2004年5月2日日曜日
キリストの僕として生きる
ガラテヤの信徒への手紙1・1~10
「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
この手紙の著者は使徒パウロです。パウロは、自分自身を指して「使徒」と呼んでいます。「使徒」とは、神が彼に与えた仕事の名前です。その意味は「遣わされる者」です。
彼らは"どこから"あるいは"誰から"遣されるのでしょうか。「人々からではない」、すなわち、使徒は人間が遣わした者ではない、とパウロは書いています。そして「人々を通してでもない」。この意味は、人間の仲介によらない、ということです。遣わしてくださる方と、遣わされるこのわたしとのあいだに、誰ひとり別の人間が介入していない、という意味です。
そうではない。使徒は、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神御自身が遣わしたのだ、というわけです。
これは、パウロだけのことではありません。すべての使徒は、父なる神と御子イエス・キリストから遣わされた者です。
それでは、彼らは"どこへと"、あるいは"誰へと"遣わされるのでしょうか。そのことは、書かれていません。しかし、答えは明らかです。父なる神と御子キリストがおられるのは天です。遣わされる先は、天とは対極の場所です。この地上の世界です。私たち人間が生活している、この地上の現実の世界です。
使徒は、天から地へと、神から人間へと遣わされる者である。わたしはそれである、とパウロは、自分自身をそのような者として理解しているのです。
それは何のためか、という問いが成り立つと思います。使徒は何のために、天から地へと、神から人間へと遣わされるのか。神の言葉、神の救いを、地上に住む多くの人々へと宣べ伝えるためです。彼らは、そのために、特別に選ばれた人々なのです。
さて、いきなりという感じもしますが、パウロは、今日私たちが開いているこの手紙の冒頭の部分で、非常に険しい調子で、ある人々のことを非難しています。
「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この世の悪からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン。キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」
キリストは、父なる神の御心に従い、わたしたちを、この世の悪から救い出すために、御自身を献げてくださいました。このキリストの恵み、つまり、キリストがわたしたちに与えてくださった"この世の悪からの救い"という内容を持つ恵みへと招いてくださった方とは、父なる神のことです。
この父なる神から、あなたがたが、こんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしている。そのことにわたしはあきれ果てている、とパウロは書いています。
パウロがあきれ果てている理由は、ここを読むかぎり、二つあります。第一は「こんなにも早く」という点です。第二は「ほかの福音に乗り換えようとしている」という点です。
ただし、パウロは、間髪を入れず、「ほかの福音」などというものは存在しない、と付け加えています。福音は一つしかない。二つも三つも無い、というわけです。ほかの福音があると考えている人は、だまされているだけだ、というわけです。かなり厳しい言葉です。
「キリストの恵みへ招かれる」とは、おそらく、イエス・キリストを信じる信仰を告白し、洗礼を受けることと、別のことではありません。洗礼を受けたばかりの人々は、教会にとっては、生まれたばかりの赤ちゃんです。大切な、大切な宝物です。
その人々が、しかし、こんなにも早く、ほかの福音に乗り換えようとしている、というわけです。一つの福音、正しい信仰を捨てて、間違った教えに引きずられてしまっている。産みの親パウロは、彼らの変わり身の早さに、嘆き悲しんでいるのです。
どれくらい早かったかということは、書かれていないので分かりません。一年くらいでしょうか。五年くらいは保っていたのでしょうか。あまりにも早すぎる、なぜこんなことになってしまったのか。そのことに、パウロは、苛立ちもし、腹を立ててもいるのです。
しかし、パウロは、さすがというべきでしょうか、まさに彼らの産みの親として、彼らのことを悪く言いたくなさそうです。本当に責められるべきは、惑わされている彼ら自身ではなくて、彼らを惑わしている人々である。間違った教えを宣べ伝えている教師たちが悪い。生徒たちは、その教えに忠実に従っていただけなのです。
「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」
パウロは、呪いの言葉さえ口にします。しかし、ここはどうか、理解していただきたいと願います。洗礼を受けたばかりの人を躓かせることや、間違った教えに誘うことは、本当に悪いことです。
そうではありませんか。一人の人生を台無しにしてしまうことを意味しています。万死に値する大罪です。
もちろん、躓いたその人の側には、全く何の責任も無い、とは言い切れない場合もあるでしょう。聖書の御言も教会の事情もよく分からないうちに、なんとなく洗礼を授けられてしまった。そして、よく分からないうちに躓いてしまった、というケースも耳にします。誰が責められるべきか、誰にも責任がないのか、判断に苦しむケースもあるでしょう。
しかし、しかし、です。パウロは、生まれたばかりの大切な赤ちゃんを鞭で打つようなことは、しません。責められるべきは教師たちであり、信仰の先輩たちです。洗礼を受けたばかりの人々を、パウロは、体を張ってでも、かばうのです。
パウロは、ローマの信徒への手紙14・1に、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と書いています。同書15・1には、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とも書いています。
これが今日の個所にも当てはまります。パウロは、産まれたばかりの赤ちゃんを心から愛しているのです。だからこそ、次のような言葉が出てくるのかもしれません。
「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」
弱い人々をかばう。その人々の存在や立場を擁護する。そのことは、いずれにせよ、逆の立場の人々と対峙することを余儀なくされます。そのようなやり方は人気取りである。票集めの手段である、という中傷誹謗を受けやすくなります。
また、もう一つの点として、パウロが宣べ伝えていた福音は、人を真に自由にするものであった、というこのことが、逆の立場にいる人々にとって大きな問題でした。
自由にすることと、いいかげんにすることは、紙一重です。反対者からすれば、パウロは、信仰の弱い人々をかばおうとする勢い、信仰そのものをいいかげんにしてしまう張本人である、というふうにも見えてくるわけです。
あまり固いことを言わない。なんでもかんでも、「いいよ、いいよ」で済ませてくれる。そういう人(リベラルな人?)は、相対的に言って、固くて難しい人(保守的な人?)よりも人気がある、と言えます。
パウロも、そのように見られました。しかし、それは誤解であり、意図的な中傷誹謗でもありました。だからこそ、パウロは、そんなことではないのだ、ということを、口をすっぱくして言わなければなりませんでした。
キリストの僕(しもべ)たちが「強い者が強くない者の弱さを担わなければならない」のは、人気取りや票集めのためではありません。キリストの御前に差し出された一人の救われた魂の価値を重んじるためです。キリストの僕の役割は、キリストに仕えることです。自分の野心や名声に仕えることではありえない。このように語ることができると思います。
(2004年5月2日、松戸小金原教会主日礼拝)