2021年3月14日日曜日

主の変容(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)

讃美歌21 311番 血潮したたる 奏楽・長井志保乃さん

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マタイによる福音書17章1~13節

関口 康

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」

おはようございます。礼拝堂を開放しての礼拝を再開して3週目です。1都3県に対する政府の緊急事態宣言は、現時点の説明では来週日曜日まで続くようです。

しかしまた、たとえば私は今ほぼ毎日のように、電車やバスに乗って遠くの学校まで出かけ、外出先で食事をしています。対策をとっているかぎりはふだんと全く変わりません。それで怖いと私はもう思いません。

怖がる理由、外出しない理由、人と会わない理由を探し始めれば、事欠くことはありません。しかし、テレビや新聞の情報がすべてではありません。私が何を言おうと、誰の何の参考になるとも思いません。しかし、東京や神奈川の中心部分の状況を、自分の体と目で確かめています。

今の日本の政治を司る人々がもっと信頼できる人たちであれば、あの人々の言うとおりに動くことはやぶさかではありません。しかしそれが難しい状況です。これ以上は言わないでおきます。礼拝堂を閉鎖し続ける理由はもうないと私個人は考えています。

いま申し上げたことと、今日の聖書の箇所とが直接関係あるわけではありません。無理に関係づけたいとも思いません。しかし、この箇所に何が描かれているのか、聖書が何を言おうとしているのかを考えると、あながち全く無関係とも言いがたいところがあることをご理解いただけるのではないかと思えてきます。

イエスさまが、12人の弟子のうちの3人を特別にお選びになって、高い山に登られたというのです。その3人の弟子は、ペトロとヤコブとヨハネでした。「山頂で」とは書かれていませんが、登山の目的地が頂上でないということがありうるでしょうか。おそらく山頂かその付近でのことではないかと思われます。イエスさまのお姿が変わった、というのです。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。

姿が変わるというのは、何か違うものに化けることを言うのかもしれません。イエスさまが何か別の存在へとお化けになられたのかどうかは分かりません。山に登って、頂上付近で、太陽の光に照らされて、顔と服が輝いたというような話かどうかも分かりません。

もし何か途轍もないことが起こったのだとしても、それを目撃したのは、この箇所に書かれているとおりに考えれば、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけです。この3人が何を見たのか、あるいは何を感じたのか。そのことをわたしたちは、今日の箇所を読んで想像するしかありません。

続きを読みます。高い山でイエスさまのお姿が変わりました。そして、そのイエスさまの前にモーセとエリヤが現れ、その3人の語り合いが始まったというのです。

モーセは紀元前13世紀の人です。イスラエル人を、彼らが奴隷状態にされていたエジプトから脱出させ、約束の地カナンまで連れて行った人です。そしてその旅の途中で「モーセの十戒」を定めたことで知られます。エリヤは紀元前9世紀の人です。イスラエル王国が南北に分裂した後の時代の北王国の預言者で、バアルと呼ばれる異教の神を信じる人たちと対決しました。

その人たちがイエスさまの前に現れた、というわけです。ですから、こういう話というのは、どうしてこういうことが起こりえようか、科学的にありえない、というふうにたとえば反応するのは、そもそも聖書の読み方自体を間違えているとしか言いようがないです。

このように言えばおそらく皆さんにご納得いただけるでありましょう範囲内の言葉で言い換えれば、高い山の上で、ペトロとヤコブとヨハネが見ていたのは、イエスさまがモーセやエリヤについて熱を込めて説教なさるお姿だったのではないかということです。

モーセとエリヤの共通点を強いて言うとすれば、今のわたしたちが「旧約聖書」と呼ぶ39巻の書物の中で最も有名な人たちであるということでしょう。イスラエル人を危機の中から助け出す働きをしたという意味で、イスラエルの人々にとっての国民的英雄として知られている存在です。

その人々のことをイエスさまが、弟子たちに熱を込めてお話しになったのではないでしょうか。イエスさまはモーセとも語り合い、エリヤとも語り合い、そしてその語り合いの中に弟子たちを招き入れられたのではないでしょうか。

「ペトロが口をはさんでイエスに言った」(4節)と記されています。「口をはさむ」と言うと、まるでペトロが邪魔しているかのようです。

イエスさまは何も、弟子たちを放ったらかしにして、モーセとエリヤとの語り合いだけに夢中になっておられたわけではないでしょう。そういうのは礼拝に集まっている人たちの心に届かなくてもお構いなしの、まるで独り言のような説教をしているのと同じでしょう。

説教をさえぎって何かを言えば「私語を慎んでください」と注意されるかもしれませんが、説教者と会衆が対話の関係になることが間違っているとは言えないでしょう。

脱線しかかっているので、話を元に戻します。ペトロがイエスさまにひとつの提案をしました。その内容をかいつまんで言えば、せっかく素晴らしい方々がお集まりなので、お3人のために、わたしがここに仮小屋を3つ建てさせていただきますが、いかがでしょうか、ということです。

そうすれば、いつまでも、何日でも、じっくりお話しできるでしょうというような意味かもしれません。やっぱりちょっと余計なことを言っているようでもあります。こういうことをもし本当にペトロが言ったのだとすれば、口が過ぎる感じがないわけではありません。

しかしまた、ペトロが言っていることをもう少し厳しく考えると、ただ口が過ぎるというだけではなく、事柄のとらえ方に間違いがあるとも思えてきます。それは、ペトロが、イエスさまとモーセとエリヤのために「仮小屋を3つ建てる」と言っているところです。

つまり、ペトロは、3者を同格に見ています。ペトロの側からすれば、イエスさまを信じているけれども、モーセもエリヤもイエスさまと同じ意味で信じている、信頼している、という意味を持ち始めるでしょう。

しかし、ペトロがそう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が聞こえ、彼らが目を上げると、モーセもエリヤもいなくなって、イエスさまだけが残っていたというのです。つまり、イエスさまの弟子はイエスさまの言葉に従って生きなさいと、彼らに明確な示しがあった、ということです。

このように考えると今日の箇所全体のテーマが分かってきます。イエスさまの弟子は誰に従うのか、です。イエス・キリストの教会は、イエス・キリストの言葉に従うのです。

現代の教会においては、全く通用しない話でしょうか。医学と科学と世論に従うだけならば、宗教は不要でしょう。そう思っている人たちは、もはや教会に足を向けることはないでしょう。

しかし、それでは済まないと思っている人たちが、教会に集まるのです。私もそうです。教会でなければならない意味があると思っているので、牧師を続けています。

すべての判断は各自に任されています。強制はありえません。それぞれ自分の確信に基づいて生きるべきです。

(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

2021年3月7日日曜日

受難の予告(2021年3月7日 自宅・礼拝堂礼拝)

石川献之助牧師(最奥)と昭島教会
(画像は約2年前のものです)

讃美歌21 303番 丘の上の主の十字架 奏楽・長井志保乃さん

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マタイによる福音書 16 章 13~28 節

牧師 石川献之助

「それから弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは決して死なない者がいる。」

私たちの教会生活も信仰生活も、聖書の御言葉に従いながら祈りをもっておくられるものだということは当然のことであります。本日与えられた御言葉のごとく、主イエスの弟子たちも、その当時主の御言葉を心におきながらその弟子としての日々をおくっていたことを知らされるのであります。字句の聖書のように私共もまた、主の御言葉を糧として日々をおくることが必要であります。

本日は教会歴でいえば受難節第三主日であります。主イエスは神の子として歩まれました。主が言われたことは、単に不言実行という言い古された教訓でしょうか?誰でも苦労の無い痛みのない道を選びたい、それなのに十字架への道を歩まれた、その意味は何でしょうか?その事を深く考える事こそが、受難節の意味であると思うのです。

受難節が設けられたとは、この問題意識から起こったこと、つまり受難の意味に与り、復活節を迎えるためであるのです。皆さんと御一緒に、このことを考えて今の時を過ごしたいと思います。

今朝与えられました御言葉は、マタイによる福音書 16 章 13 節から 28 節であります。13 節からは、ペトロの信仰について書かれています。

主イエスは、十字架が待つエルサレムに向かわれる前に、フィリポ・カイザリアに行かれ、弟子たちに「人々は人の子のことを何者だと言っているか」(13 節)とお尋ねになりました。弟子たちは、主イエスを洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だなどと言う人がいると答えました。それから弟子たちに同じ質問をされました。もしかしたら、しばらく沈黙があったかもしれません。

するとシモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16 節)と答えました。主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(17 節)と示されました。

人々はこれまでの人間が考えられる限りにおいて最高の存在として主イエスを捉えていました。しかしペトロは主イエスを「メシア、生ける神の子」だと告白をします。この重大な信仰上の発見を聞いた主イエスは、「あなたはペトロ。この岩の上にわたしの教会を建てる」(18 節)と仰られたのです。

21 節からは、主イエスの身にこれから起こる十字架の出来事は、突然の出来事ではなく、必然的な道であるということを、主は弟子たちにうちあけておられたのであります。まさにこの時が「受難の予告」をされた最初でありました。その事を打ち明けられた弟子たちにとって、この時点で主イエスの最も重要な使命を理解することは、極めて難しい事柄であったことでしょう。

十字架への道は、主イエスお一人で歩まれました。岩の信仰と認められたペトロでさえ、「サタン、引き下がれ」と主イエスより叱責をうけたのです。忠実な弟子たちも、主イエスの言葉の真意を理解し、主の御苦しみに思いをいたすことはできなかったのです。このことを心に留めながら、この受難節その主イエスの秘義に少しでも与りたいと思います。

十字架の贖いの業は、主イエスにしか成就できない業であり、主イエスは自ら進んで十字架に歩み寄られたのであります。主イエスは人々の罪の値のために、生贄としてご自身をささげられました。この最も尊い十字架の贖いの業の根底には、主イエスの愛があるのです。

姦淫の罪のため石打の刑に処されようとしていた女性に、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。」(ヨハネ 8 章 10~11 節)といって人間を祝福し、示して下さった主イエスの愛があればこそ十字架の出来事が起こったのであります。主イエスが与えて下さった許しというものを心に置くとき、私たちは普段の生活においても主イエスが与えて下さる愛に感謝する、主イエスを好きになる、そのような思いに駆られるのであります。

その愛のお方が「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(24~25 節)と語りかけて下さっています。主イエスにならい神様の御心を実現するべく祈りをもって歩みたいと思います。

他方、現代に生きる私たちは、法の支配のもとに社会生活を営んでいます。コロナウイルスの緊急事態宣言下にあって、礼拝さえもその法則に従ってご承知の様な状態を強いられました。教会の兄弟姉妹の交わりも困難な状況が続きました。このような中であらためて教会で礼拝をささげる事の大切さや交わりの豊かさを再認識させられる思いです。

少しずつ教会の活動再開に向けて歩み始めた今、安全な対策を工夫しながら、互いの交わりを取り戻し深めていく必要を強く感じています。これからも適宜、教会生活に励みつつ、皆さんで教会生活を取り戻すべく力をあわせてまいりたいと思います。

(2021年3月7日 日本キリスト教団昭島教会主日礼拝宣教要旨)

2021年2月28日日曜日

罪と戦うキリスト(2020年2月28日 自宅・礼拝堂礼拝)

【お知らせ】

なおしばらく各自自宅礼拝を継続しますが、本日2月28日(日)より礼拝堂を開放いたします。10時半から礼拝を行います。出席は可能です。役割分担は当分決めません。通常礼拝再開に向けての準備段階です。ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
 
自転車で週報をお届けしています(昭島市つつじが丘付近)

讃美歌21 311番 血潮したたる ピアノ奏楽・長井志保乃さん

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マタイによる福音書12章22~32節

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」

各自自宅礼拝は継続します。しかし、今日から礼拝堂を開放しています。「ぜひご出席ください」と強くお勧めする段階にはまだ至っていないと認識しています。どうかくれぐれもご無理のないようにご判断いただきますようお願いいたします。

私は決して忘れているわけではありません。今は「受難節」です。イエス・キリストのご生涯は苦難に満ちたものでした。わたしたちの罪の身代わりに十字架上で命をおささげになる日まで父なる神の御心に従われました。そのことを思い起こし、わたしたちの罪を悔い、主の前にひれ伏して過ごす大事な季節です。

しかし、いま私たちは各自自宅礼拝を続けています。教会のみんなが互いに顔を合わせることができていません。日本社会の中で定着しているわけでもない「教会暦」を重んじて行動することの困難を私は感じています。

しかし、先日ひとつの気づきがありました。それは、3日前の2月25日(木)に教会の週報を私が自転車で何人かの教会員のお宅まで届けに行った日です。ご高齢であるのと、お目がご不自由であるのとで、毎週の礼拝出席は難しいけれどもイースターとクリスマスの礼拝には毎年必ず出席してくださるMさんと、西立川駅の近くでお会いしました。

お互いにマスクをしていました。私がこの教会に来て丸3年です。クリスマスとイースターの礼拝に来てくださるMさんとは6回はお会いしていますと言いたいところです。しかし昨年(2010年)のイースター礼拝が各自自宅礼拝でした。Mさんとの出会いは1回引いて5回です。それくらいお会いすれば、マスクをしていてもMさんだと分かります。お声をかけたら「なんでこんなところにいらっしゃるんですか」と驚かれ、喜んでくださいました。

そのMさんが、3日前にお会いしたとき、「イースター礼拝は、今年はいつですか」と真っ先に尋ねてくださいました。手に持っていたアイパッドで確認して「4月4日です」とお答えしたら「イースター礼拝、今年はありますよね。出席したいです」とおっしゃいました。

Mさんはおひとりでお住まいです。どのような生活をされているかをお尋ねしたりお宅を訪問したりするのが難しいので、想像するだけです。年2回、クリスマスとイースターの礼拝に出席すると心に定めておられることが分かりました。そして、昨年のイースター礼拝が各自自宅礼拝になったことがMさんにとってどれほど残念だったかを想像して、胸がつまりました。

私が今しているのは「教会暦」の話です。生まれたときから教会生活をしてきた私などは教会暦に何の意味があるのかが分からないことのほうが多いです。しかし、いまご紹介したMさんのような方がおられることを忘れないようにしたいと思わされました。

今日の聖書の箇所の話に移ります。この箇所に描かれているのは、イエスさまが、目や口が不自由な人たちをいやされるわざを行われて、多くの人々の称賛をお受けになったとき、要するにそれを妬んだ人たちがいて、その人たちがイエスさまについてありもしない中傷誹謗を言い出したのに対して、イエスさまが反論されている場面であると説明できます。

イエスさまが病気や障碍を持つ人々をいやす方法が現代の医学とは全く違うのは、当然のことです。悪霊にとりつかれることが病気であり、その悪霊を心と体の中から追い出すことが治療であると信じられていた時代の話であるとしか言いようがありません。21世紀の私たちが2千年前と同じ治療方法を踏襲しなければならないわけがないし、よりよき治療方法が見つかればそれを用いるほうがよいに決まっています。イエスさまの治療方法は間違っているのではないかというような問題に引っかかって聖書が読めなくなるよりましです。

とにかく人の体や心が、痛い、苦しい、つらいと悲鳴を上げているときにその痛み、苦しみ、つらさを和らげること、取り除くことができれば、それがいやしなのだと思います。今のわたしたちでも、とにかく薬を飲めば治ると信じて、その薬を定められた量以上に飲むとかえって痛みが増したり、薬そのもので内臓が痛んだりするのを知っているはずです。

いやしは、ある意味で主観的な事柄でしょう。いいかげんなことを言っているように思われるかもしれませんが、自分にとって治ったと思えるなら治っているのです。「あなたは病気です」と人から言われても、自分にその自覚がないのなら、病気ではないのかもしれません。

しかし、いま申し上げている問題は、今日の箇所のテーマではありません。この箇所の問題は、イエスさまの働きが当時の多くの人々にとって有効なものであることが認められて、多くの人々から称賛を受けられたとき、それを妬んだ人たちがいたということです。

それは明らかに嫉妬です。私が持っている古い広辞苑(第4版)によると、「嫉妬」とは「自分よりすぐれた者をねたみ、そねむこと」です。「ねたみ」とは「他人のすぐれた点にひけ目を感じたり人に先を越されたりして、うらやみ憎むこと」です。「うらやむ」とは「人の境遇・資質などが自分より良いのを見てねたましく思うこと」です。

辞書の定義としては「うらやむ」とは「ねたむこと」であり「ねたむ」とは「うらやむこと」であると、同じ言葉が繰り返されてぐるぐる回っているだけですが、意味はわかります。共通しているのは、他人と自分の比較であり、とくに同一のあるいは類似した仕事や立場にいる同士の間での比較です。同じ肩書きを持ち、同じ職務についているのに、私にできないことが、あの人にはできる。そのことに我慢できず腹を立て、できる人の働きを妨害して、足を引っ張ろうとするのが、嫉妬であり、ねたみであり、うらやみの意味です。

そのような感情を抱いた人々が、イエスさまの働きについて「悪霊の頭ベルゼブルによらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)とくだらない噂を流したのです。「悪霊を追い出すためには悪霊の力を借りなくてはならない。つまり、イエスは悪霊を操っているのだ」と。

中傷誹謗のたぐいですから、無視なさってもよかったかもしれません。しかし、イエスさまは丁寧にお答えになりました。悪霊で悪霊を追い出すというのは内輪もめになるが、わたしは神の霊で悪霊を追い出しているのだと、興味深いお答えをなさっています。

「嫉妬」の問題は手強いです。おそらくだれもが持っていて、しかも制御しにくい感情です。それが心の中にとどまっているなら、まだ大丈夫です。心の外へと飛び出して精神的または物理的な暴力へと発展し、実際に他人の人生を破壊することがありうるだけに、凶悪な罪です。

しかし、その罪に対してイエスさまがどのような態度を示されたかが大事です。暴力に暴力で返すのではなく、丁寧にお答えになるイエスさまの姿を思い浮かべることができます。私たちの心の中の「嫉妬」という名の罪をイエスさまが取り除いてくださると信じようではありませんか。

(2021年2月28日 自宅・礼拝堂礼拝)


2021年2月21日日曜日

荒れ野の誘惑(2021年2月21日 各自自宅礼拝)

週報を自転車でお届けしています(昭島市中神町付近)

讃美歌21 458番 信仰こそ旅路を オルガン奏楽・長井志保乃さん

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マタイによる福音書4章1~11節

関口 康

「すると誘惑する者が来てイエスに言った。『神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある。』」

今日の午後、定例役員会・運営委員会を開きます。その中で通常礼拝再開のタイミングを協議します。協議を経る前に私が強い意見を持ちますと、自由な発言の妨げになりますので、それは控えます。しかし、ある程度は客観的な状況についてお話しすることは可能でしょう。

私は今でも週3日は朝早く電車やバスに乗り、2つの学校で聖書を教える授業をしています。行きも帰りも多くの人が、電車やバスに乗って移動しています。どちらの学校にも多くの生徒と先生が毎日集まっています。生徒は学校で昼食を食べています。もちろんすべての場所で対策がとられています。教会だけが極端に危険であるということはないでしょう。私に分かるのはその程度のことです。方針が固まり次第、皆様にご連絡いたします。

今日の聖書の箇所に記されているのは、教会生活が長い方にとっては何度聞いたか分からないほどよく知っているとお感じになるに違いない内容です。イエスさまが宣教活動をお始めになる前に、荒れ野で悪魔の誘惑に遭われたときの出来事です。

しかし、イエスさまが悪魔の誘惑に遭うとは具体的に言うと何のことでしょうか。その問題については私も毎回悩みます。皆さんはお分かりですか。人間でもなく野獣でもなく神でもない、怖い鬼のような顔の悪魔が歩いて来て、イエスさまに話しかけてきたのでしょうか。そうだったのかもしれませんが、そうでなかったかもしれません。

いえいえ、全くそういう話ではなく、イエスさまの心の中の葛藤のようなものだ。それを物語風に説明しているだけだ。つまりこれは、現代社会の中で高度に発達してきている心理学のようなことで十分に説明できる心理的な出来事である、という考え方もありうるでしょう。

私はどのように考えるか。どちらかというと今申し上げた二つのうち、あとのほうに近いです。イエスさまの心の中の葛藤のようなことではないかと考えます。ただし、イエスさまをあまりにも私たちと同じ人間としてとらえすぎて、イエスさまも選択肢をひとつ間違えば悪魔になる可能性もありえたかのように考えるのは、方向を間違っているような気がしてなりません。

しかし、この出来事をイエスさまの心の中の葛藤のようなこととしてとらえることにメリットがあります。それは、イエスさまが荒れ野で受けられたのと同じ誘惑を、わたしたちも受けるし、今も毎日のように受け続けているかもしれないことに気づかせてもらえるメリットです。

イエスさまがお受けになった3つの誘惑は、第1に「石をパンに変えること」、第2に「神殿の屋根から飛び降りること」、そして第3に「悪魔にひれ伏して世界の支配者になること」でした。それぞれの誘惑が何を意味するかは分かりません。マタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、ルカによる福音書にも同じ話が出てきますが、どれにも誘惑の意味は記されていません。記されていないということは、わたしたちがそれを解釈しなくてはならないということです。

石をパンに変えることができれば、自分自身だけでなく多くの人の利益になるので、みんなが喜んでくれるでしょう。そしてそれは、考えてみれば完全に不可能なこととは言い切れません。ダイヤモンドは石でしょう。あの石に値段をつけて売れば、相当なお金になるでしょう。それでパンを買って困った人に差し上げることができるでしょう。そのような意味のことが今日の聖書の箇所に記されていると、いま私が申し上げているわけではありません。「石をパンに変えることは絶対に不可能だろうか」という問いを立てて、その答えを考えてみているだけです。

神さまを信じているなら、神殿の屋根から飛び降りても、神さまが助けてくださるだろうから、試しにやってみる。そのことも、できるかどうかを言うなら、できるでしょう。そこが「神殿」でなくても、また「飛び降りる」というような口にしたくないことでなくても、あえて危険なことをしてみせて、何とかなるだろうと高を括る。それを「勇気」とか「信仰」とか呼ぶ。しかも悪魔はその危険行為を自分でするのではなく、イエスさまにさせるのです。使役するのです。

悪魔にひれ伏して世界の支配者になる、というのは、よくあることとまでは言わないにしても、人生経験を重ねて来れば、全く身に覚えがないとは言えなくなるでしょう。会社で出世したくて、社会で成功したくて、ライバルを蹴落とした、蹴散らした。ずるい方法も使った。越えてはならない一線を越えた。すべては自分の地位を守るため、財産を守るため。

イエスさまは、困った人にパンを差し上げることをなさいました。どんなことがあっても必ず助けてくださる神さまを信じて、冒険的なことをなさることもありました。そして、イエスさまは真の意味での世界の支配者になられました。クリスマスもイースターまでも世界中のどの国の人も、日本でも祝うようになりました。その意味を分かっているかどうかは深く問わないでおきましょう。どちらもイエスさまの生涯とかかわります。そのお祝いを世界中の人が今しています。

しかし、イエスさまは、今あげた3つの働きのどれについても、悪魔にひれ伏して手に入れたような方法でない、全く正反対の方法で成し遂げられました。その方法とは何でしょう。イエスさまがなさったのは、安息日ごとに会堂に集まって、礼拝をささげ、み言葉を語ることでした。それが宣教です。そして、お祈りと賛美をおささげになりました。そして、そのうえで、み言葉に耳を傾ける人々と共に生き、慰め励まし、病気の人をいやされました。

しかし、み言葉を語れば語るほど、反対する人たち、反発する人たちも増えて来て、その人々からの憎しみや怒りを買うようになり、とうとう十字架につけられて殺害されました。

もしイエスさまが、もう少しずる賢い方で、「うまく生きていく」すべをご存じなかったわけではないでしょうけれども、それを現実に実践し、人を人とも思わないような高圧的な態度で周囲を踏みつけるタイプの支配者だったとしたらどうだっただろうと考えてみることは、無意味ではないかもしれません。そのように考えた結果については言いません。各自で考えてみてください。

そして、それを考える際に、「教会」が「安心できるところ」であるともしわたしたちが感じるとすれば、どこにそれを感じるのだろうかということも、考えてみていただきたいです。

私の答えを言います。「教会」が「安心できるところ」なのは、悪魔にひれ伏して独裁的支配力を手に入れるイエスさまではなく、正反対のイエスさまがわたしたちと共にいて、わたしたちを力強く守ってくださっていることを感じるからです。

「退け、サタン」というイエスさまの声で悪魔は退散したのでしょう。あの安心できるところに、またみんなで集まり、「ああ なつかしい教会へ 今日こそみんなで帰ろう」(讃美歌第二編189番)と共に歌おうではありませんか。

(2021年2月21日 各自自宅礼拝)

2021年2月14日日曜日

奇跡を行うキリスト(2021年2月14日 各自自宅礼拝)

牧師館書斎

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マタイによる福音書14章22~36節

関口 康

「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」

昨夜の大きな地震には驚きました。23時8分、福島・宮城沖で発生したとのことです。教会は大丈夫でしたが、皆様はいかがでしたでしょうか。ご無事をお祈りしています。

今日の聖書箇所に登場するイエスさまの弟子たちも恐怖に怯えていました。それは湖に浮かぶ舟の中での出来事でした。

よく知られているように、イエスさまの弟子たちの中には何人か、元の職業が漁師だった人がいました。舟を漕ぐことのプロフェショナルが揃っていたと言えるでしょう。しかし、その彼らを悩ませるほどの逆風と波が襲いかかってきました。それが夕方から始まり、夜明けまで続いたというのです。

すると、夜が明けるころイエスさまが「湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(25節)というのです。通常はありえないことです。しかし、そのようなことが本当に起こったと、今日開いていただいているマタイによる福音書にも、マルコによる福音書にも、ヨハネによる福音書にも記されています。

「こういうことが書かれているから聖書が嫌いだ」とおっしゃる方がおられます。昭島教会の皆さんの中におられるという意味ではなく一般論です。ウソとしか言いようがないことがまるで本当に起こったかのように書いてある。おいそれと信じられるわけがないではないか。どうしてこんなことをクリスチャンは真顔で信じていられるのだろうと。そういう感想をいろんなところでよく聞きます。私もだいたい同じ気持ちです。すんなり受け入れられる内容ではありません。

もちろん、それはそうなのです。しかし、大事な点を見落としてはならないと私は思います。私が思い出す言葉は、英語で言えばDon't throw the baby out with the bathwater.という欧米圏で知られる有名な格言です。

それは「産湯と一緒にその中の赤ちゃんまで流さないでください」という意味です。どこの国の、どの時代の、だれが最初に言ったかは不明だそうです。しかし、この言葉が聖書の奇跡物語に当てはまります。書かれていることを信じられないからといって書かれている言葉に含まれている大切なことまで捨ててしまうのは勿体ないです。

はっきりしているのは、今日の箇所に描かれているのは、嵐の湖上で孤立して怯えながら一夜を明かした弟子たちのところに、何がどうなってそうなったかを説明するのはものすごく難しいことだけれども、そういうことはすべて脇に置いて、とにかくイエスさまが来てくださり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)という言葉で励まし慰めてくださった出来事である、ということです。

そんなことを脇に置けるわけがないだろうとお考えになる向きがあることも当然理解できます。私もほとんど同じ気持ちです。しかし、この箇所に描かれているのと同じようなことが、わたしたち自身の現実の中でも、意外なほど、不思議なほど起こるということも、わたしたちは同時に知っていると思います。

なにがなんだか分からないけれども、とにかく助けられた。「一寸先は闇」の状況まで追い詰められたけれども、どっこいまだ生きている。あせって、乱れて、狂いそうだったけれども、心が落ち着いた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という、どこか懐かしくて温かい声が聞こえた、または聞こえたような気がした。それで我に返った。正気になった。冷静になることができた。そういう瞬間をわたしたちは体験するし、してきたのではないかと思います。

それが誰の声かは分かりません。もしかしたら自分自身の声かもしれませんし、家族の声かもしれないし、教会の仲間や牧師の声かもしれません。むかし学校で教えてもらった先生の声かもしれません。

しかし、それはだれの声でもいいでしょう。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われ、それで本当に心が落ち着き、「もうこれ以上は無理だ」とあきらめることをやめて、冷静な舵取りを再開し、向こう岸にたどりつくことを、自分の力だけで成し遂げたとはどう考えても言えないような仕方でやってのける。「終わりよければすべてよし」というような軽い話ではないと思いますが、とにかく要するに、まだ生きている、自分の足でまだ立っているという状況まで至れば、それでよいのです。

今日の箇所に書かれていることからだいぶ離れて、いいかげんなことを話しているようで申し訳ありません。ペトロがイエスさまに、自分も湖の水の上を歩きたいと言い出して、「来なさい」とイエスさまがおっしゃって、実際に水の上を歩き始めたけれども、強い風に気がついて、怖くなって、沈みかけたので「主よ、助けてください」とペトロが言ったら、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とイエスさまに叱られた、というような話が続いています。

こういうのも面白おかしく読めばよい、というのは不謹慎な言い方かもしれませんが、「お話にならない非科学的で荒唐無稽な虚偽の記述である」と、しかめっ面で拒否するよりはましです。これも先ほどご紹介した「産湯と一緒に赤子を流すな」です。

ここに書かれていることの意味を考えるとしたら、ペトロは自分にもイエスさまと同じことができると思い込んで、自分の力に頼って、イエスさまの真似をしようとしたらできなかった、ということでしょう。「信じる」とは自分の力に頼ることの正反対を意味する、ということでしょう。このことさえ分かれば、この物語が読者に伝えようとしていることの目的は達成しているのです。あとのことはどうでもいいとは言いませんが、奇跡物語が苦手で聖書全体を捨ててしまうよりはましです。

私の話はしないでおきます。「先生、まだ若い」と皆さんからよく言われます。学校の生徒たちからまで言われます。人生体験を語る資格はありません。皆さんのほうが余程ご存じでしょう。あのとき危なかった。大怪我をしたけれども、まだ生きている。奇跡だとしか言いようがない。焦る気持ちの中で「安心しなさい」と、私を落ち着かせてくれる声が聞こえた気がした。

その体験がおありでしたら(きっとあるでしょう)、今日の聖書の箇所の意味が分かるはずです。わたしたちをいつも見守り、助けてくださるために、身を乗り出して来てくださる方がおられることを信じてよいのです。今ここに、各自自宅礼拝に、主が共におられるのです。

(2021年2月14日 各自自宅礼拝)

2021年2月10日水曜日

常に時流に逆らった神学者ファン・ルーラー(拙訳)


ファン・ルーラーについての比較的新しい情報をオランダの新聞(ネット版)で見つけましたので、久しぶりの拙訳で紹介します。

ディルク・ファン・ケウレン先生は、2007年から刊行が開始され、2021年2月現在いまだ完成していない、1万ページを超える『ファン・ルーラー著作集』全12巻(予定)の編集長です。

彼は1964年生まれなので、1965年生まれの私と同世代です。2008年12月の国際ファン・ルーラー学会でお会いしました。ルックスは12年前と全く変わっていないので安心しました。私も変わっていませんけどね。

この著作集が完成したら私の研究を再開したいと思っているので、まだしばらくのんびりできそうだと、たかをくくっています。そんなことを言っているうちに、目はかすみ、体力を失い、死んでいくのでしょう。

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「常に時流に逆らった神学者ファン・ルーラー」

クラース・ファン・デア・ツヴァーク

2020年12月14日14:00

(関口康訳)

「ファン・ルーラーは同じ時代を生きる人々が求めているものを正確に感じ取っていた」。

このように2020年12月15日(火)に発売される『ファン・ルーラー著作集』第5巻(上)の編集長であるディルク・ファン・ケウレン博士が述べている。

このたび発売される巻は約800ページある。全体は、次の5つの部分に分かれている。

Ⅰ 牧師の視点から見た教会

Ⅱ 教会の諸側面

Ⅲ 日曜日・教会生活・礼拝・教会建築

Ⅳ 説教

Ⅴ 聖礼典

しかし、『著作集』はまだ完成していない。残っているのは、以下の部分である。

第5巻(下)信仰告白と教会訓練

      国民教会

      伝道と宣教

第7巻(上)宗教改革とエキュメニズム(カトリックとの関係)

第7巻(下)他の神学者たちについて

『ファン・ルーラー著作集』は総ページ数約1万ページに及ぶ全12巻になった。編集長ファン・ケウレンが次のように書いている。

「ファン・ルーラーはミスコッテとノールトマンスに次ぐ20世紀オランダの3大神学者に数えられる。ファン・ルーラーは他の2人と同様に独創的である。しかし彼が書いたものはあまり読まれなかった。彼が書いたのは、短くて、連載もので、教会の幅広い読者層向けのものだった」。

しかしファン・ルーラーは、教会が彼を無視し、黙殺することに対して不満を持っていた。彼は当時の流行に同意していなかったからである。

「まさにそれが悩みだった。彼の本は神学雑誌で無視された。しかし、そのような本が教会の機関紙で活発に議論されたことは驚嘆に値する。ファン・ルーラーは常に彼の時代に反応した。教会が右に移動すると、彼は左に移動した。逆も然り。彼の本はほとんどが時節に合わせたものであり、常に反論を呼び起こした。議論が起こることは喜んだが、それが孤独感の原因になった。彼は自分が理解されていると感じていなかった」。

「要するにファン・ルーラーは組織神学者(「体系的な」神学者)ではなかったのだ。おそらくこれが、当時の神学がファン・ルーラーをどう扱えばよいのか分からなかった原因である。彼はドイツの哲学者ヘーゲルから多くのことを学んだと折々に書いている。あの哲学はテーゼ、アンチテーゼ、ジュンテーゼ(正・反・合)を考える。テーゼとアンチテーゼがぶつかると、火花が飛び散る音がする。その音がファン・ルーラーの中で起こる。しかし、彼はヘーゲルのように統合しない。矛盾を矛盾のままにする。そのほうが我々の時代に合っている。ファン・ルーラーに体系は見当たらない。体系は現実の中で崩壊しているからである」。

『ファン・ルーラー著作集』に収録された『私はなぜ教会に通うのか』という本はオランダの神学の中で最も独創的な礼拝論のひとつであるとファン・ケウレンは語る。「ファン・ルーラーはセオクラシーまで考える人だった。彼は聖餐式を毎週行うべきだと考えたし、礼拝のすべてを説教壇から司式するのではなく、祈祷は聖餐卓で行うべきであるとも考えたが、結局支持されなかった。彼は聖餐式を避けることに反対し、聖餐式に出席しないことは出席するのと同じくらい大きな罪でありうると述べた。ファン・ルーラーによると、聖礼典は信仰を強めるために不可欠な教会の本質であるが、同時にそれは礼拝の中心である」。

(改革主義日報インターネット版 2020年12月14日付け)

https://www.rd.nl/artikel/904453-dr-van-keulen-hervormde-theoloog-a-a-van-ruler-ging-altijd-tegen-de-stroom-in

2021年1月24日日曜日

宣教の開始(2021年1月24日 各自自宅礼拝)



礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3551・3552号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます



マタイによる福音書4章12~17節

関口 康

「そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」

おはようございます。今日は今年度第2回目の「各自自宅礼拝」の3週目です。

不安な状態が続いていますが、否定的で悲観的なことを言い出せばきりがありません。前向きでいましょう。神さまが必ず明るい希望を示してくださり、また共に集まって礼拝をささげることができるようにしてくださることを信じて、今週一週間を共に過ごしたいと願います。

今日の聖書の箇所は、新約聖書マタイによる福音書4章の12節から17節までです。1年前の同じ時期(2020年1月26日)にも全く同じ「宣教の開始」というタイトルで、私が宣教を担当しました。このタイトルは日本キリスト教団聖書日課『日毎の糧』からそのまま借用しています。

しかし、聖書の箇所とその内容は昨年と今年で全く違います。昨年はヨハネによる福音書2章1節から11節までの「カナの婚礼」についての箇所でした。ヨハネによる福音書によりますと、イエスさまの宣教活動の最初の出来事が「カナ」という名の小さな村で行われた結婚式でイエスさまが水をぶどう酒に変える奇跡を行われたことだった、というあの箇所です。

しかしマタイ福音書は、それとは異なる出来事をもってイエス・キリストの宣教が開始されたように記しています。マタイによる福音書が「そのときからイエスは宣べ伝え始められた」(17節)こととして描いているのは、「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」(13節)こと。つまり、引っ越しです。イエスさまはカファルナウムに引っ越しされました。そのときが宣教の開始だった、ということです。

当たり前かもしれませんが、イエスさまも引っ越しなさいました。物理的・身体的な移動です。イエスさまはどんな荷物をどれほど持っておられたでしょうか。家具や服や本をたくさん持っておられたでしょうか。そういうことを想像してみるのは楽しいことです。

石川献之助先生が昭島市(当時は北多摩郡昭和町)に引っ越しなさったときが昭島教会の宣教の開始です。それだけの責任が牧師に与えられています。二代目の主任牧師の長山恒夫先生は、昭島市に引っ越しはなさいませんでした。三代目の飯田輝明先生は、引っ越ししてこられました。そのように伺っています。私も引っ越ししてきました。

すべての教会に「宣教の開始」のときがあります。それも大事ですが、もうひとつ大事なのは、すべての牧師に「宣教の開始」のときがあるということです。牧師だけの話にしたくありません。すべてのキリスト者に「信仰の開始」があり、それは同時に「宣教の開始」を意味します。

しかし、その問題はここまでにします。イエスさまが宣教活動の最初になさったお引っ越しの意味を考えることが大事です。

第一のヒントは12節です。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」。そのガリラヤ地方にカファルナウムがあります。そこにイエスさまは「退かれた」のです。ガリラヤは「退く」場所でした。しかも「ヨハネが捕らえられたと聞き」。

関連があるのは同じマタイ福音書の2章22節に産まれたばかりのイエスさまを抱えたヨセフとマリアについて「ガリラヤ地方に引きこもり」と書かれていることです。マタイ福音書によると、ガリラヤは「退く」だけではなく「引きこもる」場所でもあった、ということです。

彼らは何のためにガリラヤに引きこもったのかも記されています。当時のユダヤの王ヘロデが「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(2章16節)ことと関係しています。ユダヤの王は首都エルサレムに住んでいました。

そのエルサレムからできるだけ遠いところ、それが「ガリラヤ地方」だったということです。そこに「退き」、「引きこもる」ことで、産まれたばかりのイエスさまの命を守ろうとしたということです。その意味で「ガリラヤ」は彼らにとっての安全地帯でした。単純に都会ではなく田舎であるという話だけで片付きません。2歳以下の乳飲み子を容赦なく殺害し、ヨハネを殺害する。そのような凶悪な独裁者の殺害行為から逃れるために物理的距離を置く必要がありました。そのためにイエスさまは「ガリラヤのカファルナウム」に「退かれた」のです。

第二のヒントは13節から15節までに繰り返されていることです。読むと分かるのは、マタイによる福音書が、イエスさまが引っ越しなさった「カファルナウム」があるガリラヤ地方のことを、「ゼブルンとナフタリの地」と呼んでいる旧約聖書のイザヤ書8章23節の言葉に関連付けているということです。そのように関連付けたうえで、「それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(14節)という解説の言葉まで添えています。

この「ゼブルンとナフタリの地」とは何を意味するのかを説明するのは大変なことです。この分厚い聖書の旧約聖書の創世記から申命記までのモーセ五書を全部読み、さらに続くヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記を読み、エズラ記、ネヘミヤ記を読むというような旧約聖書が描く歴史の流れをひと通り学んだうえで、旧約聖書が描いていないもっと後の時代の歴史を勉強してやっと少し意味が分かるといった具合です。

しかし、そのように言うのは意地が悪いかもしれませんので、ごく大雑把なことを申し上げます。私もそれ以上のことは知りません。

はっきりしているのは、ゼブルンとナフタリはアブラハムの子であるイサクの子であるヤコブの12人の子どもたちの中の2人である、ということです。ヤコブは「イスラエル」という名でも呼ばれた人です(創世記32章29節)。ヤコブの12人の子どもが、イスラエル12部族の先祖になりました。つまりゼブルンとナフタリはゼブルン族とナフタリ族の先祖であるということです。

ただし、複雑な事情がありました。ヤコブには2人の妻(姉レアと妹ラケル)と、その2人の妻のもとで働く女性の召し使いがそれぞれ1人ずついて(レア側にジルパ、ラケル側にビルハ)、ヤコブはその4人全員と関係をもつことで12人の子どもを得ましたが、ヤコブは12人の子どもを平等に扱わず、差をつけました。ヤコブが最も愛した女性がラケルで、その子どもたちを最も愛し、他の女性から生まれた子どもより大切に扱うというようなことをしました。

ゼブルンはレアの子ども、ナフタリはラケルの召し使いのビルハの子どもでした。そこから始まっていろいろ複雑に絡み合う部族同士の関係が、その後のイスラエルの長い歴史の中でよろしくない影響をもたらすことになっていきました。

すべて話す時間はありません。今日申し上げたいのはマタイ福音書がガリラヤ地方をわざわざ「ゼブルンの地とナフタリの地」と呼んでいるのは、西暦1世紀のガリラヤの人と関係あるわけがない昔話と結び付けられて、地域差別を受けていた地方であるということを言おうとしている、ということです。聖書を熱心に学ぶのは良いことですが、聖書の言葉で人やモノや地域を差別するのは悪いことです。そういうことがわたしたちの現実の中で起こるのは悲しいことです。

今日の宣教の要旨を週報紙面に書きました。それを読ませていただきます。

「イエスさまの宣教活動の最初の拠点はガリラヤ湖畔の漁師の町カファルナウムでした。そこは、ユダヤ人の歴史の中で辺境に追いやられ、弱い立場にある人々が暮らしていました。イエスさまはそのような人々を助け起こす救いの働きにお就きになりました。わたしたちも、弱さに寄り添う姿勢であり続けたいです」。

最後に書いたわたしたちの意味は「教会」です。

(2021年1月24日、各自自宅礼拝)

2021年1月19日火曜日

安息日の本当の意義(2021年1月19日 校内放送礼拝)


マルコによる福音書3章1~6節

関口 康

「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。」

おはようございます。聖書科の関口康です。

「今週からリモートラーニングにします」という連絡を、私も受けました。とても大きな決断をなさった先生がたに心から敬意を表します。

いま私たちは、急激な変化の只中にあります。変化が急激であればあるほど大切なのは、冷静であることです。

しかし、そのことと、いま困っている人がいる、助けを求めている人がいるというような状況の中で、面倒なことに巻き込まれたくないというような、たとえばそのような理由で距離をとって冷ややかに客観視することとは全く違います。

そういうのは悪い意味の冷静さであると言えるでしょう。今日の聖書の箇所に登場するのは、その悪い意味の冷静な人たちです。

結論だけいえば、体が不自由で困っている人がいました。その人の手、体を、イエスさまが動くようにしてくださいました。しかし、それを見た人々がその次の瞬間から起こした行動が、一体どのようにしてイエスを殺してやろうかという相談だった、というのです。

なんでそうなるのでしょうか。わけが分かりません。イエスさまは、いま困っている人をいま助けただけです。

イエスさまがそれをなさった「日」が悪かったというのが、その人々の言い分でした。しかし、それがどうしたというのでしょうか。どうでもいいことです。

いま困っている人をいま助ける。そのことにためらう時間ももったいないです。そういう場面では、冷静でなく、少し冷静さを失って、熱いハートで突っ走るようなところがあってもよいと思います。イエスさまはそういう方でした。

人の命の問題にかかわるときの決断は、早いほうがいいです。しばらく皆さんにお会いできないのが寂しい、とは言いません。皆さんの命が大切です。各自の自宅で勉強に取り組む皆さんのために、毎日お祈りさせていただきます。

(祈り)神さま、どうかわたしたちの命と生活を守ってください。また元気に再会できますようにお祈りいたします。イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

(2021年1月19日、校内放送礼拝)

2021年1月17日日曜日

最初の弟子たち(2021年1月17日 各自自宅礼拝)


讃美歌21 404番 あまつましみず ピアノ・長井志保乃さん


週報(第3551・3552号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます



マタイによる福音書4章18~25節

関口 康

「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」

おはようございます。今日は今年度(2020年度)第2回目の「各自自宅礼拝」の2回目です。最初の「各自自宅礼拝」は昨年4月と5月に実施しました。

最初のときも不安が無かったわけではありません。私個人はそんなふうには考えませんでした、と言うのは逃げの一手を打っているようでずるい気がしますが、教会堂にみんなで集まる礼拝をせず、各自自宅で礼拝をすることにすると、みんなの心が教会から離れてしまうのではないかと。

しかし、そのように考えることはお互いの信仰を疑うことを意味しますので、失礼なことだと思います。また、私などが考えるのは、世界中を混乱に陥れている感染症の問題に教会がまるで無関心であるかのような態度をとるならば、そのことこそ教会が多くの人から信頼を失う理由になるだろう、ということです。信頼を失った教会は、伝道を続けることができません。

何が正解であるかは分かりません。「各自自宅礼拝」をいつまで続けるのかは決めていません。1月3日日曜日に行った緊急役員会で私が申し上げたことは、通常礼拝を再開しても大丈夫だとみんなが納得できるような、なんらかの分かりやすいしるしがきっと示されるでしょう、ということです。それが何かは分かりませんけれども、きっと神さまがそれを示してくださるでしょう。

今日の聖書の箇所は、新約聖書5ページ、マタイによる福音書4章18節から22節までです。イエス・キリストが最初の弟子として、「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」(18節)、また「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(21節)の計4人を呼び寄せられた場面です。

この箇所は教会で繰り返し読まれ、語られてきましたので、改めて読むまでもないと言いたくなるほどです。しかし、何かわたしたちが《原点に立ち返る》必要があるときに役に立つ内容が記されていると思います。

このときペトロとアンデレは「湖で網を打っていた」(18節)最中でした。ヤコブとヨハネは「父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしている」(21節)最中でした。

つまり、彼らは仕事中でした。しかも過酷な肉体労働です。からだじゅうの筋肉がパンパンに膨れ上がるような仕事です。そして、漁師の仕事は魚をとることですから、それは当然、同じ村に住む人々や遠くから買いに来る人々にその魚を分けることで漁師自身が収入を得ることを意味します。漁師たち自身がその場で店を開いて魚を売りさばいていたかどうかは、私は知りません。しかし、その魚は人の食べ物ですから、人の命に直接かかわる仕事です。

ぜひ想像してみていただきたいです。そのような過酷で、自分たち自身の生活がかかっていて、しかも多くの人々の命と生活を支えることに直接かかわる仕事をしている最中の人たちに対して、客観的に見れば湖のほとりをぶらぶら歩いているだけのように見えたかもしれないイエスさまが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19節)と言い出す場面を。

わたしたちの毎日の生活の中でも同じような場面があると思います。会社勤めをしている方々の勤務時間中です。産まれたばかりの赤ちゃんがいるご家庭の方々の授乳中です。医師や看護師の方々にとっては深刻な病気にかかっている人の治療や看護をしている最中です。

漁師であった彼らにとって、漁をしている最中や、網の手入れをしている最中の状況は、それと全く同じです。どの人の仕事のほうが重要で、どの人の仕事は大したことがない、などと誰も言われたくないし、事実でもありません。みんなたいへんです。自分が生きることのためにも、人を生かすためにも、みんな必死で働いています。

今日の聖書の箇所に描かれているのは、まさにその場面です。自分が長年取り組んできた仕事に対する知識と経験と技能を駆使し、神経をとがらせ、全集中の作業に取り組んでいる最中に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という声が聞こえてきたというわけです。

2つの可能性が考えられます。そのひとつは、全く堪えられないほどひどいことを言われたと感じて激怒する可能性です。まるで自分が今していることを、頭ごなしにすべて否定されたかのようです。「漁師の仕事だなんていうようなそんなつまらない仕事は、今すぐやめて、人間をとる漁師になればいい」と言われてしまったと、彼らが感じ、そのとき虫の居所が悪ければ、イエスさまに食ってかかることになったかもしれません。

しかし、そうはなりませんでした。そうならなかった、ということは、いま申し上げた第一の可能性は、今ただちに否定してよいかもしれません。ただ、私が申し上げたいこと、みなさんに考えていただきたいことは、イエスさまが、あるいは弟子になった人たちが、漁師だなんていうつまらない仕事を、というように考えることがなかったとしても、この聖書の箇所を読むわたしたち自身がそのように考えてしまう可能性がありうる、ということです。

それは、世俗的な仕事よりも宗教的な働きのほうが上にある、というような感覚です。そんなつまらない、どうでもいいことはやめて、もっと高尚なことをしなさいと言っているのと事実上同じであるような考え方です。

わたしたちがよくよく考え、気を付けなければならないことだと私が思いますのは、いま申し上げたような感覚をわたしたちがほんの少しでも持っているようなら、伝道は不可能だということです。少なくともそれは、イエス・キリストの教会に属する者たちの考え方としてふさわしくないです。イエスさまが漁師たちのしていることを遠くから眺めて、そんなつまらない仕事よりも人間をとる漁師になるほうが高尚な生き方なので、わたしについて来なさい、というようなことをお考えになったでしょうか。ありえないです。

この場面で、4人の漁師がイエスさまの呼びかけを聞いて何を感じ、考えたので、ただちに従うことにしたのかは記されていません。しかし、彼らが腹を立てなかったことは大切な点ではないかと思います。彼らのプライドを傷つけるようなことを、イエスさまはおっしゃっていません。そういう意味ではないと、彼らの耳で聴いて分かったからこそ、4人の漁師はイエスさまに従うことができたのです。同じ言葉でも、字で読むだけでなく(心の)耳で聴くことが大事です。

第二の可能性は、「人間をとる漁師」の働きに就くことが今こそ求められていると、イエスさまの呼びかけを聞いた4人がはっきり理解できたということです。今は緊急事態であると分かったのです。人の心が弱っている。不安に陥っている。その人々を暗い海の中から希望の光へと引き上げる働きが、今こそ必要だと自覚できたので、彼らはイエスさまに従うことにしたのです。

今の私たちも同じです。毎日必死で働いている方々のために祈り、お役に立てることがあれば何でも喜んでお引き受けしたいと願うばかりです。

(2021年1月17日)




 
ご挨拶

2021年1月10日日曜日

イエスの洗礼(2021年1月10日 各自自宅礼拝)


讃美歌21 155番「山べに向かいて」 ピアノ 長井志保乃さん



マタイによる福音書3章13~17節

関口 康

「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。」

おはようございます。今日から再び「各自自宅礼拝」です。新型コロナウィルス感染拡大防止の観点からの措置です。ご理解とご協力を賜りますと幸いです。通常礼拝を再開できる日が一日も早く訪れることを共に祈ろうではありませんか。

今日の聖書の箇所は、新約聖書4ページ、マタイによる福音書3章13節から17節までです。この箇所に描かれているのは、イエス・キリスト御自身が洗礼を受けられた、という事実です。

根本的なところからお話ししますと、「イエスが宣教を始められたときはおよそ30歳であった」とルカによる福音書3章23節に記されています。このルカの証言に基づいて、30歳になられてからのイエスさまの生涯を教会では「公生涯(こうしょうがい)」と呼ぶならわしになっています。

その「公生涯」の最初にイエスさまは「ヨハネ」という名の人から洗礼をお受けになりました。「ヨハネ」とは誰か。その答えがマタイによる福音書3章の1節から4節までに記されています。

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。(2節省略)ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(3章1~6節)。

ヨハネはこういう人でしたということで今日はお許しください。詳しい内容に踏み込むいとまはありません。ヨハネの人となりについての詳細については、機会を改めてお話ししたいと思います。それよりも今日集中したいのは、このヨハネからイエス・キリストが洗礼を受けられたという事実のほうです。なぜイエスさまはヨハネから洗礼を受けられたのかという問題のほうです。

なぜそれが「問題」になるのか、という問題があるように思います。ヨハネは「悔い改めよ」と多くの人に教えました。しかし、いったい人は何を「悔い」、何を「改め」なくてはならないのでしょうか。その答えは、自分が犯した「罪」を悔い、自分の常態にすっかりなってしまっている「罪深い生活」を改めなくてはならないということになるでしょう。

そして、その「悔い改め」のしるしとして洗礼を受けなさいと、ヨハネは教えたのです。そのときの「洗礼」は、ヨルダン川に行って、川の中に入り、その水で体を洗う行為です。

しかし、そこで問題が生じます。イエスさまは「罪のないお方」だったのではありませんか。それなのになぜ「悔い改める」必要があるのでしょうか。「悔い改め」のしるしとしての洗礼を、イエスさまがなぜ受けなければならないのでしょうか。イエスさまも罪人(つみびと)のひとりだったということでしょうか。もしそうであれば、イエスさまは「罪のないお方」であるという話と矛盾するではありませんか、という問題です。

いまご紹介した一連の問いは、他の様々な問題から切り離してこれだけを考えると、なんだか全くどうでもいい、我々の人生と無関係な屁理屈であるように思えるところがあります。しかし、そうではなく、いろんな別の問題とのかかわりを考え始めると、とても深くて複雑で悩ましく、我々の人生にかかわる問題であるということが分かってきます。

いちばん分かりやすいかもしれない点だけいえば、わたしたちの中には、教会で洗礼を受けた人と、まだ受けていない人がいます。「洗礼を受ける」とは何を意味するのか、「受けていない」とは何を意味するのかを、すでに洗礼を受けている人もまだ受けていない人も、必ず毎日考えているということまでは無いにしても、何かの拍子に考える機会があるのではないかと思います。そういうことに今日の箇所の問題がかかわる、ということです。

イエス・キリストは「罪のない方」であるにもかかわらず、「悔い改めよ」と呼びかけるヨハネの言葉に応じ、ヨハネが悔い改めのしるしとしての意味を与えた洗礼をイエス様ご自身が受けられた、ということになりますと、要するに洗礼とは「罪の悔い改め」を意味し、またイエスさまは「罪ある方」だったことを意味する、ということになる。

そして、もしそうであるとするならば、わたしたちが教会で受ける洗礼の意味も、それと同じであることになる。しかし、もしそうであるならば、教会というのは、要するに、犯罪者が収容されて更生を目指す刑務所のようなところなのかというような考え方が成り立つかもしれないでしょう。その考え方が完全に間違っているかどうかはともかく、教会で洗礼を受けることがもしそのようなことだけをもっぱら意味するのだとすれば、進んで喜んで洗礼を受けようと決心する人は誰もいなくなるのではないでしょうか。自ら進んで受刑者になるという意味ですから。

いろいろ考えはじめるときりがありません。今日はひとつの結論だけ申し上げて終わります。実を言いますと、イエス・キリストはなぜ洗礼をお受けになったのかというこの問題は、二千年前の古代教会から問い続けられ、今でも問われ続けているものです。問われ続けている、ということは、はっきりした答えがまだ分かっていない、ということです。しかし、「分かりません」で話を済ませるわけにもいきません。

私より少し上の世代から私より少し若い世代までくらいの多くの牧師が学生時代に読んだ書物の中に、日本語版ではカール・バルトとオスカー・クルマンの共著という形になっている『洗礼とは何か』というタイトルの本があります。

それは、わたしたちと同じ西東京教区の日本キリスト教団国立教会で長年牧会され、つい最近隠退された宍戸達先生がドイツ語から訳され、1971年に出版されました。その本のバルトでなくクルマンが書いたほうの論文に出てくる「総代洗礼」(Generaltaufe(ゲネラールタウフェ))という言葉が有名です。クルマンは次のように書いています。

「イエスの洗礼はすでにあの終点を、その生涯の頂点である十字架を、指し示している。その十字架においてすべての者の洗礼ははじめて成就を見るのである。十字架において、イエスは総代洗礼(Generaltaufe)をお受けになる。それに至る命令を、ヨルダン川でも洗礼に際してかれは受けられたのである」(バルト、クルマン『洗礼とは何か』宍戸達訳、新教出版社、1971年、106頁)。

それは、イエスさまは十字架の上ですべての人の身代わりに死んでくださったように、すべての人の代表者として、「総代」として、洗礼をお受けになった、という理解です。

今のわたしたちの状況へと無理やり結びつける必要はないかもしれません。しかし、今日からわたしたちがそうせざるをえなくなった「各自自宅礼拝」の中で、教会の礼拝堂の中で、牧師であるわたしひとりで礼拝をささげるとき、僭越なことではありますが、教会のみんなを代表して、ある意味での「総代」として礼拝をささげているのだ、という思いなしにいることはできません。

「各自自宅礼拝」が最善の選択であるかどうかは分かりません。わたしたちは、イエスさまとは違い「罪ある者」として、自分たちの判断の正しさを常に疑い、修正を重ねつつ、神の赦しを乞いつつ、共に祈りつつ、今の状況を乗り越えていきます。それが教会です。

(2021年1月10日、日本キリスト教団昭島教会 各自自宅礼拝)


 
 ご挨拶