2020年4月26日日曜日

復活顕現(2)


PDF版はここをクリックしてください

ヨハネによる福音書21章1~14節

関口 康

「イエスは『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」

今日も「各自自宅礼拝」です。4週目になります。4月の日曜日は、一度も礼拝堂にみんなで集まりませんでした。木曜日の「聖書に学び祈る会」も行いませんでした。しかし、そのことに、政府の緊急事態宣言に従わざるをえないからそれに従ったという意味はありません。すべてはわたしたちの自由な意志をもって採った行動です。

緊急事態宣言が解かれたら必ず集会を再開しなければならないということでもありません。教会は教会で、個人は個人で自主的に判断することです。そもそもわたしたちは政府の命令に従って礼拝をしているのではありません。「閉じなさい」とも「開けなさい」とも言われる関係にありません。わたしたちにとっては自明のことですが、忘れないでいましょう。

今日の聖書の箇所に登場するのは、先週の箇所と同様、よみがえられたイエスさまと弟子たちです。そこにいたのは「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人」(2節)でした。

さて、何人でしょう。「ゼベダイの子たち」の人数は、マタイによる福音書4章21節に記されています。しかし、新共同訳聖書には親切に、21章1節からの段落に「イエス、七人の弟子に現れる」という小見出しをつけてくれています。正解は「7人」です。

この7人が仲良しで、常に行動を共にしていたということなのかどうかは分かりません。とにかくこの日は7人が一緒にいました。するとその中のリーダーであるペトロが「わたしは漁に行く」と言いました(3節)。

このペトロの言葉は、今のわたしたちの気持ちを代弁してくれているものかもしれません。どういうことでしょうか。

今のわたしたちは、世界的な感染症が爆発的に広がりつつある中で、感染の危険を避けるために、また感染拡大を防ぐために各自の自宅にとどまっています。そのことと今日の箇所に記されていることがどのように関係するのかを言わなくては、いま私が申し上げたことの意味を理解していただくことはできないでしょう。

このときのペトロたちと今のわたしたちの共通点は「避難している状況である」ことです。ペトロたちは、イエスさまが十字架上の死をお遂げになり、三日後によみがえられ、お姿を弟子たちの前に現されたにしても、一歩でも家の外に出れば、「イエスの弟子である」という理由で逮捕され、拷問を受け、処刑される危険が待ち受けている状況でした。彼らは「避難」しなければなりませんでした。この点が、今のわたしたちと共通しています。

しかし、だからこそわたしたちは、このときペトロが「わたしは漁に行く」と言ったことの意味を理解し、納得できるのではないでしょうか。

「避難生活が続くと必ず不足するものがある」と言えば、ぴんとくるでしょう。そうです、お金と食糧です。その収入を得るための仕事です。その面で彼らは追い詰められたのです。人が生きるかぎり必要なものです。それで、他にどうしようもなくなって、ペトロが出した結論が「わたしは漁に行く」でした。なぜなら、ペトロはもともと漁師だったからです。

しかし、ペトロが出した結論は、彼自身にとっても他の弟子たちにとっても危険な意味を持っていました。何が「危険」でしょうか。

今日の箇所の7人の弟子のうち4人(ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)について聖書が記しているのは、彼らが「網を捨てて」(マタイ4章20節、マルコ1章18節)あるいは「すべてを捨てて」(ルカ5章11節)イエスに従ったことです。

イエスさまは、ペトロたちに「人間をとる漁師にしよう」とおっしゃいました(マタイ4章19節)。それは、漁師の仕事をやめて、イエスさまと共に、神の言葉を宣べ伝え、信仰共同体を牧する働きに専従することを意味しています。

そのペトロが「わたしは漁に行く」と言いました。他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。その意味が「わたしは網を捨てることをやめます。人間をとる漁師であることをやめて、漁師の仕事に戻ります」ということだけだったかどうかは彼ら自身に教えてもらうしかありません。しかし、その意味が含まれていなかったとは言い切れません。

「そうすることも彼らの自由である」と言えばそのとおりです。しかし、避難生活が長期化し、食べるにも窮し、如何ともしがたい状況に追い詰められ、「網を捨てることをやめる」選択を迫られてそうすることを「すべては自由意志の所産であり、すべては自己責任である」とだけ言うのは、あまりにも冷たすぎるでしょう。

わたしたちも今まさに「避難」を余儀なくされていますので、他の人からどのような言葉を投げかけられると自分の心が傷つくかがよく分かると思います。

ペトロが「わたしは漁に行く」と言わざるをえなかったとき、彼の心の中に、「網を捨て、すべてを捨てて」イエスさまに従ったこと自体を、自分で否定することになるのではないかという思いが一瞬でもよぎらなかったでしょうか。私は、まるで自分の心をえぐられているように思わずにいられません。

ペトロたちは、漁に出かけました。船に乗って沖に漕ぎ出しました。その彼らのところに、イエスさまが来てくださったというのです。イエスさまと彼らの出会いの様子は、ぜひ今日の聖書の箇所をお読みください。すべては「よみがえられたイエスさま」の出来事ですので「非現実的なことが書かれてある」と感じる方もおられるでしょう。よみがえられたイエスさまが弟子たちと一緒に、おいしそうに食事をなさったというのですから。

しかし、なぜでしょうか。私はいま、このことを申し上げながら涙が止まりません。避難生活を余儀なくされ、「各自自宅礼拝」を守っているわたしたちと共にイエスさまがいてくださることが実感できるからです。

そして、みんなで集まることができなくても、礼拝堂の中でひとりでいても、イエスさまと共に魚を食べ、パンを食べる信仰の仲間としての昭島教会の存在を、今ここで、自分の目で見ているように感じることができるからです。

わたしたちと共に、イエスさまがおられます。わたしたちの生活の場にイエスさまが来てくださいます。必要は満たされます。自暴自棄は禁物です。希望をもって過ごしましょう。

(2020年4月26日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)