2025年4月3日木曜日

ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係

ゴッホの自画像(1887年)(パブリックドメイン)


【ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係】

長年尊敬する先輩牧師から「ゴッホの時代のオランダ改革派の芸術に対する、絵画に対する基本的な姿勢は如何なるものか。彼の作品で訴えたかった点は、その根底にオランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないかと思われる」というご質問をいただきましたので、以下のようにお答えしました(ブログ公開に際し、趣旨が変わらない範囲内で修正)。

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先生、ご質問ありがとうございます。

1853年3月30日生まれのオランダの画家、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(ホッホ)(Vincent Willem van Gogh [1853-1890])の時代、すなわち19世紀中盤のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、以下「NHK」)の「芸術観」についての情報は、現時点の私は持っていません。しかし、当時の「NHK」の神学的背景ならば少し分かるかもしれません。

ゴッホの祖父は1789年生まれ。ゴッホの父は1822年生まれ。どちらもNHKの牧師でした。

(1)ゴッホの祖父

ゴッホの祖父(1789年2月11日生まれ)は、ライデン大学神学部で1805年から神学を学び、1811年博士号取得。1822年から引退する1853年までブレダ教会牧師。1825年から1866年まで、北ブラバント州のプロテスタント教会の地位向上をはかる互助会の書記と会計でした。ブレダ教会は大規模でした。

北ブラバント州(Noord-Brabant)はオランダの南端、ベルギーとの国境に位置する地域です。しかし、それは今日的な感覚です。ゴッホの祖父の時代(1789~1874年)、オランダとベルギーは「オーストラリア領ネーデルラント」(1790~1815年)や「ネーデルラント連合王国」(1815年~1830年)という仕方で、ひとつの国でした。

武力による領土争いの激動の中、ゴッホの祖父は、カトリックが強い地域の中でオランダ改革派教会(NHK)の地位を守るために尽力しました。

ちなみに、19世紀中盤のライデン大学神学部教授として象徴的な存在はヤン・ヘンドリク・スホルテン(Jan Hendrik Scholten)(1811年生まれ)です。ゴッホの祖父が直接学んだ可能性はありませんが、スホルテンはアブラハム・カイパー(1837年生まれ)のライデン大学時代の教師です。スホルテンはイエス・キリストの復活を否定する神学者でした。

アブラハム・カイパーは学生時代はスホルテンの教えに疑問を抱きませんでしたが、のちに見解が変わり、NHKを1886年に離脱して新しいオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands)を創立しました。カイパーに新教団設立を決心させるほどに、スホルテンの神学はリベラルでラディカルでした。

(2)ゴッホの父

ゴッホの父(1822年2月8日生まれ)は、祖父の長男として生まれ、自らも牧師になり、1849年から1878年でズンデルト(Zundert)の教会、また1878年から1885年の没年までエッテン(Etten)の教会、そしてヌエネン(Nuenen)の教会も兼牧しました。

ズンデルト、エッテン、ヌエネンという3つの教会も北ブラバント州にあり、現在のベルギーとの国境地域です。ズンデルトはカトリック優位の町でしたが、ゴッホの父は「改革派」の厳格な立場をとらず、カトリックの貧困家庭を助けていたので人気を博しました。見た目はハンサムな牧師だったが、説教者としての才能は無かったと書いている記事があります。

このあたりで想像できるのは、ゴッホの父は「オランダ改革派教会(NHK)」の牧師でしたが世襲の要素があり、北ブラバント州というベルギーとの国境付近のカトリックが強い地域で「調停的な」立場をとり、なんとかうまくやろうとした人ではないかということです。

この牧師を父に持つ画家ゴッホ(1853~1890年)がズンデルト教会の牧師館で過ごしたのは、1853年から彼がゼーフェンベルゲン(Zevenbergen)の寄宿学校に入寮する1864年までの11年間。エッテン教会の牧師館やヌエネン教会の牧師館でも過ごしました。

ゴッホの「ヌエネン教会を出る人々」(Het uitgaan van de hervormde kerk te Nuenen)という絵は有名のようですね。

(3)画家ゴッホ自身

画家ゴッホの経歴は以下の通り。

1853年(0歳)

 ズンデルト改革派教会(Zundert Hervormde Kerk)の牧師の長男として生まれる

1864年(11歳)

 ゼーフェンベルゲン寄宿学校入学

1866年(13歳)

 ティルブルフ高等学校入学

1869年(16歳)

 国際美術商「グーピル&シー」ハーグ支店就職

1873年(20歳)

 「グーピル&シー」パリ本社やロンドン支店で勤務

1876年(23歳)

 会社を解雇される。ラムズゲート(Ramsgate)で教員をする

 アイルワース(ロンドン)のメソジスト教会の補助説教者になる

 牧師になる志を与えられる

 ターナム・グリーン(ロンドン)の組合教会で日曜学校教師になる

1877年(24歳)

 1~5月、オランダに戻り、ドルトレヒトの書店で働く

 同年5月から翌1878年7月まで、アムステルダムの叔父の家で牧師国家試験の勉強

 ラテン語とギリシア語に興味がなく、また神学理論の学びに不満で、受験を断念

 ブリュッセル(ベルギー)近郊のプロテスタント伝道訓練校へ入校

1878年(25歳)

 12月からボリナージュ(ベルギー)に派遣

1879年(26歳)

 2月から炭鉱労働者の町プチワム(Petit-Wasmes)で信徒説教者

 4月炭鉱爆発事故の犠牲者を看護するが、彼らにとって「部外者」で「異質」と自覚

 プチワムのプロテスタント仲間から「過度に熱狂的で付き合いづらい」と拒絶される

 孤独で惨めな時期に、その中から抜け出したいという思いで次のような本を読む

  チャールズ・ディケンズ『ハード・タイムズ』(1854年)フランス語版(1869年)

  トーマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスティ』フランス語版

  ヴィクトール・ユーゴー『シェークスピア』フランス語版(1869年)

  ジョン・バニヤン『天路歴程』英語版(1852年)

  ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』英語版(1852年)

1880年(27歳)

 画家になることを決意し、ブリュッセルのアトリエに移る

 11月に王立美術アカデミーに入学。12月の試験で最下位。1881年2月の試験は未受験

1881年(28歳)

 エッテン教会の両親のもとに戻る

 その後、ハーグ(Den Haag)やヌエネン(Nuenen)〔牧師館?〕でひとり暮らし

 モデル女性の妊娠や売春などの証拠画があると議論がある時期

1885年(32歳)

 父の死去に伴い、ヌエネンから退去。アントワープ(ベルギー)に移る

1886年(33歳)

 1月に名門のアントワープ美術アカデミーに入学するが、2か月で退学

 3月からパリ(フランス)で、同じ画家の弟テオと同居を始める

1889年(36歳)

 弟テオがアムステルダムで結婚。兄はアルピーユ山麓(フランス)の施設に自主入院

1890年(37歳)

 主治医がいるパリ近郊のオーヴェル(Auvers)移住

 5月20日 ラヴー旅館(Auberge Ravoux)の屋根裏にアトリエ設置

 7月27日 銃で自分の胸を撃つ。2日後、死亡

1891年(翌年)

 1月25日 弟テオがユトレヒトで死亡。享年33歳

画家ゴッホ自身の経歴や、彼の祖父や父の経歴から私が受ける総合的な第一印象としては、先生からの「オランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないか」という問いかけには首をかしげるところのほうが多いです。そのように感じる理由は次のようなことです。

①第一の理由は、そもそも「祖父→父→ゴッホ本人」が居住していた「北ブラバント州」が、改革派(NHK)とカトリック(RK)の混合地域だったことです。祖父は「改革派(NHK)の地位向上」を訴える牧師代表でしたが、父は「カトリック(RK)との共存」の道を選んだので、画家ゴッホがあえて「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」を持つ理由があるのだろうかというあたりに疑問を感じます。

②第二の理由は、23歳のゴッホがロンドンのメソジスト教会や組合教会を渡り歩いていたり、24歳でブリュッセルの伝道訓練校に入校し、2年足らずの訓練で「炭鉱労働者伝道」のような難しい課題があるに決まっている場所にいきなり派遣されて、当然のようにうまく行かなくて挫折したりしていることのほうが、私にとってはよほど重大に思えることです。

もしかしたらロンドンのメソジスト教会や組合教会で「オランダ改革派教会(NHK)」の悪口をたくさん聞かされたかもしれません。それらの教会の人たちがベルギー信条やドルト規準、ウェストミンスター信仰基準などと真逆の考え方をしていた可能性は確かにあります。

アウェイで不安定なゴッホに「ウェスレー」と「メソジスト教会」と「アルミニウス主義」と「カルヴァン主義とオランダ改革派教会に反対すべき理由」をしっかり教え込んだ人たちがいたかもしれません。

19世紀のオランダですからね。今のわたしたちのコンテクストと大差ありません。ゴッホの時代に「カール・バルト」は登場しませんが、日本伝道はすでに開始され、「日本基督公会→日本基督一致教会」まで来ていました。日本基督教会創立の「1890年」がゴッホの没年です。このころの植村正久先生は「リバイバリズム」の内実を熟知しておられたと思います。

炭鉱伝道挫折後のゴッホが読んだ『イミタチオ・クリスティ』や『天路歴程』や『アンクル・トムの小屋』などは、戦後の日本で『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版などを購読していた世代の人たちがよく読んでいました。私の両親(1930年代生まれ)も、神学書などは1冊も持っていませんでしたが、ゴッホが読んだこれらの本は若い頃に教会ですすめられて読んだようです。

そういうわけで、私の第一印象としては、ゴッホがロンドンやベルギーでその影響を受けた可能性がある「リバイバリズム」との関係はよく考えなくてはならないと思いますが、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」がダイレクトに結びつくかどうかは不明です。

③周囲の人たちとうまく行かない画家ゴッホに、画家になった弟テオ以外、両親を含む家族は距離を置いたり冷たくしたりはしたので、その仕打ちに対する反発心が彼の中にあったのではないかと考えることは私にもできます。しかし、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」は区別されるべきです。

2025年4月2日水曜日

ファン・ルーラーは「田舎伝道」を志した

ファン・ルーラー牧師の初任地「クバート教会」訪問(2008年12月8日)


【ファン・ルーラーは「田舎伝道」を志した】

昨年度から参加している有志神学書読書会の4月例会でファン・ルーラーを取り上げていただけることになった。うれしい。「キリスト論的視点と聖霊論的視点の構造的差異」を過去の『季刊教会』に連載された牧田吉和訳で読む。ボーレン『説教学』やイミンク『信仰論』に大きく取り上げられた著名な論文。

事前に読んでいただく資料として、私が10年以上前に書いた雑誌論文のPDFをメンバーに送るなど準備を進めている。資料に基づいて私がまとめた彼の略伝に、ファン・ルーラーの牧師としての最初の任地「クバート教会」について「彼自身が田舎伝道を志して赴任した」と書いた自分の文章に感じ入っている。

ファン・ルーラーと我々は時代も状況も違うので単純な比較はできないが、牧師になるためにギムナジウム(今の日本の普通科高校相当)からストレートで神学部に入学し、卒業後の初任地として「田舎伝道」を志す若者が、オランダにあるいは日本に今どれくらいいるかについて私は興味を持たざるをえない。

ファン・ルーラーの生誕地は、オランダ王室の離宮ヘット・ロー宮殿に近いアペルドールン(Apeldoorn)。父はパン配達職人だったことが伝記文書に記されている。彼が自ら志した「田舎伝道」に世襲の要素は無い。あくまで私の印象にすぎないが、この進路選択は彼の神学的な志向と関係ありそうに思える。

なぜそう言えるかを考えるときもヘンドリク・クレーマー(1888年生まれ)の著書『信徒の神学』(原著Theology of laity, 1958、日本語版あり)が思い浮かぶ。教職中心の教会に対する批判の書。教会の中央集権への批判も含む。信徒宣教師クレーマーはジャワ島(当時オランダ領東インド)へ宣教に行く。

クレーマーより20歳若い牧師ファン・ルーラー(1908年生まれ)は、ジャワ島には行かなかったが、神学部卒業後の初任地として「田舎伝道」を志す。クレーマーによれば当時のオランダの教会に中央集権構造があったらしいわけだから、その逆方向へと進むことがファン・ルーラーの志ではなかっただろうか。

単純な比較はできないが、私も高校からストレートの神学部入学者。「世間知らず」とファン・ルーラーの時代にも言われたそうだ。言わせておけばいい。始めるのは早ければ早いほどよいとも言う。ドラゴンクエストの「僧侶」と同じ。その職業の経験値は他の職業とは無関係。レベル上げには時間がかかる。

とにかく私はうれしい。ファン・ルーラーの存在と神学に関心を寄せてくださる方々が増えることを、これまでも、これからも願っている。

2025年4月1日火曜日

キリスト教とヒューマニズムの関係

『教会とヒューマニズム』(1956年)と「実用オランダ語入門』(1994年)

冷たい雨のエイプリルフールに古書が2冊届き、その温もりで暖を取る。

(1)ヘンドリク・クレーマー『教会とヒューマニズム』(オランダ語版、1956年)

(2)戸部実之『実用オランダ語入門』泰流社、1994年)


Ⅰ クレーマー『教会とヒューマニズム』(1956年)

クレーマーの『教会とヒューマニズム』の全文をChat GPTが瞬時に要約してくれた。かなりいい線だと思う。積ん読よりはるかにまし。ありがとう!

(以下、ChatGPT要約)

本書はキリスト教会とヒューマニズム(人文主義)との歴史的関係性を探求しています。キリスト教会はギリシャ・ローマの古代世界で誕生し、そこでのヒューマニズム的な思想と相互作用を持ちながら発展してきました。​初期の教父たちは、信仰と理性の関係性についてさまざまな立場を取り、例えばアレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスは、ギリシャ哲学をキリスト教的思索に取り入れる試みを行いました。​

中世においては、トマス・アクィナスが『神学大全』の中で、キリスト教の啓示と古代哲学を統合し、「恩寵は自然を廃止するのではなく、完成させる」という考えを示しました。​しかし、宗教改革期には、ルターが福音の純粋性を強調し、キリスト教とヒューマニズムの間に再び距離が生じました。​現代においても、カール・バルトなどの神学者が、キリスト教とヒューマニズムの統合を根本的に拒否する立場を示しています。​

本書は、ヨーロッパ文化の形成において、キリスト教とヒューマニズムが相互に影響を与えながら発展してきたことを強調しています。​また、現代における技術や科学の進展、全体主義的な世界観の台頭により、これらの伝統的な精神的価値が挑戦を受けていることを指摘しています。​さらに、アジアの大宗教との対話を通じて、新たなヒューマニズムの形態が現れる可能性についても言及しています。​

結論として、本書は、キリスト教とヒューマニズムの関係性を再評価し、現代社会における精神的再生の可能性を探求する必要性を訴えています。​先入観や偏見を排除し、歴史的背景と現状を正直に見つめることで、真実と現実に基づいた結論に到達できると述べています。


Ⅱ ファン・ルーラー『政府とヒューマニズム』(1954年)

クレーマーの『教会とヒューマニズム(Kerk en humanisme)』(1956年)出版の前年、ファン・ルーラーが『政府とヒューマニズム(Overheid en humanisme)』(1955年)を出版。内容はオランダ政府が「ヒューマニスト協会」(Het Humanistisch Verbond)の要請にどのように対応すべきかを検討する論考。

ファン・ルーラー『政府とヒューマニズム』(1955年)

具体的には、刑務所や軍隊等での精神的ケアに同協会が公式に関与することの是非が議論されている。​ファン・ルーラーは、この問題が全く新しい現象であり象徴的な意味を持つと指摘。​ヒューマニスト協会は人間の存在全体に焦点を当てる運動であり、世界と人生の包括的な見方を提供していると評価。

他方、ヒューマニズムが独立した全体主義的ビジョンとして現れ、国家組織に影響を与える可能性もあるという。​​ファン・ルーラーは、国家と教会の関係、そしてヒューマニズムの役割について、憲法的な視点から再評価する必要性を強調している。

第4章が「キリスト教とヒューマニズムの関係」について。ファン・ルーラーによると、ヒューマニズムは精神的価値を重視し、時にキリスト教と共鳴するが、必ずしもキリスト教に至るとは限らない。キリスト教徒とヒューマニストは共通の目的で協力できるが、本質的には異なる基盤を持つ。

歴史的に見ればヒューマニズムの起源はキリスト教に根ざしていると言いうるが、現代ではそれが忘れられ、独自の哲学として発展。現代のヒューマニズムは包括的性格を持つゆえにキリスト教との関係が相互排他的になることが予測される。しかし両者が分断されていることは西洋文化にとって危機的である。

ファン・ルーラーはボンヘッファーの獄中書簡の視点を導入。極限状況での叫びであるゆえ世界観の土台ではないが、キリスト教とヒューマニズムの関係を考える一つの視点となるという。ファン・ルーラーは、キリスト教とヒューマニズムの分裂は回避されるべきで両者の関係を再考する必要があると結論。


Ⅲ クレーマーとボンヘッファーの神学の関係

「クレーマー」+「ヒューマニズム」で探したら、クレーマーとボンヘッファーの神学の関係が詳述された素晴らしい論文に出会えた。「バルト→ボンヘッファー→クレーマー→ファン・ルーラー」の線が見えて来た。

佐藤全弘「成人せる世界 : ボンヘッファーとわれわれ(2)」

大阪市立大学文学部『人文研究』19巻1号(1967年)、37~69頁。

https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp 

(以下、佐藤全弘氏の同上論文の62~63頁の抜粋。まだ続きがあるので、未読の方はぜひリンクをクリックしてご一読を)

この外にもボンヘッファーに注目している人は数多いが,最後にオランダの平信徒神学者 Hendrik Kraemer をあげたい。クレーマーはボンヘッファーも関与していた世界教会(エキュメニカル)運動の指導者の一人であり、戦後日本を訪れたこともあり、その後著した大著 World Cultures and World Religions, 1960.の日本についての一章は、短いながら日本精神の特質を鋭くとらえている。いまここにとりあげるのは、The Communication of the Christian Faith, 1956である。この本は、「人間と人間との間の伝達」と、「神から人間への伝達」という、対話・伝達の根本的に異る二つの種類についての深い洞察を中軸として、現代世界における対話喪失の問題伝達回復の問題を論じたもので、読者の思索反省を迫ってやまない。

人間と言葉と宗教とは時を同じうしてつくられたものである。個人として唖〔ママ〕の人もあり無宗教の人はあっても、全く言語をもたぬ社会、宗教を欠いた社会はない。両者は人間に本質的なものである。ところが現今ではこの言葉が破壊され、伝達が失われている。それはボンヘッファーもいう世俗化の果てにみられる現象である。ことにクレーマーは神から人への伝達を担う教会の問題に注意をむける。

世俗化を教会外のことと考え、教会とキリスト者とはそれに縁がないように思っては誤りである。 「実は、教会も、この世同様(仕方はちがうけれども)いたるところで徹底的に世俗化している、いな教会の世俗化は、この世の世俗化より一層由々しいものでさえある。すべてが「神聖なる」 「聖式の」マントをまとっていて、たいがいその世俗化が目に見えないからである。」クレーマーはしかし世俗化を単に福音の敵とだけみないで、教会とこの世に共通の現実であり、そこには最大の危険とともに最大の可能性もが含まれていると考える。これもボンヘッファーの成人せる世界に対する考えと同じである。つまり世俗化には積極的側面,本当の利点があるとみるのである。ではそれは何か、 「聖書の福音の光に照らしてみた場合、世俗化はたしかに精神がとほうもなく痩せ細る過程、人生の規範の基礎となるものに対する破局的な認識混乱・盲目 を意味する。しかしキリスト者の間ではとくに、世俗化はまた浄化作用をも有する。すなわちもしわれわれが賢明にもそれをみとめ確と把むならば,われわれ を徹底した現実直視へ導かずにはおかぬものであるというべきである。」世界の世俗化によって教会の世俗化はあらわとなり、教会は世俗世界の方法を用いその本来の職務から外れたのである。世俗化の浄化作用を言いかえれば、「世俗化の全過程は、神が教会をその真の性質と本来の職務へ召し戻し給い、キリストが生の一切の領域に王たるべきことを断乎として宣べるという教会の真の主張を、よりよく弁え知らしめ給うところの,皮肉なる仕方の一つである。」神は世俗化を通して教会にいやでも伝達の崩壊を知らしめ給うのであるから,教会はこれに達巡 ・不平 ・防衛的態度をとってはならない。しかも今なお教会は、自らを省みよ、自らを正せ、というこの神の声に十分耳を傾けていない。教会には既に確立した組織体があって、この事態を真剣に扱う勇気と信仰を奪っているのである。 さらにまた、世俗化のおかげで、教会と世界との境界を、伝統が確固としていた時よりはっきり見ることができる。真の教会はいつも少数であって、教会は成員の増減によって盛衰しないことが判るが、これも浄化の一面である。

教会の世俗化の一面は福音の世俗的解釈にもみられる,宗教が倫理化されるのもその一つ、キリスト教信仰が聖書の文言の不可謬性と共に立ちもし倒れもするように考えるのもそれである。非神話化というおぞましい方法を用いて、福音に制限を加えることに対するボンヘッファーの批評に、クレーマーも満腔の賛意を表するのである。

世俗化の積極面から目を離さぬ限り、この世は教会の解放者であるといえ、近代の聖書研究にも神の器としての意味がある。「教会にはこの大衝撃が必要であった。というのは、教会は、聖書はイエス・キリストが真理であることを教えるのだということを忘れ、聖書が真理だという誤った基礎に日を送っていたからである。」しかしクレーマーは決して基本主義(ファンダメンタリズム)ではない、これは神がわれわれをその摂理の下なるこの世俗的近代世界の中に置き給うたことを否むからである。

以上の世俗化に鑑みるとき、今日キリスト教国と呼ばれる国も、実はキリストを棄てた異教の虚無的世界であることが判る。クレーマーの現代世界の精神的情況についての洞識は、前稿(1)でのべたボンヘッファーのそれと根本的に同じで、誤るところがない。(引用終わり)


私個人の感覚に最もなじむのは「世俗化」を肯定的な意味で言うこと。「世俗化」が悪いと言われても困る。否定されると生きる場所が無くなる。それにしても寒い一日だった。冷たい雨がやんだら、春のうららの隅田川までニンジャ1000でまた行きたい。いま願っていることはそれ以上でもそれ以下でもない。