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ヨハネによる福音書20章19~31節
関口 康
「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」
今日は「各自自宅礼拝」の第3週目です。世界的な感染症の拡大防止対策として日曜日に教会にみんなで集まることを中止している状態が続いています。集まりたい気持ちを抑えて我慢しているわけですから、「寂しい」とか「会いたい」とか言わないでおきます。お互いにつらい思いになるだけですから。
今日の箇所に登場するのは、よみがえられたイエスさまと弟子たちです。あらかじめ申し上げますが、イエスさまは、こののち再び弟子たちの前からいなくなられます。復活の主が弟子たちに見えるお姿を現されたのは、使徒言行録1章3節(新約聖書213ページ)によると「40日間」だけでした。
聖書と教会は、それを「復活」と呼んできました。つまり「復活」は、永続的な状態ではなく、一時的な状態です。目標ではなく通過点です。そんなふうにはっきり言ってよいのかと戸惑う方がおられるかもしれませんが、聖書と教会の伝統に逆らって言っていることではありません。
また、もうひとつ言えば、今日の箇所に登場するイエスさまは、弟子たちが呼び寄せたわけではありません。十字架にかけられて死んだイエスさまとお会いできなくなったのが寂しくなった弟子たちが、ひとつに集まって祈ることによってイエスさまを復活させた、というような話ではありません。それは降霊術という魔術の一種ですが、「復活」とはそういうことではありません。
今日の箇所を注意深く読みますと、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて」の次に「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節a)と記されていることに気づきます。そのうえで、間髪入れず「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(19節b)とあり、「そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(20節)と続いています。
このとき起こったことを、わたしたちはどのように想像すればよいのでしょうか。最も不思議に思えるのは、手もわき腹もあるイエスさまが、戸に鍵がかかっていた家の中に現れ、弟子たちの真ん中にお立ちになった、という点です。
途中の文章が抜けているのでしょうか。「イエスは外から戸を叩き、弟子たちが戸を開けた」(?)のでしょうか。そういうことならばある意味で納得できますが、どうやらそうではありません。しかし、そのイエスさまは、手もわき腹もある、物理的なご存在のようでもあられます。
こういうことを考えるのが面倒になると「すべてウソだ、デタラメだ」と言って片づけるほうがよほどすっきりするかもしれません。しかし、世界のベストセラーである聖書に対してあまり乱暴になりすぎないほうが健全です。今日の箇所を含めて「聖書が何を言おうとしているのか」を考えることが大切です。
今日の箇所に限っていえば、物理的には不可能と思えることであっても、とにかくイエスさまが弟子たちの前にお姿を現されて、ご自分の手とわき腹をお見せになったということを、単純に拒絶するのではなく、その意味を考えることが大切です。
私は今日、三つの意味を申し上げたいと思います。
第一の意味は、イエスさまは弟子たちに、ご自分は今も生きていてあなたがたと共にいるということを、とにかくお伝えになろうとしたということです。それが「復活」の意味です。
第二の意味は、イエスさまは弟子たちに、ご自分の手とわき腹に残る十字架の釘あとをお見せになろうとした、ということです。「私はお前たちのせいで、こんなひどい苦しみを味わったのだ。どうしてくれる」と恨まれてのことではありません。そうではなくイエスさまは、ご自身はこの世の苦しみから全く解放されて、苦しむ人類を高みから眺めておられるようなご存在ではない、ということをお示しになったのです。それが「手とわき腹をお見せになった」意味です。
第三の意味は、この日が「週の初めの日」だったこととやはり関係があります。それは日曜日です。ユダヤ教安息日である土曜日の翌日です。その日に弟子たちが集まっていたのは、ユダヤ人の追及から避難していただけでなく、イエスさまを信じる新しい共同体の礼拝が行われていたと考えるべきです。そこにイエスさまが来てくださったのです。弟子たちが祈りによってイエスさまを呼び出したのではありませんが、イエスさまが弟子たちの礼拝に来てくださったのです。
ここで再び、今のわたしたちの状況へと思いを向けたいと思います。教会の礼拝堂にみんなで集まることができない状態です。今こそわたしたち自身のために、そして全世界の全人類のために祈りを合わせなければならないときなのに、目に見える形で集まることが叶いません。
しかし、そのわたしたちと共に、イエス・キリストは今も生きておられます。今はもう手にもわき腹にも十字架の釘あとが残っていないイエスさまではありません。苦しむわたしたちと同じ姿で、わたしたちと共にイエスさまは今も生きておられます。
そのイエスさまは、日曜日に集まることができない今のわたしたちのところには来てくださらないでしょうか。わたしたちが今行っている「各自自宅礼拝」には来てくださらないでしょうか。そのようなことは決してありません。戸に鍵がかかっている家の中にも来てくださるイエスさまですから、場所や環境をお選びになることはありません。
しかしまた、最初に申し上げたとおり「復活」は、永続的な状態ではなく、一時的な状態です。目に見えるイエスさまのご存在が、今のわたしたちの前にお姿を現し続けられるわけではありません。そうでなくても、わたしたちの信仰が失われるわけではありません。苦しむわたしたちとは無関係な高みにいますイエスさまになられたわけではない、と信じることができるからです。
世界はこれからどうなるでしょうか。わたしたちの命はどうなるでしょうか。不安だらけの日々を過ごしていることを否定できません。しかし、絶望しないでいましょう。自暴自棄にならないようにしましょう。落ち着いて生活しましょう。十字架と復活の主イエス・キリストが、わたしたちと共におられます。その事実に目を向けましょう。
(2020年4月19日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)