2006年4月30日日曜日

「人間にできないことも神にはできる」

ルカによる福音書18・18~30



「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』すると議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。」



ここに出てくる「ある議員」とは、ユダヤの最高法院の議員です。当時の国会議員です。その人がイエスさまに近づいてきて、一つの質問をしたのです。



イエスさまは、質問にお答えになる前に、この議員が口にした小さな言葉を取り上げておられます。この人はイエスさまを「善い先生」と呼びました。ところが、イエスさまは、その呼び方をお嫌いになりました。



「先生」をされたことがある方なら理解していただけると思います。「善い先生」とか言いながら近づいてくる生徒がいるとしたら、どうでしょうか。かなり警戒するのではないでしょうか。これは何かあるなと。イエスさまはこの人に、奇妙な言い方をするのはよろしくないと、注意しておられるのです。



質問の内容に入って行きたいと思います。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。これと同じ質問をした人の話がルカによる福音書の中に一度出てきました(ルカ10・25)。



それは「律法の専門家」でした。そのときのイエスさまのお答えの内容と比較してみたいと思います。それで分かることは、前回のイエスさまのお答えと、今回のお答えとは、内容的に見て、基本的に同一線上にあると考えてよいものである、ということです。



前回のイエスさまのお答えは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」でした(10・26)。すると、その人は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えたところ、イエスさまが「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました。



今回のお答えは、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」でした。これらは律法の要約としてのモーセの十戒の後半部分です。ですからイエスさまのお答えの趣旨は、律法に書いてあることは何かをあなたは知っているはずだということです。つまり前回の「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」というお答えと内容的には同じなのです。



「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と、議員は言いました。すると、イエスさまが、一つの厳しい注文を付けられました。しかし、この注文も、前回の場合と基本的には同じ内容であると考えてよいものです。前回は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」というものでした。今回は、どういうものか。



「これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」



この点も、じつは、前回の律法学者に対するお答えの場合と、内容的に一致していると見てよいものです。律法に書かれていること、聖書の御言葉、神の御心を実行しなさい、ということです。御言葉どおり、生きてみなさい。そうすれば永遠の命が手に入ります。それがイエスさまのお答えです。



聖書にはこう書いてある、ということを、知っているとか、勉強しているとか、学問的に正確に理解しているということ。このことも大事なことではあります。しかし、イエスさまがお求めになるのは、それだけではありません。いわば、もっと大切なことがある。それは、聖書のみことばを実行すること、信仰を実践することです。



そして、そのことを前提にしたうえでイエスさまがこの議員におっしゃっていることは、「あなたに欠けているものがまだ一つある」ということでした。



「あなたに欠けているもの」とは、イエスさま御自身がお用いになった表現でいいますと「天に富を積むこと」が欠けているということです。そのために「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分ける」ことです。そして、イエス・キリストに従うことです。



一つ一つ説明が必要だと思います。ここでイエスさまは、明らかに、「天に富を積むこと」と「永遠の命を受け継ぐこと」とを、同じ意味で語っておられます。この点を、まず確認しておきます。



そして、「永遠の命を受け継ぐこと」とは、わたしたちが永遠に生きることができるようになる、ということですから、とりあえず、「天国に入る」とか、その意味での「神の国の住人」になるということと同じ意味であると考えてよいでしょう。しかし、それが、なぜ「天に富を積むこと」と同じ意味になるのか。また、そのためになぜ全財産を売り払って貧しい人々に分けなければならないのか。このつながりはどうなっているのでしょうか。



最も大きな問題は、「天」あるいは「神の国」とは、どこにあるのか、ということです。「天」も「天国」も「神の国」もみな同じです。それぞれ別の場所や空間があるわけではありません。そしてそれは、第一義的に「神の支配領域」です。そこに神がおられ、また、そこを神が支配しておられる、そのような場所が「天」であり、「天国」であり、「神の国」です。それ以外の、あるいは、それ以上の説明は、わたしたちには、できません。



しかしまた、もしそうであるならば、わたしたちにとっては、「神の支配領域」としての「神の国」とは、向こう側の世界であるというよりは、むしろ、こちら側の世界です。今、ここで、わたしたちが生きているこの世界の側に実現する何かです。



そして、その「天」に「富を積む」とは、どういうことになるでしょうか。その意味は「神の国を豊かにすること」です。神が支配しておられるこの世界を豊かにすることです。



ですから、はっきり言いますと、イエスさまにとって「神の国」とは、われわれの積む富によって豊かになったり、反対に、貧しくなったりもする、そういうところなのです。また、その富とは、なんら抽象的なものではなく、非常に具体的かつ現実的なものです。まさに物質的な要素と呼ぶほかはないような何かが「神の国」を豊かにし、貧しくもする。そのような「神の国」を、イエスさまは、お教えになったのです。



イエスさまは、この議員に対して、全財産を売り払って貧しい人に分けることを命じ、そして「わたしに従いなさい」と言われました。これは禁欲主義の教えではありません。そのようなことははっきり言って、どうでもよいことです。わたしたちは何を食べようが、何を飲もうが、何を着ようが、どんな家に住もうが、どんな仕事をし、どれだけ稼ごうが、全く自由です。



むしろ、大切なことは、あなたの目の前に、わたしたちの世界の中に、現実に貧しい人がいるということです。貧しい人々を前にしても、無関心を決め込み、ただひたすら自分の利益をむさぼり続ける。それが果たして本当によいことか。問われていることは、このあたりのことです。



また、イエスさまとやりとりしているのは、まさに当時の国会議員です。



「国会議員であるあなたは、この国の代表者であり、また全国民の生活に対して責任を持っている人々でしょう。しかし、そのあなたに、自分の全財産を売り払ってでも貧しい人々を助けることができるほどの責任を国民に対して感じているでしょうか。あなたの目には、この世界のなかで苦しみ悩む人々の姿が映っているでしょうか。映っていないのではないでしょうか」という問いかけがあると考えてよいと思うのです。



なぜそのように考えてよいかと言いますと、案の定、というのは、意地悪な言い方かもしれませんが、事実として、この議員が、イエスさまの話を聞いて、非常に悲しんだからです。



悲しみの理由は明白です。この人は、根本的なところで自分のことしか考えていない。イエスさまの指摘は図星を当ててしまったのです。



「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」



繰り返し申し上げておきますと、イエスさまが語っておられるのは、禁欲主義の勧めではありません。お金持ちになることが悪いと言われているのではなく、お金持ちが神の国に入ることは難しいと言われているだけです。その難しさに比べれば、らくだが針の穴を通る方が易しい、と言われているだけです。



神の国に入ることができるお金持ちもいる、と信じてよい。もし「らくだが針の穴を通ることができる」としたら、それと同じくらいの可能性ならばあります、ということです。



なぜ難しいのかについての説明はありません。強いて言うならば、そのことは、わたしたちが自分の胸に手を当てて考えてみれば分かることかもしれません。



自分のためにお金を集めるということと、他人を助けるということとは、方向性としては正反対の事柄かもしれません。他人を助けたい人は自分の貯えがちっともできない。余裕のある人は、その余裕を他人のために用いるかというと、そうならない。いかにわたしが豊かになりうるか。すべては自分のため。それくらいの気持ちがなければ、お金持ちになることはできない。それが現実かもしれません。



ですから、大切なことは方向性であると思います。



たとえば、聖書の御言葉を守ることについても、わたし自身の人生を豊かにするためであり、わたし自身が善く生きるためである、と考える方向性もありうると思います。それは厳しい言い方をすれば、宗教的な装いをもった利己主義です。そこに欠けているのは他人への関心です。共に生きている人々、あなたを支えてくれている人々のことが、全く見えていないのです。



方向を逆転させる必要があります。自分の存在も、自分の持ち物も、じつは、すべてが自分のためのものではなく、共に生きる人々のものであり、この世界を豊かにするためのものである。その意味での、神の国の豊かさのため、天に富を積むためのものである、ということに気づく必要があります。そして、現実に方向転換する必要があるのです。



その方向転換をしないかぎり、わたしたちの人生は、最後の最後に、とても寂しいものに終わる可能性があります。巨万の富を得るために、その結果として、多くの友人を失ってしまう人々がいます。最後の最後に何も無くなり、友人もいない。19章に登場する取税人ザアカイは、金持ちでしたが、イエスさまに出会うまでは寂しい人だったのです。



「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」



「人間にはできないことも神にはできる」。これは「らくだが針の穴を通ることができる可能性」という点の言い換えである、と理解することができるでしょう。



何度も言うようですが、ここでイエスさまは、お金持ちの人が神の国に入ることは100%不可能である、とは語っておられません。「らくだが針の穴を通る可能性」と同じくらいの可能性ならばありうるし、また「人間にはできないが神にはできる」という意味で、まさに神のみになしうる事柄としての可能性は残されている、ということです。



しかし、これによって、「できません」ということに限りなく近いことが語られているということは、誰でも理解できることでしょう。



わたし自身は、皆さんに対して、あまり「あれか・これか」を迫りたくはありません。わたし自身は、「お金持ちのクリスチャン」や「お金持ちの牧師」がいてよいと考えております。しかし、ここでわたしたちに「あれか・これか」を迫っているのは、イエスさま御自身です。



自分の持ち物を世のため、人のためにささげ、イエス・キリストに従うか。



それとも、どこまでも自分の利益のみを追求する道を選ぶか。



そのあたりに、わたしたちの人生の大きな分かれ道が、置かれているのです。



(2006年4月30日、松戸小金原教会主日礼拝)





2006年4月23日日曜日

「子供のように神の国を受け入れなさい」

ルカによる福音書18・15~23



今日は二つの段落を続けて読みました。両方の段落に共通するキーワードがあります。それは「子供」です。



最初の段落に紹介されているのは、イエスさまのところに乳飲み子を連れて来た人々のことをイエスさまの弟子たちが叱ったところ、そのようなことを言う弟子たちのことを、イエスさまがお叱りになった、という出来事です。



「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。」



「イエスに触れていただくために・・・連れて来た」とありますが、この人々は、子供たちをどこに連れて来たのでしょうか。



考えられるのは、安息日またはそれ以外の日に、ユダヤ教の会堂または野外で行われていた礼拝の中で、イエスさまが聖書に基づく説教をしておられた、その場所であるという可能性です。その礼拝の出席者の中に、乳飲み子を連れて来た人がいたのです。



もしそうでないとしたら、乳飲み子を連れて来た人々を弟子たちが「叱った」理由を説明することは、ほとんど不可能です。弟子たちがその人々を叱った理由は、書かれていません。しかし、考えられるのは、おそらく一つのことでしょう。



もしその一つのこと以外の理由であるとしたら、弟子たちのしたことを理解することは、わたしには、全く不可能です。イエスさまのみもとに乳飲み子を連れて行くことが、どうして叱られなければならないことなのでしょうか。全く説明ができません。



しかし、です。もしわたしが考えるこの一つの理由に限っては、それを“理解”することは、わたしにはできないのですが、“説明”くらいならば、できるかもしれません。



もし教会の礼拝というこの場所が、第一義的に「説教を聴く場所」であるということが一般的な前提理解となっているような場所であるならば、わたしはこの点を説明することくらいはできます。礼拝が説教を聴く場所であるということと、その礼拝の中に乳飲み子が参加していることは、ある意味で矛盾する関係にある、ということは否定できないからです。乳飲み子の仕事は「泣くこと」だからです。



しかし、イエスさまはその人々を叱った弟子たちを、お叱りになりました。弟子たちがその人々を叱ったことを、お叱りになったのです。



「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。』」



これこそがイエスさまの結論であり、また、わたしたち教会の出すべき結論です。



イエスさまは、「乳飲み子たちを」みもとに呼び寄せられました。「親たちを」ではありません。「乳飲み子たち」を、イエスさまが、わたしのところに来なさいと呼び寄せられたのです。



よく考えてみていただきたいことは、もしそこが、イエスさまが説教をされている礼拝の場所であるとすれば、その礼拝の真ん中は、イエスさまが立っておられる場所である、ということです。おそらくそれは会堂の真正面であり、全会衆の視線が集まっている礼拝の中心部分です。



そこにおられるイエスさまが、乳飲み子たちを呼び寄せられた、ということは、乳飲み子たちの存在が、礼拝の中心に集められた、ということです。



そうすると、どうなるのでしょうか。当然のことというべきでしょう、乳飲み子たちは、ところかまわず泣くでしょう。その泣き声で、イエスさまの話も何もすべてかき消されてしまいます。



先日、「赤ちゃんが産まれました!」という知らせを聞いたすぐあとに、病院までお見舞いに行きました。赤ちゃんの顔を見せていただきましたが、ガラス張りの同じ部屋に、ほとんど同じ日に産まれた赤ちゃんたちが、たしか10人くらい並んで寝かされていました。一斉に泣いていました。しかし、かなり分厚い防音ガラスが張られていたからでしょう、廊下まで聴こえてくる声は小さなものでした。



あの防音ガラスがないとなれば、どうなるのでしょうか。わたしたちの教会の聖歌隊もびっくりの、大音量の大合唱ではないでしょうか。



イエスさまが乳飲み子をお招きになったとき、その場所は、まさに騒然となったのです。しかし、大切なことは、そのことをイエスさま御自身が望まれたのだ、ということです。それを止めようとした弟子たちのほうが、イエスさまから叱られたのです。



「『神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」



これは、どのような意味に理解すればよいのでしょうか。「神の国はこのような者たちのものである」という点と、それに続く「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という点との関係が、やや気になります。



前者の「このような者たち」が指していると思われるのは、明らかに「乳飲み子」です。ところが、後者の「子供のように神の国を受け入れる」と言われている中の「子供」とは、まさに「神の国を受け入れること」、つまり、そこには何らかの自覚的で・主体的で・積極的で・理性的な「受けいれる」という行為を行ないうる「子供」の存在が前提されているようにも読めます。



もちろん「子供のように・・・受け入れる」とは、子供のように無邪気に、という意味でしょう。また、ここで「子供」は年齢の問題だけではなく、親に対する子供という意味です。親の存在を受け入れる子供のように神の存在を受け入れ、神の国を受け入れなければ、という意味です。



それはそれでよいと思います。しかし、「神の国を受け入れる」となると、そこには必ずなんらかの自覚や主体性が求められるように思われます。そういうことは「乳飲み子」には不可能です。



ですから、前者と後者、「神の国はこのような者たちのものである」という点と、「子供のように神の国を受け入れる人」という点とを論理的に切り分けて考えてみることは不可能ではないように思います。



そして、わたしたちにとって大いに気になるところは、要するに、イエスさまの御心はどちらなのだろうかということです。イエス・キリストの御名によって行われている礼拝に参加してもよいのは「乳飲み子」であろうか、それとも「神の国を受け入れる」ということを自覚的・主体的・積極的・理性的になしうる年齢に達している子供たちだろうか、ということです。



しかし、結論ははっきりしていると思われます。もちろん前者です。「乳飲み子」です。イエスさま御自身がそのことをはっきりとおっしゃっているからです。イエス・キリストの御名によって行われている礼拝に、(泣くのが仕事の!)乳飲み子が参加するのを妨げることは、イエスさまご自身によって禁じられているのです。



ですから、このことがはっきりしている以上、わたしは、むしろ、このことから反対に、礼拝とは何なのかということを考え直して行くとよいだろうと、考えております。



先日、3月19日(日)の教会勉強会で、わたしがお話しいたしましたことは、「牧師の説教だけが礼拝のすべてではない」(「教会の生命としての礼拝」参照)ということです。



礼拝には、説教だけではなく、他にもたくさんの要素があります。司式者の長老が必要であり、賛美歌の奏楽者が必要です。出席してくださるみなさんひとりひとりが必要です。受付の奉仕者、献金の奉仕者、さまざまな奉仕者が必要です。日曜学校の先生たちが必要であり、週報や月報を作ってくださる長老が必要です。多くの人の力によって教会が成り立ち、礼拝が成り立っています。礼拝を牧師の独り相撲の場にしてはならないのです。



この点から考えてみたときに、です。たとえばの話ですが、「牧師の説教を静かに聴くことができるどうか」という点だけから、その静けさを確保するという目的で、その静けさを妨げることにつながるあらゆる要素を礼拝から取り除くことが、本当にふさわしいことだろうか、ということを、わたし自身は考えざるをえないのです。



もちろんわたしは、こういうことをはっきり言い過ぎると、いろんな波紋が起こりかねないことを知っているつもりです。しかし、あまり口ごもっていることも、よろしくないでしょう。



乳飲み子の泣き声で説教が妨げられる、というようなことを、気にすることはない、というのが、わたしの結論です。それが理由で乳飲み子を礼拝に連れてくることができないとお考えになる方が一人もいないことを、期待します。



乳飲み子が泣くのは、おしゃべりとは違います。おしゃべりの場合は、「ちょっと、そこ、静かにしてください」と注意するかもしれません。しかし、乳飲み子に「泣くな」と言えるでしょうか。乳飲み子を抱えた親たちは、礼拝から排除されなければならないのでしょうか。



わたしたち夫婦の経験からしても、いろいろな意味でいちばん辛かったのは、子供たちが小さかった頃です。わたしたちは、人生の中で最も辛いときにこそ、神の御言葉を聴くべきです。乳飲み子を抱えた親たちこそが、この世の中で最も礼拝の説教を聴くべき存在なのかもしれないのです。



子供が泣こうが騒ごうが、それが理由で礼拝に出席できない親たちが一人もいないことを、わたしは期待します。乳飲み子と親の存在は、セットで考えるべきです。イエスさまが、乳飲み子たちがみもとに来ることを妨げてはならないとおっしゃったことには、親に対する配慮という面もあったのではないかと考えるのは無理なことではないと思います。



ところで、親が、あるいは大人が、子供たちを礼拝に連れてくることの意味は何でしょうか。今日お読みしました二段落目に書かれていることが、この問いにかかわってきます。



「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』すると議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」



ここに出てくるのは、「ある議員」とイエスさまの二人です。「議員」とはユダヤの最高法院の議員です。



注目していただきたい個所は、イエスさまがこの議員に「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟を、あなたは知っているはずだ」と言われたのに対し、この議員が「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えているところです。



ここに「子供」というキーワードが出てきます。なぜこの点に注目していただきたいかと言いますと、この発言は、この議員の人にとっては、間違いなく、自分自身の良い意味でのプライド、矜持(きょうじ)に満ちた告白である、ということです。



わたしは、子供の頃から今日に至るまで一貫して、神の御言葉を、聖書の教えを守ってきました。この点では、右にも左にもそれずに来ました。このように語ることができるのは、やはり幸せなことです。そうではないでしょうか。



そして、ここで考えていただきたいことは、この人が「子供の頃から」と言っている言葉は、彼自身が子供の頃から(ユダヤ教のではありますが)「教会」に通っていた、ということを事実上意味するわけですが、その背景には、この人の親の存在がある、ということは否定できないのです。



彼自身が、子供の頃から、自分ひとりで聖書を学び、自分ひとりで神の御言葉に従ってきたと言えるでしょうか。おそらくそうではなく、親がこの人に、子供の時から、聖書の御言葉を学ぶように教え、神の御言葉に従って、しつけてきたのです。



そのことが大切である、と思います。赤ちゃんのときから自分の意志で教会に通いたいと願ってきたといえる人は、ひとりもいないのです。むしろ、赤ちゃんのときには、連れて来られるだけです。



しかし、その時期を越えれば、この議員の人のように、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」ということを、良い意味での自信や矜持をもって語ることができるようになるのです。



子育てには我慢と苦労が必要です。教会の子供たちを育てることにも我慢と苦労が必要なのです。それを乗り越えた先を期待しましょう。この子供たちが、神の栄光を表わす者へと、成長していくのです。



(2006年4月23日、松戸小金原教会主日礼拝)





今持っているものを固く守れ


ヨハネの黙示録2・18~29

ティアティラ教会に書き送られたイエス・キリストの手紙にも、他の教会と同じように、ほめられるべき点と、責められるべき点との両方が、書かれています。

「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。」

これは、ほめられるべき点です。とくに注目したいのは、後半部分に書かれていることです。

「行い」とは、聖書の御言葉とキリスト教信仰とに基づく、キリスト教的な行いです。これが、最初のころよりも、近ごろのほうがまさっている、と言われているのですから、時間の流れの中で、変化があり、進歩があり、成長がある、ということです。

そういうことがある、ということを、わたしたちは否定すべきではありません。教会に何十年通いました。信仰生活を何十年続けてきました。そういう場合に、わたしたちは、行いの面でも、なんらかの変化があり、進歩があり、成長もあると、信じることができるのです。

とはいえ、しかし、そのことがわたしたちに起こるのは、自動的なことであるのか、というと、そういうふうには言えません。教会に何十年も通い、信仰生活を何十年も続ける、ということの中で、わたしたちが体験することは、教会の中には必ずある「訓練」という要素です。

礼拝に出席するということだけでも、そこには必ず、訓練という要素があります。洗礼を受けたばかり、まだ数年しか経っていないという人にとって、礼拝は、一回一回が新鮮な感動に満ちあふれているものかもしれません。

ところが、それがだんだんマンネリ化してくる。退屈に思えてくる。だからこそ、マンネリ化との戦いというテーマが、わたしたちの信仰生活にとっての重要な課題にもなってくるわけです。

40年、50年の信仰生活を送ってきた人は、一体、何回の礼拝、何回の説教を聴いてきたのでしょうか。1年に52回の日曜日があるとして、それをたとえば50年間続けるとどうなるか。52回×50年=2600回の礼拝が行われ、その回数だけの説教を、聴いてきたことになるでしょう。

また、教会の中には、牧師・説教者がしょっちゅう替わる教会もあれば、40年とか50年間という長さで、たった一人の牧師が、そこで説教をしてきたという教会もあります。みなさんは、一人の牧師の説教を2600回聴くことができますでしょうか。とても耐えられないと思う方も多いのではないでしょうか。もしかしたら、そのようなひどい目に遭うのは、その牧師のおくさんかもしれません。

そう考えますと、いわばただ礼拝に出席するだけで、他の特別な奉仕は何もしていない、という人であっても、50年くらい礼拝生活を続けてくること自体において、十分な訓練を受けてきたことになるし、うんざりするほどの過酷な修行を積んできたことになるのです。

説教を聴くことを軽んじるなかれ。人の話を聴く訓練は、実際に体験したことがある人なら誰でも、それがとても大変なものであるということを理解していただけるでしょう。

そしてそのような教会的な訓練の中で、わたしたちの行いが変化し、進歩し、成長するということが、必ず起こる、と信じてよいのです。しかしまた、そのわたしたちの変化が起こるのは、いわば教会で「訓練」を受けたからである、ということも事実として認めるべきでしょう。

「わたしは、教会で洗礼を受けました。しかし、それ以降はほとんど教会には通っていませんし、礼拝にも出席していません。説教も聴いていないし、聖書も学んだことがありません」という人であっても、「洗礼を受けている」だけで、行いの変化が起こるだろうか。そのような「自動的な変化」が起こるかどうか。全くありえないとは言えないかもしれませんが、非常に難しいことであると語ることは許されるだろうと思います。

わたしが強調したいことは、わたしたちが信仰的に成長していくためには、教会の活動に参加することが必要である、ということだけです。場合によっては、長老や執事、日曜学校の教師といった責任ある立場に就くことも、わたしたちが信仰的に飛躍的に成長していくために、必要な道であるとも言えるでしょう。

ティアティラ教会に所属している人々にも、行いの成長ということが、実際に起こった。このことは、ほめられるべき点です。

ところが、です。ティアティラ教会には、責められるべき点もあった、ということが、次に記されています。

「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。」

このイゼベルという女性が何者なのか、ということについては、ここに書かれていることしか分かりません。自称「預言者」であり、みだらな行いや偶像礼拝を自ら行い、また教会員たちにも勧める。教会員を惑わし、ごまかし、ペテンにかける。

そういう人の存在を、ティアティラ教会の人々は「大目に見ている」。これが、責められるべき点です。

「大目に見る」とは、見て見ぬ振りをすること、あるいは、それが発覚しても、お咎めなしとする、ということでしょう。

もちろん、そんなことが頻繁にあってはならないことですが、わたしたち日本キリスト改革派教会の場合は、たとえば、教師や長老、あるいは教会員の中に、みだらな行いをしているということが明確になった場合には「戒規」という訓練を受けていただくことになります。そのことを皆さんは、よくご存じです。

とはいえ、もちろん、そこに「大目に見る」ということが全くないかというと、そんなことはありえません。わたしたちは、可能な限り大目に見るのです。こんなに許してよいのかと思うくらいに、あほじゃないのかと批判されるくらいに、どこまでも許し続けるのです。

しかし、です。そこには限度があることも知るべきです。ただし、それはわたしたちの堪忍袋の緒が切れる、ということではありません。戒規の目的は、その人が不適切な行為、みだらな行いを続けるのをやめさせること、そして自分の罪を認めさせ、悔い改めさせることにあるのです。

大目に見ることに限度がある、というのは、わたしたちの忍耐と寛容に限度がある、という意味ではありません。その人が自ら行うみだらな行いによって、自分自身の身に裁きと滅びを招いている、ということを知らしめることが、わたしたちの責任であるゆえに、いつか必ずその人に向かって、主の御言葉に基づく罪の宣告を語らざるをえない、という意味です。

「見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい目に遭わせよう。」

ここで、わたしたちがつい、裁きの内容の激しさに目を奪われて、読み落としてしまいがちなのは、「その行いを悔い改めないなら」という条件です。これは執行猶予つきの裁きです。

神は、とことんまで、忍耐と寛容を示してくださいます。わたしたち人間が悔い改めるのを待っていてくださいます。罪を犯したものを打ち殺すという、ただこの面だけを見てはならないのです。

そしてまた、わたしたちにとって大切なことは、そのような、みだらな行いを勧めたり、偶像礼拝のようなことを教えたりする偽預言者、偽教師のような人の後について行ってはならない、ということです。

同じ罪と言っても、「教師」を名乗る人が犯す罪と、そうでない人が犯す罪とでは、重さが違います。教師の犯す罪のほうが重いのです。

それはまた、「教師」を自称しているだけで中身は偽物である、という人であっても、その人の語る言葉や行いが持っている影響力は、大きいのです。だからこそ、その人の言葉や行いが犯す罪は、大きいのです。

もちろん実際には、「教師」を名乗る人の語る言葉や行いに、教師でない人々が逆らうことには、勇気が必要ですし、困難が伴います。

しかし、もしそれが必要なときには、わたしたちは、その勇気を持たなければならないのです。

「ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。」

この「今持っているもの」とは、正しいキリスト教信仰のことであり、また正しい信仰に基づく正しい行いのことです。

それを守ることが大切です。保守的であることのすべてが、恥ずかしいことではありません。

信仰生活のマンネリ化は、改善されていくべきですが、目新しいが間違っているというような教えに走ってよいわけではありません。目新しさや斬新さには、同時に危険が伴うことも事実です。

わたしたちは、惑わされてはならないのです。

(2006年4月23日、松戸小金原教会主日夕拝)


2006年4月16日日曜日

信仰は試練によって本物と証明される


ペトロの手紙一1・3~9

イースターおめでとうございます。今日は、わたしたちの救い主、イエス・キリストが死者の中から復活されたことを記念する、復活日の礼拝です。

わたしたちキリスト教の教会、全世界の教会は、二千年の間、イエス・キリストの復活を信じてきました。これがわたしたちの信仰であり、希望です。

使徒パウロは、もしキリストが復活しなかったのだとしたら、わたしたちキリスト教の教会が宣べ伝えていることは無駄であるし、キリスト教の信仰も無駄であると、はっきり言っています(一コリント15・14)。

要するに、教会などやめちゃったほうがいいし、毎週日曜日の礼拝に通う必要はない。牧師や教会役員(長老・執事)の存在も、教会の建物も無意味である。パウロの言おうとしていることは、これくらい激しいことです。

もちろん、それは、もしイエスさまが、キリストが復活しなかったとしたら、という話です。しかし、パウロが本当に言いたいのは、正反対のことです。

イエス・キリストは復活されたのです。これは本当のことなのです。そのことを、声を大にして言いたい。命をかけて言いたい。実際にパウロは、このイエス・キリストの復活を宣べ伝えることのために命をかけ、まさにそのために命を捨てた人です。

先ほどお読みしましたのは、使徒ペトロの手紙です。ペトロもまた、イエス・キリストの復活を、心から信じ、声を大にして宣べ伝えた人の一人です。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」

ここでペトロは、わたしたちの主イエス・キリストの父である神」が「死者の中からのイエス・キリストの復活」によって、わたしたちに、「生き生きとした希望」を与えてくださった、と書いています。

もう少し短く言えば、神がイエス・キリストの復活によってわたしたちに希望を与えてくださった、ということです。つまり、イエス・キリストの復活は、わたしたちの希望である、ということです。キリストの復活は希望である、ということです。

なぜ、キリストの復活が希望なのでしょうか。少し説明が必要かもしれません。イエスさまというお方は、イエスさまに反対する人々の手によって殺されたのです。そのあたりから話を始めなくてはなりません。

今でもそういう人はたくさんいますが、イエスさまの時代にも、自分に都合の悪いことを言ったりしたりする相手がいると、簡単に殺す人がいます。「死人に口なし」と言います。要するに、自分にとって都合が悪いことを言う人を殺して口封じをするのです。「臭いものに蓋」は、少し意味が違うかもしれません。しかし、ひとの口に蓋をしようとする人が、世の中には、たくさんいるのです。

しかし、これは他人事でしょうか。わたしたちも、同じようなことを考えることはないでしょうか。わたしの心の中には罪があります。また、人の目に見えないところで、実際に悪いことをしてしまうことがあるのです。

しかしまた、少し言い訳がましい言葉になるかもしれませんが、わたしたちが心の中で他人に対して悪意や殺意を抱くことと、たとえば、影響力の大きな人々、たとえば一国の王とか大統領とか総理大臣とかその他の政治家とか、学校の教師とか、大きな会社の社長とか、あるいは大きな宗教団体の宗教家とかが考えるのとで、全く同じとは言えないのではないか、という点は、考慮しなければならないはずです。

自分の都合の悪いことを言ったりしたりする人を、殺したいとか死んでほしいと願う。このことを、たとえば、一国の王が願い、自由自在に実際にその相手を殺すことができる時代。格好をつけるつもりはありませんが、わたし自身は、その種の権力を手に入れたいと願う人の気持ちが、全く理解できません。

権力を持っている人、そのような立場に就いている人には、他の人々よりも大きな責任があるのです。その人々の抱く悪意や殺意は、その国全体、ひいてはその時代全体を暗くします。イエスさまが十字架に架けられて殺された時代とは、まさにそのような暗い時代、悪い時代だったのです。

しかし、使徒ペトロは、イエス・キリストの復活はわたしたちの希望である、と語っています。ペトロの時代は、イエスさまと同じ時代です。暗い時代であり、悪い時代です。その中でペトロは、「生き生きとした希望」を語ります。希望など、どこにもない。ただ絶望するほかないような時代の只中で、イエス・キリストの復活を信じる信仰に基づく希望を語っているのです。

なぜキリストの復活が希望なのか、という問いに対する答えは、まだ申し上げておりません。答えはこれからです。考えていただきたい問題は、死人に口なし、臭いものには蓋、面倒な奴は殺してしまえ、このようなことが横行していた時代に、イエスさまが死者の中から復活された、ということは、何を意味するのか、ということです。

ごく分かりやすく言います。イエスさまの復活によって明らかになったことは、イエスさまの父なる神さまというお方は、だれか人間が口封じしようとした相手の口をお開きになるお方であり、「臭いものが入っているから」という理由で、だれかがふさいだ蓋を取り去られるお方である、ということです。

別の言い方をすれば、権力や暴力によってイエス・キリストの口を封じること、イエス・キリストがお語りになる神の御言葉を封じることはだれにもできなかったということです。

これは、わたしたちにとって喜ぶべきことであると、思っていただきたいところです。ごく一般的なところから言えば、言論の自由、表現の自由、結社の自由、そして信教の自由などに通じる事柄でもあります。

もちろん、イエス・キリストの復活によって明らかになったことは、そのような、いわゆる基本的人権の問題だけに限られるものではありません。いわばもっと広いこと、もっと大きなことです。

何を信じてもよいという自由が保障されているということも大事です。しかし、もっと大事なことは、真実とは何かという問いを抱くこと、そしてその問いに答えが与えられることです。イエス・キリストがお語りになったのは、父なる神の御心であり、まさに真実の言葉です。

その言葉をイエスさまがお語りになることを、だれにも止めることができませんでした。口封じなどできませんでした。十字架に架けて殺しても、三日目に蘇って、御言葉を語り続ける、それがイエス・キリストというお方なのです。

イエス・キリストは復活して、今は天の父なる神さまのもとにおられ、二千年前の人々に神の御言葉をお語りになったように、今のわたしたちに対しても、聖霊なる神の働きを通して、聖書と教会を通して、生きた御言葉を、語り続けておられます。

わたしたちは、教会で、聖書を通して、過去の歴史の記録を勉強しているだけではありません。教会の礼拝は、世界史の授業ではありません。

わたしたちがしていることは、今生きておられるイエス・キリストの御言葉を、聖書を通して、わたしたち一人一人の心の中で聴きとることです。イエスさまの御心を悟り、わたしたちが今の時代を、現実の世界を、日常の生活を、どのように生きるべきかを考え、決定することです。

ですから、逆に言えば、使徒パウロが語った、もしキリストが復活しなかったとしたら、教会の宣教も信仰も無駄です、という言葉は、とても乱暴ではあると思いますが、しかし、なるほど正しいと言いうるものであることが分かります。

イエスさまが二千年前に復活され、今も生きておられるからこそ、わたしたちは、教会や礼拝には意味があると信じることができるし、また、わたしたちが信じているこの信仰には意味がある、と確信することができるのです。

わたしたちにとって「生き生きとした希望」とは、まさに、イエス・キリストが今、生きた言葉をわたしたちに語ってくださるという信仰から生まれるものなのです。

「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

今日の説教の題名は、今お読みしました個所の中の「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明される」という御言葉から、採らせていただきました。

「試練」とは、日本語としても、宗教的な意味合いが強いようです。広辞苑には「信仰または決心のかたさをこころみためすこと。また、そのための苦難」と定義されています。

ですから、試練を受けるとは、信仰が試されることです。このわたしの信仰は、本物であるかどうかが、そこでまさに試されるのです。試験を受けるわけです。そしてその試験の結果として、このわたしの信仰の確かさ、正しさが、まさに証明される。「あなたの信仰は本物です」という保証書、神さまからのお墨付きをいただくことができるのです。

苦しみや悩みがあると信じることをやめる。その信仰は本物でしょうか。それは本物ではない、偽物であると、すぐに言い切ってしまうことは、やめましょう。

苦しみや悩みがあるとき、つらいときは、本当につらいのです。今、現実の苦しみに押しつぶされそうになり、信仰を失いかけている人に向かって、「あなたには信仰が足りない」とか「あなたの信仰は偽物だ」と言い放つことによって、つらい人の心をさらに傷つけ、追い討ちをかけるようなことは、やめましょう。

しかし、です。全くの愚問かもしれませんが、どうか腹を立てずに聴いていただきたいと願うことがあります。

それは、わたしたちに現実の苦しみや悩みがあるときに、同時に信じることもやめてしまうならば、果たして、その先、わたしたちは、みなさんは、どうやって生きていくのでしょうか、という問いです。

だれかが助けてくれるでしょうか。神さまとか宗教は信じない。わたしは人間を信じる。お母さんやお父さんを信じる。隣のおばちゃんを信じる。テレビの司会者を信じる。有名な人が書いた本を信じる。それで十分に間に合っていますというのでしたら、それはそれで、わたしは尊重します。

しかし、その上であえて問いたいことは、その人々は本当にわたしたちを最後まで助けてくれるでしょうか、ということです。

わたしたちの救い主なる神イエス・キリストを信じることは、少なくともわたし自身にとっては、苦しみや悩みがあるから信じない、ということとは、逆の道筋、正反対の方向性においてしか、とらえることができないものです。

苦しいから信じるのです。もちろん、苦しくなくたって信じてよいわけですが。しかし、わたしたちは、悩みがあるから信じるのです。苦しいときの神頼みで、大いに結構です。

これで神さまが助けてくださらなかったら本当の絶望です。イエス・キリストが復活されなかったとしたら、絶望です。

これは、格好をつけているのでも何でもない、わたしたちにとって、本当の真実の言葉です。

(2006年4月16日、松戸小金原教会主日礼拝)

2006年4月9日日曜日

「十字架の上で救われた人―受難週―」

ルカによる福音書23・39~43



今日開いていただきました個所の登場人物は、三人です。まんなかにイエスさま、その右側と左側に一人ずついます。三人とも十字架の上です。絶望的な状況であると言うべきでしょう。



ところが、です。やや不謹慎であるとは思いますが、わたしは、この個所を読むたびに、面白いと感じます。三人が十字架の上で大いに語り合っています。もちろん状況は、ものすごく深刻なものですので、面白がっている場合ではないかもしれません。



しかし、どういうことでしょうか、おだやかで、なごやかな雰囲気に満ちている会話が交わされています。



たとえどんなに絶望的な状況であっても、イエスさまが共におられる時と場所においては、このような穏やかさ、和やかさが生まれるのです。そのように信じてよいのです。



イエスさまの隣の十字架にかけられていた二人のうちの一人が、イエスさまをあざ笑いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。



この言葉は、もちろん、この人自身が本当にそう考えたので、自分の考えどおりのことを言ったのであると理解することも可能でしょう。しかし、もう一つ考えられることは、この人が語っている言葉は、はじめから自分ひとりで考えた末に至った結論、というようなものではないかもしれない、ということです。



そのように考えることができる一つの根拠があります。それは、この人が言っているのとほとんど同じ言葉を、この直前に二回、しかも、それぞれ別の人々が言っていたということが、はっきりと記されているからです。



まず、ユダヤの最高法院の議員たちがイエスさまをあざ笑いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23・35)。



次に、ユダヤに駐留していたローマ帝国の兵隊もイエスさまをあざ笑いました。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23・36)。



この文脈から明らかなことは、議員も言う、兵隊も言う、その言葉をおそらく他の多くの人々が聞いているわけですが、十字架にかけられたこの犯罪人も聞いていたに違いない、ということです。



そして、その言葉に、この犯罪人もまた深く共感している、という第一の可能性がある。あるいは、第二の可能性として、あの議員たちや兵隊たちが言っていることを、おうむがえし、受け売りしているようでもある、ということです。



他の人が言っているから、わたしも言いたくなった。他の人が言っているから、わたしも言ってもよい。この人はそのように考えた可能性があります。うんと批判的な言い方を許していただけば、この人には主体性がありません。自分の頭で深く物を考えていません。他人の意見や周りの雰囲気に流されやすい傾向がある、と言えるでしょう。



みんなと一緒になって、同じ言葉を、イエスさまに向かって吐き出す。



「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」



あなたって「救い主」なんでしょ。自分を救うこともできないのに、なんでそんなエラそうなことを言えるのですか。そのように、言いたいわけです。



ですから、この人がイエスさまに言いたいことは、本当に自分を救ってもらいたい、という意味ではおそらくなく、できないことを「できない」と認めなさい、と言いたいだけです。そのようにして、イエスさまの心に、なんとかしてダメージを与えたいだけです。



この人は、どうして、イエスさまに、できないことを「できない」と認めさせたいのでしょうか。それは、おそらく、彼自身がいろんなことに敗北してきた人だったからです。自分に負け、人生に負け、世間に負けたのです。



ところが、です。このわたしの目の前に、自分はすでに十字架の上に張りつけにされているにもかかわらず、この期に及んでも、何一つあきらめてないように見える人がいる。そのことが、許せなかったのです。



議員たちについても、兵士たちについても、同じことが言えるように思います。彼らは、イエスさまを「自分を救ってみろ」という言葉であざ笑いました。もちろん、自分を救うことはお前にはできないだろう、という意味です。十字架上のイエスさまの無力さを笑うためです。そして彼らも、イエスさまの口から一種の敗北宣言を聞きたかったのです。



彼らはなぜ、そのような言葉を聞きたいのか。彼らもまた、いろんなことに敗れてきた人々だったからでしょう。プライドだけは高いのですが、彼らには、人を助けることも、救うこともできなかったのです。



ところが、彼らの前に、十字架の上にあっても、何一つあきらめていないように見える存在が現われた。この人は敗れていない。そのことが許せなかったのです。



ところが、です。イエスさまの隣に十字架につけられていた二人の人の内のもう一方の人は明らかに違いました。この人も、犯罪人として十字架に架けられた人ではあります。しかし、この人は、十字架の上で自分の犯した罪を思い起こし、深く悔い改め、反省し、そしてその上でイエスさまを信じる信仰へと導かれ、自分が救われることを心から願ったのです。



もう一人の人との決定的な違いがある、と言えるでしょう。



「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」



ここに書いていることで明らかなことは、この人は今、自分が十字架にかけられていることは、「自分のやったことの当然の報い」であるという自覚があった、ということです。死罪に当たる罪を犯した、という自覚が、この人にはありました。



自分の罪を認め、反省すれば、その人の罪は、すっかり無くなってしまうのかというと、おそらくそうではありません。被害を受けた人の心や体の傷、あるいは生活上の損害は、永久に残り続けるものです。



しかし、です。「牧師さん、それは甘いよ」と言われてしまうかもしれませんが、しかし、です。いろいろなケースを考えてみても、犯罪の被害にあった人々や、その家族の人々にとって、加害者に対して最も強く求めることは、何よりも自分の罪を認めて反省することです。それだけであると言ってもよいほどです。



賠償請求とかなんとかも、お金が欲しいわけではないと考えている人が多いのです。加害者に求めることは、ただひたすら、自分の罪を認め、反省すること、ただそれだけである。そのように、多くの人は、願うのです。



イエスさまの隣にいたもう一人の犯罪人は、「自分の罪を認め、反省していた」という点については、クリアしていた、ということを、わたしたちは、今日の個所から、確認することができるでしょう。



そして、もう一つの点として、この人は「自分の罪を認め、反省した」上で、イエス・キリストを信じる信仰へと導かれたということを、確認することができます。



第一に、この人は、イエス・キリストは「何も悪いことをしていない」ゆえに、十字架にかけられるべきではないお方である、ということを、はっきりと明言しました。



そのことを、この人は、いわば十字架の上に至って、自分の死の直前になって、初めて認識したのです。もちろん、この人を「世界で最初のキリスト者」と呼ぶのは言いすぎだと思います。しかし、この人は、十字架の下にいるだれ一人として認めなかった「イエスさまは無罪である」という事実を、最初に認め、公に告白したのです。



「この方は、何も悪いことをしていない」と、彼は言いました。「悪いこと」とは、もう少し原文に即して言い直しますと、「不適切なこと」とか「見苦しいこと」とか「無作法なこと」というようになります。それは「罪」よりも広い意味です。



「罪」とは、第一義的には、法を破ることです。しかし、法を破るまでには至っていないが、きわめて不適切なこと、というのが存在します。それは罪よりも広い意味です。



ですから、ここで彼が言っていることも、イエスさまは、「罪」を犯されなかったというばかりか、もっと広い意味での「不適切なこと」さえも、なさらなかった、という意味で、理解してよいだろうと思われます。



第二に、この人は、十字架の上で、イエスさまに対し、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。



謙遜な願いである、と言ってよいでしょう。この願いには、少なくとも次の二つの意味が込められていると思います。



一つは、イエスさま、あなたは神の国においでになる、という確信です。



そして、もう一つは、わたし自身はあまりにも罪深いので神の国に入ることはできそうもない。しかし、そんなわたしでも、イエスさまに覚えていただくだけで満足である、ということでしょう。



わたしたちが、自分は間違いなく天国に入ることができます、という確信を持つことが間違っているわけではありません。わたしは、そのことをはっきりと申し上げておきます。わたしたちが、そのことについて、どうして確信を持ってはいけないのでしょうか。



このようにわたしが申し上げることには、一つの理由があります。わたしがこれまでの牧師生活の中で出会ってきた人々の中に、「わたしは天国に入ることができますという確信を持つことは傲慢である」という考えを持っている人々がいたからです。



わたしは、それは間違いであると考えております。天国の確信を持つことは、間違いではありません。わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのですから、信仰を持っているすべての人々には、天国に入れていただけることについての確信を持つことが許されています。



確信を持つことが許されているのに、持たないこと、持とうとしないことのほうが、間違いなのです。



しかし、です。「わたしを思い出してください」としか語ることができなかったこの人の気持ちも、まさに痛いほど分かります。



この人は、イエスさまの前で自分の罪を悔い改め、かつ反省し、自分の犯した罪の重さを知れば知るほど、「イエスさま、わたしを天国に連れて行ってください」と語ることは、できなかったのです。わたしには、その資格がないと、心底感じられたのです。



悔い改めとは、ひょっとしたら、そのようなものかもしれません。つまり、それは、「自分は天国にふさわしくない人間であると自覚すること」です。



これは、先ほど申し上げた「わたしは天国に行くことができると確信すること」とは、矛盾するかもしれません。しかし、この矛盾を同時に語ることが、信仰の奥義というべきものではないかと思います。



「すると、イエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」



このイエスさまの御言葉は、十字架の上で、真の救い主イエス・キリストとの出会いを果たし、自分の罪を悔い改め、反省した人にとって十分な慰めになったに違いありません。



「楽園」とは、天国のことであり、神の国のことです。そこには、イエス・キリストがおられます。イエスさまが共にいてくださる。そこが天国であり、神の国であり、楽園なのです。



十字架の上で悔い改めて救われた人がいる。この事実がわたしたちに教えていることは、わたしたちの信仰と悔い改めに「遅い」ということはない、ということです。



今、ここで、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる人は、救われるのです!



(2006年4月9日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年4月6日木曜日

ユダは自分の福音書の中では「裏切り者」ではない

以下は、本日わたしのもとにオランダから配信されたメールニュース(2006年4月6日付)の記事の拙訳です。「ユダによる福音書」公開のニュースです。



情報源はオランダでは伝統ある改革派系のキリスト教新聞Trouwのメールニュースです。Trouwは、かつてはG. C. ベルカウワーなどの連載記事を売りにしていたこともあります。以下の記事は、ウェブ上でも公開されています。
http://www.trouw.nl/deverdieping/religie_filosofie/article273317.ece/



2006年4月6日(木) Trouw掲載記事



ユダは自分の福音書の中では「裏切り者」ではない



ローデヴェイク・ドロス 文/関口 康 訳



太古に書かれた『ユダによる福音書』は、聖書に記されているような裏切り者とは異なるユダの姿を描いている。さらにこの文書は、最初期のキリスト教会の様子を紹介している。



本日(2006年4月6日)、米国ワシントンにて『ユダによる福音書』が初公開される。研究者ハンス・ファン・オールト(Hans van Oort)氏は、この発見の偉大な意義について、本紙インタビューの中で初めて口を開いた。ファン・オールト氏は、ネイメーヘン〔カトリック〕大学の教父ならびにグノーシス主義研究室の教授である。同氏は、このテキストを研究してきた少数者の中の一人である。



ファン・オールト氏によると、新約聖書では「イエスを裏切った人物」であるこの弟子は、ユダによる福音書では「イエスを最もよく理解していた人物」として登場する。ユダは、自分の福音書の中では、他の使徒たちよりも優れた者であり、まさに「スター」として登場する。



コプト語写本は1700年前に書かれたものであるが、それはさらに紀元180年以前に書かれたに違いないギリシア語原典にさかのぼる。当時 『ユダによる福音書』は教父エイレナイオスによって論駁された。その文書が1970年代に発見され、中央エジプトに譲渡されたが、長い間、非公開とされてきた。昨年、この文書を復元し、翻訳するためにスイス人が立ち上げた財団法人〔マエケナス財団〕が、この文書を購入した。その成果が、本日発表される運びになった。



ファン・オールト氏によると、『ユダによる福音書』はグノーシス主義のテキストである。グノーシス主義とは正統派のキリスト教会との戦いに敗北した古代キリスト教の一潮流である。グノーシスとは「直観的認識」のことであり、それによって信者を救う洞察を得ることである。この文書は、グノーシス主義についての知識を(ニューエイジの思想家たちに)提供するだけではなく、最初期のキリスト教会の様子を物語るものである。原始キリスト教会は、改宗したユダヤ人たちによって構成されていた。



「ユダ写本(Judas-codex)の発見の歴史はダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』よりも素晴らしい。なぜなら、これは正真正銘の事実(echt gebeurd)だからである」と教授は語る。ファン・オールト氏によると、この写本の発見から30年が経過し、公開を妨害してきた人々のおそらく半分は、いなくなった。公開を妨害してきた人々とは、「〔公開するならば〕殺すぞと脅迫する者、密輸業者、写本のすべてあるいは一部を強奪しようとする者、パピルスを単に倉庫にしまっているだけの売買業者」などのことである。ファン・オールト氏は、失われたテキストが将来、さらに発見されることを期待している。



(拙訳者コメント)



当然のことながら、わたしたちは聖書学や教父学、さらにグノーシス主義研究にも関心を持つべきです。それらの研究に関心を持つからと言って、教義学を捨てることや、グノーシス主義者になることを、ただちに意味するわけではありません。



ファン・ルーラーは、第一義的には「改革派教義学者」でしたが、ユトレヒト大学では旧約聖書学の講義を担当したこともあり、その成果である『キリスト教会と旧約聖書』は、自らドイツ語で執筆したものですが、国際的に非常に高い評価を得ることができ、英語版まで出版されました。ファン・ルーラーのヘブライ語やギリシア語の知識は抜群でした。教義学を志す人々に聖書学を避けて通る道はありません。



また、ファン・ルーラーの「グノーシス主義批判」はわれわれの中では周知の事柄ですが、逆に言えば、「グノーシス主義」とは何かを徹底的に知らなければ、ファン・ルーラーが何を批判しようとしていたかが分からないということにもなります。その意味で「グノーシス主義研究」は、わたしたちファン・ルーラー研究者にとっての不可避的課題と言えるかもしれません。



それに何よりも、原始キリスト教会には新約聖書に収められている四つの福音書以外にもたくさんの「福音書」が存在したというのは今や常識であり、別にどうってこともない話です。『トマスによる福音書』であれ、『ユダによる福音書』であれ、『ダ・ヴィンチ・コード』であれ、笑いながら読めばいいし、読まなくてもよい。ただそれだけのことです。ミイラ取りがミイラには、なりません。



なお、本日の『ユダによる福音書』の公開に関しては、以下の記事があるようです。
http://cjcskj.exblog.jp/3073105/



2006年4月2日日曜日

「気を落とさずに祈りなさい」

ルカによる福音書18・1~14



二つの段落を続けて読みましたが、今日お話しできるのは最初の段落だけです。しかし、二つの段落を読んだことには理由があります。共通しているテーマがあることに気づかされたからです。それは「祈り」です。二つの段落の共通のテーマは「祈り」です。



最初の段落に記されているのは、イエスさまが、「気を落とさずに祈らなければならないことを教えるために」、弟子たちに向かって語られた、たとえ話です。「祈らなければならない」と、ここに「祈り」という言葉が、はっきり記されています。



次の段落に記されているのは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して、イエスさまが語られたたとえ話ですが、このたとえ話の中に出てくるのが、傲慢な祈りをささげるファリサイ派の人と、謙遜な祈りをささげる徴税人です。ここにもはっきりと「祈り」というテーマがある、ということが分かります。



ただし、違いもあると思います。最初の段落のテーマは、一言でいえば、祈りの姿勢、あるいは、祈りの心構えは何か、ということです。



「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」



じつをいいますと、わたしは「気を落とさずに祈る」というような言い方があまり好きではありません。「気を落とす」は否定的な表現です。それを「ずに」と言って、否定しています。要するに、二重否定の表現です。この二重否定の表現が、わたしは、あまり好きではないのです。



たとえば、わたしが皆さんの前で誰かのことを「あの人は悪い人ではありません」と言うとします。その場合、「悪い」が否定的な表現であり、それを否定して「悪い人ではない」というのですから、これも二重否定の表現です。明らかにどこか引っかかりがあります。もっとストレートに「あの人は良い人です」と語るほうがよいような気がします。



「気を落とさずに祈る」という言い方にも、わたしは、とても引っかかります。これは「あきらめないで祈る」とも訳すことができます。または「つまずかないで」とか「負けないで」とか「放り出さないで」とか「逃げ出さないで」とか「途中でやめないで」など、いろんな訳が考えられます。いずれにせよ、原文が二重否定の表現になっていますから、それが分かるように訳さなければなりません。



しかし、なぜもっとストレートで肯定的な言い方ができないものだろうか、と思われてなりません。「元気に祈るために」とか、「希望をもって祈るために」とか、「勇気をもって祈るために」とか。



わたしの仕事は教会の礼拝で説教をすることです。わたしは説教を準備しているとき、原稿の中から、二重否定の表現をできるだけ減らしたいと願っています。二重否定が多いと、話が回りくどくなるし、皮肉っぽくなるし、嫌みっぽくなります。全体の調子が暗くなります。



しかしまた、わたしは、このようなことを言いながら、実際にはしょっちゅう二重否定の表現を使っていますし、またそのような言葉を使わないかぎり、どうしても、今の自分の気持ちを正しく表現できそうもないと感じる場面があることを、知っているつもりです。ストレートになどどうして語れましょうかと、思わず叫びたくなるような場面が、わたしたちの現実の生活の中には、たくさんある。そのことも事実です。



祈りとは、なるほどたしかに、それをささげるたびに、そのようなことを、どうしても考えてしまうことの一つであると思います。実際には、祈りながら気を落としている、というようなことがありえます。「祈りなど、何度ささげても、いまだかつて、一度として、かなえられたことはない。だから、わたしは、もう二度と、神に祈りなどささげません」。そのように語る人々に、実際に出会います。



「祈ること」と「気を落とすこと」は、じつは、常に隣り合わせ、背中合わせの関係にあるのではないかと感じる場面に、わたしたち自身が、しばしば出会ってきたはずです。その気持ちを表す表現は、もしかしたら、二重否定しかないのかもしれません。



「『ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない。」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」』」



「神を畏れず」のほうも困ったことですが、「人を人とも思わない」裁判官とは、じつに厄介な存在です。「人を人とも思わない」とは、「人間に全く関心がない」とか「自分以外の誰かのことを配慮することなどありえない」というような意味です。そういう人に法の番人を任せることは、非常に危険なことであり、社会全体がメチャクチャになります。



しかし、そういう人であっても、やんややんやと、うるさく言えば、「うるさいから」という理由で、重い腰を上げてくれることがありうるでしょう、ということです。



「まして神は」と、イエスさまは、お語りになります。そのような裁判官と神さまとが比較になるのかということについては、若干疑問が残ります。イエスさまとしては、ごく分かりやすく言うと、こうなる、とおっしゃりたいのではないでしょうか。



しかしまた、このことを、少し別の次元から考えてみることもできるように思います。わたしが考えることは、祈りとイエス・キリストとの関係、また、祈りと教会との関係という次元です。



まず最初に、祈りとイエス・キリストとの関係ということで、わたしが考えることは、とくにイエスさまの地上の生涯の中でのことです。



人々の祈りがイエスさまに届き、イエスさまが病気をいやしてくださり、またいろいろと助けてくださる。その場合、考えなければならないことは、イエスさまはお一人である、ということです。



イエスさまは数多くの奇蹟を行われた方ですから、たとえば、緊急の場合には、ガリラヤ地方にいながらにして、サマリヤの人やエルサレムの人の病気をいやす、ということが、おできにならないかというと、そうではなかったかもしれません。しかし、通常の場合には、そのようなことは考えるべきではないと思います。目の前の人を、一人一人いやされる。直接、手を触れていやされる。イエスさまは、そういう方でした。



そのため、そこに発生するのは“順番待ち”という現象である、ということも、同時に御理解いただけると思います。



第二の、祈りと教会との関係という観点からも、同じようなことが言えると思います。別の言い方をすれば、わたしたちが教会で祈りをささげる意味は何か、ということです。わたしが一人で祈って、その祈りが神に聞かれましたということも、もちろんありますし、それも立派な祈りです。しかし、わたしたちは、いわばもう一つの祈り方として、教会の中で、みんなの前で、声を出して祈る、ということをいたします。



その場合、どうなるのでしょうか。一人の人がささげている祈りの声を聞いているのは、教会のみんなです。祈りは、人に聞かせるためではなく、神さまに聞いていただくために、ささげるものではあります。しかし、その祈りを聞いている人々は、自分には関係ないことであると、無視してよいわけではありません。



そして、その祈りをささげる人々のために何かをしてあげなければならないと考えはじめるのも教会のみんなです。わたしたちは、ひとが神に祈っている言葉に常に耳を傾け、その人のために何か役に立つことができますようにと、自分自身でも祈り始めなければならないのです。祈りにはそういう次元があるのです。



たとえば、今、わたしたちは、オルガンと新しい印刷機が欲しいと願い、まもなく注文しようとしているところです。欲しいものは、他にもたくさんあります。しかし、わたしたちの願いがかなっていくのは、一つ一つです。



教会といっても、そこにいるのは、わたしたちです。限られた時間と空間の中に生きている人間です。わたしたちに一度にできることは限られています。体力の限界もあります。



先週の水曜礼拝でお話ししたことです。「神(かみ)を求めて、教会に来ると、もらえるものは紙(かみ)ばかり」。週報ボックスの中身は常に文書の山である。洪水のような紙が押し寄せてくる。これがわたしたちの現実である、と言いましたら、皆さんが笑いました。



神の御言葉を聴こうと思って教会に来ると、聴かされるのは牧師や長老のお話ばかり、というのも、わたしたちの現実です。それでがっかりした、と言われると、わたしたちががっかりします。



わたしたちが考えなければならないこと、取り組まなければならない仕事、解決しなければならない問題、欲しいものは、山ほどあります。全部を一度に考え、取り組み、解決し、手に入れることは、不可能です。



だからこそ、そこで矛盾や葛藤が起こります。みんなが自分の順番を待っています。「わたしの順番はまだか、早くしろ」と、不満がたまってきます。そして、そのような中で、あきらめてしまう人も出てくるのです。



しかし、どうか、そこであきらめないでほしい。「気を落とさずに」祈り続けてほしい。そのように、願います。



イエスさまが「人を人とも思わない裁判官」でもうるさく願えば言い分を聞いてくれるという(変な)たとえ話を持ち出しておられるのは、祈りには今わたしが申し上げたような次元がある、ということを知らせようとしておられるからではないかと思います。



(2006年4月2日、松戸小金原教会主日礼拝)