2013年7月3日水曜日

同じこと繰り返すだけなら初音ミクちゃんに言ってもらうほうがいいね

何年か前の高橋哲哉氏の本や、

読書会で読んでいる青野太潮先生の『十字架の神学をめぐって 講演集』や、

ファン・ルーラーの論文やで、

「贖罪論一元主義」というべきものへの批判が語られるのを読むたびに、

我が意を得たりとぼくは思う。

先日の読書会でも(問われたので)お答えしたが、

「贖罪論一元主義」になってしまうと「教会が胡散臭いものになる」と、ぼくは考えている。

個別の問題にかかわるのを面倒くさがっているだけのように見える。

宗教の欺瞞性が露骨に顔をのぞけているように見える。

どれほど涙を流しながら「贖罪」を説教していようと、ね。

教会を去る人が多いのは何故かとか、

日本の教会が広がらないのは何故かとか、

そういう言説が「流行る」今日この頃。

個別の問題に興味を持ってもらえない。

具体的な問題解決にかかわってもらえない。

不思議な話と不思議な儀式してるだけ。

ぼくもやだな。行きたくないね。時間の無駄と思うわ、たしかに。

牧師が「口動かしてるだけのヒマ人」なのは、個別の問題にかかわるためでしょ?

カラダ動かしてるかどうかは無関係。

カラダ動いてなくても、「個別の問題にかかわること」はできるから。

そもそも「偏執」や「同語反復」って、ぼくらの仕事ですかね。

同じこと繰り返すだけなら初音ミクちゃんに言ってもらうほうがいいね。

2013年7月2日火曜日

価値観の違い


心晴れない事情や悩みを抱え、かつどこにも持って行く場所が無くなり、いわば最後の最後に「教会」に頼ってくださるという方は、いまでも少なからずおられる。

最近もそういう方(面識ない)からのかなり長時間の電話をいただいた。

まあぼくは、口しか動いてないヒマ人なので、けっこう付き合うことはできる。専門的と言えるレベルではないが、ある程度のカウンセリングの手ほどきは受けた。

当然守秘義務があるので、詳しいことは書けない。家庭内の問題についての悩みだ。はっきりいえば「夫婦」の問題だ。

話を聴いているうちに、両者に明確な価値観の違いがあるようだ、しかし、相談者自身はその違いに気づいていないようだ、と分かった。

そのことを率直に告げた。びっくりされたようだったが、感謝してくださった。

参考までに、個人情報に触れない範囲で書いておこう。

価値観の違いとは、お金の使い道の話だ。

どちらかが贅沢をしている、という話ではない。

なるべくお金を使わずに、あるいは、最小限の支出で済ませる方法を考えようともせずに、まるで脊髄反射のように、口を開けば「だったら病院行けば~?」「だったら薬買えば~?」と言いだすことだ。

「その治療代、その薬代は、誰が稼いでると思ってるの?」と言いたい気持ちを飲み込んでおられるのではないか。

いま何時間働いたらいくらもらえるか、分かってるよね。それを病院だ、薬だに使うくらいなら、小さな子どもと貴方のために使ってもらいたい。そう思えるから働けるのに。

仕事で疲れ果てて帰宅して、家で疲れた顔していると「病院行けば~?」「薬買えば~?」「マッサージ行けば~?」

そりゃ相手も腹立ちますよねと、ぼくには思えた。

もちろん病院や薬局が悪いわけじゃなくて(たぶんね)、不況の世の中が悪いのだろうけれど、

まるで脊髄反射的に「病院行けば~?」「薬買えば~?」「マッサージ行けば~?」と言いさえすれば、相手をいたわる善意の言葉をかけている気になれる、世の中の風潮は、何とかしなくてはならないかもしれない。

「教会」は、病院でも薬局でもないし、会社でも学校でもない。

他の牧師たちは全く違うが、ぼくは口しか動いていないヒマ人なので(関グチなだけにね)、

何の役にも立たないし、悩みを抱える人に具体的な問題解決策を提示することすらできそうもない。

ぼくに言えることといえば、病院と薬局とマッサージ室の営業妨害することくらいだな(笑)。

2013年6月30日日曜日

有限は無限をとらえることができません

ローマの信徒への手紙3・27~31

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」

「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(27節)と書かれています。これはどういう意味でしょうか。その説明から始めます。

先週の個所でパウロは、わたしたち人間が罪の中から救い出されるために唯一残された道を教えていました。それは、わたしたちが神の言葉である聖書の教えを完璧に実行するという道ではありません。そうではなく、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる道です。それは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で」(24節)与えられる神の義です。

「無償で与えられる」ということは、人間の側からのいかなる支払いも、神はお受け取りにならないということです。神は人間のいかなる買収にも応じられません。人間がどれだけ支払ったから、どれだけがんばったから、どれだけたくさんのささげものをしたから、だから神は人間を救うということではありません。たくさん支払った人にはそれなりの見返りがあるということであれば、神と人間の関係は商売の関係になります。商売が悪いと言っているのではありません。神とわたしたち人間との関係はそのようなものではないと言っているのです。

わたしたちの支払いの多寡に応じて神の態度が変わるということであれば、神がわたしたち人間に与えてくださる救いの恵みには松・竹・梅の三種類か、それ以上の種類があるということになります。天国が、ものすごくがんばった人用の部屋と、少しがんばった人用の部屋と、がんばらなかった人用の部屋に分かれていることになります。

しかし「何の差別もありません」(22節)。支払う力のない人にも多く支払うことができた人と全く同じ部屋が用意されています。神の御子イエス・キリストが父なる神のみもとから地上の世界に遣わされて行ってくださった贖いの御業は、イエス・キリストを信じるすべての人に平等の神の義を約束してくれるのです。

こういう話をした後にパウロは「人の誇りは取り除かれた」(27節)と書いていますので、どういう意味であるか、もうお分かりでしょう。「人の誇り」とは人間の努力の証しです。しかし、その努力の多寡は、人が神に救われるかどうかに関係ないことだとパウロは言う。そのように言われると、私はこれまで一生懸命がんばって生きてきた、誰にも負けないほどの努力をしてきたと思っている人たちは傷つくのです。「もうやってられない」と自暴自棄になり、投げやりになることがありうるのです。

人の誇りが取り除かれる、つまり、わたしたちが神に救われることに関して努力の価値が失われるのは、「どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」(27節)とパウロは続けています。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」(28節)。

神はわたしたちの買収に応じる方ではありません。天国の問題はお金で解決することはできません。また、これは私にとっても厳しい話になるのですが、この地上において神を信じて生きる信仰生活を何年続けてきたかは、天国においては関係ありません。教会において多くの奉仕をなし、献身した人と、今際の床でわずか数分、わずか数秒、イエス・キリストを信じる信仰を告白した方とは全く同じ天国に受け入れられるのです。

47歳の私は47年教会生活を送ってきました。6歳のクリスマスに成人洗礼を受けましたので、洗礼を受けてから41年経っています。しかし、神は「だから何なのだ」と私に問いかけます。そのようなことを私のプライドにすることを神御自身が許してくださらないのです。

教会生活を長く続けることには意味はないと申し上げているのではありません。意味はあります。ないはずがありません。しかし、その意味は、ただひたすら、これからイエス・キリストへの信仰をもって歩みはじめる人たちを歓迎し、受け入れ、祝福し、心から喜ぶことにあるのです。

なぜパウロは、このようなことを言わなくてはならないのでしょうか。人間はもっと努力すべきである。「神と教会にたくさん奉仕し、ささげものをし、やるべきことをしっかりやらないと、天国には行けません」と教えるほうが教会にもっと人が集まるのではないでしょうか。「がんばらない人は地獄行きですよ」と威嚇するほうが、不安や恐怖心にかられて教会生活を熱心に続ける人たちが増えるのではないでしょうか。

しかし、パウロの考えはそのようなものではありません。真の教会はそのような方法を選んではいけません。悪質な宗教ビジネスの手口です。そのようなやり方を神が許してくださいません。神が求めておられるのは、脅しや不安や恐怖に怯えて集まって来る人ではありません。全くの自由において神を愛し、隣人を愛して生きる、喜びと感謝にあふれている人をお求めになるのです。

「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に神は唯一だからです」(29~30節)とパウロは続けています。話が突如として飛躍して、ユダヤ人と異邦人の関係の問題が出てきたようでもありますが、もちろん関連があります。

繰り返し申し上げているとおり、パウロが言う意味での「ユダヤ人」とは幼い頃から聖書に基づく教育を受け、安息日のたびに神殿や会堂に集まり、礼拝をささげ、奉仕を行ってきた人々です。そのこと自体は素晴らしいことですし、人から責められるようなことではないし、自分自身の誇りにすることが許されることでもあります。しかし、だからといって、「神はユダヤ人だけの神でしょうか」、そうではないでしょうと、パウロは言っているのです。ユダヤ人だけが「神」を専有すること、独り占めすることはできません。

この「神」を「教会」と言い換えてもほとんど同じ結論になると思います。教会はユダヤ人だけの教会でしょうか。教会は幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けてきた人たちだけの専有物でしょうか。初めて教会を訪ねる人、これからイエス・キリストを信じる信仰を求め、そういう人生を今から始めたいと願っている人のための教会でもあるのではないでしょうか。そして、そのような人のための神でもあるのではないでしょうか。そのようにパウロは言いたいのだと思います。なぜならパウロは「異邦人のための伝道者」であろうとしましたから。

「異邦人」とは異教徒です。幼い頃から聖書に基づく宗教教育を受けるどころか、そういうことは何も知らない、習ったことも触れたこともない人々です。軽んじる意味で言うのではありませんが、聖書の宗教に限って言えば、その人々は“子ども”です。誰からも教えてもらったことがないのですから仕方がありません。

その人々が聖書を読んだとき、いろいろと素朴な疑問が出てくるのは当然です。教会生活が長い人々が聞くとびっくりするような誤読や誤解をすることがあるのは当然です。あるいはまた、その人々が教会に通い始め、聖書を読み始めるより前から信じていたことや受け容れていたことを抱えたまま、引きずったまま、教会に通い、聖書を読むことになりますから、その人たちの心の中で聖書の教えとそれ以外の教えが混ざり合い、混乱・混同し、どこまでが聖書の教えで、どこからはそうでないかの区別がつかない状態になることも当然です。

ですから、そのような人々に対して教会がしなければならないことは、混合・混乱・混同した状態にあるその人々の心の中にあるものを、解きほぐすことです。それは、もつれあい、からみあった糸をほぐすようなことです。そして、先ほど申した意味での聖書的な宗教教育については“子ども”の状態の人々に、時間と労力を惜しみなく注ぎ、手とり足とり教えていくしかありません。そういうことを面倒くさがるような人は「異邦人のための伝道者」にはなれません。

だから私は、依然として圧倒的な「異邦人の国」である日本の教会がなすべきことは、子どもたちの先生のような仕事であるととらえています。何も知らない“子ども”に手とり足とり、そもそもの物事の成り立ちから、噛んで含んで教え、伝える仕事です。

パウロが言いたいことは、わたしたちにとって厳しい話なのだと思います。わたしたちは、イエス・キリストの教会に来る前から聖書の知識を持っていて、そんなことはもう分かっている、耳にたこができるほど聞きました、というような人々だけを集めて、それで教会にたくさん人が集まったということで満足しているようでは足りないのです。「伝道」とは、全くの異邦人、全くの異教徒をイエス・キリストを信じる信仰へと導き、洗礼を授けることです。そのことがわたしたちにできているだろうかと自らに問わなくてはなりません。

有限なる人間、有限なる教会は、無限の神をとらえることができません。天地万物の創造者である全能の神は、宗教的に熱心な人たちだけの専有物ではありません。わたしたちは世に出ていく必要があります。そこで「伝道」する必要があるのです。

(2013年6月30日、松戸小金原教会主日礼拝)

2013年6月29日土曜日

うんと長生きしてほしいのは、子どもたちのほうです


うちは、もう何とかするしかないし、

ある意味で開き直りましたけど

「これから」の人たちのことを、ぼくは心配しています。

子どもを産んで育てるということに、

親の心に後悔や罪悪感を覚えさせてしまうような社会はまずい。

「子どもなど産むんじゃなかった」と。

あるいは

「子どもがこれ以上進学すると家が破産するからやめて」と、

心の中で親が祈らざるをえなくなるような社会はまずい。

子どもはいつまでも「子ども」じゃあない。

「少子化」って、ですね、

半世紀くらい前は(もう「半世紀くらい前」です)

どこの教会の日曜学校にも100人くらい集まっていたちびっこたちが

今は来なくなったねえ、日曜学校が寂しくなったねえ、

という話ではないです。

「少子化」は人口減少です。人がだんだんいなくなることです。

今の10代、20代の子たちが絶望死していく報道を横目で見ながら

あと10年の命を悠々自適に暮らそうとしている社会はまずい。

うんと長生きしてほしいのは、子どもたちのほうです。

嫌われる言葉かもしれませんが、

ぼくには、そうとしか言いようがないです。

2013年6月27日木曜日

今夜はマカロニグラタンを作りました

文句なし!「マカロニグラタン」~\(^o^)/

マカロニ、牛乳、鶏もも肉、チョリソー、ほうれんそう、アスパラガス、長ねぎ、ぶなしめじ、粉チーズ、(お好みでタバスコ)。

マカロニグラタンは、疲れた日に簡単にできる最高のごちそうです。

妻は今夜も保育園の夜勤です。おつかれさま。


立教大学「キリスト教の歩み」ゲスト講義


立教大学 全学共通カリキュラム「キリスト教の歩み」ゲスト講義

日時 2013年6月27日(木)午後3時
    2013年7月 4 日(木)午後3時

場所 立教大学池袋キャンパス 11号館 A203教室

主題 「現代プロテスタント神学の一断面 カール・バルトの神学をどう乗り越えるのか」

講師 関口 康(日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師)

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画像は、今日の様子です。ほぼ満席でした。

素晴らしい学生さんたちでした。熱心に聴いてくださいました。ご清聴ありがとうございます。

これは本当にやりがいがある仕事だと実感。ぼくの子どもと同世代の方々です。楽しかったです。

まあ、でも、生まれて初めての大学の教壇なのに、いきなり二百人教室とは...。

心臓が口から出そうでした。





2013年6月25日火曜日

悪夢から覚めた朝のポエム(頭いたい)


同じようなことを何度も書いてきた自覚があるが、それは仕方ない。

ネット開始は1996年8月なので(最初はパソコン通信)、17年になる。

こんなこと誓って言う必要はないが、

ぼくがネットに書いたことを読んで

教会に通いはじめ、洗礼を受けたという人は

(少なくとも「そうである」と言っ(てくれ)た人は)、

まだ一人もいない。

17年で、まだ一人も。

その理由ないし原因は

ぼくがネットに書く内容が「悪い」からであることは明白なのだが、

そこで開き直って

「ネットは伝道に向かない」とか言うもんだから

ぼくは、ぼくが始末におえない。

しかし、このことにぼくががっかりしているわけではないし、

卑屈にも思っていない。

「だから意味が無い」とも思っていない。

ここで話を中断して、論理を飛躍させる。

ぼくは日本の教会の「内部取引」を「伝道」だと思っていない。

こっちの教会がイヤになったから、あっちの教会に移った。

これは「伝道」ではない。ただの「内部取引」だ。

バランスシート上ではプラマイゼロ。

いや、結果はゼロではないね、マイナスだ。

どうやら「内部消費」してるようだ。

外に向かうべきだろう。新規を求めるべきだろう。

テレビのCM出したり、番組に出演しますか?

ポスティングのチラシは読んでもらえますか?

それが「悪い」とも「効果が無い」とも言うつもりはない。

言いたいことは、そこで起こる、いろんな省略や割引や水増しの問題だ。

省略とは、割引とは、水増しとは何であるかは詳しく書かない。

論点をずらされて、話の腰を折られるのはめんどくさい。

ただぼくは「内部取引」と「内部消費」は「伝道」ではないと

言葉の定義の問題を言ってるだけだ。

あとは、

この国の現状に満足している人は、たぶん「伝道」には向かない。

そう言いたいだけだ。

2013年6月24日月曜日

あの党の「センター」は鳩山さんだった


不謹慎かもしれませんし、的外れかもしれませんけど、

あの党の「センター」は鳩山さんだったんだと、ぼくはやっぱり思う。

前田さんが”卒業”したAKなんとかは、もうAKなんとかでないのと同様

鳩山さんが”卒業”した民なんとかは、もう民なんとかではないと思う。

「凋落」っていうかベツモノなんですよ、もはや。それがぼくの見方。

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社説:都議選自民圧勝 民主党の危機的な凋落
毎日新聞 2013年06月24日 02時31分
http://mainichi.jp/opinion/news/20130624k0000m070108000c.html


ぼくが「最終的に」守りたいもの

ぼくが「最終的に」守りたいものは何だろうかと、ここ何年も堂々めぐり。

で、結論はだいたい毎回同じ。といっても、うまく言葉にならない。

「日本語で日常会話と感情移入ができる時空が続きますように。」

「肩の凝らない普段着で気楽に歩き回れる時空が続きますように。」

なんか、いつもそんな感じのことです。その程度のことっていうか。

それさえ守れたら、あとはなんでもいいや、という投げやりな気分。

ブリリアントな世界の人たちの足を引っ張りたいわけじゃないけどね。

どーでもいいや。ほんと。ぶつぶつ。