緊張感が伝わってきます。



 



「かの日には、私が父の内におり、あなた方が私の内におり、私もあなた方の内にいることが、あなたがたに分かる。」という言葉が続きます。「かの日には」というのは、聖霊が臨む時ということです。



 



「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現わす。」「私の掟を受け入れ、それを守る人」とは、「互いに愛し合う」ということであり、主イエスの言葉を守る人ということです。その人は私の父に愛されるというのです。そして「私もその人を愛する」更に「その人に私自身を現わす。」と言うのです。「現す」という動詞は、「明らかにする」「示す」という言葉です。



 



ここでイスカリオッテでない方のユダが、「主よ、私たちにはご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」と唐突とも思えるような問いを出しています。このユダも他のユダヤ人たちと同じように、主イエスがいつか蜂起されることを期待しているようです。しかし主イエスはこの問いには直接お答えにはなっていません。その時は間もなくやって来るという思いをご自身の中に秘めながら、事が起こった時に弟子たちが信じるようにとその時の心構えをお話になります。



 



「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き、一緒に住む。」今語ってきたことの繰り返しになっていますが、ここで後半の言葉に注目してみたいと思います。父なる神は御子の言葉を守る人を愛される。それは「これは私の愛する子。私の心に適う者[6]」であると言われた方の言葉であるからです。続く言葉は「父と私はその人のところに行き、一緒に住む。」というのですが、これは正しい訳なのですが、その構造を見てみたいと思います。「その人のところに 我々は赴くだろう そして 住まいを その人と一緒に 造ろう」 



 



RSVの訳を見てみると、易しい英語ですから、解ると思います。



Jesus answered him “If a man loves me, he will keep my word, and my
Father will love him, and we will come to him and make our home with him.



 



となっています。ここでour home となったことで、ここの言葉に一気に血が通ったと私は思うのです。(我々のために)と加えたのは、ギリシャ語では能動相、受動相の他に中道相というのがあります。これは例えば「分配する」という動詞が中道相になると「互いに分け合う」という相互的なニュアンスを持ちます。ここで「造ろう」という動詞は中道相であり、RSVWe will make our home with him. の英語の方が、「一緒に住む」よりも、しっくりくるような気が致します。RSVour home と訳したことで、その中道相のニュアンスを含めたのだと思います。少々専門的なことになって恐縮ですが、そんなに難しいことではないと思います。



 



パウロは「生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。」(口語訳―ガラテヤ2:20と語っています。



これは私たちみんなの告白となるのではないでしょうか。



 



この方は「傷ついた葦(あし)を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、真実をもって道を示される[7](口語訳)方、この方が私たちの内に生きておられるのです。私たちの心が傷つきうなだれる時でも、私たちの信仰が消えかけている時でも、あるいは消えてしまったと思われる時でも、キリストの愛はその燃えカスに火をともし、新たな炎を燃え上がらせる方である。



 



「私は、あなたがたといたときに、これらのことを話した。」これは現在完了形です。これらのことは主イエスがあなた方と生活を共にしながら語ってきたというのです。



 



しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、



あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。



 



 この聖霊は主イエスが地上におられる間は、弟子たちに臨まないのです。16:7を見てみますと、「しかし、実を言うと、私が去っていくのは、あなた方のためになる。私が去っていかなければ、弁護者(聖霊)はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者(聖霊)をあなたがたのところに送る。」とあります。主イエスが死に、復活し、昇天してはじめて人々に臨むことになるというのです。そして主イエスが存命中に語っても理解されなかったことを思い出させ、理解させ、主イエスについて証をなし、栄光を帰するというのです。(14:26、15:26)



 主イエスは「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。[8]」なぜなら主イエスがこの地上に来られた意味は、主イエスが十字架上に死んではじめて理解されることだからです。しかし死んでしまった主イエスは、もう語ることはできません。そこで主イエスに代わってその意味を人々に語り、証しするために聖霊(主イエスの霊)が私たちに遣わされているのです。[9]



 



「私はあなた方に平和を残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と言う。さて主イエスが言われる「私の平和」とは何か。世が与える平和というのは、一喜一憂するもの。ある時は平和である。しかし次の瞬間には不安のどん底に突き落とされることがある。病気もある。災害もある。戦争もある。しかし、ここで主イエスが約束している平和は、すでに確立されている。だから心騒がせるな、おびえるなというのです。どういう風に確立されているのかというと、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがない。[10]」と確立されている平和だからです。



 



 パウロはローマ人への手紙8章で私たちに対するキリストの愛が不動のものであることを、高らかに歌い、ほめたたえています。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるであるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。だれがキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」



 



こんこんと切々と繰り返し「恐れるな。心を騒がせるな。[11]」「私はあなた方をみなしごにはしておかない。[12]」と語り、「自分は去っていくが、また、あなた方のところへ戻ってくる。」そして、父なる神は自分の代わりに「聖霊」を遣わして、永遠に(いつまでも、いつも)あなた方と一緒にいることができるようにしてくださるということを伝え、だから「事が起こったときに、あなた方が信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。[13]」と最後の最後まで語り続けられました。



 



「もはや、あなた方と多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼は私をどうすることもできない。」という言葉も印象的です。「彼は私をどうすることもできない。」という言葉は、「彼は私に対して、何も持っていない」といっている簡単な言葉ですが、深く、重く響いてくる言葉です。ピラトが主イエスに語った言葉と対比する時、その違いが際立ちます。ピラトは「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」というのに対して、主イエスは「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ。」と答えています。すべての権限を持っていると豪語するピラトの前にあって、何も持たない主イエスはこのピラトの権限の外に立っておられる。そして完全に自由である。文字通り「彼(ピラト)は私(主イエス)に対して何も持っていないのです。」



 



しかし、そのことを理解していなかった弟子たちは、主イエスが捕らえられた時、みんな姿を消してしまいました。



 



 この弟子たちのところへ、よみがえられた主イエスが40日にわたって現れ、そして昇天、そして主イエスが約束しておられた聖霊を送られた。



そのことは弟子たちに生前の主イエスの為したこと、語られたことの真意を理解させたのです。



 



ユダヤ人たちを恐れて、すべての扉に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちが、聖霊を受けて、よみがえります。主イエスが約束していたように、弟子たちを代表してペテロの大説教が使徒言行録にあり、来週ペンテコス



テのテキストとなっています。聖餐式もあります。



 













[1] ヨハネ福音書13:34、35







[2] ヨハネ福音書18:3







[3] ヨハネ福音書14:5~6







[4] フィリピの信徒への手紙1:19「というのは、あなた方の祈りと、イエス・キリストの霊の助けにとによって、このことが私の救いになると知っているからです。」







[5] ヨハネ福音書15:5







[6] マタイ福音書3:13~17







[7] イザヤ所42:3







[8] ヨハネ福音書16:12







[9] 「聖書百話」北森嘉造著 筑摩書房 P.134







[10] ローマ人への手紙8:1







[11] ヨハネ福音書14:1







[12] ヨハネ福音書14:18







[13] ヨハネ福音書14:29






2023年5月14日日曜日

祈りの共同体(2023年5月14日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 327番 すべての民よ

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「祈りの共同体」

テサロニケの信徒への手紙二 3章1~5節

関口 康

「終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」

(2023年5月14日 聖日礼拝)