2007年4月1日日曜日

苦難の僕


イザヤ書53・1~12

今日は、旧約聖書のイザヤ書53章を開いていただきました。この個所の中で「この人」とか「彼」と呼ばれている人のことを、わたしたちは、救い主イエス・キリストのことであると信じてきました。イエス・キリストがわたしたちの身代わりに十字架の上で死んでくださったあの苦難の姿を、預言者イザヤが預言しているのだ、と信じてきました。

そのように信じるに足る内容がここにあると、わたしも考えています。イザヤが描いているこの人は、わたしたちの病を担い、わたしたちの痛みを負ってくださることによって苦しみを体験し、神の手によって命ある者の地から断たれた、と書かれているからです。その姿は、まさにイエス・キリストです。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
 主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。
 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」


「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」という翻訳は、一つの可能性にすぎません。原文を直訳しますと、「形も輝きもほとんどない」です。この人には形がない。そのように、イザヤは書いているのです。

形がない人間などいるのだろうかと思わざるをえません。まるで幽霊みたいではないかと。しかし、ここに記されているのが、ただの人間のことではなく、神の御子なる救い主のことであるとするならば、納得は行かないかもしれませんが、一つの話として、理解はできるようになるように思います。

神の御子には、本来、形がなかったのです。なぜなら、神の御子は神御自身だからです。神には形がありません。神は霊なのです。このように言うことは、神を冒涜することではなく、むしろ尊重することです。イザヤの「この人には形がない」という預言は、この人が霊なる神の御子である、ということを示していると考えることができるのです。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」


軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っているこの人の姿は、まさに救い主イエス・キリストのお姿です。

それはまた、神御自身のお姿でもあると言わなくてはなりません。神は、人間の歴史の中で、軽蔑され続けてきました。わたしたちの時代の中でも、軽蔑され続けています。

わたしたち自身は、神を重んじているでしょうか。神のために命をささげる覚悟や決意があるでしょうか。そのあたりが、実際には、怪しいのです。

神は、この世界のすべてを創造された、この世界の支配者です。わたしたちは、本当にそう思っているでしょうか。実際には、すべての世界は、このわたしの周りを回っていると、いまだに思っているのではないでしょうか。そのような態度をとっているのではないでしょうか。

神を軽蔑し、救い主イエス・キリストを軽蔑し、そして、キリストの体なる教会を軽蔑する。それは、他のだれかの話ではなく、わたしたち自身の姿かもしれないと疑ってみる必要があると思います。
 
「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。
 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。」


救い主イエス・キリストがゴルゴタの丘の十字架の上で担ってくださったのは、わたしたち人間の罪であり、愚かさであり、病です。

しかし、そのことは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰がなければ、決して理解することも、受け入れることもできないでしょう。十字架にかけられる人は、呪われた人であり、自業自得であると、普通の人は見るでしょう。

イエス・キリストを信じる信仰があれば、このお方の死の意味を正しく理解することができます。それは、まさに、イザヤが預言しているとおりです。

彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためです!

彼が打ち砕かれたのは、わたしたちのとがのためです!

イエス・キリストを裏切って死に追いやったのは、イエス・キリストの弟子たちでした。最も愛していた弟子たちに、イエスさまは裏切られたのです。

しかし、その裏切りを、イエスさまは、すべてご存じであり、すべてを受け入れておられました。愛するとは人の弱さを理解し、受け入れることです。強い人が弱い人をかばい、助けることです。それが愛です。

イエスさまは、弟子たちを十字架のうえでも愛しておられたのです。御自身が十字架について、弟子たちをかばってくださったのです。

わたしたちも、イエスさまを裏切ることがあるでしょう。洗礼を受けるとき、神と会衆の前で行ったあの約束の言葉を覚えておられますか。「救い主イエス・キリストのみを信じ、彼にのみより頼みますか」。

わたしたちは、今でも、救い主イエス・キリストのみを信じ、彼にのみより頼んでいるでしょうか。適当なところで誤魔化してはいないでしょうか。

わたしたちの裏切りをも、イエスさまは、ご存じです。すべてを理解し、すべてを受け入れておられます。イエスさまはわたしたちを愛しておられます。わたしたちをかばってくださるのです。

だからこそ、次のように告白できるのではないでしょうか。

「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

他の誰かが受けた傷によって、わたしたちがいやされるというのは、話としては奇妙なことのように思えます。しかし、これもまた、救い主イエス・キリストがお受けになったあの傷と苦しみのことであると信じるならば、理解できる話になります。

イエス・キリストの十字架上の死は、全世界の人々の身代わりの死です。本来ならば、罪に対する神の罰を受けるのは罪人自身です。わたしたち罪人こそが、十字架の罰を受けなければなりません。ところが、わたしたち自身が受けなければならない罪に対する神の罰を、イエスさまが身代わりに受けてくださったのです。これが、イエスさまの死の深い意味です。これを代理刑罰の教理と言います。

そして、イエスさまがその罰を身代わりに受けてくださったことによって、神と人間との間の和解が成立し、真の平和がもたらされたのです。この平和の喜び、深い心の平安が、わたしたち人間の傷をいやす薬になるのです。

わたしたちは、罪深い生活をしている間は、平気でそうしている面と、実際には様々な場面で傷ついている、という面があるはずです。罪悪感というのも、立派な心の傷です。小さな盗みを自覚的に働いた人は、そのことを、いつまでも覚えているものです。犯罪は、相手を傷つけるだけではなく、それを犯した人自身をも、深く傷つけます。

そしてまた、そうであることが分かっていてもやめられないのも、罪の性質です。この泥沼、この連鎖、この罪の奴隷状態から、どうかわたしを救い出してください、と叫び声をあげることができた人は、すでにほとんど救われていると言ってよいほどです。自分の心の中には深い傷がある、ということに気づき、その痛みを感じて、魂の医者、救い主に助けを求めることができた人は、もうあとわずかで、いやされるでしょう。

罪はまた、人を孤独にします。行いの罪だけではなく、言葉の罪もあります。人を傷つけるようなことを平気で言うような人に近づきたいと思う人は、いません。しかし、孤独のままで生きていくのは、つらいものです。

孤独もまた、立派な心の傷になります。この傷をいやしてほしい。このさびしさから、なんとかして逃れたい。その願いを強く持ち、助けを求めることができた人は、ほとんど救われています。

その人は自分の罪を悔い改め、神の御心に従って生きるべきです。そのとき、深い平安を味わうことができるでしょう。

「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
 そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。
 苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。
 屠り場に引かれる小羊のように
 毛を切る者の前に物を言わない羊のように
 彼は口を開かなかった。
 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
 わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。
 彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに
 その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた。
 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。
 彼は、子孫が末永く続くのを見る。
 主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。
 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。
 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。
 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
 彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで
 罪人のひとりに数えられたからだ。
 多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」


イエス・キリストを信じましょう!

このお方を心から信じるならば、わたしたちは、必ず救われます。

(2007年4月1日、松戸小金原教会主日礼拝)