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講演「ファン・ルーラー研究の意義」 |
PDF版はここをクリックしてください(2015年2月16日、思想とキリスト教研究会講演会、日本キリスト改革派東京恩寵教会)
関口 康
序本日は講演の機会を与えていただき、感謝いたします。自己紹介を兼ねてはじめにお話しするのは、私がファン・ルーラー研究を開始した経緯です。
私が初めてファン・ルーラーの著作に接したのは1997年4月です。18年前です。インターネット上に「ファン・ルーラー研究会」を数名の友人と共に作ったのが、1999年2月20日です。2014年10月27日に解散するまでの15年半、私が研究会の代表でした。会員数は、最後は108名でした。
私をファン・ルーラーへと導いてくださったのは三人の教師です。近藤勝彦先生、高崎毅志先生、牧田吉和先生です。この三人はファン・ルーラーの神学を日本で初めて本格的に紹介した方々です。
近藤勝彦先生は、私の東京神学大学の卒業論文(1988年)と修士論文(1990年)の指導教授です。日本基督教団教師であり、東京神学大学教授であり、学長でした。近藤先生は東神大の大学院生の頃、ヘッセリンクの論文「現代オランダプロテスタント神学」[1]を翻訳する中でファン・ルーラーの神学の重要性を認識しました。テュービンゲン大学神学部に留学したとき、指導教授であったモルトマンにもファン・ルーラー研究の意義を教えられました。モルトマンはファン・ルーラーとヴッパータールで1957年に出会っています。近藤先生のファン・ルーラー研究は『歴史の神学の行方』(1993年)[2]にまとめられました。『二十世紀の主要な神学者たち』(2011年)[3]にも「伝統的でファンタスティックな神学者ファン・リューラー」と題する一章があります。私は『歴史の神学の行方』を出版直後に購入して読み(当時は高知県南国市にいました)、ファン・ルーラーの神学の重要性を初めて知りました。
高崎毅志先生は、東京神学大学の先輩です。日本キリスト教会、また日本基督教団の教師でした。ウェスタン神学大学に留学しました。帰国後、ウェスタン神学大学オスターヘーベン教授の『教会の信仰』(1991年)[4]を共訳しました。オスターヘーベンはファン・ルーラーと知己がありました[5]。『教会の信仰』にもファン・ルーラーの神学が紹介されています。私は1993年に高崎先生とお会いしたとき、「ファン・ルーラーの神学を勉強しろ。神戸の牧田先生に教えてもらえ」と励まされました。場所は恵比寿でした。その後はお会いしていません。1999年に高崎先生は死去しました。「高崎先生のおかげでファン・ルーラーを研究しています」と報告できないままです。
牧田吉和先生は、私の神戸改革派神学校の卒業論文(ファン・ルーラー研究、1998年)の指導教授です。日本キリスト改革派教会の教師であり、神戸改革派神学校教授であり、校長でした。ドイツとオランダに計5年留学しました。留学中はファン・ルーラーには無関心だったが、帰国後、神学校で学生と共に読んだルードルフ・ボーレンの『説教学』の「第4章 聖霊」[6]を通してファン・ルーラー研究の意義を認識したと、牧田先生から伺いました。ボーレンもファン・ルーラーと面識があります。出会いの場所はモルトマンと同じくヴッパータールでした[7]。牧田先生は神戸改革派神学校組織神学教授就職記念講演「改革派教義学と聖霊論」(1988年)[8]の中でファン・ルーラーの神学を紹介しました。1997年4月から数年間、ファン・ルーラー英語版論文集の講読会を神学校で行いました。1999年以降は「ファン・ルーラー研究会」の顧問でした。研究会主催の講演会やセミナーの講義は『改革派神学』にまとめられています。
本論さて本論です。ファン・ルーラー研究には意義があるのでしょうか。もしあるとすれば、どのような意義がどのあたりにあるでしょうか。私はファン・ルーラーの神学の役割は今後大きくなっていくだろうと信じています。なぜそのように考えることができるのか。ヒントを二つお話しします。
Ⅰ第一のヒントはタイムリーな話題です。本日から明日まで(2015年2月16~17日)日本基督教団の連合長老会主催「第61回宣教協議会」が富士見町教会で行われています。講師は日本キリスト教会の小坂宣雄先生です。その案内状に小坂先生ご自身の言葉として、次のように記されています。
「今回お受けした講演も、そういう意味で、講演というよりも、問題提起です。問題提起の根底にあるのは、ハインリッヒ・フォーゲルの『ニカイア信条講解』の中で指摘している『キリスト論におけるように、教会に関して仮現論(docetism)が起こっていないか』という意識です。キリストの体である教会は、聖霊の現臨と働きによって形成(建設)されます。しかし、聖霊の受肉といったことは考えられないわけです。聖霊は御子の受肉において働くのです。その限り、教会の形成は、キリストがとられた人性と、切り離されてはならず、深く結びついています。聖霊は単に霊的(spiritual)なもの・観念的なものではなく、身体的・物象的リアリティを伴うのです。その点から、これまで『聖霊による教会形成』を志しながら、軽視されていることはないか、その幾つかをご一緒に考える機会となればと思います」。「今」行われている小坂先生の講演の内容は、もちろん分かりません。ハインリッヒ・フォーゲル(Heinrich Vogel [1902-1989])の著作を読んだこともありません。しかし、すぐに分かることは、フォーゲルがファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])と同世代の人であること、そして、カール・バルトの「キリスト論的集中の神学」の圧倒的な影響を受け、その思想世界の功罪を熟知しつつ、その中で論理の袋小路に陥り、苦しんでいたのではないかということです。
「教会に関して仮現論(docetism)が起こっていないか」とはどういう意味でしょうか。思いつくままを言えば、教会のdivinitas(神的であること)とhumanitas(人間的であること)とのバランスが崩れ、もっぱらdivinitasが強調され、humanitasは軽んじられている状態を指しての懸念表明ではないかと考えられます。まるで教会には生身の人間は存在しないかのように、人間の働きや努力は、虚無であり、罪悪ですらあるかのように、軽視され、無視されている。たとえば聖書、説教、聖礼典、教会会議などについて、それは実際に起こります。教会の現実を知る者には身に覚えのあることです。
目をひかれたのは、小坂先生が記しておられる「聖霊の受肉といったことは考えられないわけです」という言葉です。これはファン・ルーラーの見解と一致します。それで考えさせられたのは、「教会に関して仮現論が起こっていないか」というハインリッヒ・フォーゲルの問いかけに対して、ファン・ルーラーならばどのように答えるだろうかということでした。
ファン・ルーラーも「聖霊の受肉」はありえないと考えた人です。「受肉」(assumptio carnis)は「永遠のロゴス」のみに起こったことであり、反復も再現も不可能な、歴史的一回性の出来事でした。そしてその場合、それ自体においては自立したperson(格)を有しないnature(性)としての「人性」としての「サルクス(肉)」を永遠のロゴスがマリアから「摂取した」と言わないかぎり、キリストにおける二性一人格(two natures, one person)の秘義は崩壊すると、ファン・ルーラーは考えました。
しかし「聖霊」はキリスト論のカテゴリーと同じ意味での「受肉」はしません。「聖霊」との関係で用いられるべき関係概念は「内住」(inhabitatio)です。論理的に許される表現は「聖霊の内住」(inhabitatio Spiritus sancti)です。それは同時に、17世紀の改革派神学者ローデンシュテインの表現を借りれば「三位一体すべての神の内住」(de drieenige God zelf, de gehele triniteit, welke in ons inwoont; inhabitatio Dei trinitatis)を語ることが許される事態です。
しかも、「聖霊」(なる「神」)が「内住」するのは、人間存在の内部です。人間の「心」(hart)や「感情」(gevoel)と共に「体」(lichaam)にも聖霊が内住します。聖霊なる神が、ひいては三位一体すべての神が、人間存在に内住し、人間において、人間と共に、人間を用いて神のみわざを行います。
これがファン・ルーラーの聖霊論の核心部分であり、教会論の核心部分です[9]。そしてこれが「身体的・物象的リアリティを伴う」聖霊による教会形成のあり方です。しかし、ファン・ルーラーの場合の「身体的・物象的リアリティ」とはヒューマンなものであり、ほとんどマテリアリズムのそれです。裃(かみしも)を着ていない、オープンな身体性・物象性です。そのことをファン・ルーラーの論理はたしかに許す面があります。全面的な人間肯定、全面的な世界肯定、全面的な自己肯定の論理です。
しかし、そういうのを日本の(とりわけ改革派・長老派の)教会は嫌ってきた面があります。嫌忌の理由や原因もだいたい分かります。カルヴァンもユマニスト時代はポジティヴな意味で用いていた「人間的なるもの」(humanum)という語を、回心後はかなりの頻度でネガティヴな意味で用いました[10]。
小坂先生の文章には「(教会の)身体的・物象的リアリティ」を確保することとの関係で「キリストの人性」(?)に注目するようにとの示唆があります。おそらくそこが(キリストの人性が!)我々に残された唯一の問題解決の道であると考えられているように見えます。
しかし、果たしてそれは本当に可能でしょうか。「キリストの人性」との取り組みが教会を仮現論の罠から救い出すことになるでしょうか。ファン・ルーラーならば別の道を行くでしょう。三位一体論的・聖霊論的に熟考した上で、罪に対してはいささかも譲歩しないで、裃を着ない「人間の人間性」(humanitas)を堂々と語るでしょう。
Ⅱ第二のヒントは、近藤勝彦先生の『二十世紀の主要な神学者たち』(2011年)からの引用です。
「それにしてもファン・リューラーの神学も大きな問題を抱えています。それはとりわけそのキリストの『受肉』の理解にあるでしょう。彼はキリストの受肉を人間の堕落ゆえの『緊急対策』と見なしました。『受肉』は神の永遠の決意にあると理解されてはいません。それゆえ最後には緊急対策の役割を果たし終えたとき、キリストの人性放棄があることになります。しかしそれでは終末は、再びもとの創造の回復にすぎず、それ以上の完成として理解されないのではないでしょうか。さらに言えば、イエス・キリストの受肉がただ人間の堕落ゆえの緊急対策で、過渡的なものとして理解され、終にはキリストの人性放棄が起きるというのであれば、回復した創造は再び人間の堕落によって歪曲され、再度、そこからの緊急避難が必要になり、キリストの再受肉がなければならなくなるのではないでしょうか。そうなれば、救済史は一回限りの進行ではなく、永遠回帰の思想に落ち込むことになるのではないかと危ぶまれます」[11]。この点について近藤先生はファン・ルーラーを批判し続けてきました。その長さは40年以上です。出発点は近藤先生が翻訳したヘッセリンクの「現代オランダプロテスタント神学」です。近藤先生はヘッセリンクのファン・ルーラー批判を忠実に継承しておられます。ヘッセリンクはバーゼル大学のバルトのもとでカルヴァンの律法論についての博士論文(1961年)[12]を書きました。遠慮せずに言えば、ヘッセリンクのファン・ルーラー批判はバルト主義のバイアスを帯びています。しかし近藤先生ほどの方が長年主張してこられたのですから、ヘッセリンクの手は離れていると考えるべきでしょう。
そのことを確認した上で申し上げたいことは、近藤先生のファン・ルーラー批判は取り越し苦労に終わるだろうということです。ファン・ルーラーが主張したのは「終末におけるキリストの人性」の「放棄」というよりは「解消」でした。しかも彼は、この教説をコリントの信徒への手紙一15・24~28に基づいて主張しました。それは「肉の摂取」(assumptio carnis)とはちょうど正反対のベクトルを指していますので、私は半分冗談で「キリストの脱肉」と呼んでいます(不謹慎をお許しください)。肉をまとった永遠の神の御子が地上における救いのすべてのみわざを終えて、肉をお脱ぎになる日が来るという意味です。実際のファン・ルーラーの文章を一例挙げておきます。
「神が人間になられたのは、目的ではなく、一つの手段であった。すなわちそれは、人間の罪によって生み出されたありとあらゆる問題に対処するために神の側で用意してくださった緊急措置であった。そのため我々が『神が人間になられた』(God mens is geworden)と語ることはあまり適切な言い方ではない。我々が述べていることをより明確に表現するとしたら、『神の御言が肉になった』(het Woord vlees is geworden)のほうがよい。それは、人類の罪に対する神の怒りという重荷を担ってくださるためであった。それゆえ最終的に起こることは、御子がその肉を再び脱ぐことができる日が訪れることである。そのとき人間は再び人間になることができる。天地万物の究極的目標とは何か。それは純粋なる人間性(pure humaniteit)と地上世界の居住可能性(bewoonbaarheid van de aarde)が保持され続けることである」(拙訳)[13]。ファン・ルーラーは「キリストの受肉の解消」については、いろんな場所でいろんな意味で語っていますので、定義するのは困難です。しかし、私が感じるのは清々しさです。すべてのわざを完了し、重責の職務から勇退するメシアの姿が浮かんできます。
それは勝手なイメージであると言われれば、それまでです。しかし、近藤先生が懸念しておられる「受肉は神の永遠の決意にあると理解されていない」とか「回復した創造は再び人間の堕落によって歪曲される」とか「キリストの再受肉がなければならなくなる」とか「永遠回帰の思想に落ち込む」とかいう危険な状態になっていくとは全く思えません。
むしろ逆に、私には疑問があります。もし永遠の神の御子が肉を脱ぐならば「回復した創造は再び人間の堕落によって歪曲される」ことになる(?)という論理は、意図の有無にかかわらず、人間の罪の問題は永遠に解決しえないものだと決めつけることになっていないでしょうか。終末に至っても、永遠の神の国に至っても、あいかわらず肉をまとった神の御子が睨みを利かし続けていないかぎり、我々は罪から逃れられないのでしょうか。それは罪の永遠化や絶対化に道を開いていないでしょうか。
こういう議論に参加できるようになることが、私が考える「ファン・ルーラー研究の意義」です。ファン・ルーラーの神学を近藤先生のように「ファンタスティック」だのと評されると、うんざりします。裃を着ていないだけです。リアリスティックでマテリアリスティックな感性の鋭い神学です。
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ダブル講師の水垣渉先生(左)と関口康(右) |
注[1] I. John Hesselink, Contemporary Protestant Dutch Theology, Reformed Review, Winter 1973, Vol. 26/No. 2, P. 67-89. これの日本語版(近藤勝彦訳)が『キリスト教組織神学事典(増補版)』東京神学大学神学会、教文館、1983年、109~128頁にあります。
[2] 近藤勝彦『歴史の神学の行方 ティリッヒ、バルト、パネンベルク、ファン・リューラー』教文館、1993年。
[3] 近藤勝彦『二十世紀の主要な神学者たち 私は彼らからどのように学び、何を批判しているのか』教文館、2011年。
[4] M. ユージン・オスターヘーベン『教会の信仰 プロテスタント・キリスト教の歴史的展望』石田学、伊藤勝啓、高崎毅志共訳、すぐ書房、1991年。
[5] M. ユージン・オスターヘーベン、同上書、8頁。
[6] ボーレン『説教学Ⅰ』加藤常昭訳、日本基督教団出版局、1977年、101~143頁。
[7]ボーレン『説教学Ⅱ』加藤常昭訳、日本基督教団出版局、1978年、410頁。ルードルフ・ボーレンがヴッパータール神学校の実践神学教授に招聘されたのは「1958年」であり(「ルードルフ・ボーレン略歴」説教塾HP、2015年2月13日確認。http://www.sekkyou.com/jp/special7/00.php)、モルトマンが証言している「1957年」(モルトマン『十字架と革命』大庭健訳、新教出版社、1974年、5頁)とは食い違います。しかし、ボーレンが証言したのは「ヴッパータールでファン・ルーラーに出会った」ことだけです。
[8] 牧田吉和「改革派教義学と聖霊論 改革派神学の新しい可能性を求めて」『改革派神学』第19輯、神戸改革派神学校、1988年、27~73頁。
[9] ファン・ルーラーの聖霊論については日本でも研究が進んでいます。以下の論文をお勧めしま
す。
栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論における鍵となるいくつかの概念について
―キリスト論の教理と関連して―」
『教会の神学』第13号、日本キリスト教会神学校、2006年
栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論におけるキリストとの神秘的合一
―カルヴァン、ルターおよびバルトの理解と関連して―」
『教会の神学』第14号、日本キリスト教会神学校、2007年
栗田英昭「十分に展開された聖霊論の必要性について
―ファン・ルーラーによる相対的に独立した聖霊論の意義―」
『教会の神学』第15号、日本キリスト教会神学校、2008年
栗田英昭「神と人の関係―ファン・ルーラーの聖霊論における神律的相互関係―」
『教会の神学』第16号、日本キリスト教会神学校、2009年
栗田英昭「聖霊の内住―人間の霊および世界において―」
『教会の神学』第18号、日本キリスト教会神学校、2011年
栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論と場所的理解」
『教会の神学』第19号、日本キリスト教会神学校、2012年
栗田英昭「ファン・ルーラーの聖霊論の説教および信仰への適用」
『教会の神学』第20号、日本キリスト教会神学校、2013年
栗田英昭「キリスト論と聖霊論における神と人の関係」
『場所』第12号、西田哲学研究会、2013年
牧田吉和「ファン・ルーラーにおける三位一体論的・終末論的神の国神学と聖霊論―」
『改革派神学』第32号、神戸改革派神学校、2005年
[10] 関口 康「カルヴァンにおける人間的なるものの評価」『新たな一歩を カルヴァン生誕500年記念論集』久米あつみ監修、アジア・カルヴァン学会日本支部編、キリスト新聞社、2009年、135~156頁。
[11] 近藤勝彦『二十世紀の主要な神学者たち』、165頁。
[12] I. John Hesselink, Calvin’s Concept of the Law, Pickwick, 1992. ヘッセリンクが1961年にバーゼル大学神学部に提出した博士論文の原題はCalvin’s Concept and Use of the Lawでした。
[13] A. A. van Ruler, God is mens geworden (1955), in: Verzameld Werk Deel 4A, Uitgeverij Boekencentrum, Zoetermeer, 2011, p. 182-193.