2008年2月24日日曜日

読書を再開しています

気力というのは恐ろしいものがあります。体調を崩すなどしてそれを失うというか減ってしまうというかの体験をすると、気力というものの存在の大きさを感じます。勢いよく書いてきた日記が、思うように書けなくなりました。言葉があふれてこないというか、物事を考えること自体がちょっとおっくう。お腹の風邪は治ったものの、のどや鼻に痛みがあり、薬を飲んでいることも関係してか、一日中ボーっとした感じが続いています。「気力を失った」と感じるとき、とくに「言葉を失った」と感じるときは、本を読むことにしてきました。とくに日曜日の夜、なかでも説教があまりうまくいかなかったと感じる日、また教会や中会や大会などの会議の席で何らかのトラブルめいたやりとりがあって腹の虫が治まらないとき、などなど。そういうときに限って猛烈に本を読みたくなります。「言葉を失った」ので「言葉をかき集め、不足を補い、蓄える」ために本を読む。とても単純な話です。こんな単純なやり方でけっこう回復してしまう私は、人間の造りが単純なのでしょう。ものすごく腹が立つような出来事があってイライラ、ムカムカしている日の夜などに限って、オランダ語の神学書を辞書と首っ引きで読んでいたりします。あまりに没頭しすぎて、気がつくと次の日の朝だったという場合も、しょっちゅうです。今日読んでいたのは、E. コリンスキー編『西ヨーロッパの野党』(清水望監訳、行人社、1998年初版、2004年第三版)です。何ヶ月か前に近くの古本市場で見つけて買いました。なかなか面白い本です。私の恒常的な関心事の一つにオランダのキリスト教政党の動向をウォッチすることがあるのですが、本書にはオランダのキリスト教政党が、特に前世紀後半以降、「野党」になったり「与党」になったりを繰り返しながらうまい具合に世論を「中道化」させ、バランスを保ってきた様子が、短い言葉ながら分かりやすく書かれていました。このような良い本が日本語でたくさん書かれること、また良い日本語に翻訳されることを期待します。「日本にもキリスト教政党が欲しい」と真剣に願っているのは、私だけでしょうか。



2008年2月23日土曜日

地域にかかわる

今日は朝7時45分から30分間、中学校前でPTAの「あいさつ運動」に参加しました。夜は補導員の仕事でした。地域社会の活動に参加することの大切さを改めて実感しました。



2008年2月21日木曜日

ファン・ルーラー研究会 結成9周年記念メッセージ

ファン・ルーラー研究会の皆様、



本日は、研究会結成9周年の記念日です。毎年、記念メッセージを書かせていただいていますので、今年も書きます。



○昨年2007年は、わたしたちにとって大きな動きを感じられた年でした。主な動きは以下のとおりです。



(1)8月には、教文館からファン・ルーラーの三冊目の訳書として『キリスト教会と旧約聖書』(矢澤励太先生訳)が出版されました。この本の素晴らしい書評を牧田吉和先生が『本のひろば』にお書きになりました。



(2)9月には、二年ぶりとなる我々の研究会の「神学セミナー」を日本基督教団頌栄教会で開催することができました。牧田吉和先生が「ファン・ルーラーの喜びの神学」について力強い講演をしてくださいました。



(3)また同月、アメリカのニューブランズウィック神学校で「国際ファン・ルーラー学会」が開催され、アメリカのファン・ルーラー研究者が一堂に会しました。



(4)さらに同月、ついにオランダで新しい『ファン・ルーラー著作集』の第一巻が出版されました(第二巻は今年4月出版予定です)。その『著作集』第一巻の「編集者序」の中に「日本にファン・ルーラー研究会(Van Ruler Translation Society)がある」ことが大々的に紹介されました。『著作集』で紹介されたということは、それが収められる全世界の大学や神学校の図書館にも、我々の研究会の名前が永久に覚えられることになったことを意味しています。



(5)そして、その『著作集』出版記念祝賀会の席で、ファン・ルーラーの息子さんであるケース・ファン・ルーラーさんが、牧田先生がファン・ルーラー家を訪問されたときのエピソードをオランダの碩学たちの前で紹介してくださいました(その音声がインターネットを通じて世界的に紹介されました)。



○日本語版『ファン・ルーラー著作集』の実現の夢はまだ叶いませんが、コツコツとした活動は、続けています。



(1)たとえば、昨年は、日本キリスト教会神学校の紀要『教会の神学』に栗田英昭先生の「ファン・ルーラーの聖霊論におけるキリストとの神秘的合一」と題する堅実な研究論文が掲載されました。



(2)また私も、神戸改革派神学校の紀要『改革派神学』に「地上における神のみわざとしての教会」という論文を書きました。日本基督教団改革長老教会協議会の『季刊 教会』誌にも「改革派神学・長老主義・喜びの人生」という論文を書きました。



○さらに、我々ファン・ルーラー研究会の少し先輩である「アジア・カルヴァン学会」にも、昨年は大きな動きがありました。



もちろん、言うまでもなく、東京代々木・青少年センターで行われた「第10回日本大会」の開催です。世界最高レベルのカルヴァン学者、ライデン大学のヴィム・ヤンセ教授をメイン講師にお迎えし、日本、韓国、台湾、インドネシアから約100名の参加者が東京に結集しました。



○今年の抱負も少し述べておきたいと思います。現在計画中なのは、念願の日本語版『ファン・ルーラー著作集』への道備えとしてのいくつかのステップです。以下のようなことを計画し、具体的に動きはじめています。



(1)「ファン・ルーラー研究会シリーズ」(仮称)の自費出版(発売元を著名な出版社に依頼する計画です)



(2)著名な雑誌へのファン・ルーラーの訳文(訳注・解説つき)の連載



(3)神学セミナーの開催(これは毎年一回開催を原則としてきたものです。内容・日程等は未定)



(4)なお、今年2008年12月10日(水)は、ファン・ルーラー生誕百年記念日です。当日、アムステルダム自由大学で記念講演会が行われます。メイン講師はユルゲン・モルトマン博士です。日本からも参加できる人がいるとよいのですが。



(5)あとは、オランダ語の翻訳にひたすら取り組むこと、そして同時に、繰り返し問われる「なぜ今、日本でファン・ルーラーなのか」という問題にきちんと答えられるように、我々自身の研究と洞察を深めていくことだと思っています。



○メーリングリストは、このところ少し低調気味ですが、これを「命綱」と感じてくださっている方々もおられることを知っております。ありがたく感謝いたします。



どうかこれからもよろしくお願いいたします。どなたもお元気でお過ごしくださいませ。



2008年2月20日



関口 康



ファン・ルーラー研究会代表
日本キリスト改革派松戸小金原教会牧師



この記念メッセージを「ファン・ルーラー研究会ホームページ」に掲載しました。PDF版もあります。



2008年2月20日水曜日

復活しました

「日記を中断します」と月曜日に書きましたが、中断しなくて済みそうです。昨夜までは自信喪失状態で萎(しお)れていましたが、一夜明けたら急にモリモリ元気が出てきました。今日の午前中は水曜礼拝、また午後は中学校のPTA活動に参加してきました。食事も普通食に戻りました(量は控え目ですが)。「ボクって若いんだなあ」と感じています。もう大丈夫です。牧師の仕事も、改革派教義学も、ファン・ルーラーも、オランダ語も、カントも、米倉涼子さんも伊東美咲さんも、続けていきます。



2008年2月19日火曜日

自主謹慎中です

昨夜はうどん(月見でした!)、今朝は食パン一枚(マーガリンなし)を口にすることができました。しかし、体力と気力にまだ欠けるものがあるのと、日曜日に教会の皆さんにあれほど大きな迷惑をかけ、動揺させてしまった自分の不節制への反省と自粛の念あって、外出は控えております(要するに自主謹慎です)。それでも、全く寝込んでしまうわけにも行かず(たまっている仕事もありますので)、体に応えない程度に時間を制限しつつ、パソコンと付き合わなければなりません。ノートパソコンを牧師館の寝室に持ち込んで、寝ながらやっています。心配してメールをくださる方々には、ただ感謝あるのみです。「体に触るから返事は要らないよ」とか書いてくださる方もおられる。大先輩からそういうことを言われると、どうしていいやら分からない感じです。恐縮するばかりです。こういうブログを書いているヒマがあるなら、いただいたメールに返事を書くべきですが、ここに書くような(目をつぶっても書けそうな)ダラダラした雑文と、お見舞いメールへの返礼として書く文章は、いくらなんでも質が違うでしょう。たとえメールであっても、お礼の文章の場合は、今のように「寝ながら」だなんて状態では、私にはとても書けません。とんでもなく失礼な行為と感じます。教会の牧師室(書斎)で、背中をピンと伸ばしてでないと、書けない。電話で喋っているときに、「ありがとうございます」と言いながら、(相手に見えるはずもないのに)一生懸命お辞儀していることがある(ない?)のと似ています。また、かなり以前から繰り返しいろんな人々によって指摘されてきましたように、メールで迂闊なことを書くと、手書きの手紙の場合よりも、相手に与えるショックや傷は大きいのです。理由としては、手書きの場合は字そのものに温かい感情を伝える力があるので少々乱暴なことや厳しいことなどを書いても真意が伝わりやすいのに対し、パソコンの活字は感情を表現することができず冷たいので、書いた字のとおりしか相手に届かないため、誤解も生みやすい、などなど。その種のトラブルは、11年もメールと付き合っていますと私自身も体験せざるをえませんでした。まして、お礼の文章となりますと最高度に慎重な配慮を要するものですので、布団の上に寝そべったまま「サンキュー!」などとは絶対に書けないわけです(少なくとも私には)。というわけで、「申し訳ありませんが、お返事はもう少々お待ちくださいませ」・・・と、こんなところでウダウダ言っていても仕方ないですね。「何が自主謹慎だよ、元気そうじゃないか。ふざけやがって!」と叱られそうです。



(・・・と、ここまで書き終えた直後に、やっぱり気になるので、猛スピードで、すべてのメールにお返事をパッパと書いて、さっさと送ってしまいました。もちろん、布団の上に寝そべったままで、なりふり構わず。考えていること、書いたこと、していることが、完全に支離滅裂です。さっきから電話もひっきりなしにかかってきます。おちおち休んでなどいられません。)



ひまつぶしというわけではないのですが、「『実践的教義学』の構想」の(1)から(4)までのファイルを結合して「A5判 縦書き」にまとめてみました。近未来にオランダで改革派教義学の研究をしてくださる方への“遺言”のような気持ちで書いてきましたが、今それを言うとシャレになりません。自主謹慎中ですので、これくらいにしておきます。



「実践的教義学」の構想(1~4まとめ)



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001-004.pdf



2008年2月18日月曜日

日記を中断します


残念ですが、これから一週間ほど、この日記を休みます。昨日の礼拝の最中に、説教できぬまま気絶し、救急車で病院に行くことになってしまいました。

医師の診断は「嘔吐下痢症状による脱水症状が引き起こした“血管迷走神経反射性失神”」とのことです。「血管迷走神経反射性失神」(Vasovagal syncopeというそうです)をネットで検索してみましたところ、なるほど、症状の内容等が私のケースとぴったり当てはまりました。

「若い人に多く、通常立っている時に起こり、目の前が暗くなり、めまい感や悪心などの前駆症状に続いて、顔面が蒼白になり、意識消失して倒れてしまいます。これは血管迷走神経反射性失神と言われるものです。強い痛みや精神的ショック、ストレスが誘因となって自律神経のバランスがくずれ、抹消血管の抵抗が減少し、血液が心臓に戻らなくなり、血圧低下となり、脳血流が低下して意識がなくなります。この際徐脈、冷や汗を伴います。このような場合は一時的な体調の問題で病院へ行く必要はない場合が多いですが、失神を繰り返す場合や横になっている時に起こす失神は他の病気が原因になっていることがありますから、病院へ行って調べてもらったほうがいいでしょう。」

CTと胸のレントゲンもとりましたが、脳にも・心臓にも、全く異常はありませんでした。血液検査の結果も、きわめて正常でした。そちら方面の心配はないようです。

17日(日)未明(午前5時頃)から礼拝開始直前まで嘔吐下痢症状がありました。お腹の風邪を引いたようでした。しかし、発熱や咳などがなかったため、気分は比較的良好で、説教をすることには何の支障もないだろうと思っていました。

ただ、講壇に立った後に(つまり説教中に)嘔吐や下痢の症状が出ては困るとお腹の中身を空っぽにすることを考え、朝食をとらず、水分もとらずにいました。それが結果的に脱水症状を引き起こしてしまいました。

失神は生まれて初めての経験です。礼拝が始まってしばらくは、意識は明瞭でした。説教前の讃美歌が始まった頃、冷たい汗が全身に一気に噴き出した感じがあり、寒気がし、意識が遠のいて途中から歌えなくなりました。しかし、説教については30分間くらいなら何とか持ちこたえることができるのではないかと思い、講壇に立ちました。

ところが聖書を一行くらい朗読したところで(そこまでは覚えています)目の前が真っ白になり、立ったまま気絶してしまいました。

松戸小金原教会の皆様には本当に大きなご迷惑、ご心配をおかけしてしまったことを、申し訳なく思っています。しかし、もう大丈夫です。一応、今週は自分で自分の様子を見たいと思いますが、お腹の風邪さえ治れば、他の問題はなさそうです。昨日からおかゆとポカリスエットだけで生活しています。

昨日予定していた説教は、来週の日曜日に行います。体調が来週までに復調しますように。

2008年2月17日日曜日

今週のまとめ

先週と今週の分を合わせて、これまで書いてきたことをまとめておきます。脱線ばかりのただのお喋りですが、抽象的にならないほうがよいと、自分に言い聞かせています。



「実践的教義学」の構想(ドラフト)



(1) 教義学と実践神学の統合の提案



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001.pdf



(2) 教義学と私の実存の関係



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics002.pdf



(3) インターネット時代における教義学研究の新しい可能性



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics003.pdf



(4) 私とオランダ語(今週分)



http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics004.pdf



主の道を受け入れる


使徒言行録18・12~28

今日読みました個所(使徒言行録18・12~28)の22節のところで、使徒パウロの第二回伝道旅行が終了いたします。そしてパウロはすぐに第三回目の伝道旅行に出かけています。この時期のパウロの身に起こったいくつかの出来事を、今日は見ていきます。
 
「ガリオンがアカイア州の地方総督であったときのことである。ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って、『この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております』と言った。パウロが話し始めようとしたとき、ガリオンはユダヤ人に向かって言った。『ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない。』そして、彼らを法廷から追い出した。すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた。しかし、ガリオンはそれに全く心を留めなかった。」

最初の段落に紹介されているのは、パウロがまだコリントに滞在している間に起こった出来事です。ガリオンという名の「アカイア州の地方総督」はローマ人でした。つまり、ガリオンはユダヤ人にとっての異邦人であり、かつユダヤ教にとっての異教徒であったということです。このガリオンのもとに、ユダヤ人たちが、パウロを捕まえて連れて行ったのです。そして彼らは、パウロを裁判にかけてほしいとガリオンに申し立てます。ところが、ガリオンはユダヤ人たちの言い分を聞き入れませんでした。異邦人ガリオンにとってユダヤ人たちの言っていることは、ユダヤ教という一宗教内部の論争であると感じられたからです。要するにガリオンは、ユダヤ教とキリスト教の違いだの、そういう種類の話には全く興味がないし、そのような問題に関わる立場にはないと言っているのです。

ガリオンがユダヤ人たちに向かって語っている言葉の中で注目すべき点は、彼の言葉の冒頭部分です。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理する」。しかし、パウロがしていることはそのようなものには見えない。そのようにガリオンは言っているのです。

パウロは、コリントに「一年六か月」滞在して、神の言葉を教えました(18・11)。そのパウロの伝道がコリントの人々に少なからざる影響を及ぼし始めていたことをガリオンも知っていたに違いありません。つまり、コリントの人々は、パウロたちのしていることは不正な行為でも悪質な犯罪でもないということを分かっていました。しかし、ガリオンがユダヤ人たちの前で示した判断を直接的な意味でパウロの伝道の成果であると見ることができるかどうかは微妙です。もしかしたらガリオンはいいかげんな人であり、宗教のような面倒な事柄には一切関わりたくないと逃げたのだと見るほうがよいのかもしれません。

しかし、たとえそうであっても構わないと私は考えます。重要なことは、ガリオンの目から見て、またコリントの人々の目から見ても、キリスト教信仰は「不正な行為とか悪質な犯罪」のようなものには見えないと判断してもらえたことです。キリスト教会は、市民生活を脅かす存在ではないと、一般社会の人々に良い意味で信頼してもらえたことです。それどころか、むしろ、ユダヤ人たちがしていることのほうが、よほど不正な行為であり悪質な犯罪であると見えたのではないでしょうか。一般的な常識を持っている人の目から見れば、それくらいのことは当然分かるのです。人前で暴力を働く人々が同情を得ることができるケースは、ほとんどないと言ってよいのではないでしょうか。

たとえば、17節には、「群衆が会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけた」とあります。会堂長、つまりシナゴーグのリーダーはもちろんユダヤ人です。なぜユダヤ人であるソステネが他のユダヤ人たちから殴りつけられなければならなかったのでしょうか。全く理解に苦しみます。理由の一つは、おそらくソステネがパウロの伝道を助けたからだろうと思われますし、もう一つの理由として考えられるのは、無関心を決め込むガリオンにユダヤ人たちが腹を立て、何とか関心を引こうと暴力事件でも起こしてやれという動機が働いたのではないかということです。いずれにせよ、ソステネにとって、またコリントの町の人々にとって、きわめて不愉快な出来事であったであろうことは間違いありません。

小さな疑問点があります。ユダヤ人群衆の暴行を受けた会堂長が「ソステネ」であると紹介されていることと、18・8に紹介されているコリントの会堂長が「クリスポ」と紹介されていたこととの関係です。解決策は、コリントには複数の会堂があり、一つの会堂のリーダーがソステネであり、他の会堂のリーダーがクリスポであったと考えることができます。また、一つの会堂に複数のリーダーがいて、ソステネもクリスポも同じ一つの会堂に仕えていた人々であったと考えることもできます。どちらが正しいかは分かりません。

「パウロは、なおしばらくの間ここに滞在したが、やがて兄弟たちに別れを告げて、船でシリア州へ旅立った。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアイで髪を切った。一行がエフェソに到着したとき、パウロは二人をそこに残して自分だけ会堂に入り、ユダヤ人と論じ合った。人々はもうしばらく滞在するように願ったが、パウロはそれを断り、『神の御心ならば、また戻って来ます』と言って別れを告げ、エフェソから船出した。カイサリアに到着して、教会に挨拶するためにエルサレムへ上り、アンティオキアに下った。パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガリラヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。」

二番目の段落に紹介されているのは、パウロが一年六カ月滞在したコリントの町に別れを告げ、他のいくつかの町を経由して、使徒ペトロたちがいるエルサレム教会、そして、パウロの伝道旅行の出発点であるアンティオキア教会に戻った場面です。アンティオキアに戻った時点で第二回伝道旅行が終了したということになるわけです。

この段落にもいくつかの注目すべき内容があります。しかし、その中で最も重要と思われる点についてだけお話ししたいと思います。それは、次の三番目の段落にも登場します「プリスキラとアキラ」の夫婦がパウロの旅行に同行したという点です。

この夫婦は先週お話ししたとおり、テサロニケやベレアの町で起こったユダヤ人たちの暴動から逃れて一人でアテネにたどり着いたパウロ、あるいはまた、アテネ伝道においてあまり思わしい成果を見ることができず意気消沈したままコリントにたどり着いたパウロを自分たちの家にかくまった家庭です。パウロからすれば、まさに命からがらの逃亡生活の中で居候(いそうろう)させていただいた家庭である、ということになるでしょう。

私が大切であると考える点は、この夫婦がパウロの伝道旅行に同行することによって、パウロをまさに命がけで助ける存在になったということです。

現代の牧師たちが時々、いやしばしば陥る罠は、「私は伝道のために命をささげているのだ。命がけで伝道しているのだ」と、まるで自分一人だけがこのために命をささげている人間であるかのように感じたり、考えたり、言い張ったりすることがあるという点です。しかし、それは本当に間違った認識であり、罠です。牧師は一人で伝道しているわけではありません!自分一人が命がけで戦っているわけではありません!そのように思い込んでいる牧師たちがいるならば、顔をあげて自分の周りを見るべきです。そこにはあなた以上に命がけで戦っている教会員がいるということに気づくべきです。伝道は教会のみんなで行うべきことです。キリスト者全員が伝道者なのです。

パウロがコリントで得た最も大きな収穫の一つは、プリスキラとアキラというこの夫婦との出会いを通して、そのこと(命がけで戦っているのは自分だけではないということ!)に気づくことができた点ではなかったかと思われるのです。

なお、この夫婦は、アキラが夫であり、プリスキラが妻です(18・2)。しかし興味深いことは、使徒言行録の中でも(18・18、18・26)、ローマの信徒への手紙の中でも(16・3)でも一貫して「プリスキラ(プリスカ)とアキラ」、つまり、妻が先、夫が後という順序で紹介されている点です。

以前私は、第一回伝道旅行の際にパウロとバルナバの名前の順序が逆転していく意味をお話ししたことがあります。名前の呼ばれる順序には意味があると申しました。プリスキラとアキラというこの名前の順序にも意味があると考えることができるのです。この順序には、16世紀の宗教改革者カルヴァンがすでに注目しています。妻プリスキラ(プリスカ)は偉大で活発な女性であったが、夫アキラは少しおとなしい感じの人だったのではないかというようなことを、カルヴァンが書いています。

パウロは、この夫婦について、ローマの信徒への手紙の中に、次のように書いています。「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっているプリスカとアキラによろしく。命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています」(ローマの信徒への手紙16・3~4)。

「さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった。このアポロが会堂で大胆に教え始めた。これを聞いたプリスキラとアキラは、彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した。それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。」

第三番目の段落においても、プリスキラとアキラの働きについてのみ触れておくことにします。ここに紹介されている出来事は、パウロの第三回伝道旅行がすでに始まっている時期に起こったものです。アポロという伝道者が登場します。この人が、エフェソの町で伝道を始めました。ところが、アポロの説教の内容は信仰理解の点において必ずしも正確なものではなかったのです。正確でない教えを語る説教者を放置しておきますと、やがて必ず非常に大きな影響が生じます。困ったことです。

そのような事態に接して大きな働きをなしたのがプリスキラとアキラであったというのです。彼らが信じていたキリスト教はパウロから教えられたものであると言って間違いありません。つまり、この夫婦がアポロに「もっと正確に神の道を説明した」とは、アポロの間違いをパウロから教えられたことをもって訂正したのだということを意味しているのです。

伝道者はそのような場面でこそ喜びを感じます。パウロとしては、自分が伝えた教えが自分のいないところで「正しい神の道」として語り継がれているということになります。伝道の目的は、自分自身を宣伝することではなく、正しい教えが宣べ伝えられることです。そしてその教えに忠実に従って生きる人々、すなわち「主の道を受け入れる」人々を生み出すことです。この点においてパウロの伝道は間違いなく成果を生み出したのです。伝道者の真価は、その本人が去った後に測られるものなのです。

パウロの伝道には非常に大きな苦労がありました。見るからに華々しい成果があったとは言えないかもしれません。しかし、まさに少しずつ少しずつその影響が表れて行ったのです。ガリオンの判断、そしてまたプリスキラとアキラという強い味方の登場。これらの出来事は、決して過小評価されるべきではありません。

(2008年2月17日、松戸小金原教会主日礼拝)


2008年2月16日土曜日

私とオランダ語(付記)

ここから先は、ただの悪口です。カール・バルトは、九千頁もの(退屈な)大著『教会教義学』を書きました。その分量たるや、あの『ブリタニカ大百科事典』にも匹敵するほどです。そしてバルトは「私の著書を読まないで私の神学を批判する者たち」を批判しました。この神学者の言い分は、ごもっともなものです。しかし、その言い分を聞き入れた神学徒たちの多くが「彼の著書を読み切れないゆえに」彼の神学を批判できなくなりました。著書の分量の多さが、彼自身を守る盾になりました。そして、「この中にすべての答えがある」と信じてバルトの著書を“所有”していることだけで安心し、満足してしまっている神学徒のいかに多いことか!かたや、ファン・ルーラーは、いかにも言葉足らずの、隔靴掻痒の感が深い、実に謎めいた(しかし極めて刺激的な!)神学を提示しました。しかし、この“謎”こそが少なくともこの私を猛烈な勉学に駆り立てる力になりました。善い教師とは「答えを与える人」ではなく「問いを不断に投げかける人」ではないでしょうか。



私とオランダ語(5/5)

しかし、です。「ハズレくじ」という言葉を二回も繰り返して書きました。それは「ファン・ルーラー研究」というコンテキストの中でのハズレくじという意味です。つまり、ファン・ルーラーへの直接的な言及や関係があるのではと期待して購入してみたら、言及がなかったり全く無関係だったりしたという意味です。けれども、明記しておくべきことは、それらもまた学術的に優れた書物ばかりであるということです。別のコンテキストにおいては宝物のような書物ばかりです!それが私にとって大きな収穫となりました。私の眼前の思想世界がどんどんどんどん(広範かつ加速度的に)広がっていきました。それがむしろ「ハズレくじ」であればあるほど、私にとって全く未知であった領域、あるいはそれまで一度も考えたことがなかったような新しい問題が見えてきました。別の言い方をするなら、私にとって、日本基督教団でも日本キリスト改革派教会でも、東京神学大学でも神戸改革派神学校でも、いまだかつて見たことも聞いたこともなかったような全く新しい事柄に出会うことができました。手前味噌で負け惜しみ的な言い方かもしれませんが、私にとってそれは、オランダ現地に居なかったからこそ得ることができた収穫であったという気がしてならないのです。これまで私は「この本を読め、あの本を買え」というたぐいの指示を、(牧田先生を含めて)どなたからも受けたことはありません。すべてを自分で選び、しょっちゅう「ハズレくじ」を引きながらも、しかしまた、すべてを自分のものとしてきました。これが結果的に良いことであったと感じています。自負をこめて申し上げるなら、「自立して神学すること」(zelfstandige theologisering)とはこういうことではないかと思うのです。我が家の二人の子供たち(中一男、小四女)に常に言い聞かせていることは「分からないことがあったら辞書を引け」です。「幸か不幸か、我々人間はインプットしたことしかアウトプットできないのである。漢字にせよ、外国語にせよ、数式にせよ、自分独りで勉強したことしか覚えていないし、使えない。ピアノにせよ、トランペットにせよ、練習したことしか演奏できない。年齢を重ねれば(勉強せずとも)自動的に漢字が書けるようになるわけではないし、時間が経てば(練習せずとも)自動的にピアノを弾けるようになるわけではない。外国に行けば(レッスンを受けずとも)自動的に外国語を使えるようになるわけではないのだ。すべては血の滲むような努力の結果である。分からないことがあったら辞書を引け。辞書を引いた回数だけ、確信をもって言葉を語れるようになるはずだ」。こんなエラそうなことを我が子らに語れるようになったのも、11年間(いまだに!)“パッチワーク”を続けてきた自負(?)ゆえです。