2003年8月12日火曜日

人間的な喜びを肯定してもよいか

コヘレトの言葉3・12~13

「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と。青春の日々にこそお前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに、『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」。

この早天礼拝でご一緒に考えていただきたいことは、説教題に掲げました「人間的な喜びを肯定してもよいか」という問題です。

このたびの修養会の主題は「ウェストミンスター信仰規準について」です。ウェストミンスター信仰規準は、私たち日本キリスト改革派教会の憲法であり、信仰規準です。この信仰規準の中のウェストミンスター小教理問答の第1問の答えを、皆さんはよくご存知であると思います。

「人生の究極的な目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶことです」。

これは解釈が難しい言葉です。「神を喜ぶ」とは何のことでしょうか。「神と共に生きるこのわたしの人生を喜ぶこと」であると理解してよいのでしょうか。私たちは、自分の「人生」を喜んでよいのでしょうか。それとも、喜んでよいのは「神」だけでしょうか。「人生」を喜んではならないのでしょうか。

今朝開いていただきました聖書の御言は、コヘレトの言葉3・12~13です。この書物は以前広く使われていた口語訳聖書では、「伝道の書」と呼ばれていました。「コヘレト」とはこの伝道者の名前です。この人は、神の御言を語る説教者なのです。 コヘレトは次のように語っています。

「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」。

伝道者であり、説教者であるコヘレトが非常にストレートに語っていることは、私たち人間にとって最も幸福なことは、喜びの人生を送ることである、ということです。

この場合の「喜びの人生」の意味は何か。それは、すなわち、私たち人間が飲んだり食べたりすることそれ自体であり、また、その労苦によって満足することそれ自体である、というわけです。

しかも、この場合の「満足する」の意味は、そのような気持ちになるとか、そのような気分を味わう、というだけではありません。飲んだり食べたりするために労苦する、というわけですから、そのためにお金を稼ぐという行為それ自体も、当然含まれてくるわけです。心理的・精神的、そして宗教的・信仰的な「満足」というだけではなく、物質的・金銭的・実際的な意味での「満足」ということが、ここで語られていることは明らかです。

ですから、ごく分かりやすく言い切ってしまうなら、私たちが一生懸命仕事をして、お金を稼ぎ、おいしいものを飲んだり食べたりして満足する、というまさに人間の喜び、「人間的な喜び」ということが、ここで語られている、と読むことができます。それが人間にとっての「最大の幸福である」と語られているのです。このような思想を「快楽主義」と呼ばずして、他に何と呼ぶことができるのでしょうか。

しかし、どうでしょうか。一体私たちは、このコヘレトの言葉をどのように理解したらよいのでしょうか。改革派信仰は、このような言葉をそのまま受け入れることができるでしょうか。「人生の究極的な目的は、神の栄光を表わし、永遠に神を喜ぶことである」という信仰告白との関係は、どういうことになるのでしょうか。

実際、これは、私たちにとって深刻な問題になりうるものです。その事情は少し説明が必要であると思います。

とくにここで問題になるのは、歴史的改革派教会の創始者である16世紀の宗教改革者ジャン・カルヴァンがその書物の中でしばしば引用する西暦4世紀の西方教会の教父アウグスティヌスの神学思想です。

このアウグスティヌスは、「神を喜ぶこと」と「神以外のもの(物)を喜ぶこと」とを厳密に区別しました。そしてアウグスティヌスは、私たちキリスト者に許されているのは「神を喜ぶこと」だけであって、「神以外のもの(物)」、すなわち、この世界に属するもの(物)については「喜ぶこと」が許されていない。それらについてはただ「用いること」だけが許されているのだ、というふうに、この問題を定式化しました。

「用いる」とは、使用するということです。私たちの肉体もお金も財産も、この世界に属するすべてのものは、ただ使用すること、利用することができるだけであり、それらの物自体を喜んだり楽しんだりしてはならないのである、とアウグスティヌスは考え、主張したのです。

これは一種の「禁欲主義」の勧めです。もし私たちが「禁欲主義」の反対を「快楽主義」という言葉で呼ぶならば、アウグスティヌスは、この「快楽主義」を事実上禁止したのです。

これで少し、問題の所在が見えてきたのではないかと思います。このことが私たちにとって問題となるのは、このアウグスティヌスの思想をカルヴァンがどの程度受け継いでいるのか、ということです。そして、カルヴァンの信仰を受け継ぐ私たち改革派教会は、このアウグスティヌスの思想をどのように理解し、受けとるべきか、ということです。

そして、それは結局どのようなことになるかと言いますと、私たち改革派教会の立場は、アウグスティヌス的な意味での「禁欲主義」そのものであるのか、それとも、「禁欲主義」の反対に位置づけられる「快楽主義」の要素を受け入れることができるものなのかどうか、ということになってくるのです。

そして、この問題がより具体的な仕方で私たちに迫ってくるのは、ウェストミンスター小教理問答第1問の「人生の究極的な目的」としての「永遠に神を喜ぶこと」の解釈はどうなるのか、という問いが鋭く突きつけられるときです。「神だけを喜び、それ以外の何ものをも喜んではならない」と解釈しなければならないのでしょうか。いや、そうではない。もちろん「神」も喜ぶであろう。しかし、それと同時に、神と共に生きる私たちの「人生」そのものをも喜んでよい、と解釈してよいのでしょうか。

わたしは、この決して小さくない問題を解決するためのひとつの鍵が、今日開いていただきましたコヘレトの言葉の中にある、と考えています。

先ほど申し上げましたとおり、コヘレトは、明らかにいわゆる快楽主義者の系譜に属する人です。そして、いずれにせよ間違いなく言いうることは、このコヘレトの言葉もまた、聖書の中に収められている神の御言そのものである、ということです。この書物を聖書の中から外して考えることは、私たちに許されていないことです。

もちろん、アウグスティヌスの思想も大切です。しかし、私たちにとってはアウグスティヌス以上に聖書が大切です。そのため、私たちは、コヘレトの言葉の真理を真剣に受けとめなければならないのです。

しかし、これだけですべての問題が解決するわけではありません。コヘレトの言葉の解釈は、人によってまちまちだからです。この書物の冒頭の御言は、「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」です。なんという絶望的な言葉でしょうか!

ある解釈者は、コヘレトはいわゆる「人生の負け組」に属する人である、と見ています。すなわち、コヘレトは、人生に失敗し、孤独になり、自暴自棄になり、エゴイストになり、すべてを疑い、常に皮肉とため息を口にし、最後に頼れるものはこの世の物質的な快楽だけである、と言い出した人である。このような人は、敬虔な信仰者たちにとっては「反面教師」としての存在意義しかないのであって、このような根暗な皮肉屋の言葉をまともに聞いてはならないのだ、というふうに考える人もいるのです。皆さんは、どのように思われるでしょうか。

ここで皆さんにはコヘレトの言葉12・1を開いていただきたいと思います。ここには以下のように書かれています。

「青春の日々にこそお前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに、『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」。

ここでコヘレトが語っていることは、何でしょうか。若いうちに、青春時代に、神を信じることの大切さということでしょう。その根拠としてコヘレトが挙げている理由は、人間とは、年齢を重ねていくうちに自分の人生にだんだん喜びを感じられなくなってしまう存在なのだ、ということです。

なるほど、そのとおりであると感じます。わたしは今37才ですが、20才の頃と比べると明らかに、肉体の元気さが奪い去られていると実感します。全く同じではありえません。17年前との違いとして、たとえば、当時いなかった妻も子どもも今はいます。子どもは現在二人です。そのこと自体は幸せなことですが、家族と共に生きる生活には当然、苦労もあります。

実際問題として、私たち人間は、生きた年数だけ、心や体に受ける傷の数も増えていきます。なかには「名誉の傷」もあるかもしれませんが、その多くは、いや、そのほとんどは、受ける必然性がなかった傷であり、受けなかったほうがよかった傷であると思います。仕事上の責任が重くなればなるほど、争いの矢面に立つ回数が増えるほど、受ける傷の深さも比例するでしょう。このことも、本当にそのとおりなのです。

そんなふうにならない前に、です!

この人生そのものが単純に「楽しい」と感じることができるうちに、です!

私たちの心や体が「傷物」になり、絶望に打ちひしがれる前に、すなわち、心の底から人生を喜べるうちに神を信じなさいと、コヘレトは私たちに教えているのではないでしょうか。

これは人間の存在、もしくは人間の現実をとことんまで知りぬいた人の言葉です。コヘレトの言葉は、皮肉や投げやりな言葉ではなく、この地上の現実を知りぬいた人の語る「オトナの言葉」であると、思われてなりません。

わたしの結論は、どうか皆さんには、このコヘレトの言葉をそのままに受け入れていただきたい、ということです。この説教者は、間違ったことを言っていません。この世界の現実を、人生の真理を、本当のことを、ありのままに、あっけらかんと、ストレートに語っているだけです。

そして、現実は、コヘレトの語っているとおりです。私たちは、この人生を大いに楽しんでよいのです。それが私たちの「最大の幸福」なのです。私たちはこの世界を楽しむために創造されたのであり、そのような者として生まれてきたのであり、そのような者として現に存在しているのです。憂うつな人生は、神を信じて生きる者たちにふさわしくないのです。

改革派信仰は、このことを否定していません。私たちはアウグスティヌスの言葉よりも聖書の御言を重んじなければなりません。

私たちは「人間的な喜び」を、聖書によって肯定してもよいのです!

(2003年8月12日、東部中会連合青年会夏期修養会 早天礼拝説教)