2021年1月19日火曜日

安息日の本当の意義(2021年1月19日 校内放送礼拝)


マルコによる福音書3章1~6節

関口 康

「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。」

おはようございます。聖書科の関口康です。

「今週からリモートラーニングにします」という連絡を、私も受けました。とても大きな決断をなさった先生がたに心から敬意を表します。

いま私たちは、急激な変化の只中にあります。変化が急激であればあるほど大切なのは、冷静であることです。

しかし、そのことと、いま困っている人がいる、助けを求めている人がいるというような状況の中で、面倒なことに巻き込まれたくないというような、たとえばそのような理由で距離をとって冷ややかに客観視することとは全く違います。

そういうのは悪い意味の冷静さであると言えるでしょう。今日の聖書の箇所に登場するのは、その悪い意味の冷静な人たちです。

結論だけいえば、体が不自由で困っている人がいました。その人の手、体を、イエスさまが動くようにしてくださいました。しかし、それを見た人々がその次の瞬間から起こした行動が、一体どのようにしてイエスを殺してやろうかという相談だった、というのです。

なんでそうなるのでしょうか。わけが分かりません。イエスさまは、いま困っている人をいま助けただけです。

イエスさまがそれをなさった「日」が悪かったというのが、その人々の言い分でした。しかし、それがどうしたというのでしょうか。どうでもいいことです。

いま困っている人をいま助ける。そのことにためらう時間ももったいないです。そういう場面では、冷静でなく、少し冷静さを失って、熱いハートで突っ走るようなところがあってもよいと思います。イエスさまはそういう方でした。

人の命の問題にかかわるときの決断は、早いほうがいいです。しばらく皆さんにお会いできないのが寂しい、とは言いません。皆さんの命が大切です。各自の自宅で勉強に取り組む皆さんのために、毎日お祈りさせていただきます。

(祈り)神さま、どうかわたしたちの命と生活を守ってください。また元気に再会できますようにお祈りいたします。イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

(2021年1月19日、校内放送礼拝)