今日の午後は「日本ルーテル神学大学跡地」に行ってきました。とか無邪気に書いていると、もうすぐ叱られそうですねすみません。昔の看板がガラス箱の中に静かに安置されていました。ルターが笑顔なのは歴史修正主義の疑いがあると、一緒にいた方(卒業生)と話しました。もっとコワモテだったはずと。
2016年9月25日日曜日
小金教会の「特別伝道礼拝」に出席しました
「無料で効果的に」情報拡散する方法
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| ほとんど顧みられない地味なブログに起こった一瞬の出来事 |
ブログよりSNSのほうが簡単ですが、SNSの「最大の」欠点だと感じる「過去ログ検索の難しさ」がブログにないので、ブログを続けています。最近しているのはツイッターで断想を書き、フェイスブックでまとめ、コメントを参考にしながら書き直し、流れができたらブログに保存するというやり方です。
以前は、逆の順序で、まずブログに書いて、それをフェイスブックに貼り付けて拡散し、ツイッターで広報していました。後者は「三段ロケット方式」と名付けたことがありますが、前者は名前がまだありません。強いて言えば、ツイッターは「講義」、フェイスブックは「ゼミ」、ブログは「レジュメ」です。
お金がないので、どうしたら「無料で効果的に」情報拡散できるかをずっと考えてきました。
NO MORE 説教泥棒
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| 内容とは関係ありません |
「オーダーメイドのスーツなど不要で、既製品で十分間に合うし、そのほうがむしろありがたい」などと言われてしまえば、大方の牧師は廃業を余儀なくされる。なかには、既製品のスーツのほうに自分の寸法を合わせるべくダイエットなさる御仁もいるだろう。オーダースーツが高くつくことは否定できない。
だが、牧師たちが受けてきた訓練は、自分の教会にぴったり合うスーツを縫い上げるためのものだ。いま書いているのはもちろん比喩だ。キツキツでもなくブカブカでもない、ちょうどよい寸法をさぐり当てる。着る人々の体型が変わるたびに採寸しなおし、微調整を重ねていく。盗用説教にはそれができない。
比喩はスーツでなくてもクッキーでもお好み焼きでもいい。甘すぎるクッキーや、焼いてから時間が経ってシナシナしているお好み焼きでも「おいしい」と思える人にはそれでいいかもしれない。だが各自の嗜好を熟知しつつぴったりの味で、つくりたて焼きたてのごちそうを出してもらえるほうがたぶんいい。
「牧師いらんかえ。教会いらんかえ」と闇夜に向かって叫びたい日曜日の未明の私。
2016年9月22日木曜日
高校と大学の関係、そして学校と教会の関係について
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| 内容とは関係ありません |
つい最近お会いした大学の先生(私の大学時代の先生という意味ではない)が「翻訳は業績にカウントしてもらえない。とにかく論文を書かなくては」と言っていた。そういうものかと初めて知った。大学教員界は大変そうだ。高校教員界は、論文を書いても翻訳してもそれ自体が評価されることはたぶんない。
夏休みのあいだ自分の勉強のために文科省検定済教科書の『倫理』の複数社のぶんを読み比べていた。それでお恥ずかしながら初めて知ったことだが、大学の先生たちだけで書いたものと、高校の先生が参加して書かれたものがあった。だからどうと言いたいのではないが、表現しにくい微妙な気持ちになった。
何を思ったかといえば私はどうやら権威主義者らしいということだ。大学の先生たちだけで書いた教科書のほうが、高校の先生が参加して書かれた教科書より信頼できそうだと、つい考えてしまう。厳密な比較ができたわけではないが、前者のほうが後者よりいくぶん読みやすいと感じたことは事実でもあった。
読みやすい教科書のほうに感じたことの中には「ああ、私も高校時代にこういうふうに教えてもらえていれば、もっと理解できただろうのに」という過去の恨みが含まれていた。後の祭りだが。結論を急ぐ必要はないが、教科書書きは現場主義より書斎主義(?)のほうがいいのかもしれないとさえ思わされた。
いま書いたことと直接関係はないが、夏休み中にもうひとつ、「高大接続」について文科省HPに掲載されているいくつかの文書をダウンロードして読んだ。センター試験を廃止して到達度テスト(ベーシックとアドバンス)のようなものに切り替える計画についても。これからいろいろと変わっていくようだ。
それでなんとなく思ったのは、「高大接続」だからこそ高校と大学は分業を徹底すべきなのだろうということだった。学校界のことは、入ったばかりなのでまだよく分からないが、高校には高校の、大学には大学の固有の課題がある。大学と高校の関係は単純な上下関係ではないと思う。取り組む課題が異なる。
教会界はどうか。「学校は教会ではない」のと同様「教会は学校ではない」。学問はしばしば宗教の腐敗をそしる。しかし学問も腐敗する。その監視役は宗教だと思う。教会は学校を「外から」見る。宗教の腐敗は学問が容赦なく指摘する。学問の腐敗は宗教が指摘する。そういう役割分担がありうるはずだ。
2016年9月19日月曜日
私は自由に書きたいことを書くだけだ
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| うちでマック。まっくのうち。 |
ブログのことをあとちょっとだけ。ブログタイトルは試行錯誤を経て「関口康」になった。一時期「関口康日記」だった。説教は「今週の説教」、ファン・ルーラー関係は「日本語版ファン・ルーラー著作集草稿」というブログにそれぞれ分けて管理していた。分けるのが面倒くさくなったので一つにまとめた。
ブログタイトルに自分の名前だけを書くというのはヘンテコな感じかもしれないが、考えてみればツイッターだってフェイスブックだってみなさん自分の名前でやっておられるわけで。ひと昔前っぽい「電脳牧師なんちゃら関口のさわやかブログ」(?)みたいなネーミングは、小っ恥ずかしくて耐えられない。
ブログのアドレス(URL)をかっこいいのにしたいと考えていた時期もあった。有料のドメインを使っていた時期もあった。しかし、グーグルやヤフーで情報を探す人にとってはアドレス(URL)のかっこよさはどうでもいいことだと分かったので、そういうのは基本すべて、自分の名前を使うことにした。
それと、ブログのタイトルでもアドレス(URL)でも自分の名前を使うことにしたのは、ブログの全投稿はいかなる団体や組織をも代表しておらず、すべて個人的な発言であることを明示するためでもある。私はどこの教会の公式ホームページや公式ブログも、いまだかつて作ったことも管理したこともない。
私のセンスだけで言わせてもらえば、教会の公式ホームページであれ、公式ブログであれ、そのようなものに掲載するすべての記事は、定期的ないし随時開催される教会役員会(教派・教団によって呼称が異なる)の議決を経た相当厳密な意味での公式見解でなければならない。そこをスキップしてはならない。
説教はどうなのか。私の考えでは説教は「牧師の個人見解」である。少なくとも教会役員会の議決を経なければ公開できないようなものではない。あえて著作権を言うなら、説教の著作権はすべて牧師個人にあると思う。ただし教会の公式ホームページのようなもので公開した場合は事情が変わってくるだろう。
しかし、今書いているのは、法律上の問題では全くない。私がブログのタイトルやアドレス(URL)に自分の名前を使っているのは、どこの団体も組織も代表していない一個人の発言として書いていることを明示するためにしていることだという点を、いくらか詳しく説明しようとしているだけのことである。
今年4月からブログでもツイッターでもフェイスブックでも「日本基督教団教務教師」をあえて名乗るようにしたが、この肩書きを見て「日本基督教団」という団体を代表する者であると思う人がいれば、それはよほど事情を知らない人である。分かる人には分かる。これは実は何をも代表しない肩書きである。
つまりは、私のブログの書き込みの全責任は「関口康」にある。いま言いたいのは、ただそれだけのことだ。私の発言の責任をだれにも転嫁するつもりはないので、だれひとり私に代わって(勝手に)責任を感じないでほしい。もちろん言葉は慎重に選ぶが、私は自由に書きたいことを書く。ただそれだけだ。
2016年9月18日日曜日
「ブログを続けてきてよかったです」のダークサイド
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字で書いてネットで開示するのはこれで10回目くらいだが、くれぐれも念を押したいのは、私はネットで伝道する気はないということだ。説教原稿を公開する主旨も繰り返し書いてきたとおり、説教後の「言った言わない」の不毛な論争に巻き込まれないための危機管理の一環であって、それ以外の意図はない。
説教者には、みずからの説教によってみずからの身を危険にさらすことを回避できないときがある。その説教者の人事権を握る人々の心地よさを保証するような言葉だけを語る説教者は真の説教者ではない。その人々にとってあからさまに不快な言葉を語ることがありうる。聖書がそう語るように強く促すからだ。
ただ、その場合でも説教者はみずから語った言葉に責任をとる必要があるので、その言葉をできるだけ広い範囲の人々に開示し、その言葉はその説教者の人事権を握る人々にとっては不快な言葉かもしれないが、今こそ語られるべき真理の言葉であることを理解してもらえる人々に共有してもらうことが肝要だ。
そのための現時点で最も有効な方法が説教原稿のブログ公開だ。説教者が密室で絞め殺されないために。「あなたは○月○日の説教でこう言った(我々に不都合な言葉を語った)。我々への当てこすりである」「いえ、そのようなことは申しません。それは誤解です」「いや、言った」。この不毛さよ!!
ブログに書いておけばね、「ブログ読んでください。他の多くの人も読んでますよ。私が本当にあなたがたの言うような意味のことを説教で語ったかどうかはその人々が判断してくれますよ」で済む。実際、ブログに説教を公開するようになって、その種の「哀れなほど不毛な」言った言わない論争が止んだ。
牧師が危機管理してはいけないだろうか。保身かもしれないが、説教原稿を広範囲に開示することで得られる保身なら「良い保身」(?)ではないだろうか。説教者の人事権を握る特定の少数者の歪んだ聴き方だけで説教の真価を判断されては困ることがありうる。真に悔い改めるべきは、あなたがたである。
しかし、このような辛辣なことも、今の私が一時的なのかどうなのか教会担任教師の職務から離れて学校の教務教師になっているゆえに書けることだと思う。50歳で50年教会に通ってきた「教会大好き人間」である私に、ここまでひどいことを書かさないでください、教会さま。よろしくお願いいたします。
豊島岡教会南花島集会所の「設立10周年記念礼拝」に出席しました
ブログを続けてきてよかったです
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| ブログ投稿画面 |
誰が読むかも分からない、何の意味かも分からない私のブログであり続けているが、「面白い」と言っていただけることは素直にうれしい。子どもの頃からひどく口下手でしゃべるより字を書くほうが気楽なのと、自分の頭で理解できない難解な言葉は使わないようにしているので、わりと読みやすいとは思う。
あとは守秘義務で書けないことだらけの仕事でもあり、ネットで他人の個人情報を拡散することの危険性を分かっているつもりでもあり、それなので、とにかく自分のことしか書かないできたことで、読んでくださる方々に「自分大好き人間」だと思われそうな私のブログだが、それはまあいいや。致し方ない。
「書くことがない」と言う人がいるが、ありえない。「何時に起きた、何時に寝た、どこ行った、何食べた」をしない人はいない。それを字にする。「そんなつまらないことを人に知らしめて何の意味がある」と言われるが、そこは工夫。誇張したり自慢したりは自由。写真を撮る範囲だけ部屋を片付けるとか。
2016年9月17日土曜日
三連休一日目
三連休一日目。5時半起床、7時半出発、9時半港区白金台ヘボン前、11時半三鷹市大沢3丁目、12時半紅虎餃子房イトーヨーカドー武蔵境店でレバニラ炒め、16時アジア・カルヴァン学会日本支部運営委員会、18時かごの屋鷺宮店で新委員歓迎会。
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