2004年5月16日日曜日

今は福音


ガラテヤの信徒への手紙1・18~24

「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの人にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。」

ここに記されておりますのは、この手紙の著者である使徒パウロが、イエス・キリストを救い主として信じることができるようになり、キリスト教の洗礼を受けて間もなくの頃の話です。

いわゆる初心者の時代です。悪い意味ではありません。当たり前のことですが、あの偉大な伝道者パウロにも、そのような時代があったのです。

もちろんそれは、だれにでもあります。すべてのキリスト者に初心者の時代があります。今は立派な長老たちにも、教会の中でいろいろな奉仕を熱心にくださっている人々にも、もちろん牧師たちにも、初心者の時代がありました。その頃の思い出や体験は、たいへん貴重なものです。

ただし、これから申し上げることは、少し悪い意味を含みます。おそらくすべての人に当てはまることです。神の恵みと憐れみによって、わたしは、イエス・キリストを、わたしの真の救い主として信じることができました。そして、洗礼を受けて、キリスト者としての人生を、新しく始めることができました。しかし、その後、しばらく経つと、良い意味でも、少し悪い意味でも、そのことにすっかり慣れてしまうということが起こります。

悪い意味だけではありません。どんなことでも、いつまでも初心者ということはありえません。成長していくことが望ましいし、成長していくべきです。

しかし、すっかり慣れてしまうとき、私たちは、イエス・キリストを信じて生きる者として体験する、さまざまな出来事の一つ一つを、最初の頃ほど、重く、あるいは深く受けとめないようになり、感動しなくなる、さらりと流してしまい、あまりよく覚えてもいない、というふうに、つい、なっていってしまうのです。

信仰生活は、しばしば結婚の生活にたとえられるものです。よい出会いがあり、やがて結婚した。最初は、すべてのことが、うれしくて、うれしくて、どんなことにも感動して、感謝して。しかし、そのうちすっかり慣れてしまい、一緒にいても、いないかのごとく。よく言えばお互いが空気のような存在になります。一緒に居て当たり前。居ないと困る。しかし、一緒に居るからと言って、特別に感謝するわけでもなし。

夫婦はそれでよいと思います。いつまでも、何かあるたびに大げさに騒ぐのも、わざとらしいものがあります。でも、最初の情熱を忘れることは、少し寂しいことでもあります。

イエス・キリストを信じる信仰の生活も、まさにそのようなものです。良い意味でも、少し悪い意味でも、すっかり慣れてしまうときが来る。すべて当たり前のことであるかのように感じる。新鮮さや初々しさを失い、不平や不満をたくさん口にするようにさえなる。避けがたいことですが、寂しいことでもあります。だからこそ、時間と共にますます重要な意味を持ち始めるのが、いわゆる初心者の時代の思い出であり、記憶であり、証しです。

このわたしは、どのようなきっかけで教会に通うようになったのか。どのような思いと感動をもってイエス・キリストを救い主として受け入れ、洗礼を受けたのか。内村鑑三氏の有名な書物に『余は如何にして基督信徒となりし乎』(How I become a Christian)というのがありますが、まさにこれです。このことを常に思い起こすことが大切です。

使徒パウロにも、かつてキリスト者でなかった時代がありました。しかし、心を入れ替えて、キリストを受け入れ、洗礼を受けた。「見よ、すべてが新しくなった」と力強く告白し、全く新しい人生の歩みを始めた頃があったのです。その頃、何があったのでしょうか。今日はそのことを学びたいと思います。

パウロが洗礼を受けた場所は、ダマスコという町でした。その一連の出来事についての比較的詳しい記録が使徒言行録9章にあります。もちろん当時、そのダマスコの町にも、私たちがそう呼ぶところの"教会"が存在したわけです。

ダマスコの教会でパウロに洗礼を授けた人は、その町に住んでいたアナニアという人でした。そしてパウロは、しばらくの間、ダマスコの町にとどまって、イエス・キリストの福音を宣べ伝えること、すなわち伝道の働きを行いました。こうして、ダマスコは、パウロの人生におけるまさに決定的な転換点となり、思い出の場所となりました。

こういうことは非常に大事なことです。すべてのキリスト者にパウロにとってのダマスコがあるはずです。そこで全く心を入れ替えた場所。イエス・キリストを受け入れた場所。人生の新しい出発における原点。このわたしの人生が決定的な仕方で全く方向転換してしまった場所。

皆さんにとって、それはどこでしょうか。松戸市小金原である、という方もおられるでしょう。そして、これからも、この町、この教会が、このわたしのダマスコである、と告白する人々が生み出されていくでしょう。

まさにこの意味で、私たちの人生において教会の果たすべき役割は、非常に大きいのです。

こうして、パウロは洗礼を受けた後、しばらくダマスコの町を中心に、活動していました。「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しました」とある中の「ケファ」とは、使徒ペトロのことです。その意味は「岩」です。

これはイエスさまご自身が付けた名前です。ペトロの本名、彼の親がつけた名前は、シモンでした。このシモンにイエスさまがペトロと名づけ、しばしばシモン・ペトロと呼びました。ペトロの意味がケファ、つまり岩です。これは覚えていただく必要があります。

ところで、パウロがなぜ「ケファと知り合いになろうとして」エルサレムに上ったのか、その理由は何でしょうか。

ケファ、すなわち使徒ペトロは、いちばん最初にイエスさまの弟子になり、イエスさまが最も愛された弟子の一人であったことから、イエスさまの復活以後に生まれたキリスト教会における最高指導者になっていました。この教会の最高指導者としてのペトロと知り合いになるために、パウロは、ペトロのいるエルサレムに上っていったのです。

そして、そのときペトロは、パウロとの会見を許可しました。「十五日間彼のもとに滞在しました」と書かれているとおりです。

一つ、細かいことですが、別の翻訳の聖書の中には、「十五日間」ではなく「二週間」と訳されているものがあります。「二週間」ならば、十四日間です。どちらが正しいかは、わたしには判断がつきません。

ただ、はっきりしていることは、教会が公の礼拝を行うのは日曜日です。滞在が十五日間であれ、十四日間であれ、その間に二度、公の礼拝が行われ、そこに大勢のキリスト者が集まったはずです。もちろん、それ以外の日にも、祈祷会はじめ、いろいろな集まりが行われていましたので、そこにもパウロは出席したはずです。そして、個人的にペトロと会い、いろいろなことを語り合ったに違いありません。

ただの観光旅行ではありません。滞在先の町の教会で行われる礼拝に出席するために、出かけていくのです。二週間あれば、その地の礼拝に、少なくとも二回は出席できます。私たちにとっても、比較的長期の旅行は、いずれにせよ、"教会訪問"の意味を持ちます。

そして、先ほど、わたしは「そのときペトロは、パウロとの会見を許可しました」と申しました。あえて少し微妙な言い方をしました。ペトロは、当時のキリスト教会の最高指導者として、そのとき初めて訪ねてきたパウロとの会見を拒否する権限も持っていた、と理解すべきです。

そのように理解しなければならない理由は、はっきりしています。パウロはかつて、まさに熱心なユダヤ教徒として、まさに熱心なキリスト教迫害者だったからです。

パウロは、教会の「敵」でした。より正確に言えば、パウロが教会を「敵」とみなしていました。そして、教会に対する実際的な暴力や虐待もパウロ自身の手によって行われていました。当時の教会の中には、パウロ自身によって殺された人々の家族や仲間もいたはずです。そんなパウロと教会の最高指導者であるペトロとが、どうして会わなければならないのでしょうか。

易々と会ってよいはずがない。会うとなれば、それはまさに歴史的な大事件です。

しかし、その会談は実現しました。ペトロがパウロとの会見を許可したのです。パウロというあの凶暴なキリスト教迫害者が、全く心を入れ替え、洗礼を受けて、キリスト者になり、教会の仲間に加わったということが、正式かつ公に認められたのです。

別の言い方をするなら、そのとき、教会が公にパウロの罪を赦したのです。ですから、ここで理解しなければならないことがあります。この個所にパウロが書いていることは、「ちょっとエルサレムまで旅行してきました」とか、「ちょっとペトロさんに会ってきました」というような軽い調子の話ではありえない、ということです。

それは、パウロ自身にとっても、教会にとっても、重大な歴史的事件であった、ということです。少なくともパウロ自身にとっては、教会に対して自分が犯した罪を、教会が赦してくれたということを、感謝と喜びをもって実感し、体験することができた、決定的な瞬間を意味しています。

わたしは間違っていた、ということを、深く反省もしたでしょう。そして、彼は、救われたはずです。

そして、そのことは、教会の側にとっても、必ず大きな意味を持ちます。自分たちを迫害していた人を、自分の家族や仲間を殺した相手を、赦して受け入れるというわけですから。そんなことは、簡単にはできないことです。そうではないでしょうか。

「その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは、『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。 」

なんとなく、さらっと書いているように感じなくもありませんが、ここに書かれていることは、ものすごい内容を持っている、ということは、これまでお話しいたしましたことで、理解していただけるはずです。

ペトロとの会見を許されたパウロの後日談です。教会が、正式かつ公に、パウロをキリスト教会の仲間として受け入れることができた、その後のことが、書かれています。

「その後、パウロが、シリアおよびキリキア地方の教会に行ったとき、その人々とは顔見知りではなかったのに、彼らは、わたしのことで、神をほめたたえていた。」

このわたしが救われたこと、そして「かつての迫害者が、あの当時は滅ぼそうとしていたこの信仰を、今は福音として告げ知らせている」ことを、喜んでくれていた。

エルサレムにいるペトロや他の使徒たちだけがパウロを受け入れただけではなく、世界のキリスト教会全体が、このわたしを受け入れてくれた。

そのことを実感したパウロの心に、感謝と喜びがあふれたに違いありません。

ひとの罪を赦すことも、赦されることも、簡単なことでも、当たり前のことでもありません。たとえ、それが救い主イエス・キリストのご命令であっても、そこがキリストの体なる教会の要請であっても、です。しかし、それが実現するとき、ひとの心は、感謝と喜びに満たされます。

パウロ自身が、その感謝、その喜びを、最も深く知っている一人です。このわたしの罪が赦された、というその思い出、その記憶、その証しが、その後の彼の人生を支える力となりました。

だからこそ、彼もまた、ひとの罪を赦すために来てくださった救い主イエス・キリストを信じる信仰を、「今は福音として」宣べ伝えることができました。そして、イエス・キリストの体なる教会を、この地上に建て上げていく仕事のために、全生涯をささげることができたのです。

(2004年5月16日、松戸小金原教会主日礼拝)