2010年12月20日月曜日

身に覚えのない罪を疑われた人をかばうために(女子聖学院高等学校2010年度クリスマス礼拝)

マタイによる福音書1・18~25

関口 康

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」

クリスマスおめでとうございます。

私は今日、皆さんの前で初めてお話しします。男子の聖学院高校では今から約20年前に聖書の授業の教育実習をさせていただいたことがあります。たった一時間でしたが、一生懸命にお話ししましたところ、授業が終わったとき男の子たちが私に拍手をしてくれました。その時以来、聖学院という学校が大好きになりました。皆さんにお会いできたことを心から感謝しています。

今日はクリスマス礼拝です。クリスマスのお話をしなければなりません。初めてお会いする皆さんにどんな話をしようかと迷いましたが、とにかく皆さんと一緒に聖書を読んで、そこに書かれている一つの事実をお知らせしようと考えました。

先ほど読まれた聖書のみことばの最初に書かれていたことは「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった」(18節)でした。ここにはイエス・キリストの誕生の次第が書かれています。「誕生」とはもちろん生まれることです。イエスさまがどのようにしてお生まれになったのかが書かれているのです。

その最初に書かれていることは、とても衝撃的な事実です。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(18節)。イエスさまのお母さんであるマリアはヨセフという男性と結婚する約束をしていたのに、まだ結婚する前に、お腹の中に赤ちゃんがいることが分かったと書かれているのです。

当時のマリアさんは、たぶん皆さんと同じくらいの年齢でした。10代の後半だったと考えられます。今の皆さんが、お腹の中に赤ちゃんがいるということになりますと、それは一つの事件とみなされるに違いありませんが、当時のユダヤの社会の中では特別なことではありませんでした。ただし、それが結婚する前のことであったということになりますと、話は全く別です。当時のユダヤの社会の中で、それはとんでもない罪でした。死刑に値するとみなされました。

しかしマリアさんは、どうしていま自分のお腹の中に赤ちゃんがいるのかについて、その原因というか理由をはっきりと知っていました。少なくとも、ヨセフさんとの関係の中で与えられた子どもではないということを知っていました。また、ヨセフさん以外の男性と関係したためにそうなったわけではないということを知っていました。

先ほど私はマリアさんは皆さんと同世代だったと言いました。なぜそのことを強調するのかといいますと、当時のマリアさんと同世代の皆さんには、このときのマリアさんの気持ちが分かるのではないかと思うからです。初めてお会いする皆さんの前で変な話をしたいのではありません。しかし、どうしていま自分のお腹の中に赤ちゃんがいるのかについて原因も理由も分からないという方はここにはおられないはずです。10代の後半は、それだけの責任をとることができる年齢であると申し上げたいのです。

ですから、マリアさんは、声を大にして言いたかったはずです。「私は罪を犯していません!誰から責められなければならないようなこともしていません!」と。それでも周りの人たちは、彼女は何か隠しているとか、ありえないことを言い張っているだけだと白い目で見たはずです。その証拠に、結婚の約束をしていた最も信頼していた彼氏が彼女を疑ったのです。ヨセフさんは彼女を信頼できなくなり、誰にも知られないうちに別れようと決心したというのです。

こういうときに皆さんならどうしますかとお尋ねしてみたい気持ちが私にはありますが、いま手を挙げて答えてくださいとは言いません。それぞれ自分で考えてみてほしいです。

自分には身に覚えのない罪を最も信頼している人から疑われたときにどうしますか。一生懸命その相手に説明しますか。説明して分かってもらえますか。分かってくれる相手であれば説明することには意味があります。しかし、本当に分かってくれますか。もしいくら説明しても分かってくれなかった場合はどうしますか。説明は時として泥沼にはまることがあります。説明すればするほど、見苦しいとか言い訳がましいとか見られて、ますます窮地に追い込まれることがあります。

私が思うこと、それは、もし皆さんが自分の身に覚えのない罪を疑われた場合は、誰が何と言おうと堂々としておられたらよいということです。良い意味で自分自身を信じていただきたいです。そして少し話は飛躍しますが、そのようなときにこそ、神さまを信じていただきたいです。

神さまはそういう人を決して見殺しにはしません。罪のない人を罪に定めることを、人はするかもしれませんが、神さまはしません。神さまはヨセフさんの夢の中で「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(20節)と声を大にして主張してくださいました。神さまがマリアさんをかばってくださったのです。そのことをヨセフさんは信じました。二人の信頼関係は回復されて、無事にイエスさまがお生まれになりました。

高校生の皆さんは、将来何の仕事をするのかを悩んでおられると思います。もしまだ決まっていない方に考えていただきたいことは、身に覚えのない罪を疑われている人たちを助ける仕事を探していただきたいということです。

わたしたち人間は、誰からも信頼してもらえないと感じるときに絶望します。絶望している人を助ける仕事、生きるのをやめてしまおうとしている人に生きる希望を与える仕事、それは本当に尊いものです。それは、神さまがマリアさんにしてくださったのと同じことをすることです。マリアさんの命とイエスさまの命は、神さまが助けてくださったのです。

皆さんの将来が神さまの祝福のうちにありますよう、お祈りしています。

(2010年12月20日、女子聖学院高等学校クリスマス礼拝)