2020年4月13日月曜日

慰めのことば


納棺式のときにも申し上げましたが、キリスト教に基づく葬儀は地上に残されたわたしたち自身の慰めのために行うものです。

亡くなられた方の魂は、神のみもとで全き平安のうちにあります。その状態に至っていないので早くそうなるようにがんばってくださいと、故人を応援する意味はありません。

それでは「神のみもと」とはどこでしょうか。告別式で難しい神学議論のような話をするのは、不謹慎でもあり、場違いでもあります。しかし、今のわたしたちにとって真剣な問いであるはずです。

長い人生を共に歩んでこられたお連れ合いであり、お母さまであり、おばあちゃまは、今はどこにおられるのでしょうか。もちろんここにおられます。この部屋の中に。わたしたちの目の前に。しかし、おからだとは、こののちお別れします。それからどうなるのでしょうか。どこにもおられなくなるのでしょうか。

先生の略歴を読ませていただきました。分野は全く違いますが、私の父も学校の教員でした。私もいま、教会で牧師をしながら学校で聖書を教えています。今の私にほんの少し分かるのは、教員生活はたいへんだということです。

たいへんな働きをされてきた方だからどう、そうでない方だからどうと、差をつける意図はありません。それでも思うのは、これほど大きな働きをなさった方が地上の人生の終わりと共にどこにもおられなくなると考えなくてはならないとしたら、「人生とはなんと虚しいものか」と言いたい気持ちを抑えられなくなるだろうということです。

それでも学校教員の場合は、自分がいなくなっても自分の遺志を受け継いでくれる教え子たちの記憶の中で生き続けることができそうだから、まあいいやと思えるところがあるので救われる面があります。しかし、そんな話で納得できるでしょうか。

昨日は、キリスト教のカレンダーで言うところのイースターでした。十字架につけられて死んだイエス・キリストが三日後に復活したことを喜び祝う日、それがイースターです。

死者が復活するなどと、どうしてそんなとんでもないことを信じられるのかと問われることが実際にあります。しかし、特殊で限定的な人々だけが抱いている思想ではありません。アメリカの大統領やドイツの首相のような人が「イースターおめでとうございます」と言うわけです。

脱線しているつもりはありません。まさに本題を申し上げています。先生は今どこにおられるのでしょうか。「神のみもと」とはどこでしょうか。それは聖書を何度読んでも、はっきり分かるものではありません。「神のみもととは、神のみもとである」と、同じ言葉が繰り返されるだけのところがあります。

しかし、聖書の教えには明確な方向性があります。キリストが死者の中から復活したという教えの意味は、この地上にもう一度戻ってくるということです。そしてこの地上が「神のみもと」になるということです。風船が空高く舞い上がって見えなくなって終わりではなく、地上に戻ってくるのです。

このあと皆さんとひとつの祈りを唱えます。それは「主の祈り」と呼ばれる祈りです。この祈りの中の「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りも同じ思想です。

この祈りの意味は「神のみもとである天国が、地上に来ますように。地上の世界が天国のようになりますように。天国で神のみこころが実現しているように、地上においても神のみこころが実現しますように」ということです。大切なのは地上です。わたしたちがいま生きているこの現実の世界です。ここが「神のみもと」であり、ここに「神のみこころ」が実現するのです。

先生の略歴の中に「組合活動の中で知り合って結婚し」と記されているのを読ませていただき、感動しました。労働の問題、社会の問題、政治の問題に真剣に取り組むことは地上の世界と人生をよりよいものへと変えていく明確な意思表示です。その取り組みと願いが、人生の終わりと共に消え去ってしまうことは決してありません。

先生の大きな働きを、わたしたちは受け継いでいきます。先生のご存在が失われることはありません。先生は今ここにおられます。これからもいつもわたしたちと共におられます。そのことを申し上げて、告別の言葉とさせていただきます。

(2020年4月13日、葬儀説教)