2020年5月24日日曜日

キリストの昇天(2020年5月24日 礼拝宣教)





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「今日の挨拶(関口康)」(音声1分3秒)はここをクリックしてください



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ヨハネによる福音書7章32~39節



関口 康



「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」



各自自宅礼拝に教会の週報と宣教文をお届けするのは、今の苦しい時をみんなの祈りの力で乗り越えたいと願っているからです。顔を合わせ、手を取り合うことが今はできなくても、心の中で教会を感じ、共に祈ることにおいて互いに励まし合う関係を、なんとかして少しでも形にあらわすことを続けていきたいからです。



私が昭島教会の皆さんと出会ったのはまだわずか2年前です。それ以前の65年間の歩みを知りません。それでも私に分かるのは、この教会の皆さんは祈りの力によって多くの困難を忍耐強く乗り越えてこられた方々であるということです。



そうでなければ、教会というものは、あっという間に壊れてしまうところがあります。否定的なことは言いたくありません。昭島教会の存在はおひとりおひとりの祈りと努力の結晶です、と申し上げたいだけです。



今日の聖書の個所も、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。このときイエスさまはエルサレムにおられました。エルサレム神殿の境内で神さまのみことばを宣教なさいました。すると「人々がイエスを捕らえようとした」(7章30節)というのです。イエスさまの宣教を妨害しようとしたというのです。



しかしイエスさまは、少しも怯むことなく宣教をお続けになりました。そのうえでイエスさまはご自身が十字架にかけられることを覚悟しておられました。そのようなことは普通の人には堪えられないことです。しかし、イエスさまがそれを堪えることがおできになったのは、ご自身が父なる神さまからこの世に対して遣わされた方として、宣教の使命を強く自覚しておられたからです。神さまの御言葉を宣べ伝えるために、わたしはこの世に生を受けたのであり、そのために生きているのだということを確信しておられたからです。



教会はどうでしょうか。個人としてのわたしたちひとりひとりは、神さまの御言葉を宣べ伝えるために私は生まれたというほどの強い自覚を持つことは考えにくいところがあります。そこまでの思いを抱くことができる方がおられるなら尊重されるべきですが、そうでないことを責められる関係にまではないでしょう。



しかし、ひとりひとりは弱さを抱える存在であっても、イエスさまのからだとしての教会へと加えられ、信仰と祈りにおいて互いに支え合い、高め合う関係を得るならば、さまざまな障害や妨害を共に乗り越えて、宣教を続けていくことができるようになるでしょう。



それは単なる想像や希望的観測といったものではなく、現実の教会が現実に体験してきた事実です。もしそうでないとしたら、わたしたちは、他の誰でもなく自分自身のことを振り返ってみて、なぜ私はこんなに長い信仰生活を続けてくることができたのか、自分で説明がつかなくなるでしょう。



私が忍耐強かったからでしょうか。私の信仰が強かったからでしょうか。だから私はこんなに長く信仰生活を続けられたのでしょうか。「まさかそんなわけがない。ありえない」と、おそらくだれもが考えるのではないでしょうか。むしろ逆に「あんなに弱かったこの私が、どうしてこんなに」という思いを、ほとんどの方が抱くのではないでしょうか。



わたしたちのうちに宿ったこの不思議な力は、神さまから与えられたものです。それは、イエスさまを救い主とする信仰の力でもありますが、同時にその信仰をもって共に生き、祈りをもって互いに支え合う「教会」の存在を抜きにしては考えられない力です。



このように考えていきますと、わたしたちは「教会」を、単純に「人間の集まりだ」と言うだけで済ませてはならないことが分かってきます。なぜそう言えるのかといえば、家や村や町や国、あるいは会社や学校や社会と少しも変わらない意味で「教会もまた人間の集まりにすぎない」と言って済むならば、わたしたちに与えられた不思議な力の源は何なのかを全く説明できなくなってしまうからです。



たとえば、私の性格が「しつこい」からこんなに長く教会生活を続けることができたのでしょうか。そのように冗談か自嘲で言うのは構わないと思いますし、家族や悪友は遠慮なくそんなふうに言うかもしれません。しかし、そんなことではとても説明がつかないことです。



今日の箇所の37節以下で、イエスさまがとても大事なことをおっしゃっています。それをイエスさまは「立ち上がって大声で言われた」(37節)と書かれています。



「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、

その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(!!)



続く箇所に、「生きた水」とは“霊”、すなわち「聖霊」を指すと説明されています(39節)。そして、その水はイエスさまのところで飲んだものだというわけです。



つまり「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」とは、父なる神さまから出て、イエスさまを通って、聖霊によってわたしたちの中に流れ込んだ何かが、さらにわたしたちから流れ出て多くの人々に及び、時代と世代を越えて受け渡されていくことを指していると言えます。



それは何でしょうか。それはもちろん神さまの力です。そして信仰の力も加わるでしょう。しかし、それだけでなく、「教会」の存在が含まれると言わなくてはなりません。神さまと個人の関係だけでは説明できません。



個人の力がいかに弱く、もろく、はかないものであるかは、だれから指摘されなくとも、わたしたち自身が最も自覚していることではありませんか。このように言うのは、教会を押し付けたいからではなく、教会のみんなで力を合わせることの心強さを、今の苦しいときにこそ思い起こしたいからです。



イエスさまは、今は、わたしたちの目に見えない天の父のみもとへと挙げられています。それを「昇天」(しょうてん)と言います。わたしたちが地上の人生を終えて天へと召されることを指す「召天」(しょうてん)とは区別されますが、無関係ではありません。



イエスさまは本来、神であられる方として、天へとお戻りになったのです。わたしたちは、人間として、人間のままで、天へと国籍が移され、永遠に神と共に生きる者となるのです。



この信仰に支えられつつ、希望と喜びをもって、今週も共に歩んでまいりましょう。



(2020年5月24日 各自自宅礼拝)