2011年10月23日日曜日
すべての点ですべての人を喜ばせるように
コリントの信徒への手紙一10・23~11・1
「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、『良心』と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の利益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」
今日お読みしました個所に記されていることは、8章から続いてきた「真の神を信じる者たちは偶像に供えられた肉を食べてもよいか」という問いに対するパウロの答えです。結論的なことが今日の個所にまとめられています。
しかし、パウロが出した結論とはどういうものであるかといえば、非常に複雑なものです。「食べてもよいが、しかし、食べてはいけない」。もう何を言っているのか分からない、支離滅裂だと言われても仕方ないような結論です。要するにどっちなんだと問い詰めたくなります。曖昧で、煮え切らない、優柔不断な答え方であると、そうであることを認めざるをえない感じです。
しかし、私自身は、パウロの出した結論に、非常に深く共感し、同意する者です。先週の特別集会の前の週に学んだ個所で「それでも決断は必要である」と語ったばかりです。しかし、わたしたちが現実の場面で下す決断は、実際にはすっきりしたものではないし、あっさりしたものでもないのです。そのようにも言わなくてはなりません。
なぜわたしたちが現実の場面で下す決断が、すっきりしたものでも、あっさりしたものでもないのか、その理由ははっきりしていると思います。それは単純な話です。わたしたちが日々の生活の中で共に生きている仲間は、真の神を信じて生きているキリスト者だけではないということです。
わたしたちの周りにはキリスト者である人もいますが、キリスト者でない人も必ずいます。それは牧師たちも同じです。牧師たちは、教会の人とだけ付き合っているわけではなく、教会以外の人とも必ず付き合っています。かなり厳しい言い方かもしれませんが、信仰を持っていない人とは一切つき合わないと言う牧師がいるとしたら、伝道する気が無い人だと言われても仕方がありません。教会の中だけに引きこもっていて、社会の人々と一切付き合わない牧師は、伝道の仕事を放棄している職務怠慢の罪を犯していると言われても仕方がありません。
もちろん伝道とはまだ信仰を持っていない人々に信仰を持ってもらうように勧め、決断してもらうことです。しかし、その場合に重要なことは、まずは、まだ信仰を持っていない人々との付き合いを始めることです。その人々との接点を得ることです。接点も無い人々に向かって、どうしたら信仰を宣べ伝えることができるのでしょうか。一度も話したこともない、顔を見たこともない、そのような相手との間に、どうしたらコミュニケーションが成立するのでしょうか。それはありえないことです。それとも、わたしたちは、そこに誰もいない空中に向かって説教するのでしょうか。それは空しいことです。
そして、わたしたちがよく知っているもう一つの事実は、だれ一人として、生まれながらに信仰を持っている人はいないということです。信仰は、親から子へ、子から孫へと、血を通して、自動的に遺伝するものではありません。我々自身の言葉と態度を通して、汗と涙を流しながら懸命に伝えなければ決して伝わらないものです。ですから、わたしたちにできる伝道とは、まだ信仰を持っていない人々とまずは知り合いになること、まずは付き合いを始めること、まずは接点を得ることです。それ以外に伝道の可能性はありえないのです。
いま私が申し上げていることをご理解いただけるのであれば、これから申し上げることも、きっとご理解いただけるに違いありません。これから申し上げることは、もしかしたら信仰的確信をもって生きる者たちの心を乱すことになるかもしれません。しかし、そのことを私はパウロから学んできたつもりです。それはこういうことです。もしわたしたちに伝道する気があるならば、わたしたち自身の信仰的確信に基づく言葉や行いをかなりの部分で我慢したり、譲歩したりしなくてはならない面が必ず出てくるということです。それをもし「妥協」という言葉で説明するのを許していただけるなら、わたしたちの信仰生活は、日々妥協の連続であると言わなくてはならない面があるということです。
今日の個所の冒頭にパウロが書いている「すべてのことが許されている」というのは、わたしたちキリスト者の信仰的確信です。わたしたちは真の神を信じる信仰によって、あらゆる迷信や偶像礼拝やタブーから解放されています。何を食べると呪われるとか、どちらの方角に頭を向けて寝ると祟られるとか、どこに入ると汚れるとか、そのようなことは全く起こらないし、ありえません。それは、信仰を持っている人だけがそうだということではなく、信仰を持っていない人も同じです。食べ物の呪いとか方角の祟りとか場所の汚れとか、そのようなものはそもそも存在しないのですから、それが起こるかどうかは、信仰を持っているかどうかに関係ないのです。はっきり言えば、そういうことがあると思い込んでいる人たちは、だれかに騙されているとしか言いようがないのです。
しかし、わたしたちが知っている事実は、次のようなことです。わたしたちが自分の信仰的確信に基づいて、このようなことをいくら語っても、訴えても、全く耳を傾けてくれない人がいるということです。取りつく島が無い人がいるのです。
しかし、それでは、わたしたちはそのような人たちにはもう何もできないのでしょうか。取りつく島が無いのだから、放っておくか距離を置くかしか選択肢はないのでしょうか。ある意味でそのとおりと言わざるをえない面もあります。そのことも事実です。しかし、放っておくことも距離を置くこともできない人がわたしたちの周りには必ずいるということも事実です。それはたとえば家族です。あるいは親しい友人です。わたしたちの人生の中には、「もうこの人とは付き合わない」と言ってしまえば、その後の関係を断ち切ることができるという相手も、いると言えば確かにいます。しかし、みんながみんなそうではありません。たとえ信仰が違い、立場が違うとしても、死ぬまで付き合わなければならない相手も、わたしたちには必ずいるのです。死ぬまで付き合うと言っても、いろんなレベルがあることも事実です。家族ならば、あるいは親しい友人ならば、「付き合う」どころか「愛する」ことが求められているのです。
今日私は二つくらいのことを言っています。第一に言っていることは、伝道とは、まだ神を信じていない人々との付き合いを始めることなしにはありえないということです。第二に言っていることは、神を信じて生きる者たちもまた、まだ神を信じていない人々と付き合うことを避けて通ることができないということです。「付き合うことを避けて通ることができない」どころか、その人々をわたしたちは「愛さなければならない」ということです。
そして、もしそうであるならば、わたしたちの信仰生活は同じ信仰をもって生きている人たちだけが集まって営むものではなく、異なる信仰や宗教や思想を持って生きている人々の中に混ざりながら営むものであるということは明白です。信仰を持たない人々を憎んで、呪って、切って捨てて、軽蔑しながら生きることが、わたしたちの信仰生活ではない。すべて正反対である。このように言わなくてはならないのです。
しかし、私は今日、まだ言っていないことがあります。それは本当は、真っ先に言わなければならないことだったかもしれませんが、あえて後回しにしました。それは、わたしたちは、いろんな信仰や宗教や思想を持って生きている人が複雑怪奇に入り乱れた世界の中にいながら、それでも真の神を信じる信仰を貫いていくことが必要であるし、そうすることが可能であるということです。
それは可能なのです。できます。それは不可能だと言っているのではありません。わたしたちに、それはできることです。ただし、そのときわたしたちのとるべき態度は、パウロが言っているとおりです。「食べてもよいが、しかし、食べてはいけない」。こういう話になっていきます。
どういうことでしょうか。これから申し上げることは、誤解を生むような言葉かもしれませんが、事柄をはっきりさせるために、あえて言います。それは、わたしたちが自分一人でいるときと、あるいは同じ信仰を共有している信仰の仲間たちだけで集まっているときと、そうではない、異なる信仰や宗教や価値観や思想の持ち主たちと一緒にいるときとで、わたしたちの言葉や態度を変えることは許されるということです。はっきりいえば、わたしたちは、教会の中にいるときと、教会の外なる社会にいるときとで、言葉や態度において完璧な首尾一貫性をもっていないことがありうるし、そのような使い分けをすることが許されているのです。
もっとはっきり言っておきましょうか。わたしたちには、表の顔と裏の顔があってもよいし、二つの顔を使い分けてもよいということです。わたしたちが自分の生き方の首尾一貫性を追求することは、わたしたち自身の利益です。しかし、それを追求しすぎることによって、他人の利益を損なうことがありうるのです。わたしたちの信仰的確信やキリスト者としての生き方の首尾一貫性という点を重んじすぎて、教会の外側にいる人たちを傷つけるようなことがあるならば、伝道にとってはマイナスでしかないのです。
「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばせようとしているのですから」(33節)とパウロが書いているときの「すべての人」の中には、キリスト者である人だけでなく、キリスト者でない人も含まれています。そしてわたしたちの伝道はわたしたち自身の自己満足のために行うのではありません。信仰をもって生きることはこれほどまでに自由で喜びに満ちた人生であるということを、そのことをまだ体験していない人々に、何とかして分かっていただき、その人々と共に喜びの人生を始めること、それが伝道なのです。
(2011年10月23日、松戸小金原教会主日礼拝)
2011年10月22日土曜日
「地域防災拠点運営委員会」発足
2011年9月16日金曜日
放課後の蜃気楼
ズズタト、ズズタト、タカトントン、タカトントン、トカタカトン、ジャーン!
ドラムの練習中だ。もじゃもじゃ頭の秋保くんが叩いてる。学業成績抜群、明るい性格、友達多数。
ギュワーン。おっと、次はギターだな。長ぼそい顔の三井くん。三井くんの家には正門と裏門がある。正門から玄関まで徒歩二分はかかるお屋敷だ。
キーン。おいおい、マイク、ハウってるよ。ボーカルは道明くん。お父さんは長身の商社マン。道明くんはみんなのアイドル。滑舌が若干悪いが、気にしない、気にしない。
ブベン、ブベン。ベースは坂本くん。ルックスはかなり地味だが、練習熱心。チョッパー系をベロベロベロリンとかできちゃう。
まだ聞こえないのはキーボードだ。小柄な女の子、ミーコ。今日は来てないのかな。
バンド名はまだ無い。募集中。泣く子も黙るロック系なので、「死神エースキラーGTR」とか「マッドビーナス25(トゥエンティファイブ)」とか、やたら強そうなのを考えてるらしい。
おー、いまごろミーコが走ってきた。は、は、は。息切らしてる。遅刻だね。でも大丈夫だよ、まだ彼らイラついてなさそうだし。
蜃気楼がゆらめく灼熱の校庭に響き渡る、魅惑のロックンロール、はじまり、はじまりー。
と思ったけど、あれ?部室から聞こえるのは泣き声。ミーコだ。どうした?
「なにやってんの?」とか三井くんの声が聞こえる。どうやら、ミーコがとんでもない忘れ物をしたらしい。なにやってんだ、ミーコは。
あ、泣き声が止まった。で、またキーンだ。だからマイク、ハウってるって、道明くん!
おー、やっと始まった。ドラムロール。道明くんのシャウト。「アウ!」とか言ってる、あはは。愛されるキャラだよ、あいつ。三井のギターも冴えてるなあ。昨日は、夜遅くまで麻雀やってたはずだが。
一時間たっぷり練習した彼ら。おんぼろの扇風機だけで、よくがんばってるよ。ライブの本番、近いもんなあ。えらいよ。
広い校庭には、野球部とラグビー部と陸上部の子たちがひしめき合っている。ま、棲み分けはいちおう成り立っているけど、危ないぜ、いつホームラン軌道の硬球が、陸上部の子の頭蓋骨を直撃するか分からんね。
お、ミーコが部室から飛び出してきた。ぷぷぷ、また走ってるよ。どこに行くんだろ。もう家に帰るのかな。ま、いいか。でも、かわいいなあ。
え、ぼく?
ただ見てるだけー。聞いてるだけー。ぼーっとね。図書室じゃないよ。教室でもない。暑くて死にそうな校庭のベンチに一人で座ってんの。蜃気楼が面白くてね。
だって、こんな時間、今だけだぜ、たぶん、と思うもの。大学とか入ったら、みんなバラバラだしね。
また会えるのかな。
ドラムの練習中だ。もじゃもじゃ頭の秋保くんが叩いてる。学業成績抜群、明るい性格、友達多数。
ギュワーン。おっと、次はギターだな。長ぼそい顔の三井くん。三井くんの家には正門と裏門がある。正門から玄関まで徒歩二分はかかるお屋敷だ。
キーン。おいおい、マイク、ハウってるよ。ボーカルは道明くん。お父さんは長身の商社マン。道明くんはみんなのアイドル。滑舌が若干悪いが、気にしない、気にしない。
ブベン、ブベン。ベースは坂本くん。ルックスはかなり地味だが、練習熱心。チョッパー系をベロベロベロリンとかできちゃう。
まだ聞こえないのはキーボードだ。小柄な女の子、ミーコ。今日は来てないのかな。
バンド名はまだ無い。募集中。泣く子も黙るロック系なので、「死神エースキラーGTR」とか「マッドビーナス25(トゥエンティファイブ)」とか、やたら強そうなのを考えてるらしい。
おー、いまごろミーコが走ってきた。は、は、は。息切らしてる。遅刻だね。でも大丈夫だよ、まだ彼らイラついてなさそうだし。
蜃気楼がゆらめく灼熱の校庭に響き渡る、魅惑のロックンロール、はじまり、はじまりー。
と思ったけど、あれ?部室から聞こえるのは泣き声。ミーコだ。どうした?
「なにやってんの?」とか三井くんの声が聞こえる。どうやら、ミーコがとんでもない忘れ物をしたらしい。なにやってんだ、ミーコは。
あ、泣き声が止まった。で、またキーンだ。だからマイク、ハウってるって、道明くん!
おー、やっと始まった。ドラムロール。道明くんのシャウト。「アウ!」とか言ってる、あはは。愛されるキャラだよ、あいつ。三井のギターも冴えてるなあ。昨日は、夜遅くまで麻雀やってたはずだが。
一時間たっぷり練習した彼ら。おんぼろの扇風機だけで、よくがんばってるよ。ライブの本番、近いもんなあ。えらいよ。
広い校庭には、野球部とラグビー部と陸上部の子たちがひしめき合っている。ま、棲み分けはいちおう成り立っているけど、危ないぜ、いつホームラン軌道の硬球が、陸上部の子の頭蓋骨を直撃するか分からんね。
お、ミーコが部室から飛び出してきた。ぷぷぷ、また走ってるよ。どこに行くんだろ。もう家に帰るのかな。ま、いいか。でも、かわいいなあ。
え、ぼく?
ただ見てるだけー。聞いてるだけー。ぼーっとね。図書室じゃないよ。教室でもない。暑くて死にそうな校庭のベンチに一人で座ってんの。蜃気楼が面白くてね。
だって、こんな時間、今だけだぜ、たぶん、と思うもの。大学とか入ったら、みんなバラバラだしね。
また会えるのかな。
2011年9月14日水曜日
神学者たちへの(かなり屈折した)エール
今まさに、神学を恥じる小児病のようなものにかかっているところかもしれません。「神学では食えない」と痛感するから。しかし、それじゃあ何ならば食えるのかとか、哲学なんかもっと食えないじゃんとか、そもそも物書きで食えると思っている妄想こそどうよとか考えはじめると、その小児病が少しは解けて我に返れるものがあるんですけどね。
それはともかく、神学の再構築には大賛成です。既存の本に唾を吐きかけ、「こんなもの」と罵倒する態度をもってではなく、また我々は本だけ読んで(神学的に)生きているわけではないのだから、既存の本がもたらした教会的実践的諸帰結や諸現象のほうにも目を向けて、いわばそこから「帰納的にも」神学を再構築していくことに賛成です。
あとは神学部や神学校というフレームワークというかゲシュタルトというか、まあインスティチュートで良いと思うのですが、そういうものは、「必要悪」とまでは言いませんが、どんなに欠陥や問題点が多いとしても、不可避的だし、要りますねえと思います。
それは、「ファン・ルーラー研究会」というインターネット上の(ただの)メーリングリスト(にすぎないグループ)を12年半ほど続けてきて思うことです。神学部、神学校を(少なくとも直接的な意味で)背景にもっていないグループがいかに無視され、軽んじられるかを12年半ほど痛みをもって感じ続けてくると、もうね、少しくらいは面の皮が厚くなりますよ。
カネのために神学をするんじゃない。それは声を大にして言いたいですよ。でも、「神学では食えない」と失意のうちに神学を断念する人の多くは、神学部や神学校という枠の中に入れてもらえない個人プレーヤーです。ネットに何千万字の文章を書いても、一円にも換金されない。「学校」という枠の中にいる人々ならば、カビの生えた講義ノートを毎年引っ張り出して読み上げるだけでも、地位も名誉も、ある程度の財産までも保障される。
月並みな言い方ですが、一人のイチローの陰に、失意のうちにプロ野球の道を断念した何千、何万のプレーヤーがいる。神学部、神学校の教授たちも然りですよね。なりうる人、なった人には、やっかみも集まりやすいけど、がんばってほしいなあと思います。
既存の神学部、神学校に不満を抱く人々の中に新しい学校を作りたがる人がいますけど、そういうのを見ると虚しさを感じるばかりです。既存のものを作り変えましょう。ただし、自分の生きている間にできそうなことまでしか約束できない。「三百年後に実現いたします」とか言う詐欺商法はやめる。今ある神学部、神学校を二十年、三十年くらいの単位のスパンで小改革していく。そのために教会が全力を尽くして応援する。そういうやり方を私は好みます。
それはともかく、神学の再構築には大賛成です。既存の本に唾を吐きかけ、「こんなもの」と罵倒する態度をもってではなく、また我々は本だけ読んで(神学的に)生きているわけではないのだから、既存の本がもたらした教会的実践的諸帰結や諸現象のほうにも目を向けて、いわばそこから「帰納的にも」神学を再構築していくことに賛成です。
あとは神学部や神学校というフレームワークというかゲシュタルトというか、まあインスティチュートで良いと思うのですが、そういうものは、「必要悪」とまでは言いませんが、どんなに欠陥や問題点が多いとしても、不可避的だし、要りますねえと思います。
それは、「ファン・ルーラー研究会」というインターネット上の(ただの)メーリングリスト(にすぎないグループ)を12年半ほど続けてきて思うことです。神学部、神学校を(少なくとも直接的な意味で)背景にもっていないグループがいかに無視され、軽んじられるかを12年半ほど痛みをもって感じ続けてくると、もうね、少しくらいは面の皮が厚くなりますよ。
カネのために神学をするんじゃない。それは声を大にして言いたいですよ。でも、「神学では食えない」と失意のうちに神学を断念する人の多くは、神学部や神学校という枠の中に入れてもらえない個人プレーヤーです。ネットに何千万字の文章を書いても、一円にも換金されない。「学校」という枠の中にいる人々ならば、カビの生えた講義ノートを毎年引っ張り出して読み上げるだけでも、地位も名誉も、ある程度の財産までも保障される。
月並みな言い方ですが、一人のイチローの陰に、失意のうちにプロ野球の道を断念した何千、何万のプレーヤーがいる。神学部、神学校の教授たちも然りですよね。なりうる人、なった人には、やっかみも集まりやすいけど、がんばってほしいなあと思います。
既存の神学部、神学校に不満を抱く人々の中に新しい学校を作りたがる人がいますけど、そういうのを見ると虚しさを感じるばかりです。既存のものを作り変えましょう。ただし、自分の生きている間にできそうなことまでしか約束できない。「三百年後に実現いたします」とか言う詐欺商法はやめる。今ある神学部、神学校を二十年、三十年くらいの単位のスパンで小改革していく。そのために教会が全力を尽くして応援する。そういうやり方を私は好みます。
2011年8月23日火曜日
筆談の記憶
ち、あーあ、始業のチャイムが鳴っている。
またしても無為な時間を過ごさなければならない。うんざりだ。
「無為な」だって?まさか、そんなはずはない――はずなのだが。
教室に現われたのはカワバタのおっさん。世界史の教師だ。いやいや、のっけからなかなか興味深い話をしてくれる。まあ教科書どおりなのだが、「えー歴史というのは、古代、中世、近世、近代、現代といった感じに区分していくと、その動きというか流れをうまくとらえることができるようになるのでありましてー」どうたらこうたら。クルトゥーア・ペリオーデ(文化的歴史区分)とか言うらしいというのは、それから数年後、大学で学んだことだ。
しっかし、やっぱだーめだ、興味の集中力が続かん。睡魔が襲う。夢見心地に拍車をかけるのは、出来の悪い生徒は教師からいちばん遠い、優秀な生徒たちに迷惑をかけない、いちばん後ろの席に何となく追いやられていること。
いちばん後ろだが教室右側から二列目なので、外の景色は全く見えない。教室の右側は廊下側で、廊下の向こうには中庭があり、中庭の向こうには別の教室棟が立っているので、山も空も雲もどのみち見えない。「目のやり場に困る」とはこのことだ。女の子たちは授業中は無表情なので(そりゃ真剣に勉強しているわけだし)、見とれるほどの魅力無し。気温と湿度のやたら高い虚空には、カワバタちゃんのダミ声と、彼の目の前に座っている何人かの優秀な子たちの鉛筆のカリカリ音と、ミンミンゼミの鳴き声だけが響く。
ふと薄目で隣を見ると、ぼくと同類の子が「またやるかい?」と言いたげな目でニヤニヤしている。「またやるかい?」の内容は、筆談だ。その子の席は右端のいちばん後ろ。もっとも彼は、その後かなりがんばって優秀な成績を上げ、優秀な仕事に就いたようなので(「優秀な」の定義はともかく)、ぼくなんかと同類だったのは、ほんの一時のことだったと、彼の名誉のために言っておく。
彼は吹奏楽部所属、トロンボーン担当とか言っていた。演奏中の姿を見たことはない。若い頃の田村正和の目じりを、指でさらに吊り上げたようなフェイス。潜在的なファンは多かったらしい。何より、ぼくの半分しか体重が無さそうなスリムなボディ。
しかし、そこから先の記憶が全く正確でない。当時ルーズリーフなんてのを使っていたかどうか。はっきり憶えているのは小さな紙切れだったことだけ。ノートの端っこを破ったんだっけなあ。そんなことをした気はしないのだが。
その小さな紙切れに細かい文字が新たに書き加えられるたびに、ぼくと同類の子とぼくとの間を不断に往復し続ける。もうどこにも残っていないんだけどね。その紙切れは、我々の、なんていうか、細胞レベルの閉塞感を追っ払ってくれる、自由と喜びの輝きをもっていた。
カワバタちゃんの目を盗めていたとは思わない。時々ギョロリと睨まれたし。たしか一度だけ教室から追い出されたことがあったような気もする。あのね、ぼくらの脳みそって、実に便利なものらしいのよ。自分に都合の良い記憶だけを残し、都合の悪い部分は適当に殺処分してくれるという。だから、ほんとに忘れました。記憶にございません。
あれから三十年。キツネ目の彼は(あ、言っちゃった)どこで何してるんだろう。元気でいてほしい。ただそれだけだよ。
��「FB高等學校文學部」開設記念随想、2011年8月23日)
またしても無為な時間を過ごさなければならない。うんざりだ。
「無為な」だって?まさか、そんなはずはない――はずなのだが。
教室に現われたのはカワバタのおっさん。世界史の教師だ。いやいや、のっけからなかなか興味深い話をしてくれる。まあ教科書どおりなのだが、「えー歴史というのは、古代、中世、近世、近代、現代といった感じに区分していくと、その動きというか流れをうまくとらえることができるようになるのでありましてー」どうたらこうたら。クルトゥーア・ペリオーデ(文化的歴史区分)とか言うらしいというのは、それから数年後、大学で学んだことだ。
しっかし、やっぱだーめだ、興味の集中力が続かん。睡魔が襲う。夢見心地に拍車をかけるのは、出来の悪い生徒は教師からいちばん遠い、優秀な生徒たちに迷惑をかけない、いちばん後ろの席に何となく追いやられていること。
いちばん後ろだが教室右側から二列目なので、外の景色は全く見えない。教室の右側は廊下側で、廊下の向こうには中庭があり、中庭の向こうには別の教室棟が立っているので、山も空も雲もどのみち見えない。「目のやり場に困る」とはこのことだ。女の子たちは授業中は無表情なので(そりゃ真剣に勉強しているわけだし)、見とれるほどの魅力無し。気温と湿度のやたら高い虚空には、カワバタちゃんのダミ声と、彼の目の前に座っている何人かの優秀な子たちの鉛筆のカリカリ音と、ミンミンゼミの鳴き声だけが響く。
ふと薄目で隣を見ると、ぼくと同類の子が「またやるかい?」と言いたげな目でニヤニヤしている。「またやるかい?」の内容は、筆談だ。その子の席は右端のいちばん後ろ。もっとも彼は、その後かなりがんばって優秀な成績を上げ、優秀な仕事に就いたようなので(「優秀な」の定義はともかく)、ぼくなんかと同類だったのは、ほんの一時のことだったと、彼の名誉のために言っておく。
彼は吹奏楽部所属、トロンボーン担当とか言っていた。演奏中の姿を見たことはない。若い頃の田村正和の目じりを、指でさらに吊り上げたようなフェイス。潜在的なファンは多かったらしい。何より、ぼくの半分しか体重が無さそうなスリムなボディ。
しかし、そこから先の記憶が全く正確でない。当時ルーズリーフなんてのを使っていたかどうか。はっきり憶えているのは小さな紙切れだったことだけ。ノートの端っこを破ったんだっけなあ。そんなことをした気はしないのだが。
その小さな紙切れに細かい文字が新たに書き加えられるたびに、ぼくと同類の子とぼくとの間を不断に往復し続ける。もうどこにも残っていないんだけどね。その紙切れは、我々の、なんていうか、細胞レベルの閉塞感を追っ払ってくれる、自由と喜びの輝きをもっていた。
カワバタちゃんの目を盗めていたとは思わない。時々ギョロリと睨まれたし。たしか一度だけ教室から追い出されたことがあったような気もする。あのね、ぼくらの脳みそって、実に便利なものらしいのよ。自分に都合の良い記憶だけを残し、都合の悪い部分は適当に殺処分してくれるという。だから、ほんとに忘れました。記憶にございません。
あれから三十年。キツネ目の彼は(あ、言っちゃった)どこで何してるんだろう。元気でいてほしい。ただそれだけだよ。
��「FB高等學校文學部」開設記念随想、2011年8月23日)
2011年8月22日月曜日
山岡洋一さん、ありがとうございました
たった今届いたメールマガジンに強い衝撃を受け、大げさでなく心臓が止まるかと思うほどの痛みが走りました。まだショックから立ち直りきれない。
私が日本で最も尊敬してきた一人の翻訳家であり翻訳理論家でもあった山岡洋一さん(62歳)が一昨日8月20日(土)に心筋梗塞で亡くなられた。同氏主宰のメールマガジン「翻訳通信」の号外を通じて、ご遺族が知らせてくださいました。
今月1日に第111号(2011年8月号)を受けとり、山岡さんの言葉の一字一句にいちいち首肯しながら、ほとんど舐めとるように読んだばかりでした。
山岡さんの主著となった『翻訳とは何か』(日外アソシエーツ、2001年)で翻訳論の新しい世界を教えていただき、爾来、私は変わった。たった一度だけですがメールのやりとりをさせていただいたことがあり、神学の翻訳を志している私に「翻訳の原点のような仕事に取り組んでおられて羨ましい」と温かい言葉を返してくださいました。
私の願いは、神学の翻訳をする人全員に山岡さんの本を読んでもらうことです。我々が根本的に間違っている部分を山岡さんの本が教えてくれたと思っています。
最もショックを受けているのは山岡さんのご遺族に違いないのですが、メールマガジンの読者(2500人以上)も今ごろ、私同様のショックを受けているところだと思います。まだ涙は出てきませんが、心の支えを失った感覚です。じわじわ来そうです。
書きこみをやめるという意味ではありませんが、今週(私の夏休み)は、偉大な翻訳家の生涯への敬意をこめて、喪に服したいと思います。
私が日本で最も尊敬してきた一人の翻訳家であり翻訳理論家でもあった山岡洋一さん(62歳)が一昨日8月20日(土)に心筋梗塞で亡くなられた。同氏主宰のメールマガジン「翻訳通信」の号外を通じて、ご遺族が知らせてくださいました。
今月1日に第111号(2011年8月号)を受けとり、山岡さんの言葉の一字一句にいちいち首肯しながら、ほとんど舐めとるように読んだばかりでした。
山岡さんの主著となった『翻訳とは何か』(日外アソシエーツ、2001年)で翻訳論の新しい世界を教えていただき、爾来、私は変わった。たった一度だけですがメールのやりとりをさせていただいたことがあり、神学の翻訳を志している私に「翻訳の原点のような仕事に取り組んでおられて羨ましい」と温かい言葉を返してくださいました。
私の願いは、神学の翻訳をする人全員に山岡さんの本を読んでもらうことです。我々が根本的に間違っている部分を山岡さんの本が教えてくれたと思っています。
最もショックを受けているのは山岡さんのご遺族に違いないのですが、メールマガジンの読者(2500人以上)も今ごろ、私同様のショックを受けているところだと思います。まだ涙は出てきませんが、心の支えを失った感覚です。じわじわ来そうです。
書きこみをやめるという意味ではありませんが、今週(私の夏休み)は、偉大な翻訳家の生涯への敬意をこめて、喪に服したいと思います。
東浩紀氏の「娯楽でしか繋がれないのは貧しい」という意見に同意します
ついさっきツイッターで東浩紀氏がつぶやいたことに触発されて、何か書きたくなりました。
東氏曰く、日本は「テレビと娯楽しかない国。ネットユーザーがいくら増えても、芸能人とアニメの話しかされない国。この状況はソーシャルメディアの普及ごときで変わるものではないと、もはや半ば諦めています。」納得ですね。
「年収1億でも年収100万でもみな同じアニメ見てるよね」と「娯楽で繋がる可能性」を肯定的に評価する人々に対し、最近の(とくに3.11以降の)東氏は距離を置きたがっている。「娯楽でしか繋がれないのは貧しい」と言っている。海外で「政治」が果たしている役割を担うものが、日本には無い(大意)。
今これを堂々と書ける東氏は、けっこう炯眼の持ち主のような気がします。
でも、「それ見たことか。言わんこっちゃない」というようなことを、私は口が裂けても言いませんからね。「今こそ○○の出番だ」とか「これからは○○の時代だ」とかもね。
でも、心の中では当然そう思ってますよ。思ってますよ、当たり前じゃないですか。
日本に決定的に足りないのは○○です。それが無いから、いまの状況になっているんです。
東氏曰く、日本は「テレビと娯楽しかない国。ネットユーザーがいくら増えても、芸能人とアニメの話しかされない国。この状況はソーシャルメディアの普及ごときで変わるものではないと、もはや半ば諦めています。」納得ですね。
「年収1億でも年収100万でもみな同じアニメ見てるよね」と「娯楽で繋がる可能性」を肯定的に評価する人々に対し、最近の(とくに3.11以降の)東氏は距離を置きたがっている。「娯楽でしか繋がれないのは貧しい」と言っている。海外で「政治」が果たしている役割を担うものが、日本には無い(大意)。
今これを堂々と書ける東氏は、けっこう炯眼の持ち主のような気がします。
でも、「それ見たことか。言わんこっちゃない」というようなことを、私は口が裂けても言いませんからね。「今こそ○○の出番だ」とか「これからは○○の時代だ」とかもね。
でも、心の中では当然そう思ってますよ。思ってますよ、当たり前じゃないですか。
日本に決定的に足りないのは○○です。それが無いから、いまの状況になっているんです。
2011年8月11日木曜日
Ustream「東日本大震災を経て」
今年3月11日の東日本大震災の発生前にしばらく続けていたUstream放送「ファン・ルーラーについて」をなかなか再開できなかった理由を話しました。
Ustream放送「ファン・ルーラーについて」の5回分は以下のリンクでご覧いただけます。
ここ(↓)です。
http://www.ustream.tv/channel/ysekiguchi
2011年8月4日木曜日
これも「本の読めなさ」がもたらす悲劇だ
米空軍、核ミサイル発射担当将校にキリスト教で聖戦教育
http://www.asahi.com/international/update/0803/TKY201108030650.html
「訓練初期にある倫理の講義を担当する従軍牧師が用いた資料が、『核の倫理』という項目で、旧約・新約聖書の記述を多数引用していた。キリスト教の聖戦論を引き合いに『旧約聖書には、戦争に従事した信者の例が多い』と指摘したり、聖書の記述として『イエス・キリストは強い戦士』と位置づけたりしていた」(抜粋)。
これは本日の朝日新聞(13版)の一面記事です。先月27日までの20年間、米空軍で「核ミサイル発射の正当化」にキリスト教が利用されてきたようです。よほど米軍事情に精通している人はともかく、この事実を知っていた日本のキリスト者は皆無でしょう。
ほんとうに恥ずかしいです。聖書をどう読めば「核ミサイル発射を正当化する論理」を導き出せるのかが不明ですし、このような誤った聖書利用を受け入れてしまう米国軍人の「本の読めなさ」に驚きます。今後も警戒が必要です。
http://www.asahi.com/international/update/0803/TKY201108030650.html
「訓練初期にある倫理の講義を担当する従軍牧師が用いた資料が、『核の倫理』という項目で、旧約・新約聖書の記述を多数引用していた。キリスト教の聖戦論を引き合いに『旧約聖書には、戦争に従事した信者の例が多い』と指摘したり、聖書の記述として『イエス・キリストは強い戦士』と位置づけたりしていた」(抜粋)。
これは本日の朝日新聞(13版)の一面記事です。先月27日までの20年間、米空軍で「核ミサイル発射の正当化」にキリスト教が利用されてきたようです。よほど米軍事情に精通している人はともかく、この事実を知っていた日本のキリスト者は皆無でしょう。
ほんとうに恥ずかしいです。聖書をどう読めば「核ミサイル発射を正当化する論理」を導き出せるのかが不明ですし、このような誤った聖書利用を受け入れてしまう米国軍人の「本の読めなさ」に驚きます。今後も警戒が必要です。
2011年8月2日火曜日
「もしパウロの時代にブログがあったら」をめぐる穏やかな対話
先週ブログに公開したコリントの信徒への手紙一の「超訳」を読んでくださった方(以下「zubi先生」)が、ツイッター経由で、うれしいコメントを寄せてくださいました。ほめてもらったからというわけではありませんが(いや、ちょっとあるかな、笑)、我々のツイッター上でのやりとりをブログ用に編集しましたので、以下謹んでご紹介いたします。
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○zubi先生
関口先生の超訳は、光文社古典新訳文庫に通じる興味深い喜びです。先生のパウロ超訳を拝読すると、パウロのカーニヴァル性、すなわちすべての既存の価値観をキリストにより宙吊りにしてしまうパンクな勢いがいきいきと伝わってきます。例えば光文社のドストエフスキーは新潮社のそれのような品格や厳密さが無いと言われる。けれどもドストエフスキーの口角泡を飛ばす勢いはいきいきと伝わってくる。まさにそんな意義を感じるんです。翻訳のプロにしか出来ないこだわりというか。
○関口 康
スゴク有難い、とても勿体ない評価をいただき、うれしく思います。あの訳では、荘厳(?)で残響の長いチャペル内での朗読には不向きでしょうね。
「トークライブ風テイスト訳」に影響を与えた一人は、佐々木中さんですね。『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010年)は、私にとっても近年まれにみる衝撃の一書でした。「本とは読めないものである」ということを教えてくれるあの本が、いちばん読みやすかったし、読めましたね。長年解けずに苦しんできた謎を解き明かしてくれた、というか。
聖書が分からないとか、キリスト教は難しいとか。それは、理解できない人側の「頭が悪い」んじゃないんですよね。「本」というのは本来的に「読めない」ものであり、読めば読むほど分からないものなんですよね、佐々木さんによると。目からうろこでしたね。
私は、中学時代も高校時代も、大学(と言っても神学大学=神学校でしたが)に入ってからも、成績はものすごく悪かったんです。真面目な話、「本が読めなかった」んです。読んでも読んでも全く理解できなくて、「おれは頭が悪いんだ」と思い込んでいました。まあ、頭は悪いんですけどね。それは認めます。
「本が読めない」のは、今でもそうです。何か月か前、実兄から村上春樹氏の小説本を大量に譲り受けましたので、「読んでみるか」と重い腰をようやくあげました。つい昨日も近所の古本屋で『1Q84』の第一巻(BOOK1)から第三巻(BOOK3)までを買い、開いてみるのですが、やっぱり全く入って来ないんです、心の中に。村上氏の小説が何を言いたいのかが分からない。無理に開く感じが止まない。
カール・バルトの『教会教義学』は、ドイツ語版(原著)と日本語版との全巻を買って持っています。神学生時代から何度も開いて読もうとしてもいます。でも、読み続けることができない。やっぱり俺の頭が悪いんだと悩みます。「違う」という拒絶感のほうが強すぎて、「読めない」んです。
「本が読めない」ことの悔しさは、私にとっては地獄の苦しみなんです。なんで他の人には理解できて、俺には理解できないのだろうかと思うと、「死にたい」とまでは考えませんが、人前に出るのが億劫になる。でも、同じ悩みを抱えている人がいるかもしれないと、佐々木中氏の本を読んで気づきました。
だから、と言っていいかもしれない。私の知識のほとんどは、耳学問です。本を読んでも分からない。記憶に残らないので知識にならない。でも、耳で聞いて理解できたことは、いつまでも忘れられないんです。だから、私の知識は、私の教師たちの出身地の方言で訛っているんです。
○zubi先生
分かるなあ。距離の遠さなんですよ。テクストとの。用いられる場によっては、響きや品格が重要なことは勿論です。けれども、パウロならパウロが、今生きているような共時性。そこに焦点が当てられるのもアリですよね。するとテクストはぐんと近付いてくる。
○関口 康
そう、キーワードは「共時性」ですね、たしかに。本だけ読んでも分からない。噛み砕いて解説してくれる人がいなければ、本だけあっても、どうにもならない。そのあたりに、学問に関しては大学の存在意義があり、宗教に関しては教会の存在意義があると、遅ればせながら思います。
私のパウロ超訳の話に戻せば、こういう調子というかこういう雰囲気の翻訳を全く受け付けることができないとか、生理的に拒絶してしまう人たちもいるんだろうなということは、よく分かっているつもりです。その人の生活圏内に存する宗教観、教会観が当然関係しているでしょう。私の生活圏にも、こういうパウロが出現したことはありませんでした(笑)。
○zubi先生
先生のパウロ超訳を拝読すると、パウロのカーニヴァル性、すなわちすべての既存の価値観をキリストにより宙吊りにしてしまうパンクな勢いがいきいきと伝わってきます。アラン・バディウの『聖パウロ』を読んだときに、パウロ神学におけるカーニヴァル性を知ったのでした。バフチンがドストエフスキーで論じている、価値観の宙吊りです。先生の翻訳の試みは、そういうカーニヴァルの勢いをあらためて認識させてくれるんです。
○関口 康
バディウ氏やバフチン氏という方々の本は読んだことありませんが、パウロの「カーニヴァル性」(祝祭性?)や「価値観の宙吊り」という話は面白いですね。ファン・ルーラーに言わせると、パウロはマテリアリストでした。これを「唯物論者」とか訳すとクマンバチが飛んできますね(笑)。
○zubi先生
カーニヴァルというのは、お祭りのなかで、ふだん身分の低い人が高い人をからかったり、儀式的に戴冠や奪冠を行ったりする現象に由来する、価値のひっくり返しのことです。イエスへの兵士たちの侮辱もカーニヴァルですし、死から蘇るイエスは究極のカーニヴァルなのです。
○関口 康
パウロ神学のカーニヴァル性とは、ただ「祝祭的」であるだけではなくて、そこに独特の闘争性というか、平たく言えばけんか腰の要素がある。しかし、殺意むき出しのカムフラージュ軍服着用の戦闘行為としてではなく、徹底的な遊び性の中で根源的な価値転覆をはかる、みたいな感じでしょうか。まだ十分飲み込めていませんが、新しい見方であると思いますね。
○zubi先生
ずいぶん昔に講談社の「本」という雑誌で知ったのですが、カントは自分では他人の哲学書を読んでも理解できず、友人に「ヒュームはこんなことを言ってるんだよ」みたいに説明してもらってはじめて分かったそうです。それでもあんなに鋭い考察ができた。
○関口 康
それは興味深い話ですね!私は自分とカントを並び称する根性などは持ちあわせていませんが、カントがどうしてそうだったのかは、何となく分かります。要は、幼い頃から教え込まれた(敬虔主義の)キリスト教の「体系」がほとんど彼の血肉となり、悪く言えば「閉じた体系」の中にいたのではないかと。
○zubi先生
神学部で宗教哲学の先生に徹底的に鍛えられたことは、「テクストをパラレルに読め。リニアーに読むな。」ということ、そしてレジメもそのように作成せよというものでした。けれどもこれができなかった。わたしもおそらく、本が読めない部類なんです(笑)。
○関口 康
これもすごく興味深い話ですね。「テクストをパラレル(並列的?)に読め。リニアー(直列的?)に読むな」を「通時的ではなく共時的に」と別言することは可能でしょうか。教義学のほうが向いている人と教会史のほうが向いている人とがいるとは思いますけどね。「論」で考えるか、それとも「史」で考えるかの違いのようなことでしょうか。
(2011年8月1日、ツイッターにて)
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○zubi先生
関口先生の超訳は、光文社古典新訳文庫に通じる興味深い喜びです。先生のパウロ超訳を拝読すると、パウロのカーニヴァル性、すなわちすべての既存の価値観をキリストにより宙吊りにしてしまうパンクな勢いがいきいきと伝わってきます。例えば光文社のドストエフスキーは新潮社のそれのような品格や厳密さが無いと言われる。けれどもドストエフスキーの口角泡を飛ばす勢いはいきいきと伝わってくる。まさにそんな意義を感じるんです。翻訳のプロにしか出来ないこだわりというか。
○関口 康
スゴク有難い、とても勿体ない評価をいただき、うれしく思います。あの訳では、荘厳(?)で残響の長いチャペル内での朗読には不向きでしょうね。
「トークライブ風テイスト訳」に影響を与えた一人は、佐々木中さんですね。『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010年)は、私にとっても近年まれにみる衝撃の一書でした。「本とは読めないものである」ということを教えてくれるあの本が、いちばん読みやすかったし、読めましたね。長年解けずに苦しんできた謎を解き明かしてくれた、というか。
聖書が分からないとか、キリスト教は難しいとか。それは、理解できない人側の「頭が悪い」んじゃないんですよね。「本」というのは本来的に「読めない」ものであり、読めば読むほど分からないものなんですよね、佐々木さんによると。目からうろこでしたね。
私は、中学時代も高校時代も、大学(と言っても神学大学=神学校でしたが)に入ってからも、成績はものすごく悪かったんです。真面目な話、「本が読めなかった」んです。読んでも読んでも全く理解できなくて、「おれは頭が悪いんだ」と思い込んでいました。まあ、頭は悪いんですけどね。それは認めます。
「本が読めない」のは、今でもそうです。何か月か前、実兄から村上春樹氏の小説本を大量に譲り受けましたので、「読んでみるか」と重い腰をようやくあげました。つい昨日も近所の古本屋で『1Q84』の第一巻(BOOK1)から第三巻(BOOK3)までを買い、開いてみるのですが、やっぱり全く入って来ないんです、心の中に。村上氏の小説が何を言いたいのかが分からない。無理に開く感じが止まない。
カール・バルトの『教会教義学』は、ドイツ語版(原著)と日本語版との全巻を買って持っています。神学生時代から何度も開いて読もうとしてもいます。でも、読み続けることができない。やっぱり俺の頭が悪いんだと悩みます。「違う」という拒絶感のほうが強すぎて、「読めない」んです。
「本が読めない」ことの悔しさは、私にとっては地獄の苦しみなんです。なんで他の人には理解できて、俺には理解できないのだろうかと思うと、「死にたい」とまでは考えませんが、人前に出るのが億劫になる。でも、同じ悩みを抱えている人がいるかもしれないと、佐々木中氏の本を読んで気づきました。
だから、と言っていいかもしれない。私の知識のほとんどは、耳学問です。本を読んでも分からない。記憶に残らないので知識にならない。でも、耳で聞いて理解できたことは、いつまでも忘れられないんです。だから、私の知識は、私の教師たちの出身地の方言で訛っているんです。
○zubi先生
分かるなあ。距離の遠さなんですよ。テクストとの。用いられる場によっては、響きや品格が重要なことは勿論です。けれども、パウロならパウロが、今生きているような共時性。そこに焦点が当てられるのもアリですよね。するとテクストはぐんと近付いてくる。
○関口 康
そう、キーワードは「共時性」ですね、たしかに。本だけ読んでも分からない。噛み砕いて解説してくれる人がいなければ、本だけあっても、どうにもならない。そのあたりに、学問に関しては大学の存在意義があり、宗教に関しては教会の存在意義があると、遅ればせながら思います。
私のパウロ超訳の話に戻せば、こういう調子というかこういう雰囲気の翻訳を全く受け付けることができないとか、生理的に拒絶してしまう人たちもいるんだろうなということは、よく分かっているつもりです。その人の生活圏内に存する宗教観、教会観が当然関係しているでしょう。私の生活圏にも、こういうパウロが出現したことはありませんでした(笑)。
○zubi先生
先生のパウロ超訳を拝読すると、パウロのカーニヴァル性、すなわちすべての既存の価値観をキリストにより宙吊りにしてしまうパンクな勢いがいきいきと伝わってきます。アラン・バディウの『聖パウロ』を読んだときに、パウロ神学におけるカーニヴァル性を知ったのでした。バフチンがドストエフスキーで論じている、価値観の宙吊りです。先生の翻訳の試みは、そういうカーニヴァルの勢いをあらためて認識させてくれるんです。
○関口 康
バディウ氏やバフチン氏という方々の本は読んだことありませんが、パウロの「カーニヴァル性」(祝祭性?)や「価値観の宙吊り」という話は面白いですね。ファン・ルーラーに言わせると、パウロはマテリアリストでした。これを「唯物論者」とか訳すとクマンバチが飛んできますね(笑)。
○zubi先生
カーニヴァルというのは、お祭りのなかで、ふだん身分の低い人が高い人をからかったり、儀式的に戴冠や奪冠を行ったりする現象に由来する、価値のひっくり返しのことです。イエスへの兵士たちの侮辱もカーニヴァルですし、死から蘇るイエスは究極のカーニヴァルなのです。
○関口 康
パウロ神学のカーニヴァル性とは、ただ「祝祭的」であるだけではなくて、そこに独特の闘争性というか、平たく言えばけんか腰の要素がある。しかし、殺意むき出しのカムフラージュ軍服着用の戦闘行為としてではなく、徹底的な遊び性の中で根源的な価値転覆をはかる、みたいな感じでしょうか。まだ十分飲み込めていませんが、新しい見方であると思いますね。
○zubi先生
ずいぶん昔に講談社の「本」という雑誌で知ったのですが、カントは自分では他人の哲学書を読んでも理解できず、友人に「ヒュームはこんなことを言ってるんだよ」みたいに説明してもらってはじめて分かったそうです。それでもあんなに鋭い考察ができた。
○関口 康
それは興味深い話ですね!私は自分とカントを並び称する根性などは持ちあわせていませんが、カントがどうしてそうだったのかは、何となく分かります。要は、幼い頃から教え込まれた(敬虔主義の)キリスト教の「体系」がほとんど彼の血肉となり、悪く言えば「閉じた体系」の中にいたのではないかと。
○zubi先生
神学部で宗教哲学の先生に徹底的に鍛えられたことは、「テクストをパラレルに読め。リニアーに読むな。」ということ、そしてレジメもそのように作成せよというものでした。けれどもこれができなかった。わたしもおそらく、本が読めない部類なんです(笑)。
○関口 康
これもすごく興味深い話ですね。「テクストをパラレル(並列的?)に読め。リニアー(直列的?)に読むな」を「通時的ではなく共時的に」と別言することは可能でしょうか。教義学のほうが向いている人と教会史のほうが向いている人とがいるとは思いますけどね。「論」で考えるか、それとも「史」で考えるかの違いのようなことでしょうか。
(2011年8月1日、ツイッターにて)
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