2004年5月23日日曜日

神与えし任務


ガラテヤの信徒への手紙2・1~10

「その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。」

パウロは、再びエルサレムに上って行きました。「その後十四年たってから」とあります。おそらくパウロが使徒ペトロとの第一回目の会見を許された日から14年後の意味であると思われます。

そのときパウロは、彼一人ではなく、バルナバとテトスという二人の伝道者と一緒に行きました。この三人がエルサレムに上った目的は、はっきりしていました。それはもちろん、エルサレムにいた当時のキリスト教会の最高指導者であった使徒ペトロに、再び会いに行くためでした。つまり、使徒ペトロとの第二回目の会見を果たすためであったと考えることができます。

ただし、第二回目の目的は、ペトロ一人だけに会いに行くことではなかったようです。2節に「おもだった人たち」とあります。この人たちの名前は、9節に書かれています。ヤコブとケファとヨハネです。ケファは使徒ペトロのことです。ヤコブとペトロとヨハネです。9節には「柱と目されるおもだった人たち」とあります。この三人が当時の教会の中で「柱」と呼ばれていたことが分かります。

教会の三本柱です。柱が倒れると、家全体が倒れます。「柱」と呼ばれたこの三人は、当時の教会において、まさに彼らが立つか倒れるかによって、教会全体が立つか倒れるかが決まるというほどに重要な存在であったということです。

「エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。」

「エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした」という一文の中で、パウロ自身が最も強調を置いているのは、「啓示」という言葉です。原文では「啓示」という言葉に、定冠詞がつけられています。「the啓示」です。「まさに啓示によって」です。この定冠詞つきの「啓示」には、神御自身がパウロに「エルサレムに行け」という命令を、何らかの仕方で啓示された、という意味が込められていると思われます。

どういう仕方かについては書かれていません。そのような夢を見た、ということかもしれません。聖霊の働きというべきかもしれません。書かれていないので分かりません。

しかし、パウロが言わんとしていることは明らかです。この手紙の冒頭から繰り返し強調されてきた、あのことです。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」というこのことです。人間によるのではなく、神による。神の啓示によって、わたしは使徒とされ、伝道者とされた。エルサレムに行くことも、人間によるのではなく、神の啓示による、というこのことを、パウロは、とにかく強調しているのです。

ここで二つの問題が残っています。

第一に、パウロはなぜ、エルサレムに行く際にバルナバとテトスという二人の伝道者を連れて行ったのか。第二に、パウロはエルサレムの使徒たちに、具体的に何を言いたかったのか、です。

第一の問題を考える際に重要であると思われるポイントは、バルナバとテトスとの間にあったと考えられる国籍の違い、という点です。

バルナバの国籍についての明確な記録は見当たりませんが、テトスについてはギリシア人であったと、3節にはっきりと書かれています。テトスはギリシア生まれのギリシア人、生粋のギリシア人でした。

これに対して、バルナバは、おそらくユダヤ人であったと思われます。「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていた」と使徒言行録11・24に書かれています。彼は有能な伝道者でした。パウロがバルナバを伝道のパートナーとして選び、また、エルサレムに行く際にもパートナーとして選んだ理由は、この点にあると思われます。

しかし、テトスについては、いくらか別のことを考える必要がありそうです。テトスはギリシア人であった、というこの点が、パウロが彼を、エルサレム行きのもう一人のパートナーとして選ぼうと決心する際に決定的に重要な意味を持っていたと思われるのです。

第二の問題は、パウロはエルサレムの使徒たちのところに行って、具体的に何を言いたかったのか、ということです。

2節には「自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました」とあります。これだけでは何のことか、ほとんど分かりません。日本語がおかしい感じもします。

それでもいくらか分かることは、要するにパウロは、イエス・キリストの福音というものを、異邦人と呼ばれていた人々に宣べ伝えていたということです。

異邦人とは、ユダヤ人たちから見た外国人という意味以上に、異教徒という意味を持ちます。異邦人伝道とは、すなわち異教徒伝道です。別の宗教を信じている人々、そして、そこには現代的な意味の無神論者も含まれてよいと思いますが、聖書の神を信じていない人々を信仰へと導くこと、です。少し耳障りの悪い言葉を用いて言えば、その人々に改宗をしていただくことです。

パウロの仕事は、これでした。しかし、そのパウロが自分の仕事としていることとしての異邦人伝道ということ自体が、無駄なことであり、全く意味の無いことをしている、というふうに、教会の人々から見られているのではないか、ということが、少し不安になったのではないでしょうか。

ただし、今わたしが「不安になったのではないか」と言いましたのは、パウロが自分のしていることに自信を持てなくなった、という意味では全くありません。パウロはむしろ、非常に自信を持っていました。彼が不安になったのは、自分のしていることに対する自分自身の確信に揺らぎが生じたからでは全くなく、むしろ教会の人々に対する彼自身の不安、ないし不満があったからです。

わたしのしていることを無駄なことだと見る人々がいないかどうか。いるとしたら、そういう人々にはぜひとも考え方を変えてほしいと訴えるために、パウロは、エルサレムの使徒たちのもとに、乗り込んで行ったのです。これが第二の問題、パウロはエルサレムに具体的に何を言いたかったのか、という問題の答えです。

このとき、パウロは、ユダヤ教団から離脱してキリスト教会のメンバーになってから、17、8年たっていたと思われます。その頃になりますと、最初の遠慮は、そろそろ無用になるでしょう。なんでもかんでもズケズケと言うというのは、礼儀や常識という観点から言えばどうかと思うところがあります。しかし、教会に対してでさえ、はっきりと言わなければならないことがあるならば、遠慮なく言わなければならない。少なくとも伝道者たちには、教会の内部の問題に対して、率直な言葉を語らなければならない、その責任があるのです。

そして、まさにそのことを訴えるために、パウロは、テトスを、エルサレムまで連れて行ったのだ、と考えることができます。

ここで第一の問題に帰ります。先ほど申しましたとおり、テトスはギリシア生まれのギリシア人、生粋のギリシア人であるという意味で、ユダヤ人たちにとっての異邦人、そしてユダヤ教徒にとっての異教徒でした。そういう人が、しかし、イエス・キリストを信じて生きるキリスト者になり、キリストを宣べ伝える伝道者になりました。そしてその際、テトスは、ユダヤ教徒の男子が受けることになっていた割礼という儀式を、受けないままで、キリスト者になりました。

ここで間違いなく言えることは、テトスに洗礼を授けた人がそのように判断したということです。テトスが割礼を受けていないことの全責任は、彼に洗礼を授けた教師にあります。テトス自身が割礼を受けることを拒否した、という事実はありませんし、拒否する理由がテトス側にあったとは思えません。

そして、その場合、割礼を受ける意味は、そのとき、そのひとはユダヤ教徒になる、ということです。反対に、割礼を受けないということは、ユダヤ教徒にはならない、ということです。つまり、テトスに洗礼を授けた教師が判断したことは、異教徒であるギリシア人テトスは、キリスト者になるために、ユダヤ教徒になる必要は無い、ということでした。それは要するに、ユダヤ教徒になることとキリスト教徒になることとは別のことである、ということでした。

このようなことは、今のわたしたちにとっては、当たり前のことです。しかし、そのことは、当時のキリスト教会全体の中では、必ずしも、十分な意味で一致した考えや立場にはなっていませんでした。

と言いますのは、当時においてはまだ新しく生まれたばかりのキリスト教会のメンバーの大半は、生まれてすぐに割礼を受けることを習慣づけられていた(ただし、男子のみ)ユダヤ人たちだったからです。

そういう中で、当時のキリスト教会を構成していたメンバーの大半がユダヤ人であり、常識的に割礼を受けていた人々である、その中で、割礼を受けないままでキリスト教会のメンバーでありうると主張する人々が現われてきたときに、それは正しい判断かどうかということが、新しい問題として起こってきたのです。

そもそも、イエス・キリストを信じて救われるとは、罪の中から救い出されて、全く自由になること、心の重荷が取り去られて、軽くなることです。しかし、もしキリスト者になる前にユダヤ人にならなければならないということになれば、軽くなるどころか、負担がもっと増えます。たいへんだなあ、ということになるのです。

負担が減り、軽くなることが救いです。そのことを、パウロは、まさに全教会の全信徒に、受け入れてもらいたかったのです。だからこそ、パウロは、割礼を受けていないキリスト者の代表としてテトスを選び、エルサレムに連れて行ったのです。

「しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。」

当時の教会のおもだった人々、つまりエルサレムの使徒たちは、テトスに洗礼を授けた教師の判断を是としました。彼らはテトスの存在を認めました。それが意味することは、異邦人・異教徒がキリスト教会のメンバーに加わる前に、まず割礼を受けてユダヤ教徒にならなければならないというようなことは、必要ないことであり、全く意味のないことである、という判断を、使徒たちが正式に下したのだ、ということです。

このことは、逆に考えてみることも大切です。もし、そうではなく、エルサレムの使徒たちが、異邦人・異教徒が割礼を受けないままで、洗礼だけを受けて、キリスト教会の仲間とみなされているテトスの存在を認めなかったとしたら、このテトスのような人々をたくさん生み出している教師の授けている洗礼は、意味が無いものである、と教会が認めることを意味することにもなったのです。

そのような洗礼を授けていた教師の、少なくとも一人は、間違いなくパウロです。テトスの洗礼が全教会の全信徒に受け入れられるかどうかという問題は、パウロの伝道方法や洗礼方法には意味があるかどうか、という問題に、直接関係していたということです。

自分が喜びと確信と誇りをもって携わっている仕事に対して、あなたのしていることは無駄であるとか、意味が無いと言われて気持ちが良い人はいないでしょう。

しかし、誤解がありませんように。パウロがエルサレムで主張したかったことは、パウロが自分の仕事に対して持っていたプライドとか自信が傷つけられることが許せなかった、というような次元に留まるものではありませんでした。

そのために、教会の教師が一人の人に洗礼を授けることの持つ意味の大きさということが、正しく理解される必要があります。それは、まさか、その教師の手柄だとか勲章だというようなことではありえません。冗談でも、そんなことを言ってはなりません。

「割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。」

洗礼の意味は、一人の人がイエス・キリストのものとされるということです。神がその人を、イエス・キリストのものにするということです。洗礼は神御自身の行為です。とりわけ聖霊なる神のみわざです。洗礼はそれを受けた人の人生にかかわり、生命にかかわります。そのために、教師が用いられるのです。

割礼を受けないままで受けた洗礼は有効である、ということは、エルサレムの使徒たちが認めた真理です。こうしてパウロは、異邦人たちに授けてきた洗礼は有効であると公に認められました。

それは神が認めたことです。その洗礼が無駄であるとか、意味が無いというようなことを言われるなら、その教師は、生命をかけて戦わなければならないのです。

(2004年5月23日、松戸小金原教会主日礼拝)

2004年5月16日日曜日

今は福音


ガラテヤの信徒への手紙1・18~24

「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの人にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。」

ここに記されておりますのは、この手紙の著者である使徒パウロが、イエス・キリストを救い主として信じることができるようになり、キリスト教の洗礼を受けて間もなくの頃の話です。

いわゆる初心者の時代です。悪い意味ではありません。当たり前のことですが、あの偉大な伝道者パウロにも、そのような時代があったのです。

もちろんそれは、だれにでもあります。すべてのキリスト者に初心者の時代があります。今は立派な長老たちにも、教会の中でいろいろな奉仕を熱心にくださっている人々にも、もちろん牧師たちにも、初心者の時代がありました。その頃の思い出や体験は、たいへん貴重なものです。

ただし、これから申し上げることは、少し悪い意味を含みます。おそらくすべての人に当てはまることです。神の恵みと憐れみによって、わたしは、イエス・キリストを、わたしの真の救い主として信じることができました。そして、洗礼を受けて、キリスト者としての人生を、新しく始めることができました。しかし、その後、しばらく経つと、良い意味でも、少し悪い意味でも、そのことにすっかり慣れてしまうということが起こります。

悪い意味だけではありません。どんなことでも、いつまでも初心者ということはありえません。成長していくことが望ましいし、成長していくべきです。

しかし、すっかり慣れてしまうとき、私たちは、イエス・キリストを信じて生きる者として体験する、さまざまな出来事の一つ一つを、最初の頃ほど、重く、あるいは深く受けとめないようになり、感動しなくなる、さらりと流してしまい、あまりよく覚えてもいない、というふうに、つい、なっていってしまうのです。

信仰生活は、しばしば結婚の生活にたとえられるものです。よい出会いがあり、やがて結婚した。最初は、すべてのことが、うれしくて、うれしくて、どんなことにも感動して、感謝して。しかし、そのうちすっかり慣れてしまい、一緒にいても、いないかのごとく。よく言えばお互いが空気のような存在になります。一緒に居て当たり前。居ないと困る。しかし、一緒に居るからと言って、特別に感謝するわけでもなし。

夫婦はそれでよいと思います。いつまでも、何かあるたびに大げさに騒ぐのも、わざとらしいものがあります。でも、最初の情熱を忘れることは、少し寂しいことでもあります。

イエス・キリストを信じる信仰の生活も、まさにそのようなものです。良い意味でも、少し悪い意味でも、すっかり慣れてしまうときが来る。すべて当たり前のことであるかのように感じる。新鮮さや初々しさを失い、不平や不満をたくさん口にするようにさえなる。避けがたいことですが、寂しいことでもあります。だからこそ、時間と共にますます重要な意味を持ち始めるのが、いわゆる初心者の時代の思い出であり、記憶であり、証しです。

このわたしは、どのようなきっかけで教会に通うようになったのか。どのような思いと感動をもってイエス・キリストを救い主として受け入れ、洗礼を受けたのか。内村鑑三氏の有名な書物に『余は如何にして基督信徒となりし乎』(How I become a Christian)というのがありますが、まさにこれです。このことを常に思い起こすことが大切です。

使徒パウロにも、かつてキリスト者でなかった時代がありました。しかし、心を入れ替えて、キリストを受け入れ、洗礼を受けた。「見よ、すべてが新しくなった」と力強く告白し、全く新しい人生の歩みを始めた頃があったのです。その頃、何があったのでしょうか。今日はそのことを学びたいと思います。

パウロが洗礼を受けた場所は、ダマスコという町でした。その一連の出来事についての比較的詳しい記録が使徒言行録9章にあります。もちろん当時、そのダマスコの町にも、私たちがそう呼ぶところの"教会"が存在したわけです。

ダマスコの教会でパウロに洗礼を授けた人は、その町に住んでいたアナニアという人でした。そしてパウロは、しばらくの間、ダマスコの町にとどまって、イエス・キリストの福音を宣べ伝えること、すなわち伝道の働きを行いました。こうして、ダマスコは、パウロの人生におけるまさに決定的な転換点となり、思い出の場所となりました。

こういうことは非常に大事なことです。すべてのキリスト者にパウロにとってのダマスコがあるはずです。そこで全く心を入れ替えた場所。イエス・キリストを受け入れた場所。人生の新しい出発における原点。このわたしの人生が決定的な仕方で全く方向転換してしまった場所。

皆さんにとって、それはどこでしょうか。松戸市小金原である、という方もおられるでしょう。そして、これからも、この町、この教会が、このわたしのダマスコである、と告白する人々が生み出されていくでしょう。

まさにこの意味で、私たちの人生において教会の果たすべき役割は、非常に大きいのです。

こうして、パウロは洗礼を受けた後、しばらくダマスコの町を中心に、活動していました。「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しました」とある中の「ケファ」とは、使徒ペトロのことです。その意味は「岩」です。

これはイエスさまご自身が付けた名前です。ペトロの本名、彼の親がつけた名前は、シモンでした。このシモンにイエスさまがペトロと名づけ、しばしばシモン・ペトロと呼びました。ペトロの意味がケファ、つまり岩です。これは覚えていただく必要があります。

ところで、パウロがなぜ「ケファと知り合いになろうとして」エルサレムに上ったのか、その理由は何でしょうか。

ケファ、すなわち使徒ペトロは、いちばん最初にイエスさまの弟子になり、イエスさまが最も愛された弟子の一人であったことから、イエスさまの復活以後に生まれたキリスト教会における最高指導者になっていました。この教会の最高指導者としてのペトロと知り合いになるために、パウロは、ペトロのいるエルサレムに上っていったのです。

そして、そのときペトロは、パウロとの会見を許可しました。「十五日間彼のもとに滞在しました」と書かれているとおりです。

一つ、細かいことですが、別の翻訳の聖書の中には、「十五日間」ではなく「二週間」と訳されているものがあります。「二週間」ならば、十四日間です。どちらが正しいかは、わたしには判断がつきません。

ただ、はっきりしていることは、教会が公の礼拝を行うのは日曜日です。滞在が十五日間であれ、十四日間であれ、その間に二度、公の礼拝が行われ、そこに大勢のキリスト者が集まったはずです。もちろん、それ以外の日にも、祈祷会はじめ、いろいろな集まりが行われていましたので、そこにもパウロは出席したはずです。そして、個人的にペトロと会い、いろいろなことを語り合ったに違いありません。

ただの観光旅行ではありません。滞在先の町の教会で行われる礼拝に出席するために、出かけていくのです。二週間あれば、その地の礼拝に、少なくとも二回は出席できます。私たちにとっても、比較的長期の旅行は、いずれにせよ、"教会訪問"の意味を持ちます。

そして、先ほど、わたしは「そのときペトロは、パウロとの会見を許可しました」と申しました。あえて少し微妙な言い方をしました。ペトロは、当時のキリスト教会の最高指導者として、そのとき初めて訪ねてきたパウロとの会見を拒否する権限も持っていた、と理解すべきです。

そのように理解しなければならない理由は、はっきりしています。パウロはかつて、まさに熱心なユダヤ教徒として、まさに熱心なキリスト教迫害者だったからです。

パウロは、教会の「敵」でした。より正確に言えば、パウロが教会を「敵」とみなしていました。そして、教会に対する実際的な暴力や虐待もパウロ自身の手によって行われていました。当時の教会の中には、パウロ自身によって殺された人々の家族や仲間もいたはずです。そんなパウロと教会の最高指導者であるペトロとが、どうして会わなければならないのでしょうか。

易々と会ってよいはずがない。会うとなれば、それはまさに歴史的な大事件です。

しかし、その会談は実現しました。ペトロがパウロとの会見を許可したのです。パウロというあの凶暴なキリスト教迫害者が、全く心を入れ替え、洗礼を受けて、キリスト者になり、教会の仲間に加わったということが、正式かつ公に認められたのです。

別の言い方をするなら、そのとき、教会が公にパウロの罪を赦したのです。ですから、ここで理解しなければならないことがあります。この個所にパウロが書いていることは、「ちょっとエルサレムまで旅行してきました」とか、「ちょっとペトロさんに会ってきました」というような軽い調子の話ではありえない、ということです。

それは、パウロ自身にとっても、教会にとっても、重大な歴史的事件であった、ということです。少なくともパウロ自身にとっては、教会に対して自分が犯した罪を、教会が赦してくれたということを、感謝と喜びをもって実感し、体験することができた、決定的な瞬間を意味しています。

わたしは間違っていた、ということを、深く反省もしたでしょう。そして、彼は、救われたはずです。

そして、そのことは、教会の側にとっても、必ず大きな意味を持ちます。自分たちを迫害していた人を、自分の家族や仲間を殺した相手を、赦して受け入れるというわけですから。そんなことは、簡単にはできないことです。そうではないでしょうか。

「その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは、『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。 」

なんとなく、さらっと書いているように感じなくもありませんが、ここに書かれていることは、ものすごい内容を持っている、ということは、これまでお話しいたしましたことで、理解していただけるはずです。

ペトロとの会見を許されたパウロの後日談です。教会が、正式かつ公に、パウロをキリスト教会の仲間として受け入れることができた、その後のことが、書かれています。

「その後、パウロが、シリアおよびキリキア地方の教会に行ったとき、その人々とは顔見知りではなかったのに、彼らは、わたしのことで、神をほめたたえていた。」

このわたしが救われたこと、そして「かつての迫害者が、あの当時は滅ぼそうとしていたこの信仰を、今は福音として告げ知らせている」ことを、喜んでくれていた。

エルサレムにいるペトロや他の使徒たちだけがパウロを受け入れただけではなく、世界のキリスト教会全体が、このわたしを受け入れてくれた。

そのことを実感したパウロの心に、感謝と喜びがあふれたに違いありません。

ひとの罪を赦すことも、赦されることも、簡単なことでも、当たり前のことでもありません。たとえ、それが救い主イエス・キリストのご命令であっても、そこがキリストの体なる教会の要請であっても、です。しかし、それが実現するとき、ひとの心は、感謝と喜びに満たされます。

パウロ自身が、その感謝、その喜びを、最も深く知っている一人です。このわたしの罪が赦された、というその思い出、その記憶、その証しが、その後の彼の人生を支える力となりました。

だからこそ、彼もまた、ひとの罪を赦すために来てくださった救い主イエス・キリストを信じる信仰を、「今は福音として」宣べ伝えることができました。そして、イエス・キリストの体なる教会を、この地上に建て上げていく仕事のために、全生涯をささげることができたのです。

(2004年5月16日、松戸小金原教会主日礼拝)



2004年5月9日日曜日

母の胎から

ガラテヤの信徒への手紙1・11~17

「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。」

わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではない。パウロが福音を告げ知らせたのは誰に対してか。もちろん、「あなたがた」です。この手紙の宛先であるガラテヤ教会の人々です。

福音とは、パウロ自身が語った言葉です。あなたがたガラテヤ教会の人々は、わたしが告げ知らせた福音をたしかに聴いた。しかし、あなたがたが聴いたわたしの言葉は、人によるものではない、とパウロは言います。

別の翻訳の聖書によりますと、「人によるものではない」の部分は、「人間の事柄ではない」と訳されています。「人間的な事柄ではない」と訳すこともできます。福音の言葉は「人間の事柄」あるいは「人間的な事柄ではない」としたら、誰の事柄、あるいは誰的な事柄だというのでしょうか。

「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」

これは驚くべき言葉です。パウロは、福音の言葉を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた、と書いています。

しかし、パウロは、たしかに彼自身が書いたとされる別の手紙の中で、次のように書いています。コリントの信徒への手紙一15・3を見てください。

「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」

ここでパウロが「最も大切なこと」と言っているのは、福音のことです。福音とは、喜びの知らせという意味です。父なる神が、キリストを通して、わたしたちこの地上に生きる人々を、罪の中から救い出してくださる。わたしたちは、罪から全く自由なものとして生きることができるようになる。それは喜ばしいことです。まさにその喜び、救いの喜びを告げ知らせる喜ばしい知らせのことを、福音と呼ぶのです。

この喜ばしい知らせとしての福音を、パウロは、「わたしも受けた」とコリントの信徒への手紙には、たしかに述べています。福音とは、自分で考え出すもの、瞑想を通して悟るものではありません。全く正反対です。福音とは、伝え聞くもの、受け継ぐものです。

しかし、パウロは、コリントの信徒への手紙においても、その福音を人から受け継いだとは書いていません。「わたしも受けた」と書いているだけです。

それでは、だれから受けたのか。イエス・キリスト御自身から受けた、とパウロは主張します。どうやって?「イエス・キリストの啓示によって知らされた」とあります。啓示とは、日本語の文字通り「啓き示すこと」です。雲に覆われた太陽が、雲の後ろから出てくるごとくです。隠されたものが明らかにされることです。

「イエス・キリストの啓示」とあります。これは誤訳ではありませんが、事柄をいくらか分かりにくくしてしまう訳かもしれません。

事柄に即して言えば、「イエス・キリストという啓示」です。救い主イエス・キリストは神の啓示そのものです。啓示そのものとしてのイエス・キリストです。雲に覆われた太陽はイエス・キリストの父なる神でもありますが、神の御子なるイエス・キリスト御自身でもあります。

イエス・キリストは、神の御子であると同時に、世界の中に生まれ、生活し、生きた一人の歴史上の人物でもあります。一人の歴史上の人物が、父なる神からこの地上に遣わされ、父なる神御自身の御言を世界の人々に宣べ伝えてくださったのです。

パウロは、このイエス・キリストを知りました。しかしパウロは、イエス・キリストを信じる者になる前に、イエスさまの地上におけるお姿を見たことがあるとか、実際に語り合ったことがある、ということを、書いている個所はありません。

たとえば、イエスさまがゴルゴタの丘の上で十字架につけられたとき、多くの人々がその場面を見ていますが、その中にパウロがいたかどうかということは、聖書のどこにも書いていないので、分かりません。反対に、全く見たことがない、ということも、どこにも書いていません。

しかし、パウロにとって、そのこと自体は、あまり問題ではなかったようです。パウロにとって「イエス・キリストの啓示」とはどのようなものであったかを知るために決定的に重要な聖書の個所は、使徒言行録9・1以下です。

この個所で、パウロはまだ「サウロ」と呼ばれていましたが、主の弟子たち、すなわち救い主イエス・キリストを信じる人々を脅迫し、殺そうと意気込んでいました。その様子は、今日の個所にもはっきりと書かれています。

「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒ととして、どのようにふるまっていたかを、聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」

パウロは、かつて、人一倍熱心なユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害し、血祭りに上げ、抹殺することを、自分の使命としていました。この人がのちに熱心なキリスト教徒になることなど、その当時のパウロを知っている人にとっては、考えられないようなこと、想像を絶することであった、と言えるほどです。

皆さんの中には、「あなたがクリスチャンになるだなんて、想像を絶することでした」と言われたことがある方は、おられませんか。

ところが、そのパウロがキリスト教徒迫害のための旅をしていたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた、というのです。

それに対してパウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。このような声が聞こえてきた。この声をパウロは、イエス・キリスト御自身の声であると信じたのです。信じることができたのです。

「そんなの、おかしいよ!」と感じる方がおられるかもしれません。どこからともなく聞こえてくる声が、イエス・キリストの声かどうか、どうして分かるのか。それはあなた自身の心の声かもしれない。だれかが言った言葉を心のどこかで覚えていて、それを思い出しただけだ、というような見方もありうるだろうと思います。

しかし、これは、真実が何であれ、パウロ自身の信仰なのです。パウロが聞いたのは人の声ではなく、キリストの声であった。この出来事を、彼が、そのように受けとめたこと自体を、だれもとやかく言うことはできません。

少し開き直ったような言い方を許していただくならば、わたしたちにとって信仰というのは、いずれにせよ、そんなようなものです。わたしがこれをそのように信じる、と言いきってしまえば、それはもう、だれも手をつけることができない、一つの聖域を作り出すことになります。

わたしは、このことを、悪い意味で言っているわけではありません。信仰とは、いずれにせよ、そういうものだと言いたいだけです。

16世紀スイスの宗教改革者カルヴァンは、まさにこの事態を「キリストとの神秘的結合」と呼びました。イエス・キリスト御自身とキリストを信じるわたしたちの関係は、まさに神秘的に結合し、一体となっているのです。

それは人間同士の結婚関係にたとえられるものです。その関係の中に、第三者が介入する余地は全くありえない。いや、介入の余地があってはならないのです。だれが何と言おうと、このわたしがキリストから引き離されることはありえないのです。他の誰からも、文句を言われたり、注文をつけられる筋合いにもないのです。

たとえば、牧師になるという決心をして、神学校に入学する人がいます。彼らは一様に「神がわたしをお召しになった」と言います。そのように言わない、または言えない人には、神学校は入学を許さないでしょう。

ところが、そのことを、たとえばキリスト者ではない家族の人々の中には「ホントかいな?」と疑う人もいるに違いない。彼がまだ小さな子どもだった頃からよく知っている人々にとっては、「あの子がねえ」と、思わず笑ってしまうようなことでさえある。

しかし、これはまさに信仰であり、信仰以外の何ものでもない、と認めざるをえません。その信仰を抱いた人々は、自分勝手な思い込みだとか何だとか、だれから何を言われても、甘んじて受けるしかありません。

ただし、その信仰を抱いた人々が、その次にしなければならないことがあります。それは、一言で言えば、証しです。その信仰を自分の身をもって証明することが、求められるのです。

わたしはイエス・キリストの声を聞いた。キリストの御言を宣べ伝える者になるように、キリスト御自身がこのわたしにお命じになった。このことを信じた人は、実際にキリストの御言を宣べ伝えなければなりません。そして、御言を宣べ伝えることをやめてはなりません。

いや、やめることができません。彼は、キリストの言葉を聞いてしまった人なのです。

ある先生から教えられたことです。キリストの福音を宣べ伝えるとは、ちょうど、うわさ話を、人から人へと耳打ちしていくことに等しい、と。「こんなことがあったんだって、すごいでしょ?」「え、ホント?」。

わたしたちは自分に耳打ちされた言葉が、驚くべき内容を持ち、非常に興味深く、かつ面白いものであれば、おそらく必ず、別の人にも伝えたいと感じます。だれかに言いたくて言いたくて、たまらなくなります。

「松戸小金原教会に新しい牧師さんが来たんだって」「え、うそー、どんな人」「えーとねー」。

残念な話を聞いたときは、別の人に話したいと思わないかもしれません。

伝道とは何かを、考えさせられます。あるいは、とくに教会ということを考える場合、毎週日曜日に行われる礼拝の説教とは何かを考えさせられます。

イエス・キリストの御言を聞いたのは、パウロだけではありません。十二人の使徒たち、そしてまた、多くの主の弟子たちも聞きました。彼らは、イエス・キリストから聞いた言葉を、別の人々に耳打ちしました。それが驚くべき言葉であり、興味深い言葉であり、面白い言葉であったから、それを聞いた人々は、さらに別の人々にも耳打ちしました。

今日わたしたちが福音の御言を聞くことができるのは、この耳打ちが二千年間も続けられてきた結果なのです。

「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこからダマスコに戻ったのでした。」

ここでパウロが書いていることは何でしょうか。これは明らかに、彼が宣べ伝えた福音は人によるのではない、ということを、極限まで突き詰めていくと、こういう話になる、という一つの究極表現である、と言えます。

「母の胎内にあるときから」と、パウロは言い切ります。これは間違いなく、非常に過激な言葉です。聴く人によっては腹を立ててしまうかもしれないほど過激です。なぜなら、これは、いわゆる教育の賜物というべき要素を、根本的に問いに付す言葉になりうるからです。

わたしたちは、教会とそれぞれの家庭において、信仰教育ということを考えざるをえません。自分の子どもたち、日曜学校の生徒たち、自分自身が、教会や家庭で聖書を学ぶ。教会が学校になり、先生がいて生徒がいる。家庭が学校になり、親が先生になり、子どもが生徒になる。そのこと自体が間違っているわけでは、決してありません。

ところが、だれかある先生のおかげで、わたしは信仰を持つことができたとか、御言を宣べ伝える伝道者になることができたという言い方に根本的・究極的な疑問符を付けるのが、このパウロの言葉です。

「母の胎内にあるときから、神がわたしをお選びになった」。

恩知らずな言葉かもしれません。しかし、信仰に関しては、恩知らずでもよいのです!恩知らずであることが許されるのです。

だれのおかげでもない、神よ、あなた御自身が、このわたしが母の胎内にあるときから、だれの教育も影響も受けていないそのときから、このわたしを召してくださっていたのである、というこの一点を信じることができるときに、その信仰が本物の信仰になるのです。

人の支えによって立つのではなく、神御自身の支えによって立つ信仰になるのです。

(2004年5月9日、松戸小金原教会主日礼拝)



2004年5月2日日曜日

キリストの僕として生きる


ガラテヤの信徒への手紙1・1~10

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

この手紙の著者は使徒パウロです。パウロは、自分自身を指して「使徒」と呼んでいます。「使徒」とは、神が彼に与えた仕事の名前です。その意味は「遣わされる者」です。

彼らは"どこから"あるいは"誰から"遣されるのでしょうか。「人々からではない」、すなわち、使徒は人間が遣わした者ではない、とパウロは書いています。そして「人々を通してでもない」。この意味は、人間の仲介によらない、ということです。遣わしてくださる方と、遣わされるこのわたしとのあいだに、誰ひとり別の人間が介入していない、という意味です。

そうではない。使徒は、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神御自身が遣わしたのだ、というわけです。

これは、パウロだけのことではありません。すべての使徒は、父なる神と御子イエス・キリストから遣わされた者です。

それでは、彼らは"どこへと"、あるいは"誰へと"遣わされるのでしょうか。そのことは、書かれていません。しかし、答えは明らかです。父なる神と御子キリストがおられるのは天です。遣わされる先は、天とは対極の場所です。この地上の世界です。私たち人間が生活している、この地上の現実の世界です。

使徒は、天から地へと、神から人間へと遣わされる者である。わたしはそれである、とパウロは、自分自身をそのような者として理解しているのです。

それは何のためか、という問いが成り立つと思います。使徒は何のために、天から地へと、神から人間へと遣わされるのか。神の言葉、神の救いを、地上に住む多くの人々へと宣べ伝えるためです。彼らは、そのために、特別に選ばれた人々なのです。

さて、いきなりという感じもしますが、パウロは、今日私たちが開いているこの手紙の冒頭の部分で、非常に険しい調子で、ある人々のことを非難しています。

「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この世の悪からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」

キリストは、父なる神の御心に従い、わたしたちを、この世の悪から救い出すために、御自身を献げてくださいました。このキリストの恵み、つまり、キリストがわたしたちに与えてくださった"この世の悪からの救い"という内容を持つ恵みへと招いてくださった方とは、父なる神のことです。

この父なる神から、あなたがたが、こんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしている。そのことにわたしはあきれ果てている、とパウロは書いています。

パウロがあきれ果てている理由は、ここを読むかぎり、二つあります。第一は「こんなにも早く」という点です。第二は「ほかの福音に乗り換えようとしている」という点です。

ただし、パウロは、間髪を入れず、「ほかの福音」などというものは存在しない、と付け加えています。福音は一つしかない。二つも三つも無い、というわけです。ほかの福音があると考えている人は、だまされているだけだ、というわけです。かなり厳しい言葉です。

「キリストの恵みへ招かれる」とは、おそらく、イエス・キリストを信じる信仰を告白し、洗礼を受けることと、別のことではありません。洗礼を受けたばかりの人々は、教会にとっては、生まれたばかりの赤ちゃんです。大切な、大切な宝物です。

その人々が、しかし、こんなにも早く、ほかの福音に乗り換えようとしている、というわけです。一つの福音、正しい信仰を捨てて、間違った教えに引きずられてしまっている。産みの親パウロは、彼らの変わり身の早さに、嘆き悲しんでいるのです。

どれくらい早かったかということは、書かれていないので分かりません。一年くらいでしょうか。五年くらいは保っていたのでしょうか。あまりにも早すぎる、なぜこんなことになってしまったのか。そのことに、パウロは、苛立ちもし、腹を立ててもいるのです。

しかし、パウロは、さすがというべきでしょうか、まさに彼らの産みの親として、彼らのことを悪く言いたくなさそうです。本当に責められるべきは、惑わされている彼ら自身ではなくて、彼らを惑わしている人々である。間違った教えを宣べ伝えている教師たちが悪い。生徒たちは、その教えに忠実に従っていただけなのです。

「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」

パウロは、呪いの言葉さえ口にします。しかし、ここはどうか、理解していただきたいと願います。洗礼を受けたばかりの人を躓かせることや、間違った教えに誘うことは、本当に悪いことです。

そうではありませんか。一人の人生を台無しにしてしまうことを意味しています。万死に値する大罪です。

もちろん、躓いたその人の側には、全く何の責任も無い、とは言い切れない場合もあるでしょう。聖書の御言も教会の事情もよく分からないうちに、なんとなく洗礼を授けられてしまった。そして、よく分からないうちに躓いてしまった、というケースも耳にします。誰が責められるべきか、誰にも責任がないのか、判断に苦しむケースもあるでしょう。

しかし、しかし、です。パウロは、生まれたばかりの大切な赤ちゃんを鞭で打つようなことは、しません。責められるべきは教師たちであり、信仰の先輩たちです。洗礼を受けたばかりの人々を、パウロは、体を張ってでも、かばうのです。

パウロは、ローマの信徒への手紙14・1に、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と書いています。同書15・1には、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とも書いています。

これが今日の個所にも当てはまります。パウロは、産まれたばかりの赤ちゃんを心から愛しているのです。だからこそ、次のような言葉が出てくるのかもしれません。

「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」

弱い人々をかばう。その人々の存在や立場を擁護する。そのことは、いずれにせよ、逆の立場の人々と対峙することを余儀なくされます。そのようなやり方は人気取りである。票集めの手段である、という中傷誹謗を受けやすくなります。

また、もう一つの点として、パウロが宣べ伝えていた福音は、人を真に自由にするものであった、というこのことが、逆の立場にいる人々にとって大きな問題でした。

自由にすることと、いいかげんにすることは、紙一重です。反対者からすれば、パウロは、信仰の弱い人々をかばおうとする勢い、信仰そのものをいいかげんにしてしまう張本人である、というふうにも見えてくるわけです。

あまり固いことを言わない。なんでもかんでも、「いいよ、いいよ」で済ませてくれる。そういう人(リベラルな人?)は、相対的に言って、固くて難しい人(保守的な人?)よりも人気がある、と言えます。

パウロも、そのように見られました。しかし、それは誤解であり、意図的な中傷誹謗でもありました。だからこそ、パウロは、そんなことではないのだ、ということを、口をすっぱくして言わなければなりませんでした。

キリストの僕(しもべ)たちが「強い者が強くない者の弱さを担わなければならない」のは、人気取りや票集めのためではありません。キリストの御前に差し出された一人の救われた魂の価値を重んじるためです。キリストの僕の役割は、キリストに仕えることです。自分の野心や名声に仕えることではありえない。このように語ることができると思います。

(2004年5月2日、松戸小金原教会主日礼拝)


2004年2月15日日曜日

伝道者という仕事(山梨栄光教会)

コリントの信徒への手紙一4・6~13

コリントの信徒への第一の手紙を学んできました。なかなか手ごわい手紙です。

パウロは、コリント教会の内部に起こっている、その教会にとってはまさに死活問題となりうる騒動を知り、その問題に介入することを決意しつつ、この手紙を書いております。

教会が分裂しかかっている。そんなことがあってはならない。そのようにパウロは確信しております。

教会は仲良くすべきです。まさか喧嘩をするために集まっているわけではないでしょう。パウロはコリント教会の人々に、喧嘩をやめて和解することを期待しています。そうでなければならないと考えています。

しかし、その一方で、パウロは、この手紙の宛先であるコリント教会の中にある一つの問題を、はっきりと見抜いていました。彼らの問題は一つだけではありません。非常にたくさん問題がありました。そのことはこの手紙の続きをずっと読んでいけば分かることです。

しかし、そのたくさんある問題の中でも最も根本的で最も大きな問題である、とパウロが考えていたに違いない、一つの問題がありました。それは何か、ということを、今日はお話ししたいと願いながら、準備してまいりました。

パウロは、そのことを、どうしても、コリント教会の人々に伝えなければなりませんでした。何とかして。何としてでも。

ところが、それを伝えることは、実際問題としては、とても難しいことでした。

狭い意味での伝道者、牧師とか宣教師とか呼ばれている人々にとって最も難しいと感じることがあるとすれば、そもそも自分が所属している教会に対して何かを物申すということ自体が、たいへん難しいことです。自分の存在を支えている教会の問題を率直な言葉で指摘する、ということ自体が、たいへん難しいことなのです。

わたしが心から愛してやまない人々である、と確信していないような相手に対してならば、何か厳しいことを、そっけなく言い放つことは、割合簡単なことです。もっと単純に言えば、嫌いだと思っている相手に対してなら、平気で何でも言えるわけです。

しかし、伝道者たちが、教会の人々のことを、心から嫌うことなど、ありえないではありませんか。そんなことは、本当にありえないことです。教会が嫌いな人は、伝道者にはなれません。牧師も宣教師も、本来、教会の仕事なのです。

ところが、その彼らが時々突き当たる壁があります。

それは、要するに、教会の中に、「これは教会の死活問題となりうる事柄である」と感じる問題を見つけてしまったときです。

そのことを、どうしても、厳しい言葉で、教会の中のある人々に向かって、指摘しなければならない問題を見つけてしまったときです。

言いたくないことを言わなければならない状況に追い込まれてしまったときです。

そんなことは、何も伝道者とか言わなくても、どんな仕事をしている人たちでも、家庭にいるときも、みんな経験していることだよと言われるなら、そのとおりかもしれません。伝道者だけを特別扱いするつもりはありません。

しかし、その上でなお思うことは、教会の中に大きな問題を見つけ、それを厳しい言葉で指摘しなければならない状況に立たされ、そうしなければその教会はもはや教会でなくなってしまう、と確信させられてしまうような窮地に追い込まれたとき、しかし、そこで口を開いて、そのことを語ったとたん、かえって教会が大騒ぎになり、彼ら自身が教会の混乱の原因になってしまうことがありうるのだ、ということです。

そして、そのことよりも、ある意味でもっと問題なことは、たとえそのような仕方で、彼らが語った言葉自体によって、かえってますます教会が混乱しはじめ、大騒ぎになってしまったときにも、彼らはキリスト者であることを辞めることができない、ということです。キリストを信じる者であることを辞めることができません。

また、それが真理である、と確信している言葉を、黙って飲み込むことも、おそらくできません。黙って飲み込むことができる人は、たぶん伝道者になろうとは思いません。それを語らざるをえないと感じている言葉を全く語らずに済ませる人は、たぶん伝道者には向いていません。

しかしまた、彼が語った言葉が、かえって教会の混乱の原因になることは、ありえます。彼らが本当に心の底から、困ったなあ、と頭を抱えて悩むのは、そういう時なのです。

今日開いていただいた個所の最初に、パウロが書いていることは、じつは、そのようなことなのです。

「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです」。

この最初の一文には、非常に翻訳しにくい言葉が使われていると一つの注解書に書いてありました。なるほど、たしかに、この新共同訳聖書の訳も、かなりの意訳です。もっと直訳しますと、すごい訳になります。

問題は「当てはめて」と訳されている言葉です。これを直訳しますと、「作り変える」となります。要するにパウロは、この手紙のこれまで書いてきた言葉は、あなたがたのために、つまり、コリント教会の人々を傷つけたくないという理由で、論点をぼやかした別の話に作り変えたものでした、と言っているのです。

これが意味することは、パウロが本当に書きたかったことは、自分とアポロの関係の話などではありませんでした、ということです。もっとはっきり言わなければならないことは、別のところにあるのです。しかし、そのことをズバリ指摘することは、これまでついに、できずに来たのです、と告白しているのです。

こういうふうに言われると、何とも言えず、嫌な感じがしてきます。最初からはっきり言ってくれたほうがよかったのに、と感じる人も、きっといたことでしょう。

しかし、先ほど少し紹介しました、わたしが読んだ注解書が、なぜ、この文章は非常に訳しにくい、と書いているか、その理由もよく分かるのです。

その注解者自身はその理由をほとんど何も書いていませんが、わたしが感じる一つの理由は、「作り変える」と訳してしまいますと、要するに、非常に意地悪っぽいというか、あまりにも意図的すぎるというか、パウロの人格を疑わせてしまうような悪いニュアンスを含ませてしまう危険性がある、ということです。

そうではないのです。そうではないということを、どのように説明すべきか、その言葉にまた悩みますが、とにかく、そうではないのです。最初は意図的に論点をずらして別の話をしながら、少しずつ少しずつ、核心に触れるところへと近づいていく、というような戦略的な語り方で、次第に相手を攻め落としていく、というようなことではないのです。

もっと単純なことです。言いにくいことを言えないできただけです。もっとシャイで、ある意味非常に臆病で、こんなことを言ったら教会のみんなはどう反応するだろうか、と深く悩み、毎日そのことばかり考えながら、書こうか書くまいか迷っているパウロの姿を思い浮かべるほうが、はるかに近いものがあるのです。

しかし、パウロはついに書き始めました。今まで書けずに来たことを、堰を切ったように、勢いよく。

「あなたをほかの者たちよりも、優れたものとしたのはだれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」。

ここでパウロが言おうとしていることは何でしょうか。とんでもなく重大なことを書いているらしいということは、すぐに分かります。しかし、何を言わんとしているかは必ずしも明らかではないように思います。

ただ、この文章の真意を理解するための一つのキーワードがある、と感じます。それは8節にある「あなたがたは、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっている」という言葉です。

「わたしたち」とは誰のことでしょうか。その答えは9節にあります。9節にはっきりと「わたしたち使徒」と書かれているではありませんか。「使徒」と呼ばれるイエス・キリストの弟子たちのことです。当時の全世界の教会においてキリストの死と復活を証しするために特別に立てられた、教会の指導者たちのことです。また彼らは、伝道者でもありました。教会の牧師であり、御言葉の教師でもあり、福音の宣教師でもありました。

その意味での使徒たちを、あなたがたは、抜きにしているではないか、とパウロは指摘しています。使徒の存在を無視している。あるいは、使徒の存在を不要だと思っている。より端的に言い換えるなら、使徒不要論、伝道者不要論が、あなたがたのうちにあるではないか、とパウロは指摘しているのです。

しかし、本当にそうでしょうか、とパウロは問うているのだと思います。「あなたをほかの者たちよりも優れた者にしたのはだれです」と問うています。パウロはこの問いの答えを述べていません。「それはわたしです」とも、「それはわたしたち使徒です」とも答えていません。そんな恥ずかしいことを、パウロは、おそらく口が裂けても言わないでしょう。

しかし、だからと言って、パウロは、コリント教会の一部に存在したと思われる使徒不要論、伝道者不要論に対しては、どうしても、ひとこと言わなければならないことがある、と感じていたに違いないのです。

じつは、このことは、わたしたちがこの手紙の1・10以下を学んだときに、すでに確認していたことです。

当時、コリント教会の中には、「わたしはパウロにつく」とか「わたしはアポロにつく」とか「わたしはケファにつく」と主張していた人々と共に、「わたしはキリストにつく」と主張していた人々がいました。

この最後の「わたしはキリストにつく」と主張していた人々のことを、わたしは次のように説明しました。おそらく、この人々は、コリント教会の内部で起こっている論争に対して心の底から幻滅を感じていた人々に違いない、と。

パウロにつくか、アポロにつくか、ペトロにつくかなどという、結局人間の世話になることばかり考えているから、教会の問題は片付かない。

わたしたちを救うのは人間ではなく、神であり、キリストではないか。

わたしたちは人間を見るのではなく、神を見、キリストを見るべきである。

そのような理屈の中で、この人々は一種の人間不信に陥り、人間としての使徒、人間としての伝道者の存在を、事実上否定する立場に立っていた人々である、と思われるのです。

そのときわたしは同時に、このような考え方は、ある面で非常に魅力的なものでありうるとも申しました。

わたしたちを救うのは人間ではなく神であり、キリストであるという言葉は紛れも無い真実でもあります。人間としての使徒、人間としての伝道者は、多くの場面で、躓きの石になる、ということも否定できない事実でもあります。

また、もう一点付け加えることができるであろうことは、教会の中で「キリストにつく」と語る人々の言葉は、ある面で非常に正しい、また非常に美しい言葉に聞こえるはずです。彼らの言うことは全くの正論である、と聞いた人々が、当時のコリント教会の中にもいたのではないでしょうか。

なるほど、たしかにそのとおりです。しかし、だからといって、使徒たち、伝道者たちは、教会にとって本当に不要な存在なのでしょうか。単なる重荷にすぎず、できれば存在しないほうがよく、迷惑な存在にすぎないのでしょうか。

「あなたがたは・・・わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になってくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」とパウロは書いています。この意味は、よく分かりません。やや興奮しながら書かれた文章ではないでしょうか。

ただ、「既に大金持ちになっており」ともあります。教会の人々が王様のように裕福になれば、伝道者たちも裕福になれる、という意味でしょうか。使徒たち、伝道者たちさえいなければ、教会の人々は裕福になれるのに、ということでしょうか。そんなふうに後ろ指を指されながら、伝道者たちは、なお教会の人々の前に立たなければならないのでしょうか。

「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せるところもなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」。

ここでパウロは、コリント教会の一部に存在していた使徒不要論、伝道者不要論を全面的に肯定し、受け入れています。なるほど、わたしたちは、存在する価値の無い者たちである、と。「わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされている」と、ここまで言い切っています。

これは、口から出任せ、筆の勢いで書きなぐっている言葉ではないと、わたしは思います。本当に、心底から、わたしもそう思うと、パウロは言っているのです。

12節の後半には、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」とあります。

パウロを侮辱し、迫害し、ののしっていたのは、いったい誰なのでしょうか。教会の外側にいる人々だけでしょうか。それだけではなく、使徒不要論、伝道者不要論を主張する人々も又、教会の外側にいる人々と一緒になって、パウロを侮辱し、迫害し、ののしっていたのではないでしょうか。

しかし、パウロは、それらの言葉を甘んじて受けてきたのです。なぜでしょうか。

「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」。

パウロは、教会を、そして教会の人々を、心から愛していたのです。何を言われても、言われっ放しでよい。世の屑と呼ばれ、すべてのものの滓と呼ばれても構わない。使徒たち、伝道者たちの側に非が無い、とは言い切れないし、何を言われても仕方が無い面があることを認める。

しかし、人間としての使徒、人間としての伝道者そのものが教会には不要であるという主張を黙って見過ごすことは、パウロにはできませんでした。「キリストにつく」という主張は、最も正しく、最も美しい言葉であると同時に、教会にとって最も危険な言葉にもなりうるのです。

今日の個所の初めに、パウロは、コリント教会の人々に、「書かれているもの以上に出ない」ことを学んでほしかった、という趣旨のことを述べています。「書かれているもの」とは、1・18に引用されている「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」というイザヤ書29・14のことを指しています。

そして、パウロは、使徒たち、伝道者たちが語る説教という愚かな手段を通して、神は人を救う、と語ってきました。

世の屑であり、すべてのものの滓である者たち、教会ではお荷物、厄介者と思われている者たちを、神が用いてくださる。

そのことを、今日の個所で、パウロは、いかにも言いにくそうに述べているのです。

(2004年2月15日、山梨栄光教会主日礼拝)

2003年12月1日月曜日

A. ファン・リューラー著『キリスト者は何を信じているか 昨日・今日・明日の使徒信条』(近藤勝彦・相賀昇訳、教文館、2000年)

本書は、20世紀オランダ・プロテスタンティズムを代表する改革派神学者アルノルト・アルベルト・ファン・リューラー(オランダ語Rulerの表記が「リューラー」か「ルーラー」かは議論がある)の最晩年における代表的著作の一つであり、彼の単行本の日本語版出版は、これが初めてである。

内容は、非常に優れている。ファン・リューラーの神学思想の特徴として知られる「三位一体神学」「神の国神学」「終末論的神学」「創造の神学」「喜びの神学」といった傾向が、満ち溢れている。われわれが人間として地上に生きていくために必要な喜びと勇気、そして希望を教えてくれる。

それが「使徒信条」の解説という形で表わされ、普遍的・公同的キリスト教信仰への入門書として、提示される。われわれは、本書の出版を大いに歓迎し、心から喜ぶものである。

ところで、本訳書の底本は、訳者が明らかにしているとおり、オランダ語版(オリジナルテキスト)ではなく、ドイツ語版であり、したがって本訳書は「重訳」と称せられる。

しかし、われわれが感じている、より根本的な問題は、重訳出版の是非ということ自体ではなく、底本とされているハインリヒ・クヴィストルプ氏の独訳書は信頼するに足りうるか、ということである。

評者自身、これから時間をかけて、オランダ語版とドイツ語版との比較をしていきたいと願っている。現時点ですでに語りうることは、ドイツ語版においては「敷衍」と語るのがはばかられるほどの思想的置き換え、また大規模な拡張が見られる、ということである。はっきり申せば、ファン・リューラーの神学思想に基づく独訳者H. クヴィストルプ氏の思想展開ではないかと疑われる個所が、多数見当たるのである。

そんなことは翻訳の世界では日常茶飯事で、問うに価しないと言ってしまえば、それまでである。また、この点の責任を、日本語版訳者や出版社に問うことはできまい。いずれの日か、わが国で、本書とは別にオランダ語版からの翻訳が出版されることを待ち望む他はあるまい。

底本の問題はともかく、ファン・リューラーの神学思想、そしてキリスト教信仰そのものへの入門として最適な本書を、日本のキリスト者たち、またわが国の多くの人々に、心から推薦したい。いずれにせよ、現時点でこの神学者の単行本の訳書は、これしかない。

(Amazonカスタマーレビュー掲載)


2003年10月4日土曜日

H. フィサー著『創造性、道標、奉仕提供 ポスト産業都市における教会の役割』(2000年)

Hans Visser, Creativiteit, wegwijzing en dienstverlening: de rol van de kerk in de postindustriele stad. Uitgeverrij Boekencentrum, Zoetermeer, Tweede druk, 2000.

全編オランダ語ですが、上記のタイトルの興味深い本を最近入手しました。2000年に出版され、同年中に第2版が出ていますので、たぶん良く売れているのでしょう。

何が興味深いか。著者の肩書は「オランダ改革派教会社会活動協議会理事長」(Directeur van de Stichting voor Kerkelijke Sociale Arbeid van de Hervormde)というものですが、(自他共に認める)「ファン・ルーラーの創造の神学の支持者」(aanhanger van de scheppingstheologie van A. A. van Ruler)である、と紹介されているのです!

これはいわゆる「宣教学」の本です。内容はタイトルにあるとおり「ポスト産業都市における『教会の』役割」に関するもので、「都市伝道」をテーマにしています。

論述は、「序」(第1章)に続き、最初に「産業都市」(industriele stad)の発生史から開始されています(第2章)。ここで、産業都市の歴史が「プレ産業都市」(=産業都市成立以前)→「産業都市時代」→「ポスト産業都市」(=産業都市崩壊後)と三つに区分されています。しかし、「ポスト産業都市」とはまさに現在の状況であり、イメージ獲得を模索中の課題であるわけです。

そこで、次に、そのイメージの獲得方法が紹介されています(第3章)。それは大別して二つあります。「都市に対する決定論的アプローチ」と「非決定論的アプローチ」です。この区別はクラウド・S. フィッシャー著『都市体験』(1984年)から採用されたものです。C. S. フィッシャーの区別と定義は以下のとおりです。

1、決定論的理論: 人間の社会的・人格的生活を決定する「都市主義」(urbanism)がある、とする理論。

2、非決定論的理論:決定論的なものに対して全く対立する理論。

3、サブカルチャー理論:上記二者の混合理論。

そして、「ポスト産業都市での生活」についての分析が続いています(第4章)。

以上で本書の第1部が終了します。

しかし、何と言っても、われわれにとって興味深いのは、「第2部 ポスト産業都市における教会」でしょう。

第2部最初の章のタイトルは「ポスト産業都市の成立史における教会の位置づけ」です(第5章)。それは「都市伝道者としてのパウロ」という点から開始されています。これは、考えてみれば、なるほど当然のことです。

著者は、アレン(Roland Allen)が描いた「パウロの伝道戦略」(Paulus' zendings-strategie)を、次のように紹介しています。
「パウロはローマの統治領域を勘案していた。彼はギリシア文明の中心地を訪ね、貿易センターに立ち寄った。パウロは、一つの都市に到着すると、まず最初にシナゴーグを訪ねた。そして、その次にユダヤ人以外の人々(異邦人)とのコンタクトを図った。明らかなことは、パウロは教会の会衆自身を全く統治しなかった、ということだ。彼は会衆を自立させ、独立させた」。

この点でアレンは、現代においてはしばしば、諸教会があまりにも独立させられすぎている、ということにおいて、現代の伝道を批判していると、著者は付け加えています。

歴史的論述はさらに進み、「ローマ帝国における都市教会の発生」、「コルプス・クリスティアーヌム発生後の都市における道標としての教会」、「西欧の中世の教会」、「プロテスタンティズムによる都市改革」等に及び、上述の三区分に基づき、「プレ産業都市における教会」、「産業都市下の教会」、「ポスト産業都市における教会」の、それぞれ果たしてきた「役割」(rol)が明らかにされています(第5章)。

そして、これに続く「第6章 ポスト産業都市の教会的イメージ形成 (Kerkelijke beeldvorming van de postindustriele stad)」の論述は圧巻です。わたしは、この章に最も感動しました。これまでに、「都市」というものについての、ここまで鋭く明快な分析を、読んだことも、聴いたことも無いと感じました。

教会が「都市」ないし「都会」に対して抱くイメージには、大別して二種類ある、と著者は考えています。「否定的な都市イメージ (Negatieve stadsbeelden)」と「肯定的な都市イメージ(Positieve stadsbeelden)」です。

まず最初に、「否定的な都市イメージ」を描いてきた(教会的)代表者として、著者は、アウグスティヌス、H. ヴィヘルン、そしてジャック・エリュールの三人の見解を紹介しています。とくに、アウグスティヌスについて、著者は次のように述べています。

「アウグスティヌスは、明らかに『否定的な都市イメージ』を描き出した、最初の重大な人物である」(189ページ)。

そして、アウグスティヌスの主著である(いわゆる)『神の国』(De Civitate Dei)が詳しく取り上げられます。そして、著者は、(われわれが従来「国」と訳してきた)Civitateの概念を、アウグスティヌスが、ギリシア(語)的な意味での「都市国家」(stadsstaat)として理解したことを問題にしています。つまり、アウグスティヌスのDe Civitate Deiは、「神の王国」ではなく、「神の都市」として考えられ、「人間的な(=邪悪な)都市」とのラディカルな対比において捉えられている、というわけです。

その上で、アウグスティヌスは、「地上の都市」と「神の都市」との葛藤(ないし闘争)を、「カインとアベルの関係」と「彼らと神との関係」という事柄へと「還元」(ないし縮小)しました。ここに「否定的な都市イメージ」の根源がある、と著者は見ています。この点で興味深いのが、「アウグスティヌスのcivitas Dei概念には十字架が欠落している」と述べた、カール・バルトのアウグスティヌス批判である。バルトによると、civitas Deiとは「ゴルゴタで十字架に架けられたキリストの連隊(het regiment van Christus, de op Golgotha gekruisigde)」である、と書かれています(198ページ)。

そして、「(教会における)否定的な都市イメージ」の次に「(教会における)肯定的な都市イメージ」が紹介されています。著者が紹介する「肯定的な都市イメージ」の代表者は、ハーヴェイ・コックスとハーヴィー・コーンです。

以上の歴史的分析に基づき、著者自身の描く「都市イメージ」が明らかにされているのは、「第7章 ポスト産業都市における教会生活」です。まさにこの章において、著者の「ファン・ルーラーの創造神学の支持者」たる所以が告白されています。ちょっと長いですが、核心に触れていると思われる文章を、引用しておきます。

「私はアーノルト・A. ファン・ルーラーの神学によって方向づけられてきた。彼の神学は、なるほど都市について何かを記しているわけではない。しかしファン・ルーラーは、健全な『創造の神学』(een deugdelijke theologie van deschepping)を発展させてきた。彼によると、創造は、それ自体において存在している。人間は、創造的活動(schepping)において、神と共なる共同創造者(medeschepper naast God)の役割を獲得する。世におけるキリストの到来は、人間の堕落の結果に最も深くかかわっている。キリストの到来は、救助(behoud)、救出(redding)、回復(herstel)、贖罪(verzoening)、解放(bevrijding)を含意する。キリストは再創造(herschepping)をもたらす。ここに大きな誘惑がある。それは、キリスト御自身ならびに世におけるキリストの体なる教会の救済的行為に基づいて都市問題にアプローチすることによって、独占的・排他的な救済的形態を教会に与えてしまうという誘惑である。ファン・ルーラーは、教会を、(たとえば)貧しい人々、家を失った人々、病気の人々、虐げられた人々といったような人間的堕落の犠牲者に配慮する存在、というふうには理解しなかった。なぜならそのとき、教会が描く(否定的な)イメージに基づく創造の業としての都市という理解に遭遇するからである。ファン・ルーラーによると、創造に対する救済論的アプローチは、実在についての歪んだイメージを提供する。そのとき、都市成立の発端としての市場(しじょう)がますます、悪の根源のように感じられるのである」(246ページ)。

あとは、推して知るべし、です。著者の立場は、明らかに、ファン・ルーラー神学に基づいて、「都市」ないし「都会」を肯定的に捉え、そこに生きる人々に「役立つ」伝道と教会形成を志向するものです。

日本でも、しばしば、「地方伝道」ないし「田舎伝道」と「都会伝道」との対比が語られます。どちらが「困難」で、どちらが「簡単」か、というようなことを議論しはじめる向きもありますが、その議論自体は空虚でしょう。

そんなことではなく、本当の問題は、「都会伝道」を考えるときに、「『あの邪悪な』都会!」と決めつけるところから、一切の理論と実践を引き出そうとすることにある、ということが、本書の著者と、著者の主張を裏打ちするファン・ルーラーの神学の言いたいところではないでしょうか。

とても大切な視座を教えられたような気がしました。謹んでご紹介いたします。

2003年10月2日木曜日

書評 大木英夫著『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(2003年)

関口 康

このたび出版された大木英夫氏の『組織神学序説 プロレゴーメナとしての聖書論』(2003年)に対して本誌『改革派神学』の読者が抱く関心事の一つは、かつての本誌主筆岡田稔の代表的な論文である「植村・高倉神学の行方」 [1]の妥当性や如何に、という点にあるのではないだろうか。

もっとも、大木氏の主要著作を見るかぎり、高倉徳太郎への肯定的評価が語られている個所はほとんどない。同氏は「東京神学大学における植村の神学的伝統は、わたしにとりましては、熊野先生を通じて受けたものであります。・・・『植村の神学的伝統』とは植村から熊野へと継承発展させられてきた太い一線であります」と語ったことがある[2]。そして『組織神学序説』は、「故熊野義孝教授」と「故渡辺善太博士」に献呈されている。「熊野先生からは『教会』と『歴史』の感覚を受け継ぎ、渡辺先生からは『聖書正典』への理解を受け継いで、問題意識を少し広げ『組織神学序説』とした」と著者は書いている[3]。

こうして大木氏が「植村・熊野神学」を自覚的・主体的・責任的・学問的に継承していることは明白である。だとすれば、本誌読者の次なる関心は「植村・熊野・大木神学の行方」である、と表現しうるであろう。

岡田は「植村神学」の弱点について、「その因って生ずる根本を追及すれば、結局、聖書観と信条観にはいたいする」と断じた[4]。とりわけ植村の信条観に関して岡田は、日本基督一致教会の組織の際に「ウェストミンスター信仰告白、基督教略問答、ハイデルベルク信仰問答、ドルト教憲」が採用された当時の様子を「ほとんど首も回らぬしぎであった」と回顧した植村に対して、「はたして、この四つの信条文書を同時に持つことが、信仰の自由活動を束縛するしぎとなるだろうか」と問うた。

岡田は言う。信条は本来、説教者が聖書を解説する時の道案内である。説教者が毎日曜日の礼拝に自由に聖書のここかしこを解説する時、その所説に首尾一貫性を見出しうるだろうか。ロマ書の3章はアウグスティヌス主義で、12章はペラギウス主義でそれを解説するような危険が起こらぬと誰が保証できるか。まして、この教師とかの教師が同じ原理で説くことなどは、思いも及ばぬ。かくして信者は、何年教会に出席してもキリスト教の筋道さえ判然せぬまま死去することになりはしないか。このように、岡田は、聴く者に強い感銘を与えるきわめて実践的な判断によって、「植村の神学的伝統」としての「簡易信条主義」の弱点を鋭く指摘した[5]。

そしてまた、岡田と同世代に当たる熊野義孝がこの点において植村の路線を全く引き継いでいたため、岡田は熊野に次のように問わざるをえなかった。「何ゆえにニカイア、カルケドンを認めて、ドルト、ウェストミンスターを拒まねばならぬのか。古カトリック教会の信仰の告白としてのニカイア、カルケドンと、宗教改革の教会の信仰の告白としてのウェストミンスターとの関係にどんな実質的差違があるのだろうか」[6]。もちろん、実質的差違は無い、と言っているのである。

他方、植村や熊野の聖書観に対する岡田の批判は、その信条観に対するそれと比べると、必ずしも歯切れのよいものとは言いがたく、防戦一方の感を否めない。岡田は、自ら師事したメイチェンあたりの聖書観を一つの標準とみなしつつ、植村はメイチェンと軌を一にする立場をとったのに対し[7]、熊野はメイチェンをファンダメンタリストの代表者と認めるのを避けなかった[8]と述べるにとどまっている。はたして本誌の読者たちは、メイチェンの聖書観をいまだに支持しえているだろうか。

「植村・熊野神学」の路線を継承する、と自ら語る大木英夫氏の『組織神学序説』においては、岡田が提起した問題は克服されているのだろうか。これは日本プロテスタント神学史上、きわめて重要な問いであると思われる。

本拙論は単なる「書評」として本誌編集部から執筆を依頼されたものである。また、大木氏の『組織神学序説』はおよそ六百頁にも及ぶ大著であるので、事の詳細を評する余裕は無い。問題点を網羅的に抽出することも不可能である。ただ、非常に感銘を受けた点のみ指摘しておきたい。それは、大木氏が現代日本において「組織神学」を構築するための最も大切な土台がそれであるという仕方で、「契約神学の伝統の回復」という課題を前面に掲げている点である。これは、植村・熊野はじめ従来の日本の組織神学者の手で著されてきたいずれの教義学教本にも見られない、新しい方法である。

これがわれわれに感銘を与える理由は、次のように説明しうる。大木氏が「契約神学の伝統の回復」と呼んでいる事柄の実質的な内容は、かつて岡田が、一方の植村に向かって「四つの信条文書」を持つことが「信仰の自由活動を束縛するしぎとなるだろうか」と問い、他方の熊野に向かって「何ゆえにニカイア、カルケドンを認めて、ドルト、ウェストミンスターを拒まねばならぬのか」と批判したことに関する一つの重要な神学的レスポンスと認めうる、ということである。なぜなら、「契約神学の伝統」とは、まさに(植村が嫌忌した)あの「四つの信条文書」に代表される歴史的改革派教会の諸信条を通して現代の改革派諸教会へと脈々と受け継がれている、われわれの神学的伝統そのものだからである。

もっとも、大木氏は「日本基督教団立の神学校東京神学大学における組織神学の教授として神学教育にたずさわってきた者」[9]と自己規定しながら、「教義学(Dogmatics, Dogmatik)の課題は、通常であれば、みずからが所属する教会の信仰告白の解説を中心にすべきものであります」[10]と言い、「日本基督教団信仰告白は使徒信条に独自な前文をつけた短いものでありますが、その冒頭に聖書の正典性を認めており、それをもってプロテスタント的聖書原理に立つことを示しております」[11]と言い、「日本基督教団の教義学は、まずこの前提的課題との取り組みから開始せねばならないのであります。日本基督教団の教義学は、その背後にある長大なキリスト教思想史や教会史を遺産として受け継ぎながらも、『聖書によってたえず改革される教会』としてそれを改革的に継承すべきであり、しかも聖書に基づいての教会形成という建設課題として受け止めなければならないのであります。そのようなものとしてそれは、教会形成的教義学となるのであります」[12]と言う。これを旧来型の「簡易信条主義」の単なる反復と見るか、それとも植村・熊野からの一歩前進があると見るかは、微妙である。

そして最も疑問に思うことは、簡易信条主義を維持したままで「契約神学の伝統」を保持しうるのか、という点である。「契約神学の伝統」は、歴史的に見れば、キリスト教の主要教理の内容を精密に規定する「信条文書」と、その信条文書に基づいて教会裁判を行うことができる「長老主義的教会政治」の中でこそ保持されてきたのではないだろうか。「日本基督教団信仰告白」と「日本基督教団教憲教規」だけで、「契約神学の伝統」を保持できるのか。わたしは、それを信じることができない。

「契約神学の伝統の回復」というこの点に大木氏が強調を置くことは、大木氏独特の発想の奇抜さに依拠するというような事情では全くありえず、本書において明らかにされているとおり、「二十世紀における契約神学の発見」[13]という神学思想史的裏書きがある。大木氏はこの「発見」の立役者としてコッツェーユス研究(1923年)の著者G. シュレンク、『十七世紀のニューイングランド思想』(1953年)の著者P. ミラー、そして『ピューリタニズムの倫理思想』(1960年)の著者である大木氏自身の名を挙げている。

また、『組織神学序説』の中では紹介されていないが、最近出版された契約神学の巨大な研究書として、オランダ国立ユトレヒト大学神学部W. J. ファン・アッセルト教授の主著『ヨハンネス・コッツェーユスの神学』(英語版2001年)[14]を数えることができるだろう。さらに、ファン・アッセルト他編『宗教改革とスコラ主義』(2001年)[15]という論文集も出版されており、R. A. ムラー(米国カルヴァン神学校教授)、W. ファン・トゥ・スペイカー(オランダキリスト改革派教会(CGKN)立・アーペルドールン神学大学元教授)といった錚々たる研究者陣が優れた論文を寄稿している。彼らの神学的アイデンティティは明確に「改革派神学」にあるが、彼らがいかなる意味でも保守主義者ではないことは、研究成果を見れば明らかである。ちなみに、ファン・アッセルトは、かつてユトレヒト大学で教鞭をとったA. ファン・ルーラーの学生の一人でもある。このような前世紀から始まった国際的な契約神学研究の興隆の中で、このたび日本を代表する神学者大木英夫氏の『組織神学序説』が世に問われたことを、わたしは、氏に対し今でも学恩を感じている一人として、心から歓迎したいと思う者である。

ところで、一点だけ、大木氏の所説の内容に踏み込んだところにも、触れておきたい。それは、本書503ページ以下に出てくる「根源的契約」という概念についてである。

大木氏が(おそらく自身のタームとして)「根源的契約」と呼んでいる事柄は「内在的三位一体における父なる神と子なる神との契約」と定義されている。「契約神学の中には、父なる神と子なる神との間に契約があるという思想があります。それは三位一体の神においては、聖なる気まぐれのような意志ではない、その神秘は非合理的な気まぐれではなく、ことばをもつ契約的な意志だということであります。だからそれは『根源的契約』と呼ばれるにふさわしいのであります」[16]。このあたりを読むかぎり、これは、歴史的改革派神学において、とくに17世紀以来論じられてきたpactum salutisを指しているものと思われるが、このラテン語の訳語として定着してきたのは「贖いの契約」(verbond der verlossing)、または「平和の計画」(raad des vredes)であろう[17]。この概念が日本プロテスタント神学史の表舞台で語られたのは、大木氏の『組織神学序説』が初めてではないだろうか。

「贖いの契約」(pactum salutis/ Covenant of Salvation)とは、ウェストミンスター信仰告白などに繰り返し登場する「恵みの契約」(foedus gratiae/ Covenant of Grace、大木氏は「恩寵の契約」と訳す)や「業の契約」(foedus operum/ Covenant of Works)とは区別される概念である。残念なことは、「贖いの契約」の概念が、その決定的な重要性にもかかわらず、どの改革派諸信条の中にも出てこないことである。その理由は、この教理の発展が17世紀になってやっと実際に始まったからである、と説明しうる[18]。とはいえ、16世紀と17世紀との契約神学の差違を過度に強調すべきではない。『ハイデルベルク信仰問答』(1563年)の著者の一人と称されるカスパール・オレヴィアーヌスは、いちはやくこの方向で思索していた。それが『ハイデルベルク信仰問答』第12主日における「この方がキリスト(油注がれた者)と呼ばれる理由は、父なる神によって(以下のような職務へと)任命され(verordnen)、聖霊によって油注がれた者だからである」[19]という表現となって現われている。この「任命」(Verordnung)、すなわち「神の御子イエス・キリストの仲保者の職務への任職」(constitutio Mediatoris)こそが「贖いの契約」(pactum salutis)の意味である[20]。『ドルト教理規準』(1619年)第一教理第七条項の「永遠から任命されていた仲保者」[21]も、これである。

しかしながら、「贖いの契約」という概念については昔から多くの問題点が指摘されてきた。大木氏はコッツェーユスのpactum salutisに対するバルトの批判を知っているが、17世紀のオランダ改革派神学者ヘルマヌス・ヴィトシウス(1636~1708年)[22]が挙げたpactum salutisを支える聖書章節(ルカ17・29、ヘブライ7・22、ガラテヤ3・17、詩編68・19、イザヤ38・14、エレミヤ30・21、ゼカリヤ6・13)を紹介することによってバルトの批判を退けている。その上で大木氏は、「ヴィトシウスは、この三位一体内の根源契約に経綸的なもの(オイコノミア)の根拠を見ました。われわれはこの方法論的洞察に学ぶべきだと思っております」[23]と述べている。

このあたりで沸いてくる強い疑問は、はたして本当にヴィトシウスが挙げた聖書章節だけで「内在的三位一体内部における父なる神と子なる神との契約」を表わすpactum salutisという17世紀的概念を今日的にも保持し続けることができるだろうかということである。保守的なことで知られるオランダキリスト改革派教会(CGKN)の教義学者J. ファン・ヘンデレンは、この教理の今日的有効性を支持している有力な一人であるが、昔から多くの人々がこの教理の根拠としてきたゼカリヤ書6・13には神的諸位格(goddelijke Personen)に関することは何も記されていない、と述べている。むしろファン・ヘンデレンが「この教理の唯一の根拠」(enige grond voor de leer)として挙げている聖書章節は(ヴィトシウスが挙げていない)ヨハネによる福音書10・36である。またペトロの手紙一1・20は、ヘルマン・バーフィンクやJ. ヘインスなど20世紀の有力な改革派神学者も挙げているゆえに看過しえない個所として紹介されている[24]。

しかし、ファン・ヘンデレンと共に、筆者自身も重要と考える聖書章句は、エフェソの信徒への手紙1・3~14である。この個所は信徒が受領しうる神の祝福だけではなく、彼らのすべての救いがそこから溢れ出る神の永遠の愛(eeuwige liefde)と神の永遠の好意(eeuwige welbehagen van God)とに関係している、とファン・ヘンデレンは述べている[25]。さらに、この個所は岡田稔がその重要性を強調してやまなかった「神の聖定の教理」(The Doctrine of God’s Eternal Decree)を支える重要な根拠でもある。「神の好意」と訳しうるwelbehagen van God(英語でGood pleasure of God)はエフェソ1・5のευδοκια の訳である。新共同訳聖書では単に「御心」と訳されているが、これがひどくつまらない。ευδοκια もwelbehagenもGood pleasureも一致して「喜び」を意味する。せめて「神の喜びに満ちた御心」と訳したいところである。

ファン・ヘンデレンは、「協定(overeenkomst/ pactum)や契約(verbond)について聖書は、改革派神学が語ってきたほどには言及していない」ことを認めつつ、「だからといってこの思想は非聖書的であるとまでは言い切れない」という線に踏みとどまる[26]。わたしもそれで異存はない。しかし、さらにもう一歩先に進んで、内在的三位一体における御父と御子とのpactum salutis(大木氏の語る「根源的契約」)の内容は、いずれにせよευδοκιαであり、welbehagenであり、Good pleasureなのだから、それは結局「喜び」(vreugde)であると語られるべきではないか、とも思う。「植村・熊野・大木神学」と歴史的改革派神学の共通目標があるとしたら、それは「喜びの神学」(Theologie van de vreugde)ではないのか、とも感じるのである[27]。

大木氏の所説においては、「根源的契約」についての今日的展開とでも言うべき深入りは見当たらない。聖書的根拠に乏しい(と思われる)「契約」理解の紹介というあたりで踏みとどまり、「アメリカの契約社会の契約神学的背景」というような社会倫理的関心へと視線を移していく。

しかし、pactum salutisの内容は最終的には「喜びの交換(交歓)」と表現すべきではないだろうか。コッツェーユスは、「業の契約」と「恵みの契約」と「贖いの契約」という三つの契約概念におけるすべての関係性(神と人間、神と選民、御父と御子)を、おしなべてamicitia(フレンドシップ)という言葉で説明した[28]。「契約」をフレンドリーな概念としてとらえるというこの発想は、17世紀の状況においては正当な評価と十分な展開の場を持つことができなかったといえる。

しかし、21世紀においてはどうだろうか。改革派神学の発展は16世紀・17世紀のままで止まっているわけではなく(それを「死んでいる」という)、「21世紀の改革派神学」というものがありうる。

一例として、「父と子が永遠の契約を締結された」と物々しく語るよりも、「父と子がいつも楽しく遊んでいる」と陽気に語るほうが、神の国の聖書的イメージを正しく伝えることができるのではないだろうか。

天と地とその中のすべてを造られた神が、イエス・キリストにおいて、聖霊を通して、自身の被造物としての全世界と全人類の存在を、終末的完成の日をめざしつつ、「喜び」をもって保持し、支配し、導いておられるという福音の全使信を正しくかつ豊かに語るための説明の仕方は、何であろうか。

わたしの記憶の中の恩師大木英夫教授はユーモアを理解される方であった。このような夢見心地な空想にもきっとお付き合いいただけるものと信じている。大著の完成に際し、心から感謝と労いを申し上げたい。



[1] 岡田の当該論文は、日本基督改革派教会第三回大会講演(1948年)を基に書かれ、『改革派世界』第六号(1949年)に掲載。その後『改革派神学』第十輯(1972年)に再録され、最終的に『岡田稔著作集』第五巻(1993年)に収録された。

[2] 大木英夫『歴史神学と社会倫理』ヨルダン社、1979年、108頁。

[3] 大木英夫『組織神学序説』、590頁。

[4] 『岡田稔著作集』第五巻、26頁。

[5] 筆者は、岡田が書いたこの一節にも深い感動を覚え、遅ればせながら日本キリスト改革派教会への加入を決意した。

[6] 岡田稔、同上書、34頁。

[7] 岡田稔、同上書、24頁。

[8] 岡田稔、同上書、33頁。

[9] 大木英夫『組織神学序説』、314頁。

[10] 大木英夫、同上。

[11] 大木英夫、同上書、315頁。

[12] 大木英夫、同上。

[13] 大木英夫、同上書、471頁以下。

[14] W. J. van Asselt, The Federal Theology of Johannes Cocceius (1603-1669), Translated by Raymond A. Blacketer, Brill, 2001.

[15] Reformation and Scholasticism. An Ecumenical Enterprise. Edited by Willem J. van Asselt and Eef Dekker, Baker, 2001.

[16] 大木英夫、同上書、503頁。

[17] たとえば、J. van Genderen en W. H. Velema, Beknopte Gereformeerde Dogmatiek, Kok- Kampen, 1993 (Tweede druk), p. 193.参照。

[18] Ibid. p.197.

[19] Der Heidelberger Katechismus, Herausgegeben von Otto Weber, 4. Aufl. Guetersloher Verlagshaus -Gerd Mohn, 1990. S. 26.

[20] J. van Genderen en W. H. Velema, op. cit., p.194.

[21] エドウィン H. パーマー著『カルヴィニズムの五特質』(鈴木英昭訳、つのぶえ社、改訂第二版1987年)巻末の「ドルト信仰規準」(鈴木訳、191頁)を借用した。

[22] ヴィトシウスについての大木氏の紹介への補足として。ヘルマヌス・ヴィトシウス(Hermannus Witsius [1636-1708])年は、北ホーラントのエイクハイゼン生まれ、フローニンゲン、ライデン、ユトレヒトの各大学で学び、1656年から牧師になり、オランダ国内の三つの教会の牧会に当り、その後1675年からフラネカーで、1680年からユトレヒトで、1698年からライデンで神学教授を歴任。正統主義神学とコッツェーユスの契約神学との仲介役を務めようとしたが失敗した、とされる。

[23] 大木英夫、同上書、506頁。

[24] J. van Genderen en W. H. Velema, op. cit., p. 196.

[25]  Ibid.

[26] Ibid. p. 197.

[27] このように書きながら、筆者は、「喜びの神学」の典型として、二十世紀中盤のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk)において最も重要な役割を果たしたA. ファン・ルーラーの神学を思い浮かべている。

[28] W. J. ファン・アッセルト=H. G. レンガー共訳で1990年に出版されたコッツェーユスの『契約論』(オランダ語版)において、コッツェーユスのamicitiaという概念は、vriendschap(フレンドシップ、友愛、友情など)と訳されている。Vgl. Johannes Coccejus, De Leer van het Verbond en het Testament van God, Vertaling door W. J. van Asselt en H. G. Renger, Uitgeverij de Groot –Goudriaan, Kampen, 1990, p. 3.

(『改革派神学』、神戸改革派神学校、第30号特別記念号、2003年、105~112ページ掲載)


2003年8月12日火曜日

人間的な喜びを肯定してもよいか

コヘレトの言葉3・12~13

「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。青春の日々にこそお前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに、『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」。

この早天礼拝でご一緒に考えていただきたいことは、説教題に掲げました「人間的な喜びを肯定してもよいか」という問題です。

このたびの修養会の主題は「ウェストミンスター信仰規準について」です。ウェストミンスター信仰規準は、私たち日本キリスト改革派教会の憲法であり、信仰規準です。この信仰規準の中のウェストミンスター小教理問答の第1問の答えを、皆さんはよくご存知であると思います。

「人生の究極的な目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶことです」。

これは解釈が難しい言葉です。「神を喜ぶ」とは何のことでしょうか。「神と共に生きるこのわたしの人生を喜ぶこと」であると理解してよいのでしょうか。私たちは、自分の「人生」を喜んでよいのでしょうか。それとも、喜んでよいのは「神」だけでしょうか。「人生」を喜んではならないのでしょうか。

今朝開いていただきました聖書の御言は、コヘレトの言葉3・12~13です。この書物は以前広く使われていた口語訳聖書では、「伝道の書」と呼ばれていました。「コヘレト」とはこの伝道者の名前です。この人は、神の御言を語る説教者なのです。 コヘレトは次のように語っています。

「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」。

伝道者であり、説教者であるコヘレトが非常にストレートに語っていることは、私たち人間にとって最も幸福なことは、喜びの人生を送ることである、ということです。

この場合の「喜びの人生」の意味は何か。それは、すなわち、私たち人間が飲んだり食べたりすることそれ自体であり、また、その労苦によって満足することそれ自体である、というわけです。

しかも、この場合の「満足する」の意味は、そのような気持ちになるとか、そのような気分を味わう、というだけではありません。飲んだり食べたりするために労苦する、というわけですから、そのためにお金を稼ぐという行為それ自体も、当然含まれてくるわけです。心理的・精神的、そして宗教的・信仰的な「満足」というだけではなく、物質的・金銭的・実際的な意味での「満足」ということが、ここで語られていることは明らかです。

ですから、ごく分かりやすく言い切ってしまうなら、私たちが一生懸命仕事をして、お金を稼ぎ、おいしいものを飲んだり食べたりして満足する、というまさに人間の喜び、「人間的な喜び」ということが、ここで語られている、と読むことができます。それが人間にとっての「最大の幸福である」と語られているのです。このような思想を「快楽主義」と呼ばずして、他に何と呼ぶことができるのでしょうか。

しかし、どうでしょうか。一体私たちは、このコヘレトの言葉をどのように理解したらよいのでしょうか。改革派信仰は、このような言葉をそのまま受け入れることができるでしょうか。「人生の究極的な目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶことである」という信仰告白との関係は、どういうことになるのでしょうか。

実際、これは、私たちにとって深刻な問題になりうるものです。その事情は少し説明が必要であると思います。

とくにここで問題になるのは、歴史的改革派教会の創始者である16世紀の宗教改革者ジャン・カルヴァンがその書物の中でしばしば引用する西暦4世紀の西方教会の教父アウグスティヌスの神学思想です。

このアウグスティヌスは、「神を喜ぶこと」と「神以外のもの(物)を喜ぶこと」とを厳密に区別しました。そしてアウグスティヌスは、私たちキリスト者に許されているのは「神を喜ぶこと」だけであって、「神以外のもの(物)」、すなわち、この世界に属するもの(物)については「喜ぶこと」が許されていない。それらについてはただ「用いること」だけが許されているのだ、というふうに、この問題を定式化しました。

「用いる」とは、使用するということです。私たちの肉体もお金も財産も、この世界に属するすべてのものは、ただ使用すること、利用することができるだけであり、それらの物自体を喜んだり楽しんだりしてはならないのである、とアウグスティヌスは考え、主張したのです。

これは一種の「禁欲主義」の勧めです。もし私たちが「禁欲主義」の反対を「快楽主義」という言葉で呼ぶならば、アウグスティヌスは、この「快楽主義」を事実上禁止したのです。

これで少し、問題の所在が見えてきたのではないかと思います。このことが私たちにとって問題となるのは、このアウグスティヌスの思想をカルヴァンがどの程度受け継いでいるのか、ということです。そして、カルヴァンの信仰を受け継ぐ私たち改革派教会は、このアウグスティヌスの思想をどのように理解し、受けとるべきか、ということです。

そして、それは結局どのようなことになるかと言いますと、私たち改革派教会の立場は、アウグスティヌス的な意味での「禁欲主義」そのものであるのか、それとも、「禁欲主義」の反対に位置づけられる「快楽主義」の要素を受け入れることができるものなのかどうか、ということになってくるのです。

そして、この問題がより具体的な仕方で私たちに迫ってくるのは、ウェストミンスター小教理問答第1問の「人生の究極的な目的」としての「永遠に神を喜ぶこと」の解釈はどうなるのか、という問いが鋭く突きつけられるときです。「神だけを喜び、それ以外の何ものをも喜んではならない」と解釈しなければならないのでしょうか。いや、そうではない。もちろん「神」も喜ぶであろう。しかし、それと同時に、神と共に生きる私たちの「人生」そのものをも喜んでよい、と解釈してよいのでしょうか。

わたしは、この決して小さくない問題を解決するためのひとつの鍵が、今日開いていただきましたコヘレトの言葉の中にある、と考えています。

先ほど申し上げましたとおり、コヘレトは、明らかにいわゆる快楽主義者の系譜に属する人です。そして、いずれにせよ間違いなく言いうることは、このコヘレトの言葉もまた、聖書の中に収められている神の御言そのものである、ということです。この書物を聖書の中から外して考えることは、私たちに許されていないことです。

もちろん、アウグスティヌスの思想も大切です。しかし、私たちにとってはアウグスティヌス以上に聖書が大切です。そのため、私たちは、コヘレトの言葉の真理を真剣に受けとめなければならないのです。

しかし、これだけですべての問題が解決するわけではありません。コヘレトの言葉の解釈は、人によってまちまちだからです。この書物の冒頭の御言は、「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」です。なんという絶望的な言葉でしょうか!

ある解釈者は、コヘレトはいわゆる「人生の負け組」に属する人である、と見ています。すなわち、コヘレトは、人生に失敗し、孤独になり、自暴自棄になり、エゴイストになり、すべてを疑い、常に皮肉とため息を口にし、最後に頼れるものはこの世の物質的な快楽だけである、と言い出した人である。このような人は、敬虔な信仰者たちにとっては「反面教師」としての存在意義しかないのであって、このような根暗な皮肉屋の言葉をまともに聞いてはならないのだ、というふうに考える人もいるのです。皆さんは、どのように思われるでしょうか。

ここで皆さんにはコヘレトの言葉12・1を開いていただきたいと思います。ここには以下のように書かれています。

「青春の日々にこそお前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに、『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」。

ここでコヘレトが語っていることは、何でしょうか。若いうちに、青春時代に、神を信じることの大切さということでしょう。その根拠としてコヘレトが挙げている理由は、人間とは、年齢を重ねていくうちに自分の人生にだんだん喜びを感じられなくなってしまう存在なのだ、ということです。

なるほど、そのとおりであると感じます。わたしは今37才ですが、20才の頃と比べると明らかに、肉体の元気さが奪い去られていると実感します。全く同じではありえません。17年前との違いとして、たとえば、当時いなかった妻も子どもも今はいます。子どもは現在二人です。そのこと自体は幸せなことですが、家族と共に生きる生活には当然、苦労もあります。

実際問題として、私たち人間は、生きた年数だけ、心や体に受ける傷の数も増えていきます。なかには「名誉の傷」もあるかもしれませんが、その多くは、いや、そのほとんどは、受ける必然性がなかった傷であり、受けなかったほうがよかった傷であると思います。仕事上の責任が重くなればなるほど、争いの矢面に立つ回数が増えるほど、受ける傷の深さも比例するでしょう。このことも、本当にそのとおりなのです。

そんなふうにならない前に、です!

この人生そのものが単純に「楽しい」と感じることができるうちに、です!

私たちの心や体が「傷物」になり、絶望に打ちひしがれる前に、すなわち、心の底から人生を喜べるうちに神を信じなさいと、コヘレトは私たちに教えているのではないでしょうか。

これは人間の存在、もしくは人間の現実をとことんまで知りぬいた人の言葉です。コヘレトの言葉は、皮肉や投げやりな言葉ではなく、この地上の現実を知りぬいた人の語る「オトナの言葉」であると、思われてなりません。

わたしの結論は、どうか皆さんには、このコヘレトの言葉をそのままに受け入れていただきたい、ということです。この説教者は、間違ったことを言っていません。この世界の現実を、人生の真理を、本当のことを、ありのままに、あっけらかんと、ストレートに語っているだけです。

そして、現実は、コヘレトの語っているとおりです。私たちは、この人生を大いに楽しんでよいのです。それが私たちの「最大の幸福」なのです。私たちはこの世界を楽しむために創造されたのであり、そのような者として生まれてきたのであり、そのような者として現に存在しているのです。憂うつな人生は、神を信じて生きる者たちにふさわしくないのです。

改革派信仰は、このことを否定していません。私たちはアウグスティヌスの言葉よりも聖書の御言を重んじなければなりません。

私たちは「人間的な喜び」を、聖書によって肯定してもよいのです!

(2003年8月12日、東部中会連合青年会夏期修養会 早天礼拝説教)

2002年12月29日日曜日

あなたの涙がぬぐわれる日

ヨハネの黙示録21・1~4

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(1節)。

この御言の中で聖書的・キリスト教的・改革派的に最も重要な意味を持っているのは「新しい地」という表現です。ヨハネが見た新しい世界には、「天」だけではなく「地」もあったのです!ここで「天国」という言葉を持ち出すなら、天国には地面があると、ヨハネは書いているのです。

私たちが「天国の人」と聞いて思い浮かべる内容はしばしば、地上から離れた場所、空中に浮き上がった場所に住んでいる人ではないでしょうか。ヨハネが見たものは、明らかに違います。たしかに、「最初の地は去って行った」と書かれていますが、「地」は去りっぱなしではありません。「新しい地」がもう一度、私たちのために取り戻されるのです。私たちキリスト者の希望は、現在においてだけではなく、将来においても、また永遠においても、地上に生き続けること、地に足をつけて生きることにあるのです。

神の国を意味する「新しいエルサレム」は、「神の許を離れ、天から降ってくる」とあります。そのとおり、まさに神の国は天におられる神の側に実現するのではなく、地上に生きる人間の側に実現するのです。

「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり」とあります。この出来事が起こるのは、新しい地に打ち立てられる「新しいエルサレム」、つまり「神の国」においてです。神にお会いするために、宇宙ロケットは必要ありません。私たちが「上」に昇っていくのではなく、神が「下」に降りてきてくださるのです。

そして、そのとき神が「彼らの目の涙をことごとく拭いとってくださる」。いつ、どこで流した涙でしょうか?もちろんこの人生の中で私たちが幾度となく流し続けてきた涙です!厄介な問題、苦労、挫折。心も体もボロボロに傷つく中で、これまでに流してきたし、これからも流し続けるであろうこの涙です。

この涙を主なる神御自身がぬぐい去ってくださる日が訪れます。それは、すべての人に「死」と共に自動的に訪れるものではありません。神と共に生きる喜びは、神を信じる者たちの中でこそ実現するでしょう。その喜びは私たちにとっては現在においてすでに、いくらか体験済みのことなのです。

(2002年12月29日、松戸小金原教会)