2013年11月17日日曜日

神に計画があり、万事が益となります

ローマの信徒への手紙8・28~30

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

今日もローマの信徒への手紙を開いていただきました。今日の個所に記されているのは多くの人の心を慰めてきた有名な御言葉です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(28節)と記されています。

「神を愛する者たち」と言われているのが、被造物がその出現を待ち望んでいるとパウロが書いていた「神の子たち」(19節)のことです。それはわたしたちです。イエス・キリストと結ばれるために洗礼を受けた者たちです。それは教会です。

しかもそれは、教会という団体を指していると同時に、この団体の中にいる一人一人のキリスト者を指しています。その場合の個人と団体との関係は、「鶏が先か、卵が先か」という問題ほどには難しくありません。教会の場合は個人が先です。個人としての一人一人のキリスト者が集まって教会をつくるのです。その逆はありません。そこに一人もキリスト者はいないけれども、教会が存在するということはありません。

しかし、パウロは「神を愛する者たち」とは「御計画に従って召された者たち」であると、ただちに言い換えています。「御計画」とは神の御計画です。わたしたちの神は心をもっておられる存在です。その神が、御自身の心の中に、この地上に教会をつくる計画をもっておられるのです。その意味は、神がこの世界に教会が必要であると信じておられるということです。そして、その神が御自身の必要と御計画に基づいて、神を愛する者たちを神のみもとに召し集められるのです。

この「召された」という点は重要です。わたしたちは自分で教会を探して、ここに来たと思っています。電話帳を調べたかもしれませんし、最近ではインターネットで調べたという方も多いでしょう。チラシを見てくださった方もおられるかもしれませんし、聖書を本屋で買って読んだ、キリスト教の本を読んだ、キリスト教のラジオ番組を聞いたという方もおられるかもしれません。あるいは、教会の人から誘われた。親に連れて来られ、自分も信じるようになった。そのように、わたしたちが教会に通いはじめるまでには、いろいろなきっかけがあったと思います。

しかし、それがどのようなきっかけだったにせよ、わたしたちは、とにかく自分でここに来たのだと、最初は誰でもそう思います。遠くの町から引っ越してきたとき、いくつかの教会をまわってみて、自分にいちばん合いそうな教会はここだと思って通うことにした。そのように最初は誰でも思います。そのように考えること自体が間違っているわけではありません。当然のことです。

しかし、そのわたしたちが教会に通いはじめて、しばらくすると、分かって来ることがあります。それは、わたしは自分で教会に来たと思っていたけれども、実はそうではなかったということです。神がわたしを教会へと召されたのだということが分かってきます。神御自身があらゆる手段を用いて、わたしたちを教会へと導いてくださったのだ、ということが分かってきます。

それはよく考えてみれば、ものすごく分かりにくい、めちゃくちゃに現実離れした考え方ではないということをお分かりいただけるはずです。先ほど電話帳だ、インターネットだ、チラシだ、本だ、ラジオだと言いました。あるいは教会の人から直接誘われた。それらはすべて教会自身ができるだけ多くの人たちに教会の存在を知っていただきたいという強い願いをもって行っていることです。ここに教会が存在していること自体も、教会の建物も、ずっと前からここにあったわけではなく、教会のみんなで力を合わせ、献金を集めて作っているものです。

そういうことは、教会に初めて来たばかりの頃のわたしたちには分からなかったことです。最初はみんなお客さんでした。お客さんであることが悪いわけではありませんが、だんだん教会の内部事情が分かってくるときが来ます。

神を信じることも、教会に通うことも、自分で始めた、自分で決めたと、最初はみんなそう思うのです。しかし、実際はそうではなく、わたしたちは招かれ、召され、集められたのです。すべての人、すべての生き物が自分で自分を生み出すことはできず、必ずその親から生まれるように、わたしたちの信仰も、教会生活も、自分で生み出したものではなく、神が生みだしてくださったものなのです。

もちろん、いま申し上げていること自体が信仰です。わたしたちは神を信じる信仰へと導かれないかぎり、そのような考え方をもつことができません。信仰がなければ、わたしたちはあいかわらず、自分でここに来た、自分で教会を選んだと思うでしょう。しかしその思いは、信仰を与えられたときに初めて、実はそうではなかった、神が私をここへと召し集めてくださったのだという思いへと置き換えられるのです。

いま、少し長く説明させていただいたのは「召された」という言葉の意味です。パウロが言いたいことは、教会は神がつくってくださったものであり、わたしたちは神によって教会に集められたのだ、ということです。それは神がこの世界に教会が必要であるとお考えになったからです。

それでは、なぜ神はこの世界に教会が必要であるとお考えになったのでしょうか。その答えはこうです。神は、御自身の手によって創造されたこの世界と人間から、御自身が愛される存在でありたいと願われたのです。神は「神を愛する者たち」をこの世界に生み出すことを願われたのです。

人間の親子の関係を考えてみれば、いま申し上げていることは、ある程度はご理解いただけるはずです。親が自分の子どもたちに願うことは、それはやはり自分のことを愛してもらいたいということだと思います。自分の子どもに嫌われたい、憎まれたいと願う親は、通常はいません。全くいないとは言い切れませんが、多くはないと思います。ほとんどの親は子どもから愛されたいと願うでしょう。

もちろん、そのように、親が子どもから愛されるために親がしなければならないことは、子どもを愛することです。自分が愛した分だけ、相手から愛してもらえるでしょう。親は子どもを愛さないが、子どもからは愛されたいというのは虫が良すぎます。親と子どもの関係は、ギブアンドテイクです。親から子どもへの愛は一方通行の場合もあると思います。しかし、親から愛されなかった子どもが、それでも親を愛するということは通常ないと考えるべきです。

神は世界と人間を心から愛してくださっています。わたしたち一人一人を愛してくださっています。しかし、親から子どもへの愛は一方通行である場合もあると、たったいま申し上げました。そのようなことが神とわたしたち人間との間にもありえます。そのようなことが現実にあります。

わたしたちの命は神が創造されたものです。わたしたちの存在と人生を創造されたのは、神です。そして、わたしたちは生きている間、あらゆる種類の恵みと祝福、楽しみと遊びを神から与えられています。

しかし、そのようなことは全く考えたこともないという人は、残念ながら少なくないのだと思います。わたしたちは神から愛されているとか、神の恵みをいただいているとか言われても、その意味がよく分からないと感じる人は、おそらく多いのだと思います。神からどれだけ愛されていても、その愛に気づくことがなく、ありがたいとも思わないので、「神を愛する」ということの意味が分からないのです。

教会とか牧師とか、そういう人たちが、聖書の言葉に基づいてそのようなことを言っていることについては、それを全く知らないわけではないし、少しくらいは耳を傾けることもやぶさかではない。しかし、だからといって、それを信じなさいとか受け容れなさいとか言われても困る、と感じる人は、多いのだと思います。

なぜ困るのでしょうか。その理由は分かります。なるほどたしかにわたしたちには恵みというようなものも与えられているのかもしれない。しかし不幸もたくさんあるではないか。わたしたちの人生は苦労だらけ、不幸だらけではないかと考えてしまうからだと思うのです。神が世界を愛し、人間を愛しておられるというなら、なぜこの世界と人間には苦労があり、不幸があるのか。それを説明してくれなければ納得できないし、信じなさいと言われても不可能だ。そのようにはっきりおっしゃる方もおられます。

その言い分を、私自身は全く分からないと感じるわけではありません。ある意味で、よく分かる話です。しかし、ここから先は少しだけ、私の考えを言わせてください。私はいま、牧師という立場で教会に関わらせていただいています。その私が知っていることは、いま教会に集まっておられるみなさんがどういうきっかけで教会に通うようになられたのか、ということです。

私はみなさん全員のことを何もかも知っているわけではありません。また、私が知っていることをべらべらしゃべることはできません。しかし、はっきり言えることは、ほとんどの人は、「私は幸せな人生を送ることができています。だから神を信じます」という理由で教会に通い始め、信仰をもって生きるようになったのではない、ということです。「私は幸せだから、神を信じます。不幸だから神を信じることができません」とおっしゃる方は、ほとんどいません。私自身はそのような方と出会ったことがありません。

現実はむしろ正反対です。多くの人は、不幸のどん底にいたときに救いを求め、助けを求めて教会に来られたのです。大切な家族を失った。自分が病気になった。人生に空しさを感じた。世間に絶望した。何が真実で、何が嘘っぱちかが分からなくなった。そのようなときに、聖書を読みたい、神の御言葉を知りたいと願って、教会に来られたのです。

そうでもないという方がおられるかもしれません。それはそれで問題ありません。人生に不幸など無いに越したことはありません。しかし、不幸を体験したことがないという人は、どこにもいないのです。病気になったことがないという人はいません。苦しんだことも泣いたこともないという人など一人もいません。わたしたちが人間であり、傷つきやすい肉体をもつ存在であるかぎり、ほとんど毎日のように疲れを感じ、不満を抱え、助けを求めて生きているのです。

それこそが今日の個所でパウロが言っている「万事」の具体的な内容です。わたしたちが人生の中で体験するあらゆることが「万事」です。世界に起こるすべての不幸、すべての絶望を含むあらゆる出来事が「万事」です。

その「万事」が「益となるように共に働く」のだとパウロは書いています。わたしたちの人生に襲いかかる不幸が、かえってわたしたちを、神を信じ、神に依り頼む信仰に導き、教会へと招き入れるのです。そのような方法で神はわたしたちを「神を愛する者」へとつくりかえてくださいます。神がこの私を心から愛してくださっていることが分かるようにしてくださるのです。

(2013年11月17日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年11月16日土曜日

「○○フォーティーエイトになりました!」とは決して言いたくないです

今日は独りでひっそり自分の誕生日を祝いました。

一昨年も昨年もfacebookの皆さまから怒涛のバースデーメッセージをいただいて、うれしかったです。

誕生日を非公開に設定してみたら、一日中し~んとしているので、それはそれで寂しい誕生日でした(ウソです、ぜんぜん寂しくありません)。

48歳になりました。

昨年の誕生日の時点で、「来年関口は『ぼくは○○フォーティーエイトになりました!』とか騒ぐに違いない」と予測されていましたので、それだけはするまいと、かたく心に誓いつつ、去る一年を過ごしてまいりました。

人生はややしんどいですが、とりあえず前に進んで行くしかありません。

ぼくは今の10代、20代くらいの人たちを応援したいです。

30代以上の人たちは、どうぞご自由に、自分の力で生きて行ってください。よろしくお願いいたします。

それではまた。

もうすぐ日付が変わりますので、これにて終了します。

2013年11月14日木曜日

余裕のやっちゃんです

全く個人的なつぶやきなのですが。

ぼくの属する「東関東中会」は、

これまでは毎年の第二回定期会を11月23日(祝)に固定してきましたが、

今年はいろいろ考えて11月4日(月)に行い、もう終わってしまいました。

それで何が起こったか。

今とっても精神的に余裕がある状態なんです。ぽけーっとしています。

中会会議というのは「決めごと」をする場ですので、

会議までは心理的に混乱状態ですが、

会議が終われば決議内容を実行に移すだけです。すっきりさわやかです。

というわけで、今年に限っては、クリスマスまでポカン顔の関口です。

教会の牧師室や牧師館の、掃除とか片づけとか、しています。

まるで、いつでも引っ越しできるような、さわやかさです。

余裕のよっちゃん、というやつです。ぼくはやっちゃんですけどね。

「教会を動かす」の含意は「教会をよくする」です

前稿の続き。

「教会を動かす」の含意は、もちろん「教会をよくする」です。

歴史が証明するとおり、巨悪がはびこるのは社会だけでなく教会も然りです。

ぼくは悪人かもしれませんが(だとしたら、すいません)、ぼくは巨大ではないので「巨悪」ではありえません。ぼくが片付けば済むならいつでも退場しますけど、何の変化もありません。

ぼくのことはともかく、社会だけでなく教会にも巣食う巨悪の根源を正当な手続きで排斥し、かつ教会をよくすることが「動かす」です。

でも、教会は簡単に動かせません。

教会を利用してビジネスをしようと思いついた人は、たいていあきらめて出て行きます。営利目的で教会を乗っ取るのは容易ではないというか、全く不可能だからです。

教会はカネにはなりません。特定政党や特定企業に利用されることも断固拒否します。

それは教会の保守性(「この世で最も保守的な存在としての教会」トレルチ)の良い面だと、ぼくは思います。

しかし、悪い面もあります。

健全な批判精神を持っている人たちが、多くの場合、教会の周辺においやられてしまいます。

何も変えたくない、変わらないでほしいと願っている人たちが、ど真ん中に居座る。

ど真ん中に居座って、それで何かを懸命にしてくれるならいいけど、何もしない。

偏執的にミクロ的な一真理に固執し、不毛な同語反復を続け、さまざまな可能性に目を向けず、自派の存続を揺るがす人たちを組織票で抹殺する、といったやり方を好む。

これも「教会」ですよね。だけど、動かさなくてならないと思う。

世界で最も保守的なものを変革できれば世界は変革しうるんじゃないかな

昨日は「教会(キルへ)はインドのカースト制度を除けば多分この世の中で最も保守的なものである」というエルンスト・トレルチの言葉(1921年)に改めて接し(久しぶりに読みました)、

ちょっとファイトの念が燃えはじめたぼくだったりします。

なんていうか、

それって逆に考えれば、

トレルチをして「この世で最も保守的」と呼ばしめた「教会」を変えることができるほどの説得力ある言葉と生き方が見つかれば、そのとき世界は変わるってことですよね。

「教会」という、この押しても引いても梃子でも動かない、がっかりするほど鈍重なものを動かすことができる力があれば、世界は動くってことですよね。

そして、その言葉、その生き方、その力は、「教会」の中にいる者たちにしか手に入れることはできませんよね。教会に関わったことない人たちに、教会を動かす力はない。

「世界が変わらない、動かない」と嘆く気持ちは、ぼくも同じ。

だけど、それを言うなら、ぼくらはまず「教会」を変え、動かしてみせなくちゃね。

それができたら、世界も動いてますよね。

こういう考え方、間違ってますかね。

2013年11月13日水曜日

国や社会の形成にとって教会は必要不可欠だと思う

以下、今日読んでいる本から引用します。

日本語版原文では改行なしでつながっていますが、読みにくいので、適当に改行を加えました。

「さてしかしながら、われわれの関連にとって決定的に重要なのは、教会型に基づく社会哲学は、分派型に基づく社会哲学と全く別のものであるという事態である。

結局、完成された理論としての社会哲学をもっているのは教会だけである。というのは、教会のみが学問に対する関心と、この世を支配するのに役立つその学問の力に対する関心をもっているからである。

教会の学問性つまり教会哲学と神学は、それ自体が教会の相対的世界性の一部であり、この世界性と一緒になって一層広範に発展したのである。

しかしことに内容的な面で矛盾しているところが見られる。教会はこの世との妥協を企て、しかも自らの罪の赦しの理念や恩寵の理念を用いてこの妥協をかなりうまく実現することができた。教会はこうして、相対的自然法の諸々のこの世的な秩序を冷静に認めることができた。

また教会はそれらのおかげで、持続するこの世の中で継続的な労働を営む準備をすることができた。

教会は、その全体的な施設の理念、恩寵の理念、権威の理念それ自体において保守的である。それは、インドのカースト制度を除けば、多分この世の中で最も保守的なものである。

教会は、国家と社会における諸々の世俗的な秩序との関連においても保守的である。教会は一般に国家の権威と世襲的な社会組織の安定性に対して、それらによって束縛されることはないが、親和性をもっている。」

1922年(91年前)に発表された文章です。論者の炯眼に圧倒されました。

ただし、読み方というか解釈には、工夫というか予備知識がかなり必要な文章ではあります。

なかでも、「教会」(キルへ)と「分派」(ゼクテ)の明確な区別は、日本のキリスト教界にはピタリとは当てはまりません。

この人の分類法で考えていけば、日本のキリスト教界にあるのはほとんどすべて「分派」(ゼクテ)だ、という判断になるでしょう。

彼にとって「教会」(キルへ)とは、「学問への関心」をもち、「世界と妥協する」存在なのです。

しかし、そのことを踏まえたうえでも、ぼくはやはり、この論者が定義する意味での「教会」の存在が日本に必要だと考えさせられました。

この論者に言わせると、「教会」はインドのカースト制度に匹敵するくらいの「保守的な存在」だということになるようですが、それは当たっているとぼくは思う。

しかし、教会が「保守的」であること自体が悪いことだとは、ぼくは思わない。

一つの国や社会が形成されていくためには、教会のように「腰の据わった存在」が必要不可欠だと思うのです。

反論はあるでしょう。

この文章が発表されてから10年ほど後のドイツに出現したあの極右政党と「教会」(キルへ)との「妥協」はあってはならなかった。それも、そのとおりです。

上記の引用はエルンスト・トレルチの論文「キリスト教社会哲学」の一節です。

(佐々木勝彦訳、『トレルチ著作集』第3巻、ヨルダン社、1983年、24~25頁)。

1922年といえば、トレルチがプロイセン文部省次官を辞した1921年と、57歳で死去する1923年との間に発表されたもの、ということになります。

当時、ベルリン大学哲学部の教授でした。トレルチの個人史においても、ドイツの政治史においても、重要な意義を持つ論文だと思います。

2013年11月12日火曜日

「超訳聖書」のブログを立ち上げました

三つしか記事がありませんので、独立させるのは早いかもしれませんが、

頭と心の整理の必要もあり、「超訳聖書」のブログを立ち上げました。

超訳聖書
http://chouyaku.blogspot.jp/

「萌訳聖書」というタイトルにしてほしいという要望があるんですが、どうしたものか...

何度も書きますが、するどいツッコミには耐えられません。

ケンカ腰でかかってくるタイプの批判は無視しますので、悪しからず。

とにかく、ぼくは自分の読み方に、何のこだわりもありません。

また、最新の聖書学的知識などは、持っていません。

強いて言えば、ぼくが試しているのは「文体研究」のようなことです。

まあ、でも、まだほとんど何もできていませんので、

先走ったことを書くのはやめておきます。

2013年11月11日月曜日

のれんに腕押し、ぬかにクギ

だけど、日本だけではないと思いますが、

「プロテスタント」教会は、いろいろグループで細分化しているので、

他からの批判も自己批判もできにくい構造になっていると思うんです。

のれんに腕押し、ぬかにクギで、ひらひらかわすことばかり得意で、

自分にとって都合の良い「教会批判」にはやたら関心が強い割に、

自分に都合の悪い「教会批判」は、自分のこととして聞こうとしない。

ぼくは今、このことを他人事として書いてるわけではないですよ。

他人事になるわけないじゃん、生まれて(あと数日で)48年、

日本の「プロテスタント」教会から離れたことは一度もない人間なので。

ぼくは牧師の子弟ではないですが、

日曜日に教会にいなかった日は両手の指で数えられるほどしかないです。

年数で競うつもりはない、ということは、前から繰り返し書いています。

70代、80代の人に、40代、50代の者たちが、年数で勝てるわけないよね。

「外部」から文句言われるのはイヤですけどね。本当は聞きたくもない。

「何が分かるんだ」と言いたくなる衝動にかられることもあるほどです。

だけど、「身内」をかばい続けるのは、少々疲れました。

ホントに疲れました。

疲れても牧師。

死ぬまで牧師。

やりますよ、牧師。

ためいきもつかないぞ。

ぼくとかがためいきつくと、

「自分はもっとたいへんだ」と、

たいへんアピールしたくなる人たちがいるもんね。

ためいきついてません。ついてませんついてません。

茶坊主、お見合い、どうぞどうぞ

先週の「第19回 カール・バルト研究会」で結構盛り上がったのは、

「茶坊主」の話でした。

その内容を書くと角が立つので、書きませんけどね。

今の日本の(プロテスタント)教会は、

バレーボールの「お見合い」状態なのかもしれません。

ていうか、ダチョウ倶楽部の「どうぞどうぞ」だな。

発信力が強かった世代の人たちがほとんど引退状態にあり、

発信力が弱い、または発信力が無い人たちが、ど真ん中に居座っている。

引退状態にある世代の人たちの発信力にいつまでも期待し、ぶらさがる。

そういうの恥ずかしいと思わないのかな。ぼくは恥ずかしいんだけど。

2013年11月9日土曜日

忘れた頃の「超訳聖書」です

忘れた頃の「超訳聖書」です。

するどいツッコミには耐えられませんので、悪しからず。

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ローマの信徒への手紙8章18~25節

使徒パウロ/著  関口康/超訳


そりゃもちろんね、苦しいですよ、ぼくらだって。

だけど、今ぼくらが味わってる苦しみなんてね、

ぼくに言わせてもらえば、どうっちゅことないんですよ。

だって、この苦しみを耐えた向こう側に、明るい明日が待ってるんだからね。

ただただ、その夢だけ見て生きてますよ、ぼくは。

全世界がぼくらに期待してくれてるんです、はっきり言って。

人生は空しいとか、生きる意味ないとかね、そういうことばっか言ってる世界が、ね。

そういうこと言ってる人たちだって、自分でそうなりたくてなったわけじゃないんだよ。

じゃあ、だれがそうしたのって話になるわけだけど、

もうそれは神さまだとしか言いようがないね。

ぼくらに空しさとかを味わわせる神さまって、どんなだよと、

つい言いたくもなるけどね。

だけど、だからこそ、世界には希望があるんですよ。

だって、空しいままでいたい人なんて、いないんだから。

あとは死ぬしかないとか、どうせ世界は終わるんだからとか、

そういう思いにとらわれてしまってどうしようもなくなっているときでも、

なんとかそこから這い出したいと、だれでも思っているんですよ。

その出口なしの堂々めぐり状態から自由になって、

キャッキャ言って遊んでる子どもたちの笑顔のような輝きの中で

神さまとぼくらが仲良く生きていけるときが来るんですよ。

それってやっぱりスゴイことなんです。

ぼくらが生きてる世界は神さまが造ったものですよ、それは信じてほしいです。

この世界がぼくらのことを期待してくれててね、

「早く生まれろ~、早く生まれろ~、う~ん、う~ん」てね、

「ひっ、ひっ、ふー」でもいいや、

さあ、これから赤ちゃんがお腹から出てこようとしているときのお母さんみたいに、必死にね、

ぼくらを産むために、全世界がふんばってくれてるんですよ。

産まれてくるぼくらのほうも、サボってるわけじゃないですよ。

ぼくらも必死ですよ。お母さんのお腹の中から自力で這い出しちゃうくらいの勢いあるぜ。

赤ちゃんは出てくるときは、ひーひーとかは言わないけどね、

出てきてから「どぎゃあ」と泣くまではね。

だけど、心の中で、っていうか、口には出せないけど、

赤ちゃんだって必死で泣いてるんですよ。狭いしね。

「こんなところから出てやる~」みたいな感じでね。

いま言ってるのは、もちろんたとえですよ。

何を言いたいのかって?

ぼくらがさ、教会とか信仰とか、何が悲しくてそんなものを守ったりしてるのか。

そんなものを守ろうとするから苦しむことがあるとかね。

そんなことにまるで興味を持ってくれない人たちが圧倒多数の中でね。

「なにそれ?」とか「宗教オタク」とか言われたりもしながらね。

自分でも何やってるのか分からなくなるとき、あるかもしれないよね、はっきり言って。

だけど、ぼくらは教会続けますよ。

信仰とか捨てられないですよ。

そういうことがなんでできるのか、ですよ、ぼくが言いたいことは。

それはやっぱり、さっき言ったことですよ、

全世界がぼくらに期待してるんだってば。

だって、空しいままでいたい人なんか、ひとりもいないんだから。

神さまとか、人生の意味とか、やっぱり知りたいんですよ。

そんなの知らなくていい、なんて人はいないですよ。

全世界がぼくらに期待してくれていると信じることが、ぼくらの希望だし、

そういう希望を持てること自体が、ぼくらの救いそのものですよ。

全世界が教会に期待してくれているかどうか、証拠見せてみろとか言われてもね、

そんなもん見せられませんよ。「期待」って見えるものなのか。逆に聞きたいよね。

だけど、目に見えないけど、本当にそうなんだよ。

信じろとか言っても無理かもしれないけど、信じるしかないじゃん。

目に見えないものだから、ぼくらは信じるんだよ。

もう見えてるものは、信じる必要ないじゃん。だって、目の前にあるんだから、

ぼくはね、自分で言うのもなんだけど、我慢強い人間です。

いつまでも待ちますよ。

ぼくは教会をあきらめない。