2020年5月24日日曜日

キリストの昇天(2020年5月24日 礼拝宣教)





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「今日の挨拶(関口康)」(音声1分3秒)はここをクリックしてください



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ヨハネによる福音書7章32~39節



関口 康



「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」



各自自宅礼拝に教会の週報と宣教文をお届けするのは、今の苦しい時をみんなの祈りの力で乗り越えたいと願っているからです。顔を合わせ、手を取り合うことが今はできなくても、心の中で教会を感じ、共に祈ることにおいて互いに励まし合う関係を、なんとかして少しでも形にあらわすことを続けていきたいからです。



私が昭島教会の皆さんと出会ったのはまだわずか2年前です。それ以前の65年間の歩みを知りません。それでも私に分かるのは、この教会の皆さんは祈りの力によって多くの困難を忍耐強く乗り越えてこられた方々であるということです。



そうでなければ、教会というものは、あっという間に壊れてしまうところがあります。否定的なことは言いたくありません。昭島教会の存在はおひとりおひとりの祈りと努力の結晶です、と申し上げたいだけです。



今日の聖書の個所も、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。このときイエスさまはエルサレムにおられました。エルサレム神殿の境内で神さまのみことばを宣教なさいました。すると「人々がイエスを捕らえようとした」(7章30節)というのです。イエスさまの宣教を妨害しようとしたというのです。



しかしイエスさまは、少しも怯むことなく宣教をお続けになりました。そのうえでイエスさまはご自身が十字架にかけられることを覚悟しておられました。そのようなことは普通の人には堪えられないことです。しかし、イエスさまがそれを堪えることがおできになったのは、ご自身が父なる神さまからこの世に対して遣わされた方として、宣教の使命を強く自覚しておられたからです。神さまの御言葉を宣べ伝えるために、わたしはこの世に生を受けたのであり、そのために生きているのだということを確信しておられたからです。



教会はどうでしょうか。個人としてのわたしたちひとりひとりは、神さまの御言葉を宣べ伝えるために私は生まれたというほどの強い自覚を持つことは考えにくいところがあります。そこまでの思いを抱くことができる方がおられるなら尊重されるべきですが、そうでないことを責められる関係にまではないでしょう。



しかし、ひとりひとりは弱さを抱える存在であっても、イエスさまのからだとしての教会へと加えられ、信仰と祈りにおいて互いに支え合い、高め合う関係を得るならば、さまざまな障害や妨害を共に乗り越えて、宣教を続けていくことができるようになるでしょう。



それは単なる想像や希望的観測といったものではなく、現実の教会が現実に体験してきた事実です。もしそうでないとしたら、わたしたちは、他の誰でもなく自分自身のことを振り返ってみて、なぜ私はこんなに長い信仰生活を続けてくることができたのか、自分で説明がつかなくなるでしょう。



私が忍耐強かったからでしょうか。私の信仰が強かったからでしょうか。だから私はこんなに長く信仰生活を続けられたのでしょうか。「まさかそんなわけがない。ありえない」と、おそらくだれもが考えるのではないでしょうか。むしろ逆に「あんなに弱かったこの私が、どうしてこんなに」という思いを、ほとんどの方が抱くのではないでしょうか。



わたしたちのうちに宿ったこの不思議な力は、神さまから与えられたものです。それは、イエスさまを救い主とする信仰の力でもありますが、同時にその信仰をもって共に生き、祈りをもって互いに支え合う「教会」の存在を抜きにしては考えられない力です。



このように考えていきますと、わたしたちは「教会」を、単純に「人間の集まりだ」と言うだけで済ませてはならないことが分かってきます。なぜそう言えるのかといえば、家や村や町や国、あるいは会社や学校や社会と少しも変わらない意味で「教会もまた人間の集まりにすぎない」と言って済むならば、わたしたちに与えられた不思議な力の源は何なのかを全く説明できなくなってしまうからです。



たとえば、私の性格が「しつこい」からこんなに長く教会生活を続けることができたのでしょうか。そのように冗談か自嘲で言うのは構わないと思いますし、家族や悪友は遠慮なくそんなふうに言うかもしれません。しかし、そんなことではとても説明がつかないことです。



今日の箇所の37節以下で、イエスさまがとても大事なことをおっしゃっています。それをイエスさまは「立ち上がって大声で言われた」(37節)と書かれています。



「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、

その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(!!)



続く箇所に、「生きた水」とは“霊”、すなわち「聖霊」を指すと説明されています(39節)。そして、その水はイエスさまのところで飲んだものだというわけです。



つまり「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」とは、父なる神さまから出て、イエスさまを通って、聖霊によってわたしたちの中に流れ込んだ何かが、さらにわたしたちから流れ出て多くの人々に及び、時代と世代を越えて受け渡されていくことを指していると言えます。



それは何でしょうか。それはもちろん神さまの力です。そして信仰の力も加わるでしょう。しかし、それだけでなく、「教会」の存在が含まれると言わなくてはなりません。神さまと個人の関係だけでは説明できません。



個人の力がいかに弱く、もろく、はかないものであるかは、だれから指摘されなくとも、わたしたち自身が最も自覚していることではありませんか。このように言うのは、教会を押し付けたいからではなく、教会のみんなで力を合わせることの心強さを、今の苦しいときにこそ思い起こしたいからです。



イエスさまは、今は、わたしたちの目に見えない天の父のみもとへと挙げられています。それを「昇天」(しょうてん)と言います。わたしたちが地上の人生を終えて天へと召されることを指す「召天」(しょうてん)とは区別されますが、無関係ではありません。



イエスさまは本来、神であられる方として、天へとお戻りになったのです。わたしたちは、人間として、人間のままで、天へと国籍が移され、永遠に神と共に生きる者となるのです。



この信仰に支えられつつ、希望と喜びをもって、今週も共に歩んでまいりましょう。



(2020年5月24日 各自自宅礼拝)




2020年5月17日日曜日

キリストの勝利(2020年5月17日 礼拝宣教)





ヨハネによる福音書16章25~33節



関口 康



「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」



このところ毎回最初に申し上げることが「今日も各自自宅礼拝です」という言葉であるのは、なんとも言えない気持ちです。一日も早く今の避難状況を脱し、元通りみんなで教会に集まって主日公同礼拝を行いたいと願うばかりです。



しかし、申し訳ないことに、今の私はテレビを観ることができずにいます。テレビがないわけではありません。教会の大きなテレビを牧師館にお借りしています。しかし、スイッチを入れることができません。



教会のテレビをお借りしたきっかけを覚えています。2018年6月末から7月初めにかけて西日本を襲った豪雨災害でした。私の実家が岡山にあることは皆さんに明かしているとおりです。「ご実家は大丈夫ですか」と、多くの方々が心配してくださいました。



「ええ、まあ、たぶん大丈夫だと思います。何かあれば連絡が来るでしょう」とお答えしたとき、うっかり「テレビを観ていないので」と口を滑らしてしまいました。それでみなさんに驚かれまして、テレビをお借りすることになりました。



なぜテレビを観なくなってしまったのか、直接の原因は分かりません。うそばかりをつく政治家と、その人たちの言いなりになっているとしか思えない人たちばかりが出演しているように見えるテレビに堪えられなくなった気がします。



私が得ている情報はインターネットだけです。それが信頼できるかどうかは分かりません。しかし、だからといってテレビは信頼できるとは全く思えません。これ以上のことは、私に問われても押し問答になるだけです。「ごめんなさい」と謝るしかありません。



今日選んだ聖書の箇所はヨハネによる福音書16章25節から33節までです。イエスさまが十字架にかけられる前の夜、弟子たちと共に囲まれた「最後の晩餐」での言葉です。



「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(28節)とイエスさまがお語りになっています。「わたしは、今、世を去る」とはっきりと。



それで弟子たちは「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(30節)と答えますが、その弟子たちにイエスさまが「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31節)とお返しになります。



しかし、ちょっと待ってください。いま読んでいるのは新共同訳聖書です。「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする」は翻訳のひとつの可能性ですが、「あなたがたが帰ってしまい(?)、わたしをひとりきり(?)にする」と言われますと、寂しくて仕方がないイエスさまが、しょんぼりして、恨みがましい目を弟子たちに向け、すねておられるようです。しかし、本当にそうでしょうか。



そのことが気になりましたので何冊か英語聖書を調べました。新共同訳聖書(新約1987年)が誕生する前、日本の教会で長く用いられた口語訳聖書(新約1954年)に強い影響を与えた英語聖書「改定標準訳」(Revised Standard Version)(1946年)はWhen you will be scattered, every man to his home, and will leave me alone.と訳していました。これが新共同訳聖書に最も近いと思います。



しかし、「改定標準訳」よりもずっと古い「欽定訳」と呼ばれる英語聖書(King James Version、1611年発行)はevery man to his ownと訳していました。his ownはhis homeよりも広い意味です。「自分の家」ではなく「自分自身」または「自分のもの」という意味です。



また私は完全に独学ですが、23年前(1997年)からオランダ語を学んでいます。オランダ語聖書を調べたところ、英語の欽定訳と同じ意味の「自分自身」(het zijne(ヘット・ゼイネ))、あるいは「自分の道」(eigen weg(エイヘン・ヴェフ))と訳している例もありました。



ギリシア語原文のことを先に言うべきだったかもしれません。鋭い方は、もうお気づきでしょう。原文には「家」を意味する言葉はありません。「欽定訳」と呼ばれる17世紀の英語聖書はギリシア語原文に忠実です。「家」(home)に当たる言葉はないので「自分自身」(his own)と訳したのでしょう。



私の勉強や知識をひけらかしているのではありません。このときイエスさまが上目遣いで「おれをひとりぼっちにするのか。自分の家に逃げ帰るのか」とおっしゃったのどうかを、はっきりさせたいだけです。



違います。イエスさまはそのようなことをおっしゃっていません。「今、世を去って、父のもとに行く」は、わたしは死ぬという意味です。だから、「我々は散会する。各自で行動する。私はひとりで残る」とおっしゃっているだけです。



そうでないかぎり「勇気を持ちなさい」という言葉につながりません。もしイエスさまが「おれをひとりぼっちにするのか」の直後に「勇気を持ちなさい」とおっしゃったとすれば支離滅裂ですし、皮肉か嫌味を言っておられるかのようです。そんなわけがないのです。



「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」(32節)、そして「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(33節)と、イエスさまが続けておられます。



その意味は、わたしはひとりで十字架につく、しかし、父なる神さまがわたしと共にいてくださるので、わたしはひとりではないということです。「神が共にいてくださること」以上の「力」も「強さ」もないのだから、わたしは勝利者であるということです。



そして、勝利者であるわたしイエス・キリストを信じて、これからあなたがたは「各自で」生きていくのだ。そのための「勇気を持ちなさい」ということです。



今日の箇所に描かれたイエスさまと弟子たちの関係には、わたしたちが置かれている状況と重なり合うものがあります。



このときのイエスさまも「散会」が永久に続くという意味でおっしゃっているのではありません。わたしがひとりで十字架につく。その間は避難していなさい、安全なところにいなさい、という意味です。また集まることができるその日まで。



わたしたちも、イエスさまが弟子たちに求めた「勇気」を、持とうではありませんか。



(2020年5月14日 各自自宅礼拝)

2020年5月10日日曜日

聖霊の結ぶ実


ヨハネによる福音書15章18~27節

関口 康

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」

感染症対策としての「各自自宅礼拝」が2か月目です。今日は「母の日」です。みんなで教会に集まれない中で迎える「母の日」に悔しさを覚えるのは私だけではないと思います。

もっとも私自身は帰省すらめったにしない親不孝者なので、皆さんの参考になりません。私の両親は私が生まれる前からキリスト者ですので、息子を「神さまにささげた」と信じていてくれます。それを言い訳にして、実家にはすっかりご無沙汰しています。

しかし、皆さんはぜひお母さまを大切にしてください。私以上に、お母さまを大切にしてください。それだけに、帰省が規制されている今の状況が残念でなりません。

今日の聖書の箇所も、いつもと同じように、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。「母の日」との関係は見当たりません。しかし、「父」と呼ばれる存在について記されている箇所です。ここに記されているのは、イエスさまの言葉です。イエスさまの「父」は神さまであると、イエスさまご自身が明らかになさっています。

再び私の個人的な話になるのをお許しいただきたいです。今日の箇所を含むヨハネによる福音書15章は、私にとって特別な意識を持たざるをえない章です。私が生まれたときから高校卒業まで家族と一緒に通っていた教会で、少なくともその当時、日曜の朝の礼拝でも、夕礼拝でも、教会学校でも、水曜の夜の祈祷会でも、教会附属幼稚園でも、いつも必ず同じ「ヨハネによる福音書15章1節から11節まで」が朗読されていたからです。

教会学校で歌われるこどもさんびかの1節の歌詞は、「主イエスはまことのぶどうの木、わたしはつながる小枝です、育てる神さま手入れして、実らぬ小枝を切り捨てる」でした。最後の「切り捨てる」という言葉が恐ろしかったことが忘れられません。しかし、たしかにイエスさまがお語りになったとおりのことが歌われています。

聖書の中のひとつの箇所が、20年近く(その後のことは知りません)、どの集会でも開かれていた教会というのは例が少ないかもしれません。その真似をするつもりはありませんが、その教会の当時の様子を批判する意味もありません。私にとってのヨハネによる福音書15章は、潜在意識に埋め込まれていると言えるほどだと、申し上げています。

今日の箇所の内容は、イエスさまが神さまを「父」とお呼びになったこと、そしてイエスさまは「父なる神の子」であられることです。そのことをイエスさまご自身が明らかにしておられます。しかも、両者の「親子関係」は単なる比喩ではありません。イエスさまの本質を表しています。「神さまの子ども」は「神」です。イエスさまが「神さま」です。

そうであるということを、ヨハネによる福音書は、最初の章から語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1章18節)と記されています。この「父のふところにいる独り子である神」がイエス・キリストです。

だからこそ二千年のキリスト教会は、「神のみこころ」を知ることと「イエス・キリストの教えに従うこと」は等しい関係にあることを信じてきました。そして、イエス・キリストの教えは新約聖書に記されています。教会が新約聖書を重んじてきたのは必然的です。
しかし、私が今日お話しすべきことは、この先の事柄です。話をここで終わらせることはできません。テレビ越しか、ガラス越しか、とにかくかなり隔たりがあります。

「神のみこころ」を知るために「イエス・キリストの教えに従うこと」が、わたしたちに求められています。それはそのとおりです。しかし、ここで起こる問題があります。それは、今のわたしたちは西暦1世紀と同じ状況の中に生きていない、ということです。

「歴史は繰り返す」とも言われます。しかし、それこそ比喩です。時間そのものは逆戻りしません。時間も歴史も不可逆です。もしそうでないなら非常に恐ろしいことになります。何年何十年生きようと、もし時間が不可逆的なものでないなら、人生のすべてが無かったかのように消去されることを意味します。そのようなことがあってはなりません。

教会の歴史も同じです。昭島教会68年、日本のプロテスタント教会160年、キリシタンの歩みと合わせれば日本のキリスト教史470年、そして世界のキリスト教会の二千年の歩みが、まるで無かったかのように消し去られるようなことがあってはなりません。

イエス・キリストの教えに従うことの意味は、わたしたちが二千年前に逆戻りすることではありません。正反対です。わたしたちは「今ここで」、神さまのみこころを知るために、聖書を通してイエス・キリストの教えを学ぶのです。

西暦1世紀と、21世紀との隔たりを埋めてくださるのが「聖霊」です。「聖霊」ご自身も神さまです。イエスさまご自身の言葉でいえば、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」(26節)が「聖霊」です。

しかも、「聖霊」はわたしたちの心と体(合わせて「存在」)の内側に宿って(内住して)くださる方です。言い方を換えれば、わたしたちの存在は一切否定されません。「あなたが悩んでいることは無価値なので、悩むのをやめなさい」とは言われません。「思考停止することが信仰である」とは言われません。そういう信じ方は異端に通じます。

わたしたちの理性も感情も、悩みも苦しみも、汗も涙も、世界の叡智も、最新の技術も、活かされたままです。そのわたしたちへと、「神のみこころ」と等しい「イエス・キリストの教え」を「聖霊」が届けてくださいます。わたしたちは自分の家で(各自自宅礼拝で)、「神のみこころ」が届くのを待つことができるのです。

「聖霊の結ぶ実」はわたしたちの人生そのものです。とってつけたような、違和感のあるものではありません。わたしたちの人生そのものが、神の恵みであり、奇跡なのです。

(2020年5月10日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)

2020年5月4日月曜日

オンライン授業の練習 関口康牧師

(おまけ動画)関口康牧師が非常勤講師をしている学校でオンライン授業が行われることになり、その練習をしている最中に、牧師のお仲間から「受け取ったら腕立て伏せをしなくてはいけない」連絡が届いた。公式ルールは6回だそうが、8回でダウン。体力をつけねば。



 

2020年5月3日日曜日

弟子への委託(2020年5月3日 礼拝宣教)




石川献之助牧師

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ヨハネによる福音書21章15節~25節



石川献之助



皆さん、私は今日も神様に守られて元気に生きています!




おかげさまで今週の6日には93歳の誕生日を迎えようとしています。この歳まで生きると「天国は近づいている」と思わされることが多いものですから、毎朝目を覚ました時に、新しい一日を生かされているという実感と共に、神様への感謝の思いを抱かずにはいられません。



自粛生活の中で身体が弱らないように、家の中での歩行練習やひと気のない場所での散歩などに努め、また食事を残さないようにいただくなど、自分を励まして過ごしています。それは再び兄弟姉妹が教会に集い、共に礼拝が出来る日を待ち望んでいるからです。



どうぞこの難しい時代を、祈りと思いをひとつにして、主に支えられて共に歩んでいきたいと心から願っています。



先週は、関口先生によって、ヨハネによる福音書21章1節から14節の聖書箇所を学びました。甦られた主イエスが、7人の弟子達のもとへ現れて、共に食事をなさったところです。



本日はその後15節からの御言葉が与えられています。食事を終えたのちに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と主イエスは言われました。



この後続けて主イエスは3回同じ質問をされています。主イエスは十字架にかかる前にイエスの事を3度知らないと言ったペテロ(ペトロ)<マタイ26章69節~75節>に、主への愛を宣言させることにより、「知らない」と言った記憶をぬぐいさらせようとしたのだという見方をする人もあります。主イエスのペテロへの温かい思いが表れている箇所であります。



このペテロへの「わたしを愛しているか」という主イエスの投げかけは、「もしあなたが私を愛するなら私の群れを牧するために生涯を献げなさい」という、ペテロへの委託の言葉であったのであります。主イエスは十字架による死によって終わったのではなく、甦られてこれから始まる神の国の救いの成就のために、弟子たちに臨まれたのであります。



私はかつてローマに旅行しバチカンの前を通った時、そこにペテロの立派な像が建てられているのを見て、ペテロの信仰の偉大さを感じました。しかしその後で、彼が十字架にかけられて殉教の死を遂げたことを思い起こしました。彼は十字架にくぎ付けにされそうになった時、自分は主と同じような仕方で死ぬ価値はないと、十字架に逆さにつけて欲しいと頼んだという話は伝え聞くところであります。



これまでのペテロの人生は、その時の都合でyesとnoとを繰り返すようなものでありました。しかし、ペテロは甦りの主イエスに出会って、信仰に目が開かれ、人生が新しくされ、新しい務めに目覚めたのであります。



復活の主イエスに出会うということは、自分が新しい人に創りかえられるという出来事であり、生涯変わらない真実に出会うということであります。私も振り返れば67年間、主イエスに捉えられて、この思いで牧師の務めを一筋に果たしてきました。



さて、この「わたしを愛しているか」という主イエスの御言葉は、私たち一人ひとりへもなげかけられていることを感じます。私たちは主イエスのこの問いかけにどのように応えていけるのでしょうか。

ペテロのように生涯を伝道に献げる道のみならず、私たち一人ひとりにも新しい道が与えられています。



私たちは主イエスに招かれた者として、喜んで応答していく者でありたい。

ペテロもそうであったように、私たちも復活の主イエスの愛に新しくされて歩む信仰の日々を送りたいと思います。



(2020年5月3日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)

2020年4月26日日曜日

復活顕現(2)


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ヨハネによる福音書21章1~14節

関口 康

「イエスは『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」

今日も「各自自宅礼拝」です。4週目になります。4月の日曜日は、一度も礼拝堂にみんなで集まりませんでした。木曜日の「聖書に学び祈る会」も行いませんでした。しかし、そのことに、政府の緊急事態宣言に従わざるをえないからそれに従ったという意味はありません。すべてはわたしたちの自由な意志をもって採った行動です。

緊急事態宣言が解かれたら必ず集会を再開しなければならないということでもありません。教会は教会で、個人は個人で自主的に判断することです。そもそもわたしたちは政府の命令に従って礼拝をしているのではありません。「閉じなさい」とも「開けなさい」とも言われる関係にありません。わたしたちにとっては自明のことですが、忘れないでいましょう。

今日の聖書の箇所に登場するのは、先週の箇所と同様、よみがえられたイエスさまと弟子たちです。そこにいたのは「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人」(2節)でした。

さて、何人でしょう。「ゼベダイの子たち」の人数は、マタイによる福音書4章21節に記されています。しかし、新共同訳聖書には親切に、21章1節からの段落に「イエス、七人の弟子に現れる」という小見出しをつけてくれています。正解は「7人」です。

この7人が仲良しで、常に行動を共にしていたということなのかどうかは分かりません。とにかくこの日は7人が一緒にいました。するとその中のリーダーであるペトロが「わたしは漁に行く」と言いました(3節)。

このペトロの言葉は、今のわたしたちの気持ちを代弁してくれているものかもしれません。どういうことでしょうか。

今のわたしたちは、世界的な感染症が爆発的に広がりつつある中で、感染の危険を避けるために、また感染拡大を防ぐために各自の自宅にとどまっています。そのことと今日の箇所に記されていることがどのように関係するのかを言わなくては、いま私が申し上げたことの意味を理解していただくことはできないでしょう。

このときのペトロたちと今のわたしたちの共通点は「避難している状況である」ことです。ペトロたちは、イエスさまが十字架上の死をお遂げになり、三日後によみがえられ、お姿を弟子たちの前に現されたにしても、一歩でも家の外に出れば、「イエスの弟子である」という理由で逮捕され、拷問を受け、処刑される危険が待ち受けている状況でした。彼らは「避難」しなければなりませんでした。この点が、今のわたしたちと共通しています。

しかし、だからこそわたしたちは、このときペトロが「わたしは漁に行く」と言ったことの意味を理解し、納得できるのではないでしょうか。

「避難生活が続くと必ず不足するものがある」と言えば、ぴんとくるでしょう。そうです、お金と食糧です。その収入を得るための仕事です。その面で彼らは追い詰められたのです。人が生きるかぎり必要なものです。それで、他にどうしようもなくなって、ペトロが出した結論が「わたしは漁に行く」でした。なぜなら、ペトロはもともと漁師だったからです。

しかし、ペトロが出した結論は、彼自身にとっても他の弟子たちにとっても危険な意味を持っていました。何が「危険」でしょうか。

今日の箇所の7人の弟子のうち4人(ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)について聖書が記しているのは、彼らが「網を捨てて」(マタイ4章20節、マルコ1章18節)あるいは「すべてを捨てて」(ルカ5章11節)イエスに従ったことです。

イエスさまは、ペトロたちに「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました(マタイ4章19節)。それは、漁師の仕事をやめて、イエスさまと共に、神の言葉を宣べ伝え、信仰共同体を牧する働きに専従することを意味しています。

そのペトロが「わたしは漁に行く」と言いました。他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。その意味が「わたしは網を捨てることをやめます。人間をとる漁師であることをやめて、漁師の仕事に戻ります」ということだけだったかどうかは彼ら自身に教えてもらうしかありません。しかし、その意味が含まれていなかったとは言い切れません。

「そうすることも彼らの自由である」と言えばそのとおりです。しかし、避難生活が長期化し、食べるにも窮し、如何ともしがたい状況に追い詰められ、「網を捨てることをやめる」選択を迫られてそうすることを「すべては自由意志の所産であり、すべては自己責任である」とだけ言うのは、あまりにも冷たすぎるでしょう。

わたしたちも今まさに「避難」を余儀なくされていますので、他の人からどのような言葉を投げかけられると自分の心が傷つくかがよく分かると思います。

ペトロが「わたしは漁に行く」と言わざるをえなかったとき、彼の心の中に、「網を捨て、すべてを捨てて」イエスさまに従ったこと自体を、自分で否定することになるのではないかという思いが一瞬でもよぎらなかったでしょうか。私は、まるで自分の心をえぐられているように思わずにいられません。

ペトロたちは、漁に出かけました。船に乗って沖に漕ぎ出しました。その彼らのところに、イエスさまが来てくださったというのです。イエスさまと彼らの出会いの様子は、ぜひ今日の聖書の箇所をお読みください。すべては「よみがえられたイエスさま」の出来事ですので「非現実的なことが書かれてある」と感じる方もおられるでしょう。よみがえられたイエスさまが弟子たちと一緒に、おいしそうに食事をなさったというのですから。

しかし、なぜでしょうか。私はいま、このことを申し上げながら涙が止まりません。避難生活を余儀なくされ、「各自自宅礼拝」を守っているわたしたちと共にイエスさまがいてくださることが実感できるからです。

そして、みんなで集まることができなくても、礼拝堂の中でひとりでいても、イエスさまと共に魚を食べ、パンを食べる信仰の仲間としての昭島教会の存在を、今ここで、自分の目で見ているように感じることができるからです。

わたしたちと共に、イエスさまがおられます。わたしたちの生活の場にイエスさまが来てくださいます。必要は満たされます。自暴自棄は禁物です。希望をもって過ごしましょう。

(2020年4月26日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)

2020年4月22日水曜日

イースター賛美 その2 長井志保乃さん

昭島教会オルガニストの長井志保乃さんによるイースター賛美演奏の「その2」です。長井さん、ありがとうございます!

 

2020年4月19日日曜日

復活顕現(1)


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ヨハネによる福音書20章19~31節

関口 康

「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」

今日は「各自自宅礼拝」の第3週目です。世界的な感染症の拡大防止対策として日曜日に教会にみんなで集まることを中止している状態が続いています。集まりたい気持ちを抑えて我慢しているわけですから、「寂しい」とか「会いたい」とか言わないでおきます。お互いにつらい思いになるだけですから。

今日の箇所に登場するのは、よみがえられたイエスさまと弟子たちです。あらかじめ申し上げますが、イエスさまは、こののち再び弟子たちの前からいなくなられます。復活の主が弟子たちに見えるお姿を現されたのは、使徒言行録1章3節(新約聖書213ページ)によると「40日間」だけでした。

聖書と教会は、それを「復活」と呼んできました。つまり「復活」は、永続的な状態ではなく、一時的な状態です。目標ではなく通過点です。そんなふうにはっきり言ってよいのかと戸惑う方がおられるかもしれませんが、聖書と教会の伝統に逆らって言っていることではありません。

また、もうひとつ言えば、今日の箇所に登場するイエスさまは、弟子たちが呼び寄せたわけではありません。十字架にかけられて死んだイエスさまとお会いできなくなったのが寂しくなった弟子たちが、ひとつに集まって祈ることによってイエスさまを復活させた、というような話ではありません。それは降霊術という魔術の一種ですが、「復活」とはそういうことではありません。

今日の箇所を注意深く読みますと、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて」の次に「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節a)と記されていることに気づきます。そのうえで、間髪入れず「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19節b)とあり、「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(20節)と続いています。

このとき起こったことを、わたしたちはどのように想像すればよいのでしょうか。最も不思議に思えるのは、手もわき腹もあるイエスさまが、戸に鍵がかかっていた家の中に現れ、弟子たちの真ん中にお立ちになった、という点です。

途中の文章が抜けているのでしょうか。「イエスは外から戸を叩き、弟子たちが戸を開けた」(?)のでしょうか。そういうことならばある意味で納得できますが、どうやらそうではありません。しかし、そのイエスさまは、手もわき腹もある、物理的なご存在のようでもあられます。

こういうことを考えるのが面倒になると「すべてウソだ、デタラメだ」と言って片づけるほうがよほどすっきりするかもしれません。しかし、世界のベストセラーである聖書に対してあまり乱暴になりすぎないほうが健全です。今日の箇所を含めて「聖書が何を言おうとしているのか」を考えることが大切です。

今日の箇所に限っていえば、物理的には不可能と思えることであっても、とにかくイエスさまが弟子たちの前にお姿を現されて、ご自分の手とわき腹をお見せになったということを、単純に拒絶するのではなく、その意味を考えることが大切です。

私は今日、三つの意味を申し上げたいと思います。

第一の意味は、イエスさまは弟子たちに、ご自分は今も生きていてあなたがたと共にいるということを、とにかくお伝えになろうとしたということです。それが「復活」の意味です。

第二の意味は、イエスさまは弟子たちに、ご自分の手とわき腹に残る十字架の釘あとをお見せになろうとした、ということです。「私はお前たちのせいで、こんなひどい苦しみを味わったのだ。どうしてくれる」と恨まれてのことではありません。そうではなくイエスさまは、ご自身はこの世の苦しみから全く解放されて、苦しむ人類を高みから眺めておられるようなご存在ではない、ということをお示しになったのです。それが「手とわき腹をお見せになった」意味です。

第三の意味は、この日が「週の初めの日」だったこととやはり関係があります。それは日曜日です。ユダヤ教安息日である土曜日の翌日です。その日に弟子たちが集まっていたのは、ユダヤ人の追及から避難していただけでなく、イエスさまを信じる新しい共同体の礼拝が行われていたと考えるべきです。そこにイエスさまが来てくださったのです。弟子たちが祈りによってイエスさまを呼び出したのではありませんが、イエスさまが弟子たちの礼拝に来てくださったのです。

ここで再び、今のわたしたちの状況へと思いを向けたいと思います。教会の礼拝堂にみんなで集まることができない状態です。今こそわたしたち自身のために、そして全世界の全人類のために祈りを合わせなければならないときなのに、目に見える形で集まることが叶いません。

しかし、そのわたしたちと共に、イエス・キリストは今も生きておられます。今はもう手にもわき腹にも十字架の釘あとが残っていないイエスさまではありません。苦しむわたしたちと同じ姿で、わたしたちと共にイエスさまは今も生きておられます。

そのイエスさまは、日曜日に集まることができない今のわたしたちのところには来てくださらないでしょうか。わたしたちが今行っている「各自自宅礼拝」には来てくださらないでしょうか。そのようなことは決してありません。戸に鍵がかかっている家の中にも来てくださるイエスさまですから、場所や環境をお選びになることはありません。

しかしまた、最初に申し上げたとおり「復活」は、永続的な状態ではなく、一時的な状態です。目に見えるイエスさまのご存在が、今のわたしたちの前にお姿を現し続けられるわけではありません。そうでなくても、わたしたちの信仰が失われるわけではありません。苦しむわたしたちとは無関係な高みにいますイエスさまになられたわけではない、と信じることができるからです。

世界はこれからどうなるでしょうか。わたしたちの命はどうなるでしょうか。不安だらけの日々を過ごしていることを否定できません。しかし、絶望しないでいましょう。自暴自棄にならないようにしましょう。落ち着いて生活しましょう。十字架と復活の主イエス・キリストが、わたしたちと共におられます。その事実に目を向けましょう。

(2020年4月19日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)

2020年4月13日月曜日

慰めのことば


納棺式のときにも申し上げましたが、キリスト教に基づく葬儀は地上に残されたわたしたち自身の慰めのために行うものです。

亡くなられた方の魂は、神のみもとで全き平安のうちにあります。その状態に至っていないので早くそうなるようにがんばってくださいと、故人を応援する意味はありません。

それでは「神のみもと」とはどこでしょうか。告別式で難しい神学議論のような話をするのは、不謹慎でもあり、場違いでもあります。しかし、今のわたしたちにとって真剣な問いであるはずです。

長い人生を共に歩んでこられたお連れ合いであり、お母さまであり、おばあちゃまは、今はどこにおられるのでしょうか。もちろんここにおられます。この部屋の中に。わたしたちの目の前に。しかし、おからだとは、こののちお別れします。それからどうなるのでしょうか。どこにもおられなくなるのでしょうか。

先生の略歴を読ませていただきました。分野は全く違いますが、私の父も学校の教員でした。私もいま、教会で牧師をしながら学校で聖書を教えています。今の私にほんの少し分かるのは、教員生活はたいへんだということです。

たいへんな働きをされてきた方だからどう、そうでない方だからどうと、差をつける意図はありません。それでも思うのは、これほど大きな働きをなさった方が地上の人生の終わりと共にどこにもおられなくなると考えなくてはならないとしたら、「人生とはなんと虚しいものか」と言いたい気持ちを抑えられなくなるだろうということです。

それでも学校教員の場合は、自分がいなくなっても自分の遺志を受け継いでくれる教え子たちの記憶の中で生き続けることができそうだから、まあいいやと思えるところがあるので救われる面があります。しかし、そんな話で納得できるでしょうか。

昨日は、キリスト教のカレンダーで言うところのイースターでした。十字架につけられて死んだイエス・キリストが三日後に復活したことを喜び祝う日、それがイースターです。

死者が復活するなどと、どうしてそんなとんでもないことを信じられるのかと問われることが実際にあります。しかし、特殊で限定的な人々だけが抱いている思想ではありません。アメリカの大統領やドイツの首相のような人が「イースターおめでとうございます」と言うわけです。

脱線しているつもりはありません。まさに本題を申し上げています。先生は今どこにおられるのでしょうか。「神のみもと」とはどこでしょうか。それは聖書を何度読んでも、はっきり分かるものではありません。「神のみもととは、神のみもとである」と、同じ言葉が繰り返されるだけのところがあります。

しかし、聖書の教えには明確な方向性があります。キリストが死者の中から復活したという教えの意味は、この地上にもう一度戻ってくるということです。そしてこの地上が「神のみもと」になるということです。風船が空高く舞い上がって見えなくなって終わりではなく、地上に戻ってくるのです。

このあと皆さんとひとつの祈りを唱えます。それは「主の祈り」と呼ばれる祈りです。この祈りの中の「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りも同じ思想です。

この祈りの意味は「神のみもとである天国が、地上に来ますように。地上の世界が天国のようになりますように。天国で神のみこころが実現しているように、地上においても神のみこころが実現しますように」ということです。大切なのは地上です。わたしたちがいま生きているこの現実の世界です。ここが「神のみもと」であり、ここに「神のみこころ」が実現するのです。

先生の略歴の中に「組合活動の中で知り合って結婚し」と記されているのを読ませていただき、感動しました。労働の問題、社会の問題、政治の問題に真剣に取り組むことは地上の世界と人生をよりよいものへと変えていく明確な意思表示です。その取り組みと願いが、人生の終わりと共に消え去ってしまうことは決してありません。

先生の大きな働きを、わたしたちは受け継いでいきます。先生のご存在が失われることはありません。先生は今ここにおられます。これからもいつもわたしたちと共におられます。そのことを申し上げて、告別の言葉とさせていただきます。

(2020年4月13日、葬儀説教)

2020年4月12日日曜日

復活節の喜び(2020年4月12日 イースター礼拝宣教)

ヨハネによる福音書 20 章 1 節~18 節



石川献之助



今日は 2020 年のイースターの復活節の記念の聖日であります。



私はこの日をどんなに大切に思っているか。私は小さい時から教会の牧師である父と、ま

たその生き方に共鳴してその助け手となった母の間で育ち、「献之助」という名前をつけられて、自分が選択をするよりも両親の信仰に基づいて、あるいはその信仰を通して私の生涯をこの福音の宣教の務めに生きる教会の働きに生涯を捧げる者として、その名前を付けてくださったそういう命運のもとに、今年92 歳という長い生涯を、ただそのひとつの方向に生きてまいりました、福音の宣教を託されている者であります。



この昭島教会は、私に託された主の命令に基づいた、あるいは恩恵にもとづいた務めでありますけれども、すでに高齢ゆえ不自由な体でありまして、教会の役割を進んで担ってくださる昭島教会の役員の方々のみならず、後任の伝道者としての務めを引き受けてくださった関口先生のその業によって補われながら今を歩んでおります。



すでに皆様のお手元に郵送された週報の 2 ページの上の右のほうに 「3511 号」と書かれております。なんと戦後の日本の、散々に戦争で痛めつけられた昭島の地で、本当にこの世に生きていく生活の困難を背負っている昭島の市民の方々に福音を述べ伝え、生きる希望と、そして福音によってもたらされる永遠の命の希望を述べ伝えるために、私は弱冠 25 歳でこの昭島の地において開拓伝道の業を始めました。実にそれから 67 年の時を経て、この 3511 回目の礼拝でお話を委ねられている者であります。



そしてこの復活節というものは、私どもの救い主イエスキリストの三十有余年の御生涯の最後、実に世界の罪深い者の、全ての者の救いのために、十字架にかけられて遂げたその尊い死の後、三日目にそのイエスが甦られたことを記念する日であると聖書にしるされております。



そのテキストに基づいて、この復活の出来事を伝えるそのような記録は世界でも他にはないわけでありますから、本当にその事実を伝える知らせとして、最初の事をしるしたヨハネによる福音書の 20 章1節以下の記録を心に留めたいと思います。そして、その知らせは 2000 年余り経ちました、2020 年の今も私たちのもとに届けられているのであります。



これは本当に尊い知らせだと思います。この知らせに基づいて、私どもの信ずる主イエス・キリストが十字架の上において死なれたはずのそのイエス・キリストが、三日目に甦ってしかも最初に己をあらわされたその主イエス・キリストのそのような記録が書かれているわけであります。



そしてそれは、普通は長い時の経過が全てをぬりかえてしまうはずでありますが、でも変わらずに、永遠の命を私たちに約束されたイエス・キリストは、十字架の死を経て三日目に甦られた「甦りのイエス」にかわられた、イエスについて記念をすることを心に深く銘記して、新しい命に生きるそのような神の最も偉大なる御業について、私たちは神に感謝しその信仰を新しくする日として、世界中でこのイースターの日を中心に、この安息日の日曜日の礼拝をおこなっているわけであります。



本当にこのことは私たちの良識を越えたことでありまして、信仰によって聖霊の導きのもとにそのことを認識させられたときに、人間として創られ、生まれ、そして生きてきた人間は、そこに希望を、永遠の命の希望を告げられて、そしてこの日、感謝と喜びの内に礼拝を行っているのであります。



このことを告げたヨハネによる福音書の 20 章の始めに、キリストの御言葉の中で最初に弟子たちにイエス・キリストが己を復活の御姿をもって、再び愛の方として私どもの救い主としてご自身をお示しになったこの箇所を心に留めることこそ、イースターの礼拝の中心であるということを覚えていきたいと思います。それでこの礼拝においては、ヨハネによる福音書の 20 章の1節から18 節までの御言葉が今読まれたわけであります。



そして私はこのことを毎年このイースター礼拝の度に心に留めたわけでありますが、今日はこの礼拝において、この教会を中心にあつまっている兄弟姉妹は、新型コロナウイルスの世界的な脅威にさらされているこの地球の上での、人類の歴史上初めてという試練の中に置かれ、私たちは集まることの危険ゆえ、為政者の意向に従って霧散して、私たちの教会ではそれぞれの置かれている場所でひとり祈ることによってこの復活節の主日礼拝を執りおこなうことを皆さんにお知らせしました。



そして今、形は違っても復活節の喜びを分かち合うという、讃美と感謝と喜びの信仰を更新する、そういう礼拝を守っているわけであります。



私たちはそのことを忘れることなどありません。そしてその信仰に生きている兄弟姉妹たちが全世界で、ある報告によれば 20 億という多数の人々がその信仰に生きているわけであります。



イエス様は復活されて生きて私たちと共にある、私たちの歴史を共に生きていて下さるということを新たに知らしめられる、そういう希望の日であるということをもう一度思い起こす、そういう日であるということを新たに皆さんと一緒に心に留めたいと思う次第であります。このイースターの理解と喜びとは、時の経過によって増し加えられることさえあれ、決して薄れることはないと思います。



私は過日イースター礼拝で引用した具体的な例をひとつ挙げて、そのことを新たにしたいと思うのであります。一度人間としてこの世の歴史の中に生まれてきた私たち一人ひとりでありますけど、一度生まれ、そしてその命は私たちの目に見えないたくさんの罪の結果として、必ず神様の厳しい裁きのもとに人類は希望を失っていくわけでありますが、そこに救い主としてのイエス様が遣わされ、そして全ての人々の罪の許しを十字架にかかり、達成されたのであります。



それで日本の現実の中におかれている、そのような希望の無い人々の救いのために、その周辺の人々に声をかけて、特に 2500 名のお医者さんと看護師の方々が集まる前でその限りある人生を望みなく終わっていくそういう人類の救いのために復活のイエス様の希望が与えられているということについて、研究会において報告されたお話です。



沢山の人々が地上の命を終えて亡くなっていく愛する者の死は、なおとても耐えがたいものであります。そしてイエス様によって信仰を与えられた私たちも同じような命運のもとにあるわけですが、イエスキリストによって永遠の命の希望を与えられることによって、この世の生活を積極的にあるいは喜びに希望に満たされてそして生きていく、そういう者がそれでも命の終わりの時を持つわけであります。



けれどもその中で、ある親子のお別れの言葉を紹介したいと思います。それはお父さんが臨終の時が来たことを悟って、はっきりと小さな声ではあるけれども「いってくるね」といって亡くなったということです。そして娘さんの方は「いってらっしゃい」と答える臨終の光景が紹介されていたのであります。



この紹介された家庭は、クリスチャンとして復活の信仰を与えられていた人たちでありましたから、亡くなるお父さんは「いってくるね」と言い、そして娘さんは「いってらっしゃい」と言う。しっかりとしたごく自然な言葉を遺して終わりの時を迎えた。この報告は多くの人を感動させました。



今、私たちは、新型のコロナウイルスの世界的な宇宙的な感染拡大の報道のもとに人類の将来を心配しています。けれども、この言葉を通してイエス様が与えて下さった永遠の命の希望は、本当に全ての人に希望を与えるものであるということを深く教えられました。



同じ信仰に生きている、またその復活の事実を聖書を通して教えられている、その中に、希望を持っている私たちは、そのように自分の人生を送り、また愛する家族の死を看取り、隣人として生きているたくさんの人々にこの福音を述べ伝えていくことの大切さを深く教えられた次第です。



私たちはいつものように教会に集まって、恵みの時を持つことは出来ません。けれどもこうして分散してコロナウイルスに負けないように、自宅で礼拝を守っています。



週報の中に今日与えられた聖句として、「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。十字架にかかって亡くなったはずの主イエスキリストが生きていらっしゃる、その復活の姿を見て喜んだという、これは事実の報告でありまして、私たちもこの言葉を改めて日々の人生の希望として、イエス様に感謝して、イエス様と共にこの復活の信仰を新しく日々の力として、命として、この年も生きていきたいと深く思わされた次第です。



それでは一言お祈りをいたします。



天の父なる神様 あなたがこの 僕しもべに、昭島市を中心とした戦争に希望をくじかれた日本の一角の地に、死によって貧しくなり、希望を失い彷徨っている人々にこのイエスキリストの復活の希望の福音を述べ伝えるという務めを与えられて、67 年という歳月が経ちました。



あなたはこの宣教の務めは何年経ってもそれは新しく、その福音を必要とする罪深い人類の歴史が続いていくことを思う時に、どうぞこの教会を守り、育て、励まし、どうかその福音を述べ伝えていく教会でありますように、心からお祈りいたします。



あなたは主であられ、そして永遠に生きていて下さいますから、私たちはそのことを信じていますけれども、色々な歴史的な過程の中で、どうぞ心強くどんなときにもこの復活のイエス様の希望を人々に伝える務めに励み、どうかこの教会が育ち、またその使命感を持ち続けていくことが出来ますように。私たちの周りの人々にその務めを果たす者として、歩めますように。



この試練が本当に私たちの希望となり、いつも務めとして新しく更新させられて私たちの希望として持ち続けられていきますように。どうぞ主イエス様が、教会員一人ひとりの現実に隣人として伴っておられることを忘れずに、かえって強められてこの困難を乗り越えて、この教会が新しくされる時でありますように。



今日このような形で行われる礼拝にも、復活節の礼拝を行えたことを深く感謝いたします。私たち自身が本当に復活の信仰を希望として、これからの生涯を生きていくことが出来ますように、祈るべきことは沢山ありますけれども、この大切な祈りをイエス様のお名前を通して御前にお捧げいたします。



アーメン



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礼拝(下)

 
 


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祝会(下)