2016年7月11日月曜日

「採点の祭典」実行委員に加えていただきました

なんとも情けない50歳。夕方過ぎから脳内にブルースクリーンが出はじめたので、仕事の仕上げのクオリティがイマイチのまま放置して帰宅。ぐっすり休めばブルスク消えるので。いや、そんなに甘くないかも。脳内にブルスク出るの初めてじゃないし。脳の再起動ってどうやってやるんだっけ。気合いかな。

まあでも、毎日とっても幸せなので大丈夫。楽しくて楽しくて仕方ない。とっくに消費期限切れたポンコツ脳なんだから、ブルースクリーン出るの当たり前だし。もっと自覚しろよと自分に言いたい。というわけで、「幸せの黄色いハンカチ」改め「幸せの青いスクリーン」なので、ご心配には及びません。笑。

そう。私も遅ればせながら「採点の祭典」実行委員に加えていただいたのだった。全国の学校関係の諸先輩がたの「祭典」の様子をフェイスブックで拝見するたびにうらやましかった。よしいつか私も、と思っていた。今、その「祭典」開催中。終わったら後夜祭だな。行くぜ、ゲリラライブだ。どわっはっは。

土砂降りでもカンカン照りでも自転車やバスや徒歩で遠くから集まってくる生徒の姿に涙が出る。本当に(「本当に」などと書くこと自体失礼きわまりない)真剣に勉強しに来ているし、自分と世界の将来を目指している。くたばりぞこないの手負いの熊が、いつも応援している。もちろん「お祈り」している。

画像はイメージです

2016年7月10日日曜日

キリストの言葉が豊かに宿るようにしなさい(千葉若葉教会)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)
コロサイの信徒への手紙3・16~17

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」

いきなり私事で恐縮ですが、今日開いていただきましたのは、私が過去に個人的に経験した出来事と強く結びついている箇所です。その出来事についてもお話ししたいと願っていますが、その前に、この箇所そのものの意味をご説明させていただきます。

現代の聖書学者たちは、コロサイの信徒への手紙を「使徒パウロが書いたものではない」と断言しはじめています。私は狭い意味での「聖書学者」ではありませんので、そういう話を何度聞かされても「へえ、そうなんですか」というくらいの反応しかできないのですが、それでも学者さんたちの意見は可能なかぎり尊重してきたつもりです。あえて逆らう気はありません。

パウロが書いたものでないなら誰が書いたのかといえば、パウロの名前を借りた別の人物が書いたものであるという話になります。当然といえば当然の結論です。そして聖書学者たちの意見としてもう一つ重要な点は、この手紙は実は狭い意味での「手紙」でもないということです。私が言っていることではないです。聖書学者たちの意見です。

「手紙」でないなら何なのかというと、キリスト教の教えを簡略にまとめたパンフレットのようなものだったのではないかという話になります。ここから先は多少批判的な言い方を含んでいますが、この手紙の中には教会の現実が見える具体的なことへの言及がほとんど見当たらず、もっぱら抽象的なことしか書かれていないので、そういうものは「手紙」であるとは言えないというような話です。

しかし、先ほど申し上げたとおり、私自身は狭い意味での「聖書学者」ではなく、聖書学の「門前の小僧」ですので、正確な議論は学者さんたちにお任せいたします。軽んじるつもりも無視するつもりもありません。ただ私は、教会で説教するときは、これを「使徒パウロの手紙」として扱うことにしています。そのことはご容赦いただきたいと願っています。

そうすることのほとんど唯一の根拠は、冒頭に記されている「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ」(1・1)という言葉だけです。この言葉に基づいて、私は「パウロはこう書いています」「パウロはこう述べています」と申し上げます。

ですから、みなさんにお願いしたいのは、私が「パウロ」という言葉を発したときは、みなさんの頭の中でパウロにかぎ括弧をつけていただきたいということです。それで問題ありません。「かぎ括弧付きのパウロが書いた手紙」ということで、聖書学者のみなさまにご容赦いただくしかありません。

しかし、なるほどたしかに、この手紙の中には教会の現実が見えるような具体的なことへの言及はほとんど見当たらず、もっぱら抽象的で観念的で概念的なことが書かれていることは事実です。良く言えば「キリスト教入門」ないし「教会入門」のテキストとして扱いやすい内容です。悪く言う必要はないかもしれませんが、なるほどたしかに、教会の現実が見えない。

しかし、原理・原則というのは、いつでも悪者扱いされるべきではありません。とくに入門志願者や初めての人の中には、原理・原則をはっきり教えてもらうほうが戸惑わなくて安心できると考える人が一定数います。

会社や社会で「こうしなさい、ああしなさい」と命令ばかり受けてきて、教会でも「こうしなさい、ああしなさい」と命令されるのはまっぴらごめんだと感じる人は多いかもしれません。しかし、教会には原理・原則が存在しないというわけではありません。

前置きが長くなってしまいました。今日開いていただいた箇所は、今申し上げていることとの関係でいえば、キリスト教の基本中の基本が書かれているところであるといえます。キリスト教入門、教会入門における最も基本的で根本的な部分が、この短い言葉の中に集約されています。

私はこの箇所の説教をするたびにポイントを三つに絞ってきました。第一は「キリストの言葉が豊かに宿るようにしなさい」、第二は「詩編と賛歌と霊的な歌により神をほめたたえなさい」、そして第三は「イエスによって父である神に感謝しなさい」です。つまり、三つのポイントとは、みことば、賛美、お祈りです。

そして私は、こういう話をいつもします。キリスト教は、どういう場所でも、どういう集会でも、とにかくこの三つです。それは、みことば、賛美、お祈りです。毎週日曜の礼拝も、水曜の祈祷会も、結婚式も、お葬式も、どんな場所でもどんな集会でも、みことば、賛美、お祈りです。

それが基本中の基本であるという意味で、この三つはキリスト教の読み書きソロバンです。イロハです。それが、みことば、賛美、お祈りです。結婚式とお葬式で同じ聖書の箇所を読み、同じ賛美歌をうたうことも、しょっちゅうあります。その意味では、結婚式もお葬式も、礼拝そのものです。

そして、私がこの箇所の説教をするたびに繰り返し強調してきた点があります。それは、みことばについても、賛美についても、お祈りについても、すべては「わたしたち自身が真剣に取り組むべきこと」としてとらえる必要があるという点です。それだけ言っても意味が分からないと思いますので、このあと説明いたします。

過去の経験上、誤解が生じやすいのは、みことばについてです。賛美とお祈りについては、それが「真剣に取り組むべきこと」であるということを、比較的すぐに理解してもらえます。真剣に賛美することの重要性、真剣にお祈りすることの重要性は分かってもらえます。しかし、みことばについては誤解されることが多かったです。

私の説明を誤解する人たちは、決まっていました。みことばとは神の言葉であって、つまりそれは、神御自身がお語りになる言葉なのであって、みことばについての主導権は、徹頭徹尾神御自身にあるのであって、その神の言葉の前で人間はひたすら受け身であるのだから、いかなる意味でも我々人間はみことばに対して能動的な立場にはありえない、というような前提理解を持った人たちです。

私はそういう前提理解を持った人たちから、面と向かって不快感を表明されたこともあります。そのような経験を、私は実際にしてきました。

私はどこを強調してきたのかといえば、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」という新共同訳聖書のこの訳文はとても正確だと思うので、このとおりに考えてほしいということです。そして、「宿るようにする」のは、あなた自身ですよ、他のだれもやってくれませんよ、ということです。そこをとにかく強調してきました。

キリストの言葉があなたの内に豊かに「宿るようにする」ためにどうすればよいのでしょうか。それは自分で努力するしかありませんよと、私は説明してきました。主導権は、徹頭徹尾あなた自身にありますよと。聖書を自分で開き、自分で読み、繰り返し読み、たくさん学び、深く考えることが必要ですよと。

もっとも二千年前には、だれでも簡単に自分の聖書を買って持っているというような状況にはありませんでしたので、だれでも自分で聖書を開いて自分で読むということはできなかったと思います。その場合は、教会で説教を聴くという方法で聖書を学ぶわけです。しかし、それも自分ですることです。だれかが代わりにやってくれるわけではありません。

この「豊かに宿るようにする」の「する」の主語はあなた自身ですよということを、私は繰り返し強調してきました。しかし、この私の説明は、どの教会においても、どの牧師たちの中でも、一定の人々から強い違和感を表明され、拒絶されてきました。

でも、私はこの件に関しては譲ることができません。なぜ譲ることができないかといえば、それが最初に申し上げた、私が個人的に経験した出来事と関係しているからです。

個人を特定できるような具体的なことは伏せます。様々な外的要因が重なり、激しく落ち込んだ人がいました。その人のことを考えながら、私は礼拝で今日の箇所についての説教をしました。

そのとき私は、こう言いました。「人間の心は風船のようなものです。悪いものがたくさん入っている状態を緩和するには、その悪いもののほうを取り除くことはできませんので、良いものをたくさん詰め込んでいくしかありません。その良いものがキリストの言葉です」と。

その日、その人の心に変化がありました。私が今申し上げているのは、みことばが、あるいは私の説教がその人を救った、というようなことでは全くありません。キリストの言葉が豊かに「宿るようにした」のはその人自身であり、自分の心を開き、聴く耳を持ったのも、その人自身です。

そのことを今日みなさんにも言いたいのです。キリストの言葉が「豊かに宿るようにする」のは、みなさん自身です。礼拝中、別のことを考えていませんか。聖書への興味や関心を失っていませんか。「それどころではない」と思っていませんか。心は、耳は、閉じていませんか。

学校でも私は「こら起きろ、聞け」というような言い方はしませんし、できません。まして教会ではそういう言い方は全くできません。だからお願いです。どうかどうか聖書に関心を持ってください。拙い説教であることは重々承知していますが、どうか耳を傾けてください。キリストの言葉が豊かに宿るようにしてください。よろしくお願いいたします。

(2016年7月10日、日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会主日礼拝)

日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)


2016年7月9日土曜日

少なくとも私個人は「魂の医者」ではありえない

午前中はずっと雨天でした
今日は早朝から昼過ぎまで仕事。昼食は家でひとりで自作炒飯。懐かしの名曲「ジュテームジュテーム」を聴きながらちょっと一休み、と思ったら川瀬智子さんの歌声に魅せられて目が冴えてきた。すごいいい。長く眠っていたなにかが目をさます。ノスタルジアではないので。ちゃんと向き合っていなかった。

かつてはこんなのしたことがなかったが、土曜の午後4時から9時まで爆睡。目をさますとだれもいない。みんな忙しい。夕食各自。「明星麺の底力烏賊煮干(イカニボ)醤油」を買ってみた。あと「サントリー伊右衛門特茶」。なかなかいける。これから説教の原稿書きに集中する。脳のオン/オフ大事大事。

10年近く前、外から見ても分からない虫歯をレントゲンで見つけられて「いま治療すれば何歳までに何本歯が残る」と言われた日、その歯医者に通うのをやめた。もっと前、20歳で脂肪肝を指摘されたが放置。やるべきことがストップされなければ今はいい。「必死」とは必ず死ぬことだと何度も書いた。

医者がことさら偉いとは思わないが、「魂の医者」とか呼ばれたり自ら名乗ったりするから勘違いが起こるのではないか。私個人は癒やしてもらったこともなければ癒やしたこともない。期待したこともないし期待されたこともない。聖書の一読者にすぎず、解説者にすぎない。それ以上でもそれ以下でもない。

2016年7月8日金曜日

週末論的考察

何を書こうかと考えながらその内容がまとまらないので書けないほど体も心も疲れた一日の終わりの数時間を、冷たいミネラルウォーターをちびちび飲みながら過ごしています。明日(土)は臨時の出勤、明後日(日)は日本バプテスト連盟千葉若葉キリスト教会(千葉市若葉区千城台東)の礼拝で説教します。
聖書の位置が若干おかしい書斎


2016年7月7日木曜日

見よこれが聖書の先生だ

「今日の放課後は充実感」の巻。私と同期の聖書の先生(今年新採の常勤講師)が「聖書について何か質問ある?」コーナーを堂々開設。そこに私も誘ってもらえて、完全下校の19時まで生徒たちと聖書聖書聖書。見よこれが聖書の先生だ。ぐわし。


2016年7月4日月曜日

礼拝の意味(千葉英和高等学校)

ネヘミヤ記8・9~10

関口 康

「『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。『行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である』」。

3年生はこれからですが、今は毎年恒例の学校行事としての教会訪問を実施しているところです。人数を分散する目的から最初に2年生、次に1年生、最後に3年生という日程を組んでいます。日程を守ることも大事です。しかし学校としてはとにかく教会に行ってみてほしいという願いを持っているだけです。

1、2年生からはすでに、多くの教会訪問のレポートが提出されています。それを今、じっくり読ませていただいています。その中で、面白いなと思った感想がありました。他の感想が面白くないという意味ではありませんが。一人二人ではなく、多くの人が同じことを書いていました。それは「学校の礼拝と比べて教会の礼拝は良かった」という感想です。

その理由もちゃんと書かれていました。ご本人たちに無許可ですので、私の言葉で言い換えて紹介します。「本気で信じている人たちがこんなにたくさんいることを知って驚いた。教会の礼拝は本格的で真剣だった」「初めて行ったので緊張したが、教会の人が親切にしてくださったので、安心できた。あのような親切な大人になりたいと思った」など。

他にもたくさんの感想を寄せていただきましたが、どちらかといえば、肯定的な感想のほうが多かったです。「行ってよかった」とはっきり書いてくれた人もいました。否定的な感想が全く無かったわけではありません。それはそれとして尊重されるべきです。でも、多くはありませんでした。

しかし、このことは面白がるだけで済む問題ではありません。「学校の礼拝と比べて教会の礼拝は良かった」という感想には、学校の礼拝に対する厳しい問いかけが含まれているということを見逃すわけには行きません。もし教会の礼拝が本物の礼拝だということであれば、学校の礼拝はその逆だということになるわけです。

そういう感想をいただいて残念だとは思いません。でも、ちょっとひとこと言いたくなります。「学校の礼拝も本物の礼拝です」と。擬似礼拝でも似非礼拝でもありません。しかし、そのことをただ一方的に言い張って済む問題ではありません。「学校の礼拝も本物の礼拝です」ということを納得してもらえるようにするにはどうしたらよいのかを、真剣に考えなくてはなりません。

そのようなことを考えながら今日の聖書の箇所を選ばせていただきました。先ほど宗教委員の方々に朗読していただいたのは、旧約聖書のネヘミヤ記8章9節から10節までです。

ここに描かれている場面は、大昔に行われた「礼拝」の様子です。今から約2500年前です。ユダという国が隣国バビロニアに占領されました。神を礼拝するための神殿も、王の住む城も、バビロニアの軍にめちゃくちゃに破壊されました。そして、ユダ王国の住民の多くが捕虜としてバビロニアに連れて行かれました。それはとてもとても辛くて悲しい出来事でした。

しかし、その70年後、ユダの人々が元の町に帰れることになりました。そして、壊れたままだった神殿や城の壁を、みんなで力を合わせて建て直すことができました。今日の個所に登場する泣いている人々は、神殿と城の壁を建て直した人々です。そうすることができたことがうれしくて、涙を流しています。

しかし、その涙には別の意味もありました。70年もの間、自分の国の神殿も城も壊れたままでした。その間、人々は自分の町に戻れませんでした。故郷に帰ったとき思い出されたのは70年間の屈辱と苦悩、そして苦渋に満ちた日々でしょう。彼らのうれし涙の中に複雑な涙が混ざっていたに違いありません。

これまでいろんなことがありました。嫌な目にもさんざん遭いました。でもそれらすべては神が導いてくださった結果であると信じる。そして神に感謝するために礼拝する。それがこの箇所の場面です。ここで言っておきたいのは、礼拝はそういうときにも、いえ、そういうときにこそ行うものである、ということです。

学校の礼拝は毎週行っています。先週の月曜日は文化祭の代休でしたので、今日の礼拝は2週間ぶりです。2週間前のわたしたちは今のわたしたちとは全く違います。文化祭の楽しい思い出がわたしたちの心に刻まれました。それだけではありません。学校でも、学校以外でも、わたしたちはいろんな体験をしました。

その中には、うれしいこと、楽しいことだけでなく、悲しいこと、嫌なこともあったでしょう。どう考えても否定的にしかとらえることができないこともたくさん含まれていることでしょう。しかし、それらのこと一切を神が導いてくださったと信じる(この「信じる」が難しいことではありますが)。過去のすべてを思い起こし、涙を流す場所が礼拝です。

それは、うれし涙の中に複雑なものが混ざり合った涙です。その涙を流すことで神の前に心の重荷をおろし、安心する場所が礼拝です。良かったことについては感謝、悪かったことについては反省、そして次なる課題と目標を思いめぐらす場所が礼拝です。

この礼拝の中で説教しているのが、この本の書名になっているネヘミヤとその仲間たちです。彼らが語ったのは、「今日はあなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない」ということでした。これは、泣くことを禁じているのではなく、すでに泣いている人を慰め、喜んでいいのだと励ます言葉です。

「良い肉を食べて、甘い飲み物を飲みなさい」とも言っています。今日はうれしくて楽しい日だから、美味しいごちそうを食べて笑いなさい、楽しみなさいと言いたいのです。学校の礼拝でごちそうや飲み物が出てくれば、みんなもっと元気になるでしょうか。現実には不可能ですが、何かのヒントになるかもしれません。「聖なる日」とは楽しい喜びの日であるということです。

わたしたちの「聖なる日」はいつでしょうか。礼拝を行う日がその日です。つまり今日です。礼拝は喜んでもよい、楽しんでもよい場所です。学校礼拝も同じです。ただし、げらげら笑って大騒ぎしてもよいとか、礼拝中に自分の好き勝手におしゃべりしてもよいという意味ではありません。そういう楽しみ方は、自分たちは楽しいかもしれませんが、他の人は楽しくありません。

神の恵みを感謝し、心の中で静かに喜ぶことが大切です。そしてお祈りする場所が礼拝です。

明日から第2回定期試験です。第1回試験のとき、1年生のあるクラスの試験監督をしました。みんなとても緊張しているのが分かったので、言いました。「みんな人事は尽くしたんだからね。最後はお祈りするしかないんだよ」と。

私は皆さんのためにいつもお祈りしています。定期試験、がんばってください。

(2016年7月4日、千葉英和高等学校 学校礼拝)

2016年7月3日日曜日

小金教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年7月3日日曜日)は日本基督教団小金教会(千葉県松戸市小金)の主日礼拝に出席させていただきました。今泉幹夫牧師の力強い説教を伺い、聖餐式に与りました。礼拝後、楽しいお茶の会に加えていただきました。ありがとうございます。

2016年下半期と2017年の「教会」での説教予定

各位

現在までに決まっている、2016年下半期と2017年の「教会」での説教予定です(勤務校の礼拝等は除いています)。下記以外の日曜日の予定はありません。小さなしもべを貴教会の説教者として用いていただけますと幸いです。

2016年7月3日

関口 康

日本基督教団教務教師(正教師)
yasushi.sekiguchi@gmail.com

【2016年】
 7月10日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
 8月14日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
 8月21日(日)日本基督教団阿佐ヶ谷東教会(東京都杉並区)
 8月28日(日)日本基督教団千葉北総教会(千葉県印西市)
 9月11日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
10月 9日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
11月13日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
12月11日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)

【2017年】
 1月 8日(日)日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)
 1月22日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
 2月12日(日)日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市)
 2月26日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)
 3月12日(日)日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会(千葉市)

よろしくお願いします

2016年7月2日土曜日

豊島岡教会南花島集会所で説教することになりました

先週日曜(2016年6月26日)に初めて礼拝に出席した日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(松戸市南花島4-61-17-102)で来年1月8日(日)と2月12日(日)に説教することになりました。新京成線「上本郷駅」徒歩9分(800m)、JR常磐線「松戸駅」徒歩16分(1200m)。→地図

日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)

2016年6月26日日曜日

豊島岡教会南花島集会所の主日礼拝に出席しました

今日(2016年6月26日日曜日)は日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(松戸市南花島4-61-17-102)の主日礼拝に出席させていただきました。国道6号沿いマンション1階。車で10分(6キロ)。とても素晴らしい教会でした。感謝です。

日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)