エレミヤ書20章7~9節
マルコによる福音書4章13~20節
関口 康(日本基督教団教務教師)
「また、イエスは言われた。『このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を播く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。』」
新松戸幸谷教会のみなさま、おはようございます。日本基督教団教務教師の関口康です。このたびは説教の機会を与えていただき、ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします。
お世辞でもなんでもなく、私は吉田好里先生の説教が大好きです。すぐ近くに住んでいますので、昨年の半ばから礼拝に出席させていただくようになりました。吉田先生の説教に毎回魅了されています。大先輩の先生に対して偉そうな言い方かもしれませんが、「これだ!」と思いました。私が過去51年の教会生活で聴かせていただいた説教の中でいちばんいいと本気で思っています。
本当のことを言えば、毎週欠かさずこの教会の礼拝に出席させていただきたいです。しかし最近はいろんな教会から説教を依頼されるようになりましたので、なかなかお訪ねできません。吉田先生の説教のどこに魅了されているかについては、説教の最後に申し上げます。
先ほど旧約聖書と新約聖書の朗読がありましたが、今日共に学ばせていただきたいのはマルコによる福音書4章13節から20節までの箇所です。主イエス・キリストがお語りになった「種を蒔く人のたとえ」を主イエス御自身が説明しておられる箇所です。と読める箇所です。
しかし、この箇所についてはかなり前から多くの有力な聖書学者たちが、主イエス御自身がお話しになったものとは考えられないと判断しています。それでは誰が書いたのかと言えば、主イエスが亡くなった後の原始キリスト教会です。原始キリスト教会による主イエスのたとえ話の解釈をマルコが採用した、ということです。これは私が言っていることではなく、有力な聖書学者が言っていることです。
私が東京神学大学大学院を修了したのは27年前の1990年です。当時よく読まれていた本は、C. H. ドッド『神の国の譬』(室野玄一、木下順治訳、日本基督教団出版局、1964年)、A. M. ハンター『イエスの譬・その解釈』(高柳伊三郎、川島貞雄訳、日本基督教団出版局、第一版1962年、第二版1964年)、J. エレミアス『イエスの譬え』(善野碩之助訳、新教出版社、1969年)の3冊です。
どの本も私が申し上げた方向で解説されています。エレミアスはこの箇所が原始キリスト教会の解釈であると判断すべき根拠を4点にまとめています(エレミアス同上書82頁以下参照)。
21世紀の聖書学者の方々にとっては古い本ばかりかもしれませんが、私は狭い意味での聖書学者ではありませんので、最新の研究成果を調べる力はありません。しかし、私は聖書学者の意見は尊重すべきであると考えています。
そしてそれは決して無理な説明ではありません。直前の箇所にやはり主イエス御自身がお語りになった言葉として「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」(4章11節)と記されています。
その趣旨は、「たとえ話」というのはそもそも初めから「分かる人には分かるが、分からない人には分からない」ように語られるものであるということです(加藤隆『「新約聖書」の「たとえ」を解く』ちくま新書、2006年、206頁以下参照)。
「分からない人には分からない」たとえ話だからこそ、主イエスは、せめて常に行動を共にしている弟子たちにはたとえ話の意味を説明なさったのだと考えることもできます。しかし逆に、常に行動を共にしている弟子たちなのであれば、主イエス御自身の説明など全く不要なほど、このたとえ話を聞けばすぐにその意味を理解できたはずだと考えることもできます。
むしろ、たとえ話の説明が必要になったのは、主イエスのことも弟子たちのことも知らない後の世代の人たちです。その人々のために原始キリスト教会がこの説明文を付け加えた、と考えることもできるわけです。
ややこしい説明が長くなってしまいましたが、疑問が生じやすい箇所ですので、ある程度のことを申し上げておこうと思いました。そして私もまた、この箇所は主イエス御自身による説明ではなく、原始キリスト教会による解釈であるという立場でお話しすることにします。
ここから中身に入っていきます。たとえ話そのものはよく知られていますので、いきなり説明の部分から始めます。
「種を播く人は、神の言葉を蒔くのである」(14節)と記されています。「神の言葉」(ホ・ロゴス)とは「福音」を意味する原始キリスト教会が生み出したテクニカルタームであると、先ほどから言及しているエレミアスが書いています(エレミアス同上書83頁)。さらに「種を蒔く」とは「宣べ伝える」ことを意味する比喩的な表現であるとも言っています(同上頁)。
これで分かるのは、「神の言葉」を蒔く「種を蒔く人」とは福音を宣べ伝える説教者のことであるということです。
しかしそれは、狭い意味での牧師、伝道者、説教者だけを指していると考えるべきではないと私は思います。少なくとも、狭い意味での牧師、伝道者、説教者と共に歩む教会の信徒の方々ひとりひとりを含めなければなりません。伝道は、説教は、牧師個人の趣味ではなく教会全体のわざだからです。
いや、そうではない、「種を播く人」を牧師とか伝道者とか教会であると解釈するのは間違っているという反論が実際になされてきました。そうではなく、「種を蒔く人」はあくまでもわたしたちの救い主イエス・キリスト御自身でなければならない、と。
福音を宣べ伝える主体はあくまでも主イエス・キリスト御自身のみであり、同時に父なる神御自身のみであって、我々人間ではない。我々人間は、せいぜい「神の宣教」(ミッシオ・デイ)のお邪魔をしないように手控えながら、しもべとしてただ仕えるのみである、と。
しかし、もうひとり先ほどから言及しているC. H. ドッドは、今私が申し上げているような「種を蒔く人」をイエス・キリストに限定する読み方に対して明確に反対しています。ドッドは次のように記しています。
「キリスト御自身が種蒔く者であるとは意味していない。誰にもせよ信仰深いキリスト教の説教者であれば、その人が種蒔く者である。彼は自分の働きの多くが無駄であったことを見いだすであろう。ある聴衆は、まったく真理をしっかりと把握しないであろう。他の者は困難によって失望したり、繁栄によって惑わされたりするであろう。しかし説教者は最後には、彼の働きから果が結ばれることを確信してよいのである」(ドッド同上書239頁)。
ドッド教授の原著は1935年に出版されたものですので、今から82年前です。しかし、これ以上付け加えることがないほど簡潔で的確な解説がなされていると思います。このような意味でこの箇所は読まれ、解釈されるべきだと私も思います。
ここまでのところで私に言いうるのは、今日の箇所に記されている主イエスのたとえ話の説明は、現実の教会の伝道の様子をありのままに描いているものと理解してもよいということです。それはわたしたちの姿そのものです。教会の伝道には挫折があります。つまずきがあります。落ち込むことがあります。しかし、手応えがあることもあります。
その場合、先ほど申し上げたとおり「御言葉」(ホ・ロゴス)は「福音」を意味します。いや、それは「聖書」ではないかと思われるかもしれませんが、それも限定しすぎです。「聖書を蒔く」という話であれば、国際ギデオン協会の方々が無料で聖書を配布する活動が思い浮かびます。しかしここで「御言葉」を「聖書」という意味だけに限定して理解するのは行き過ぎです。
ここで言われている「種を蒔く」とは「聖書を無料で配布すること」よりもっと広い意味です。「福音を宣べ伝えること」です。「聖書」だけでなく、少なくとも必ず「説教」が含まれます。「説教」が行われる「礼拝」が含まれます。「教会のすべての活動」が含まれます。「日常生活における信徒としての証し」が含まれます。それらすべてが「福音」です。それらすべてが「神の言葉」です。
しかしまた、ここで少し立ち止まって考えてみたいことがあります。ここから先は過去の聖書学者の意見ではなく、私の感覚だけで申し上げます。それは、「種を蒔くこと」が「福音を宣べ伝えること」を意味する比喩であるというエレミアスの説明と関係しています。
「種を蒔くこと」が「福音を宣べ伝えること」です。これを逆の方向から言い直しますと、「福音を宣べ伝える」とは「神の言葉を蒔くこと」を意味するとも言えます。これで分かるのは、説教というのは、ある意味で「蒔く」だけであるということです。
「蒔く」とは「植える」にも「育てる」にも「収穫する」にもまだ至っていない、いわばそれ以前の段階です。しかしだからといって、無作為に、無差別に、めちゃくちゃに「撒き散らす」こととは全く違います。
「種を蒔く人」は、必ず芽が出ますように、葉が茂りますように、実が結びますように、と願いながら、祈りながら、丁寧に「蒔く」のです。
すべての種が必ず実を結ぶわけではありません。しかし、だからといって、すべての種が必ず実を結ばないわけでもありません。たとえそれが多くの中のたったひとつの種であっても、その種が三十倍、六十倍、百倍の実を結んできました。だからこそ教会は二千年の歴史を刻んできましたし、これからも絶望しません。
最初にお約束しましたとおり、私が吉田先生の説教が大好きな理由を最後に申し上げます。私が吉田先生の説教を論評する立場にあると思っているのではありません。「吉田先生のファン」のひとりとして申し上げるだけです。
それが最後に申し上げた点にかかわります。まさに「種を蒔く人」の説教であると感じます。植えてやろう、育ててやろう、実を結ばせてやろう、収穫してやろうというような、一方的に押し付けてくるところが全くありません。「こうである、ああである」と断定し、決めつけてくるところが全くありません。少なくとも説教でそういうことをなさいません。
しかしそうであるからこそ、温かい見守りと深い祈りと丁寧な配慮をいつも感じます。デリケートな問題をデリケートに扱ってくださいます。
私の最も理想とする模範的な説教者と共に長年歩んでこられた新松戸幸谷教会の皆さまのことが、本当に羨ましく思います。これからも仲良くしていただけますと幸いです。
(2017年3月26日、日本基督教団新松戸幸谷教会 主日礼拝)
2017年3月25日土曜日
合体から再分離へ
| 1年間休眠させていた空のパソコンケース |
それと、再分離する場合は、1機分のOSを新規購入すると高く付くので、無料のリナックス(Ubuntu)にすることになりそう。OSのインストール自体はさほど面倒ではないが、以前リナックス機を作ってみたとき障害になった周辺機器(特にプリンタ)のドライバー関係が最近どうなのかは気になる。
いずれにせよはっきりしているのは、私の仕事には「職場用」と「自宅用」の2台のパソコンがどうしても必要だということだ。職場(教会の書斎)と自宅(牧師館)の書斎が一体化していた(同一だった)頃がかつて私にもあった(ずいぶん長かった)が、最近は分かれているところが増えてきていると思う。
パソコンを「職場用」と「自宅用」の2台に分けず、1台の可動(モバイル)パソコンにするという考えは私にはない。仕事の性質上、データの多くは機密性の高い個人情報となる。動かすうちに無くす壊すは最悪だ。どっしり重いデスクトップが職場にも自宅にもあるのが私の理想。モバイルはガラケーのみ。
ああ、こういうときにデスクトップパソコンがどこかに落ちていないかと考えてしまう。恥ずかしいやら、情けないやら。まあ1年前に空にして休眠させていたパソコンケースに、合体機から元のパーツを引っこ抜いて元の状態に戻せば済む話でもあるので、がたがた騒ぐんじゃねえと自分に言い聞かせている。
しかし、今日はこのようなことにかかずらわることは全くできない。明日の説教に全力で集中せよ。お訪ねするのは初めてではないが、説教壇に立たせていただくのは初めての教会だ。「今日の礼拝に出席してよかった」とせめて思ってもらえるように、なしうるかぎりの精一杯の準備をして臨むことにしよう。
なぜだろう、今日は午後から集中力が急激に加速して、まだ明るいうちに明日の説教の原稿を書き終えることができた。朝6時に起きたのに一度も眠くならず気力と体力が持続した。妻が作ってくれた美味しい「豆腐ハンバーグ」のおかげだろうか。大豆たんぱくは偉大だ。レシチン、サポニン、イソフラボン。
うへえ、説教原稿を書き終えたらたちまち眠くなってきた。緊張の糸切れた。現金な気力と体力だこと。今夜は早めに夕食たべて、のんびりしてから、ねるとしよう。明日から新しい眼鏡になるし。この鬱陶しいセロテープ眼鏡とおさらばじゃ。「見よすべてが新しくなったぜ」。そんなふうに言いたい気持ち。
2017年3月23日木曜日
サイボーグ化の一途です
長期有給休暇3日目。寝坊して8時起床。寝床から這い出しても何もする気が起きず。食欲もわかずテレビもつけず本も読まず。このままでは危険だと「親指動け」「人差し指動け」と脳波通信で命令して、パーツ単位でひとつひとつ再起動させる。近所のコンビニでチキンカツ弁当を買って食べてほっと一息。
職場に置いていた仕事道具をすべて持ち帰り自宅(借家)の書斎机に戻したが、大きな変化はない。完全ペーパーレスとは行かないまでも、いかにもクラウド依存型の職務形態になっていることを実感。言い方を換えれば、インターネットが不通になりクラウドにアクセスできなくなったら手も足も出ない形だ。
LINEはいまだに全く使いこなせていない。かろうじて自宅PCのLINEアプリを常時起動しているが、メッセージは来ない。しかし今朝なんと、小金原のコンビニの阿藤店長がメッセージをくださった。とてもうれしかったので、LINEを使うことにした。ID: yasushi.sekiguchi
ついに悲願の新しい眼鏡を購入。仕上がり3月26日日曜日。検査の結果、両眼とも1.0前後見えているが、老眼が進んでいたのと乱視の角度が若干変わっていた。男性店員が「調整力が強い目ですね」と言うので「それ褒め言葉?」と聞き返したら「いえ他の人より疲れやすいということです」と言われた。
男性店員いわく、検査機で度数や乱視の角度が違うレンズを入れ替えて私の視力を測るたびに数値が変わっていくらしい。私の目ががんばりすぎなのだそうで、つまり「疲れやすいこと」を意味するらしい。その答えにがっかりして言葉を失ったが「順応性が高い人工眼のサイボーグです」と答えればよかった。
職場に置いていた仕事道具をすべて持ち帰り自宅(借家)の書斎机に戻したが、大きな変化はない。完全ペーパーレスとは行かないまでも、いかにもクラウド依存型の職務形態になっていることを実感。言い方を換えれば、インターネットが不通になりクラウドにアクセスできなくなったら手も足も出ない形だ。
LINEはいまだに全く使いこなせていない。かろうじて自宅PCのLINEアプリを常時起動しているが、メッセージは来ない。しかし今朝なんと、小金原のコンビニの阿藤店長がメッセージをくださった。とてもうれしかったので、LINEを使うことにした。ID: yasushi.sekiguchi
ついに悲願の新しい眼鏡を購入。仕上がり3月26日日曜日。検査の結果、両眼とも1.0前後見えているが、老眼が進んでいたのと乱視の角度が若干変わっていた。男性店員が「調整力が強い目ですね」と言うので「それ褒め言葉?」と聞き返したら「いえ他の人より疲れやすいということです」と言われた。
男性店員いわく、検査機で度数や乱視の角度が違うレンズを入れ替えて私の視力を測るたびに数値が変わっていくらしい。私の目ががんばりすぎなのだそうで、つまり「疲れやすいこと」を意味するらしい。その答えにがっかりして言葉を失ったが「順応性が高い人工眼のサイボーグです」と答えればよかった。
2017年3月22日水曜日
夢の高校生
書かないほうがよさそうだが、初めて高校生が夢の中に登場した。大ぜい。顔も名前も分かる。なぜかスーパーのおもちゃ売り場にみんないて、私も一緒に楽しんでいる。昔のアニメの面白さを私が力説するのを興味津々で聞いてくれていたりする。夢の続きを観るために二度寝したくなった(しないしない)。
スーパーのおもちゃ売り場だったのでスペースは広くなかった。小さなモニターでアンパンマンのアニメを流していた。バタコさんやジャムおじさんが映っていた。最新レンジャーの武器類とか。私は「アニメージュ創刊号はぼくらが子どもの頃に発売されたんだよ!初代おたくはぼくらだよ」とか言っていた。
その方自身はあまりに強靭すぎるのか、あるいは単に鈍感なだけなのかは分からないが、100パーブーメランで自分に返ってくるだろうというような批判や皮肉を言えたり書けたりする人がマジでうらやましい。私の同業者(教会の牧師とか学校の教員とか)に多い気がする。そういうふうになりたいものだ。
長期有給休暇2日目の行き先は自宅(借家)から6キロ(車で20分)離れた柏市役所(柏市柏5-10-1)。ここに来るのは初めてではないが、住民票や印鑑登録証明書などの取り扱いは近所の出張所で間に合うので、本庁舎はめったに来ない。いろいろ勉強になる。「無料」という字につい目を奪われる。
今日は結局なんだか朝からずっと忙しくなってしまい、いろいろありすぎて自分が次に何をすべきか分からなくなってきたので、グーグルカレンダーのToDoリストに「洗濯物を干す」とか「皿を洗う」とかまで書き込んで心を落ち着かせている。そろそろスマホにしようかな。ついそんな思いが頭をよぎる。
今日予定していたことすべてがやっと終わって安堵。洗濯物干しも皿洗いも完了。市役所に行ったり、あちこち電話かけたり、メールを書いたり。アマゾンに注文した『帝国大学』も無事に届く。お前に関係ないだろと言われそうだが、そうでもない。説明は省くが「神学」を考えるうえで重要なテーマなのだ。
スーパーのおもちゃ売り場だったのでスペースは広くなかった。小さなモニターでアンパンマンのアニメを流していた。バタコさんやジャムおじさんが映っていた。最新レンジャーの武器類とか。私は「アニメージュ創刊号はぼくらが子どもの頃に発売されたんだよ!初代おたくはぼくらだよ」とか言っていた。
その方自身はあまりに強靭すぎるのか、あるいは単に鈍感なだけなのかは分からないが、100パーブーメランで自分に返ってくるだろうというような批判や皮肉を言えたり書けたりする人がマジでうらやましい。私の同業者(教会の牧師とか学校の教員とか)に多い気がする。そういうふうになりたいものだ。
今日予定していたことすべてがやっと終わって安堵。洗濯物干しも皿洗いも完了。市役所に行ったり、あちこち電話かけたり、メールを書いたり。アマゾンに注文した『帝国大学』も無事に届く。お前に関係ないだろと言われそうだが、そうでもない。説明は省くが「神学」を考えるうえで重要なテーマなのだ。
2017年3月21日火曜日
加速装置は偉大なのだ
今日から月末まで休暇をとったが、朝5時に目が覚めた。これは良い傾向なので、これからも極力維持しよう。休暇中は勉強もちゃんとしよう。1年間ひたすらアウトプット側だったのでインプットしよう。すぐには無理だが、ひとつ論文を仕上げるほどの集中力を回復できることを期待しよう。前向き前向き。
長期有給休暇の初日。行き先はかかりつけの内科。血圧降下剤の残錠が昨日で尽きたので続きを処方してもらう。待合室で観るテレビが毎回楽しみ。うちでは全く観ないNHKを流しているから。今やっているのは春場所だろうか。よう太っとるなあとどの力士にも思う。私も人からそう思われているのだろう。
やれやれ今日はたくさんインプットした。サイボーグ009(豪華版)全23巻の第11巻から第15巻まで一気読みした。分かったのは主人公島村ジョー(009)が持っているのは各種ガン以外は「加速装置」と「勇気」だけだったということだ。これはすごい。ただ手足が伸びるだけのルフィに匹敵する。
そうか分かったぞ。つまりあれだ。加速装置を取り付けてもらって超高速で動けるようになるか、ゴム人間になって手足が伸びるようになるか、そのどちらかが実現すれば世界の平和を守れるようになるというわけだ。単純だけどものすごい教えだ。よしがんばるぞ(何をだ)。もっともっと勉強しなくっちゃ。
ほら見ろバカボン、いつもどおり朝5時に起きれば日付が変わる頃にはちゃんと眠くなるのだ。これでいいのだ。わしはもう昼夜逆転生活に戻りたくないのだ。最近は目覚まし時計を使わなくても時間通り目が覚めるのだ。明日も早く起きられますようにお祈りしてから寝るのだ。わしはバカボンのパパなのだ。
2017年3月20日月曜日
西千葉教会を訪問しました
今日(2017年3月20日月曜日、春分の日)は日本基督教団西千葉教会(千葉市中央区松波2-7-3)をお訪ねした。ちょうど東京教区千葉支区の中高生修養会が行われていて、教会に多くの中高生が集まっていて若いパワーを感じた。私は東京神学大学の大先輩の木下宣世牧師からご助言をいただいた。
2017年3月19日日曜日
一タラントンを地に埋めたしもべはなぜ主人に叱られたのか(習志野教会)
マタイによる福音書25章24~30節
関口 康(日本基督教団教務教師)
「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
おはようございます。習志野教会で2回目の説教をさせていただきます。よろしくお願いします。
先ほど朗読していただきました聖書の箇所を皆さんは繰り返しお読みになっておられると思います。大変有名な箇所です。礼拝の説教でよく取り上げられる箇所です。キリスト教学校の聖書の授業でもよく取り上げられます。私も授業で取り上げました。
主イエスがお語りになった「タラントンのたとえ」です。たとえられているのは、神と人間の関係です。登場するのは4人です。主人と3人の僕です。主人が「神」で、3人の僕が「人間」です。
主人は旅に出かけます。出かけている間、自分の財産を3人の僕に預けます。「預ける」は「与える」でも「貸す」でもありません。この違いは所有権や主導権の問題がかかわります。
「与える」や「貸す」の場合は、所有権や主導権は「与えられた」側や「借りた」側の者へと移ります。借りたものは必ず返さなければなりませんが、使いみちは、貸した側の指図を受けることなく借りた側ですべて決めることができます。その意味で財産は、その所有権も主導権も、返すまでの間だけの一時的な話であるにしても、借りた側へと移っています。
しかし「預ける」は違います。少なくとも所有権は移っていません。100パーセント預けた側に所有権が残っています。使いみちについても預かった側が何をしてもよいと言えるほど自由であるわけではありません。預けた側の人にはそれを預けたこと自体に何らかの目的があって他人にそれを預けているのですから、その目的を預かった側が理解し、その目的に沿って使わなくてはなりません。
とはいえ、「与える」や「貸す」と「預ける」の違いとしてもうひとつ言えるのは、「預ける」側は「預かる」側の人を基本的に信頼しているという前提がなければ成立しないが、「与える」や「貸す」は必ずしもそうではないということです。
「与える」の場合は「その先はどうぞご自由に」となりますし、「貸す」の場合は借用証書と担保をとります。全く信頼できない相手と借用証書を取り交わすこと自体がありえないとは思いますが、担保をとるということは貸したものが返ってこない可能性があることを前提にしているわけです。
しかし「預ける」相手から担保をとるでしょうか。あまり聞いたことがないです。担保をとらない理由は、相手を信頼しているからです。これが最も大きな違いです。
主人は3人の僕にそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。タラントンはお金の単位です。1タラントンは六千日分の労働賃金に相当します。決して小さな額ではありません。ただ、主人は3人の僕にそれぞれ預ける金額に差をつけました。差をつけた理由として考えられるのは、はっきりいえば3人の僕の能力に明らかな差があると主人の目には見えていたということです。
一致はしないのですが、ごく大雑把な計算をして、5タラントン、2タラントン、1タラントンを5億円、2億円、1億円と呼び替えてみれば、少しくらいは話が分かりやすくなるかもしれません。資本金5億円の会社と、2億円の会社と、1億円の会社とでは、管理者の能力差がやはり問われるでしょう。
このことから分かるのは、この主人は3人の僕に自分の財産を「与えた」のでも「貸した」のでもなく「預けた」以上、この3人の僕を基本的に信頼していました。しかしまた同時にこの主人は3人の僕には明らかな能力の差があることを見抜いていたということです。
しかしまた、ここで大事なことは、この主人は3人の僕に能力差があること自体を悪いとは思っていないということです。なぜそう言えるのかといえば、まさに能力差に応じて各人の負担分を変えているからです。できないことを無理にやれとは言っていません。
ひどい主人ならばむしろ、できないことを無理やりやらせようとします。個人差を無視してどんな人にも同じだけの量や質の仕事を押し付けて、それでおかしくなる人がいようとつぶれる人がいようと関係ないと言い放つ。まるで人間を道具か機械のように扱い、壊れたら捨てるだけ。ひどいです。
しかし、この主人は違います。各人の能力差を見抜き、各人にふさわしい分担の仕事を与えました。自分の財産を自分の信頼する僕たちに「預け」ました。
ここまでのところで、この主人の側に落ち度や責められるべきところがあるでしょうか。私はないと思っています。なぜ3人に差をつけたのか、差別ではないか、という話になるでしょうか。私はならないと思っていますが、いかがでしょうか。
そして、主人が旅から帰ってきました。3人の僕がそれぞれ結果を出してきました。5タラントンを預かった僕は、がんばって仕事して、見事10タラントンに増やして主人に返しました。2タラントンを預かった僕も、がんばって仕事して、見事4タラントンに増やして主人に返しました。
1タラントンを預かった僕は、がんばって仕事して、見事2タラントンに増やして主人に返しました、と言いたいところですが、そうではありませんでした。
3人目の僕は、預かった1タラントンを地に埋めて隠しただけで、それ以外何もせず、1タラントンのまま主人に返しました。減らしはしませんでしたので主人の財産は毀損されませんでしたが、増やしもしませんでした。それで主人は激怒しました。
さて問題です。今日のお題は説教題に書いたとおりです。「一タラントンを地に埋めた僕はなぜ主人に叱られたのか」です。
はい、それではこれから皆さんに付箋を配りますので、自分なりの答えを書いてください。付箋に書ける程度の長さでいいです。30字から40字程度です。書いていただいたら、私が集めに行きます。そして、皆さんの答えをまとめて紹介させていただきます。付箋に名前は書かなくて結構です。匿名でお願いします。
本当はみなさんが書いてくださった付箋をまとめた紙を写真にしてプロジェクターで映写したいところですが、これはだれが書いた字なのかがお互いに分かってしまうと思いますので、やめておきます。私がワープロで活字して教会にお送りしますので、それまでお待ちください。それならだれが書いたかが分かりませんのでご安心ください。
このようなことを私はこの1年間、学校の授業の中でしてきました。今の学校は文部科学省の方針に基づき「アクティヴラーニング」というのをしなければならないことになっています。
教員が教壇から生徒相手に一方的に話すだけの授業をするだけだと必ず批判されます。情報電子機器を積極的に活用しながら「ブレーンストーミング」や「プレゼンテーション」や「グループディスカッション」などを行うことが求められています。教員と生徒、あるいは生徒同士の双方向の(インタラクティヴ)やりとりを促進することが要求されます。
教会も同じだと思います。牧師が説教壇からただ一方的に話すだけではなく、もっといろいろと工夫しなければなりません。
はい、みなさん、答えはもう書けたでしょうか。そろそろ付箋を集めます。まだの方はゆっくりで構いません。これから私が皆さんのところまで行きます。私が持っているこの紙に、皆さんの付箋を貼り付けてください。よろしくお願いします。
このように学校では教員が授業中、教室の中を歩き回っています。「机間巡視(きかんじゅんし)」をしています。
はい、ご協力ありがとうございました。本当は皆さんの答えをすべてご紹介したいところですが、時間の関係でいくつかの答えを紹介させていただきます。そして、いちおうこちらで模範解答を用意しました。
模範解答は「(※非公開)」です。皆さんの考えと合致していたでしょうか。ご自分でお書きになったことを思い出していただけると幸いです。
学校ではこういうことを試験問題にして、採点しています。「(※非公開)」という意味の言葉が全く出てこず、全く別のことや正反対のことが書かれているようなら、減点対象になります。学校は教会と違って、必ず採点をしなければなりません。
しかし、今日ここは教会です。どのような答えをお書きになっても、皆さんの成績にも評価にも全く無関係ですので、どうかご安心ください。
しかし、問題はそれで終わらないと思います。なぜこの僕は「(※非公開)」のでしょうか。この問題のほうが、主人から叱られた理由よりはるかに深刻です。
その理由をこの人がはっきり言っています。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」
これだけではっきり分かる理由は、主人を恐れたことと、失敗を恐れたことの2つです。しかし、さらにもう1つの理由が考えられます。
5タラントン預けられた僕と、2タラントン預けられた僕と、1タラントンしか預けられなかった自分とを比較して、主人にそのような差をつけられたことで傷つき、「お前は能力がない、だめなやつだ」と主人から見下げられていると思い込み、他の2人に嫉妬し、投げやりな気持ちになったからです。
そのような直接の言及があるわけではありませんが、状況証拠を固めていくとこういう結論が出てくると思います。
しかし、先ほども申し上げたとおり、1タラントンは決して小さな金額ではありません。ほかの僕と比較すれば確かに少ないかもしれませんが、なぜ比較するのでしょうか。なぜ相対評価しか考えないのでしょうか。他人と自分は違います。別の人格を持つ、別の存在です。能力の違いは個性の違いでもあります。
どうしてみんなが同じでなければならないでしょうか。語学や読書は得意だが、数学や物理はからきし苦手という人はいます。スポーツはめっぽう強いが、お勉強は全くできないという人はいます。勉強もスポーツもからきしだが、性格が素直で、笑顔が素敵という人はいます。
それの何がいけないのでしょう。だめ人間の烙印を押す権限がだれにあるのでしょうか。そういうことをだれかに言った途端、ブーメランのように自分自身に必ず返ってきます。
なぜ「自分はだめだ、だめだ」と思いこんでいるのでしょうか。人と比較するからです。すべてを相対評価でしか考えていないからです。その狭い枠組み、固い殻の中から外へと飛び出す必要があります。そして、相対評価ではない、全く別の次元に立つ全く新しい評価がなされる場へと身を移す勇気が必要です。
主人が3人目の僕を強く叱ったのはそのことを言いたかったからです。そのことをなんとか分かってもらいたかったのです。
主人はこの僕を「外の暗闇」に追い出しただけです。「結果を出せない僕は殺してしまえ」と言っていません。結果そのものは、どうでもいいのです。しばらくの反省を促しているだけです。
(2017年3月19日、日本基督教団習志野教会 主日礼拝)
関口 康(日本基督教団教務教師)
「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
おはようございます。習志野教会で2回目の説教をさせていただきます。よろしくお願いします。
先ほど朗読していただきました聖書の箇所を皆さんは繰り返しお読みになっておられると思います。大変有名な箇所です。礼拝の説教でよく取り上げられる箇所です。キリスト教学校の聖書の授業でもよく取り上げられます。私も授業で取り上げました。
主イエスがお語りになった「タラントンのたとえ」です。たとえられているのは、神と人間の関係です。登場するのは4人です。主人と3人の僕です。主人が「神」で、3人の僕が「人間」です。
主人は旅に出かけます。出かけている間、自分の財産を3人の僕に預けます。「預ける」は「与える」でも「貸す」でもありません。この違いは所有権や主導権の問題がかかわります。
「与える」や「貸す」の場合は、所有権や主導権は「与えられた」側や「借りた」側の者へと移ります。借りたものは必ず返さなければなりませんが、使いみちは、貸した側の指図を受けることなく借りた側ですべて決めることができます。その意味で財産は、その所有権も主導権も、返すまでの間だけの一時的な話であるにしても、借りた側へと移っています。
しかし「預ける」は違います。少なくとも所有権は移っていません。100パーセント預けた側に所有権が残っています。使いみちについても預かった側が何をしてもよいと言えるほど自由であるわけではありません。預けた側の人にはそれを預けたこと自体に何らかの目的があって他人にそれを預けているのですから、その目的を預かった側が理解し、その目的に沿って使わなくてはなりません。
とはいえ、「与える」や「貸す」と「預ける」の違いとしてもうひとつ言えるのは、「預ける」側は「預かる」側の人を基本的に信頼しているという前提がなければ成立しないが、「与える」や「貸す」は必ずしもそうではないということです。
「与える」の場合は「その先はどうぞご自由に」となりますし、「貸す」の場合は借用証書と担保をとります。全く信頼できない相手と借用証書を取り交わすこと自体がありえないとは思いますが、担保をとるということは貸したものが返ってこない可能性があることを前提にしているわけです。
しかし「預ける」相手から担保をとるでしょうか。あまり聞いたことがないです。担保をとらない理由は、相手を信頼しているからです。これが最も大きな違いです。
主人は3人の僕にそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。タラントンはお金の単位です。1タラントンは六千日分の労働賃金に相当します。決して小さな額ではありません。ただ、主人は3人の僕にそれぞれ預ける金額に差をつけました。差をつけた理由として考えられるのは、はっきりいえば3人の僕の能力に明らかな差があると主人の目には見えていたということです。
一致はしないのですが、ごく大雑把な計算をして、5タラントン、2タラントン、1タラントンを5億円、2億円、1億円と呼び替えてみれば、少しくらいは話が分かりやすくなるかもしれません。資本金5億円の会社と、2億円の会社と、1億円の会社とでは、管理者の能力差がやはり問われるでしょう。
このことから分かるのは、この主人は3人の僕に自分の財産を「与えた」のでも「貸した」のでもなく「預けた」以上、この3人の僕を基本的に信頼していました。しかしまた同時にこの主人は3人の僕には明らかな能力の差があることを見抜いていたということです。
しかしまた、ここで大事なことは、この主人は3人の僕に能力差があること自体を悪いとは思っていないということです。なぜそう言えるのかといえば、まさに能力差に応じて各人の負担分を変えているからです。できないことを無理にやれとは言っていません。
ひどい主人ならばむしろ、できないことを無理やりやらせようとします。個人差を無視してどんな人にも同じだけの量や質の仕事を押し付けて、それでおかしくなる人がいようとつぶれる人がいようと関係ないと言い放つ。まるで人間を道具か機械のように扱い、壊れたら捨てるだけ。ひどいです。
しかし、この主人は違います。各人の能力差を見抜き、各人にふさわしい分担の仕事を与えました。自分の財産を自分の信頼する僕たちに「預け」ました。
ここまでのところで、この主人の側に落ち度や責められるべきところがあるでしょうか。私はないと思っています。なぜ3人に差をつけたのか、差別ではないか、という話になるでしょうか。私はならないと思っていますが、いかがでしょうか。
そして、主人が旅から帰ってきました。3人の僕がそれぞれ結果を出してきました。5タラントンを預かった僕は、がんばって仕事して、見事10タラントンに増やして主人に返しました。2タラントンを預かった僕も、がんばって仕事して、見事4タラントンに増やして主人に返しました。
1タラントンを預かった僕は、がんばって仕事して、見事2タラントンに増やして主人に返しました、と言いたいところですが、そうではありませんでした。
3人目の僕は、預かった1タラントンを地に埋めて隠しただけで、それ以外何もせず、1タラントンのまま主人に返しました。減らしはしませんでしたので主人の財産は毀損されませんでしたが、増やしもしませんでした。それで主人は激怒しました。
さて問題です。今日のお題は説教題に書いたとおりです。「一タラントンを地に埋めた僕はなぜ主人に叱られたのか」です。
はい、それではこれから皆さんに付箋を配りますので、自分なりの答えを書いてください。付箋に書ける程度の長さでいいです。30字から40字程度です。書いていただいたら、私が集めに行きます。そして、皆さんの答えをまとめて紹介させていただきます。付箋に名前は書かなくて結構です。匿名でお願いします。
| 付箋とコピー用紙 |
このようなことを私はこの1年間、学校の授業の中でしてきました。今の学校は文部科学省の方針に基づき「アクティヴラーニング」というのをしなければならないことになっています。
教員が教壇から生徒相手に一方的に話すだけの授業をするだけだと必ず批判されます。情報電子機器を積極的に活用しながら「ブレーンストーミング」や「プレゼンテーション」や「グループディスカッション」などを行うことが求められています。教員と生徒、あるいは生徒同士の双方向の(インタラクティヴ)やりとりを促進することが要求されます。
教会も同じだと思います。牧師が説教壇からただ一方的に話すだけではなく、もっといろいろと工夫しなければなりません。
はい、みなさん、答えはもう書けたでしょうか。そろそろ付箋を集めます。まだの方はゆっくりで構いません。これから私が皆さんのところまで行きます。私が持っているこの紙に、皆さんの付箋を貼り付けてください。よろしくお願いします。
このように学校では教員が授業中、教室の中を歩き回っています。「机間巡視(きかんじゅんし)」をしています。
はい、ご協力ありがとうございました。本当は皆さんの答えをすべてご紹介したいところですが、時間の関係でいくつかの答えを紹介させていただきます。そして、いちおうこちらで模範解答を用意しました。
模範解答は「(※非公開)」です。皆さんの考えと合致していたでしょうか。ご自分でお書きになったことを思い出していただけると幸いです。
学校ではこういうことを試験問題にして、採点しています。「(※非公開)」という意味の言葉が全く出てこず、全く別のことや正反対のことが書かれているようなら、減点対象になります。学校は教会と違って、必ず採点をしなければなりません。
しかし、今日ここは教会です。どのような答えをお書きになっても、皆さんの成績にも評価にも全く無関係ですので、どうかご安心ください。
しかし、問題はそれで終わらないと思います。なぜこの僕は「(※非公開)」のでしょうか。この問題のほうが、主人から叱られた理由よりはるかに深刻です。
その理由をこの人がはっきり言っています。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」
これだけではっきり分かる理由は、主人を恐れたことと、失敗を恐れたことの2つです。しかし、さらにもう1つの理由が考えられます。
5タラントン預けられた僕と、2タラントン預けられた僕と、1タラントンしか預けられなかった自分とを比較して、主人にそのような差をつけられたことで傷つき、「お前は能力がない、だめなやつだ」と主人から見下げられていると思い込み、他の2人に嫉妬し、投げやりな気持ちになったからです。
そのような直接の言及があるわけではありませんが、状況証拠を固めていくとこういう結論が出てくると思います。
しかし、先ほども申し上げたとおり、1タラントンは決して小さな金額ではありません。ほかの僕と比較すれば確かに少ないかもしれませんが、なぜ比較するのでしょうか。なぜ相対評価しか考えないのでしょうか。他人と自分は違います。別の人格を持つ、別の存在です。能力の違いは個性の違いでもあります。
どうしてみんなが同じでなければならないでしょうか。語学や読書は得意だが、数学や物理はからきし苦手という人はいます。スポーツはめっぽう強いが、お勉強は全くできないという人はいます。勉強もスポーツもからきしだが、性格が素直で、笑顔が素敵という人はいます。
それの何がいけないのでしょう。だめ人間の烙印を押す権限がだれにあるのでしょうか。そういうことをだれかに言った途端、ブーメランのように自分自身に必ず返ってきます。
なぜ「自分はだめだ、だめだ」と思いこんでいるのでしょうか。人と比較するからです。すべてを相対評価でしか考えていないからです。その狭い枠組み、固い殻の中から外へと飛び出す必要があります。そして、相対評価ではない、全く別の次元に立つ全く新しい評価がなされる場へと身を移す勇気が必要です。
主人が3人目の僕を強く叱ったのはそのことを言いたかったからです。そのことをなんとか分かってもらいたかったのです。
主人はこの僕を「外の暗闇」に追い出しただけです。「結果を出せない僕は殺してしまえ」と言っていません。結果そのものは、どうでもいいのです。しばらくの反省を促しているだけです。
(2017年3月19日、日本基督教団習志野教会 主日礼拝)
2017年3月18日土曜日
最後の昼餐
今日(2017年3月18日土曜日)は勤務校最後の出勤。新1年生の入学説明会の仕事。来週から任期満了日まで休暇をとり自宅待機。昼休みに「最後の昼餐」。最後に机の整理。パソコンにたまった学事データを勤務校のサーバーに保存し、ハードディスククリーンアップ。生徒との別れを惜しみつつ退勤。
同僚の先生から「ぼくの下駄箱の中に関口先生宛ての手紙が間違って入っていました」と渡されたのは、受け持ちだったクラスの男女生徒数名の寄せ書きだった。私の高校時代に下駄箱の中に手紙が入っていたことは一度もなかった。感無量。離任式まで黙っていてごめん。寄せ書き大切にします。ありがとう!
2017年3月17日金曜日
退職のお知らせ
私こと関口康は2017年3月31日付けで千葉英和高等学校宗教科常勤講師を退職します。本日の離任式で全校に発表されました。1年間の代用教員として、聖書の授業や礼拝の説教等を担当させていただきました。愛する生徒の皆さんを忘れません。本当に楽しかったです。1年間ありがとうございました!
※よい子の皆さんへ。私は「3月31日まで」教員ですので、私のツイッターをフォローするのは「4月1日以降」にしてください。フェイスブックもしていますので、ぜひ「友達」になりましょう。ただしフェイスブックに書いている内容は基本的にツイッターと同じです。よろしくお願いいたします。
来週3月20日(月)から3月31日(金)まで休暇をいただきました。休暇中の私への連絡はメール(yasushi.sekiguchi@gmail.com)またはSNS(フェイスブック、ツイッター)のメッセージでお願いいたします。
| 最も似合わないものをいただきました |
来週3月20日(月)から3月31日(金)まで休暇をいただきました。休暇中の私への連絡はメール(yasushi.sekiguchi@gmail.com)またはSNS(フェイスブック、ツイッター)のメッセージでお願いいたします。
2017年3月14日火曜日
久々の有給休暇を味わい尽くす
| 羽田空港(2017年3月14日火曜日) |
羽田空港再到着後、第1旅客ターミナル内の「そば処 竹生(ちくぶ)」で昼食。私はカレー南蛮そばセットを注文。紙エプロン付きでありがたかった。昼食後、遠来のお客様がたと語らう。その後お別れし、羽田空港→首都高(湾岸線→中央環状線)→四つ木→国道6号→自宅。実に有意義な有給休暇だった。
早朝の都心は通勤ラッシュでひどく渋滞していたが、その後は高速道も一般道も順調だった。ひとつ残念だったのは今日はずっと雨か曇だったこと。レインボーブリッジの上からベイエリアも東京タワーも東京スカイツリーもほとんど見えなかった。観光目的の都心ドライブではなかったので問題なしとしよう。
やーそれにしても今日いちばんは、妻が作ってくれたパエリアが美味しかったこと。疲れストッパー。サイボーグ009(豪華版)は7巻まで読了。「ギルモア博士に言われたことを忘れたのか。『どちらの兵も傷つけてはならん。我々の敵は黒い幽霊団(ブラック・ゴースト)だけなんだ』と」(7巻より)。
遠来のお客様と共に羽田空港を起点とする都心ドライブを楽しむ有意義な有給休暇を過ごし、妻が作ってくれた絶品パエリアをまったり味わった日の夜は、ガラケーで日本対キューバを観ながら、サイボーグ009(豪華版)を読みながら、ツイッターとフェイスブックとブログに四の五の書いている。贅沢だ。
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