2010年12月4日土曜日

「伝道」が「平和集会」を必然化する(再掲)

今の政治情勢を鑑み、二年前に書いた『中会ヤスクニ』誌(2008年12月発行)の巻頭言の主旨を繰り返す必要を覚えますので再掲します。

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■ 「伝道」が「平和集会」を必然化する

関口 康

再び東関東中会の話をさせていただきます。2009年2月11日(水)に「第一回東関東中会平和の集い」を行います。2006年7月に日本キリスト改革派教会の第六の中会として誕生したわたしたちの中会が初めて独自で企画する、画期的で記念すべき平和集会です。講師は袴田康裕先生、主題は「平和についての教会的一致のために~ウェストミンスター信条をもつ教会として~」です。会場は船橋高根教会、主催は東関東中会伝道委員会です。

中会伝道委員会が平和集会を企画すること。このことは東関東中会の中では当然のこととして受けとめられています。しかし、読者各位の中には、いまだに(「いまだに」です)このこと――中会の「伝道」委員会が「平和集会」というような社会的な問題に主体的・積極的に取り組むこと――に違和感を覚える方がおられるかもしれません。消極的な意見に接するたびに少なからず残念に思います。とはいえ、物事のイロハから説明することも「伝道」には避けがたいことですので、ため息をつくばかりで沈黙をもって受け流すような態度は、わたしたちには相応しくないでしょう。

単純なところから申せば、「わたしたちは誰に伝道しているのでしょうか」という問いをお考えいただけば自ずから答えが見えてくるでしょう。通常の理解では、すでにキリスト者である人々に対してわたしたちは「伝道」はしません。それはいまだにキリスト者ではない人々に対して行うことです。そう、教会の伝道の目的は(やや大上段にふりかぶって言えば)「人類と国家をキリスト教化すること」です。

「伝道」を使命とする教会の存在理由もまた然りです。わたしたちが願っていることは、今まで一度も教会の建物や交わりの中に足を踏み入れたことがなかったような人々を教会の中に招き、教会の教えや雰囲気、さらに伝統や文化の内容を理解していただき、それらに良い意味で「馴染んでいただくこと」です。小池正良引退教師のお言葉をお借りすれば「伝道とは異文化間コミュニケーションでもある」のです。

別の文化からわたしたちの文化(改革派的キリスト教文化)へと入ってくる人々がある種の違和感を覚えるのは、当然のことです。しかし、だからこそ、時間をかけて馴染んでいただく必要があります。教会の役割は、その人々の前で言葉を尽くして説明し、理解を求めることです。

しかし、そうは言いましても、この「馴染んでいただくこと」や「理解を求めること」が決して簡単なことでも単純なことでもないということを、わたしたちは体験的に知っています。もしそれが簡単で単純なことであるならば、日本伝道はもっとスムーズに進んできたでしょうし、今のような沈滞ムードに悩むこともなかったでしょう。そこで生まれてくる問いが「教会はもっと敷居を低くすべきではないか。社会問題などを持ち出してその判断を迫るようなことをするから教会に人が集まらないのではないか」というものであることも、わたしたちは知っています。ジレンマがあることは否定できません。

たしかに言えることは、人々が教会に求めるものは多様であるということです。ある人は教会に「地上の現実を越えた安らぎ」を求めますし、他の人は「地上の現実を生き抜く勇気」を求めます。しかし、です。ここから先がわたしたちの真骨頂です。問うべきことは「改革派教会」の選択肢は何かです。

それは、疑いなく後者です。わたしたちが教会に求めるべきは「地上の現実を生き抜く勇気」です。わたしたちは、天地万物を「はなはだ良きもの」(創世記1・13)として創造された神と、わたしたちを罪の中から救い出してくださる神は、同一の方であると信じています。その意味は、わたしたちをとりまく地上の現実がたとえ罪と悪に染まりきったものであると感じるものだとしても、「この世界は神が創造されたものである」という一点の真理ゆえに、神を信じる者たちは地上の世界に固く留まり続けるべきであり、かつこの世の中に満ち満ちている罪と悪の問題に正面から真剣に向き合うべきであるということです。創造者なる神への信仰が、わたしたちにこの世の中で生き抜くこと(地上の現実から逃避しないこと!)を強く要請すると共に、わたしたちのなすべきことを自覚させるのです。

「平和の問題」(そしてその裏側にある「戦争の問題」)は、この世界における罪や悪の問題のうちでも最も典型的で顕著なものです。この問題を扱うことが「伝道」に直結するのです。逆から言い直せば、「伝道」が「平和集会」を必然化するのだということです。

なるほど、ある国は「偽証してはならない」という神の戒めに逆らって立っているかもしれませんが、だからといって、神を信じる者たちがその国を徹底的に打ちたたくことにおいて「殺してはならない」という神の戒めに逆らうことが単純に許されてよいわけではありません。また、新約聖書の真理に立つ人々は「殺人を犯した人は必ず殺されなければならない」というようなことをストレートに語ることはできません。すべては複雑怪奇な問題です。しかし難しいことには近寄らないというのでは「それは逃避ではないのか」とのそしりを免れないでしょう。わたしたちが選ぶべきは判断中止による逃避でしょうか、それとも・・・どうすべきでしょうか。

もちろん、教会になしうることは、ごく僅かです。日本の教会は国民の少数派であり、その中の「改革派教会」はなおさらです。わたしたちの命すべてを投げ出したところで、大きなアクションを起こす力にはならないかもしれません。しかし、それが何でしょう。あきらめること、絶望することこそ、わたしたちが犯しうる大罪です。「できやしない」という声を聞いて立ち止まるくらいならば、わたしたちは、どんなに小さくても何かを行い続けるべきです。

私はつい最近、中部中会の『日曜学校教案誌』の小学生向け教案例に、「戦争しなければならない理由」を主張する人々の言葉に説得されそうになったときには「戦争してはならない理由」を一生懸命探して、それを大きな声で伝えましょうねと書きました。「みんなが賛成してくれるかどうかは分かりません。でも、皆さんの言葉に賛成してくれる人たちは必ず見つかります。その人々とぜひ協力してください」とも書きました。

これは、子どもたちだけに言いたいことではなく、すべての人に言わなければならないことです。勇気をもって、声を大にして!