2023年6月4日日曜日

悔い改めと赦し(2023年6月4日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 494番 ガリラヤの風

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「悔い改めと赦し」

使徒言行録2章37~42節

関口 康

「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。』」

先週私は体調不良で大切なペンテコステ礼拝を欠席し、秋場治憲先生にすべての責任をお委ねしました。ご心配をおかけし、申し訳ありません。私はもう大丈夫ですので、ご安心ください。

キリスト教会の伝統的な理解としては、わたしたちの救い主イエス・キリストは、もともと神であられましたが、母マリアの胎から人間としての肉体を受け取ることによって人間になられた方です。その人間としての肉体を受け取ることを「受肉(じゅにく)」と言います。

しかし、キリストは人間になられたからといって神であられることを放棄されたわけではなく、神のまま人間になられました(フィリピ2章6節以下の趣旨は「神性の放棄」ではありません)。そしてキリストは十字架と復活を経て、今は天の父なる神の右に座しておられますが、人間性をお棄てになったわけではなく、今もなお十字架の釘痕(くぎあと)が残ったままの肉体をお持ちであると教会は信じています。不思議な話ですが、これこそ代々(よよ)の教会の信仰告白です。

それに対して、聖霊降臨(せいれいこうりん)の出来事は、順序が逆です。もともと人間以外の何ものでもないわたしたちの中に父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださるという出来事です。わたしたち人間の体と心の中に神であられる聖霊が降臨するとは、そのような意味です。

昨年11月6日の昭島教会創立70周年記念礼拝で、井上とも子先生がお話しくださいました。井上先生が力強く語ってくださったのは、わたしたちが毎週礼拝の中で告白している使徒信条の「われは聖なる公同の教会を信ず」の意味でした。わたしたちは父なる神を信じ、かつ神の御子イエス・キリストを信じるのと等しい重さで「教会を信じる」のであると教えてくださいました。私もそのとおりだと思いました。

教会は人間の集まりであると言えば、そのとおりです。「教会を信じる」と言われると、それは人間を神とすることではないか、それは神への冒瀆ではないかと警戒心を抱かれる方がおられるかもしれません。しかし、聖霊降臨の意味は、わたしたち人間の体と心に聖霊なる神が宿ることですから、矛盾はありません。教会は「神」ではありませんが、神の御心を体現する存在です。

ただし、教会は多くの人によって構成されています。イエス・キリストはただおひとりです。しかし、教会は二千年前から今日に至るまでのすべてのキリスト者によって構成されています。今は天の御国におられる雲のように多くの信仰の先達と地上に残るわたしたちが一緒に集まって会議を開いたり、くじを引いたり、じゃんけんしたりすることはできませんが、教会の意志決定はいわばそのような形で行われます。いま地上にいる者たちだけの多数決で決められることは、ひとつもありません。聖なる公同の教会が簡単に人の手に落ちることはありません。聖霊なる神を宿すすべてのキリスト者が教会の過去・現在・未来においてひとつとなり、神の御心をたずね求めつつ、共に生きて行きます。教会の伝統を重んじるとは、そのようなことです。

今日の聖書箇所に記されているのは、最初のペンテコステ礼拝でなされた使徒ペトロの説教を聴いた人々の反応と、それに対するペトロの答えです。

ペトロはそこに集まった多くの人々に二度、「あなたがたがイエスを十字架につけて殺した」と言いました。「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、(イエスを)十字架につけて殺してしまったのです」(23節)、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)とあるとおりです。

ペトロの説教に人々は激しく動揺しました。わたしたちがメシアを殺してしまったというのが事実であれば神の裁きを免れないと恐れたに違いありません。人々はペトロとほかの使徒たちに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言いました。

神の言葉の説教を聴いた人々が「それでは、わたしたちはどうしたらよいのですか」と説教者に問い返す例が新約聖書の中にいくつかあります。たとえば、ルカによる福音書3章7節以下において、洗礼者ヨハネに対して群衆が「それでは、わたしたちはどうしたらよいのですか」と、三度も繰り返し問うています(ルカ3章10節、12節、14節)。また、言葉づかいは少し違いますが、使徒言行録16章で、使徒パウロがフィリピの牢で出会った看守がパウロとシラスに対して「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(使徒16章30節)と問うています。

その使徒言行録16章におけるパウロの答えは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16章31節)でした。今日の箇所のペトロの答えは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)です。

ペトロの答えとパウロの答えは、趣旨が同じとも言えますし、違うとも言えます。自分の罪を悔い改めて罪を赦していただくことと、イエス・キリストを信じて救われることは別々に扱おうと思えばできなくありませんし、そうしたい気持ちがわたしたちに起こらないとも限りません。なぜなら、自分の罪を悔い改めるためには、その前に自分が罪人であることを認め、自分の罪を真摯に直視しなければなりませんので、そこに心の痛みが生じるからです。

心の痛みを避けたい人は悔い改めることができません。もし可能なら、自分の罪を認めることも直視することもせずに、悔い改めないまま、ありのままの私のままでイエス・キリストの愛と恵みのうちに受け入れられて救われるほうがありがたいに決まっています。

ここで語られている「悔い改め」(メタノイア)とは、罪から目を背け、間違った方向から向きを変え、新しい方向に進むことを意味しています。イエス・キリストも洗礼者ヨハネも、人々に「悔い改め」を迫りました(マタイ3章2節、4章17節)。その教えをペトロが受け継ぎました。パウロは受け継がなかったでしょうか。パウロは「悔い改めを求めない信仰と救い」を教えたでしょうか。私はそのように考えることはできません。パウロもイエス・キリストの弟子です。

「悔い改めなさい。洗礼を受けてください。罪を赦していただきなさい」というペトロの言葉は、今のわたしたちにも語りかけられています。すでに洗礼を受けている方々が二度目の洗礼を受ける必要はありません。自分の罪を認めて直視する痛みを避けず、自分の行動を変更する勇気をもって生きるとき、イエス・キリストの愛と恵みが、わたしたちの心に深く沁みます。

(2023年6月4日 聖日礼拝)