日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
旧讃美歌500 みたまなるきよきかみ
今日のテキストには聖霊が弟子たちの上に降った時の様子が描かれています。私たちは今までに何度もこの個所を読んできて、暗唱するほどになっています。そして慣れてくると、段々と何の感動もしなくなる。「使徒信条」も「主の祈り」もいつの間にか、惰性で祈り、告白するようになっていないだろうか。危惧するところです。
今日は暗記するほどに聞かされてきた、また覚えてしまったこの個所に、今一度新鮮な風が吹き込んでこないものか、祈りながら立ち向かってみたいと思います。
「五旬際の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」と記されています。よく読んでみると激しい風が吹いてきたとは言っていない。激しい風が吹いてきたような音が、天から聞こえ、彼らがいた家中に響いた、というのです。また炎のような舌がであって、炎が燃えていたわけではない。
しかしこの音に驚いた周辺の人たちが、一体何事が起ったのかと集っ
てきた。この集ってきた人たちというのは、世界中から集ってきていた人たちです。そして聖霊が降った弟子たちは、その彼らの故郷の言葉で、神の偉大なわざを語ったというのです。神の偉大なわざとは、主イエスの十字架と復活のことでしょう。詳細は続く「ペテロの説教」に述べられています。
ここでこのペンテコステの出来事から少し距離をおいて、この出来事の位置づけを見てみたいと思います。この使徒言行録というのは、ルカ福音書を書いたルカによるものとされています。ルカという人は最初から第一巻と第二巻を書こうという目的をもって、第一巻で主イエスの生前の言葉と行いを書き、第二巻で聖霊を通して主イエスがその働きを継続していることを明らかにしようという意図をもって書き始めたと言われています。
そのことが分かるのはルカ福音書の2:30の老シメオンの言葉です。
「私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えて下さった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です。」と老シメオンは告白していますが、ルカ福音書24章まででは、「万民のために整えて下さった救い」、「異邦人を照らす啓示の光」は未だ実現されていません。
ルカ福音書の中で主イエスは、ローマの百人隊長の信仰を称賛したり、重い皮膚病を患っていた10人を癒した際、神を賛美しながらイエスのもとに戻ってきたのは、当時外国人と言われていたサマリヤ人一人だけだったと、異邦人、外国人に対して光は当てられていますが、それらはまだユダヤの地においてであり、決して「万民の救い」「異邦人を照らす啓示の光」が実現されたわけではありませんでした。
ルカはルカ福音書で生前の主イエスの活動を述べ、第二巻使徒言行録で昇天された主イエスが、聖霊を通して働き続けておられることを伝えようとしているのです。確かに使徒言行録を読んでいて印象的なのは使徒言行録でありながら、同時に、あるいはそれ以上に、度々、主イエスが指示を与え、力を発揮しておられるのです。使徒言行録であると同時に、聖霊の活動記録と言うこともできるものとなっています。
例えば牢に閉じ込められたペテロの鍵を外し、その扉を開け放してペテロを救出したり、幻の中でペテロに現れ、律法で禁じられていた物を食することが求められます。ペテロが拒んでいると、それらは神が清めたものであるという言葉があり、異邦人への道を開いて行きます。
更に印象的なのはパウロがまだサウロと呼ばれていた時、大祭司の書状を懐にキリスト信者たちを捕らえ、投獄する目的をもって息はずませながらダマスコへ向かっていた時、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかけ、彼を回心させ、異邦人伝道の器として彼を召し出される。この書は確かに使徒言行録にはちがいないのですが、その主人公は、今は神の右に座しておられる主イエスご自身です。
そして私たちはこの主が私たちに語りかけ、私たちを励ましておられることを知っています。今ここに昭島教会が70年という歴史を背負って、今もなお存在し続けているということは、復活し、昇天された主イエスが、この教会の中におられ、働き続けておられるということを忘れて、私たちのペンテコステはないのです。
現在の私たちは、私たちの教会は、福音書に記された主イエスの十字架と復活によって支えられ、今現在聖霊によって主イエスが証しされ、励まされながら、再び来たりたもうこの主イエスを待ち望みながら、日々その歩みを進めています。
「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者(聖霊)を遣わして、永遠に(私が)あなたがたと一緒にいるようにして下さる。[1]」他ならぬ主イエスが私たちと一緒にいたいというのです。一緒にいるために父なる神にお願いしようというニュアンスをもった言葉です。どういうことかと申しますと、肉体をもって生まれた主イエスの活動範囲は、生きている限りそれは限定されています。しかし霊となるならその活動範囲は、全世界に広がり、一度に500人以上の人々に現れることも可能となります。今日のテキストはユダヤという小さな民族の民族宗教でしかなかったユダヤ教を土台として、キリスト教という世界的な普遍妥当性を有した世界宗教が誕生したことを証ししている個所でもあります。
主イエスの十字架の死の意味というのは、主イエスが死ななければ、分からなかったことです。十字架の死こそ、主イエスが「救い主」であることを示すものだったからです。しかし死んでしまっては、自分の死の意味について語ることはできません。だからと言って語らないではいられない。このことは必ず語らなければならない。そこで主イエスの霊をイエスの死後に世界に遣わして、主イエスの死の意味について明らかにしたのがペンテコステです。大音響が響きわたったというのは、この主イエスの思いが次元的、空間的な壁を突き破られた時の音ということもできるかもしれません。またこの知らせを世界中の人々に届かせよという、神の大願の響きということもできるのではないかと思います。
私たちは「神は愛である。」という言葉を知っています。父なる神、子なる神、聖霊なる神、私たちはこれを三位一体の神と呼んでいます。すでに学んだように父なる神は確かに、人間を愛された。しかしその愛し方は、罰すべき者を罰しないではおかない仕方で愛された。そのことはアダムに対しては、園の中央にある木からは取って食べてはならないという命令として与えられた。しかしエバは蛇の「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ。」つまりはあなたは善悪を知り、神と並ぶ者となるというのです。それはエバには素晴らしいことのように思われたのです。蛇の誘惑もまるでそのことを、神が望んでおられるかのような装いの下に差し出されたのです。主イエスの荒野におけるサタンの誘惑の時も同じように、一見神の意志ではないかと思われるようなベールに包まれて主イエスに差し出されています。蛇の誘惑に負けたエバは、取って食べ、そしてアダムにも食べさせました。その結果神は二人を楽園より追放しなければなりませんでした。
出エジプトの際には、モーセを通して更に広範にわたる十戒が与えられた。しかしイスラエルの民はこれを守らず、金の子牛を造って拝んだり、他国の神々を礼拝したりして主なる神に従おうとはしませんでした。神は多くの預言者たちを使わして、この民に警告を与え、御もとにあつめようとしましたが、彼らは預言者たちを殺して、主なる神に聞き従おうとはしませんでした。神はこのイスラエルという国を滅ぼさざるをえなかったのです。父なる神の愛し方は、Be my people, then I shall be your God. (我が民であれ、そうすれば、私はあなたがたの神でいよう)というものでした。それは人間の状態如何により、救われたり、救われなかったりするものでした。私たちの状態如何により「然り」ともなり、「否」ともなるのでした。
これに対してキリストは、神に背いている人間を赦し、受け入れるという仕方で愛された。しかし、父なる神は罰すべき者を罰しないで、赦し愛する者を罰しないではおきませんでした。ゴルゴタの丘の上では、神と神が戦ったと言われるのはそのことです。父なる神は徹底的に神の義を貫かれた。これは罪ある人間には、神の怒りとして臨みました。この怒りはすべての人間の罪を背負った、十字架上の主イエス・キリストの上に下されたのです。しかし、独り子なるキリストも父なる神の裁きに、最後まで従順に従った。使徒信条によれば、陰府(よみ)にまで従順であった。
しかしここで終わってしまっては、主イエスの死の意味というのは、日の目を見ることなく、そんな生き方をした人がいたという言い伝えくらいにしかならず、二千年後の世界にまでつたえられることはなかったでしょう。これを確かなものにしたのが、主イエスの復活でした。復活は罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、神の怒りに打ち勝った神(主イエス・キリスト)の愛が勝利したことを示しているのです。
しかしこのことを伝える者がいない。この役割を担ったのが、聖霊です。
「『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』[2]」聖霊は復活者イエスの霊なのです。聖霊は勝利者イエスの霊なのです。そしてこの方が永遠に私たちと共におられるのです。
第2コリント人への手紙1:20には「私たち、つまり私とシルワノとテモテが、あなた方の間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において、『然り』となったからです。それで私たちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます。[3]」と記されています。かつて神は人間に対して、人間が神の愛に価するような状態になれば「然り」と言い、その愛に価しないようになるなら「否」と言われた。申命記11:26~28には、「見よ、私は今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、私が命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、私が命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。」と言われていた時は、私たちの救いは私たちの状態によって、「然り」ともなり、「否」ともなったのです。
しかし、今や罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、神の怒りに打ち勝った方が、私たちの内に住みたもうというのです。もはや私たちの内に自分の救いについて何の不安も残されてはいないのです。自分の罪に対して、死に対して、神の審きに対して、不安要素は何も残されてはいないのです。パウロは、「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、私たちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、(「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、[4]」)私たちのために執り成して下さるのである。だれが、キリストの愛から私たちをはなれさせるのか。[5]」と力強く証しをしています。父なる神は聖霊によって、勝利を獲得したのです。父なる神は子なるキリストを通して、聖霊において、人間の救いのわざを完成したのです。この聖霊(主イエスの霊が)が、時には「助け主」として、時には「弁護者」として、父なる神の御前にまで私たちに同行されるというのです。「私は、あなた方をみなしごにはしておかない。」と言われるのです。
マタイ福音書は、1:23の「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」という言葉で始まり、28:20の「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という言葉で締めくくっています。この聖霊が私たちを励ましつつ、自分の負う十字架に押しつぶされることがないように、いつも主イエスの平安に包まれていることを私たちに語り続けておられるのです。