2008年2月29日金曜日

ファン・ルーラーと「五人の神学者」

ファン・ルーラーの著作が有する「謎」の要素は、だれの書物からの引用であるかが分からないところにもあります(それだけではありませんが)。ただし、ファン・ルーラーの蔵書量と読書量は非常に多かったということも知られています。引用元の文献を特定することは容易ではありません。しかし、それでは全く手掛かりがないかというと、そんなことはありません。絶望すべきではありません。ファン・ルーラーに圧倒的な影響力を及ぼした偉大な先人は、もちろんある程度特定できます。



確実なところを五人挙げるとしたら、アブラハム・カイパー、ヘルマン・バーフィンク、エルンスト・トレルチ、カール・バルト、ウプケ・ノールトマンスです。五人のうちカイパーとバルトに対してファン・ルーラーは、激烈なまでの批判を投げかけもしました。しかし、彼が彼らを攻撃したのは、党派心や私怨などからではありえず、カイパーとバルトの神学がオランダ改革派教会に及ぼした影響が圧倒的なものであったからこそ、どの神学にも必ず存する短所や欠点を指摘しておく必要が生じたからです。



ファン・ルーラーが「改革派の」神学者であったということについては間違いなく言いうることであり、この点に彼は、少し強すぎるほどのこだわりさえ持っていました。しかし、彼の書物の中に「我々カルヴィニストは」というたぐいの表現を見つけたことは、私自身はまだありません。ファン・ルーラーは「カイパー主義者」にも「バルト主義者」にもなりませんでしたし、そのようなものになることができませんでした。大樹に寄りかかることも、長いものに巻かれることも、よしとしませんでした。「自立して神学すること」(zelfstandige te theologiseren)をこそ、よしとしたのです。



しかしそれでも、バーフィンク、トレルチ、ノールトマンスに対する尊敬は(彼らの「主義者」になるという仕方においてではありませんでしたが)非常に大きいものでした。



ファン・ルーラーにおける「トレルチの問題」

ファン・ルーラーを読んでいますと、「トレルチの問題」にぶつかることが不可避的であることに気づかされます。改革派教義学者ファン・ルーラーが「トレルチ研究者」でもあったことは確実です。



ファン・ルーラーがフローニンゲン大学神学部に提出した卒業論文のテーマが「ヘーゲル、キルケゴール、トレルチの歴史哲学」というものでした(指導教授prof. dr. W. Aalders)。そして、さらにその後彼は、トレルチの歴史哲学に関する博士論文まで書こうとしていました。しかし、教会の牧師の仕事をしているうちに新しい関心が芽生えたため、博士論文のテーマは教義学的なものに変更しました。しかし、ファン・ルーラーがトレルチについての博士論文を書こうとしていたことは事実であり、そうしようと思うくらいに彼がトレルチを徹底的に読み込んでいたことも確実です。実際、ファン・ルーラーの文章にはトレルチからの引用が多いし、トレルチの問題提起を受けた発言も多い。



ただしファン・ルーラーは、トレルチに限らずどんな人からの引用であっても引用元を明示していない場合が多く、それがファン・ルーラー研究者を泣かしてきました。そのため、ファン・ルーラーの文章のどこにトレルチの引用があるかを見抜くという厄介な仕事は、当たり前のことですが、トレルチ自身の文章を実際に読んだことがある人にしか不可能であるということにもなるわけです。



私はこれでも一応、東京神学大学大学院で「エルンスト・トレルチの倫理思想」についての修士論文を書いた者です(審査の結果はあまり思わしいものではありませんでしたが)。私も一時期トレルチはかなり読み込みました。特に、最高の金字塔『歴史主義とその諸問題』(Der Historismus und seine Probleme, 1922)は、近藤勝彦先生の全訳版を、感動の涙を流しながら何度も繰り返して読みました。どこに書いてあるかをすぐに思い出せなくても、トレルチがどういうことを考えていたかが少しは分かります。ファン・ルーラーを読みながら、「これはトレルチの引用だな、たぶん」と分かります。はずれたことはありません。



今週月・火曜日の東関東中会教師会一泊研修会で久米あつみ先生がお教えくださったことの一つは、フランスのカルヴァン学者、オリヴィエ・ミエ先生の凄さ。ミエ先生の手にかかると、この手書き文書はカルヴァン自身の直筆かどうかなどは数行も読めば判別できるとのこと。



私もいつか、せめてファン・ルーラーに関して、また理想的には主要なオランダ改革派神学者に関して、その域に達してみたいと願っています。



2008年2月27日水曜日

東関東中会教師会一泊研修会

一昨日、昨日と日記を書けなかったのは、体調不良のせいではなく不在だったからです。東関東中会教師会一泊研修会でした。テーマは「カルヴァンの生涯と神学」、講師は久米あつみ先生(帝京大学元教授、アジア・カルヴァン学会顧問、フランス文学者)、会場は日本キリスト改革派勝田台教会(千葉県八千代市)でした。せっかくの機会を牧師たちだけで特権的に占有してはなるまいと、最初の部分を「公開講演会」にして一般の参加者を募りましたところ、老若男女、大勢集まってくださり、満堂になりました。開会礼拝をささげた後、久米先生の明晰で味わい深い名講義(90分)を堪能できました。そしてその後は一般の参加者にはお帰りいただきました。帰り際、どなたもとても満足しておられました。私は教師会の会長(昨日まで)として本企画の主催者でしたので、参加者の嬉しそうな表情に深い慰めを得ました。そして、牧師たちだけになってから、久米先生の御著書(久米あつみ著『カルヴァンとユマニスム』、お茶の水書房、1997年)をテキストにしたゼミを行い、そこに久米先生御自身にも参加していただき、まことに懇切丁寧なご指導をいただくことができました。そのような満ち足りた二日間を過ごしておりました。ゼミの中で私もレポートを書いて発表する担当者になりました(そのレポートはここにあります)。私の担当箇所は「第七章 カルヴァンのレトリック」の部分でした。本当に心から信頼しあえる同僚牧師たちと深く広い学びができたと感じ、うれしく思いました。帰宅後、久米先生の御著書に言及されている古代の修辞学者クインティリアヌスのことを知りたいと思い、例によってネットで検索してみました。すると、な、なんと、ごく最近のことのようですが、クインティリアヌスの主著Institutio Oratoriaが日本語に翻訳され、その日本語版の全五分冊(原著は全12巻)中の一冊目がすでに出版されていると知り、非常に驚きました(クインティリアヌス著『弁論家の教育〈1〉』 、西洋古典叢書、京都大学学術出版会、2005年)。さっそくAmazonで注文しました。



2008年2月24日日曜日

読書を再開しています

気力というのは恐ろしいものがあります。体調を崩すなどしてそれを失うというか減ってしまうというかの体験をすると、気力というものの存在の大きさを感じます。勢いよく書いてきた日記が、思うように書けなくなりました。言葉があふれてこないというか、物事を考えること自体がちょっとおっくう。お腹の風邪は治ったものの、のどや鼻に痛みがあり、薬を飲んでいることも関係してか、一日中ボーっとした感じが続いています。「気力を失った」と感じるとき、とくに「言葉を失った」と感じるときは、本を読むことにしてきました。とくに日曜日の夜、なかでも説教があまりうまくいかなかったと感じる日、また教会や中会や大会などの会議の席で何らかのトラブルめいたやりとりがあって腹の虫が治まらないとき、などなど。そういうときに限って猛烈に本を読みたくなります。「言葉を失った」ので「言葉をかき集め、不足を補い、蓄える」ために本を読む。とても単純な話です。こんな単純なやり方でけっこう回復してしまう私は、人間の造りが単純なのでしょう。ものすごく腹が立つような出来事があってイライラ、ムカムカしている日の夜などに限って、オランダ語の神学書を辞書と首っ引きで読んでいたりします。あまりに没頭しすぎて、気がつくと次の日の朝だったという場合も、しょっちゅうです。今日読んでいたのは、E. コリンスキー編『西ヨーロッパの野党』(清水望監訳、行人社、1998年初版、2004年第三版)です。何ヶ月か前に近くの古本市場で見つけて買いました。なかなか面白い本です。私の恒常的な関心事の一つにオランダのキリスト教政党の動向をウォッチすることがあるのですが、本書にはオランダのキリスト教政党が、特に前世紀後半以降、「野党」になったり「与党」になったりを繰り返しながらうまい具合に世論を「中道化」させ、バランスを保ってきた様子が、短い言葉ながら分かりやすく書かれていました。このような良い本が日本語でたくさん書かれること、また良い日本語に翻訳されることを期待します。「日本にもキリスト教政党が欲しい」と真剣に願っているのは、私だけでしょうか。



2008年2月23日土曜日

地域にかかわる

今日は朝7時45分から30分間、中学校前でPTAの「あいさつ運動」に参加しました。夜は補導員の仕事でした。地域社会の活動に参加することの大切さを改めて実感しました。



2008年2月21日木曜日

ファン・ルーラー研究会 結成9周年記念メッセージ

ファン・ルーラー研究会の皆様、



本日は、研究会結成9周年の記念日です。毎年、記念メッセージを書かせていただいていますので、今年も書きます。



○昨年2007年は、わたしたちにとって大きな動きを感じられた年でした。主な動きは以下のとおりです。



(1)8月には、教文館からファン・ルーラーの三冊目の訳書として『キリスト教会と旧約聖書』(矢澤励太先生訳)が出版されました。この本の素晴らしい書評を牧田吉和先生が『本のひろば』にお書きになりました。



(2)9月には、二年ぶりとなる我々の研究会の「神学セミナー」を日本基督教団頌栄教会で開催することができました。牧田吉和先生が「ファン・ルーラーの喜びの神学」について力強い講演をしてくださいました。



(3)また同月、アメリカのニューブランズウィック神学校で「国際ファン・ルーラー学会」が開催され、アメリカのファン・ルーラー研究者が一堂に会しました。



(4)さらに同月、ついにオランダで新しい『ファン・ルーラー著作集』の第一巻が出版されました(第二巻は今年4月出版予定です)。その『著作集』第一巻の「編集者序」の中に「日本にファン・ルーラー研究会(Van Ruler Translation Society)がある」ことが大々的に紹介されました。『著作集』で紹介されたということは、それが収められる全世界の大学や神学校の図書館にも、我々の研究会の名前が永久に覚えられることになったことを意味しています。



(5)そして、その『著作集』出版記念祝賀会の席で、ファン・ルーラーの息子さんであるケース・ファン・ルーラーさんが、牧田先生がファン・ルーラー家を訪問されたときのエピソードをオランダの碩学たちの前で紹介してくださいました(その音声がインターネットを通じて世界的に紹介されました)。



○日本語版『ファン・ルーラー著作集』の実現の夢はまだ叶いませんが、コツコツとした活動は、続けています。



(1)たとえば、昨年は、日本キリスト教会神学校の紀要『教会の神学』に栗田英昭先生の「ファン・ルーラーの聖霊論におけるキリストとの神秘的合一」と題する堅実な研究論文が掲載されました。



(2)また私も、神戸改革派神学校の紀要『改革派神学』に「地上における神のみわざとしての教会」という論文を書きました。日本基督教団改革長老教会協議会の『季刊 教会』誌にも「改革派神学・長老主義・喜びの人生」という論文を書きました。



○さらに、我々ファン・ルーラー研究会の少し先輩である「アジア・カルヴァン学会」にも、昨年は大きな動きがありました。



もちろん、言うまでもなく、東京代々木・青少年センターで行われた「第10回日本大会」の開催です。世界最高レベルのカルヴァン学者、ライデン大学のヴィム・ヤンセ教授をメイン講師にお迎えし、日本、韓国、台湾、インドネシアから約100名の参加者が東京に結集しました。



○今年の抱負も少し述べておきたいと思います。現在計画中なのは、念願の日本語版『ファン・ルーラー著作集』への道備えとしてのいくつかのステップです。以下のようなことを計画し、具体的に動きはじめています。



(1)「ファン・ルーラー研究会シリーズ」(仮称)の自費出版(発売元を著名な出版社に依頼する計画です)



(2)著名な雑誌へのファン・ルーラーの訳文(訳注・解説つき)の連載



(3)神学セミナーの開催(これは毎年一回開催を原則としてきたものです。内容・日程等は未定)



(4)なお、今年2008年12月10日(水)は、ファン・ルーラー生誕百年記念日です。当日、アムステルダム自由大学で記念講演会が行われます。メイン講師はユルゲン・モルトマン博士です。日本からも参加できる人がいるとよいのですが。



(5)あとは、オランダ語の翻訳にひたすら取り組むこと、そして同時に、繰り返し問われる「なぜ今、日本でファン・ルーラーなのか」という問題にきちんと答えられるように、我々自身の研究と洞察を深めていくことだと思っています。



○メーリングリストは、このところ少し低調気味ですが、これを「命綱」と感じてくださっている方々もおられることを知っております。ありがたく感謝いたします。



どうかこれからもよろしくお願いいたします。どなたもお元気でお過ごしくださいませ。



2008年2月20日



関口 康



ファン・ルーラー研究会代表
日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師



この記念メッセージを「ファン・ルーラー研究会ホームページ」に掲載しました。PDF版もあります。



2008年2月20日水曜日

復活しました

「日記を中断します」と月曜日に書きましたが、中断しなくて済みそうです。昨夜までは自信喪失状態で萎(しお)れていましたが、一夜明けたら急にモリモリ元気が出てきました。今日の午前中は水曜礼拝、また午後は中学校のPTA活動に参加してきました。食事も普通食に戻りました(量は控え目ですが)。「ボクって若いんだなあ」と感じています。もう大丈夫です。牧師の仕事も、改革派教義学も、ファン・ルーラーも、オランダ語も、カントも、米倉涼子さんも伊東美咲さんも、続けていきます。



2008年2月19日火曜日

自主謹慎中です

昨夜はうどん(月見でした!)、今朝は食パン一枚(マーガリンなし)を口にすることができました。しかし、体力と気力にまだ欠けるものがあるのと、日曜日に教会の皆さんにあれほど大きな迷惑をかけ、動揺させてしまった自分の不節制への反省と自粛の念あって、外出は控えております(要するに自主謹慎です)。それでも、全く寝込んでしまうわけにも行かず(たまっている仕事もありますので)、体に応えない程度に時間を制限しつつ、パソコンと付き合わなければなりません。ノートパソコンを牧師館の寝室に持ち込んで、寝ながらやっています。心配してメールをくださる方々には、ただ感謝あるのみです。「体に触るから返事は要らないよ」とか書いてくださる方もおられる。大先輩からそういうことを言われると、どうしていいやら分からない感じです。恐縮するばかりです。こういうブログを書いているヒマがあるなら、いただいたメールに返事を書くべきですが、ここに書くような(目をつぶっても書けそうな)ダラダラした雑文と、お見舞いメールへの返礼として書く文章は、いくらなんでも質が違うでしょう。たとえメールであっても、お礼の文章の場合は、今のように「寝ながら」だなんて状態では、私にはとても書けません。とんでもなく失礼な行為と感じます。教会の牧師室(書斎)で、背中をピンと伸ばしてでないと、書けない。電話で喋っているときに、「ありがとうございます」と言いながら、(相手に見えるはずもないのに)一生懸命お辞儀していることがある(ない?)のと似ています。また、かなり以前から繰り返しいろんな人々によって指摘されてきましたように、メールで迂闊なことを書くと、手書きの手紙の場合よりも、相手に与えるショックや傷は大きいのです。理由としては、手書きの場合は字そのものに温かい感情を伝える力があるので少々乱暴なことや厳しいことなどを書いても真意が伝わりやすいのに対し、パソコンの活字は感情を表現することができず冷たいので、書いた字のとおりしか相手に届かないため、誤解も生みやすい、などなど。その種のトラブルは、11年もメールと付き合っていますと私自身も体験せざるをえませんでした。まして、お礼の文章となりますと最高度に慎重な配慮を要するものですので、布団の上に寝そべったまま「サンキュー!」などとは絶対に書けないわけです(少なくとも私には)。というわけで、「申し訳ありませんが、お返事はもう少々お待ちくださいませ」・・・と、こんなところでウダウダ言っていても仕方ないですね。「何が自主謹慎だよ、元気そうじゃないか。ふざけやがって!」と叱られそうです。



(・・・と、ここまで書き終えた直後に、やっぱり気になるので、猛スピードで、すべてのメールにお返事をパッパと書いて、さっさと送ってしまいました。もちろん、布団の上に寝そべったままで、なりふり構わず。考えていること、書いたこと、していることが、完全に支離滅裂です。さっきから電話もひっきりなしにかかってきます。おちおち休んでなどいられません。)



ひまつぶしというわけではないのですが、「『実践的教義学』の構想」の(1)から(4)までのファイルを結合して「A5判 縦書き」にまとめてみました。近未来にオランダで改革派教義学の研究をしてくださる方への“遺言”のような気持ちで書いてきましたが、今それを言うとシャレになりません。自主謹慎中ですので、これくらいにしておきます。



「実践的教義学」の構想(1~4まとめ)



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001-004.pdf



2008年2月18日月曜日

日記を中断します


残念ですが、これから一週間ほど、この日記を休みます。昨日の礼拝の最中に、説教できぬまま気絶し、救急車で病院に行くことになってしまいました。

医師の診断は「嘔吐下痢症状による脱水症状が引き起こした“血管迷走神経反射性失神”」とのことです。「血管迷走神経反射性失神」(Vasovagal syncopeというそうです)をネットで検索してみましたところ、なるほど、症状の内容等が私のケースとぴったり当てはまりました。

「若い人に多く、通常立っている時に起こり、目の前が暗くなり、めまい感や悪心などの前駆症状に続いて、顔面が蒼白になり、意識消失して倒れてしまいます。これは血管迷走神経反射性失神と言われるものです。強い痛みや精神的ショック、ストレスが誘因となって自律神経のバランスがくずれ、抹消血管の抵抗が減少し、血液が心臓に戻らなくなり、血圧低下となり、脳血流が低下して意識がなくなります。この際徐脈、冷や汗を伴います。このような場合は一時的な体調の問題で病院へ行く必要はない場合が多いですが、失神を繰り返す場合や横になっている時に起こす失神は他の病気が原因になっていることがありますから、病院へ行って調べてもらったほうがいいでしょう。」

CTと胸のレントゲンもとりましたが、脳にも・心臓にも、全く異常はありませんでした。血液検査の結果も、きわめて正常でした。そちら方面の心配はないようです。

17日(日)未明(午前5時頃)から礼拝開始直前まで嘔吐下痢症状がありました。お腹の風邪を引いたようでした。しかし、発熱や咳などがなかったため、気分は比較的良好で、説教をすることには何の支障もないだろうと思っていました。

ただ、講壇に立った後に(つまり説教中に)嘔吐や下痢の症状が出ては困るとお腹の中身を空っぽにすることを考え、朝食をとらず、水分もとらずにいました。それが結果的に脱水症状を引き起こしてしまいました。

失神は生まれて初めての経験です。礼拝が始まってしばらくは、意識は明瞭でした。説教前の讃美歌が始まった頃、冷たい汗が全身に一気に噴き出した感じがあり、寒気がし、意識が遠のいて途中から歌えなくなりました。しかし、説教については30分間くらいなら何とか持ちこたえることができるのではないかと思い、講壇に立ちました。

ところが聖書を一行くらい朗読したところで(そこまでは覚えています)目の前が真っ白になり、立ったまま気絶してしまいました。

松戸小金原教会の皆様には本当に大きなご迷惑、ご心配をおかけしてしまったことを、申し訳なく思っています。しかし、もう大丈夫です。一応、今週は自分で自分の様子を見たいと思いますが、お腹の風邪さえ治れば、他の問題はなさそうです。昨日からおかゆとポカリスエットだけで生活しています。

昨日予定していた説教は、来週の日曜日に行います。体調が来週までに復調しますように。

2008年2月17日日曜日

今週のまとめ

先週と今週の分を合わせて、これまで書いてきたことをまとめておきます。脱線ばかりのただのお喋りですが、抽象的にならないほうがよいと、自分に言い聞かせています。



「実践的教義学」の構想(ドラフト)



(1) 教義学と実践神学の統合の提案



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001.pdf



(2) 教義学と私の実存の関係



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics002.pdf



(3) インターネット時代における教義学研究の新しい可能性



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics003.pdf



(4) 私とオランダ語(今週分)



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics004.pdf