2009年6月7日日曜日

イエス・キリストの声を聞く


ヨハネによる福音書5・19~30

「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。』」

先週の個所に記されていましたのは、わたしたちの救い主イエス・キリストが、エルサレム神殿の羊の門の傍らにある「ベトザタ」と呼ばれる池のそばに横たわっていた三十八年も病気で苦しんでいた人をいやしてくださったという出来事でした。

それはもちろん、わたしたちからすれば、喜ぶべき、素晴らしい奇跡的なみわざでした。ところが、そこにイエスさまが行ってくださったそのみわざを喜ばなかった人々がいました。ユダヤ人たちでした。彼らはその人がいやされたことを喜ぶどころか、その出来事を理由にイエスさまのことを迫害しはじめたのです。

彼らがイエスさまを迫害することを決意した理由は、二つありました。

第一の理由は、イエスさまがそのいやしのみわざを安息日に行われたことです。安息日にはいかなる仕事もしてはならないと律法に定められている。それにもかかわらず、この男は仕事をした。それがけしからんというわけです。また、イエスさまは、三十八年も病気で苦しんでいた人をいやされたとき、その人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われ、その人はそのとおりにしました。しかし、安息日に床を担いで歩くことは律法で許されていないというわけです。そのようなことをしているその人もけしからんことをしているし、それをその人にしなさいと言ったイエスさまもけしからんことをしている。これは大問題であると、彼らは騒ぎ始めたのです。

しかし、第二の理由がありました。その点が今日の個所に直接関係しています。それはイエスさまがユダヤ人たちの前で「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(5・17)とおっしゃったことが理由です。このときイエスさまが神さまのことを御自分の「父」と呼ばれたことがけしからんというわけです。なぜこれがユダヤ人たちの気に障ったのかといえば、父なる神の子どもは神であるということを彼らは知っていたからです。つまり、神を「父」と呼ぶその人は、自分を神と等しい者であると言っているのだと、彼らは受け取ったのです。

イエスさまが「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とおっしゃったことは、なるほどたしかに、ユダヤ人たちにとっては刺激的で挑戦的な言葉として響いたことでしょう。なぜなら、その日は安息日だったからです。

安息日は休みの日であって仕事をする日ではないとユダヤ人たちは理解していました。この理解そのものが間違っているわけではありません。ところがイエスさまは、安息日はわたしの父が仕事をなさる日である、だからわたしも仕事をするのだとおっしゃったわけです。イエスさまのおっしゃっていることも間違っていません。

安息日の意義はただ布団をかぶって休むというようなことだけにあるのではありません。もちろん旧約聖書には、父なる神は六日間で天地万物の創造を成し遂げられ、七日目に「神は御自分の仕事を離れ、安息なさった」(創世記2・3)と記されています。しかし問題は、その場合の「安息」の意味です。神は布団をかぶって休まれたのでしょうか。どうやらそういう意味ではないのです。

七日目に神がおとりになった「安息」の意味は、御自身が創造された天地万物をお喜びになり、楽しまれたということです。あるいは、お祝いなさったということです。つまり、神は七日目に天地万物の完成祝賀パーティーをなさったのだと考えることができるのです。

喜び楽しむこと、あるいは祝うことが仕事かどうかは微妙です。仕事というよりは遊びかもしれません。しかし、それは、何もしないで布団をかぶってただ休むということとは違います。喜び楽しむという働き、祝うという働きに就くことです。

イエスさまがこの安息日に三十八年も病気で苦しんでいた人をいやされたことは、仕事でしょうか、それとも遊びでしょうか。これについてはいろんな問い方ができるでしょう。人助けは仕事でしょうか、遊びでしょうか。福祉のわざは仕事でしょうか、遊びでしょうか。

このような問い方自体が間違っているかもしれません。「遊びである」と言いますと、ますますけしからんという話になるかもしれません。しかし長年の苦しみから解放されたその人にとっては、病気をいやしていただいたその方が行ってくださったことは、遊びではないと言われるかもしれませんが、喜びではあったでしょう。この点が重要なのです。

安息日に苦しんでいる人を助けること、苦しんでいる人を喜ばせること、一緒に楽しむことは、父なる神の御心にかなったことなのです。そのことをイエスさまは、この出来事を通して多くの人々の前でお示しになったのです。

今申し上げた話が今日の個所の内容につながっています。イエスさまが「彼ら」(ユダヤ人たち?)におっしゃったことは「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」(19~20節)ということでした。

ここで言われていることは、神の御子イエス・キリストが地上に来てくださった理由であり、また地上で行われるみわざの目的です。イエスさまは父なる神の御心を行うために来てくださったのです。そして、その場合の父なる神の御心とは、短く言えば人助けです。世のため・人のために意味のあること、役に立つこと、助けになることを行うことです。苦しんでいる人をその苦しみから解放すること、その人を喜び楽しませること、またその人と共に喜び楽しむことです。

イエスさまは次のようにも言われました。「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(20~21節)。

神の御子の地上におけるお働きの目的は「死者に命を与えること」であると言われています。この「死者」の意味の中には、肉体的・生物学的に死んでいる人のことも含まれていると言うべきですが、それだけではありません。神の御前で罪を犯している人のこと、つまり、すべての命の創造者なる神との関係が崩れ壊れている人のことも含まれています。その人々が神の御前に立ち返り、新しい命を与えられて生きること、新しい人生を始めることも、言葉の正しい意味での「復活」なのです。

イエスさまが安息日ごとに会堂で聖書の御言葉を説き明かす説教をなさっていたということは、今学んでいるヨハネによる福音書のこれまでの個所にはそのような表現ではまだ記されていませんが、他の福音書にはそのようにはっきりと記されていたことを思い起こしていただけるでしょう。

安息日は大昔から今日に至るまで聖書のみことばを聞く日です。牧師が毎週日曜日に行う説教は仕事でしょうか、それとも遊びでしょうか。「遊びである」と言われると、牧師たちにとってはちょっと困る面もあります。しかしもしこれが皆さんにとって面白くもおかしくもないものになってしまっているとか、何の助けにもならないとか、聞いているだけで不愉快になるというようなものになってしまっているとしたら、牧師たちは相当反省しなければなりません。

牧師たちの説教とイエスさま御自身の説教は根本的に違うものであると言われるなら、そのとおりです。牧師の説教は仕事であると、わたしたち牧師たちがただ言い張るばかりであるとしたら、牧師たちこそが安息日についての戒めの最大の違反者であるということになるでしょう。

説教、そして礼拝は喜び、楽しみ、命を与えるものでなくてはなりません。その意味での遊びでなければなりません。月曜日から土曜日までのあいだに会社や社会や家庭でくたくたに疲れてきた人々が日曜日に教会に来るとますます疲れるということになっているとしたら、それこそが安息日の戒めを破ることであり、それこそが端的に罪です。

疲れは取り去られなければなりません。病気はいやされなければなりません。安息日に病気をいやすだなんてけしからんとか、いやされた人が床を担いで歩くだなんてけしからんとか言いだした人々は、何を考えていたのでしょうか。そのような言い方は、神さまの御心の正反対です。安息日に人の喜びや楽しみを奪うこと、せっかく元気になった人からその元気を再び取り去ること、笑顔を奪い、ますます悲しみと絶望に追いやること。そのようなことは、宗教の風上にも置けない!悪魔的であるとさえ言えます。

イエスさまは続けておられます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」(24~26節)。

ここで言われていることも先ほどから申し上げていることの繰り返しです。イエスさまが安息日になさったことは、人々に命の言葉を語ることでした。その言葉には死者を生き返らせる力がありました。

私も時々、ぞっとするほど疲れていることがあります。生ける屍とはまさにこのことかと感じるほどに。まるでぼろ雑巾のように横たわるしかない時があります。ぐっすり休めばまた立ちあがることができるという時ももちろんありますが、心が疲れているというときには眠ることができない場合もあります。けしからん牧師ですが、本当は家族の前で見せてはならないようなしかめ面をしていることも、ままあります。

そのようなときに、です。私が再び立ち上がることができるのは、聖書の御言葉があるからです。私には命の創造者なる神の御言葉があります。父なる神の御心を地上において忠実に果たされたし、今も忠実に果たし続けておられる永遠の神の御子イエス・キリストの御言葉があります。これがあるから私は立つことができる。生きることができるのです。心に喜びが取り戻される。笑顔が回復されるのです。

そのことを牧師と教会は繰り返し体験しています。そのことを多くの人々に知っていただくために、私は今日もここに立っているのです。

(2009年6月7日、松戸小金原教会主日礼拝)