ガラテヤの信徒への手紙1・11~17
「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。」
わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではない。パウロが福音を告げ知らせたのは誰に対してか。もちろん、「あなたがた」です。この手紙の宛先であるガラテヤ教会の人々です。
福音とは、パウロ自身が語った言葉です。あなたがたガラテヤ教会の人々は、わたしが告げ知らせた福音をたしかに聴いた。しかし、あなたがたが聴いたわたしの言葉は、人によるものではない、とパウロは言います。
別の翻訳の聖書によりますと、「人によるものではない」の部分は、「人間の事柄ではない」と訳されています。「人間的な事柄ではない」と訳すこともできます。福音の言葉は「人間の事柄」あるいは「人間的な事柄ではない」としたら、誰の事柄、あるいは誰的な事柄だというのでしょうか。
「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」
これは驚くべき言葉です。パウロは、福音の言葉を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた、と書いています。
しかし、パウロは、たしかに彼自身が書いたとされる別の手紙の中で、次のように書いています。コリントの信徒への手紙一15・3を見てください。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」
ここでパウロが「最も大切なこと」と言っているのは、福音のことです。福音とは、喜びの知らせという意味です。父なる神が、キリストを通して、わたしたちこの地上に生きる人々を、罪の中から救い出してくださる。わたしたちは、罪から全く自由なものとして生きることができるようになる。それは喜ばしいことです。まさにその喜び、救いの喜びを告げ知らせる喜ばしい知らせのことを、福音と呼ぶのです。
この喜ばしい知らせとしての福音を、パウロは、「わたしも受けた」とコリントの信徒への手紙には、たしかに述べています。福音とは、自分で考え出すもの、瞑想を通して悟るものではありません。全く正反対です。福音とは、伝え聞くもの、受け継ぐものです。
しかし、パウロは、コリントの信徒への手紙においても、その福音を人から受け継いだとは書いていません。「わたしも受けた」と書いているだけです。
それでは、だれから受けたのか。イエス・キリスト御自身から受けた、とパウロは主張します。どうやって?「イエス・キリストの啓示によって知らされた」とあります。啓示とは、日本語の文字通り「啓き示すこと」です。雲に覆われた太陽が、雲の後ろから出てくるごとくです。隠されたものが明らかにされることです。
「イエス・キリストの啓示」とあります。これは誤訳ではありませんが、事柄をいくらか分かりにくくしてしまう訳かもしれません。
事柄に即して言えば、「イエス・キリストという啓示」です。救い主イエス・キリストは神の啓示そのものです。啓示そのものとしてのイエス・キリストです。雲に覆われた太陽はイエス・キリストの父なる神でもありますが、神の御子なるイエス・キリスト御自身でもあります。
イエス・キリストは、神の御子であると同時に、世界の中に生まれ、生活し、生きた一人の歴史上の人物でもあります。一人の歴史上の人物が、父なる神からこの地上に遣わされ、父なる神御自身の御言を世界の人々に宣べ伝えてくださったのです。
パウロは、このイエス・キリストを知りました。しかしパウロは、イエス・キリストを信じる者になる前に、イエスさまの地上におけるお姿を見たことがあるとか、実際に語り合ったことがある、ということを、書いている個所はありません。
たとえば、イエスさまがゴルゴタの丘の上で十字架につけられたとき、多くの人々がその場面を見ていますが、その中にパウロがいたかどうかということは、聖書のどこにも書いていないので、分かりません。反対に、全く見たことがない、ということも、どこにも書いていません。
しかし、パウロにとって、そのこと自体は、あまり問題ではなかったようです。パウロにとって「イエス・キリストの啓示」とはどのようなものであったかを知るために決定的に重要な聖書の個所は、使徒言行録9・1以下です。
この個所で、パウロはまだ「サウロ」と呼ばれていましたが、主の弟子たち、すなわち救い主イエス・キリストを信じる人々を脅迫し、殺そうと意気込んでいました。その様子は、今日の個所にもはっきりと書かれています。
「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒ととして、どのようにふるまっていたかを、聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」
パウロは、かつて、人一倍熱心なユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害し、血祭りに上げ、抹殺することを、自分の使命としていました。この人がのちに熱心なキリスト教徒になることなど、その当時のパウロを知っている人にとっては、考えられないようなこと、想像を絶することであった、と言えるほどです。
皆さんの中には、「あなたがクリスチャンになるだなんて、想像を絶することでした」と言われたことがある方は、おられませんか。
ところが、そのパウロがキリスト教徒迫害のための旅をしていたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた、というのです。
それに対してパウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。このような声が聞こえてきた。この声をパウロは、イエス・キリスト御自身の声であると信じたのです。信じることができたのです。
「そんなの、おかしいよ!」と感じる方がおられるかもしれません。どこからともなく聞こえてくる声が、イエス・キリストの声かどうか、どうして分かるのか。それはあなた自身の心の声かもしれない。だれかが言った言葉を心のどこかで覚えていて、それを思い出しただけだ、というような見方もありうるだろうと思います。
しかし、これは、真実が何であれ、パウロ自身の信仰なのです。パウロが聞いたのは人の声ではなく、キリストの声であった。この出来事を、彼が、そのように受けとめたこと自体を、だれもとやかく言うことはできません。
少し開き直ったような言い方を許していただくならば、わたしたちにとって信仰というのは、いずれにせよ、そんなようなものです。わたしがこれをそのように信じる、と言いきってしまえば、それはもう、だれも手をつけることができない、一つの聖域を作り出すことになります。
わたしは、このことを、悪い意味で言っているわけではありません。信仰とは、いずれにせよ、そういうものだと言いたいだけです。
16世紀スイスの宗教改革者カルヴァンは、まさにこの事態を「キリストとの神秘的結合」と呼びました。イエス・キリスト御自身とキリストを信じるわたしたちの関係は、まさに神秘的に結合し、一体となっているのです。
それは人間同士の結婚関係にたとえられるものです。その関係の中に、第三者が介入する余地は全くありえない。いや、介入の余地があってはならないのです。だれが何と言おうと、このわたしがキリストから引き離されることはありえないのです。他の誰からも、文句を言われたり、注文をつけられる筋合いにもないのです。
たとえば、牧師になるという決心をして、神学校に入学する人がいます。彼らは一様に「神がわたしをお召しになった」と言います。そのように言わない、または言えない人には、神学校は入学を許さないでしょう。
ところが、そのことを、たとえばキリスト者ではない家族の人々の中には「ホントかいな?」と疑う人もいるに違いない。彼がまだ小さな子どもだった頃からよく知っている人々にとっては、「あの子がねえ」と、思わず笑ってしまうようなことでさえある。
しかし、これはまさに信仰であり、信仰以外の何ものでもない、と認めざるをえません。その信仰を抱いた人々は、自分勝手な思い込みだとか何だとか、だれから何を言われても、甘んじて受けるしかありません。
ただし、その信仰を抱いた人々が、その次にしなければならないことがあります。それは、一言で言えば、証しです。その信仰を自分の身をもって証明することが、求められるのです。
わたしはイエス・キリストの声を聞いた。キリストの御言を宣べ伝える者になるように、キリスト御自身がこのわたしにお命じになった。このことを信じた人は、実際にキリストの御言を宣べ伝えなければなりません。そして、御言を宣べ伝えることをやめてはなりません。
いや、やめることができません。彼は、キリストの言葉を聞いてしまった人なのです。
ある先生から教えられたことです。キリストの福音を宣べ伝えるとは、ちょうど、うわさ話を、人から人へと耳打ちしていくことに等しい、と。「こんなことがあったんだって、すごいでしょ?」「え、ホント?」。
わたしたちは自分に耳打ちされた言葉が、驚くべき内容を持ち、非常に興味深く、かつ面白いものであれば、おそらく必ず、別の人にも伝えたいと感じます。だれかに言いたくて言いたくて、たまらなくなります。
「松戸小金原教会に新しい牧師さんが来たんだって」「え、うそー、どんな人」「えーとねー」。
残念な話を聞いたときは、別の人に話したいと思わないかもしれません。
伝道とは何かを、考えさせられます。あるいは、とくに教会ということを考える場合、毎週日曜日に行われる礼拝の説教とは何かを考えさせられます。
イエス・キリストの御言を聞いたのは、パウロだけではありません。十二人の使徒たち、そしてまた、多くの主の弟子たちも聞きました。彼らは、イエス・キリストから聞いた言葉を、別の人々に耳打ちしました。それが驚くべき言葉であり、興味深い言葉であり、面白い言葉であったから、それを聞いた人々は、さらに別の人々にも耳打ちしました。
今日わたしたちが福音の御言を聞くことができるのは、この耳打ちが二千年間も続けられてきた結果なのです。
「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこからダマスコに戻ったのでした。」
ここでパウロが書いていることは何でしょうか。これは明らかに、彼が宣べ伝えた福音は人によるのではない、ということを、極限まで突き詰めていくと、こういう話になる、という一つの究極表現である、と言えます。
「母の胎内にあるときから」と、パウロは言い切ります。これは間違いなく、非常に過激な言葉です。聴く人によっては腹を立ててしまうかもしれないほど過激です。なぜなら、これは、いわゆる教育の賜物というべき要素を、根本的に問いに付す言葉になりうるからです。
わたしたちは、教会とそれぞれの家庭において、信仰教育ということを考えざるをえません。自分の子どもたち、日曜学校の生徒たち、自分自身が、教会や家庭で聖書を学ぶ。教会が学校になり、先生がいて生徒がいる。家庭が学校になり、親が先生になり、子どもが生徒になる。そのこと自体が間違っているわけでは、決してありません。
ところが、だれかある先生のおかげで、わたしは信仰を持つことができたとか、御言を宣べ伝える伝道者になることができたという言い方に根本的・究極的な疑問符を付けるのが、このパウロの言葉です。
「母の胎内にあるときから、神がわたしをお選びになった」。
恩知らずな言葉かもしれません。しかし、信仰に関しては、恩知らずでもよいのです!恩知らずであることが許されるのです。
だれのおかげでもない、神よ、あなた御自身が、このわたしが母の胎内にあるときから、だれの教育も影響も受けていないそのときから、このわたしを召してくださっていたのである、というこの一点を信じることができるときに、その信仰が本物の信仰になるのです。
人の支えによって立つのではなく、神御自身の支えによって立つ信仰になるのです。
(2004年5月9日、松戸小金原教会主日礼拝)