2014年11月9日日曜日

カール・バルトとオランダのバルト主義者の関係を扱う最適の解説書はこれです

カール・バルトとオランダのバルト主義者の関係を扱う最適の解説書は、この二冊です。

ブリンクマン教授のバルト研究二部作

左『カール・バルトの社会主義的態度決定』(1982年)

右『バルトの神学はキリスト者の行動のダイナマイト(破壊力)かダイナモ(推進力)か』(1983年)

二冊の著者は、アムステルダム自由大学神学部のM. E. ブリンクマン教授です。

ブリンクマン教授は、2008年12月10日「国際ファン・ルーラー学会」のときユルゲン・モルトマン教授との記念撮影に加わってくださった気さくな先生(左端)です。

左からブリンクマン教授、私、モルトマン教授、石原知弘先生

私が特に重要だと思うのは、『バルトの神学はキリスト者の行動のダイナマイト(破壊力)かダイナモ(推進力)か』(1983年)のほうです。

副題は「オランダのバルト主義者と新カルヴァン主義者との政治的・神学的論争」です。

副題は「オランダのバルト主義者と新カルヴァン主義者との政治的・神学的論争」

この二冊を読めば、カール・バルトとオランダのバルト主義者との関係や、バルト主義者がオランダの「新カルヴァン主義」(とくにアブラハム・カイパーの神学的後継者)とどのように対立し、どのような手段で「キリスト教政党」を倒す側に立とうとしたかが分かります。

この二冊は面白いです。あ、だけど「日本語に訳してください」というリクエストはノーサンキューですからね。そういうのは無しの方向で。

これからの学生さんの中に、このテーマに集中する人が登場することを期待したいです。

めちゃくちゃ面白いこと、請け合います。

日記「カール・バルトはファン・ルーラーを知っていた」

カール・バルトの『ローマ書』(第一版1919年、第二版1922年)は、出版直後からオランダに読者がいたようです。

あと、日本語版も複数種類あるバルトの使徒信条解説『われ信ず』(1935年)は、オランダのユトレヒト大学での講義です。

オランダ改革派教会(と称する複数の教団)は、バルトの神学の評価をめぐって二分した歴史を持っています。

私の知るかぎり、カール・バルトの著作の中でファン・ルーラーの名前が引用されている個所は皆無です。しかし、バルトがファン・ルーラーの存在と彼がバルトを批判していたことを知っていたことが確実であることは、論拠を挙げて説明できることです。

これは、バルトの「オランダの親友」のライデン大学神学部ミスコッテ教授が1966年に出版した論文集『信仰と認識』(Geloof en Kennis)です【写真1】。

【写真1】
『信仰と認識』(1966年)の中に、1951年に書かれた《ドイツ語の》論文「自然法とセオクラシー」(Naturrecht und Theokratie)が収録されています【写真2】。

【写真2】
ミスコッテ教授の論文「自然法とセオクラシー」(1951年)の「セオクラシー」に関する部分の中心テーマは「ファン・ルーラー批判」です【写真3】。

【写真3】
このミスコッテこそは、ファン・ルーラーの「論敵」として登場する、オランダを代表するバルト主義者でした。

ミスコッテが1951年論文を《ドイツ語で》書いた理由は、どう考えても明らかに、バルトその人に読んでもらうためでした。1951年といえば、ファン・ルーラーがユトレヒト大学神学部教授になった1947年のわずか4年後であり、ファン・ルーラーのドイツ語訳文献が出回る前です。

ミスコッテが1951年という非常に早い時期に《ドイツ語で》ファン・ルーラー批判の論文を書いてバルトその人にも読めるようにした動機は、もちろんミスコッテ本人しか知らないことですが、ミスコッテの非常に強い警戒心の現れであったと考えることは邪推とは言えないと思います。

「ミスコッテの親友」バルトは、間違いなくミスコッテの1951年論文を読んだはずです。それを読んだ上で、ファン・ルーラーを完全に無視することにしたのです。バルトがファン・ルーラーの名前を一切引用しないので、バルトの国際的な読者はファン・ルーラーの存在を知りません。

かたや、ファン・ルーラーのバルト批判は、バルト自身への攻撃というよりも、オランダ改革派教会の中のミスコッテ教授を頂点とする「バルト主義者」への批判であったと考えるほうが正しいと、私は考えています。だって、オランダとスイスやドイツでは教会史の文脈が異なるのですから。

加えて、ファン・ルーラーのバルト批判は、オランダの「キリスト教政党」の評価問題と結びついていました。バルト主義者は「キリスト教政党解体論」に立ち、「労働党」の支持を訴えました。キリスト教会がキリスト教政党をつぶす側に立つ。ファン・ルーラーには我慢できないことでした。

しかし、ミスコッテとファン・ルーラーの対立の結果は、ミスコッテ側の勝利に終わりました。教会政治的にも、出版事業的にも。ファン・ルーラーには「判官(ほうがん)びいき」の性質があり、弱い者の味方をして自ら負けるところがありました。根っからの牧師さんなんですね。

2014年11月8日土曜日

日記「長期的視野をもってネットに書いてきたことの『文脈』を説明する方法に悩む日々です」

ブログに書いた「超訳聖書」が独り歩きしたことがあります。

あれは「翻訳とは何か」と考えての「例示」でした。それは拙ブログの長年の読者の方には分かることでした(私の「ネットに字を書く」という行為は18年も続けてきたことです)。山岡洋一先生の示唆に基づき「金子武蔵型」でなく「長谷川宏型」で訳すとこうなるのではないかと、大まじめに考えた「例示」でした。

しかし、最近ネットを始めたばかりの(高齢の)方々が「超訳聖書」だけをご覧になったようです。文脈がある話を、文脈を知らない人が、突如つまみ食いをするとどういうことになるか、ネット生活が長い方々にはお分かりになると思います。実は相当ひどい目に会いました。説明するのに時間がかかりました。

ひどい目に会ったのは、昨日今日の話ではありません。もうずっと前のことです。ほとぼりが冷めたので、書く気持ちが湧いてきました。

その点では、紙の本は「文脈」の説明がしやすくていいなと思います。前後関係が目で見える。部分的に切り取って「お前こんなこと書いただろ」とか持ち出されても、その紙の本一冊を《法廷》に提示すれば、たちどころに疑惑がとける。しかし、ネットの書き物は分断されやすい。都合よく引用されやすい。

しかし、今さらネットから撤退する気はないし、これからはネットからの撤退は廃業に近いものがあると思うので、どうしたものか日々悩んでいます。しばしば考えこむことは、長期的視野をもってネットに書いてきたことの「文脈」を説明する方法です。

紙の本を出すためには、汲めども尽きぬほどの「財力」が必要です。すべて自費で本にして、売れずにほとんど戻ってきたものを長期保管できる倉庫を持っているような人しか、紙の本は出せない。今書いていることはほとんど皮肉と嫌味です。でも外れているとは思いません。かなり当たっているはずです。

日本におけるファン・ルーラー研究はまだ始まったばかりです


先日ご紹介した、オランダの古書店から購入した古書に挟まっていた1955年の新聞の切り抜きに次の文章が書かれていました。

(原文)
Prof. van Ruler is een Gereformeerd theoloog, die eens heeft geschreven, dat alle kleinodien van het klassieke Calvinisme hem dierbaar zijn. De theocatie en het Psalmgezang, het Oude Testament en de praedestinatie.

(拙訳)
ファン・ルーラー教授は「古典的カルヴァン主義の宝のすべてを愛している」と書いたことがある改革派神学者である。それはセオクラシー、詩編歌、旧約聖書、予定論のことである。

「ファン・ルーラー研究会最終セミナー」(2014年10月27日)の講演の中で石原知弘先生が明言されたことは「ファン・ルーラーは伝統的で保守的なカルヴァン主義の線をしっかり守っている」ということでした。私も石原先生のおっしゃるとおりだと思っています。

しかし、そのファン・ルーラーの神学は、しばしば「端的に面白い」と評されてきました。ユーモアとギャグ満載でオチまでついている。

カルヴァン主義とか改革派と聞けば「固い」だ「暗い」だ「苦しい」だと言われることが多い。しかし、ファン・ルーラーは真逆である。だからといって彼の神学が歪んでいたわけではないし、伝統から逸脱していたわけでもない。

それどころか、カルヴァン主義なり改革派なりこそが、もともと「端的に面白い」ものだったのではないかと思わせてくれる何かが、ファン・ルーラーの神学の中にあります。これは私の意見です。

カルヴァン主義の影響力の大きさについては、私などが声を大にして言わなくても、多くの歴史家が立証してきたことです。

ならば、話は単純です。「固い」「暗い」「苦しい」「つまらない」ものが世界的に影響を及ぼすものになるだろうかと考えてみると、どうも違うような気がする。

本来「端的に面白い」ものだったかもしれないそれを「固い」「暗い」「苦しい」「つまらない」ものにしたのは誰かという犯人探しをしたいわけではありません。そんなことをしても、だれも幸せになりません。

私が願うのはそのような猟奇的なやり方ではなく、「ありのままのカルヴァン主義」「ありのままの改革派」こそが「端的に面白い」と言わしめたいだけです。

そして、そのためにファン・ルーラーが多くの人に読まれるようになってほしいということだけです。小さな小さな願いです。

しかし、私にできることは非常に限られています。そろそろ限界だ(というか、とっくに限界を超えている)と思っています。

カール・バルトの『教会教義学』が吉永正義先生と井上良雄先生の二人で訳されたのはすごいことだと思っています。

しかし、その名誉をいささかも毀損しない意味で申し上げますが、あの翻訳よりも30年くらい前から日本のバルト研究の蓄積がありました。それなしに吉永先生と井上先生がいきなり、という話ではありません。

現時点での日本におけるファン・ルーラー研究は、日本におけるバルト研究の1930年代くらいの状況に似ていると思います。まだ始まったばかりです。というか、まだ始まっていないと言えるかもしれないほどです。

なので、これからいくらでも新規参入できます。今の20代、10代の方々、ぜひ取り組みを始めてください。よろしくお願いいたします。

【追記】

ちなみに、ファン・ルーラーの神学を取り上げた過去の神学博士号請求論文の中で最大規模の一冊を書いたのは、P. W. J. ファン・ホーフというユトレヒト大学とナイメーヘン大学(オランダの上智大学)を卒業したカトリック神学者です。




2014年11月7日金曜日

キリスト教は何の逃げ場でもありえないです

ファン・ルーラー著作集草稿 (編訳)関口 康

最近ある方に「私は高校時代の成績は最悪で、いつもだいたいビリでした」と衝撃告白(というほどでもない)をしたばかりです。「でもそれは今に至るまで私を支えている貴重な経験でした」と今さらの負け惜しみ発言を続けました。「どん底を知っている人は強いですよ。だってそれ以下がないんだから」。

「キリスト教も、今ではチャラチャラしたイメージとか、ブルジョアの宗教みたいに思われているかもしれませんが、イエスさまにしても、パウロにしても、旧約の預言者にしても、逮捕・監禁・収監・処刑。そういう場所の雰囲気とか臭いを知っている人たちの宗教がキリスト教でなければならないはず」。

「どこが上なのか、どこが下なのかは一概には言えないことです。自分はどん底だと思っていても、そこよりもっと底があるとか、変な争いが始まる場合もないわけではない。そういうのに巻き込まれると面倒くさい。自分はどん底にいる、という自覚があれば十分じゃないですか」。

「そして、それは貴重な経験だと私は本気で考えています。だって、自分はどん底から出発した、という思いがあれば、その後どれだけ高く昇ることができたとしても、失敗を恐れることがないですよ。失敗して落っこちても、元々のどん底の自分に戻るだけだから」という話をしました。

別に私のオリジナリティを主張したいわけではない、どこでもよく聞く、当たり前のような話です。

この話をしながら考えていたのは、拙訳でネット公開しているファン・ルーラーのショートエッセイ、「真理は未だ已まず」(1956年)のことです。

「真理は未だ已まず」(1956年) |  ファン・ルーラー著作集草稿 (編訳)関口 康

ファン・ルーラーの意図や息遣いを伝ええている自信はありませんが、訳しながら興奮を覚えました。彼の神学思想の真骨頂が表現されています。キリスト教こそ唯物論であると主張しています。それを肯定的に言っています。その意味は、自分の現実と世界の現実から一瞬たりとも逃避するなということです。

ただし、この論文はしかめっ面で読むべきではなく、ユーモアとしてとらえるべきです。悪しからず。

私、来年で50歳になるので、50年教会に通ってきた人間だという自覚があるのですが、世間でよく言われる「宗教を逃げ場にする」という言葉の意味が感覚的に全く分からないのです。他の宗教のことは分かりませんが、キリスト教は何の逃げ場でもありえないです。少なくとも私はそう感じてきました。

その私の幼い頃からの感覚をズバリ言葉にしてくれているのが、ファン・ルーラーのこの論文です。よい論考に出会えて、私自身が喜んでいます。

「高校時代の成績」というものが、その人の人生のある部分を決定づけてしまう社会であることは事実かもしれません。しかし、そういう社会は、まもなく終わります。崩壊するでしょう。我々が考えなくてはならないことは、「そういう社会」が崩壊した後どうするかです。

2014年11月6日木曜日

日記「『2015年』のフォルダを新設しました」

「2015年」のフォルダを新設しました。どんな一年になるのでしょうか。


2014年11月5日水曜日

日記「『関口康が選ぶ 二年で最高の本 BEST BOOK OF TWO YEARS 2013-2014』を行います」

私の書棚にあるものだけです、悪しからず
一昨年(2012年)初めて行いました。しかし、昨年(2013年)は残念ながらできませんでした。それで今年(2014年)は昨年と合わせた2年分にします。

「関口康が選ぶ 二年で最高の本 BEST BOOK OF TWO YEARS 2013-2014」

2013年から2014年にかけての「新刊本」に限ります。ジャンル不問です。

一昨年は100%冗談でした(すみません)。今年もふわふわした気持ちが全くないわけではありません(言い切った)。

しかし、一昨年はともかく今年は、ただのおふざけではなく、著訳者の方々と出版社、書店の皆さまへの「感謝の思い」を表したいと思っての企画です。

字を書き、本にし、売ることは本当にたいへんなことだと思います。なので、とにかく応援したいだけです。全く悪意も他意もありませんので、どうか悪しからず。

賞状も賞金もないのがたいへん申し訳ないのですが、「純粋に主観で」選ばせていただきます。

発表は2014年12月31日(水)。年末ジャンボの発表日と同じ日にしておきますね。お楽しみに。

2014年11月4日火曜日

百瀬奏くんがFacebookで私の書き込みを、おおおお!

北海道と千葉県、距離は遠くても心は一つだ!

先月、私に丁寧なお手紙をくださった

北海道の日本キリスト教団置戸教会の小学2年生、

百瀬奏(ももせ かなと)くんが

Facebookで私の書き込みを読んでくださっている様子を

お父さまが写してくださいました。

その写真のブログ掲載をお父さまが許可してくださいました。ありがとうございます。

すっごいうれしいです!奏くん、ありがとう!これからもよろしくね!

日記「『そもそも翻訳とは何なのか』という問いに苦しんできました」

ファン・ルーラーの『宣教の神学』を紹介するオランダの新聞の切り抜き(1955年8月20日付、関口康所蔵)
昨日、ふと思いついて、ファン・ルーラーの『宣教の神学』(Theologie van het Apostolaat)の第一章の冒頭部分の試訳を書いて、facebookに貼り付けました。

そのようにしたことには、一つの明確な意図がありました。過去に出版された二種類の日本語版と拙訳(試訳)を読み比べていただきたいと思ったのです。

長くなりますが、以下のとおりです。

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①後藤憲正訳、ディアコニー研究会、1997年

まず最初に考察しなければならないのは、終末論的な観点についてである。すでにこのことは、直接に、組織神学をして次のような興味深い結果に直面させる。すなわち、教会の機能と本質についての使徒的宣教構想は、終末論の持つ位置を強く強調するものであって、そのため、終末論が必然的に反省の出発点となるのである。確かに、このことは現代の聖書学研究の重要な強調点と一致している。また「終局のもの」に強調を置くというこの点は、とりわけ、文化危機に直面した精神の状態と非常によく符号している。しかし、使徒的宣教構想は、活動する主体の立場からものごとを見る。だから「終局のもの」は、単純に破滅へ向かうものという「状態」としては見られないで、そのかわり、「主体の活動に伴う」勇気や喜びに直面させられるのである。それゆえ、終末論的な強調は、組織神学を再建するように私たちを根本から駆り立てる、ということを意味している。

②長山道訳、教文館、2003年

第一点として、わたしは終末論的視点を扱いたい。それは神学的体系にとって、すでにただちに、教会の本質と機能についての使徒的観点の影響下で、終末ノ場が非常に前面に出てくるので、その結果、終末ノ場が必然的に思考の出発点になるという注目するべき結論を意味している。この点で、使徒的観点は、現在の聖書解釈の重要な路線と確かに一致している。たとえ使徒的観点が、終末においてものごとが行為している(それゆえ、過ぎ去っていくのではない)のを見るとしても、すなわち、たとえ使徒的観点が勇気と喜びをもってものごとを見るとしても、ここで終末に置かれている強調は、文化の危機的状況に特徴的な没落の気運とともに、強い共鳴を得ることも考えられる。いずれにせよ、終末論的強調は、徹底的な仕方で神学的体系の再建を促す。

③関口康訳(試訳)、ネット私家版、2014年

最初に取り上げたいと私が願っていますのは「終末論」の視点です。教会の存在と役割を宣教論の立場から考えていくと次第に分かってくることは、終末論には非常に大きな意義があるということです。その意義たるや、「終末論から書きはじめる組織神学」を考えなくてはならないと思うほどです。終末論への強調は現代の聖書学の動向とも合致しています。「世界の終わり」を大げさに扱うことには一般的な社会不安に迎合する面が全くないわけではありません。しかし、宣教論はあくまでも宣教の主体である教会の立場から考え出されるものです。教会が教える「終末」の意味は破滅ではありません。宣教の主体としての教会がその「目標」や「目的」をめざす勇気や喜びを表現するのが終末論です。終末論への強調は、組織神学をそのような神学へと全面的に書き直すことを求めていると私自身は考えています。

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過去の二種類の日本語版の訳者の人格や名誉を傷つけようとする意図は皆無ですので、以下、①と②と呼ばせていただきます。

①も②も、ドイツ語版に基づく訳です。しかし、ドイツ語版の出版時にはファン・ルーラーは存命中でした。また、ファン・ルーラーはオランダ人ですが、ドイツ語が堪能であったことが知られています。

そのため、ドイツ語版の完成稿の最終チェックを原著者ファン・ルーラー自身が行ったということは確実に言えることですので(そうでないようなものが当時の市場に出回ることはありえない)、①と②がドイツ語版に基づく訳だからという理由をもって「重訳」と決め付けて批判することは控えなければならないと、私は考えています。

「重訳」であるかどうかということよりも、私にとって大きな問題は、①も②も、おそらく人はこういうのを「原典に忠実な、厳密な翻訳」と呼ぶのだと思うのですが、このようなタイプの「厳密な」翻訳こそが、ファン・ルーラーの読者を日本において獲得することができず、かえって読者を失うことになった致命的な原因になったと思われることです。

単純な話です。読んでも分からないものを誰が買おうと思うでしょうか。店頭での立ち読みの時点で購入する気になれない。「立ち読み禁止」でラップでもつけますか。「ラップつきの神学書」を誰が買うでしょうか。ありえないことでしょう。

先週月曜日(2014年10月27日)に解散した「ファン・ルーラー研究会」の15年半で、私が最も苦しんだのは、「そもそも翻訳とは何なのか」という問いでした。ある意味で、翻訳そのものに苦しむ以上に、翻訳論に苦しんできました。

結局、その答えはいまだに分かりません。

拙ブログには繰り返し書いてきたことですが、『翻訳とは何か 職業としての翻訳』(日外アソシエーツ、2001年)という小さな本を出版された故・山岡洋一氏のことを忘れることができません。山岡氏が死の間際まで発行しておられた「翻訳通信」というメールマガジンは、毎号熟読していました。

山岡氏が繰り返し言及なさったことは、哲学者ヘーゲルの日本語版の訳者として著名な金子武蔵氏と長谷川宏氏の比較です。

「翻訳とは何か」を考える場合、「金子型」と「長谷川型」を比較してみることが最も分かりやすいということを私が知ったのは、山岡氏の『翻訳とは何か』を読んだときです。

山岡氏は「金子型」は「翻訳ではない」と断言なさいました。それはドイツ語ならドイツ語、英語なら英語の原文の一単語ごとに日本語の一単語を対応させる仕方で、一種のパッチワークをすることです。

そのようなやり方は、大学や神学校での原典講読ゼミのような場所で、出席者全員が外国語の原書を開いて読んでいるというような状況の中では有効な方法かもしれません。その場にいる人々が見ているのは、外国語原書のテキストであり、そのテキストに記されている外国語の構文だからです。

原書の文字を逐語的に目で追っている人たちにとっては、原書の外国語の一単語ごとに一つずつの日本語をパッチしていく作業の「模範解答例」になりうるという意味で、金子型の方法が役立つ場合がありえます。原典講読ゼミ出席者の「あんちょこ」としては有効に機能する可能性があります。「昨日は夜遅くまでバイトがあったので、予習ができなかった」というような学生たちにとっては。

大学や神学校で「聖書釈義」や「聖書原典講読」などを履修した人たちはおそらく必ず持っている「インターリニア(行間逐語訳)聖書」というのがありますが、言ってみれば、あの手のパッチワークが山岡氏の言うところの「金子型」であると考えていただけばよいと思います。

しかし、原文の一単語に日本語の一単語を対応させた上で、それをそれらしく並べ替えただけの文章は「日本語ではない」と、山岡洋一氏は死の直前まで繰り返し訴えました。しかし「翻訳とは日本語にすることでなければならない」。

山岡氏のおっしゃるとおりだと私も思いました。「原典に忠実な、厳密な翻訳」かもしれないが、日本語としては全く意味不明な文字の羅列にすぎない、そういう「訳書」によって日本国内に広く読者を得ることは不可能である。私にはそうであるとしか言いようがありません。

これも繰り返し書いてきたことですが、最も単純な例は、I love youは「私はあなたを愛しています」なのかという問題です。「私はあなたを愛しています」と書けば、日本の学校教育の中では合格点をもらえる回答かもしれません。しかし、現実の場面で「私はあなたを愛しています」という言葉を述べる日本の人はいない(皆無とは言えないかもしれませんが)。つまり、そんな日本語は「ない」。

そのような「金子型」に対して「長谷川型」は、全くタイプが異なります。両者は対極の位置にあると言えるほどの違いです。「長谷川型」は「日本語」です。山岡氏は「長谷川型」こそが「翻訳である」と推奨なさいました。

しかし、これは非常に難しい問題であると、私はずっと悩んできました。

「金子型」のほうが、明らかに「学問的に厳密である」という体裁をとりやすい。原書に通暁している学者たちからの批判をかわしやすい面が、あるといえばある。しかし、それは「日本語ではない」。広範な読者を得ることは不可能である。せいぜい、原書テキストの構文を眼前に置いている人たちを利するだけのものとなる。

他方、「長谷川型」は「日本語である」。しかし、意訳だ、でたらめだ、超訳だ、あのようなものは学問的な信頼に値しないという罵倒をうけやすい。

「どちらを選ぶべきか」という問いの答えは、結局、私には分かりませんでした。

そして、その答えが分からない以上、私はそろそろ翻訳から手を引くほうがよさそうだという答えにたどり着きました。これが、現時点での私の心境です。

しかし、これはネガティヴで後ろ向きの意味ではありません。

「金子武蔵型」の隘路にだけは進んでいくことは決してすまいという決意表明のつもりです。

しかし、「長谷川宏型」を「あれは翻訳ではない」とみなす人々に逆らい、抗うほどの動機はないので、「翻訳から手を引くほうがよさそうだ」と書いたまでです。


2014年11月2日日曜日

主イエスは嵐をしずめました

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

PDF版はここをクリックしてください

マルコによる福音書4・35~40

「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」

いまお読みしました個所に描かれているのは、イエスさまがガリラヤ湖に浮かぶ舟の中におられたときに起こった出来事です。そのとき、イエスさまと共に弟子たちも舟に乗っていました。

イエスさまはなぜ舟に乗っておられたのでしょうか。イエスさまご自身が「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われ、弟子たちがそのとおりにしたからです。それではイエスさまはなぜ「向こう岸に渡ろう」と言われたのでしょうか。それはもちろん伝道のためです。

「向こう岸」とはガリラヤ湖のカファルナウム側とは反対の場所を指しています。カファルナウムにはイエスさまが滞在されていたシモン・ペトロの家がありました。安息日ごとにそこでイエスさまが聖書の御言葉に基づく説教をなさった会堂がありました。週日にはカファルナウムの町の大勢の人がイエスさまのもとに集まっていました。そのような活動を通してイエスさまは、カファルナウムの人々の信頼を獲得して行かれました。

もっともその人々は、イエスさまを神の御子であられ真の救い主であられる方であるというふうな意味で信仰していたとまでは言えない状態だったと思います。興味があるという程度であったと言うべきでしょう。しかし、とにかくこの方はなんだかすごい方である。困っている人を助けてくださる。病気の人をいやしてくださる。孤独な人の友達になってくださる方である。あの手で触っていただくだけで病気がいやされる。そういうすごい力をお持ちの方であるというふうに見ていました。

しかし、マルコによる福音書が描いている時間の流れに基づいて言えば、これまでの時点ではまだイエスさまはガリラヤ湖の向こう岸には行っておられません。ですから、これから行くのは、いわば初めての向こう岸です。目的はもちろん伝道です。そして伝道の目的は、カファルナウムでなさったのと同じです。場所が変われば、することも変わるということではありません。それは聖書の御言葉に基づいて説教することです。そして、困った人を助け、病気の人をいやし、孤独な人の友達になることです。

しかし、だからこそイエスさまはガリラヤ湖の向こう岸に渡ることを弟子にお命じになりました。伝道の範囲を拡大することになさったのです。それはカファルナウムでの伝道はもう終わった、もう十分であるということではありません。カファルナウムにもまた戻って来られます。しかし、伝道の範囲を広げることになさった。そのためにイエスさまはガリラヤ湖の向こう岸に渡ることになさったのです。

なぜ私はこういう話をしているのかといいますと、いま申し上げたことを理由にすることができるかどうかは微妙な面があるのですが、この個所を読みながら私が考えたことは、イエスさまが嵐の中だったのに、なぜぐっすり眠っておられたのかということです。その答えはわりとはっきりしていると思います。イエスさまは、これから始まる新しい伝道の準備をしておられたのです。

その準備に当たるのがぐっすり眠ることです。冗談のように聞こえるかもしれませんが事実です。伝道の準備として重要なことは、よく眠ることです。疲れた状態で伝道することはできません。

マルコはこの出来事が起こった時間帯が「その日の夕方」(4・35)であったことをわざわざ書いています。日の高い真昼の時間帯に眠っておられたわけではありません。ガリラヤ湖のカファルナウム側の岸辺に集まった多くの人々に説教なさった日の夕方であったことをマルコはわざわざ明記しています。人前で話をするのは疲れることです。イエスさまも肉の体を持っておられますので、お疲れになります。だから眠っておられました。眠ること自体を責められる理由はありません。

そして、このときのイエスさまにとって大切だったことは、ガリラヤ湖の向こう岸で伝道するために準備なさることでした。だからぐっすり眠っておられました。理由はそれだけです。イエスさまに悪意などは全くありません。

ところが、弟子たちは違いました。嵐が始まったとき、自分たちがおびえ、うろたえている状態であるにもかかわらず、イエスさまおひとりが「艫の方で枕をして眠っておられた」(38節)ことが気に食わなくて気に食わなくて仕方ない思いになりました。それで、ぐっすり眠っておられるイエスさまをわざわざ揺すって起こしました。そして起きたイエスさまに文句を言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。

弟子たちの中の誰がこんなことを言ったのかは書かれていません。同じ内容のことが書かれているマタイによる福音書にも、ルカによる福音書にも、こんなことをイエスさまに言った弟子は誰だったのかは記されていません。すべて「弟子たち」と複数形で書かれています。複数の弟子、または弟子の全員が、イエスさまにこんなことを言ったのです。

しかし、私には少し気になることがあります。それは、このとき弟子たちが言った「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉の中の「わたしたち」の中にイエスさまのことが含まれているのかどうかという点です。

イエスさまも舟に乗っておられたわけです。舟が転覆すれば当然イエスさまも湖に投げ出され、おぼれて死んでしまいます。嵐の中で舟が波をかぶって水浸しになるほどの状態であったと記されています。それほどの状態であれば、いくらイエスさまがお疲れになっておられたとしても、ご自分の身に危険を感じるほどの状態かどうかくらいはお分かりになったはずです。

このように考えることは間違っているでしょうか。イエスさまは気絶しておられたのでしょうか。あるいは、イエスさまという方はよほど鈍感で、一度眠ってしまわれれば、ご自分の身に危険が襲いかかってきているどうかを全く察知できないほどの深い眠りにおちいられるような方なのでしょうか。いくらなんでもそんなことはないと、私は思うのです。

私は3年半前の震災のことをもちろんよく覚えています。あのときは昼間でした。私も家族も当然起きていました。娘は学校にいました。ですから、あのときの恐怖ははっきり覚えています。20年前の阪神淡路大震災のとき、私はたまたま岡山に主張で、前の晩から岡山の実家にいました。あのときは早朝でした。岡山は震源地の隣の県ではありましたが、大きな揺れはありませんでした。しかし、目くらいは覚めました。「揺れているなあ」とすぐ気づきました。

人間の体はそのようにできています。自分の身に危険が迫っているかどうかは眠っていても分かるものです。目が覚めます。イエスさまは全く気づかなかったのでしょうか。そんなことはないと思うのです。

この一ヶ月ほどの間は、あまり地震がなかったように思います。しかし、その前はけっこう頻繁に地震がありました。大きな地震ならば、眠っていても目が覚めるものです。もちろん気づかなかったときもあったでしょう。それは、よほど疲れていたからかもしれません。しかし、目を覚ますほどの危険はないとわたしたちの体が判断した面もあったでしょう。

なぜ私はこのような話をしているのかといえば、イエスさまという方はいったん眠ってしまわれれば、ご自分の身に迫る生命の危険にも気づかないほど鈍感な方だったのでしょうかということをぜひ考えていただきたいからです。そんなことはないと私は思うのです。

イエスさまはわたしたちと全く同じ肉の体を持っておられる方です。全く別次元の全く異なる肉体をお持ちの方だったわけではありません。そのことをわたしたちはよく考える必要があります。

それで私が先ほど申し上げたのは、弟子たちがイエスさまに言った「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉の中の「わたしたち」の中にイエスさまは含まれていたでしょうかということです。もちろん、含まれていたと考えることもできます。しかし、含まれていなかったと考えることもできます。

もし含まれていなかったとしたら、どういうことになるのでしょうか。このとき弟子たちが眠っておられるイエスさまに起きていただいたのは、イエスさまならばこの危機を必ず乗り越えてくださるであろうという期待や信仰をもっていたわけではなく、八つ当たりをしたかっただけだということになります。彼ら自身が不安になり、恐怖におびえていただけです。その不安、その恐怖をイエスさまにも分かってほしかっただけです。一緒におびえてほしかったのかもしれません。

弟子たちの中には、シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネという元漁師だった人もいました。彼らにとっては舟や湖は専門領域です。彼らがいるなら、わざわざイエスさまに起きていただく必要はないでしょう。イエスさまに文句を言う必要はないでしょう。自分たちの手でなんとかすればいいのです。しかし、そうではなかった。自分たちが怯えているのに、そのことを無視して眠っておられるように見えたイエスさまのことが許せなかったのです。

このような弟子たちの心理状態を、いまの心理学者ならばどのように名付けるのでしょうか。私は心理学の知識がほとんどありませんので分かりません。

恐怖心を持っている人が、持っていない人の存在を許せず、自分と同じ恐怖心を持たせようとする。自分だけが恐怖心を持っている状態であることが我慢できず、恐怖心を持っていない人まで巻き添えにしようとする。このときの弟子たちの心の中にあったのは、そのような心理状態だったと思われます。

イエスさまはそれらすべてをお見通しでした。起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になりました。

そして、弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。イエスさまがお叱りになったのは風と湖であると聖書には書かれていますが、それだけではないように思います。むしろ、イエスさまは弟子たちをこそお叱りになりました。「黙れ。静まれ」。

危機的な状況はあります。その中で不安になることが悪いわけではありません。不安で眠れない夜もあるでしょう。しかし、危機の只中でこそ、わたしたちは落ち着く必要があります。ただおびえ、ただ騒ぐだけでは、何一つ解決しません。

(2014年11月2日、松戸小金原教会主日礼拝)