2008年12月13日土曜日
2008年12月12日金曜日
ユトレヒト大学図書館 Universiteitsbibliotheek Utrecht
ついにオランダを去る日が来ました。月曜日から金曜日までのわずか五日間の旅程でしたが、オランダで学びたいこと、取り組んでみたいこと、私にもできそうなことはたくさんあるということがよく分かりましたが、 おそらくもう二度と行くことはできないでしょう。悲壮感というほどのことを感じたわけではありませんが、夢の限界を悟る瞬間というのはなるほどちょっぴり寂しいものだと分かりました。
オランダ旅行最後の日、石原先生とユトレヒト中央駅(Utrecht Centraal)で再合流し、最初に行ったのはユトレヒト大学の図書館でした。
我々の目当ては、同図書館内に設置されている「ファン・ルーラー文庫」(A. A. Van Ruler Archief)です。石原先生が事前にメールで閲覧許可申請を行ってくださっていたので、入館はとてもスムーズでした。
しかし、我々は「ファン・ルーラー文庫」なるものがどのような形態のものであるのかを全く知りませんでした。予想していた可能性は、せいぜい広い図書館の一角に閉架式の文庫があって、許可を得た者たちがそこに入って本を手に取ることができるのだろう、くらいのことでした。
ところが、それがとんでもない見当違いであったということに気づくのに、それほど時間は要りませんでした。まずガラス張りの部屋に通され、図書館員の厳重な監視体制のもとに置かれました。そこで、いくつかの誓約事項が記された念書にサインを求められました。一文書の閲覧時間は30分間に限られました。
そして、あらかじめ閲覧希望を予約していた文書が、図書館員の手で運ばれてきました。もちろんその手には白い手袋。文書には封筒がかけられていました。その封筒から恐る恐る取り出したのは、ファン・ルーラーの自筆ノートの切れっ端でした。
鉛筆を持つ私の右手より右側にあるのがファン・ルーラーの自筆文書です。1945年8月15日、日本が第二次世界大戦における敗戦を認め、降伏したときにファン・ルーラーがラジオ(名称は「オランダ復興ラジオ」)に出演して語った内容の元原稿です。そのタイトルは「大空に善き知らせあり」(Er zit goed nieuws in de lucht)というものでした。自由の喜びを謳歌する内容でした。
同図書館の規定に「自分の手で書き写すことや写真を撮ることは許可する」と定められていることにほっと胸をなでおろしながら、限られたわずかな時間で必死で書き写しているのが上の写真の状況です。
私の向かい側に座って仕事をしていた人もファン・ルーラーの文書を扱っていました。ただし、その方は、我々のような観光客ではなく、現在刊行中の『ファン・ルーラー著作集』(A. A. van Ruler Verzameld Werk)の校正担当者(学生アルバイト)でした!
(修道士のような)ものすごい集中力をもって仕事しておられましたが、我々が話しかけると気さくに応じてくださいました。日本でファン・ルーラーが研究されているということをお伝えしましたところ非常に喜んでくださいました。このような方々の努力に対して我々は日本語版『ファン・ルーラー著作集』の実現をもって応えなければならないと心に誓いました。
石原知弘先生 Ds. Tomohiro Ishihara
感動と興奮冷めやらぬフローニンゲンに後ろ髪を引かれながら、再びフローニンゲン駅に戻り、レーワルデンまで電車に乗り、レーワルデンから自動車でアペルドールンの石原家まで帰りました。
丸一日のドライブでお疲れ気味のお父さんと、変なおじさんを温かく迎えてくれたのが石原家の若き美人姉妹でした(写真)。
子どもさんたちはすでにすっかりオランダ生活に慣れておられるご様子で、オランダ語の歌をうたってくださいました。夜遅い時刻になっていましたのに、ご夫人手作りの夕食までいただいてしまい(五つ星の美味しさでした!)、生涯の思い出になりました。ありがとうございました。
その後はアペルドールン駅まで自動車で送っていただき、石原先生とその日はお別れ。アペルドールン駅からアムステルダム中央駅まで電車に乗り、アムステルダムのホテルに戻りました。
フローニンゲン Groningen
この日は、朝早くアペルドールンを出発し、カンペン、フラネカーと、ひたすら北上してきました。石原知弘先生の運転するフォルクスワーゲンゴルフに乗せていただいて、石原先生ご自身が綿密に計画してくださったルートに従って、すべて順調に事が運びました。
そして、レーワルデン(Leeuwarden)という町に駐車し、駅から電車に飛び乗り、オランダの北の最果て、フローニンゲンを目指しました。フローニンゲンに到着したときにはすでに日が暮れていました(上の写真はフローニンゲン駅前)。
いま「フローニンゲン」と書きました。外国の地名や人名のカタカナ表記にはこれまでも難儀してきましたが、この「フローニンゲン」も悩みの種でした。日本では「グロニンゲン」と書く人もいます。しかし、現地に行ってみて分かったことは、これをカタカナ表記することは至難の業であるということでした。
レーワルデンからフローニンゲンまでの電車の中で聞いた車掌のアナウンス(録音かコンピュータ音声かもしれません)に驚きました。Groningenと言ったらしき声を私が聞いたままに表記するとしたら「フローニエン」です。しかも、「ロー」のあたりにアクセントがあり、そこだけははっきり聞こえるのですが、最初の「フ」と後半の「ニエン」のあたりはよく聞こえません。メゾピアノでふわっとフェードインしてきて、「ロー」だけはっきり聞こえて、すぐにフェードアウトしていくように発音されていました。
これをどんなカタカナで書けるというのでしょうか。翻訳者たちは自説をなかなか譲りませんが、これはお互いに我慢するしかなさそうだなあと痛感しました。
さて、フローニンゲンに来た目的は、もちろん「フローニンゲン大学」(Rijksuniversiteit Groningen)です。ファン・ルーラーが卒業した神学部を擁する大学です。フローニンゲン駅から徒歩10分くらいだったでしょうか、巨大なゴシック式の本部棟に着きました。
本部棟の中にも、外にも、前の通りにも、学生や教授らしき人々がたくさんいましたが、日本からの珍客はそういうことをあまり気にせずに、ズカズカと本部棟の内部に入って行きました(写真は日中の本部棟正面。Wikipedia「フローニンゲン大学」より転載させていただきました)。
そして、正面入り口から入ってすぐのところに大きな階段がありましたので、登ってみましたところ、なんと、「神学部」(Faculteit van Godgeleerdheid)という字が刻まれた古めかしい木彫りの看板がかかった扉を見つけることができました。
まさにここです!ファン・ルーラーがかなり苦学して辿り着いたとされる最高学府の建物の中にいるのかと思うと、なぜかちょっとした武者ぶるいが襲ってきました。ファン・ルーラーの在学当時、ここで教えていた人々の中には、『ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)』や『中世の秋』の著者として世界的に有名なホイジンガもいました。ファン・ルーラーが「遊び」(spel)という概念を好んで用いたことの背景にホイジンガの影響があると見ることは、何ら不自然ではありません。
また当時の神学部には、オランダで初めてカール・バルトの神学を研究・紹介したテオドール・ハイチェマがいました。ハイチェマはアペルドールン教会の牧師だったときにすでにファン・ルーラーと出会っていましたが、この地で再会し、さらにファン・ルーラーの学位論文(神学博士号請求論文)の指導教授まで引き受けた人物です。
本部棟の向かい側にきわめて近代的なビル(本部棟とは全く対照的!)の「図書館」がありましたので、ちょっとだけ中に入ってみましたが、本当にちょっとだけでした。
フローニンゲンの「大教会」(Grote Kerk)も、外から見ただけですが、とにかく素晴らしいものでした。二人ともちょっとお腹がすいたので、「大教会」の前の広場に面したところにあったハンバーガー屋(だったと思う)の自動販売機で「フライドポテト」を購入し、それを食べながら、またしばらく「大教会」に見惚れていました。立ち去りがたい思いを抱きながら。
石原先生が言われた次の言葉には、大いに共感しながら聞きました。
「ぼくはこれまで、オランダでいちばん美しい町はユトレヒトとライデンのどちらか、またはどちらもだと思ってきましたが、今日からフローニンゲンが加わりました。これはいい!」
こんな感じでかなりハイテンションな我々でしたが、日付が変わらないうちに帰宅するためには(私はアムステルダムのホテルに、石原先生はアペルドールンの滞在先に)、フローニンゲンに長居することはできませんでした。
2008年12月11日木曜日
フラネカー Franeker
クバートの次に訪れたのはフラネカーでした。上の写真は、いつもインターネットを通じてお世話になっているフラネカーの古書店Antiquariaat Wever van Wijnen の前で撮りました。
フラネカーはオランダの最北部、フリースラント地方に位置する小さな町ですが(この日も寒かった!)、17世紀の錚々たる改革派神学者、ウィリアム・エイムズ(アメシウス)、ヨハネス・コクツェーユス、ヘルマン・ヴィトジウスらとの関係が深い町です。
フラネカーの「大教会」に大学が置かれ、そこでエイムズが教えていました。そのエイムズのもとでコクツェーユスが学びました。エイムズはフラネカーに1622年から1633年まで滞在した後(1626年には学長職)ロッテルダムに移りましたが、風邪を患いその年に亡くなりました。エイムズが去った後のフラネカーには1636年から1650年までコクツェーユスが滞在し、ヘブライ語と神学を教えました。コクツェーユスは1650年以降はライデン大学神学部で教えるようになりましたが、少し時を置いた1675年から1680年までの5年間、今度はヴィトジウスがフラネカーで神学を教えました。
神学の世界、とくに教理史の講義などでは、エイムズ、コクツェーユス、ヴィトジウスと言えば「契約神学」(Federal Theology)の一言で括られ、この神学の特徴(善し悪し)が手早く紹介されることになっています。しかも、カルヴァンの神学を正統的に継承したというよりも、行き過ぎや逸脱があったというふうに教えられることのほうが多い実情です。
しかし、結論を急ぐなかれ。我々は17世紀の改革派神学者たちのことをほとんどまだ何も知りません。言論の自由は保障されています。批判することも自由です。しかし、何を言うにしても、彼らの書いた本の中のわずか一冊でもきちんと読んでからのほうがよいのではないでしょうか、と申し上げておきます。
クバート Kubbard
いよいよクバート。この町にはファン・ルーラーがフローニンゲン大学神学部卒業後、最初に牧会した「クバート教会」 があります。
クバート教会に到着。カンペンの「大教会」(文字通りの「大」教会)を見た後ですのでクバート教会の建物は小さく見えましたが、規模はともかく、たたずまいはなかなか立派なものでした。
クバート教会の歴史を記した看板。そのうちきちんと全訳したいと思いますが、書かれていることは教会の歴史というよりは、紀元前500年頃から2500年間(!)に及ぶ町の歴史です。「この地に教会が立ったのは西暦1275年のことであるが、現在のゴシック式建築のものになったのは西暦1500年のことである」と書かれています。
クバート教会の内部。鍵がしまっていたので入れませんでしたが(勝手に入ると不法侵入)、ここで若きファン・ルーラーが説教をしていた様子を思い巡らしながら、窓の外からパチリ。
クバート教会の境内に立っている墓碑。前列右のFrans TJ. Robijn氏が亡くなられた日「1938年5月17日」にはファン・ルーラーがこの教会の牧師でしたので、葬儀から納骨までのすべてをファン・ルーラーが行ったものと思われます。
「墓碑が教会の境内にあるのは良いことだなあ」と思いながら。
カンペン Kampen
カンペンの町の入り口
オランダ改革派教会解放派(Vrijgemaakt)のカンペン神学大学
オランダプロテスタント神学大学カンペン校(元カンペン神学大学)
オランダプロテスタント神学大学カンペン校講堂
カンペン大教会(Grote Kerk)
アペルドールン Apeldoorn
11日(木)は午前6時起床。朝食バイキングが始まる7時よりも前にホテルを出、トラムに飛び乗りました。そして7時半頃にはアムステルダム中央駅から電車に乗り、一路アペルドールンへ。アペルドールン駅前で石原知弘先生と待ち合わせ。石原先生が運転する自動車に乗せていただいて、オランダの東北地方に向かうためです。
■ アペルドールン
アペルドールン市(Gemeente Apeldoorn)は、神学者アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])が、生まれてから大学に入学する直前まで住んでいた、まさにこの神学者ゆかりの地です。現在石原先生が学んでおられるアペルドールン神学大学がある市でもあります。
駅から直行したのは、アペルドールン神学大学(Theologische Universiteit Apeldoorn)です。我々が訪ねたときは学生会の設立記念日のパーティーが行われている最中でした。来日講演をしてくださったことがある旧約聖書学者H. G. L. ペールス教授が我々を歓迎してくださり、神学生や近隣の教会の牧師たちと共に、30分くらい親しくお話しすることができました。
ペールス先生はファン・ルーラーがアペルドールン出身であることをご存知なかったらしく、我々の調査に深い関心を寄せてくださり、喜んでくださいました。神学生の一人は私の顔を見るなり、ニヤニヤ笑いながら「昨日アムステルダム自由大学でスピーチした人でしょ?」。私のことを覚えていてくださり、「出席しておられたのですか?」「ええ、行ってましたよ」という話から始まって、いろいろと盛り上がり、意気投合しました。別れ際、ペールス先生は御自身の最新著をプレゼントしてくださいました。最後の最後に「韓国(Korea)の(?)教会の皆様には、くれぐれもよろしくお伝えください!」とおっしゃいました。とても優しい先生でした。
国際カルヴァン学会のH. J. セルダーハイス会長も、この神学大学の教授です。セルダーハイス教授の姿を窓越しにちらっと見かけたので御挨拶したかったのですが、日が暮れるまでに計画したすべてを実行するためには時間が足りそうもないことが判明しましたので、先を急ぐことにしました。
その後、神学大学の裏というかすぐ隣にあるアペルドールン・ヒムナシウム(Apeldoorn Gymnasium)を見学しました。ヒムナシウム(ギムナジウム)は、大学入学前の準備教育を行う超難関校です。ファン・ルーラーはこのヒムナシウムを卒業後、フローニンゲン大学神学部に入学しました。ヒムナシウム時代のファン・ルーラーは数学、とくに「立体幾何学」が得意であったと伝えられています。校門の柱にAnno 1813(西暦1813年)と刻まれている歴史的建造物は、今も現役で用いられています。学校の前をうろつく二人の東洋人がよほど珍しかったようで、ヒムナシウムの生徒たち(とくに女の子たち)が窓の中から我々に笑顔を向け、手を振ってくれました。
次に向かったのはアペルドールンの「大教会」(Apeldoorn Grote Kerk)です。アペルドールン教会は、ファン・ルーラーが両親や兄弟と共に(彼は長男でした)幼い頃から通っていた教会です。彼の小児洗礼式と信仰告白式は、この教会で行われました。信仰告白に際しての教理問答教育(catechisatie)は、当時この教会の牧師であったTh. L. ハイチェマが行いました。ハイチェマはアペルドールン教会の牧師を辞任後、フローニンゲン大学神学部の教授になりました。アーノルト少年への教理問答教育には、オランダ改革派教会の伝統に則ってハイデルベルク信仰問答が用いられました。
ただし、今書いた説明は、これまで日本で読んできた書物から得たものです。ところが、今回の調査で、いくらか複雑な事情がありそうだと分かりました。
ペールス先生が、次のように教えてくださいました。ハイチェマが牧師をしていたとき(1918年~1923年)のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、略称NHK)は、アペルドールンに二つあったそうです。「大教会」(Grote Kerk) と「ヨハネス教会」(Johannes Kerk)です。しかし、後者「ヨハネス教会」は今から数年前に取り壊されました。また、1970年代ないし80年代頃までのNHKの牧師は、個別の教会に赴任するのではなく、複数の牧師で複数の教会を担当していたそうです。そのため、ファン・ルーラーとその家族が「大教会」のほうに通っていたか、それとも「ヨハネス教会」のほうに通っていたかを特定することは、「ハイチェマが牧していた教会である」という情報だけでは無理だということです。別の情報を得られるまでは、それは「大教会」(Grote Kerk)のほうであった「可能性がある」と書くのがより正確だということです。
やはり現地に行かねば分からないことがたくさんあるなあと思わされました。