![]() |
ゴッホの自画像(1887年)(パブリックドメイン) |
【ゴッホとオランダ改革派教会(NHK)の関係】
長年尊敬する先輩牧師から「ゴッホの時代のオランダ改革派の芸術に対する、絵画に対する基本的な姿勢は如何なるものか。彼の作品で訴えたかった点は、その根底にオランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないかと思われる」というご質問をいただきましたので、以下のようにお答えしました(ブログ公開に際し、趣旨が変わらない範囲内で修正)。
-----------------------------------------------------
先生、ご質問ありがとうございます。
1853年3月30日生まれのオランダの画家、フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(ホッホ)(Vincent Willem van Gogh [1853-1890])の時代、すなわち19世紀中盤のオランダ改革派教会(Nederlandse Hervormde Kerk、以下「NHK」)の「芸術観」についての情報は、現時点の私は持っていません。しかし、当時の「NHK」の神学的背景ならば少し分かるかもしれません。
ゴッホの祖父は1789年生まれ。ゴッホの父は1822年生まれ。どちらもNHKの牧師でした。
(1)ゴッホの祖父
ゴッホの祖父(1789年2月11日生まれ)は、ライデン大学神学部で1805年から神学を学び、1811年博士号取得。1822年から引退する1853年までブレダ教会牧師。1825年から1866年まで、北ブラバント州のプロテスタント教会の地位向上をはかる互助会の書記と会計でした。ブレダ教会は大規模でした。
北ブラバント州(Noord-Brabant)はオランダの南端、ベルギーとの国境に位置する地域です。しかし、それは今日的な感覚です。ゴッホの祖父の時代(1789~1874年)、オランダとベルギーは「オーストラリア領ネーデルラント」(1790~1815年)や「ネーデルラント連合王国」(1815年~1830年)という仕方で、ひとつの国でした。
武力による領土争いの激動の中、ゴッホの祖父は、カトリックが強い地域の中でオランダ改革派教会(NHK)の地位を守るために尽力しました。
ちなみに、19世紀中盤のライデン大学神学部教授として象徴的な存在はヤン・ヘンドリク・スホルテン(Jan Hendrik Scholten)(1811年生まれ)です。ゴッホの祖父が直接学んだ可能性はありませんが、スホルテンはアブラハム・カイパー(1837年生まれ)のライデン大学時代の教師です。スホルテンはイエス・キリストの復活を否定する神学者でした。
アブラハム・カイパーは学生時代はスホルテンの教えに疑問を抱きませんでしたが、のちに見解が変わり、NHKを1886年に離脱して新しいオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands)を創立しました。カイパーに新教団設立を決心させるほどに、スホルテンの神学はリベラルでラディカルでした。
(2)ゴッホの父
ゴッホの父(1822年2月8日生まれ)は、祖父の長男として生まれ、自らも牧師になり、1849年から1878年でズンデルト(Zundert)の教会、また1878年から1885年の没年までエッテン(Etten)の教会、そしてヌエネン(Nuenen)の教会も兼牧しました。
ズンデルト、エッテン、ヌエネンという3つの教会も北ブラバント州にあり、現在のベルギーとの国境地域です。ズンデルトはカトリック優位の町でしたが、ゴッホの父は「改革派」の厳格な立場をとらず、カトリックの貧困家庭を助けていたので人気を博しました。見た目はハンサムな牧師だったが、説教者としての才能は無かったと書いている記事があります。
このあたりで想像できるのは、ゴッホの父は「オランダ改革派教会(NHK)」の牧師でしたが世襲の要素があり、北ブラバント州というベルギーとの国境付近のカトリックが強い地域で「調停的な」立場をとり、なんとかうまくやろうとした人ではないかということです。
この牧師を父に持つ画家ゴッホ(1853~1890年)がズンデルト教会の牧師館で過ごしたのは、1853年から彼がゼーフェンベルゲン(Zevenbergen)の寄宿学校に入寮する1864年までの11年間。エッテン教会の牧師館やヌエネン教会の牧師館でも過ごしました。
ゴッホの「ヌエネン教会を出る人々」(Het uitgaan van de hervormde kerk te Nuenen)という絵は有名のようですね。
(3)画家ゴッホ自身
画家ゴッホの経歴は以下の通り。
1853年(0歳)
ズンデルト改革派教会(Zundert Hervormde Kerk)の牧師の長男として生まれる
1864年(11歳)
ゼーフェンベルゲン寄宿学校入学
1866年(13歳)
ティルブルフ高等学校入学
1869年(16歳)
国際美術商「グーピル&シー」ハーグ支店就職
1873年(20歳)
「グーピル&シー」パリ本社やロンドン支店で勤務
1876年(23歳)
会社を解雇される。ラムズゲート(Ramsgate)で教員をする
アイルワース(ロンドン)のメソジスト教会の補助説教者になる
牧師になる志を与えられる
ターナム・グリーン(ロンドン)の組合教会で日曜学校教師になる
1877年(24歳)
1~5月、オランダに戻り、ドルトレヒトの書店で働く
同年5月から翌1878年7月まで、アムステルダムの叔父の家で牧師国家試験の勉強
ラテン語とギリシア語に興味がなく、また神学理論の学びに不満で、受験を断念
ブリュッセル(ベルギー)近郊のプロテスタント伝道訓練校へ入校
1878年(25歳)
12月からボリナージュ(ベルギー)に派遣
1879年(26歳)
2月から炭鉱労働者の町プチワム(Petit-Wasmes)で信徒説教者
4月炭鉱爆発事故の犠牲者を看護するが、彼らにとって「部外者」で「異質」と自覚
プチワムのプロテスタント仲間から「過度に熱狂的で付き合いづらい」と拒絶される
孤独で惨めな時期に、その中から抜け出したいという思いで次のような本を読む
チャールズ・ディケンズ『ハード・タイムズ』(1854年)フランス語版(1869年)
トーマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスティ』フランス語版
ヴィクトール・ユーゴー『シェークスピア』フランス語版(1869年)
ジョン・バニヤン『天路歴程』英語版(1852年)
ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』英語版(1852年)
1880年(27歳)
画家になることを決意し、ブリュッセルのアトリエに移る
11月に王立美術アカデミーに入学。12月の試験で最下位。1881年2月の試験は未受験
1881年(28歳)
エッテン教会の両親のもとに戻る
その後、ハーグ(Den Haag)やヌエネン(Nuenen)〔牧師館?〕でひとり暮らし
モデル女性の妊娠や売春などの証拠画があると議論がある時期
1885年(32歳)
父の死去に伴い、ヌエネンから退去。アントワープ(ベルギー)に移る
1886年(33歳)
1月に名門のアントワープ美術アカデミーに入学するが、2か月で退学
3月からパリ(フランス)で、同じ画家の弟テオと同居を始める
1889年(36歳)
弟テオがアムステルダムで結婚。兄はアルピーユ山麓(フランス)の施設に自主入院
1890年(37歳)
主治医がいるパリ近郊のオーヴェル(Auvers)移住
5月20日 ラヴー旅館(Auberge Ravoux)の屋根裏にアトリエ設置
7月27日 銃で自分の胸を撃つ。2日後、死亡
1891年(翌年)
1月25日 弟テオがユトレヒトで死亡。享年33歳
画家ゴッホ自身の経歴や、彼の祖父や父の経歴から私が受ける総合的な第一印象としては、先生からの「オランダ改革派に対する強い抵抗意識があったのではないか」という問いかけには首をかしげるところのほうが多いです。そのように感じる理由は次のようなことです。
①第一の理由は、そもそも「祖父→父→ゴッホ本人」が居住していた「北ブラバント州」が、改革派(NHK)とカトリック(RK)の混合地域だったことです。祖父は「改革派(NHK)の地位向上」を訴える牧師代表でしたが、父は「カトリック(RK)との共存」の道を選んだので、画家ゴッホがあえて「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」を持つ理由があるのだろうかというあたりに疑問を感じます。
②第二の理由は、23歳のゴッホがロンドンのメソジスト教会や組合教会を渡り歩いていたり、24歳でブリュッセルの伝道訓練校に入校し、2年足らずの訓練で「炭鉱労働者伝道」のような難しい課題があるに決まっている場所にいきなり派遣されて、当然のようにうまく行かなくて挫折したりしていることのほうが、私にとってはよほど重大に思えることです。
もしかしたらロンドンのメソジスト教会や組合教会で「オランダ改革派教会(NHK)」の悪口をたくさん聞かされたかもしれません。それらの教会の人たちがベルギー信条やドルト規準、ウェストミンスター信仰基準などと真逆の考え方をしていた可能性は確かにあります。
アウェイで不安定なゴッホに「ウェスレー」と「メソジスト教会」と「アルミニウス主義」と「カルヴァン主義とオランダ改革派教会に反対すべき理由」をしっかり教え込んだ人たちがいたかもしれません。
19世紀のオランダですからね。今のわたしたちのコンテクストと大差ありません。ゴッホの時代に「カール・バルト」は登場しませんが、日本伝道はすでに開始され、「日本基督公会→日本基督一致教会」まで来ていました。日本基督教会創立の「1890年」がゴッホの没年です。このころの植村正久先生は「リバイバリズム」の内実を熟知しておられたと思います。
炭鉱伝道挫折後のゴッホが読んだ『イミタチオ・クリスティ』や『天路歴程』や『アンクル・トムの小屋』などは、戦後の日本で『リーダーズ・ダイジェスト』日本語版などを購読していた世代の人たちがよく読んでいました。私の両親(1930年代生まれ)も、神学書などは1冊も持っていませんでしたが、ゴッホが読んだこれらの本は若い頃に教会ですすめられて読んだようです。
そういうわけで、私の第一印象としては、ゴッホがロンドンやベルギーでその影響を受けた可能性がある「リバイバリズム」との関係はよく考えなくてはならないと思いますが、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」がダイレクトに結びつくかどうかは不明です。
③周囲の人たちとうまく行かない画家ゴッホに、画家になった弟テオ以外、両親を含む家族は距離を置いたり冷たくしたりはしたので、その仕打ちに対する反発心が彼の中にあったのではないかと考えることは私にもできます。しかし、それと「オランダ改革派に対する強い抵抗意識」は区別されるべきです。