2016年7月2日土曜日

豊島岡教会南花島集会所で説教することになりました

先週日曜(2016年6月26日)に初めて礼拝に出席した日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(松戸市南花島4-61-17-102)で来年1月8日(日)と2月12日(日)に説教することになりました。新京成線「上本郷駅」徒歩9分(800m)、JR常磐線「松戸駅」徒歩16分(1200m)。→地図

日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)

2016年6月26日日曜日

豊島岡教会南花島集会所の主日礼拝に出席しました

今日(2016年6月26日日曜日)は日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(松戸市南花島4-61-17-102)の主日礼拝に出席させていただきました。国道6号沿いマンション1階。車で10分(6キロ)。とても素晴らしい教会でした。感謝です。

日本基督教団豊島岡教会南花島集会所(千葉県松戸市南花島)

2016年6月20日月曜日

齋藤篤先生との出会いは「カール・バルト研究会」でした

齋藤篤先生との出会いは「カール・バルト研究会」。私と小宮山裕一先生の呼びかけで始まったオンライン神学研究会。2012年1月22日から2014年12月12日まで2年間、41回行いました。小宮山、齋藤、関口、中井大介、藤崎裕之、匿名希望(敬称略)。『ミニストリー』誌で紹介されました。



2016年6月19日日曜日

玉川平安教会の主日礼拝に出席しました

今日(2016年6月19日日曜日)は日本基督教団玉川平安教会(東京都世田谷区奥沢)の主日礼拝に出席させていただきました。一般道で片道90分(42キロ)。懐かしい方と27年ぶりに再会できて、うれしかったです。またお訪ねしたいです。



玉川平安教会からの帰り、日本基督教団深沢教会(東京都世田谷区駒沢)に立ち寄らせていただきました。ぼくらのミカタ、齋藤篤牧師が、ご多忙中にもかかわらず歓待してくださいました。とても素敵な青年がたが新しい会堂内を案内してくださいました。


2016年6月18日土曜日

「真の謙虚が堕落に見え、真の堕落が謙虚に見える」かもしれない

とても暑い一日でした
2016年6月18日土曜日18時50分、千葉県柏市の借家の書斎から見た千葉県北西部および東京都上空の映像をお届けいたします。現在の当地は気温26度、湿度77パーセント、風速2メートル毎秒(Googleのデータ)。本日最高気温32度。

唐突に書きますが、フィリピの信徒への手紙2章6~11節の「キリストは神の身分でありながら」以下の箇所は、「キリスト者は謙虚であるべきだ」ということを主張するために「実はキリストも(ものすごく特別な意味で)謙虚だった」と説いている点で、《道徳的な》話として理解していいことですよね。

それで私が何を考えたのかといえば、神の身分であられたキリストが、神と等しい者であることに固執せず、自分を無にして僕の身分となり、人間と同じ者になられたことが、キリスト者がそうであるべき「謙虚」のモデルだというなら、牧師たちなどは率先して「人間的」であるべきですよねということです。

しかも(ここから先が新作の産みの苦しみ)その場合の「人間的」の意味は「本来的には神的であるべき存在の人間化」でなくてはならないと思われますが、たとえそうだとしても、その「人間化」は「堕落」を意味すべきではない。キリストは「本来神だった」が「堕落」して「人間になった」わけではない。

この「謙虚」と「堕落」の区別というのは、字で書くだけなら、直感的には誰でも分かるし、納得してもらえそうなことですが、実際の見分けは意外に難しいし、現実の見てくれ的にはもしかしたら逆に見えるかもしれないと私は思います。「真の謙虚が堕落に見え、真の堕落が謙虚に見える」かもしれません。

そういうことを今日は朝からずっと書斎に引きこもって考えていました。本を開くでもなし、鉛筆やボールペンを持つでもなし。大量の本も宝の持ちぐされ。ぼーっと空を見上げ、ネットの字を読み、ネットに字を書いただけ。昼食は家族揃っていました。それが慰め。明日の夜までには体調戻すぞ。気合いで。

「非指示的説教」をしてきました

記事とは関係ありません
私はそもそも教会の牧師として毎週日曜に定期的に説教していたときすら「だから何」を必ずしも明確に語らないやり方を意図的に選択していた。それで不満を表明されることも少なくなかった。まして宗教団体ではありえない学校での私は、「だから何」を明言することを極力抑えている。ご批判もあろうが。

「聖書にこう書いてある。最近こういう事例がある。だからあなたはこうしなさい。そうすればあなたはこうなるであろう」という語り方を私は意図的に避けた。そんなの説教ではないと言われても。「「あとは推して知るべし」だとか言いたかったのではない。説教とはそういうものだと確信していただけだ。

そういう私の説教スタイルに自分で名前をつけたことはまだないが、いま思いつくままに命名すれば「非指示的説教」と呼んでもらって構わない。「非指示的」という語の並びを見た瞬間に、ロジャースの「来談者中心療法」を連想できる方々がおられると思うが、それに近いかと問われれば「はい」と答える。

いわんや学校をや、である。「非指示的教育」とか「非指示的授業」とか「非指示的講義」というのは究極の矛盾概念かもしれないと思いつつではあるが、他方で思うことは、カウンセリングマインドをもって教育のわざに就くとは結局そのようなことを意味せざるをえないのではないか、ということでもある。

幸か不幸かどう間違えても私自身は「理想の牧師」にも「理想の教員」にもなりえない。なりたいと思ったことがないし、その場合の「理想の」とは何を意味するのだろうかと、そのあたりで面倒くさくどんよりと考えこんでしまうたぐいで、ますます「理想のなんちゃら」から遠い、不スマートな人間である。

ただ、そんな私が比較的はっきり語りうるのは、私自身もまた、遠い過去においても、近い過去においても、「教会」でも「学校」でも深い心の痛手を負った経験があるし、進行形の現在においても、おそらくは近未来においても遠未来においても状況は変わらないだろうという予測を持っているということだ。

そんな「教会」と「学校」のある意味ど真ん中で、私は「非指示的説教」と「非指示的授業」をすることで自分自身の心の痛手の問題を解決しようとしているのかもしれない。「教会(の支配)からも学校(の支配)からも救い出されたい」と願う人は潜在的に多い。問題は、救い出されてどこに行くのか、だ。

いま書いていることにも結論はない。「非指示的ツイート」だ。お互いをよく知りもしないのに、ずいぶんと一方的な指示や指南をしたがる人を苦手とする私でもある。自分にしてほしいと思うことを人にもせよ。自分にしてほしくないと思うことは人にもするなと、だいたいいつも考えている。今日は土曜日。