2018年7月8日日曜日

恵みが溢れる

ローマの信徒への手紙5章12~21節

関口 康

「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

今日の私は、いろんな意味で気後れしています。皆さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。原因は「うちにテレビがないこと」だと、テレビのせいにしておきます。

なぜでしょうか、先週集中的に日本国内で起こった、いくつかの大きな出来事をほとんど知らずにいます。サッカーのことも、西日本豪雨被害のことも、オウム真理教のことも、いろいろあったようだと、なんとなく知っていますが、詳しいことは全く知りません。

先週木曜日、教会の方から「教会にちゃんと映るテレビがありますよ」と初めて教えていただいたのですが、結局観ることができませんでした。テレビを観る習慣がないわけではありません。むしろ好きなほうですが、まだ状況が整いません。

「そんなことも知らないのか」と言われても仕方がない状態です。情報の最先端を走っておられる皆さんから大きく遅れをとった状態で、著しい情報格差を感じつつ、今ここに立たせていただいていることをお許しいただきたく願っております。

聖書についてはどうなのかということも申し上げておく必要がありそうです。聖書は毎日読んでいます。今日の箇所も、穴が開くほど読みました。しかし、今日の箇所はとても難しいです。何が難しいのかというと、ここに書かれていることをわたしたちの現実に結びつけて理解できる言葉にするのが難しいです。

これも「うちにテレビがない」という話に戻っていくところがあります。今のわたしたちが置かれている現実をよく知ることなしに、今のわたしたちに理解できる言葉で語ることは難しい。そのことを痛感する一週間でした。

しかし、開き直るつもりはありませんが、言いたいこともあります。テレビで報道されていることはあくまでもひとつの見方にすぎないということは、ご承知の通りです。テレビこそ嘘をつくということもありえます。テレビが全く言わないことも当然あります。

ひとつだけご紹介します。オウム真理教で教団ナンバーツーと言われた人は、私の中学と高校の先輩です。彼のほうが3学年上なので面識はありませんが、彼がどのような学校教育を受けてあのような宗教に走ったかの背景が私なりに分かります。中学でも高校でも成績優秀で、医者になりました。

一方、死刑を執行した法務大臣のもとで現在働いている法務省ナンバースリーの法務大臣政務官は、これまた私の中学の同級生です。高校は違いますが、私の高校のライバル校の卒業生です。私は彼を覚えているし、彼も私を覚えてくれています。東大卒業、米国留学、検察庁検事になり、東京地検特捜部や在米日本大使館で働いた後、政治家になり衆議院議員になりました。

私は彼が次の法務大臣ではないかと思っているほどですが、学校教育という観点だけからいえば、オウム真理教ナンバーツーも法務省ナンバースリーも出発点は同じだということです。そして私も同じです。私は中学でも高校でも成績不良者のナンバーワンでしたが。

オウム真理教の問題は、これまでさまざまな角度から論じられてきましたし、今なお謎の要素が多いですが、今の学校教育のあり方が関係しているのではないかという話を聞くと、腹が立つことはありませんが、何とも言えない気持ちになります。

余談が過ぎました。今日開いていただきました、私にとっては「難しい」と感じる聖書の箇所と向き合いたいと思います。

この箇所に何が書かれているかを一言でいえば、聖書に最初の人間として登場するアダムと、イエス・キリストが比較されているということです。そのこと自体、今のわたしたちにとって訳が分からないことだと言っても過言でないと思います。「最初の人間がアダムであると聖書に書いてあるかもしれないが、学校の教科書にそんなことは書いていない。科学的根拠がない」と言われれば、そのとおりです。

あるいは、全く異なる観点から、「教会の信仰において、イエス・キリストは神である。神であるイエス・キリストと人間であるアダムとを比較すること自体が間違っている」という見方もできるかもしれません。どんどん謎の深みにはまっていく箇所のひとつだと、私には思えてなりません。

しかし、パウロが言おうとしていることは、私が今申し上げたような、アダムが歴史的に実在したかどうかとか、イエス・キリストが神であるかどうかというような次元の話から完全に切り離すことはできないとしても、いくらか区別することが可能かもしれません。どう言えばいいのか、それが難しくて分からないのですが。

今日の箇所に記されていることの中でパウロが言おうとしていることが最も分かるのは、18節です。「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」。

お分かりでしょうか。こういう話だと思います。「一人の罪によって」の「一人」はアダムです。「一人の正しい行為によって」の「一人」はイエス・キリストです。そのアダムとそのキリストをパウロが比較しています。なぜ比較するのかというと、両者に共通点があることを浮き彫りにしたいからです。

具体的な話をしはじめると、いろいろ語弊が生じる気がしますので、なるべく避けたいですが、だれかと自分を比較するとか、自分以外のだれかとだれかを比較することは、わたしたちが日常的に行っていることだと思います。この人とあの人の共通点は、とりあえず人間であることだというあたりから始まって、あといろいろ。

やはりすぐ語弊が出てきそうなので具体的な話はやめておきます。「あの人は背が高い」と言うだけで問題になることがありえますので。ある人と他の人を比較するというのは、実際にそれをしない人はいないと思うくらいですが、たいてい嫌な話になります。楽しい話になることは、まずありません。最初に私の中学の先輩と同級生の比較のような話をしましたが、楽しい話ではなく嫌な話です。

私がこの教会で最初に説教をさせていただいたときに申し上げたことですが、「学校の教員ほど嫌な仕事はない。なぜなら、生徒の答案に点数をつけなければならないからだ」と申しました。「生徒に点数をつけること」は不可能ですが、「生徒の答案に点数をつけること」は可能ですし、それをするのが学校教員の仕事です。

評価することと比較することは切り離すことができません。学校だけでなく、どこに行っても比較と評価は必ずつきまといます。その点でパウロがしているアダムとキリストの比較も同じです。楽しい比較ではなく嫌な比較です。

アダムは最初の人間だったのに、彼が罪を犯したので、アダムから生まれた全人類がアダムの罪を受け継いでいるとパウロは考えています。アダムの罪を全人類が受け継ぐとはどういう意味なのか。いわゆるDNAだのという生物学的な遺伝子レベルの話なのか、というようなことを問題にしはじめると、ただ混乱するだけです。わたしたちは現代人ですので、どうしてもそういう次元のことを考えざるをえないわけですが、パウロはそういう話をしているわけではないと思っていただくほうがいいです。

それならばどういう話なのかといいますと、パウロが注目しているのは数字の問題です。アダムは最初の人間だったということは、アダムはひとりだったということです。つまりアダムの数字は1(いち)です。その1(いち)であるアダムからすべての人に罪が及んだ。「すべて」の数字は何でしょうか。満点を100点にするとすれば、100(ひゃく)を「すべて」と仮に決めることができるかもしれません。

そのアダムとキリストは同じだとパウロは言おうとしています。どこが同じなのかというと、キリストもひとりだったという点です。ひとりのアダムの罪によって始まった全人類の罪からの救いという神の恵みのみわざが、ひとりのキリストから始まったということです。

アダムの罪がアダムひとりから人類全体に広がったように、神の恵みもひとりのキリストから人類全体に広がっていくのです。1から出発して100に到達するという点で、アダムとキリストは数字的に一致しているというわけです。図式的で、ある意味で抽象的でもある話です。

しかし、それだけではありません。「恵みの賜物は罪とは比較になりません」(15節)とパウロが記しています。比較しながら「比較になりません」と面白いことを言っています。どこが比較にならないかというと、「罪が溢れる」ことがあるかどうかは分かりませんが、神の恵みはあまりにも豊かすぎて溢れるものだ、こぼれおちるほどだというわけです。机の上からばしゃばしゃと。そこに両者の違いがあるとパウロは考えています。

数字でいえば、アダムの罪は1からスタートして100に到達したが、キリストの恵みは100以上であるということです。学校の先生が時々上機嫌で、よく書けている生徒の答案に「はなまる」を付けたりするのと似ているかもしれません。

こんなふうに考えていくと、パウロが書いているのはずいぶん楽しい話のように思えてきます。不謹慎な言い方は慎むべきですが、「神の恵みはすごいんだぞ」と言いたいだけかもしれません。

教会のことを考えさせられます。教会も最初はひとりから始まります。イエス・キリストが最初。最初の弟子はペトロ。現在は世界70億人の3分の1がキリストの弟子です。

開拓伝道の教会も、最初はひとりです。次第に人が増え、長い時間をかけて成長していきます。あるいは、家庭や職場や社会の中で、最初のキリスト者はひとりです。

ひとりであることは孤独であることを意味します。寂しさが伴います。しかし、そのときこそ今日の御言葉を思い起こしましょう。

「孤独に負けてはいけない。キリストもひとり。ひとりのキリストから、救いの恵みが全人類に及び、その恵みは豊かに溢れているのだから」とパウロが励ましてくれています。

(2018年7月8日)

2018年6月24日日曜日

希望が与えられる

ローマの信徒への手紙5章1~11節

関口 康

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

今日はできるだけ聖書に張り付いたお話をします。今朝開いていただきましたのは、ローマの信徒への手紙の5章の冒頭です。他にも例がありますが「このように」という接続詞と共にパウロがこれまで書いてきたことをひとまとめにしたうえで、結論的なことを述べている箇所です。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとします。」

「本当にそうだろうか」と疑問符を付けて、これを書いているパウロに対しても、これを読んでいる自分自身に対しても厳しく問いかけながら読むことが許されているし、そういう読み方でないかぎり意味がないとさえ私は思います。

「わたしたちは信仰によって義とされた」と書かれています。「義とされた」は救われたという意味で理解してもよいと繰り返し申し上げてきました。「わたしたちは信仰によって救われた」。過去形で書かれていますが、救いは過去に一度限り起こった出来事ではなく、それが始まった過去から現在まで継続し、未来へと続く出来事です。その意図をくめば「わたしたちは信仰によって救われている」。

本当にそうだろうか。信仰など持たなければよかったと強く後悔し、今すぐにでもこれを捨てたいと願ったことがかつてなかっただろうか、実は今まさにそういう思いにとらわれていないだろうか。信仰こそ我が身を導く杖だなんて冗談でない。信仰こそ私を躓かせてきたのではないだろうか。人生を破壊し、人間関係を失う原因だったのではないだろうか。この私が「信仰によって救われている」と本当に言えるだろうか。このようにわたしたちは自らに厳しく問いかけてみるべきです。

「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」。これこそ冗談ではない。いいかげんにしてくれと、大きな声でわめきたくなる。何が「神との平和」だ。なぜこのようなことをパウロはさらさら書けるのだろうか。私がこれだけ神と教会のために尽くしても、まるで神は無視だ。いっそ無視してくれるほうがましだ。まるで神が私を標的にして攻撃しているのではないかと感じる。平和どころか戦争だ。神に憎まれ、呪われているとしか感じない。その証拠に私の人生は破滅の一途。

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。いや逆でしょうと言いたくなる。「キリストのお陰で人生めちゃくちゃだ。夢も希望も誇りもずたずただ」と言うほうが、よほど現実味がある。

いま申し上げていることが私自身の心の叫びであるかどうかは、ご想像にお任せします。そうだと思っていただくのも自由、違うと思っていただくのも自由です。そのことよりはるかに大切なことは、現実問題としてわたしたちが知らずにいるわけには行かないし、実際に知っている事柄である、多くの人々がいったん教会の門を叩き、決して短くない教会生活をしたうえで教会と信仰に背を向けて離れているという現実です。

教会に踏みとどまった人々だけが信仰の強い人で、そうでない人はそうでないと、単純に片づけることはできません。教会自身が人をつまずかせる原因になることが十分ありうるし、実際にあることは無視できないし、それはわたしたち自身の心の痛みとして覚え続けるべきことでもあります。

そのひとりひとりの心の奥底まで分け入って踏み込み、躓きの理由は何かを尋ねることは限りなく不可能に近いし、それこそ神とその方ご本人の一対一の関係の中でのみ知られうる事柄です。だれも触れるべきではない。しかし、そこで実際に起こっているのは激しい葛藤であり、神との格闘であるということは、ここにいるわたしたちは大なり小なり体験的に知っていることです。

その意味でならば、私ももちろん知っています。牧師をしながら毎日神さまと大喧嘩です。「全く冗談じゃありませんよ、もう勘弁してくださいよ」と。

私の話になっていくのは、これ以上は自主規制します。それよりも大事な問いがあります。それは、パウロが書いているのは、きれいごとなのかという問いです。彼は悩みもなく生きていたでしょうか。信仰によってあらゆる問題がすっきり見事に解決したと言えるような人生を送っていたでしょうか。だからこういうことを臆面もなく書けたのでしょうか。いろいろ調べてみると、全くそうでない事実が見えてきます。パウロの生涯の詳細について今ここで、いちいち述べることはしませんが。

しかし、もしそうであるなら、ますます疑問がわいてくる。パウロはいったい何者なのか。「わたしたちは信仰によって救われている」とか「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」とか、まるで何事もなかったかのように、しゃあしゃあと書くことができる。

なるほどそうか、この人は宗教をなりわいにしている宗教商売人なので、自分の商売道具について悪く書くことができないと思っているのではないか。自分がどれほど苦労しようとおくびにも出さず、厚かましいきれいごとを平気で書けるのではないか。こういう人の口馬に乗せられるととんでもないことになる、くわばら、くわばら。

私はいま余計なことを言っているようでもありますが、この程度のことは高校生くらいにもなれば躊躇なく書いてくる、だれでも考えることですので、あえて口に出しています。そして、これらひとつひとつの問いは、冷笑されたり無視されたりしてはならないと私は考えます。紙一重の面がないとは言い切れません。パウロもひとりの人間である以上、彼だけを特別扱いすることもできません。

しかし、ここから少しずつですが、彼をかばうような言い方になっていくことをお許しください。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(3節)とパウロが書いていることに、私は彼の本音を見出します。それこそきれいごとだなどと私は思いません。

「そればかりでなく」と書かれると、本筋から少し外れたことが付け加えられているような言い方に見えますが、実際にはパウロはこのことこそ言いたかったのではないかと私には思えます。「苦難をも誇りとする」。私はこの箇所を読むたびに「苦しいですけどね、それも神の恵みですから堪えますよ」と、笑っているのか泣いているのか分からないようなパウロの顔が思い浮かぶような気がします。

そしてこの続きに、この手紙の中でも最も有名な言葉のひとつが登場します。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。

この言葉の意味を考える前に申し上げておきたいことがあります。これは信仰の問題を言っているのであり、神との関係について言っているのであって、それ以外のいろんなことに当てはめて一般論にしてしまわないほうがよい、ということです。

これを一般論にしてしまいますと、だれでもよく分かる話になる面と、一般的には全く理解できない話になる面とが出てくると思います。

だれでもよく分かる話になるのは、スポーツのたとえです。厳しいトレーニングをがんばって受けて体と心を鍛えれば、強くなり、いつの日かトップレベルのアスリートになることができる、かもしれないという希望が与えられる、かもしれない。そもそも最初の厳しいトレーニングを受けなければ、目標としてのトップアスリートの実現もありえない。だからがんばれがんばれ。

たとえばこういう話と、パウロが書いていることは、よく似ているといえばよく似ているかもしれません。あるいは受験勉強のたとえでも同じようなことが言えます。分かりやすいといえば、これほど分かりやすい話は他にないと思えるほどです。

しかし、よく考えるとこれはおかしいです。わたしたちが救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰によるのであって、行いによるのではない。それは分かった。しかし、信仰もまたひとつの行為である。そうだとすれば、「わたしたちは自分自身の信仰という行為によって救われる」と考えなければならないのかというと、決してそうではなく、パウロははっきり「働きによらない信仰による救い」を述べています。そのことはすでに学びました。

もしそうだとすれば、わたしたちが信仰生活のために何かトレーニングをしなければならないことがあるのでしょうか。その訓練を受けて「強くなる」必要があるのは、わたしたちのどの部分でしょうか。そして、それによってわたしたちは本当に「強くなる」のでしょうか。かえって傲慢さや頑なさが強くなるだけではないでしょうか。「私は強い信仰の持ち主になった。私と比べてあの人たちの信仰はけしからん」と。それは強くなったと言えることでしょうか。

パウロは繰り返し「イエス・キリストによって」と書いています。「神との平和を得ること」(1節)も「神の怒りから救われること」(9節)も、パウロにとっては、イエス・キリストによることです。それは具体的にどういう意味かを考えるときに重要なのは、イエス・キリストの十字架上の死による贖いによることが6節以降に記されています。

わたしたちにとって大事なことは、イエス・キリストの十字架上の死による贖いと、わたしたちが苦難を忍耐して得られる練達によって生まれる希望との関係は何か、ということです。それは要するにスポーツにおけるトレーニングと同じような意味で強くなることが目的なのか、ということです。

そうではないと、私は言いたいのです。イエス・キリストは十字架上で、世にも稀なる強い人の姿を現されたでしょうか。十字架の釘の痛みの極みの中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と祈ることができた強い信仰の持ち主としての姿を。

たしかにそのようにもおっしゃいましたが、それだけではありません。最期の最期に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをあげる完全に無力な人としてのお姿も描かれています。

わたしたちの「希望」は、トレーニングによってつかみとるものではありません。それは「神の恵み」として与えられるものです。しかもそれは十字架上のイエス・キリストの無力な姿に似た者にされるという希望です。

私はなるべく使いたくない言葉ですが、キリスト教の救いが「逆説」の性格を持っていることは明らかです。それを「負け惜しみ」と言わないでください。勝ってもいませんが、負けてもいません。まだ終わっていませんので。

(2018年6月24日)

2018年6月20日水曜日

どうすれば親孝行できるか(桜美林大学)

桜美林大学(東京都町田市)
桜美林大学(東京都町田市)

ルカによる福音書16章27~31節

関口 康

「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

桜美林大学の皆さま、こんにちは。関口康と申します。よろしくお願いいたします。

今日の礼拝が「地域連携特別週間」のそれであるということを、たったいま知りました。今の教会には4月に転任したばかりですので、教会についてお話しする資格はありません。そういう準備は全くしていませんので、別の話をさせていただきます。

最初に私の自己紹介をさせていただきます。しかし、詳しいことを申し上げる時間はありませんので、ちょっとだけ。

私は一昨日月曜日に、東京都杉並区の東京女子大学のチャペルで説教させていただきました。一日置いて今日水曜日は桜美林大学のチャペルにお邪魔しています。一週間で二つの大学をお訪ねすることになりました。

ツイッターでバズった人に「お前、有名人じゃん(草)」というリプを飛ばす人がいます。私も今週ですっかり有名人です。私もツイッターをしますので、ぜひフォローしてください。しかし、今は礼拝中ですので、私の話を聴いてください。礼拝中のスマホいじりは禁止です。

しかし、という接続詞でつなぐ話ではないかもしれませんが、昨日火曜日は八王子に新しくできたばかりのインターネット通販サイト「アマゾン」の倉庫でアルバイトをしていました。

朝8時から夜7時まで10時間(休憩1時間)、時給1000円、週3日。アルバイトしながらでもないと成り立ちにくいのが牧師の仕事でもあります。すべての牧師がアルバイトしているわけではありませんが。

本当は今日もアマゾンのアルバイトに行く予定だったのですが、せっかく桜美林大学のチャペルで説教をさせていただけることになりましたので欠勤しました。事前に欠勤届を出しましたので、無断欠勤ではありません。

昨日の仕事はストーでした。ストーというのは倉庫に大量に届く商材を倉庫の棚の中に入れていく仕事です。私の作業内容は日によって違いますが、私に回してもらえる仕事は、ストー以外はピックかパックです。

ピックというのはお客さんが注文した商品の情報が倉庫に届くので、その情報に基づいて商品を探して集める作業です。パックというのは商品を梱包する作業です。

その倉庫はJR八高線「北八王子駅」徒歩15分のところにあります。アルバイトを探している方がおられるようでしたら、ぜひ応募してください。大募集中ですので、きっと採用してもらえると思います。

このままアルバイトの話を続けるほうがぜったい面白いと思いますが、私は今日、そういう話をしに来たわけではありません。今日の説教に「どうすれば親孝行できるか」という題を付けました。「どうすれば大学生の皆さんが、いちばんむかつく題になるか」を考えました。

私にも2人、子どもがいます。上が23歳、下が20歳。皆さんと同世代です。ということは、皆さんの親御さんが私と同世代の方々だということです。

その私が皆さんに「どうすれば親孝行できるか」という話をするということは、私が自分の子どもたちに「どうすれば私に親孝行してくれるのか」と説教するのと同じです。嫌でしょう、そんな親。殺意を抱くレベルかもしれません。そういうことはよく分かっているつもりです。

そして、今日の説教の結論を先に言えば、皆さんが親孝行のために特別に何かをする必要など全くない、ということです。「ナニそれ?」と思われるかもしれませんが、そうとしか言いようがありません。「そんなことはどうでもいい」というのが今日の結論です。

先ほど朗読していただきました聖書の箇所は、イエス・キリストのたとえ話です。お金持ちの人がいました。その人の家の前にいつも寝ているラザロという人がいました。体中に吹き出ものがありました。それを犬が近寄ってきてなめたりしました。

その後、ラザロは死にました。お金持ちの人も死にました。人生は平等です。貧しい人も死にますが、お金持ちの人も死にます。いずれにせよ人は必ず死ぬという点で、人生は平等です。

死んだラザロは天国に行きました。アブラハムという旧約聖書の登場人物が天国にいて、ラザロを迎え入れてくれました。お金持ちの人は苦しい地獄に行きました。その人が見上げると天国のラザロとアブラハムの姿が見えました。

お金持ちだった人が大声でアブラハムに、そこにいるラザロを私のところによこせと言いました。「お金持ちだった人」と過去形で言いました。だってこの人はもう死んでいるのですから。天国にも地獄にもお金を持っていくことはできませんから。

その人がアブラハムに言ったのは、ラザロの指に水をつけて私の渇いた舌を冷やさせろということでした。するとアブラハムは、それは無理だときっぱり断ってくれました。それはそうでしょう。この人は生きている間、苦しんでいるラザロに施しひとつせず、見殺しにしていたのですから。

すると、金持ちだったその人がまだ言う。私の父親の家に兄弟が5人いるので、その者たちのもとにラザロを遣わして、こんな苦しい地獄に来ないで済むようにラザロを使って言い聞かせてくださいと。そのこともアブラハムはきっぱり断ってくれました。

なんでこの人、こんなに偉そうなのでしょうか。この人のおかしさは、自分はもう死んでいるのに、ラザロがまだ自分の言うことを聞く手下になると思い込んでいることです。

さっきから言いたくて我慢している言葉を言っていいですか。こいつ、ばかです。

私は皆さんにはぜひお金持ちになっていただきたいです。皮肉でなく心からそう願っています。しかし、人を見くだす人間にならないでください。もし私が皆さんの親なら、自分の子どもにそのことをこそ願います。私もつい「ばか」と言いました。反省します。ごめんなさい。

皆さんにはぜひ会社に入ったら、リーダーになってほしいし、スーパーバイザーになってほしいです。マネージャーになってほしいし、オーナーになってほしいです。しかしそうなったとしても、アルバイトの作業員を自分の手下だとかコマだとか、そういうふうに思い込まないでほしいです。

もし私が皆さんの親なら、皆さんがどんなに偉くなっても、人を見くださない、ばかにしない人になってほしいです。すべての親が私と同じ考えかどうかは分かりませんが。

そういう人に皆さんがなることこそ「親孝行」です。親孝行のために特別にしなければならないことは、何もありません。

(2018年6月20日、桜美林大学チャペルアワー)

2018年6月18日月曜日

どうすれば天国に行けるか(東京女子大学)

東京女子大学(東京都杉並区)
東京女子大学(東京都杉並区)

ルカによる福音書14章21~24節

関口 康

「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った、『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

東京女子大学の礼拝でお話しさせていただくのは2回目です。最初は1年前の2017年6月(27日)でした。そのとき「私も就活中です」と言いました。あからさまに言えば、1年前の私は無職でした。どうしてそうなったのかは話が長くなりますので割愛させていただきます。昨年の説教は私のブログで公開していますので、探してみてください。

昨年私が申し上げたのは「同情してもらいたいのではありません。『おじさんも必死で生きています』と言いたいだけです。私は絶対にあきらめません。皆さんも絶対にあきらめないでください」ということでした。勝手な話ですが、そのとき私は皆さんの前で再就職の誓いを立てた気持ちでした。そして、これまた勝手な話ですが、今日は再就職完了の報告をさせていただきに参りました。

失業中、ハローワークに通いました。いろんなアルバイトを探しました。私が持っている免許は、自動車の普通免許と宗教科の教員免許と牧師の免許だけです。「使えないやつだ」と思われたようです。多くの会社から不採用通知を受け取りました。応募したのは、警備会社、湯灌師(おくりびと)、浮気調査の探偵会社、などなど。学校関係は競争率が高すぎて不採用。塾講師も応募しましたが不採用。

やっと採用してもらえたのが物流関係の倉庫でした。ピッキングのアルバイト。しかし、現場が自宅から遠く、交通費がかかりすぎて収入が目減りする一方なので、1か月でやめました。自宅から歩いて行ける距離に印刷関係の会社を見つけて応募したら、なんとか採用してもらえました。

今年4月から教会の牧師の仕事に復帰しました。それ以前の25年間続けてきた私の本業です。本業に戻ることができました。競争率が高いわけではありません。そもそも就職先が少なく、成り手も少ない職種です。

今は牧師の仕事をしながら、昨年の経験を活かしてアルバイトをしています。自転車で通える距離の八王子のアマゾンの倉庫で週3日、1日10時間働いています。内容はピック(注文品探し)とパック(梱包)とストー(棚入れ)です。

なぜこんな話をしているか。皆さんの参考になるかもしれないと思うからです。「おじさんとわたしたちを一緒にしないでほしい」と叱られるかもしれません。ごめんなさい。

この私の話と、今日の聖書に記されていることと、「どうすれば天国に行けるか」という今日のお話のタイトルとの三者がどういう関係にあるかを、そろそろ申し上げなくてはなりません。

これはイエス・キリストのたとえ話です。ある人が宴会を開きました。たくさんの人を招待したいと願いました。ところが、招待した人たちが、いろんな理由をつけて宴会に来ませんでした。腹を立てた主催者が、要するにだれでもいいから無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれと、しもべに言いました。天国とはそういうところだと、イエスさまがおっしゃいました。

たとえ話はその意味を考えなくてはなりません。私なりの言葉で言えば「天国は競争率が低い」ということです。タダでごちそうをいただけるのにだれも来ないし、理由をつけて逃げられる。―チャペルの礼拝のようでしょうか。今日はたくさんの方が出席してくださり、ありがとうございます。空席だらけで、行けばだれでも大歓迎してもらえる。―教会の礼拝のようでしょうか。そうかもしれません。

主人に招かれた人々が、なぜ誰も来なかったのでしょうか。タダでもらえるものには価値がないと思ったからでしょうか。自分が一生懸命頑張って手を伸ばして自分の力で勝ち取り、つかみ取るようなものでなければ。

要するにだれでもいいの例として、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の自由な人」をイエスさまが挙げておられることに差別の意図はありません。それだけは誤解のないように言っておきます。しかし、競争社会の中で遅れがちになりやすい人々であるのは否定しにくいことではあるでしょう。

「世の中は違う。そんなに甘くない」と思われるでしょうか。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。競争そのものが目的ならば話は別ですが、人生は競争だけで成り立つものではありません。

就活に悩んでいる方にぜひ考えていただきたいです。一度でいいから競争心を捨ててみませんか。「自分はあの人より上である、あの人より下かもしれないが」というその競争心を。生きていくために、仕事を得るために、世のため人のために役立つために。忍耐して生きのびたごほうびとしての「天国」に迎え入れていただくために。

(2018年6月18日、東京女子大学 日々の礼拝)

2018年6月17日日曜日

約束が与えられる

ローマの信徒への手紙4章13~25節

関口 康

「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼るだけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

すでに何度かお話ししましたが、私の両親がキリスト者で、二人とも教会学校の教師をしていたこともあり、私は生まれたときから教会に通っていました。

その影響で、と言いますか、その環境の中で、と言うほうがぴったり当てはまりますが、子どもの頃から実は今日に至るまで拭いきれずにいる「教会」というものに対する私の中でのイメージは「連れて行かれる」ところだったりします。否でも応でも。

それは間違ったイメージであるということは、一方では分かっているつもりです。「連れて行かれる」を漢字の熟語にすると「連行」です。国語辞典で調べてみると、連行とは「本人の意思にかかわらず、連れて行くこと。特に警察官が犯人・容疑者などを警察署へ連れて行くこと」だと書かれていました。お前の主体性はどこに行ったのかと叱られるかもしれません。

しかし他方で、私は牧師の仕事を始めて28年目ですが、今に至ってもそのイメージを拭いきれずにいます。かえってますますその感覚が強まっているとも感じています。私が牧師だからこそそのように感じるのだと言える要素があるかもしれません。

ここで申し上げたいのは、私が教会に抱くイメージのそれは、キリスト者として果たすべき「義務」だからとか、「責任」だからとか、「神の命令」だから、というような言葉で表現できることではないということです。

そうではなく、まさに「恵み」です。「神の恵み」です。それ以外に表現しようがありません、少なくとも私には。ただし、その中に強制の要素がある。「強いられた恵み」というのは矛盾に満ちた言い方かもしれませんが、まさにそれが当てはまる。そのように思うのです。

教会は日曜日だけ存在する存在ではありません。教会は建物や組織の意味だけでなく、キリスト者の存在そのものが教会です。ふだんひとりひとりが別々にいるときは教会の姿は見えにくく、日曜日に集まると、よりはっきりと姿を現します。

しかし、それはそうとしても、日曜日に集まることが教会のほとんどすべてを集中的に現していると言えないわけではありません。その中で牧師に与えられている責任は説教の準備をすることです。日曜日は7日ごとに巡ってくる。ある意味で「襲い掛かってくる」。否応なしに。体調や状況如何にかかわらず。

感謝の気持ちはもちろんあります。感謝の気持ちしかありません。しかし、これは私の考えですが、教会は牧師にとって居心地の良い場所だけであってはならないと思っています。それは悪い意味での自己満足です。教会の私物化に通じます。教会は牧師の職場でもあるからです。

15年前に出版された『バカの壁』(2003年)が一世を風靡した養老孟司氏が何冊かの本に繰り返し書いていたのは、正確な引用ではありませんが、こういうことでした。「仕事して給料をもらえるのは仕事が苦しいものだからだ。仕事が楽しいというのはおかしい。職場は遊園地ではない。仕事が楽しいなら、職場に入園料を払わなくてはならないだろう」。すべてが教会に当てはまるとは思いませんが、痛いところは突いていると思います。

何の話をしているかといいますと、牧師はつらいよという話ではないし、教会はつらいよという話でもありません。わたしたちは「神の恵み」について語ります。「恵み」と言うかぎり、神から一方的に「与えられるもの」であることを意味します。それは、わたしたち人間の意志や願いにかかわらず、まさに「与えられるもの」であるという性格を持っています。

場合によってはそれは、わたしたち人間の意志や願いに反して与えられることもあります。自分が欲しいものだけ自分で選ぶことができるわけではない。欲しくないものまで押し付けられる。そのため、わたしたち人間の側からすると、強制的な要素があると感じるところが出てくるのではないかと思うのです。

今申し上げていることの文脈で、わたしたちには信教の自由があるので、いかなる意味でも強制があってはならないという話を持ち出すのは全く間違っています。信教の自由の理念は正しいものです。しかし、それとこれとは全く違う話です。今申し上げているのは、わたしたちが生まれたことも、人間として生きていることも、自分の願いや祈りの実現であるとは言えないという意味で強いられたものであると言っているのに近いことです。

わたしたちのうちのだれが「生まれたい」という明確な意志をもって生まれたでしょうか。DNAとかそのあたりの謎のレベルで「私は生まれたがっていた」と主張する人がいるかどうかは知りませんが、そういう話とは区別して考えていただきたいです。そういう話ではありません。

少なからぬ少年少女が、あるいは大人になってからも、私はなぜ生まれたのか、私はなぜ生きているのかという悩みを解決できずにいます。私は生まれたかったわけではない、生きていたいと思わないと。

実際そのとおりだとしか言いようがない面があります。身も蓋もない言い方をしてしまえば、親にとって子どもは、子どもの意志とは全く無関係であるという意味で「勝手に」産んだものです。だからこそ親の責任は重大であると言わなければならないことは事実です。

いま、うちにテレビがありませんし、仮牧師館から牧師館に引っ越してから私用のインターネットがまだつながっていませんので、最近のニュースが全く分かりません。親が子どもを殺したとか、親子関係が悪かった人が人を殺したとか、そういう痛ましい話がいろいろあるようですが、どれも噂話のようなこととして間接的に聞いているだけで、具体的な中身がさっぱり分かりません。

ですから、いま申し上げているのは時事の出来事についてのコメントではありません。聖書的・キリスト教的な意味での一般論をお話ししているにすぎません。

先週は「信仰が与えられる」という題でお話ししました。今日は「約束が与えられる」という題です。来週は「希望が与えられる」という題であることを週報で予告しました。「信仰」も「約束」も「希望」も未来に属する事柄です。6月の関口牧師の説教は「与えられる未来シリーズ三部作」であると覚えていただくとよさそうです。

この「与えられる」に私がこめた意味が、ある意味で「強いられる」でもあると申し上げたいのです。私は二人の子どもの父親です。私は子どもたちに「ごめんなさい」と謝らなくてはならないかもしれません。「こんな目に合わせて、ごめんなさい。こんな時代に、こんな苦しい世界に立たせてしまって。もっと良い時代に生まれたかったよねえ」と。そう言うと、人のせいですが。

そこで私が「でもね、それはぼくも同じだよ」とか言い出すのは無責任な言い逃れかもしれませんが、そういう連鎖のようなところが人生にあります。人は面倒な時代の中に生まれ、その人自身が面倒の原因を作り出す。それぞれの時代に、それぞれ異なる悩みがある。大げさに言えば、人類の歴史は、そのような連鎖によって作り出されてきたものでもあります。

今日の箇所にパウロがアブラハムの生涯について、とくにイサク誕生の経緯に触れて書いています。イサクの側の視点は全く考慮されません。すべてあくまでも親であるアブラハムの側からの視点だけです。「あなたに星の数ほど多くの子孫を与える」と神が約束してくださったにもかかわらず100歳になるまで一人の子どもも与えられなかったアブラハムに、やっとイサクが与えられました。

子どもが与えられるかどうかということ自体の問題ではありません。神の約束が実現するかどうかの問題でした。アブラハムは、その約束がいつになっても実現しないので、約束そのものを疑ったことも全くなかったわけではありません。神の約束の内容とは違う方法で子どもをもうけたことまで聖書に記されています。しかし、最終的にアブラハムは神の約束に立ち戻り、それを信じ続け、ついにその約束の実現を見ることができました。

アブラハムがしたことは「あきらめなかった」ということだけです。子どもを産むことができる身体的な能力という意味での限界を超えてもなお、「神の約束は必ず実現する」と、神とその約束を信頼し続けました。

私は、100歳のアブラハムと90歳のサラに初めての子どもとしてイサクが与えられたという創世記の物語を「奇跡物語」としては受けとめていません。超自然という意味での奇跡の要素は全くありません。夫婦に子どもが与えられることに超自然の要素はありません。強いて「奇跡」だと言いうるところがあるとしたら、100歳のアブラハムが自分に子どもが与えられると信じることができた、そのことです。その信仰が奇跡です。

当時の年齢の数え方と今の年齢の数え方が違っていたのだ、というような合理的な解釈の可能性があるかもしれませんが、そういうのは私にとってはどうでもいいことです。重要なことはアブラハムもサラも「高齢者」であったということです。

そして彼らがイサクに託したのは信仰の継承でした。その信仰はアブラハムに与えられた「あなたに星のような多くの子孫を与える」という神の約束を信頼することであり、同時に未来において信仰の民が多く与えられることへの希望を持つことを意味していました。このあたりで、アブラハムの話とわたしたちの教会の話が結びついてくるものがあると私には思えます。

もうずいぶん前からですが、「日本の教会の未来がない」と嘆く声を教会の中で繰り返し聞いてきました。やれ少子高齢化だ、やれ教会に高齢者しかいない、やれ子どもや若者がいない、だから我々には未来がないと、絶望の三段論法を教会自身が言い続けるのです。

あと10年で多くの教会が消滅するそうです。すでにそれは始まっています。毎年いくつもの教会が閉鎖や合併を余儀なくされています。それはすべて事実です。

しかし、その話を聞くたびに何とも言えない気持ちになります。少子高齢化が「問題」であると言われると拒絶反応すら抱きます。だからどうしたのかと言いたくなります。教会は、恵みによって信仰によって受け継がれるものです。年齢は関係ありません。

パウロが取り組んだ「異邦人伝道」とは具体的に言うと何でしょうか。人生の多くの時間ないしほとんどの時間を異教徒ないし無神論者として過ごしてきた人を神の子どもにすることです。その仕事をわたしたちはパウロから受け継いでいます。

(2018年6月17日)

2018年6月10日日曜日

信仰が与えられる

ローマの信徒への手紙4章1~12節

関口 康

「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

個人的なことでもありますが、教会の事柄でもありますので最初に申し上げます。私は昨日、JR東中神駅前の仮牧師館から牧師館に引っ越してきました。ダンボール箱80箱の本と7つの本棚は引越業者に運んでいただきました。布団とパソコンはNさんの車で、冷蔵庫と洗濯機と電子レンジはTさんの車で運んでいただきました。Nさん、Tさんありがとうございました。

残ったものはすべて、私が自転車で運びました。梱包しにくいものを自転車の前のかごにそのまま乗せて、20往復しました。距離は片道700メートルですので、それほど時間はかかりませんでしたが、疲れました。

それで昨晩から牧師館で休ませていただいています。今朝は鶏の鳴き声で目を覚ましました。コケコッコーと、ちゃんと言いました。幼稚園の鶏です。悪い意味ではありませんが、不慣れな点がまだ多く、これのスイッチはどこにあるのか、これの置き場所はどこかと探し回る感じですが、すぐに慣れるだろうと思っています。まだ若いので。

ローマの信徒への手紙は4章まで来ました。この手紙は全部で16章まであります。来年3月にすべて読み終わるように計画しています。なるべく分かりやすい話をしたいと願っております。最後までお付き合いいただけますと幸いです。

今日の箇所に書かれていることは難しいという印象をお持ちになる方が多いかもしれません。アブラハムが出てきたりダビデが出てきたりします。語られている内容もなんとなく理屈っぽい。分かるようで分からない。しかし、パウロが言おうとしている事柄の内容そのものは比較的単純なことであると申し上げておきます。

もうばれていると思いますが、私は理系の知識がほとんど全くないという意味の典型的な文系人間です。理系の知識に関しては相当でたらめなことを言いますので、そのあたりは理系の方々にお助けいただきたいと願っております。

パウロが言おうとしているのは、昔から多くの人たちが頭を悩ませてきた「卵が先か鶏が先か」という話に近いことです。鶏卵論争(けいらんろんそう)という言い方もします。鶏が卵を産み、その卵から鶏が生まれる。最初はどちらが先だったのかという話です。突き詰めていけばどちらが先かが分からなくなる。だから論争になるわけです。

今申し上げたのは、あくまでたとえです。パウロが「鶏が先か卵が先か」と問うているわけではありません。わたしたちが教えられてきたのは、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのであって、わたしたちの行いや努力、業績や功徳を積み重ねることによって救われるのではないということです。しかし、この話も突き詰めて考えていくと分からなくなる点が必ず出てきます。

「信仰によって救われる」ということは、単純にひっくり返せば「信仰のない人は救われない」ということになります。それはそのとおりのことなので、やむを得ないことだと言って済ましてしまうのは非常に危険です。そういう言葉で切って捨てられて、ものすごく深い心の傷を負う人々が必ず出てきます。

そして、そこでわいてくる疑問は、その場合の「信仰」とは何を意味するのかということです。信じることも人間の行為ではないかと言われれば、そのとおりです。もしそうだとしたら、結局わたしたちは「信仰という行為によって救われる」のだろうかと問わざるをえません。

そもそもわたしたちが頭を悩ませること、すなわち「考えること」も人間の重要な行為です。また少し余談になりますが、今回の引っ越しに私は一週間かかりきりでした。他の約束をすべてキャンセルして引っ越しだけに集中しました。一週間と言っても日曜日は礼拝があり、木曜日は聖書に学び祈る会がありますので、実質5日です。それで最初の3日間は何をしていたかというと、ただ考えていただけでした。

物を箱に詰める作業も、運ぶ作業も、始まってしまえばすぐに終わることです。しかし、それよりもはるかに大事なことは、教会の働きを止めないでそれを行うにはどうすればいいかということですので、それを考える必要がありました。それを考えることをしないで、ただ物を動かすことだけをしてしまいますと、すべてがめちゃくちゃになってしまいます。

しかし、人が考えている姿というのは、はたから見ると何もしないでサボっているだけのように見えるものです。考えるのをやめて働け、と言われてしまいます。しかし、考えることは人間の重要な行為です。「人間は考える葦(thinking reed)である」とブレーズ・パスカルが言ったということは最新の高校倫理の教科書にも載っています。私は一昨年、高校生たちにこういう話を一生懸命していました。

「考えること」が人間の重要な行為であるなら、「信じること」はもっとそうではないかと言えなくもないわけです。「信じること」はどこまでも私の行為です。信仰は動詞です。主語は私です。「私が信じる」のです。もしそうだとしたら、わたしたちが救われるのは信仰によるのであって行いによるのではないという教えはおかしいのではないかと疑問が生じるのは当然です。信仰も行為であり、しかも、人間の重要な行為であるならば。

実際に教会の中でそういうことが問題になることがありうるわけです。あの人は熱心な信者であると言われる人は必ずいます。「熱心な人がいる」ということは、これも単純にひっくり返せば「熱心でない人もいる」ということになります。

そうしますと、その違いは何なのかが必ず問題になります。信仰が人間の重要な行為であるならば、わたしたちが救われるのは「熱心な信仰」によるのであって「熱心でない信仰」では救われないということになるのかということが現実の問題になります。そして、そういう言葉で傷つき、嫌な思いをする人々が必ず出てきます。

これはとても深刻な問題です。わたしたちが元気なときはこういうことは問題にならないかもしれません。体も心も自由に動き、なんでもできるときは。しかし、信仰は一生ものですので、途中に紆余曲折が必ずあります。年齢だけの問題ではありません。いろいろなきっかけや事情で、教会の礼拝や奉仕に参加できなくなるときが必ずあります。あれほど熱心だった人が。

わたしたちが救われるのは熱心な信仰によるのであって、熱心でない信仰では救われないのでしょうか。そういうことをパウロが言っているでしょうか。そうではないと、今日私ははっきりと申し上げたいのです。

今日の箇所に書かれていることの中でいわゆる鶏卵論争に最も似ていると私に思えるのは5節の言葉です。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義とされます」。

これがどういう意味かお分かりでしょうか。「不信心な者」というのは訳者が遠慮し、躊躇した形跡がにじみ出ている訳であるように思えます。もっとはっきり「不信仰な者」と訳しても全く問題ありません。そういう意味のことをパウロが書いています。「信仰など全くない者」と。そして「義とされる(義とする)」は「救われる(救う)」という意味です。つまり、パウロがこの箇所に書いているのは「信仰など全くない者を救う神」のことです。

しかし、「を信じる人は」とも書いてありますので一筋縄では行きません。「信仰など全くない者を救う神を信じる人は救われる」のであれば、結局は信仰が求められているではないかという疑問がまた浮かんでくるでしょう。しかし、「働きがなくても」とはっきり書かれています。「働き」とは行為です。信仰も働きの一種、行為の一種であるならば、その行為としての信仰がなくても救われると、パウロがはっきり書いています。

それはいったい何なのか、何を意味するのかということを、わたしたちは何度も考える必要があります。考えれば考えるほど堂々巡りに陥る面がありますが、それでも考えることが重要です。

いずれにせよはっきりしているのは、神がわたしたちを救ってくださるときに、行為としての信仰は求められないということを、パウロがはっきり書いているということです。「お前はおれを信じるのか。もし信じるなら救ってやる」と神は言わない。「信仰など全くない者を神は救う」と。しかし、パウロはそのことを述べたうえで「その神を信じる者は救われる」と言っています。

その場合の「信仰」とは、具体的に言うとどのようなものでしょうか。それを考える必要があります。

人生のほとんどすべての時間を信仰など全くなしに生きてきた人が、最期の最期の局面で、遠のく意識の中で問われた問いに対してうなずく。否、うなずいたかどうかも分からないほどの、かすかな意思表示をする。否、意思表示があったかどうかすらはっきりとは分からない「信仰」。たとえそうであっても「そんなのは信仰とは言えない」などと熱心な人たちから見下げられる筋合いにはない「信仰」。

もうひとつ。今日は花の日子どもの日の礼拝として、わたしたちの前に美しいお花がたくさん飾られています。この花を見て「美しい」と言う。あるいは、口に出さなくても、心の中で思う。美しいと思うかどうかは主観的な問題でもあります。

「信仰など全くない者を救う神を信じる信仰によってわたしたちは救われる」と言われる場合の「信仰」とは、そのようなものではないかと私には思えます。熱心な活動もできないし、具体的な行為もできないけれども、「へえ、神さまってそういう方なのか」と、ただ思い、ただ感じ、ただ受け容れるだけの「信仰」。

「救いが先か信仰が先か」の鶏卵論争は、パウロの中では決着がついています。救いが先です。信仰は後です。信仰というわたしたちの行為がわたしたちを救うのではありません。神の一方的な恩恵によって与えられた信仰によって、わたしたちは救われるのです。

(2018年6月10日、日本基督教団昭島教会 主日礼拝)

2018年6月3日日曜日

教会学校でのお話

おはようございます。今日はこの教会の教会学校で初めてお話しします。でもまだ最初ですので、聖書のお話というよりも、私の「この人だあれ」の自己紹介のような話をさせていただきます。みなさんにも自己紹介をしてもらいますからね。いろいろ教えてください。よろしくお願いします。

私の仕事は牧師です。4月からこの教会の牧師になりました。これまでもいくつかの教会の牧師をしてきました。高等学校で聖書を教える先生になったこともありますが、それも牧師の仕事の延長です。とにかくずっと牧師の仕事をしてきました。牧師はとても楽しい仕事です。自分ではそうだと思っています。

それで今日みなさんに考えていただきたいことがあります。もしみなさんの中に、洗礼を受けるかどうかで迷っている方がおられるようでしたら、ぜひ考えてほしいということです。それと、自分は将来何になろうかと悩んでいる方がおられるようでしたら、牧師になることをぜひ考えてほしいということです。

今まで私は誰に対しても「洗礼を受けてください」とも「牧師になってください」とも言ったことはありません。だって、それを言うと「私は〇〇先生から言われたから洗礼を受けました」とか「牧師になりました」と言い続けて、人のせいにする人が出てくるからです。

逆に、いつも意地悪く「洗礼を受けないでください」「牧師にならないでください」と言ってきました。私がそう言うと、どんどん洗礼を受けてくださり、どんどん牧師になりました。人はアマノジャクのようです。あ、アマノジャクってみんなは知らないか。(「知ってる!」という声)あ、知ってましたか。

私がどうだのと言うつもりはありませんが、楽しそうに見えるようなんですよね。牧師の仕事は楽しいです。私が楽しそうにしているので、ああいうのもいいかなと思ってくださる方がおられたかもしれません。実際どうだかは分かりませんけどね。だからみんなもぜひ考えてみてください。楽しいですから。

私は生まれたときから通っていた教会の附属の幼稚園を卒業しました。その幼稚園の年長組さんのとき、小学校に入る前のクリスマスに、自分で牧師先生に申し出て洗礼を受けました。45年も前のことですが、そのときのことははっきり覚えています。

小学校に入ってからもずっと教会に通いました。途中ですごくイヤになったことがありましたけどね。日曜なのに、眠いのに、友達はプールとか行って遊んでるのに、なんでぼくは教会に行かなくちゃいけないのとかね。でも自分で「洗礼を授けてください」と言ったことを忘れることができませんでした。

だって、神さまとの約束ですからね。その約束を破るのは、神さまにも申し訳ないですが、自分自身を裏切ることでもあると思えてきて、どんなにイヤだと思っても教会に行きました。どんなにイヤだと思っても、とかはわざわざ言わなくてもいい、余計な言い方ですけどね。でも本当にそうだったんです。

それで高校3年生の夏休みになって、自分がどこの大学に行くかとか、どういう職業に就くかで悩んでいたとき思い浮かんだことが、ぼくは小さいときからずっと教会に通ってきたので、教会で何かお仕事させていただきたいなということでした。

それで牧師先生のところに行って、どう言おうかと迷って、「先生、ぼくは将来、教会のトイレの掃除をするような仕事をしたいと思います」と言いました。今考えた作り話ではないです。本当にそう言いました。高校3年生の夏休み。そうしたら先生が「それなら牧師になりなさい」と言ってくれました。

それから牧師先生が牧師のなり方を教えてくれまして、そういう大学に行って試験を受ければ牧師になれると分かりました。それで先生が勧めてくださったのが三鷹市にある東京神学大学でした。三鷹市は近いですよね。私は岡山県にいたので、三鷹市がどこかも、東京神学大学が何かも知りませんでした。

それで、東京神学大学を卒業したのが24歳で、いま52歳です。ずっと牧師の仕事をしてきました。52から24を引くといくつ?って、それはまあいいや。ずっと楽しかったです。牧師は楽しいです。だからね、みんなもぜひ考えてみてくださいね。

イエスさまが最初の弟子を集めるときに「私についてきなさい。人間をとる漁師にしましょう」とおっしゃいました。イエスさまと弟子たちの関係と、牧師と教会の人たちの関係は違いますけどね。でも、「牧師の仕事は楽しいから牧師になってください」と言えるのは、牧師さんたちだけかもしれません。

でも、私のせいにしないでくださいよ。「〇〇先生に言われたから牧師になりました」とか言うのは無しで。責任とれないし。自分自身と神さまとの約束ですからね。それは忘れないでください。私は知りませんからね。自分でしっかり考えて、神さまにお祈りして決めてください。よろしくお願いします。

(2018年6月3日、教会学校)

2018年5月27日日曜日

救いを求める

ローマの信徒への手紙3章27~31節

関口 康

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」

同じことを何度も言うと嫌われますのでそろそろやめますが、毎回冒頭で申し上げていることを今日も繰り返します。今させていただいているのはローマの信徒への手紙を読みながらわたしたちが共有すべきキリスト教信仰とは何なのかを確認する作業です。しかし、それはどういう意味なのかについての説明が足りていないかもしれません。

うまく行っているかどうかはともかく、私がずっと意識していることをたとえていえば、もしパウロが今の時代に生きていたら、あるいは「よみがえったら」、彼は何を考え、どのように語るだろうかということです。

反対の方向で考えることもできるでしょう。もしわたしたちがパウロの時代に生きていたら、わたしたちは何を考え、何を語るでしょうか。わたしたちが何らかの方法でパウロの時代に行き、パウロの説教を聴いたら、その説教にわたしたちが納得することができるでしょうか。

どちらにしても難しいことです。しかし、どちらかといえば前者のほうが、パウロがひとりであるという点で、想像のしやすさがあります。それはパウロの言葉、ひいては聖書の言葉全体の「現代的解釈」であると言ってしまえばそれまでです。しかし、現代的解釈とは何を意味するのだろうかと、さらに深く考えなければなりません。

その問いに対して私は、わたしたちがパウロの時代に行くことではなく、パウロにわたしたちの時代に来てもらうことのほうを考えています。

別の言い方をすれば、驚かれるかもしれませんが、今のわたしたちがパウロの言葉をそのまま鸚鵡(おうむ)返ししさえすれば、それがキリスト教信仰であるとは言えない、ということです。なぜなら、パウロはパウロで、彼の時代の中で特定の問題に取り組み、その答えを求めて葛藤し、格闘したからです。それは彼の問いと答えであっても、わたしたちの問いと答えではありません。

もちろん、そのパウロ自身の葛藤と格闘の中で見出された普遍的な真理があるからこそ、それを今のわたしたちが学ぶことに意味があります。しかしそれは、パウロの言葉を鸚鵡返しすればよいということを意味しません。似ても似つかない全く別の言葉になっていきます。

それでいいのです。わたしたちはパウロの言葉を最大限に尊重します。神の言葉であると信じてもいます。しかし、悪い意味で縛られるべきではありません。わたしたちは、わたしたち自身の言葉で語るべきです。

今日朗読していただきましたのは、3章27節から31節までです。前回までの箇所の続きです。特に前回の箇所に記されていた「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべて神の義が与えられること」と「イエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされること」、すなわち「贖罪の教理」と「信仰義認の教理」という、いわば二つの教えでもあり、ひとつにつながっているようでもある教えを念頭にして書かれているのが今日の箇所です。

いま「贖罪の教理」とか「信仰義認の教理」とか難しい言い方をしました。しかし、その内容の詳しい解説は、前回もしませんでしたが、今日もしません。どうでもいいことだとは思いませんが、とにかく今日はやめておきます。

それより今日お話ししたいのは、今日の箇所の最初に書かれていることです。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(27節)。

これでパウロが言おうとしていることを言い換えれば、「贖罪の教理」にせよ「信仰義認の教理」にせよ、そのめざすところの目標は「人間の誇りを取り除くことにある」ということです。「誇り」の対義語は「恥」ですから、もっと大胆に言い換えるとしたら、「キリスト教信仰の目標は、人に恥をかかせることにある」ということになるかもしれません。プライドをもって生きている人の鼻をへし折ることにある。

このように言われますと嫌な気持ちになるかもしれません。私もこういうことを言いながら、自分でなんだか気持ちが悪いです。ぞっとする要素があることは確かです。そして、激しく問い詰めたくなるかもしれないのは「なぜそんなことを必要があるのか」ということです。

「人の誇りを取り除く」というのは、人間の尊厳に対する侮辱ではないか。人を貶め、辱める。「あなたがたは何をしたいのか」と抗議の電話が教会にかかってくるかもしれません。それほどのことをパウロが書いていると考えることは不可能ではありません。

しかし、もう少し我慢して、次の言葉を読んでみましょう。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです」(29~30節)と書かれています。パウロが言おうとしていることは、はっきりしています。神は特定の宗教を信じる人々だけを依怙贔屓なさらない方であるということです。

なぜそう言えるのかといえば、繰り返し申し上げてきたことですが、パウロが「ユダヤ人」と書いているのは民族の意味ではないからです。ユダヤ教徒という意味です。しかもそれは、現代の宗教学者が世界のいろんな宗教を分類し、他の宗教と区別して言うような意味ではありません。パウロが書いているのは「聖書の神を信じる人々」というくらいのずっと広い意味です。

そうしますと、パウロの言っていることの意味は「聖書の神を信じる人々だけを創造し、救済する神は存在しない」というようなことになります。それは「神は異教徒をも創造し、救済する」ということです。「神が唯一である」とは、そういうことです。ユダヤ教の神とイスラム教の神とキリスト教の神がいるわけではないのです。そういうことを言い出すこと自体が多神教です。

これもわたしたちにとっては相当ぞっとする言葉ではあります。特定の宗教を信じる人を依怙贔屓なさらない神は、キリスト教を信じる人々に対しても同様の態度をおとりになるでしょう。ここで話を終わりにすれば「ならば、なぜ教会に通う必要があるか」と疑問に思う人が出てくるかもしれません。こんなに一生懸命に教会に通っているのに特別扱いしてもらえないのであれば。

しかし、私はあえて「依怙贔屓(えこひいき)」という言葉を使っていますが、もちろん、その意味をよく考える必要があると思っているからです。依怙贔屓することがよく問題になるのは、学校でしょう。学校の先生が、自分の担任するクラスの中のある特定のお気に入りの生徒を特別扱いし、他の生徒を無視したり邪険に扱ったりすること。こういうことを神はなさらないと私は言っているだけです。

この先生はどの生徒も同じように大事にしてくださいます。しかしすべての生徒が先生の公平な眼差しと態度を認めてくれるかというと、話が別です。今の学校には「授業評価」というのがあり、生徒が先生に点数をつける時代です。生徒の見方は歪んでいるとか言い出すのは間違っています。しかし、ひとりの先生を生徒が評価する場合、評価の内容が違うことは十分ありえます。

今申し上げたのは、あくまでもたとえです。神と人間の関係は、先生と生徒の関係と合致するわけではありません。わたしたちが理解すべきことは、神はどの人のことも依怙贔屓なさらない方であり、どの宗教の人に対しても、宗教を持たない人に対しても、宗教を憎む人に対してさえも、同様の態度をお示しになる方であるということです。

そういう先生こそ生徒から信頼される存在ではないでしょうか。それは甘い考え方でしょうか。私は今の学校の事情を正確に把握していませんので、深入りはしません。ただ、いま申し上げた意味の「信頼」と、キリスト教の「信仰」が合致します。そのことを言いたいだけです。

そしてそれはどういう意味かといえば、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義を与えること」(信仰義認の教理)も「イエス・キリストによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とすること」(贖罪の教理)も同じおひとりの神の働きですが、その神をわたしたちが信じるという場合の「信仰」は、「どの生徒も依怙贔屓しないゆえに多くの生徒から信頼される先生がいる」という場合の「信頼」と合致する、ということです。

そのように考えることができるようになれば、いわばそのとき初めて、ひとつ前に申し上げた「キリスト教信仰のめざすところの目標は、人に恥をかかせることにある」という、ひどい言葉の意味が理解できるようになると思うのです。

パウロが取り組んだ問題はユダヤ人の強すぎる宗教的なプライドの問題でした。それが至る所で災いをもたらしました。教会分裂の原因になりました。ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が教会内部で対立しあうのです。ユダヤ教徒によるキリスト教徒迫害の理由でもありました。

「自分たちだけが救われて他の人々は救われない」ということを徹底的に信じることのどこに問題があるかといえば、他の宗教を信じる人々に対して排他的で攻撃的な態度を持つようになるということで間違っていませんが、問題の底はもっと深いところにあるように思えます。

私が思うのは、他の宗教に対する排他的で攻撃的な態度は、本来どの人に対しても依怙贔屓をなさらない神への「信頼」を多くの人から奪う結果を生むだろうということです。依怙贔屓するような神なら信じたくないと、多くの人に思わせてしまうのです。自分だけ依怙贔屓してもらいたい人の鼻はへし折られるかもしれません。しかし、そんな鼻はへし折られたほうがいいのです。

依怙贔屓なさらない神に「私はこれだけのことをしました。できました」と自分の業績自慢をしても無駄です。「よしよし、よくがんばった」とほめてはいただけるでしょう。しかし、だからといって、他の生徒よりも先生に寵愛される生徒に自分がなれると思わないほうがいいです。

先生によりますが、「だめな子ほどかわいい」ということが十分ありえます。「だめとは何か」と叱られるかもしれませんが、いつまでも記憶に残るのは、そういう生徒です。下駄を履かせて(救済!)あげないと及第できない生徒のほうが。

神の愛と憐れみによる罪人の救いとは、そのようなことです。罪人でない人はひとりもいないので、救いの御手(下駄!)はすべての人に差し伸べられます。

(2018年5月27日)

2018年5月20日日曜日

聖霊と生きる

使徒言行録2章29~42節

関口 康

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

おはようございます。今日の礼拝はペンテコステ礼拝としてささげています。「ペンテコステおめでとうございます」という挨拶を私は聞いたことがありません。しかし、今日がおめでたい日であることは確かです。

ペンテコステは、最も単純にいえば全世界のキリスト教会の誕生日です。教会は「団体」ですから「設立記念日」と言っても構いません。ペンテコステは、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスに匹敵するほど大切な記念日です。また、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターと同等の価値を持つ祝祭日です。

しかし、これはあくまでも私個人の印象であるとお断りしたうえで申し上げますが、もしかしたら日本の教会に、そうであることの認識が欠けているかもしれないと感じることがあります。全世界の教会の誕生日だからおめでたいと言われてもピンとこないと思われる方がおられませんでしょうか。

たとえば、各個教会に設立記念日があります。日本キリスト教団にも創立記念日があります。それらについても同じことが当てはまるのではないかと思います。「だから何なのか」と感じてしまう。「それが私の人生と何のかかわりがあるのか」と。

「私にとって重要な意味を持つのは、この私の誕生日であり、この私が洗礼を受けてキリスト者としての歩みを始めたことを記念する受洗記念日である。それをお祝いするならまだ分かる。教会の誕生日なんかどうでもいい。私とは関係ない」と。

かなり穿った見方が混ざっていますので、そのようなことは一度も考えたことがありませんとおっしゃる方がおられるようでしたらお許しください。どうか怒らないでください。

そして私は、もしこういう感覚をお持ちになる方がおられても責めるような気持ちは全くありません。私自身もこういうことをしょっちゅう考えているからです。もしかしたら皆さんの中に私と同じ感覚を持っておられる方がおられるのではないかと想像して、あえてお尋ねしています。

ひと言でいえば個人主義なのだと思います。「神は好きです。イエス・キリストも好きです。しかし教会は嫌いです」とおっしゃる方がおられます。私の知るかぎりでも少なくありません。「教会などなくても自分の信仰は維持できます。神と自分の一対一の関係が重要なのであって、教会は邪魔になるだけです。面倒くさいものに巻き込まれたくありません」と。

そういう感覚をお持ちの方々を私が責めるつもりがないのは、教会はそういう存在であると私自身が考えているからです。「お邪魔してすみません」と謝りたくなります。「皆様の人生と生活を支配しようなどとは全く考えておりません。もしお役に立てることがあるようでしたら、何なりとお申し付けください」という気持ちがあるだけです。

この気持ちは私が牧師の仕事を始めた最初の日から全く変わっていませんので、かつて牧師をした教会の方々からよくお叱りを受けました。「弱腰すぎる」「頼りない」「もっと権威をもってください」と。「はいはい分かりました」とお答えすると「はいは一回」と言われたり。のれんに腕押し、ぬかに釘。

どの教会もどの牧師も、みんなそうだと思いません。強い権威をもって立とうとする教会もあります。しかし、そのほうがいいと私にはどうしても思えません。私の個人的感想としてではなく、聖書と神学に基づく結論として。教会は個人に「弱く優しく」寄り添う存在以上であるべきでない。

今日開いていただいたのは使徒言行録2章です。最初のペンテコステの日に起こった聖霊降臨の出来事が描かれている箇所です。しかし、今日の箇所に入る前に見ておきたいのは使徒言行録1章6節以下に記されているイエス・キリストの昇天の出来事です。

昇天は、使徒言行録1章3節によると、イエス・キリストの復活から40日目に起こったことです。そのとき何が起こったのかといえば「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(1章9~10節)ということです。

これを文字通り受けとるべきかどうかに疑問を持つ方がおられるかもしれません。イエス・キリストの背中に羽根が生えて、鳥か飛行機のように飛んで行かれたのでしょうか。そのようにとらえるべきなのか、それともこれはある意味での比喩としてとらえてよいかの判断は、わたしたちに任せられています。

この箇所で重要な点は、ひとつです。イエスが「彼らの目から見えなくなった」ことであり、「離れ去って行かれた」ことです。つまり、このときからイエス・キリストは地上において不在になられたのです。

そして、イエス・キリストの昇天から10日目、イエス・キリストの復活から数えれば50日目に起こったのが聖霊降臨の出来事です。そのように使徒言行録が描いています。

「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2章1~4節)。

そこで何が起こったのかは、記されていることに基づいて想像するほかはありませんが、これも文字通り受けとるべきなのか、それともある意味での比喩なのかを考える必要がありそうです。「激しい風」や「炎のような舌」といった、大げさというと語弊がありますが、ドラマティックな形容詞や副詞が目立つ文章が続いています。

この中で重要な点は二つです。第一は、ひとつの場所に集まっていたイエス・キリストの弟子たちが「聖霊に満たされたこと」です。第二は、彼らが「ほかの国々の言葉で話しだしたこと」です。

どちらも奇跡的な出来事として描かれています。しかし、第二のほうからいえば、彼らがほかの国々のいろんな言葉で語り出したのは、いろんな国の多くの人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えるためでした。つまり、このときから世界伝道の準備が始まったのです。

そして第一の、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が注がれたことの意味は何かと考えるときに大事なことが、先ほど触れたイエス・キリストの昇天の出来事との関係です。昇天の出来事がイエス・キリストの「不在」の始まりだったとすれば、聖霊降臨の出来事はイエス・キリストの「代わり」としての聖霊が、弟子たちと共に働いてくださることの始まりだったと言えます。

それとも、イエス・キリストが不在になった時点で、教会は伝道をやめて解散すべきだったでしょうか。初代教会はそうしませんでした。イエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの「代わり」に伝道を継続したのです。

キリスト教会の信仰において「聖霊」は、神の力(パワーやポテンシャル)であるというだけにとどまりません。「聖霊」は端的に「神」です。わたしたちの「神」は父・子・聖霊なる三位一体の神です。この点は譲ることができません。

そして「聖霊」が「神」であるとしたら、聖霊降臨の出来事において起こったことは、イエス・キリストの弟子である者たちの存在(体と心)の内部に「神」が宿ってくださることが起こったとしか言いようがない、ということです。

しかも「聖霊」が三位一体の神であるということは、わたしたちの存在(体と心)の内部には「聖霊のみ」が宿るのであって、父なる神もイエス・キリストも宿ってくださらないということではなく、「聖霊」が宿るこの私の中に、父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださることを意味します。

私が教会の方々によくお勧めしてきたのは「山のあなたの空遠くにおられるかどうか分からない方に呼びかけるような祈りではなく、自分に言い聞かせるように祈るとよいと思います」ということです。この私に神が宿っておられ、その神に祈るのですから、それでよいのです。

それはものすごく重要なことであり、驚くべきことです。なぜなら、イエス・キリストの弟子たちは、あくまでも一個人だからです。その一個人の内部(体と心)に「神」が宿ってくださるということは、その現象としての外見上は、神がたくさん増えたかのようです。なぜなら各個人は「ほかの国々の言葉で話しだした」とあるとおり、いろんな言葉で語るからです。

聖霊が注がれた人、すなわち「聖霊なる神が宿ってくださった人」は、それ以前に持っていた記憶も感情も失うのかといえば、決してそうではありません。それらを失うとすれば「洗脳」を意味しますが、各個人は元々の人間のままです。なんら変化はありません。たとえ「上書き保存」されたとしても、元々の記憶も感情も残ったままです。思い出したくないような過去の記憶も事実もすべて。

それでよいのです。元々のこの弱い人間性を持ったままの私を「神」が用いてくださるのです。神はおひとりであり、三位一体の神を信じる信仰は多神教ではありません。しかし、聖霊と共に生きる者たちは、判で押したような同じ言葉しか言わなくなるわけではありません。それぞれ違った言葉や発想で語ります。それが聖霊の働きの特徴です。

教会とはそういうところです。基本的に全く自由な団体です。自分の感情を押し殺す場所ではありません。故意に人を傷つけるようなことは言わないほうがいいに決まっていますが、思ったことを思ったとおり語ることが許されています。わたしたちは何も怯える必要がありません。

そういう場所がわたしたちの人生の中にあることを感謝したいと思います。

(2018年5月20日)

2018年5月13日日曜日

福音を味わう

ローマの信徒への手紙3章21~26節

関口 康

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

毎回申し上げていますが、私が説教を担当させていただくときにしているのは、ローマの信徒への手紙を読みながら、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の要点を押さえていくことです。

その中で私がいちばん最初に申し上げたのは、ローマの信徒への手紙は、そのほとんど最初の部分から「わたしたち人間は罪人である」ということを、まるで機関銃のようにこれでもかこれでもかの勢いで書いている書物ではありますが、だからといってパウロは、あるいは聖書全体の教えは、神が人間を罪人として創造されたと信じていないし、教えてもいないということです。

神は人間を「きわめて善い」存在として創造されました(創世記1章31節)。人間性の本質は善です。人間を初めから罪人として創造するような神を、少なくとも私は真面目に信じることができません。人生の悩みと世界の混乱の原因としての罪を自分で作っておいて、その罪の中からあなたを救ってあげましょうと言い出すような神は、マッチポンプ(自作自演)の神です。

そうではありません。火をつけたのはあなたです。わたしたち人間です。理屈を言いたい人は、もし神が人間を初めから罪を犯すことができない存在へと創造してくれていたならば、世界に罪など起こりようがなかったのに、神が人間に罪を犯すこともできる自由を与えたばかりにとんでもない結果を生み出してしまった。そうであれば罪の原因も責任もすべて神にあると言います。

そして、そのように考える人は、罪は神のせいであり、永遠の定めであり、逃れがたい宿命であり、「人が罪を犯すのは当然である」などと言い出して、罪に市民権を与えはじめます。

しかし、神はわたしたち人間を、命令通りに動く機械仕掛けの存在にしたくなかったのです。神を信じることも、神の戒めを守ることも、神御自身がそれを人間に強制なさりたくなかったのです。神の願いは、強制ではなく自由のうちに神を愛する人間であってほしいということです。そもそも自由でなければ愛ではないのです。強制された愛は偽装です。これが、神が人間に自由をお与えになった理由です。

もちろん、神から与えられたその自由を、神を愛することに用いるのではなく、神に背くことにこそ用いるようになってしまった人間を、聖書が描いていることは事実です。しかし、だからといって神は、わたしたち人間から神に背くことができる自由を奪おうとなさいません。それは神が罪を放置しておられるからではありませんし、人間に無関心だからでもありません。

正反対です。神は人間をはらはらしながら見守っておられます。御自身のもとに帰ってくるのを待っておられます。それは、放蕩息子の帰りを待つ父親の姿そのものです(ルカ15章)。

あの放蕩息子の父親は、非難を受けやすい存在です。親のくせに自分の子どもを、なぜ捜しに行かないのか。なぜ待っているだけなのか。自分の子どもへの愛があるなら、あらゆる手を尽くして捜せばいいではないか。そうしないのは愛がないからだ、冷たい親だと、さんざんです。

その反対の存在として神を描いているように見えるのが、99匹の羊を野原に残してでも1匹の迷子の羊を捜しに行く羊飼いを描く、イエス・キリストのたとえです。ここで疑問を持つことは許されるかもしれません。なぜ神は、1匹の迷子の羊のことは捜しに行くのに、放蕩息子は捜しに行かなかったのかと。

その答えを私は知りません。迷子の羊は動物だけど、放蕩息子は人間だからでしょうか。羊は持っていないが放蕩息子は持っている「人間としての意志」を尊重するというテーマが隠されているからでしょうか。いろいろ想像したくなります。

しかし、二つのたとえに共通しているのは、迷子の羊を捜しに行く羊飼いも、放蕩息子の帰りを待っている父親も、愛を失ったわけでも関心を失ったわけでもないことです。羊飼いは迷子の羊を全力で捜す。父親は放蕩息子を全力で待つ。

「全力で待つ」というのは言葉の矛盾か、捜しに行かない怠慢の言い訳だ、詭弁だと言われてしまうかもしれません。しかし、子どもは、親の所有物ではありません。自分の意志を持つ存在です。たとえ親であっても自分の思い通りになりようがない、それが子どもです。どれほど非難を受けようと、自分の子どもの帰りを「全力で待つ」という態度を貫くのが、父親としての神のお姿であると言えるかもしれません。

今日開いていただいたのは、ローマの信徒への手紙3章21節から26節です。ここに記されているのは、この手紙の1章18節から3章20節までに記されている「人間の罪」の問題に対する神の態度決定の内容であると申し上げておきます。

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)と記されています。「律法とは関係なく」と訳すのは誤解を生みかねません。

原文には「律法なしに」という意味の言葉が記されているだけです。これは直前の「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)を受けていますので、もし敷衍するとしたら、「律法を実行するという方法ではなく別の方法で得られる神の義が示されました」というあたりです。

「律法とは関係なく」と言いながら「しかも律法と預言者によって立証されて」と言うのは、何を言っているのか分からない感じですが(関係ないものが立証する?)、ここで「律法と預言者」はひとつの熟語であると考えるべきです。

厳密な話ではありませんが、いわゆるユダヤ教の聖書はキリスト教会の「旧約聖書」と内容は同じですが、「律法」(トーラー)と「預言者」(ネビーム)、「諸書」(ケスビーム)という三部構成になっていることと関係あります。「トーラーとネビームの内容と矛盾していない神の義が示されました」という意味であると理解できます。

別の言い方をすれば、そもそも「トーラーとネビーム」、キリスト教会にとっての「旧約聖書」が教えているのは「律法を実行することによって神の義を得る」という道ではないというパウロの信仰が表明されています。旧約時代はそうだったが、新約時代はそうではなくなったわけではありません。変化が起こったのではありません。

神の義を得る道に変化はありません。「神の義」という言葉が分かりにくければ「神の救い」と言い換えても構いません。「神の義」ないし「神の救い」は、わたしたち人間がこれこれこれだけの条件を満たしたから得ることができるというような、要するに自分の努力によって獲得するものではなく、神が与えてくださるものだと、パウロは言っているのです。

しかもそれは、「律法と預言者」(ネビームとケスビーム)においてはそうでなかったわけではないと言っているのです。そのときから今日に至るまで、神の態度は全く変わっていないのです。

「神の義」ないし「神の救い」は、神の戒めをどれだけ忠実に守ったか、それをどれだけ破らなかったかによって評価され、点数と成績をつけられて、その面で秀でた人たちだけに与えられる賞状や勲章のようなものではありません。そういうのは典型的な功績主義です。行為義認主義です。しかし、神の義(救い)はそういうものではありません。

しかもそれは旧約聖書の頃はそうだったというわけではありません。神は最初からずっと変わりません。神は御自分に背く罪深い存在になってしまった人間をご覧になって、だから見捨てるとか、愛するのをやめるとか、関心を失うことは、いまだかつて一度もありません。

しかし、今日の箇所に記されていることのいわばもうひとつの中心点は、神に背く罪深い存在になってしまった人間を罪の中から救い出す方法として「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる」という方法が、いわば新たに加わったということです。しかしまた、それは究極的な方法であるために、過去の方法が不要になったということです。

「イエス・キリストの贖いの業を信じることによる神の義」(23~26節)について今日は詳細に説明できません。その機会は必ずありますので、今日は簡単な説明だけでお許しください。

ここにパウロが書いていること自体は、わたしたちの「旧約聖書」、ユダヤ教の「律法と預言者」(トーラーとネビーム)をユダヤ教がそのように理解した贖罪の儀式と関係づけて説明する必要があります。

神は「人間の罪を無視する、ごまかす、記録を改竄する」というような意味で「人間の罪を見逃す」のではありません。罪は罪として厳正に裁き、必ず処罰するのが神です。しかし、人間の罪はあまりにも重すぎるため、もし人間の罪の全責任を人間自身に負わせるとしたら、全人類を滅ぼさざるをえないほどです。しかし、そうなさることを神が惜しまれるのです。

それで、いわば人間の代わりに動物に死んでもらうことによって、本来は人間が受けるべき罰を代わりに動物に受けてもらうのがユダヤ教の動物犠牲の趣旨です。しかし、それでは足りないほど人間の罪は重い。「人をあやめた人にいくら賠償金を支払ってもらっても死んだ人の命は返ってこない」と言われることに通じます。動物の命も、あるいはお金も、罪の償いとしてそれで十分だということはありえません。

そこで、究極的で完璧な犠牲として、神の御子イエス・キリストが人間の身代わりに殺されることによって人間自身が神の罰を受けずに見逃される道が開かれました。それが、23節から26節にパウロが記している教えの趣旨です。贖罪の教理です。

しかし、このような説明を聞いても、ぼんやりするだけではないでしょうか。難しい理屈を聞かされたという気持ちになるだけかもしれません。その感覚は正常です。福音は理屈で納得するものではありません。福音は「味わうもの」です。体験するものです。

神の方法は人間の予想を超えるものです(「予想を超えること」を現代用語で「斜め上」と言うそうです)。イエス・キリストの十字架の死がなぜわたしたちの救いになるのかを、わたしたちが完全に理解することはできません。

それで全く構わないと私は思います。要するにわたしたちは、イエス・キリストの十字架の死によって、神の救いを得ているのだ。罪の中にとどまったままではないのだ。神の罰を受けないで永遠の命に至る約束を得ているのだ。そのことを信じ、感謝し、喜ぶことが求められています。

(2018年5月13日)