日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 356番 インマヌエルの主イエスこそ
「主イエスの遺言」
ヨハネによる福音書14章15~31節
秋場治憲
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」
今日のテキストは「聖霊を与える約束」という小見出しがついています。来週は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。4月9日(日)のイースターから数えて40日目の今月18日(木)がキリストが天に帰られる昇天日でした。皆様の所へはよみがえられた主イエス・キリストは訪れましたでしょうか。復活した主を迎えることができましたでしょうか。きっと親しく臨まれたことと思います。今日は主イエスの昇天を記念する礼拝ということになります。日本基督教団の聖書日課は、マタイ福音書の最後28:16~20を選んでいます。復活した主が弟子たちを派遣する記事で、「私は天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイ福音書はこの言葉をもって終わっています。
我らの主イエス・キリストはすでによみがえって天にのぼられたというのに、どうして今日のテキストは依然として十字架前夜にとどまっているのかと思われた方もおられるかもしれません。それは主イエスは自分がいなくなった後の弟子たちのことを心配し、切々とその時の心構えを説いておられるからです。また聖霊についても詳しく説明しておられるので、今日の昇天を記念する礼拝、また来週にペンテコステ(聖霊降臨節)を迎えるに当たって、今日のテキストを選ばせていただきました。
ヨハネ福音書ではこの主イエスの「告別の説教」ともいうべきものが、13章の31節から16章の終わりまで続きます。来週はペンテコステ(聖霊降臨節)です。これから主イエス亡き後「聖霊の時代」に入ります。是非お帰りになりましたら、この長い告別の説教を一気にお読みになることをお勧め致します。
今日のテキストはその前半の一部分です。13章31節以下には「新しい掟」という小見出しがついています。「掟」という言い方は少々きつい言い方のような気も致しますが、その内容は「『互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。』[1]」というもの。主イエスの遺言の冒頭の言葉です。
戦国時代の武将で毛利元就という人が、三人の息子たちに自分亡き後を託して「三本の矢」の譬えを教えたという逸話が残っています。元就は3人の息子たちそれぞれに、矢を1本ずつ渡し、折ってみよと言う。矢は簡単に折れる。今度はそれぞれに3本の矢を渡し、同じように折ってみよと言う。矢は簡単には折れない。これによって父である元就は、自分(あるじ=主)亡き後、兄弟3人がお互いに助け合い、一族が結束することの大切さを説いたというもの。主イエスの遺言とは、その趣旨を異に致しますが、主(あるじ)亡き後を心配して語られた言葉として相通じるものがあると思います。主イエスはこれに先立って、弟子たち一人一人の足を洗い、互いに足を洗い合うこと、互いに愛し合うことの手本を示されています。そうすれば周りの人たちはみんな「あなたがたが私の弟子」であることを知るようになるというのです。神の国はこのようにして、互いの足を洗い合うことによって広がっていくというのです。
そしてユダの裏切りの予告、ペテロの離反の予告をしながらも、主イエスは事が起こったとき、弟子たちが信じるようにと切々と16章の終わりまで、主イエス逮捕の直前まで語りつづけます。私はここに書かれている内容もさることながら、主イエスが最後に渾身のエネルギーをふり絞って弟子たちの今後に向けて、語り続けている姿に圧倒されるのです。闇の世界へと出て行ったユダが祭司長、ファリサイ派の人たちが遣わした下役どもを引き連れて[2]イエス逮捕に戻ってくるまでには、もう時間が残されていません。その逮捕までに残されたわずかな時間に主イエスは父なる神に祈りを捧げられます。それは17章です。そこでも祈ることは、弟子たちの今後のことです。そういう流れの中で、主イエスは弟子たちに自分の代わりに聖霊を遣わすという約束をします。
聖霊というのはギリシャ語でパラクレートスと言います。パラというのは「傍ら」で・に」「そば」で・に」という前置詞で、クレートスというのはカレオ―「呼ぶ」「呼び出す」という動詞から派生した形容詞で「呼び寄せられた」「招かれた」という意味があります。これらが結び合わされてパラカレオーという動詞になると、「側へ呼ぶ」「呼び寄せる」という意味になり、また「助けを求める」「願う」更には「元気づける」「慰める」「励ます」という意味になります。
従ってパラクレートス(聖霊)というのは、私たちの傍らに呼び寄せられて「慰める者」「励ます者」「助ける者」「執成す者」「弁護する者」という広い意味を持った言葉であり、それは主イエス・キリストの霊であるというのです。新共同訳は「弁護者」を採用していますが、文語訳、口語訳、新改訳は、「助け主」を採用しています。どれが正しくて、どれが間違っているというものではありません。文脈上しっくりくると思われる訳を選べばいいと思います。
今日のテキストの冒頭に「あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る。私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」
この「真理の霊」が永遠に私たちと一緒にいて下さるというのです。しかもこの「真理の霊」は、私たちと共におられるだけではなく、私たちの内におられるというのです。「私はあなた方をみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」と言われる。この「みなしご」という表現はもはや師弟関係ではなく、父と子の関係であると言うのです。 少し前にトマスが「主よ、どこへ行かれるのか私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と質問したのに対して、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。[3]」と言われたように、聖霊は「真理の霊」であると同時に、「主イエス・キリストの霊[4]」であると言うことができます。私たちはこの言葉を忘れないようにしたいと思います。この言葉を忘れると、私たちは主イエスを通らずに、直接父なる神のもとへのぼろうとする
のです。そうすると私たちは自ら十字架を背負うことになり、自分が罪の内にあり、何と不信仰な者であるか思い知らされることになります。主イエス・キリストを通るということは、「主よ、信じます。信仰なき我を助けたまえ。」という我らを受け入れ、その衣をもって覆い、傷なき者として父なる神の御前に立たしめてくださるということです。人はだれもこの方を通らなければ、父のもとへ行くことは出来ないのです。私たちが自分の信仰に懐疑的になる時、この方を見失っています。次の15章にはぶどうの木の譬えが語られています。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。[5]」とは、先に述べた「私こそが道である」「私だけが真理である」「私以外に命はない」という言葉を分かりやすく解説している譬えだと思います。肝に銘じておきたい言葉です。
「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた方は私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。」この「しばらくすると」という言葉は、ギリシャ語でミクロンという言葉が使われています。「今少しで」「間もなく」というニュアンスで、事が切迫してきている緊張感が伝わってきます。
「かの日には、私が父の内におり、あなた方が私の内におり、私もあなた方の内にいることが、あなたがたに分かる。」という言葉が続きます。「かの日には」というのは、聖霊が臨む時ということです。
「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現わす。」「私の掟を受け入れ、それを守る人」とは、「互いに愛し合う」ということであり、主イエスの言葉を守る人ということです。その人は私の父に愛されるというのです。そして「私もその人を愛する」更に「その人に私自身を現わす。」と言うのです。「現す」という動詞は、「明らかにする」「示す」という言葉です。
ここでイスカリオッテでない方のユダが、「主よ、私たちにはご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」と唐突とも思えるような問いを出しています。このユダも他のユダヤ人たちと同じように、主イエスがいつか蜂起されることを期待しているようです。しかし主イエスはこの問いには直接お答えにはなっていません。その時は間もなくやって来るという思いをご自身の中に秘めながら、事が起こった時に弟子たちが信じるようにとその時の心構えをお話になります。
「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き、一緒に住む。」今語ってきたことの繰り返しになっていますが、ここで後半の言葉に注目してみたいと思います。父なる神は御子の言葉を守る人を愛される。それは「これは私の愛する子。私の心に適う者[6]」であると言われた方の言葉であるからです。続く言葉は「父と私はその人のところに行き、一緒に住む。」というのですが、これは正しい訳なのですが、その構造を見てみたいと思います。「その人のところに 我々は赴くだろう そして 住まいを その人と一緒に 造ろう」
RSVの訳を見てみると、易しい英語ですから、解ると思います。
Jesus answered him “If a man loves me, he will keep my word, and my
Father will love him, and we will come to him and make our home with him.
となっています。ここでour home となったことで、ここの言葉に一気に血が通ったと私は思うのです。(我々のために)と加えたのは、ギリシャ語では能動相、受動相の他に中道相というのがあります。これは例えば「分配する」という動詞が中道相になると「互いに分け合う」という相互的なニュアンスを持ちます。ここで「造ろう」という動詞は中道相であり、RSVのWe will make our home with him. の英語の方が、「一緒に住む」よりも、しっくりくるような気が致します。RSVはour home と訳したことで、その中道相のニュアンスを含めたのだと思います。少々専門的なことになって恐縮ですが、そんなに難しいことではないと思います。
パウロは「生きているのは、もはや、私ではない。キリストが、私のうちに生きておられるのである。」(口語訳―ガラテヤ2:20)と語っています。
これは私たちみんなの告白となるのではないでしょうか。
この方は「傷ついた葦(あし)を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく、真実をもって道を示される[7]」(口語訳)方、この方が私たちの内に生きておられるのです。私たちの心が傷つきうなだれる時でも、私たちの信仰が消えかけている時でも、あるいは消えてしまったと思われる時でも、キリストの愛はその燃えカスに火をともし、新たな炎を燃え上がらせる方である。
「私は、あなたがたといたときに、これらのことを話した。」これは現在完了形です。これらのことは主イエスがあなた方と生活を共にしながら語ってきたというのです。
しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、
あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
この聖霊は主イエスが地上におられる間は、弟子たちに臨まないのです。16:7を見てみますと、「しかし、実を言うと、私が去っていくのは、あなた方のためになる。私が去っていかなければ、弁護者(聖霊)はあなたがたのところに来ないからである。私が行けば、弁護者(聖霊)をあなたがたのところに送る。」とあります。主イエスが死に、復活し、昇天してはじめて人々に臨むことになるというのです。そして主イエスが存命中に語っても理解されなかったことを思い出させ、理解させ、主イエスについて証をなし、栄光を帰するというのです。(14:26、15:26)
主イエスは「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。[8]」なぜなら主イエスがこの地上に来られた意味は、主イエスが十字架上に死んではじめて理解されることだからです。しかし死んでしまった主イエスは、もう語ることはできません。そこで主イエスに代わってその意味を人々に語り、証しするために聖霊(主イエスの霊)が私たちに遣わされているのです。[9]
「私はあなた方に平和を残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と言う。さて主イエスが言われる「私の平和」とは何か。世が与える平和というのは、一喜一憂するもの。ある時は平和である。しかし次の瞬間には不安のどん底に突き落とされることがある。病気もある。災害もある。戦争もある。しかし、ここで主イエスが約束している平和は、すでに確立されている。だから心騒がせるな、おびえるなというのです。どういう風に確立されているのかというと、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがない。[10]」と確立されている平和だからです。
パウロはローマ人への手紙8章で私たちに対するキリストの愛が不動のものであることを、高らかに歌い、ほめたたえています。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるであるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。だれがキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」
こんこんと切々と繰り返し「恐れるな。心を騒がせるな。[11]」「私はあなた方をみなしごにはしておかない。[12]」と語り、「自分は去っていくが、また、あなた方のところへ戻ってくる。」そして、父なる神は自分の代わりに「聖霊」を遣わして、永遠に(いつまでも、いつも)あなた方と一緒にいることができるようにしてくださるということを伝え、だから「事が起こったときに、あなた方が信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。[13]」と最後の最後まで語り続けられました。
「もはや、あなた方と多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼は私をどうすることもできない。」という言葉も印象的です。「彼は私をどうすることもできない。」という言葉は、「彼は私に対して、何も持っていない」といっている簡単な言葉ですが、深く、重く響いてくる言葉です。ピラトが主イエスに語った言葉と対比する時、その違いが際立ちます。ピラトは「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」というのに対して、主イエスは「神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ。」と答えています。すべての権限を持っていると豪語するピラトの前にあって、何も持たない主イエスはこのピラトの権限の外に立っておられる。そして完全に自由である。文字通り「彼(ピラト)は私(主イエス)に対して何も持っていないのです。」
しかし、そのことを理解していなかった弟子たちは、主イエスが捕らえられた時、みんな姿を消してしまいました。
この弟子たちのところへ、よみがえられた主イエスが40日にわたって現れ、そして昇天、そして主イエスが約束しておられた聖霊を送られた。
そのことは弟子たちに生前の主イエスの為したこと、語られたことの真意を理解させたのです。
ユダヤ人たちを恐れて、すべての扉に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちが、聖霊を受けて、よみがえります。主イエスが約束していたように、弟子たちを代表してペテロの大説教が使徒言行録にあり、来週ペンテコス
テのテキストとなっています。聖餐式もあります。