2003年10月4日土曜日

H. フィサー著『創造性、道標、奉仕提供 ポスト産業都市における教会の役割』(2000年)

Hans Visser, Creativiteit, wegwijzing en dienstverlening: de rol van de kerk in de postindustriele stad. Uitgeverrij Boekencentrum, Zoetermeer, Tweede druk, 2000.

全編オランダ語ですが、上記のタイトルの興味深い本を最近入手しました。2000年に出版され、同年中に第2版が出ていますので、たぶん良く売れているのでしょう。

何が興味深いか。著者の肩書は「オランダ改革派教会社会活動協議会理事長」(Directeur van de Stichting voor Kerkelijke Sociale Arbeid van de Hervormde)というものですが、(自他共に認める)「ファン・ルーラーの創造の神学の支持者」(aanhanger van de scheppingstheologie van A. A. van Ruler)である、と紹介されているのです!

これはいわゆる「宣教学」の本です。内容はタイトルにあるとおり「ポスト産業都市における『教会の』役割」に関するもので、「都市伝道」をテーマにしています。

論述は、「序」(第1章)に続き、最初に「産業都市」(industriele stad)の発生史から開始されています(第2章)。ここで、産業都市の歴史が「プレ産業都市」(=産業都市成立以前)→「産業都市時代」→「ポスト産業都市」(=産業都市崩壊後)と三つに区分されています。しかし、「ポスト産業都市」とはまさに現在の状況であり、イメージ獲得を模索中の課題であるわけです。

そこで、次に、そのイメージの獲得方法が紹介されています(第3章)。それは大別して二つあります。「都市に対する決定論的アプローチ」と「非決定論的アプローチ」です。この区別はクラウド・S. フィッシャー著『都市体験』(1984年)から採用されたものです。C. S. フィッシャーの区別と定義は以下のとおりです。

1、決定論的理論: 人間の社会的・人格的生活を決定する「都市主義」(urbanism)がある、とする理論。

2、非決定論的理論:決定論的なものに対して全く対立する理論。

3、サブカルチャー理論:上記二者の混合理論。

そして、「ポスト産業都市での生活」についての分析が続いています(第4章)。

以上で本書の第1部が終了します。

しかし、何と言っても、われわれにとって興味深いのは、「第2部 ポスト産業都市における教会」でしょう。

第2部最初の章のタイトルは「ポスト産業都市の成立史における教会の位置づけ」です(第5章)。それは「都市伝道者としてのパウロ」という点から開始されています。これは、考えてみれば、なるほど当然のことです。

著者は、アレン(Roland Allen)が描いた「パウロの伝道戦略」(Paulus' zendings-strategie)を、次のように紹介しています。
「パウロはローマの統治領域を勘案していた。彼はギリシア文明の中心地を訪ね、貿易センターに立ち寄った。パウロは、一つの都市に到着すると、まず最初にシナゴーグを訪ねた。そして、その次にユダヤ人以外の人々(異邦人)とのコンタクトを図った。明らかなことは、パウロは教会の会衆自身を全く統治しなかった、ということだ。彼は会衆を自立させ、独立させた」。

この点でアレンは、現代においてはしばしば、諸教会があまりにも独立させられすぎている、ということにおいて、現代の伝道を批判していると、著者は付け加えています。

歴史的論述はさらに進み、「ローマ帝国における都市教会の発生」、「コルプス・クリスティアーヌム発生後の都市における道標としての教会」、「西欧の中世の教会」、「プロテスタンティズムによる都市改革」等に及び、上述の三区分に基づき、「プレ産業都市における教会」、「産業都市下の教会」、「ポスト産業都市における教会」の、それぞれ果たしてきた「役割」(rol)が明らかにされています(第5章)。

そして、これに続く「第6章 ポスト産業都市の教会的イメージ形成 (Kerkelijke beeldvorming van de postindustriele stad)」の論述は圧巻です。わたしは、この章に最も感動しました。これまでに、「都市」というものについての、ここまで鋭く明快な分析を、読んだことも、聴いたことも無いと感じました。

教会が「都市」ないし「都会」に対して抱くイメージには、大別して二種類ある、と著者は考えています。「否定的な都市イメージ (Negatieve stadsbeelden)」と「肯定的な都市イメージ(Positieve stadsbeelden)」です。

まず最初に、「否定的な都市イメージ」を描いてきた(教会的)代表者として、著者は、アウグスティヌス、H. ヴィヘルン、そしてジャック・エリュールの三人の見解を紹介しています。とくに、アウグスティヌスについて、著者は次のように述べています。

「アウグスティヌスは、明らかに『否定的な都市イメージ』を描き出した、最初の重大な人物である」(189ページ)。

そして、アウグスティヌスの主著である(いわゆる)『神の国』(De Civitate Dei)が詳しく取り上げられます。そして、著者は、(われわれが従来「国」と訳してきた)Civitateの概念を、アウグスティヌスが、ギリシア(語)的な意味での「都市国家」(stadsstaat)として理解したことを問題にしています。つまり、アウグスティヌスのDe Civitate Deiは、「神の王国」ではなく、「神の都市」として考えられ、「人間的な(=邪悪な)都市」とのラディカルな対比において捉えられている、というわけです。

その上で、アウグスティヌスは、「地上の都市」と「神の都市」との葛藤(ないし闘争)を、「カインとアベルの関係」と「彼らと神との関係」という事柄へと「還元」(ないし縮小)しました。ここに「否定的な都市イメージ」の根源がある、と著者は見ています。この点で興味深いのが、「アウグスティヌスのcivitas Dei概念には十字架が欠落している」と述べた、カール・バルトのアウグスティヌス批判である。バルトによると、civitas Deiとは「ゴルゴタで十字架に架けられたキリストの連隊(het regiment van Christus, de op Golgotha gekruisigde)」である、と書かれています(198ページ)。

そして、「(教会における)否定的な都市イメージ」の次に「(教会における)肯定的な都市イメージ」が紹介されています。著者が紹介する「肯定的な都市イメージ」の代表者は、ハーヴェイ・コックスとハーヴィー・コーンです。

以上の歴史的分析に基づき、著者自身の描く「都市イメージ」が明らかにされているのは、「第7章 ポスト産業都市における教会生活」です。まさにこの章において、著者の「ファン・ルーラーの創造神学の支持者」たる所以が告白されています。ちょっと長いですが、核心に触れていると思われる文章を、引用しておきます。

「私はアーノルト・A. ファン・ルーラーの神学によって方向づけられてきた。彼の神学は、なるほど都市について何かを記しているわけではない。しかしファン・ルーラーは、健全な『創造の神学』(een deugdelijke theologie van deschepping)を発展させてきた。彼によると、創造は、それ自体において存在している。人間は、創造的活動(schepping)において、神と共なる共同創造者(medeschepper naast God)の役割を獲得する。世におけるキリストの到来は、人間の堕落の結果に最も深くかかわっている。キリストの到来は、救助(behoud)、救出(redding)、回復(herstel)、贖罪(verzoening)、解放(bevrijding)を含意する。キリストは再創造(herschepping)をもたらす。ここに大きな誘惑がある。それは、キリスト御自身ならびに世におけるキリストの体なる教会の救済的行為に基づいて都市問題にアプローチすることによって、独占的・排他的な救済的形態を教会に与えてしまうという誘惑である。ファン・ルーラーは、教会を、(たとえば)貧しい人々、家を失った人々、病気の人々、虐げられた人々といったような人間的堕落の犠牲者に配慮する存在、というふうには理解しなかった。なぜならそのとき、教会が描く(否定的な)イメージに基づく創造の業としての都市という理解に遭遇するからである。ファン・ルーラーによると、創造に対する救済論的アプローチは、実在についての歪んだイメージを提供する。そのとき、都市成立の発端としての市場(しじょう)がますます、悪の根源のように感じられるのである」(246ページ)。

あとは、推して知るべし、です。著者の立場は、明らかに、ファン・ルーラー神学に基づいて、「都市」ないし「都会」を肯定的に捉え、そこに生きる人々に「役立つ」伝道と教会形成を志向するものです。

日本でも、しばしば、「地方伝道」ないし「田舎伝道」と「都会伝道」との対比が語られます。どちらが「困難」で、どちらが「簡単」か、というようなことを議論しはじめる向きもありますが、その議論自体は空虚でしょう。

そんなことではなく、本当の問題は、「都会伝道」を考えるときに、「『あの邪悪な』都会!」と決めつけるところから、一切の理論と実践を引き出そうとすることにある、ということが、本書の著者と、著者の主張を裏打ちするファン・ルーラーの神学の言いたいところではないでしょうか。

とても大切な視座を教えられたような気がしました。謹んでご紹介いたします。