2025年4月30日水曜日

私の蔵書

私の書庫をChatGPTにフェルメール風に描いてもらいました。
あながち虚構ではありません。


【私の蔵書】

蔵書は趣味ではなく、実際に必要。註解書に引用される参考文献だけでも、と買ってきたが、道なお遠し。『使徒教父文書』は不所持だったが、教会の書架で見つけた。『古代教父著作集』も、『アウグスティヌス著作集』も、トマス・アクィナス『神学大全』も、『キリスト教神秘主義著作集』も、少しは所持しているが揃わない。

『宗教改革著作集』は半分ぐらい。ルターは英語版著作集をパーフェクトではないが1セットどっさり譲り受けたのと、日本語版も第1集は揃えたが、第2集はちょっとだけ。カルヴァンは改革派教会の教師時代にそれなりに揃えたが、きりがない。オランダ語版『キリスト教綱要』を所持していることは自慢したい。

このたび『改革派教会信仰告白集』を譲り受けたことは歓喜の極み。16・17世紀の改革派神学、特にアルミニウス論争やオランダの「第二次宗教改革」あたりは、私にとってかなり前からファン・ルーラーの次ぐらいに関心がある分野なので強化を望んでいた。ウェスレーは『日記』と『著作集』を持っている。

19・20世紀の現代神学は主専攻でもあり、蔵書の中で占める割合が最も多い。オランダのカイパー、バーフィンク、ベルカウワー、そしてファン・ルーラー。ドイツ及びドイツ語圏のトレルチ、ブルンナー、ティリッヒ、バルト、ボンヘッファー、モルトマン、ゼレ。ハンス・キュンクの本も大量に譲り受けた。

哲学書や歴史書はなるべく所持したいが、独学で理解できるほど甘くない。プラトン、アリストテレス両著作集は譲り受けた。ギボンの『ローマ帝国衰亡史』は無理して揃えた。カントは著作集は不所持。ヘーゲルは古い著作集だが揃っていない。文学の著作集はドストエフスキー、太宰治。あとは文庫版や小冊子。

転任のたびに蔵書を減らしたいと願うが、いっこうに減らず、ますます増える。最初に書いたとおり、註解書に引用される文献だけでも、と本を買い集めて来た。毎週の説教は待ったなし。私の「クラウド」が常に手元にないと仕事にならない。雲(クラウド)のような先人がたの知恵を「秒で」拝借できる。

いま強化したがっているのはジャック・デリダ。何度も読み返したのは『ヘーゲルの時代』(白井健三郎訳、国文社、新装版1984年)。他のデリダの本は独学では歯が立たないが、好きなタイプなので、せめて日本語版を揃えたい。こういう考え方自体をやめないかぎり蔵書は減らない。「やめとけ」という。

2025年4月27日日曜日

復活と宣教

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「復活と宣教」

マタイによる福音書28章11~29節

関口 康

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19-20節)

復活したイエス・キリストを目撃した婦人たちは他の弟子たちに報告するため、また同じ光景を見たローマ兵たちは祭司長たちに報告するため、どちらもエルサレムに向かいました(11節)。

報告を聞いた祭司長たちは、長老たちと相談して兵士たちに多額の金を与えました(12節)。最高法院(サンヘドリン)の人々が賄賂を使い、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」とローマ兵たちに言わせました。

祭司長たちが言った「もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」(14節)の意味は次のとおりです。見張番の居眠りは重罪でした。通常なら処刑です。しかし、ユダヤ人からの委託任務に就いていただけの兵士を処刑するわけにいかないとピラトならきっと考えるだろうから、うまく交渉してあげるという理屈です。

兵士たちは金を受け取って「教えられたとおりにした」(15節)は「学ぶ」(ディダスケイン)を意味する動詞(エディダクセーサン)です。これは軽蔑の表現であるという解説を読みました。兵士たちは、自分たちより上位の人の命令を復唱し、「学習した」(ディダスケイン)のです。

「この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」(15節)の「今日」はマタイ福音書が記された紀元1世紀後半を指します。

古代教父ユスティノス(紀元100年頃~164年頃)の著作『ユダヤ人トリュフォンとの対話』(全142章)(西暦155年頃)「序論」(1~10章)の一部(1~9章)の日本語版(三小田敏雄訳)があります(『キリスト教教父著作集Ⅰ ユスティノス』教文館、1992年、197~269頁)。

残念ながらまだ日本語版がない69章7節に、ユダヤ人はイエスを「魔術師」で「詐欺師」であると考えていたと記されています(訳者解説、同上書252頁参照)。

また「弟子たちはイエスが十字架から降ろされた後、夜中に墓に埋められていた彼を盗み出し、『イエスが死から蘇って、天に昇った』と言って人々を騙した」(同108章2節)と紀元2世紀のユダヤ人たちがイエスについて言い伝えていたことを、ユスティノスが証言しています(J. T. Nielsen, Mattheüs, deel 3, G. F. Callenbach, 1974, p. 186)。

2 世紀半ばの外典『ペトロによる福音書』(『聖書の世界 別巻3・新約Ⅰ 新約聖書外典』講談社(1974年)収録)にも興味深い記述があります。以下、引用します。

「夜中に、兵隊が二人ずつ当番で夜警をしていると、天で大きな声がした。そして天が開いて、二人の人がそこから降りて来るのが見えた。彼らは強く輝いていた。そして墓に近づいて来た。すると墓の入口においてあった石がおのずと転がりはじめて、何ほどか脇に退いた。こうして墓が開き、二人の若者は中にはいって行った。 

(見張番の)兵隊はこれを見て、百卒長と長老達を起こした。彼らもまた見張のためにそこに一緒にいたのである。兵隊達が見たことを彼らに話しているうちに、また墓から、今度は三人の人が出て来るのが見えた。そのうちの二人が一人を支え、そのあとから十字架がついて来た。二人の頭は天までとどき、二人が手を引いている三人目の人の頭は天をつきぬけていた。 

そして天から声が聞こえた、『あなたは(冥府で)眠っている人々にも宣教しましたか』。すると十字架が答えて、『はい』と言うのが聞こえた。彼らは互いに、ピラトのもとに行ってこれらのことを報告しよう、と相談しあった。そしてまだ相談しているうちに、再び天が開け、一人の人が降りて来て、墓の中にはいった。 

百卒長と共にいた者達はこれを見、夜ではあったが、見張っていた墓をあとにして、急いでピラトのもとに行き、見たことを一切報告した。そして大いにこわがって、『本当にあれは神の子だった』と言った。 

ピラトは答えて言った。『余は神の子の血には責任はない。それはお前達がよしとしていたことだ』。 

そこで彼ら(ユダヤ人の長老たち)は皆すすみ出て、ピラトに、見たことを一切人に話さないようにと百卒長と兵隊達に命じてくれ、と頼んで、言うには、『我々には神の前で最大の罪を負う方がまだよいので、(神の子の復活を認めたりして)ユダヤ国民の手に落ち、(彼らのうらみを買って)石で打ち殺されたりはしたくない』。それでピラトは百卒長と兵隊とに、何も言わないように命じた」(田川建三訳、同上書40~41頁)。

「どちらが正しいかは分かりません」と大学の聖書学者やキリスト教学者のような人は言うかもしれません。しかし、教会の私たちはそういう言い方はしません。イエスさまが「どのように」復活したかは聖書に記されていません。しかし、復活したことは明言されています。

イスカリオテのユダ以外の11人の弟子たちは、天使と主イエスご自身が促した通り「ガリラヤ」に行き、「山」に登りました(16節)。

この山を地理的に特定するのは、観光目的以外は無意味です。「山上の説教」(マタイ5~7章)に見られるように、イエス・キリストが登る「山」には特別な意味があります。「ガリラヤの山」は、これから宣教へと遣わされる世界を見渡せるどこかです。「世界宣教の原点」です。

「そしてイエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)と記されています。この「疑う者」は誰でしょうか。これは弟子たちの中の「だれか」というより「弟子たち全員」です。信仰と疑いはコインの両面です。どの弟子も、わたしたちも、疑いと迷いの中で主イエスの存在と教えに従って生きていきます。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)。これは荒れ野の誘惑のときサタンが、もし私にひれ伏すならお前に与えようと言ったものです(4章8節)。イエスさまは悪と手を結ぶことなく、父なる神から一切の権能を授かりました。

イエスさまは「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と彼らにお命じになりました(13節)。

「すべての民」とは「ユダヤ人」+「異邦人(=ユダヤ人ではない人)」を合わせた「すべて」のことであって、全人口を指していません。

そして「弟子にしなさい」の中身が「洗礼を授けなさい」(バプティゾンテス)と「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい(ディダスコンテス)」の2つです。

この「教えなさい」は、番兵たちが賄賂をもらって「学習した(ディダスケイン)」と同じ言葉ですが、中身は大違いです。

「洗礼」は教会の仲間に加わることの約束です。「約束にすぎない」と言えなくはありません。洗礼はいわば瞬間的なことです。洗礼の後に続く「学ぶこと、教えること」は一生がかりです。

「学ぶこと」は「守ること」を求めます。「知識はありますが、守ったことがありません」というわけに行きません。「教えを守る」とはイエスさまの教えを実践し、生活することです。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(30節)という言葉で、本書は締めくくられています。

マタイによる福音書には最初(1章23節)と最後(28章30節)に「インマヌエル」が語られています。「神がわたしたちと共にいる」という意味です。

それが「世の終わりまで」続きます。終わりがいつかは分かりません。しかし、私たちの救い主は、世界が終わるまで、いつも近くにいて、慰めと力を与えてくださいます。

(2025年4月27日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年4月25日金曜日

拙ブログ開設20周年

愛機ニンジャ1000をChatGPTにフェルメール風に描いてもらいました


【拙ブログ開設20周年】

記録も記憶も厳密ではないが、松戸に移って2年目の2005年からブログを始めた。いま気づいたが今年でブログ開設20周年だ。サービスは初めはBloggerではなかった。あとから加えた2005年以前の拙文もある。一貫性も網羅性もない。確実なのは「すべて私が書いた」ということだけ。

言うまでもないが、公開しても大丈夫なことしかブログに書いていない。なので、面白くはないだろう。「ここにしかない真実」などはないし、そういう情報がもしあれば閉架して有料化するだろう(冗談)。私にとどめをさしたい人がいるかどうか知らないが、拙ブログをたどっても何のネタも見つからない。

「紙の本を出す資金が無い」からこそのブログだった。しかし、著作権フリーになった歴史的な偉人たちの文章がどんどんネットで公開されているのを見ると、「私のブログと同じ扱いだよね」とつい思ってしまう。エーアイが学習するのはネットの情報のほうだと思うので、少しは役に立った可能性がある。

神学生時代を含めると1984年から40年「説教」なり「奨励」なり「証し」なりを教会でして来て、毎回書き下ろす原稿を使用後すぐにゴミ箱に捨てるのもどうかと思い、記録として残して来たにすぎない。えんぴつでルーズリーフに書いていた頃の説教原稿などもまだ捨てずに持っている。読み返す気力はない。

2025年4月24日木曜日

夢で逢えた

昨日(4月23日)自作したペペロンチーノをChatGPTにフェルメール風に描いてもらいました

【夢で逢えた】

何週間も前からぐらついているバックステップを締めてもらうのと、ついでにオイル交換をしてもらう予約が明日に迫る。立川まで行く。遠いのは自分で選んだことなので仕方ないが、首都高中央環状線(C2)が嫌いすぎる。橋脚高いし、道狭いし、コーナー多いし、四輪のスピードが異常。環七と甲州街道でのんびり行くか。

来週月曜の有志読書会でファン・ルーラーを取り上げてもらえることになった。テキスト「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差異」(1961年)。今朝未明から半日かけてA4判2ページのレジュメ完成。メールでメンバーに送信完了。楽しくて疲れた。心は燃えても肉体は弱い。体を打ち叩いて従わせる。

レジュメ書きが終わってちょっとだけウトウトしたら、夢に妻が来てくれた。バイクの免許取ったとか言って黒のニンジャ150(って言った)にまたがってメットのシールドを開けてくれたところで終わり。「夢でもし逢えたら素敵なことね、あなたに逢えるまで眠り続けたい」(鈴木雅之さんの歌)だった。

2025年4月22日火曜日

ボッシュの言う「使徒の神学」はファン・ルーラーだ

日本基督教団富士見町教会(千代田区)
*ChatGPTにアール・ヌーヴォー風に描いてもらった。

【ボッシュの言う「使徒の神学」はファン・ルーラーだ】

今日は東京教区東支区教師会(牧師会)があるのでまもなく出かけなくてはならないが、未明まで長文メールを書いていたため眠い。先日オランダの古書店から届いたヘンドリク・クレーマーの『教会とヒューマニズム』の支払い方法が旧時代のままで、困って相談したら助けてくださった牧師への礼文だった。

そのメールはプライベートな内容なので公開できない。デイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』にファン・ルーラーの名が出て来ないことに不満を抱いた私だった。その理由が見えて来た。日本語版下巻(新教出版社、2001年)211頁の「使徒の神学」が、名を伏せられているがファン・ルーラーだ。

「使徒の神学」に関してボッシュが「ベルコフ、1979、411-13参照)」と記しているのは、ヘンドリクス・ベルコフの『キリスト教信仰』英語版(1979年)第1版のことだが、私の手元にある同書第2版(1986年)では、おそらく増補改訂の影響で、413頁から415頁までへと移動している。そこを読む必要がある。

いま大急ぎで、ベルコフの当該箇所をざっと読んだ。クレーマーが「宣教」という意味でアポストラート(使徒性)を用い、それをファン・ルーラーが教義学的に「宣教(アポストラート)の神学」(ボッシュ日本語版では「使徒の神学」)として基礎づけ、WCCの文脈でホーケンダイクがその線を打ち出した。

しかしベルコフはファン・ルーラーがすでに「急進的」であり、ホーケンダイクは「もっと急進的」と評価。教会を相対化して、社会活動の拠点にしようとした元凶のように言う。そのベルコフの判断は彼の師匠ミスコッテに由来。「使徒の神学」へのベルコフの批判がミスコッテの引用で締めくくられている。

このミスコッテがファン・ルーラーのライバルだった。オランダ改革派教会(NHK)の「教会規程」の改訂作業や解説書を作成する委員会で激闘する関係にあった。ベルコフはライデン大学神学部のミスコッテの後継者。ボッシュはベルコフの本を読み、ファン・ルーラーの本は読んでいない。偏りがあると言える。

ああ、もう出かけなくてはならない。忘れないうちに書きとめておきたかった。眠いけど休めない。行くので。サボりたいけど。

(2025年4月22日 11:45 a. m.)

2025年4月21日月曜日

「雪のように寒い人」の線で

ChatGPTが私を「雪のように寒い人」に描いてくれた

【「雪のように寒い人」の線で】

私は小学1年から大学卒業まで「せっかん」だった。由来は何度か書いた。兄の小学校教師が「摂関政治」を「関口くんの関ですね」と説明、兄が「せっかん」と呼ばれるようになる。兄の同級生から私が「せっかん2号」と呼ばれ、私の同級生が真似し、やがて私を「2号」なしで「せっかん」と呼びはじめた。

中学も高校も大学も、入学早々まず最初に「なんて呼ばれてた」と聞かれ「せっかん」と答えると「じゃあ、せっかんね」で即日決定。定められたレールから外れることはできなかった。昔の話なのでどうでもいいことだが、たまに旧友から「せっかん」の漢字を尋ねられることがあるので、由来が意味を持つ。

尋ねられるたびに「かくかくしかじかの由来があるので、もし漢字で書くとしたら摂関だろうね」と答えると、たいていの場合「折檻だと思っていた。がくがくぶるぶる」と返ってくる。今さら過ぎるが、誤解が解けてよかったと思う。ネットの匿名に使う気にはなれないでいる。Sekkanとかおかしいでしょ。

長年「せっかん」と呼ばれたし、同級生にとっては今も「せっかん」なので葬り去るのもどうかと活用方法を考えたことがある。変換候補に出てくるのは「摂関、折檻、石棺、節間、雪寒、設完」。印象が良さそうなのは「雪寒」(snowy cold)か「設完」(completed)。取って付けても定着しないだろうね。

2025年4月20日日曜日

キリストの復活

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)
*生成AIのChatGPTにフェルメール風に描いてもらいました!

説教「キリストの復活」

マタイによる福音書28章1~10節

関口 康

「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」(10節)

イースターおめでとうございます。今日は世界中の教会で、イースター礼拝が行われています。イースターは、イエス・キリストがよみがえられたことをお祝いする日です。

こういうことを言うと「あなたはおめでたい人だ」と言われかねません。「死んだ人がお墓の中から出てきたことの何がめでたいのか。恐怖しか感じない」と顔をこわばらせて言う人がいても、おかしくありません。

教会の看板に今日の説教題として「キリストの復活」と書いていただきました。「復活」などと言わないで、少しぐらいは遠慮して、もっと多くの人に受け入れてもらえそうなことを貼り出すほうがよいかもしれないと、私も考えないわけではないということを打ち明けておきます。

イエス・キリストの復活が「どのように」起こったのかは聖書には記されていません。しかし、4つの福音書に、イエス・キリストの復活は起こったと明言されています。聖書に基づいて説教することになっている教会は、イエス・キリストの復活を宣べ伝えることから逃げることはできません。

教会が「復活」を宣べ伝えるのは、聖書に書かれているからです。聖書に書かれていなければ、必然性はありません。

クリスマスの聖書箇所も同じです。結婚する前のマリアに赤ちゃんが、というあの話です。もし聖書に書かれていなければ、必然性はありません。

奇跡についても同様です。まるで聖書は、ハードルをどんどん高くしてなるべく信じにくくしているかのようです。

信じにくい要素はまだあります。クリスマス礼拝のときも言いましたが、私は天使が苦手です。天使が嫌いだと言っているのではありません。会ったことがないので、どのように説明してよいかが分からないのです。人間でもなく神でもなく、両者の中間に位置するように聖書に描かれている謎の存在。その苦手な天使が、クリスマスの聖書箇所にも、イースターの聖書箇所にも登場するので、困ってしまいます。

そのことは特にマタイ福音書とルカ福音書ではっきりしています。各書の最初と最後に、天使が登場します。イエスさまがお生まれになったときと、復活なさったときに現れます。天使はまるで「狂言回し」です(「歌舞伎・狂言などで、主人公ではないがその狂言の進行に重要な役割をつとめる者」広辞苑第4版)。

しかし、私はいまネガティブな話をしているつもりはありません。クリスマスとイースターの聖書箇所に共通点があると説明している註解書を読みました。どこに共通点があるかというと、「ガリラヤに行くこと」を天使が人間にすすめる言葉です。

今日の箇所では、そのことが7節に記されています。5節から7節までお読みします。

「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」』」。

ここで言われているのは、ガリラヤに行けばイエス・キリストに会える。だからガリラヤに行きなさい、という意味です。

他方、クリスマスの聖書箇所で「ガリラヤ」の名前が出てくるのがマタイ福音書2章22節です。ヘロデ大王による幼児虐殺から逃れるために家族揃ってエジプトに避難した主イエスの父ヨセフの夢に天使が現れ、お告げがあったので、「ガリラヤ地方に引きこもった」(マタイ2章22節)と記されています。ガリラヤに行きなさいと神が天使を通してヨセフに伝えたということです。

このように、クリスマスの天使もイースターの天使も、イエス・キリストの存在と「ガリラヤ」を結びつける役割を果たしている点で共通しています。

この場合の「ガリラヤ」は、広い意味です。「周辺」という意味のヘブライ語「ガーリール」に由来します。主イエスの生誕地ベツレヘムは、首都エルサレムに近いので「ガリラヤ」ではありません。しかし、その後の成長期に過ごしたナザレも、宣教活動を開始したカファルナウムも、「ガリラヤ」です。

「ガリラヤ」は田舎であり、地方であり、分裂王国時代には北王国であり、他国からの流入者の割合が多い「多様な」地です。辺境ゆえに政治と宗教の権力者から見下げられてきた「より多くの慰めが必要な」地です。その「ガリラヤ」でイエスさまは宣教されました。

これらのことで分かるのは、今日の箇所で、天使と復活されたイエスさまご自身が弟子たちに「ガリラヤに行きなさい」と促しておられるのは、「あなたの原点に立ち返りなさい」と言われているのとほとんど同じ意味であるということです。

昨年9月8日の「足立梅田教会創立70周年記念礼拝」で説教してくださった北村慈郎牧師と、先々週4月12日に「北村慈郎牧師の処分撤回を求め、ひらかれた合同教会をつくる会」の総会で私が講演させていただいた日本基督教団紅葉坂教会(横浜市)でお会いしました。

北村先生は、わたしたちの70周年記念礼拝のときも、先々週の会で私を紹介してくださるときも、「私の原点は足立梅田教会です」と多くの人の前でおっしゃいました。「私のガリラヤ」とはおっしゃいませんでしたが、きっとそのお気持ちを持っておられます。「ガリラヤに行きなさい」というすすめには「あなたの原点に立ち返りなさい」という意味があるからです。

イエス・キリストが「どのように」復活されたのかは聖書に記されていないと申しました。墓の中で目を開き、体を起こし、立ち上がり、歩いて墓穴から出てくるイエス・キリストを描写するスペクタクル(視覚的)な記述は、どこにもありません。とはいえ、「どのように」についても触れられている箇所がある、ということをご紹介しておきます。

天使が婦人たちに伝えた言葉は「あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり復活なさったのだ」(6節)です。秋川雅史(あきかわまさふみ)さんの「千の風になって」という歌を思い出します。「私のお墓の前で泣かないでください。ここに私はいません。眠ってなんかいません」。イエスさまは「千の風」にはなりませんが、「お墓の中にはいない、眠ってもいない」という点は、あの歌のとおりです。

しかし、この天使の言葉の中に、イエス・キリストの復活が「どのようにして」起こったのかという問いと結び付けることができる点があります。それは「かねて言われていたとおり」という言葉です。見過ごされやすい言葉ですが、重要な意味があります。

イエス・キリストは「わたしは復活する」と弟子たちの前で何度もおっしゃいました。イエス・キリストの復活は「ご自身の言葉通りになった」事実です。これが「どのように」の答えです。弟子たちにとっては、イエスさまがおっしゃったとおりのことが実現したのだから、それで十分なのです。

足立梅田教会は健在です。日本基督教団もまだ死んでいません。ですから「復活」という言葉は当てはまりません。しかし、生命の危機を感じるときは「ガリラヤに行くこと」が大切です。「原点に立ち返ること」です。「あなたのガリラヤ」にイエス・キリストがおられます。

(2025年4月20日 日本基督教団足立梅田教会 イースター礼拝)

2025年4月19日土曜日

生成AIの使い方

生成AIをどう用いるか

【生成AIの使い方】

「生成AIが教会と神学にもたらす影響」についてすでに議論が行われているだろうか。単純に知らないので尋ねてみるが、訪ねるかどうかは保留。説教を書いてくれそうだとか、新しい宗教を生成しそうだとか、誰でも思いつきそうな話はどうでもいい。それよりも私が期待したいのは神学の翻訳だったりする。

あくまで思い付きだが、ルター全集の全訳を生成AIに任せてフリー素材にするなどどうだろう。すでにプロジェクトが立ち上がっているようならご放念いただきたい。オランダの神学も生成AIにどんどん訳してもらおうかなと。だれの収益にもなりそうにないが、神学と教会の謎が解けていく一助にならないか。

裁判や選挙を生成AIで行うと人間の恣意性を排して公平なジャッジをしてくれるのではないかという議論を某YouTube番組で私も観た。教会や神学にも同じ理屈が当てはまるだろう。「教皇選挙」を生成AIに任せる時代が来るかどうかは私には分からない。教会は、時代遅れをあえて楽しんでいるところもある。

ここ数日、ChatGPTやGrokで何十枚もニンジャ1000をゴッホ風に描いてもらっている。何回描き直してもらっても文句は言わない。遠慮する必要はないだろう。お気に入りの構図になったら「ありがとう」とお礼を書けば、うれしそうに感謝の言葉を返してくる。教会と神学の「改革」に大いに役立つ気がする。

2025年4月18日金曜日

「持たざる者」の仲間の私

ChatGPTにゴッホ風に描いてもらった舎人公園(足立)
※本文とは関係ありません

【「持たざる者」の仲間の私】

私が東京神学大学に入学したのは出身教会の牧師のすすめによる。岡山朝日高校の進路指導の教員には「わしには指導できません。勝手にせられえ」とさじを投げられた。受験前にかろうじて取り寄せたモノクロの入学案内の画像の学生たちが皆ジャージを着ていたので「私でも大丈夫そうだ」と安心した程度。

入学の目的は「教会の牧師になるための準備として必要だそうだ」というだけ。講義内容も教員名も全く知らなかったし関心が無かった。出身教会の牧師が私に東神大をすすめたのは、その数年前に北森嘉蔵教授と大木英夫教授が学生募集のために来岡したことを「自分に指導を仰ぎに来た」と思い込んだから。

比較的私は環境順応性が高く、どの学校や団体でもそこにいるかぎり肯定するが、筋が通っていないと感じることに易々と同意するのは苦手。とりあえず受け入れ、実践してみ、袋小路そうなら躊躇なく離れる。「誰も支配しない、誰からも支配されない」デリダ。コツコツ勉強しないのにいばる相手が超苦手。

私は東京神学大学の存在は守られるべきと考えている。国公立校からストレートで入学すれば、最安で「宗教(聖書)教員免許」を取れるから。教員免許制度も徐々に変わっているようだが。私は小中高が国公立で、大学は東神大だけなので最安。その免状を25年ゴミの中に放置していたが、しっかり利用した。

逆に言うと教員免許最安コース以外に守られる理由があの大学にあるかどうかは現時点で不明。高校からストレートで入学した経営陣が何人いるかによるかも。ご自分たちは親だかだれだかに負担してもらって複数のご立派な大学で勉強して来られたお方々に「最安」の価値は分からないのではと思わなくない。

何度となく同じことを繰り返し述べて来たつもりだが、「私の視座は少しも変わっていない」ことを伝えたいときに繰り返す。国公立の小中高を私の目の前で「チーチーパッパ」という言葉でこきおろした近い世代の先輩牧師に出会ったときは「おいおい」と思いながら、ぞっとした。大丈夫かと心配になった。

足立区出身という若きインフルエンサー氏の『持たざる者の逆襲』という本の題名に興味を抱いている。「逆襲」は恐ろしいが、理解はできる。私も「大学院」を出ていると言っても内実は専門学校なので「持たざる者」の仲間だと自覚している。「逆襲」するつもりはないが「反撃」ぐらいはする(同じか)。

2025年4月13日日曜日

十字架への道

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)
*生成AIのChatGPTにゴッホ風に描いてもらいました!

説教「十字架への道」

マタイによる福音書27章32~56節

関口 康

「同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう』」(41-42節)

今日の朗読箇所はローマ軍の兵士たちがキレネ人シモンにイエスの十字架を無理に担がせた場面から始まります(32節)。一説によれば、死刑囚が運ぶのは十字架の横木だけで、縦の木は死刑場にあらかじめ立っていました。しかし、横木だけでもひとりで運ぶには重すぎたので、手伝う人が必要でした。

ゴルゴタとは「頭蓋骨」(新共同訳「されこうべ」)を意味するアラム語に由来します(33節)。過去の死刑囚の頭蓋骨が常に散乱していた、という意味ではありません。頭蓋骨の形をした岩があったと言われています。ゴルゴタの正確な位置についても諸説あります。

主イエスがゴルゴタに着くと、ローマ兵たちがイエスに「苦いものを入れたぶどう酒」をこれも無理に飲ませようとしました(34節)。マルコ福音書(15章23節)は「没薬を混ぜたぶどう酒」としています。「没薬」は鎮痛剤です。死刑の苦しみを緩和するためです。

しかし、イエスさまはその液体を舌で確認したうえで拒否されました。考えられる理由は、完全に意識を保ったまま最期を迎えることを望まれたということです。ゴルゴタまで木材を運ぶのに必要な力とは異なる力です。イエスさまは酩酊や麻酔なしの、その意味で〝完全な〟死の苦しみをお引き受けになりました。

イエスが十字架につけられる場面の描写は、「彼らはイエスを十字架につけると」(35節)だけで終わりです。克明な状況描写や心理描写は記されていません。ローマ兵たちが「くじを引いてその服を分け合った」(35節)のは、イエスが衣服なしに、つまり「裸」で十字架につけられたことを意味します。3月30日の特別礼拝で荻窪教会の小海基牧師がイザヤ書20章1~6節に基づいて「裸の預言者」についてお話しくださったことを思い出します。

マタイが十字架刑そのものについては何も描いていないのは、描くのを躊躇(ためら)っているように見えるほどです。その一方で、マタイが克明に描いているのは、イエスの十字架の周りにいた人々の〝嘲笑〟です。

明らかにマタイは読者に対し、そのことに強い関心を持たせようとしています。苦しむイエスを見ながら笑う人々の顔をよく見てほしいと願っています。「その一人一人の顔は、鏡にうつったあなた自身の顔かもしれません」ということに気づいてもらいたいのです。

十字架刑の開始時刻は「午前九時」とマルコ福音書(15章25節)だけが記しています。イエスの頭の上の罪状書きに「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれていました(37節)。これはイエスが木材を運んでいるときは首にかけられていた札でした。

この罪状書き自体が嘲笑であり、軽蔑でした。衣服をはいで裸にして、木材に釘ではりつけて、罪状書きの札に上から指差させて「これが(フートス・エスティン)、こんなやつが、ユダヤ人の王、だってさ」と笑っています。これはピラトがイエスの尋問を始めたときに最初に言った「お前がユダヤ人の王なのか」(27章11節)と同じ言葉です。からかっているだけです。

2人の「強盗」も十字架につけられます(38節)。「強盗」(レスタイ)と呼ばれていますが、政治犯の可能性があります。「強盗」の一人はイエスさまの右に、もう一人は左に。

先週の説教箇所(マタイによる福音書20章20~28節)で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親がイエスさまに、2人の息子の「一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(20章21節)とお願いしました。右と左は部下です。真ん中がかしらです。「ユダヤ人の王」が真ん中の「強盗の頭」として十字架につけられました。これもひどい嘲笑なのです。

「そこを通りかかった人々」が、頭を(おそらく横に)振りながらイエスさまを罵りました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(40節)。

これは3月9日の礼拝で取り上げた「悪魔の誘惑」が関係します。「神の子ならやってみろ」は、主イエスが荒れ野で誘惑をお受けになったときの悪魔の言葉です(マタイ4章3節、6節)。荒野の誘惑の物語では、「神の子なら」神殿の屋根から「飛び降りたらどうだ」(4章6節)と続きます。今日の箇所では「十字架から降りて来い」と続きます。やれるものならやってみろ、できるわけがないだろう、と嘲笑しているのです。

通行人に続いて、「祭司長、律法学者、長老」がイエスさまを侮辱します。この 3 つの立場の人々がユダヤの最高法院(サンヘドリン)を構成していましたので、「サンヘドリンが侮辱した」と言っても過言ではありません。

この人々が「他人は救ったのに、自分は救えない」(42節)と言いました。興味深いのは、ここに来てサンヘドリンが「イエスは他人を救った」と認めている点です。

彼らにとってはイエスのいやしも奇跡もすべてインチキでなければなりませんでした。しかし、今日の箇所では「他人は救った」と認めています。大きな前進です。そのうえで彼らは、「他人は救えるのに、自分は救えない」という言葉でイエスさまを侮辱しました。

彼らも宗教者です。「宗教者だって人間なのだから、他人に尽くすことばかり考えず、自分のことを優先してもよいのでは」と言いたかったのかもしれません。イエスさまにはその選択肢だけはありませんでした。

イエスさまは、右と左にはりつけにされた「強盗たち」からも罵(ののし)られました。十字架の上でイエスさまは3度嘲笑されました。第1に通行人(39節)、第2にサンヘドリンの議員(41節)、第3に強盗(44節)。どれも「嘲笑」を意味しつつ微妙にニュアンスが違うギリシア語の動詞が3つ使い分けられています。

強盗のひとりがもうひとりの強盗をたしなめたという話は、ルカ福音書(23章39~43節)に描かれていますが、マタイ福音書には描かれていません。

イエスさまが息を引き取られたのは「三時ごろ」(46節)でした。9時から始まったので6時間後です。そのとき「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました(46節)。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味のアラム語です。居合わせた人々の耳に「エリ」が「エリヤ」に聞こえ、預言者エリヤを呼んでいると言い出す人がいました(47節)。

イエスさまは十字架上で絶望されました。しかし、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」は、明らかに旧約聖書の詩編22編の引用です。詩編は歌なので、イエスさまは十字架の上で歌われたと言えなくありません。

詩編22編の最後の言葉は希望のメッセージです。「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来たるべき世に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」(詩編22編30~32節)。

イエスさまが辞世の句として引用した詩編22編は、漠然としたあきらめ(諦念)や避けられないさだめ(運命)の絶望的な受け入れではなく、神との積極的なつながりを語るものでした。

イエスさまはアルコールも鎮痛剤も拒否なさり、完全な意識と痛覚をお持ちになったままで死の瞬間を迎えました。冷たくなったイエスさまの口から「恐れるな」「勇気を出せ」という言葉が語られることはもはやありません。

しかし、百人隊長たちが「本当に、この人は神の子だった」と言いました(54節)。彼らは軍人です。人間の強さに関心があります。その彼らにとってイエスさまの強さは異次元でした。彼らはフィジカル(肉体的・物理的)な強さとは全く異なる「本当の強さ」を、イエス・キリストに見出したのです。

(2025年4月13日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年4月7日月曜日

「日本基督教団信仰告白」についての主題説教(全10回)を行います

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

5月4日(日)から7月6日(日)まで全10回の予定で「日本基督教団信仰告白」についての主題説教(教理説教)を行います。

 

日程

説教題

「日本基督教団信仰告白」該当箇所

1

月 

聖書と教会

我らは信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。

2

11

聖書と生活

されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。

3

18

三位一体の神

主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ。

4

5 月25

キリストによる贖罪

御子は我ら罪人の救ひのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。

5

月 

神の恵み

神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ。

6

月 

聖霊の働き

この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。

7

15

教会の使命

教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。

8

22

礼拝と宣教

教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、

9

29

洗礼と聖餐

バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、

10

月 

信仰・希望・愛

愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。


2025年4月6日日曜日

十字架の意味

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)

説教「十字架の意味」

マタイによる福音書20章20~28節

関口 康

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(26-27節)

ユダヤ人は「十字架刑」を執行しませんでした。ユダヤの極刑は石打ち刑でした。十字架刑を最初に発案した、または少なくとも最初に使用したのはペルシア人でした。ゾロアスター教の神に聖なるものとして献げた大地が被処刑人の体で汚されてはならない、という理由でした。

ギリシアで十字架刑は、国内では行われませんでしたが、アレクサンドロス大王と彼の後継者がカルタゴ人の処刑に使いました。カルタゴからローマ人に伝わり、重犯罪者の処刑方法になりました。ローマの属州では、秩序と安全の維持のため最も強力で最も残酷な手段とされました。

ローマにとっての「不穏な」属国ユダヤでは、十字架刑の例が無数にあります。一度に二千人のユダヤ人を十字架に引き渡した例もあります。西暦70年の「エルサレム攻囲戦」のときには、毎日あらゆる身分のユダヤ人が500人またはそれ以上捕らえられて町の中で十字架につけられたため、最後は十字架に使う木材もそれを立てる場所も足りないほどでした(以上、ヨーゼフ・ブリンツラー著『イエスの裁判』大貫隆、善野碩之助訳、新教出版社、1988年、356~357頁参照)。

十字架刑の主たる目的は「さらす」ことです。日本でも「さらし首」は明治初期まで行われていました。まだ150年前ぐらいですので、決して他人ごとではありません。『写真集「甦る幕末」オランダに保存されていた800枚の写真から』(朝日新聞社、1986年)に当時の写真があります。

十字架の高さは遠くから見えるように人間の身長よりも少し高いか、それ以上でした。死刑囚の首に死刑の理由(causa poenae)を記した看板がかけられました。体を支えるために、途中に取り付けられた木片を足置きか腰掛けにすることもあったようですが、古い報告書にそのような木片についての言及はありません。

十字架刑がローマで初めて廃止されたのは、西暦313年の「ミラノ勅令」によってローマ帝国でキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝(西暦270~337年)の治世になってからでした。

今日の箇所で「ゼベダイの息子たちの母」が2人の息子と一緒に、イエスさまのもとに来て、ひれ伏して、あることをお願いしました。「ゼベダイの息子たち」とは、主イエスの最初の弟子になった4人のうちの「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(マタイ4章21節)の2人です。

彼らの母が言いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)。これは神の国、つまり天国の話です。要するに、「天国でイエスさまがナンバーワンになられたときは、うちの子たちをナンバーツーとナンバースリーにしてください」というお願いです。

イエスさまが「あなたがたは自分が何を願っているか分かっていない」(22節a)と言われていますが、これは決して怒りや非難の言葉ではありません。この後すぐに「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節b)と続きます。イエスさまとしては「わたしが飲もうとしている杯は十字架刑なのですよ?本当に大丈夫ですか?」と心配してくださっているのです。そのイエスさまの質問への答えは、2人とも「できます」。ますます心配になるパターンです。

ゼベダイの子たちはその杯を実際に飲みました。ヤコブは西暦44年ごろ殉教しました。ヨハネについては、殉教したという記録もあれば、エフェソで46歳で自然死したという記録もあります。いずれにしても、イエスさまの質問に対する彼らの答えは決して軽いものでも簡単に言えるものでもありませんでした。彼らは主イエスと共に、苦しみの道を歩む意志を持っていました。

イエスさまはそのことも分かっておられます。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」(23節a)と認めてくださいました。しかし「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」(23節b)ともおっしゃいます。それは神さまが決めてくださることですと、主イエスは最高の権威を天の父である神にお委ねになりました。

すると、他の10人の弟子が腹を立てました。ヤコブとヨハネに嫉妬したのではなく、彼らがイエスさまの弟子の中でナンバーワンとナンバーツーを狙っているということは、つまり我々10人のことを下に見ているからだろうと感じたのだと思います。だから彼らは腹を立てました。狭い仲間内の順位争いです。

そこでイエスさまは、彼らみんなを呼び寄せて説教されました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」(25~26節)。

世界の支配者がいばりちらし、権力を行使する。そういうことをする人がいることを、あなたがたは知っています。あなたがた自身はそうであってはなりません。これは、相手と同じになってはいけないという意味です。

イエスの弟子になりたい人に対しては、世の中の価値観とは正反対の基準が適用されることになります。その基準が「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(27節)です。いちばん上になりたければいちばん下になりなさい、ということです。

イエスさまのこの教えの中で「偉くなりたい」「一番になりたい」という人の思いは、少しも否定されていません。むしろ肯定されています。「仕える者」の意味は「奴隷」です。つまりイエスさまは「いちばんになって偉くなりたい人は、すべての人に奉仕する者になりなさい」と言われています。

「奉仕すること」はギリシア人にとって価値が低いことと考えられていました。ギリシア人の「男らしさ」の基準は「支配すること」と「奉仕しないこと」でした。イエスさまの弟子になれるかどうかの条件は、その正反対です。「奉仕」の心があるかどうかです。

イエスさまご自身も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための、贖いの代価として自分の命を与えるために来てくださいました。イエスさまは、十字架の上でご自身の命を献げることは「奉仕」であると理解しておられ、「人の子」すなわちイエスさまは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(28節)と明言されました。

この「身代金」が誰に支払われるかは分からないように記されています。テロリストに屈するようなことをしてはならないのはごもっともです。しかし、「身代金」の本来の意味は、捕らえられているだれかを解放するために支払われるお金のことです。身代金を支払う者は、その身代金を支払われた人を解放し、新しい人生を始められるようにします。

つまり、主イエスがご自身のことを指して言われた「多くの人の身代金」という表現は、ご自身が意識的に人間を罪と罪悪感から解放するために命をささげようとしたことを示しています。

このように、イエスさまの弟子になることは、世間では当たり前とされていることの逆です。「自動的に」または「生まれつき」または「努力によって」または「反省によって」得られるものではありません。神の恵みによって起こる「回心」を経ることが必要です。

わたしたちに求められているのは「奉仕」の心です。イエスさまと同じように、十字架の上で命を献げることまでは求められていません。神を愛し、隣人を愛し、共に生きるすべての人々に「仕える」心をもって生きるとき、主イエス・キリストはわたしたちと共におられます。

(2025年4月6日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)

2025年4月3日木曜日

ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係

ゴッホの自画像(1887年)(パブリックドメイン)


【ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係】

長年尊敬する先輩牧師から「ゴッホの時代のオランダ改革派の芸術に対する、絵画に対する基本的な姿勢は如何なるものか。彼の作品で訴えたかった点は、その根底にオランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないかと思われる」というご質問をいただきましたので、以下のようにお答えしました(ブログ公開に際し、趣旨が変わらない範囲内で修正)。

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先生、ご質問ありがとうございます。

1853年3月30日生まれのオランダの画家、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(ホッホ)(Vincent Willem van Gogh [1853-1890])の時代、すなわち19世紀中盤のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、以下「NHK」)の「芸術観」についての情報は、現時点の私は持っていません。しかし、当時の「NHK」の神学的背景ならば少し分かるかもしれません。

ゴッホの祖父は1789年生まれ。ゴッホの父は1822年生まれ。どちらもNHKの牧師でした。

(1)ゴッホの祖父

ゴッホの祖父(1789年2月11日生まれ)は、ライデン大学神学部で1805年から神学を学び、1811年博士号取得。1822年から引退する1853年までブレダ教会牧師。1825年から1866年まで、北ブラバント州のプロテスタント教会の地位向上をはかる互助会の書記と会計でした。ブレダ教会は大規模でした。

北ブラバント州(Noord-Brabant)はオランダの南端、ベルギーとの国境に位置する地域です。しかし、それは今日的な感覚です。ゴッホの祖父の時代(1789~1874年)、オランダとベルギーは「オーストラリア領ネーデルラント」(1790~1815年)や「ネーデルラント連合王国」(1815年~1830年)という仕方で、ひとつの国でした。

武力による領土争いの激動の中、ゴッホの祖父は、カトリックが強い地域の中でオランダ改革派教会(NHK)の地位を守るために尽力しました。

ちなみに、19世紀中盤のライデン大学神学部教授として象徴的な存在はヤン・ヘンドリク・スホルテン(Jan Hendrik Scholten)(1811年生まれ)です。ゴッホの祖父が直接学んだ可能性はありませんが、スホルテンはアブラハム・カイパー(1837年生まれ)のライデン大学時代の教師です。スホルテンはイエス・キリストの復活を否定する神学者でした。

アブラハム・カイパーは学生時代はスホルテンの教えに疑問を抱きませんでしたが、のちに見解が変わり、NHKを1886年に離脱して新しいオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands)を創立しました。カイパーに新教団設立を決心させるほどに、スホルテンの神学はリベラルでラディカルでした。

(2)ゴッホの父

ゴッホの父(1822年2月8日生まれ)は、祖父の長男として生まれ、自らも牧師になり、1849年から1878年でズンデルト(Zundert)の教会、また1878年から1885年の没年までエッテン(Etten)の教会、そしてヌエネン(Nuenen)の教会も兼牧しました。

ズンデルト、エッテン、ヌエネンという3つの教会も北ブラバント州にあり、現在のベルギーとの国境地域です。ズンデルトはカトリック優位の町でしたが、ゴッホの父は「改革派」の厳格な立場をとらず、カトリックの貧困家庭を助けていたので人気を博しました。見た目はハンサムな牧師だったが、説教者としての才能は無かったと書いている記事があります。

このあたりで想像できるのは、ゴッホの父は「オランダ改革派教会(NHK)」の牧師でしたが世襲の要素があり、北ブラバント州というベルギーとの国境付近のカトリックが強い地域で「調停的な」立場をとり、なんとかうまくやろうとした人ではないかということです。

この牧師を父に持つ画家ゴッホ(1853~1890年)がズンデルト教会の牧師館で過ごしたのは、1853年から彼がゼーフェンベルゲン(Zevenbergen)の寄宿学校に入寮する1864年までの11年間。エッテン教会の牧師館やヌエネン教会の牧師館でも過ごしました。

ゴッホの「ヌエネン教会を出る人々」(Het uitgaan van de hervormde kerk te Nuenen)という絵は有名のようですね。

(3)画家ゴッホ自身

画家ゴッホの経歴は以下の通り。

1853年(0歳)

 ズンデルト改革派教会(Zundert Hervormde Kerk)の牧師の長男として生まれる

1864年(11歳)

 ゼーフェンベルゲン寄宿学校入学

1866年(13歳)

 ティルブルフ高等学校入学

1869年(16歳)

 国際美術商「グーピル&シー」ハーグ支店就職

1873年(20歳)

 「グーピル&シー」パリ本社やロンドン支店で勤務

1876年(23歳)

 会社を解雇される。ラムズゲート(Ramsgate)で教員をする

 アイルワース(ロンドン)のメソジスト教会の補助説教者になる

 牧師になる志を与えられる

 ターナム・グリーン(ロンドン)の組合教会で日曜学校教師になる

1877年(24歳)

 1~5月、オランダに戻り、ドルトレヒトの書店で働く

 同年5月から翌1878年7月まで、アムステルダムの叔父の家で牧師国家試験の勉強

 ラテン語とギリシア語に興味がなく、また神学理論の学びに不満で、受験を断念

 ブリュッセル(ベルギー)近郊のプロテスタント伝道訓練校へ入校

1878年(25歳)

 12月からボリナージュ(ベルギー)に派遣

1879年(26歳)

 2月から炭鉱労働者の町プチワム(Petit-Wasmes)で信徒説教者

 4月炭鉱爆発事故の犠牲者を看護するが、彼らにとって「部外者」で「異質」と自覚

 プチワムのプロテスタント仲間から「過度に熱狂的で付き合いづらい」と拒絶される

 孤独で惨めな時期に、その中から抜け出したいという思いで次のような本を読む

  チャールズ・ディケンズ『ハード・タイムズ』(1854年)フランス語版(1869年)

  トーマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスティ』フランス語版

  ヴィクトール・ユーゴー『シェークスピア』フランス語版(1869年)

  ジョン・バニヤン『天路歴程』英語版(1852年)

  ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』英語版(1852年)

1880年(27歳)

 画家になることを決意し、ブリュッセルのアトリエに移る

 11月に王立美術アカデミーに入学。12月の試験で最下位。1881年2月の試験は未受験

1881年(28歳)

 エッテン教会の両親のもとに戻る

 その後、ハーグ(Den Haag)やヌエネン(Nuenen)〔牧師館?〕でひとり暮らし

 モデル女性の妊娠や売春などの証拠画があると議論がある時期

1885年(32歳)

 父の死去に伴い、ヌエネンから退去。アントワープ(ベルギー)に移る

1886年(33歳)

 1月に名門のアントワープ美術アカデミーに入学するが、2か月で退学

 3月からパリ(フランス)で、同じ画家の弟テオと同居を始める

1889年(36歳)

 弟テオがアムステルダムで結婚。兄はアルピーユ山麓(フランス)の施設に自主入院

1890年(37歳)

 主治医がいるパリ近郊のオーヴェル(Auvers)移住

 5月20日 ラヴー旅館(Auberge Ravoux)の屋根裏にアトリエ設置

 7月27日 銃で自分の胸を撃つ。2日後、死亡

1891年(翌年)

 1月25日 弟テオがユトレヒトで死亡。享年33歳

画家ゴッホ自身の経歴や、彼の祖父や父の経歴から私が受ける総合的な第一印象としては、先生からの「オランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないか」という問いかけには首をかしげるところのほうが多いです。そのように感じる理由は次のようなことです。

①第一の理由は、そもそも「祖父→父→ゴッホ本人」が居住していた「北ブラバント州」が、改革派(NHK)とカトリック(RK)の混合地域だったことです。祖父は「改革派(NHK)の地位向上」を訴える牧師代表でしたが、父は「カトリック(RK)との共存」の道を選んだので、画家ゴッホがあえて「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」を持つ理由があるのだろうかというあたりに疑問を感じます。

②第二の理由は、23歳のゴッホがロンドンのメソジスト教会や組合教会を渡り歩いていたり、24歳でブリュッセルの伝道訓練校に入校し、2年足らずの訓練で「炭鉱労働者伝道」のような難しい課題があるに決まっている場所にいきなり派遣されて、当然のようにうまく行かなくて挫折したりしていることのほうが、私にとってはよほど重大に思えることです。

もしかしたらロンドンのメソジスト教会や組合教会で「オランダ改革派教会(NHK)」の悪口をたくさん聞かされたかもしれません。それらの教会の人たちがベルギー信条やドルト規準、ウェストミンスター信仰基準などと真逆の考え方をしていた可能性は確かにあります。

アウェイで不安定なゴッホに「ウェスレー」と「メソジスト教会」と「アルミニウス主義」と「カルヴァン主義とオランダ改革派教会に反対すべき理由」をしっかり教え込んだ人たちがいたかもしれません。

19世紀のオランダですからね。今のわたしたちのコンテクストと大差ありません。ゴッホの時代に「カール・バルト」は登場しませんが、日本伝道はすでに開始され、「日本基督公会→日本基督一致教会」まで来ていました。日本基督教会創立の「1890年」がゴッホの没年です。このころの植村正久先生は「リバイバリズム」の内実を熟知しておられたと思います。

炭鉱伝道挫折後のゴッホが読んだ『イミタチオ・クリスティ』や『天路歴程』や『アンクル・トムの小屋』などは、戦後の日本で『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版などを購読していた世代の人たちがよく読んでいました。私の両親(1930年代生まれ)も、神学書などは1冊も持っていませんでしたが、ゴッホが読んだこれらの本は若い頃に教会ですすめられて読んだようです。

そういうわけで、私の第一印象としては、ゴッホがロンドンやベルギーでその影響を受けた可能性がある「リバイバリズム」との関係はよく考えなくてはならないと思いますが、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」がダイレクトに結びつくかどうかは不明です。

③周囲の人たちとうまく行かない画家ゴッホに、画家になった弟テオ以外、両親を含む家族は距離を置いたり冷たくしたりはしたので、その仕打ちに対する反発心が彼の中にあったのではないかと考えることは私にもできます。しかし、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」は区別されるべきです。

2025年4月2日水曜日

ファン・ルーラーは「田舎伝道」を志した

ファン・ルーラー牧師の初任地「クバート教会」訪問(2008年12月8日)


【ファン・ルーラーは「田舎伝道」を志した】

昨年度から参加している有志神学書読書会の4月例会でファン・ルーラーを取り上げていただけることになった。うれしい。「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差異」を過去の『季刊教会』に連載された牧田吉和訳で読む。ボーレン『説教学』やイミンク『信仰論』に大きく取り上げられた著名な論文。

事前に読んでいただく資料として、私が10年以上前に書いた雑誌論文のPDFをメンバーに送るなど準備を進めている。資料に基づいて私がまとめた彼の略伝に、ファン・ルーラーの牧師としての最初の任地「クバート教会」について「彼自身が田舎伝道を志して赴任した」と書いた自分の文章に感じ入っている。

ファン・ルーラーと我々は時代も状況も違うので単純な比較はできないが、牧師になるためにギムナジウム(今の日本の普通科高校相当)からストレートで神学部に入学し、卒業後の初任地として「田舎伝道」を志す若者が、オランダにあるいは日本に今どれくらいいるかについて私は興味を持たざるをえない。

ファン・ルーラーの生誕地は、オランダ王室の離宮ヘット・ロー宮殿に近いアペルドールン(Apeldoorn)。父はパン配達職人だったことが伝記文書に記されている。彼が自ら志した「田舎伝道」に世襲の要素は無い。あくまで私の印象にすぎないが、この進路選択は彼の神学的な志向と関係ありそうに思える。

なぜそう言えるかを考えるときもヘンドリク・クレーマー(1888年生まれ)の著書『信徒の神学』(原著Theology of laity, 1958、日本語版あり)が思い浮かぶ。教職中心の教会に対する批判の書。教会の中央集権への批判も含む。信徒宣教師クレーマーはジャワ島(当時オランダ領東インド)へ宣教に行く。

クレーマーより20歳若い牧師ファン・ルーラー(1908年生まれ)は、ジャワ島には行かなかったが、神学部卒業後の初任地として「田舎伝道」を志す。クレーマーによれば当時のオランダの教会に中央集権構造があったらしいわけだから、その逆方向へと進むことがファン・ルーラーの志ではなかっただろうか。

単純な比較はできないが、私も高校からストレートの神学部入学者。「世間知らず」とファン・ルーラーの時代にも言われたそうだ。言わせておけばいい。始めるのは早ければ早いほどよいとも言う。ドラゴンクエストの「僧侶」と同じ。その職業の経験値は他の職業とは無関係。レベル上げには時間がかかる。

とにかく私はうれしい。ファン・ルーラーの存在と神学に関心を寄せてくださる方々が増えることを、これまでも、これからも願っている。

2025年4月1日火曜日

キリスト教とヒューマニズムの関係

『教会とヒューマニズム』(1956年)と「実用オランダ語入門』(1994年)

冷たい雨のエイプリルフールに古書が2冊届き、その温もりで暖を取る。

(1)ヘンドリク・クレーマー『教会とヒューマニズム』(オランダ語版、1956年)

(2)戸部実之『実用オランダ語入門』泰流社、1994年)


Ⅰ クレーマー『教会とヒューマニズム』(1956年)

クレーマーの『教会とヒューマニズム』の全文をChat GPTが瞬時に要約してくれた。かなりいい線だと思う。積ん読よりはるかにまし。ありがとう!

(以下、ChatGPT要約)

本書はキリスト教会とヒューマニズム(人文主義)との歴史的関係性を探求しています。キリスト教会はギリシャ・ローマの古代世界で誕生し、そこでのヒューマニズム的な思想と相互作用を持ちながら発展してきました。​初期の教父たちは、信仰と理性の関係性についてさまざまな立場を取り、例えばアレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスは、ギリシャ哲学をキリスト教的思索に取り入れる試みを行いました。​

中世においては、トマス・アクィナスが『神学大全』の中で、キリスト教の啓示と古代哲学を統合し、「恩寵は自然を廃止するのではなく、完成させる」という考えを示しました。​しかし、宗教改革期には、ルターが福音の純粋性を強調し、キリスト教とヒューマニズムの間に再び距離が生じました。​現代においても、カール・バルトなどの神学者が、キリスト教とヒューマニズムの統合を根本的に拒否する立場を示しています。​

本書は、ヨーロッパ文化の形成において、キリスト教とヒューマニズムが相互に影響を与えながら発展してきたことを強調しています。​また、現代における技術や科学の進展、全体主義的な世界観の台頭により、これらの伝統的な精神的価値が挑戦を受けていることを指摘しています。​さらに、アジアの大宗教との対話を通じて、新たなヒューマニズムの形態が現れる可能性についても言及しています。​

結論として、本書は、キリスト教とヒューマニズムの関係性を再評価し、現代社会における精神的再生の可能性を探求する必要性を訴えています。​先入観や偏見を排除し、歴史的背景と現状を正直に見つめることで、真実と現実に基づいた結論に到達できると述べています。


Ⅱ ファン・ルーラー『政府とヒューマニズム』(1954年)

クレーマーの『教会とヒューマニズム(Kerk en humanisme)』(1956年)出版の前年、ファン・ルーラーが『政府とヒューマニズム(Overheid en humanisme)』(1955年)を出版。内容はオランダ政府が「ヒューマニスト協会」(Het Humanistisch Verbond)の要請にどのように対応すべきかを検討する論考。

ファン・ルーラー『政府とヒューマニズム』(1955年)

具体的には、刑務所や軍隊等での精神的ケアに同協会が公式に関与することの是非が議論されている。​ファン・ルーラーは、この問題が全く新しい現象であり象徴的な意味を持つと指摘。​ヒューマニスト協会は人間の存在全体に焦点を当てる運動であり、世界と人生の包括的な見方を提供していると評価。

他方、ヒューマニズムが独立した全体主義的ビジョンとして現れ、国家組織に影響を与える可能性もあるという。​​ファン・ルーラーは、国家と教会の関係、そしてヒューマニズムの役割について、憲法的な視点から再評価する必要性を強調している。

第4章が「キリスト教とヒューマニズムの関係」について。ファン・ルーラーによると、ヒューマニズムは精神的価値を重視し、時にキリスト教と共鳴するが、必ずしもキリスト教に至るとは限らない。キリスト教徒とヒューマニストは共通の目的で協力できるが、本質的には異なる基盤を持つ。

歴史的に見ればヒューマニズムの起源はキリスト教に根ざしていると言いうるが、現代ではそれが忘れられ、独自の哲学として発展。現代のヒューマニズムは包括的性格を持つゆえにキリスト教との関係が相互排他的になることが予測される。しかし両者が分断されていることは西洋文化にとって危機的である。

ファン・ルーラーはボンヘッファーの獄中書簡の視点を導入。極限状況での叫びであるゆえ世界観の土台ではないが、キリスト教とヒューマニズムの関係を考える一つの視点となるという。ファン・ルーラーは、キリスト教とヒューマニズムの分裂は回避されるべきで両者の関係を再考する必要があると結論。


Ⅲ クレーマーとボンヘッファーの神学の関係

「クレーマー」+「ヒューマニズム」で探したら、クレーマーとボンヘッファーの神学の関係が詳述された素晴らしい論文に出会えた。「バルト→ボンヘッファー→クレーマー→ファン・ルーラー」の線が見えて来た。

佐藤全弘「成人せる世界 : ボンヘッファーとわれわれ(2)」

大阪市立大学文学部『人文研究』19巻1号(1967年)、37~69頁。

https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp 

(以下、佐藤全弘氏の同上論文の62~63頁の抜粋。まだ続きがあるので、未読の方はぜひリンクをクリックしてご一読を)

この外にもボンヘッファーに注目している人は数多いが,最後にオランダの平信徒神学者 Hendrik Kraemer をあげたい。クレーマーはボンヘッファーも関与していた世界教会(エキュメニカル)運動の指導者の一人であり、戦後日本を訪れたこともあり、その後著した大著 World Cultures and World Religions, 1960.の日本についての一章は、短いながら日本精神の特質を鋭くとらえている。いまここにとりあげるのは、The Communication of the Christian Faith, 1956である。この本は、「人間と人間との間の伝達」と、「神から人間への伝達」という、対話・伝達の根本的に異る二つの種類についての深い洞察を中軸として、現代世界における対話喪失の問題伝達回復の問題を論じたもので、読者の思索反省を迫ってやまない。

人間と言葉と宗教とは時を同じうしてつくられたものである。個人として唖〔ママ〕の人もあり無宗教の人はあっても、全く言語をもたぬ社会、宗教を欠いた社会はない。両者は人間に本質的なものである。ところが現今ではこの言葉が破壊され、伝達が失われている。それはボンヘッファーもいう世俗化の果てにみられる現象である。ことにクレーマーは神から人への伝達を担う教会の問題に注意をむける。

世俗化を教会外のことと考え、教会とキリスト者とはそれに縁がないように思っては誤りである。 「実は、教会も、この世同様(仕方はちがうけれども)いたるところで徹底的に世俗化している、いな教会の世俗化は、この世の世俗化より一層由々しいものでさえある。すべてが「神聖なる」 「聖式の」マントをまとっていて、たいがいその世俗化が目に見えないからである。」クレーマーはしかし世俗化を単に福音の敵とだけみないで、教会とこの世に共通の現実であり、そこには最大の危険とともに最大の可能性もが含まれていると考える。これもボンヘッファーの成人せる世界に対する考えと同じである。つまり世俗化には積極的側面,本当の利点があるとみるのである。ではそれは何か、 「聖書の福音の光に照らしてみた場合、世俗化はたしかに精神がとほうもなく痩せ細る過程、人生の規範の基礎となるものに対する破局的な認識混乱・盲目 を意味する。しかしキリスト者の間ではとくに、世俗化はまた浄化作用をも有する。すなわちもしわれわれが賢明にもそれをみとめ確と把むならば,われわれ を徹底した現実直視へ導かずにはおかぬものであるというべきである。」世界の世俗化によって教会の世俗化はあらわとなり、教会は世俗世界の方法を用いその本来の職務から外れたのである。世俗化の浄化作用を言いかえれば、「世俗化の全過程は、神が教会をその真の性質と本来の職務へ召し戻し給い、キリストが生の一切の領域に王たるべきことを断乎として宣べるという教会の真の主張を、よりよく弁え知らしめ給うところの,皮肉なる仕方の一つである。」神は世俗化を通して教会にいやでも伝達の崩壊を知らしめ給うのであるから,教会はこれに達巡 ・不平 ・防衛的態度をとってはならない。しかも今なお教会は、自らを省みよ、自らを正せ、というこの神の声に十分耳を傾けていない。教会には既に確立した組織体があって、この事態を真剣に扱う勇気と信仰を奪っているのである。 さらにまた、世俗化のおかげで、教会と世界との境界を、伝統が確固としていた時よりはっきり見ることができる。真の教会はいつも少数であって、教会は成員の増減によって盛衰しないことが判るが、これも浄化の一面である。

教会の世俗化の一面は福音の世俗的解釈にもみられる,宗教が倫理化されるのもその一つ、キリスト教信仰が聖書の文言の不可謬性と共に立ちもし倒れもするように考えるのもそれである。非神話化というおぞましい方法を用いて、福音に制限を加えることに対するボンヘッファーの批評に、クレーマーも満腔の賛意を表するのである。

世俗化の積極面から目を離さぬ限り、この世は教会の解放者であるといえ、近代の聖書研究にも神の器としての意味がある。「教会にはこの大衝撃が必要であった。というのは、教会は、聖書はイエス・キリストが真理であることを教えるのだということを忘れ、聖書が真理だという誤った基礎に日を送っていたからである。」しかしクレーマーは決して基本主義(ファンダメンタリズム)ではない、これは神がわれわれをその摂理の下なるこの世俗的近代世界の中に置き給うたことを否むからである。

以上の世俗化に鑑みるとき、今日キリスト教国と呼ばれる国も、実はキリストを棄てた異教の虚無的世界であることが判る。クレーマーの現代世界の精神的情況についての洞識は、前稿(1)でのべたボンヘッファーのそれと根本的に同じで、誤るところがない。(引用終わり)


私個人の感覚に最もなじむのは「世俗化」を肯定的な意味で言うこと。「世俗化」が悪いと言われても困る。否定されると生きる場所が無くなる。それにしても寒い一日だった。冷たい雨がやんだら、春のうららの隅田川までニンジャ1000でまた行きたい。いま願っていることはそれ以上でもそれ以下でもない。