2014年11月4日火曜日

百瀬奏くんがFacebookで私の書き込みを、おおおお!

北海道と千葉県、距離は遠くても心は一つだ!

先月、私に丁寧なお手紙をくださった

北海道の日本キリスト教団置戸教会の小学2年生、

百瀬奏(ももせ かなと)くんが

Facebookで私の書き込みを読んでくださっている様子を

お父さまが写してくださいました。

その写真のブログ掲載をお父さまが許可してくださいました。ありがとうございます。

すっごいうれしいです!奏くん、ありがとう!これからもよろしくね!

日記「『そもそも翻訳とは何なのか』という問いに苦しんできました」

ファン・ルーラーの『宣教の神学』を紹介するオランダの新聞の切り抜き(1955年8月20日付、関口康所蔵)
昨日、ふと思いついて、ファン・ルーラーの『宣教の神学』(Theologie van het Apostolaat)の第一章の冒頭部分の試訳を書いて、facebookに貼り付けました。

そのようにしたことには、一つの明確な意図がありました。過去に出版された二種類の日本語版と拙訳(試訳)を読み比べていただきたいと思ったのです。

長くなりますが、以下のとおりです。

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①後藤憲正訳、ディアコニー研究会、1997年

まず最初に考察しなければならないのは、終末論的な観点についてである。すでにこのことは、直接に、組織神学をして次のような興味深い結果に直面させる。すなわち、教会の機能と本質についての使徒的宣教構想は、終末論の持つ位置を強く強調するものであって、そのため、終末論が必然的に反省の出発点となるのである。確かに、このことは現代の聖書学研究の重要な強調点と一致している。また「終局のもの」に強調を置くというこの点は、とりわけ、文化危機に直面した精神の状態と非常によく符号している。しかし、使徒的宣教構想は、活動する主体の立場からものごとを見る。だから「終局のもの」は、単純に破滅へ向かうものという「状態」としては見られないで、そのかわり、「主体の活動に伴う」勇気や喜びに直面させられるのである。それゆえ、終末論的な強調は、組織神学を再建するように私たちを根本から駆り立てる、ということを意味している。

②長山道訳、教文館、2003年

第一点として、わたしは終末論的視点を扱いたい。それは神学的体系にとって、すでにただちに、教会の本質と機能についての使徒的観点の影響下で、終末ノ場が非常に前面に出てくるので、その結果、終末ノ場が必然的に思考の出発点になるという注目するべき結論を意味している。この点で、使徒的観点は、現在の聖書解釈の重要な路線と確かに一致している。たとえ使徒的観点が、終末においてものごとが行為している(それゆえ、過ぎ去っていくのではない)のを見るとしても、すなわち、たとえ使徒的観点が勇気と喜びをもってものごとを見るとしても、ここで終末に置かれている強調は、文化の危機的状況に特徴的な没落の気運とともに、強い共鳴を得ることも考えられる。いずれにせよ、終末論的強調は、徹底的な仕方で神学的体系の再建を促す。

③関口康訳(試訳)、ネット私家版、2014年

最初に取り上げたいと私が願っていますのは「終末論」の視点です。教会の存在と役割を宣教論の立場から考えていくと次第に分かってくることは、終末論には非常に大きな意義があるということです。その意義たるや、「終末論から書きはじめる組織神学」を考えなくてはならないと思うほどです。終末論への強調は現代の聖書学の動向とも合致しています。「世界の終わり」を大げさに扱うことには一般的な社会不安に迎合する面が全くないわけではありません。しかし、宣教論はあくまでも宣教の主体である教会の立場から考え出されるものです。教会が教える「終末」の意味は破滅ではありません。宣教の主体としての教会がその「目標」や「目的」をめざす勇気や喜びを表現するのが終末論です。終末論への強調は、組織神学をそのような神学へと全面的に書き直すことを求めていると私自身は考えています。

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過去の二種類の日本語版の訳者の人格や名誉を傷つけようとする意図は皆無ですので、以下、①と②と呼ばせていただきます。

①も②も、ドイツ語版に基づく訳です。しかし、ドイツ語版の出版時にはファン・ルーラーは存命中でした。また、ファン・ルーラーはオランダ人ですが、ドイツ語が堪能であったことが知られています。

そのため、ドイツ語版の完成稿の最終チェックを原著者ファン・ルーラー自身が行ったということは確実に言えることですので(そうでないようなものが当時の市場に出回ることはありえない)、①と②がドイツ語版に基づく訳だからという理由をもって「重訳」と決め付けて批判することは控えなければならないと、私は考えています。

「重訳」であるかどうかということよりも、私にとって大きな問題は、①も②も、おそらく人はこういうのを「原典に忠実な、厳密な翻訳」と呼ぶのだと思うのですが、このようなタイプの「厳密な」翻訳こそが、ファン・ルーラーの読者を日本において獲得することができず、かえって読者を失うことになった致命的な原因になったと思われることです。

単純な話です。読んでも分からないものを誰が買おうと思うでしょうか。店頭での立ち読みの時点で購入する気になれない。「立ち読み禁止」でラップでもつけますか。「ラップつきの神学書」を誰が買うでしょうか。ありえないことでしょう。

先週月曜日(2014年10月27日)に解散した「ファン・ルーラー研究会」の15年半で、私が最も苦しんだのは、「そもそも翻訳とは何なのか」という問いでした。ある意味で、翻訳そのものに苦しむ以上に、翻訳論に苦しんできました。

結局、その答えはいまだに分かりません。

拙ブログには繰り返し書いてきたことですが、『翻訳とは何か 職業としての翻訳』(日外アソシエーツ、2001年)という小さな本を出版された故・山岡洋一氏のことを忘れることができません。山岡氏が死の間際まで発行しておられた「翻訳通信」というメールマガジンは、毎号熟読していました。

山岡氏が繰り返し言及なさったことは、哲学者ヘーゲルの日本語版の訳者として著名な金子武蔵氏と長谷川宏氏の比較です。

「翻訳とは何か」を考える場合、「金子型」と「長谷川型」を比較してみることが最も分かりやすいということを私が知ったのは、山岡氏の『翻訳とは何か』を読んだときです。

山岡氏は「金子型」は「翻訳ではない」と断言なさいました。それはドイツ語ならドイツ語、英語なら英語の原文の一単語ごとに日本語の一単語を対応させる仕方で、一種のパッチワークをすることです。

そのようなやり方は、大学や神学校での原典講読ゼミのような場所で、出席者全員が外国語の原書を開いて読んでいるというような状況の中では有効な方法かもしれません。その場にいる人々が見ているのは、外国語原書のテキストであり、そのテキストに記されている外国語の構文だからです。

原書の文字を逐語的に目で追っている人たちにとっては、原書の外国語の一単語ごとに一つずつの日本語をパッチしていく作業の「模範解答例」になりうるという意味で、金子型の方法が役立つ場合がありえます。原典講読ゼミ出席者の「あんちょこ」としては有効に機能する可能性があります。「昨日は夜遅くまでバイトがあったので、予習ができなかった」というような学生たちにとっては。

大学や神学校で「聖書釈義」や「聖書原典講読」などを履修した人たちはおそらく必ず持っている「インターリニア(行間逐語訳)聖書」というのがありますが、言ってみれば、あの手のパッチワークが山岡氏の言うところの「金子型」であると考えていただけばよいと思います。

しかし、原文の一単語に日本語の一単語を対応させた上で、それをそれらしく並べ替えただけの文章は「日本語ではない」と、山岡洋一氏は死の直前まで繰り返し訴えました。しかし「翻訳とは日本語にすることでなければならない」。

山岡氏のおっしゃるとおりだと私も思いました。「原典に忠実な、厳密な翻訳」かもしれないが、日本語としては全く意味不明な文字の羅列にすぎない、そういう「訳書」によって日本国内に広く読者を得ることは不可能である。私にはそうであるとしか言いようがありません。

これも繰り返し書いてきたことですが、最も単純な例は、I love youは「私はあなたを愛しています」なのかという問題です。「私はあなたを愛しています」と書けば、日本の学校教育の中では合格点をもらえる回答かもしれません。しかし、現実の場面で「私はあなたを愛しています」という言葉を述べる日本の人はいない(皆無とは言えないかもしれませんが)。つまり、そんな日本語は「ない」。

そのような「金子型」に対して「長谷川型」は、全くタイプが異なります。両者は対極の位置にあると言えるほどの違いです。「長谷川型」は「日本語」です。山岡氏は「長谷川型」こそが「翻訳である」と推奨なさいました。

しかし、これは非常に難しい問題であると、私はずっと悩んできました。

「金子型」のほうが、明らかに「学問的に厳密である」という体裁をとりやすい。原書に通暁している学者たちからの批判をかわしやすい面が、あるといえばある。しかし、それは「日本語ではない」。広範な読者を得ることは不可能である。せいぜい、原書テキストの構文を眼前に置いている人たちを利するだけのものとなる。

他方、「長谷川型」は「日本語である」。しかし、意訳だ、でたらめだ、超訳だ、あのようなものは学問的な信頼に値しないという罵倒をうけやすい。

「どちらを選ぶべきか」という問いの答えは、結局、私には分かりませんでした。

そして、その答えが分からない以上、私はそろそろ翻訳から手を引くほうがよさそうだという答えにたどり着きました。これが、現時点での私の心境です。

しかし、これはネガティヴで後ろ向きの意味ではありません。

「金子武蔵型」の隘路にだけは進んでいくことは決してすまいという決意表明のつもりです。

しかし、「長谷川宏型」を「あれは翻訳ではない」とみなす人々に逆らい、抗うほどの動機はないので、「翻訳から手を引くほうがよさそうだ」と書いたまでです。


2014年11月2日日曜日

主イエスは嵐をしずめました

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

PDF版はここをクリックしてください

マルコによる福音書4・35~40

「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』と互いに言った。」

いまお読みしました個所に描かれているのは、イエスさまがガリラヤ湖に浮かぶ舟の中におられたときに起こった出来事です。そのとき、イエスさまと共に弟子たちも舟に乗っていました。

イエスさまはなぜ舟に乗っておられたのでしょうか。イエスさまご自身が「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われ、弟子たちがそのとおりにしたからです。それではイエスさまはなぜ「向こう岸に渡ろう」と言われたのでしょうか。それはもちろん伝道のためです。

「向こう岸」とはガリラヤ湖のカファルナウム側とは反対の場所を指しています。カファルナウムにはイエスさまが滞在されていたシモン・ペトロの家がありました。安息日ごとにそこでイエスさまが聖書の御言葉に基づく説教をなさった会堂がありました。週日にはカファルナウムの町の大勢の人がイエスさまのもとに集まっていました。そのような活動を通してイエスさまは、カファルナウムの人々の信頼を獲得して行かれました。

もっともその人々は、イエスさまを神の御子であられ真の救い主であられる方であるというふうな意味で信仰していたとまでは言えない状態だったと思います。興味があるという程度であったと言うべきでしょう。しかし、とにかくこの方はなんだかすごい方である。困っている人を助けてくださる。病気の人をいやしてくださる。孤独な人の友達になってくださる方である。あの手で触っていただくだけで病気がいやされる。そういうすごい力をお持ちの方であるというふうに見ていました。

しかし、マルコによる福音書が描いている時間の流れに基づいて言えば、これまでの時点ではまだイエスさまはガリラヤ湖の向こう岸には行っておられません。ですから、これから行くのは、いわば初めての向こう岸です。目的はもちろん伝道です。そして伝道の目的は、カファルナウムでなさったのと同じです。場所が変われば、することも変わるということではありません。それは聖書の御言葉に基づいて説教することです。そして、困った人を助け、病気の人をいやし、孤独な人の友達になることです。

しかし、だからこそイエスさまはガリラヤ湖の向こう岸に渡ることを弟子にお命じになりました。伝道の範囲を拡大することになさったのです。それはカファルナウムでの伝道はもう終わった、もう十分であるということではありません。カファルナウムにもまた戻って来られます。しかし、伝道の範囲を広げることになさった。そのためにイエスさまはガリラヤ湖の向こう岸に渡ることになさったのです。

なぜ私はこういう話をしているのかといいますと、いま申し上げたことを理由にすることができるかどうかは微妙な面があるのですが、この個所を読みながら私が考えたことは、イエスさまが嵐の中だったのに、なぜぐっすり眠っておられたのかということです。その答えはわりとはっきりしていると思います。イエスさまは、これから始まる新しい伝道の準備をしておられたのです。

その準備に当たるのがぐっすり眠ることです。冗談のように聞こえるかもしれませんが事実です。伝道の準備として重要なことは、よく眠ることです。疲れた状態で伝道することはできません。

マルコはこの出来事が起こった時間帯が「その日の夕方」(4・35)であったことをわざわざ書いています。日の高い真昼の時間帯に眠っておられたわけではありません。ガリラヤ湖のカファルナウム側の岸辺に集まった多くの人々に説教なさった日の夕方であったことをマルコはわざわざ明記しています。人前で話をするのは疲れることです。イエスさまも肉の体を持っておられますので、お疲れになります。だから眠っておられました。眠ること自体を責められる理由はありません。

そして、このときのイエスさまにとって大切だったことは、ガリラヤ湖の向こう岸で伝道するために準備なさることでした。だからぐっすり眠っておられました。理由はそれだけです。イエスさまに悪意などは全くありません。

ところが、弟子たちは違いました。嵐が始まったとき、自分たちがおびえ、うろたえている状態であるにもかかわらず、イエスさまおひとりが「艫の方で枕をして眠っておられた」(38節)ことが気に食わなくて気に食わなくて仕方ない思いになりました。それで、ぐっすり眠っておられるイエスさまをわざわざ揺すって起こしました。そして起きたイエスさまに文句を言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。

弟子たちの中の誰がこんなことを言ったのかは書かれていません。同じ内容のことが書かれているマタイによる福音書にも、ルカによる福音書にも、こんなことをイエスさまに言った弟子は誰だったのかは記されていません。すべて「弟子たち」と複数形で書かれています。複数の弟子、または弟子の全員が、イエスさまにこんなことを言ったのです。

しかし、私には少し気になることがあります。それは、このとき弟子たちが言った「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉の中の「わたしたち」の中にイエスさまのことが含まれているのかどうかという点です。

イエスさまも舟に乗っておられたわけです。舟が転覆すれば当然イエスさまも湖に投げ出され、おぼれて死んでしまいます。嵐の中で舟が波をかぶって水浸しになるほどの状態であったと記されています。それほどの状態であれば、いくらイエスさまがお疲れになっておられたとしても、ご自分の身に危険を感じるほどの状態かどうかくらいはお分かりになったはずです。

このように考えることは間違っているでしょうか。イエスさまは気絶しておられたのでしょうか。あるいは、イエスさまという方はよほど鈍感で、一度眠ってしまわれれば、ご自分の身に危険が襲いかかってきているどうかを全く察知できないほどの深い眠りにおちいられるような方なのでしょうか。いくらなんでもそんなことはないと、私は思うのです。

私は3年半前の震災のことをもちろんよく覚えています。あのときは昼間でした。私も家族も当然起きていました。娘は学校にいました。ですから、あのときの恐怖ははっきり覚えています。20年前の阪神淡路大震災のとき、私はたまたま岡山に主張で、前の晩から岡山の実家にいました。あのときは早朝でした。岡山は震源地の隣の県ではありましたが、大きな揺れはありませんでした。しかし、目くらいは覚めました。「揺れているなあ」とすぐ気づきました。

人間の体はそのようにできています。自分の身に危険が迫っているかどうかは眠っていても分かるものです。目が覚めます。イエスさまは全く気づかなかったのでしょうか。そんなことはないと思うのです。

この一ヶ月ほどの間は、あまり地震がなかったように思います。しかし、その前はけっこう頻繁に地震がありました。大きな地震ならば、眠っていても目が覚めるものです。もちろん気づかなかったときもあったでしょう。それは、よほど疲れていたからかもしれません。しかし、目を覚ますほどの危険はないとわたしたちの体が判断した面もあったでしょう。

なぜ私はこのような話をしているのかといえば、イエスさまという方はいったん眠ってしまわれれば、ご自分の身に迫る生命の危険にも気づかないほど鈍感な方だったのでしょうかということをぜひ考えていただきたいからです。そんなことはないと私は思うのです。

イエスさまはわたしたちと全く同じ肉の体を持っておられる方です。全く別次元の全く異なる肉体をお持ちの方だったわけではありません。そのことをわたしたちはよく考える必要があります。

それで私が先ほど申し上げたのは、弟子たちがイエスさまに言った「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という言葉の中の「わたしたち」の中にイエスさまは含まれていたでしょうかということです。もちろん、含まれていたと考えることもできます。しかし、含まれていなかったと考えることもできます。

もし含まれていなかったとしたら、どういうことになるのでしょうか。このとき弟子たちが眠っておられるイエスさまに起きていただいたのは、イエスさまならばこの危機を必ず乗り越えてくださるであろうという期待や信仰をもっていたわけではなく、八つ当たりをしたかっただけだということになります。彼ら自身が不安になり、恐怖におびえていただけです。その不安、その恐怖をイエスさまにも分かってほしかっただけです。一緒におびえてほしかったのかもしれません。

弟子たちの中には、シモンやアンデレ、ヤコブやヨハネという元漁師だった人もいました。彼らにとっては舟や湖は専門領域です。彼らがいるなら、わざわざイエスさまに起きていただく必要はないでしょう。イエスさまに文句を言う必要はないでしょう。自分たちの手でなんとかすればいいのです。しかし、そうではなかった。自分たちが怯えているのに、そのことを無視して眠っておられるように見えたイエスさまのことが許せなかったのです。

このような弟子たちの心理状態を、いまの心理学者ならばどのように名付けるのでしょうか。私は心理学の知識がほとんどありませんので分かりません。

恐怖心を持っている人が、持っていない人の存在を許せず、自分と同じ恐怖心を持たせようとする。自分だけが恐怖心を持っている状態であることが我慢できず、恐怖心を持っていない人まで巻き添えにしようとする。このときの弟子たちの心の中にあったのは、そのような心理状態だったと思われます。

イエスさまはそれらすべてをお見通しでした。起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかり凪になりました。

そして、弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。イエスさまがお叱りになったのは風と湖であると聖書には書かれていますが、それだけではないように思います。むしろ、イエスさまは弟子たちをこそお叱りになりました。「黙れ。静まれ」。

危機的な状況はあります。その中で不安になることが悪いわけではありません。不安で眠れない夜もあるでしょう。しかし、危機の只中でこそ、わたしたちは落ち着く必要があります。ただおびえ、ただ騒ぐだけでは、何一つ解決しません。

(2014年11月2日、松戸小金原教会主日礼拝)

2014年10月31日金曜日

ファン・リューラー著『キリスト者は何を信じているか』の日本語版とドイツ語版と原著オランダ語版の関係についての疑問点

ファン・「リューラー」著『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信条』という本の日本語版と、日本語版が「底本」にしたドイツ語版の関係については、以下のことを申し上げることができます。

ファン・ルーラーの使徒信条黙想『われ信ず』の初版(1968年)と第三版(1971年)の内容は同一

(1)この写真に写したのは、ファン・ルーラーの使徒信条講解(正確に言えばmeditatie、黙想です)の原著オランダ語版の第一版(1968年)(左)と第三版(1971年)(右)のコピーです。この両方を私は持っています。この第一版(1968年)と第三版(1971年)は内容は全く同じです。何の加筆・修正もありません。

(2)ファン・ルーラーが死去したのは、この使徒信条講解の第一版(1968年)と第三版(1971年)の間の「1970年12月15日」です。それ以降の原著者ファン・ルーラー自身による加筆・修正は不可能です。

(3)ドイツ語版が出版されたのは「1972年」です。出版月までは分かりません。

(4)ドイツ語版の「訳者序文」の脱稿日は「1971年夏」と記されています。そして、その「訳者序文」の中に、以下の記述があります。

「1970年12月、本書の著者は突然の逝去(まだやっと62歳であった)により、予定していたドイツ語版の序文を残念ながら自ら書くことができなくなった」(日本語版より引用)。

(5)しかし、ドイツ語版訳者は、この「訳者序文」の中でオランダ語版との違いの問題については全く触れていませんし、原著者であるファン・ルーラーがドイツ語版にどの程度関わったかについても全く触れていません。

(6)いちばんお人好しの解釈を選ぶとすれば、原著者ファン・ルーラーが1968年の第一版出版から突然死去する1970年までの2年間かけて、ドイツ語版訳者クヴィストルプと綿密な連絡を取り合い、すべての訳文をチェックし、すべて問題ないとゴーサインを出し、クヴィストルプにドイツ語版出版の全権を委任していた、という可能性です。20%にも及ぶ「敷衍・拡張」もすべてファン・ルーラーが責任をもって書いた部分であって、クヴィストルプは1970年12月の原著者の突然の死去以降は、そのドイツ語版テキストに何一つ加えてはいない、という可能性です。

(7)しかし、それならそうと、ドイツ語版訳者は、はっきり書くべきでした。このドイツ語版テキストはすべてファン・ルーラーのチェック済みのものであると、そのように「訳者序文」に明記すべきでした。しかし、そういう言葉は全く出てきません。

(8)いま私が言いたいことは、日本語版の底本にされたドイツ語版は「そういうテキスト」だった、ということです。ファン・ルーラーがドイツ語版に関わった可能性は大いにあると思いますが、ドイツ語版の出版時(1972年)には原著者ファン・ルーラーはすでに死去していたので、原著者自身が決定稿の最終チェックをした可能性は「ゼロ」なのです。

(9)つまり、言い方を換えれば、ドイツ語版における「敷衍・拡張」の部分にファン・ルーラーがどれくらい関わったのか、全く関わらなかったのかを客観的に論証する方法がないということです。その「根拠」を知っているのは、ドイツ語版訳者クヴィストルプただ一人だけです。そういうやり方ならば、ある意味で、ドイツ語版訳者の意のままに「敷衍・拡張」が可能であると、どうして言えないでしょうか。だれも客観的に論証できない、ドイツ語版訳者ただ一人だけが知っている「根拠」は、学問的に信頼しろと言われても無理なものでしょう。

(10)しかし、いまの我々にとっての問題は、ドイツ語版とその訳者のやり方の問題というよりも、そのような学問的に信頼することがきわめて難しいドイツ語版を、なんと無邪気に「底本」にしてしまう日本語版訳者の軽率さです。あまりにも拙速すぎます。学問的に信頼できないものを根拠にして、その上にどんな学問を築き上げていくことができるのでしょうか。

私の言いたいことは、だいたい以上のことです。

2014年10月29日水曜日

ファン・ルーラー研究会の『前史』としての『組織神学セミナー』の思い出

「組織神学セミナー」でゼミ生が配布しあったレジュメ

一昨日解散した「ファン・ルーラー研究会」(1999年~2014年)の15年半を回顧する際に欠かせないのは、1997年4月から神戸改革派神学校で始まった「組織神学セミナー」です。

牧田吉和校長のもとでジョン・ボルト訳のファン・ルーラーの英語版論文集を読みました。セミナー開始時の参加者は牧田校長以外に以下の7名でした(五十音順、敬称略)。朝岡勝、石原知弘、坂井純人、関口康、宮平光庸、望月信、弓矢健児。

そして、1998年6月に神学校を卒業し、翌月から山梨県の教会の牧師になった私が「神戸と山梨を結ぶ方法」を考える中で思いついたのがインターネットを利用することでした。

これが1999年2月にファン・ルーラー研究会を結成した唯一の理由です。神戸改革派神学校の「組織神学セミナー」は、ファン・ルーラー研究会の「前史」です。

「組織神学セミナー」でゼミ生が配布しあったレジュメ(写真)を私はすべて保存しています。ゼミ生は英語版から日本語に訳し、牧田校長が原著オランダ語版を見ながら訂正と解説を加えてくださいました。

「青春の思い出」というような甘いものではありませんが、私が過去の人生で最も集中して勉強した時間だったことは間違いありません。

国際ファン・ルーラー学会(2008年)の思い出


演台に立っているのは、ファン・ルーラーのオランダ語テキストを自分で読み始めてちょうど10年になる「2008年」の私です。

2008年12月10日、ファン・ルーラー生誕100年記念の「国際ファン・ルーラー学会」(アムステルダム自由大学)でスピーチしている私です。

私は牧師の仕事をしながらの「中途半端な引きこもり」でしたので、この日私に許された時間は5分でしたが(私が「5分ください」と事前に頼み込みました)、私は満足でした。

パネリストは、右から(肩書きはすべて当時):

ヘリット・イミンク教授(プロテスタント神学大学学長)
ヘイスベルト・ファン・デン・ブリンク教授(ライデン大学)
ロコ・ファン・デン・ブロム教授(プロテスタント神学大学)
ディルク・ファン・ケウレン博士(プロテスタント神学大学)

手前に後頭部が写っている二人の教授がおられますが、左の白髪の方はヨハネス・コクツェーユス研究の世界的権威者ウィレム・ファン・アッセルト教授です。

そしてファン・アッセルト教授の右の教授の右隣にユルゲン・モルトマン教授(メイン講師)が座っておられました。総勢200人の人が集まっていました。

「ファン・ルーラー研究会」での学びがなければ、こういうチャンスが与えられることも決してありませんでした。

研究会でお世話になった皆様、本当にありがとうございました。

2014年10月28日火曜日

アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(1908-1970)


アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler)

略歴

1908年12月10日  オランダ・アペルドールンに生まれる
1933年11月     フローニンゲン大学神学部卒業
1933年11月     オランダ改革派クバート教会牧師
1940年 2 月     オランダ改革派ヒルファーサム教会牧師
1947年 1 月     ユトレヒト大学神学部教授
1970年12月15日  死去

著書

『カイパーのキリスト教的文化の理念』 Kuypers idee eener christelijke cultuur (1939年)
『宗教と政治』 Religie en politiek (1945年)
『政治は聖なる事柄である』 Politiek is een heilige zaak (1946年)
『よみがえれ喜びに』 Sta op tot de vreugde (1947年)
『ヴィジョンと展望』 Visie en Vaart (1947年)
『国家と啓示』 Staat en openbaring プロテスタント同盟のための講演(1947年)
『律法の成就』 De vervulling van de wet フローニンゲン大学神学博士号請求論文(1947年)
『夢と形』 Droom en gestalte (1947年)
『神の国と歴史』 Het Koninkrijk Gods en de geschiedenis ユトレヒト大学教授就任講演(1947年、英語版あり)
『新しい教会規程における告白教会』 De belijdende kerk in de nieuwe kerkorde (1948年)
『教会の宣教(アポストラート)と教会規程草案』 Het apostolaat der kerk en het ontwerp-kerkorde (1948年)
『被われた存在』 Verhuld bestaan (1949年)
『現代における執事職の基礎と視座』 Fundamenten en perspectiefen van het Diaconaat in onze tijd (1952年)
『特別職と一般職』 Bijzonder en algemeen ambt (1952年)
『百年後の司教杖』 Na 100 jaar Kromstaf (1953年)
『宣教(アポストラート)の神学』 Theologie van het Apostolaat (1953年、ドイツ語版・英語版・日本語版あり)
『われらの父よ』 Het Onze Vader (1953年)
『世にかかわる勇気を持て』 Heb moed voor de wereld (1953年、英語版あり)
『中高等教育のキリスト教化』 Kerstening van het Voorbereidend Hoger en Middelbaar Onderwijs (1954年)
『信仰告白はどのような役割を果たすか』 Hoe functioneert de belijdenis? (1954年)
『キリスト教会と旧約聖書』 Die Christliche Kirche und das Alte Testament (1955年、英語版・日本語版あり)
『政府とヒューマニズム』 Overheid en humanisme (1955年)
『司牧書簡の背景』 Achtergronden van het Herderlijk Schrijven (1955年)
『安心して楽しみなさい』 Vertrouw en geniet! (1955年、英語版あり)
『世界においてキリストが形を取ること』 Gestaltwerdung Christi in der Welt (1956年、英語版・日本語版あり)
『最も大いなるものは愛』 De meeste van deze is de liefde (1957年、英語版あり)
『プロテスタンティズムと動物保護』 Het protestantisme en de dierenbescherming (1957年)
『国民教会について語ることにまだ何か意味があるか』 Heeft het nog zin van "volkskerk" te spreken? (1958年)
『教会の政治的責任』 De politieke verantwoordelijkheid der kerk (1963年)
『ローマ・カトリック教会との出会いにおけるプロテスタンティズムの立場』 Reformatorische opmerkingen in de ontmoeting met Rome (1965年)
『人生の愚かさ』 Dwaasheden in het leven 上巻(1966年) 
『人生の愚かさ』 Dwaasheden in het leven 下巻(1966年)
『神学における人間性』 Menselijkheid in de theologie (1967年)
『われ信ず』 Ik geloof (1968年、ドイツ語版・日本語版あり)
『ファン・ルーラー神学論文集』全六巻 A. A. van Ruler Theologisch Werk I-VI (1969年~1973年)
『ファン・ルーラーとの対話』 In gesprek met van Ruler (1969年)
『聖書との交わりの形成』 Vormen van omgang met de bijbel (1970年)
『なぜわたしは教会に通うのか』 Waarom zou ik naar de kerk gaan? (1970年)
『使徒の権威において』 Op gezag van een apostel (1971年)
『喜びをもって信じる』 Geloven met blijschap (1971年)
『マルコ14章』 Marcus 14 (1971年)
『マルコ14章(続)・15章・16章』 Marcus 14 (vervolg), 15, 16 (1972年)
『祝祭としての人生』 Het leven een feest (1972年)
『死は打ち負かされた』 De dood wordt overwonnen (1972年)
『幼子のように喜ぶ』 Blij zijn als kinderen (1972年)
『切り口鋭く』Op het scherp van de snede (1972年)
『詩編を物語る』 Over de psalmen gesproken (1973年)
『全地よ喜びの叫びをあげよ』 Laat heel de aard' een loflied wezen (1973年)
『輪舞』 Reidans (1974年)
『マルコの歌』 Dichter bij Marcus (1974年)
『待望と成就』 Verwachting en voltooiing (1978年)
『炎のような舌』 Tongen als van vuur (1980年)
『日々の黙想』 Gedachten voor elke dag (1989年)
『ファン・ルーラー著作集』全八巻(予定) A. A. van Ruler Verzameld Werk (2007年~現在刊行中)
『創造から神の国まで』 Van schepping tot Koninkrijk (2008年)

組織神学関係の国内定期刊行物

『茨城キリスト教大学紀要』茨城キリスト教大学
『ウェスレー・メソジスト研究』日本ウェスレー・メソジスト学会
『大阪キリスト教短期大学紀要』大阪キリスト教短期大学
『改革派神学』神戸改革派神学校
『カトリック研究』上智大学
『カルヴィニズム』日本カルヴィニスト協会
『季刊教会』日本基督教団改革長老教会協議会
『キリスト教学研究室紀要』京都大学キリスト教学研究室
『教会の神学』日本キリスト教会神学校
『キリスト教学』立教大学キリスト教学会
『基督教学』北海道基督教学会
『基督教学研究』京都大学基督教学会
『基督教研究』同志社大学神学部
『キリスト教と世界』東京基督教大学
『キリスト教と文化』青山学院大学宗教センター
『キリスト教と文化研究』関西学院大学キリスト教と文化研究センター
『神学』東京神学大学神学会
『神学研究』関西学院大学神学部
『神学ダイジェスト』上智大学神学会
『神学と牧会』神学と牧会の研究所
『聖学院大学総合研究所紀要』聖学院大学総合研究所
『聖書と神学』日本聖書神学校キリスト教研究所
『セオロギア』東京神学大学学生会
『テオロギア・ディアコニア』ルーテル学院大学
『東京神学大学総合研究所紀要』東京神学大学総合研究所
『東北学院大学キリスト教文化研究所紀要』東北学院大学キリスト教文化研究所
『途上』思想とキリスト教研究会
『南山神学』南山大学人文学部キリスト教学科
『日本カトリック神学会誌』日本カトリック神学会
『日本版インタープリテイション』聖公会出版
『日本の神学』日本基督教学会
『福音主義神学』日本福音主義神学会
『福音と社会』農村伝道神学校
『福音と世界』新教出版社
『ボンヘッファー研究』日本ボンヘッファー研究会
『ヨーロッパ文化史研究』東北学院大学ヨーロッパ文化総合研究所

ファン・ルーラー研究会は解散しました

「ファン・ルーラー研究会」(代表 関口康)は、昨日(2014年10月27日)の「最終セミナー」(於日本基督教団頌栄教会、世田谷区下北沢)をもって解散しました。これまで応援いただいた皆様に心から感謝申し上げます。ありがとうございました!

回顧と展望 ファン・ルーラー研究会最終セミナーに際して(2014年)

現在刊行中の『ファン・ルーラー著作集』(左)と1970年代に出版された『神学論文集』(右)

PDF版はここをクリックしてください



「ファン・ルーラー研究会」の15年半の歩みを締めくくるに際し、今までお世話になった皆様に、心からの感謝を申し上げます。

私がファン・ルーラーの重要性を認識した瞬間は、高崎毅志牧師と1993年頃に交わした会話です。

高崎「きみは改革派神学に興味があるらしいな。何を読んでいるんだよ」

関口「私は日本語に訳されたものしか読めません。ウォーフィールドとかメイチェンとかカイパーとかバビンク(バーフィンク)とかですね。あとは岡田稔先生の本くらいです」

高崎「なんだ、ずいぶん古いな。今の現実に全く対応できていないものばかりだ」

関口「それでは何を読めばよろしいのでしょうか」

高崎「きみ、ファン・ルーラーだよ」

関口「ええっ!興味ありますけど、オランダ語ですよね。読めないですよ」

高崎「何言ってんだ、ばか野郎。あのな、組織神学やる人間は自分の読みたい本の語学をやるもんなんだよ。神戸(改革派神学校)の牧田くんは、ファン・ルーラーをちゃんとオランダ語で読んでるぜ。甘えるんじゃないよ」

関口「は、はい、すみません。分かりました。オランダ語、これから勉強します」

ファン・ルーラーへの関心はありました。東京神学大学の学士論文と修士論文の指導教授であった近藤勝彦教授が『神学』に書いた論文が、『歴史の神学の行方―ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー―』(教文館、1993年)にまとめられていました。しかし、近藤教授は複数の論文や個人的な会話の中で「私はオランダ語ができない。ジョン・ボルト訳のファン・ルーラーの英語版論文集しか読んでいない」と明言していました。私もオランダ語には全く接点がありませんでした。

しかし、高崎牧師との会話以来、ファン・ルーラー研究への足がかりを求めるようになりました。1997年1月に神戸改革派神学校の家族寮に入寮し、牧田吉和校長と市川康則教授の「改革派教義学」を聴講するようになったことも、高崎牧師との会話と無関係ではありません。

前史

ここから場面は神戸改革派神学校の校長室に移ります。時に1997年1月。同年4月より同神学校の二年次に編入することが決まった私が書くべき卒業論文のテーマを牧田吉和校長と相談する中で私が「ファン・ルーラーの研究をしたいです」と言いました。牧田校長の答えは「オランダ語だよ?」という一言でした。すぐに凹みました。英語版があるバーフィンク『神論』を研究することにしました。

同年3月、異変が起こりました。宮平光庸氏(西南学院大学神学部の宮平望教授の父)がジョン・ボルト訳のファン・ルーラーの論文集のコピーを抱えて神戸改革派神学校の校長室を訪ね、「この本に感動しました。ぜひ神学校でゼミを開いてください」と牧田校長に申し入れました。そのとき、私も校長室に呼ばれ、相談の結果、一緒にその本を読むことになりました。

同年4月、牧田吉和校長の指導による神学校正規の「組織神学セミナー」が開かれました。最初のメンバーは関口康、宮平光庸氏、望月信、朝岡勝、石原知弘、弓矢健児の各神学生、そして神学校で教理史を担当していた日本改革長老教会の坂井純人牧師でした。

研究方法は、学生が英語版論文集に基づいて訳文を作って配布して全員で読み、牧田校長が原著を見ながらチェックし、訂正と解説を加えていくものでした。私が神学校を卒業するまでの1年3カ月間に読んだのは、英語版論文集の最初の二つ、「三位一体論的神学の必要性」と「キリスト論的視点と聖霊論的視点との構造的差異」でした。

私は1998年5月に「A. A. ファン・ルーラーの三位一体論的神学と参加的思惟」という卒業論文を提出し、同年6月、後ろ髪引かれる思いで神戸改革派神学校を卒業しました。同年7月、山梨県甲府市の日本キリスト改革派教会の牧師になりました。

「組織神学セミナー」でゼミ生が配布しあったレジュメ

結成

私の卒業後も神学校で「組織神学セミナー」が継続されました。英語版論文集の第三論文「聖霊論の主要線」が読まれていました。しかし、私は参加できません。無念でした。悔し紛れに思いついたのがインターネットを利用することでした。

山梨の教会の初任給で、当時発売されたばかりの「ウィンドウズ98」搭載パソコンを購入しました。パソコン購入直後、東京神学大学の同級生の清弘剛生牧師にメールを送りました。インターネットの「メール」をだれかに送るのは初めてでした。

清弘牧師は最先端を走っていました。毎週の礼拝説教を配信する「ウェブチャペルウィークリー」というメールマガジンを、その数年前から発行していました。そのことを私は知っていました。清弘先生ならインターネットを神学研究に利用する方法をご存じに違いないという期待をもった久しぶりの連絡でもありました。

さすが清弘先生でした。すぐに「メーリングリストという方法があるよ」と教えてくださいました。清弘先生は東京神学大学大学院では左近淑教授のもとで旧約聖書神学の修士論文を書いた方ですが、「ファン・ルーラーを読みませんか」と持ちかけたところ、快く応じてくださいました。清弘先生は早稲田大学大学院修了後に就職した会社でオランダのハーグで研修があったことや、組織神学を勉強したいと思っていたところだったと返信してくださいました。そして「ウェブチャペルウィークリー」で得てきたノウハウを伝授してくださいました。

メーリングリストを立ち上げることにしました。最初のメンバーは、清弘先生と私の2人でした。その後、やはり東京神学大学で同級生であった土肥聡牧師と生原美典牧師を誘い、この4人で始めたメーリングリストに1999年2月20日、「ファン・ルーラー研究会」と命名しました。

その日から始めたことは勧誘でした。神戸改革派神学校で継続されていた「組織神学セミナー」のメンバーに加わっていただくことを優先しました。当時の本音をいえば、神戸から遠い山梨県にいる私としては神戸改革派神学校の「組織神学セミナー」の進捗状況を知らせてほしかったのです。訳文ができたところから送ってもらいたかったのですが、その願いはかないませんでした。

結成してまもなくの頃のメーリングリストのやりとりの内容は、清弘先生と私が交互に訳文と原文と解説を書いたメールをリストに流し、互いにチェックしあうというきわめてシンプルなものでした。その方法で全訳した論文は「地上の生の評価」、「モーセの律法の意義」、「説教の定義」の三つです。その他、長期連載になったものとしては、ゼカリヤ書説教集の清弘先生訳、ポール・フリーズ博士の学位論文の村上恵理也先生訳などが、研究会としての初期のものです。

私も清弘先生もオランダ語を全く知らないまま立ち上げたメーリングリストでしたので、「蘭学事始」さながらでした。同時進行でオランダ語、オランダ教会史、オランダ政治史などの資料を見つけては紹介しました。やりとりしたメール数は、全期間で約2600通でした。

発展

1999年2月20日の結成後、「ウィンドウズ98」以来のインターネットの爆発的普及との連動に成功しました。メンバー(メーリングリスト登録者)は、結成3周年(2002年2月)には70名、5周年(2004年2月)には90名超、6周年(2005年2月)には100名超になりました。最後は108名を数えました。メンバーの所在地として確認できたのは北海道、青森県、宮城県、栃木県、群馬県、千葉県、埼玉県、東京都、神奈川県、静岡県、山梨県、長野県、石川県、岐阜県、愛知県、奈良県、大阪府、兵庫県、岡山県、香川県、高知県、台湾、オランダ、イギリス、アメリカ、カナダです。

爆発的なメンバー増加に対応するために、研究会を運営する組織の必要性を痛感し、2000年10月に「世話人会」を立ち上げました。最初の世話人は5名。代表・関口康、書記・清弘剛生、顧問・牧田吉和、朝岡勝、石原知弘の各氏でした。その後、会計・弓矢健児、栗田英昭、田上雅徳、阿久戸光晴、横川寛の各氏が世話人に加わってくださいました。

海外のファン・ルーラー研究者との連絡関係もインターネットで作られました。やりとりがあったのはオランダのヘリット・イミンク教授、ファン・ルーラーの三女ベテッケ・ファン・ルーラー教授、J. M. ファント・クルイス博士、H. オーステンブリンク・エヴァース博士。アメリカのポール・ロイ・フリーズ教授、アラン・ジャンセン博士。ナミビアのクリスト・ロムバルド教授。そして南アフリカのガース・ホドネット博士です。

研究会の最盛期には、以下のセミナーを開きました。

2001年 9 月 3 日(月)        第 1 回セミナー(日本キリスト改革派園田教会)
2002年 9 月 2 日(月)・ 3 日(火) 第 2 回セミナー(熱海網代オーナーズビラ)
2003年 9 月 1 日(月)        第 3 回セミナー(日本キリスト改革派東京恩寵教会)
2004年 8 月23日(月)・24日(火)  第 4 回セミナー(母の家ベテル)
2007年 9 月10日(月)・11日(火)  第 5 回セミナー(日本基督教団頌栄教会)
2014年10月27日(月)         最終セミナー  (日本基督教団頌栄教会)

インターネットによって他の学会との関係も生まれました。世話人の田上雅徳氏の紹介でアジア・カルヴァン学会の野村信氏や久米あつみ氏がメーリングリストに参加してくださり、私と弓矢健児氏が同学会の運営委員会に加わることになりました。

ファン・ルーラー生誕100年を記念して2008年12月10日にアムステルダム自由大学で開催された「国際ファン・ルーラー学会」の準備委員会から私の名前と住所宛に招待状が届きました。私は日本から、またすでにオランダ留学を開始していた石原知弘氏と青木義紀氏が出席しました。国際学会のメイン講師はユルゲン・モルトマン教授でした。参加者の主な国籍はオランダ、ドイツ、アメリカ、南アフリカ、そして日本。私はモルトマンを含む200名の神学者の前で英語のスピーチをしました。

国際ファン・ルーラー学会(2008年12月10日、アムステルダム)でスピーチ


限界

しかし、「ファン・ルーラー研究会」は、メーリングリストでした。メンバーが増加するにつれて、次第にインターネット特有のトラブルが増加し、活動の限界を痛感するようになりました。

トラブルの発端は、ほとんどの場合、私の投稿でした。私との面識がない方が増えてくるにつれ、メンバーが所属する教派・教団の立場の違いなども関係して、顔の表情が見えず感情の伝わりにくいメールの活字のやりとりの中で、私のほうに悪意は全くありませんでしたが、激突が起こりました。そのたびに退会する方がおられ、私のトラウマになりました。

また、ほとんど自覚がないのですが、インターネットの特性上、情報発信者(多くの場合が私)が把握しえない範囲まで情報が拡散していく中で、私のことを「ネットおたく」だ「引きこもり」だとラベルを貼っては「牧師としての本業がおろそかになっている」などと中傷している人々がいることを知らされるたびに、落胆しました。

やがて世話人たちの本業が移動時期を迎えました。研究会結成5周年の2004年4月に、私は山梨県の教会から千葉県の教会へと移動しました。その後も、清弘牧師は大阪から東京へ、牧田教授は神学校長を退任され高知へ、石原牧師は神戸からオランダへ、田上雅徳長老はオランダへ移動しました。中心的なメンバーが多忙になり、結成11周年の2010年頃にはメーリングリストのやりとりが完全に途絶えました。

それでも私は、研究会の不振の原因は「メーリングリストの機能上の欠陥」にあるととらえ、別の方法を考えようとしました。インターネットのやりとりはすべてやめて、メンバーから会費を集めて年一回の例会を行うか。あるいは、インターネットにとどまるとしても、メーリングリストではなく、ソーシャルネットワークサービス(ミクシイやフェイスブックなど)で行うか。いろいろ考えました。しかし、どの方法もうまく行かないことを察知し、断念しました。

そして今日の「最終セミナー」をもって研究会を解散することにしました。メーリングリストから出発した「インターネットグループ」としての歩みは、今日で終わります。

展望

しかし私の心の中に後ろ向きの思いはありません。ファン・ルーラー研究会は今日で解散しますが、各個人に力がついてきたことの証しです。これからは各自の責任でファン・ルーラーの翻訳と研究を続行します。初めから言っている我々の最終目標は日本語版『ファン・ルーラー著作集』の刊行です。我々は後退するのではなく、前進します。そのことを神の前で誓おうではありませんか。

これから我々は何をすべきか、また「何をしてはいけないか」については研究会の15年半の歩みの中に多くのヒントがあります。上記の回顧はヒントを見つけるために書きました。

15年半前はほとんどなかった「日本語で読めるファン・ルーラー研究文献」が増えました。2007年にオランダで新訂版『ファン・ルーラー著作集』(Verzameld Werk)の刊行が始まったことでファン・ルーラー研究熱が再燃しています。石原知弘先生がアペルドールン神学大学での5年間の留学を終了し、2013年に帰国しました。

「日本におけるファン・ルーラー研究」は、これからが本番です。

(2014年10月27日、ファン・ルーラー研究会最終セミナー、日本基督教団頌栄教会)