2006年1月29日日曜日

「人々を我が家に充たしめよ」

ルカによる福音書14・15~24



今お読みしましたこの個所は、先週学んだ個所の続きです。時間的にも場所においても全く同じところにイエスさまがおられるのだということを、まず確認しておきます。



「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう』と言った。」



「これ」とは何でしょうか。それは先週の個所の全体でもあり、「これ」の直前に書かれていることを指していると考えるべきでしょう。



先週の個所に書かれていたことは、次のようなことでした。



安息日に最高法院の議員の家でパーティーが開かれました。そのパーティーにイエスさまも招かれ、多くの人々と共に食事をしておられました。ところがイエスさまは、ある人に水腫(水ぶくれ)ができているのをご覧になると、食事の席であったにもかかわらず、すぐに治療してあげました。



そして、もうひとつ、イエスさまがなさったことは、そこに集まっている人々にとってはなんとも聞き捨てならないような、とても引っかかる言葉をお語りになった、ということです。毒気の効いた言葉を語りはじめられたのです。



とくに先週の個所の最後の部分で、イエスさまは「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちもあなたを招いてお返しをするかもしれないからである」と言われました。



こういう言葉を、イエスさまは、明らかに、同じ場所に招かれていた主人の友人、兄弟、親類、近所の金持ちがたくさん集まっている前で、その人々に当てこするような仕方で、お語りになったのです。



そして、イエスさまが続けておっしゃったことは、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14・13〜14)ということでした。



「食事を共にしていた客の一人」が「これ」を聞いた。そしてイエスさまに「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言ったわけです。



この反応は、何を意味するのでしょうか。二つの可能性が考えられます。



第一の可能性は、イエスさまのみことばに感銘を受けたので、同意ないし賛成の意思を表明している、というものです。



第二の可能性は、これは、イエスさまの言葉を聞いて大いに気分を害されながら、何かひとこと言い返してやりたい、というような気分から発せられた、皮肉まじりの鋭い切り返しの言葉である、というものです。わたしは第二の可能性のほうが正しいと考えております。思い浮かぶのは、次のような意図です。



「イエスさま、あなたの話はごもっともです。あなたがお教えになる神の国(天国)は、とてもおよろしいところのようです。しかし、それは天国のお話です。あちらの世界の話です。それは、こちらの世界には当てはまりません」。



この人が言おうとしているのは、どうやらこのあたりのことです。実際このような言い方は、わたしたち自身も、いろんな場面で耳にするものです。ここでわたしたちがとくに気づく必要があると思われるのは、「神の国」ないし「天国」という言葉で、わたしたちは、どんなことをイメージしているか、という問題です。



「そこで、イエスは言われた。『ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください。」と言った。ほかの人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言った。また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言った。僕が帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」』」



16節以下は、たとえ話です。このたとえ話に最初に登場する「主人」とは、自分の家で大がかりなパーティーを計画した人です。「大勢の人を招き」とありますから、おそらく、何枚もの招待状を書き、あるいは直接出会ったとき誘いの言葉をかけたのだと思います。



考えてみたいことは、招待状を書いているとき、あるいは誘いの言葉をかけているとき、この主人はどんな気持ちだったでしょうか、ということです。それは、ちょうど、わたしたちの教会で、年に一度、特別伝道集会のチラシを約五千枚も印刷して、この町の人々に配布しているときに味わう気持ちと似ているのではないかと思います。



また、この主人は、招待した人々に喜んでもらうためにいろいろと趣向を凝らし、プログラムを作り、出しものを考案し、ごちそうのメニューを考えるなどして、すべての準備を整えたのだと思います。



そのとき、その人は、どんな気持ちだったでしょうか。それはちょうど、わたしたちの教会で、年に四回、クリスマス、イースター、教会バザー、お元気会(振起日)のとき、みんなで美味しいごちそうを持ち寄って、パーティーを行う、そのための準備をしているときに味わう気持ちと似ているのではないかと思います。



さて、宴会の開始時刻になりました。そこで主人はしもべを送り、招いておいた人々に「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせました。



ところが、です。その人々が次々に断った、というのです。そして、その不参加には、それぞれの理由がつきました。畑を買ったので見に行かなければならない。牛を買ったので調べに行かなければならない。妻を迎えたばかりなので行くことができない。



しかし、ここに挙げられているような理由は、はっきり言いますと、あとから付けたものである、ということです。



招待されていた、ということは、少なくとも一ヶ月や二ヶ月、あるいはもっと前からのお約束であったということです。当日に突然持ちかけられたような話ではないのです。それに対し、畑を買うとか、牛を買うという話も、結婚するという話も、突然起こるようなことではなく、ある程度の計画性が必要なことばかりだからです。



そして、最も理解に苦しむのは「妻を迎えたばかり」という理由です。これが断る理由になるでしょうか。彼なりの根拠は、おそらく旧約聖書の次の戒めだろうと考えられます。「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼はめとった妻を喜ばせねばならない」(申命記24・5)。



しかし、パーティーは「兵役」でしょうか、「公務」でしょうか。兵役も公務も、共通点は強制的な面がある、ということでしょう。パーティーは、強制でしょうか。



主人は「怒った」と書かれています。無理もないことだ、と言わざるをえません。この「怒り」は、わたしたちにはよく理解できるものです。教会は礼拝だけではなく、楽しいパーティーもするからです。



できるだけ多くの人々に喜んでもらいたい。神さまの恵みをみんなで分かち合いたい。いわばただそれだけの目的のために、心をこめていろんな計画をして、招待状も出して、美味しいごちそうを作ります。寒い部屋は暖めて、暑い部屋は涼しくして、多くの人が来てくださるのを待っているからです。



しかし、だれも来ない。いろんな理由をつけて。だれかのために作った料理を、自分で食べる。冷めた料理を一人で片付ける。これほど虚しいことはない。そのことを、わたしたちはよく知っています。



もちろん、わたしたちは、そういう場面でも怒る必要はないと思います。怒ったところで、何の意味もありません。しかし、イエスさまのたとえ話に出てくるこの主人の気持ちは、わたしたちには、痛いほど分かります。この“痛いほど分かる”ということが大切であると思います。



そこで、この主人が思いついたことが、前回の個所にも出てきましたが、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来なさい」ということでした。その趣旨は、「お返しができない人々だから」(14・14)と、イエスさまはおっしゃっています。少し引っかかる要素があることは否めませんが、理解できない話ではありません。



「『やがて、僕が、「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、主人は言った。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」』」



まだ席が余っている、という知らせが主人のところに届きました。ここで気づきたいことは、この主人は非常にたくさんの席を用意していたようである、ということです。準備する座席の数の多さは、主人の期待のあらわれであり、それは信仰、あるいは祈りと言うべきものです。



だからこそ、主人は言いました。「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と。



この願いの意図は、何でしょうか。「あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」とも言われています。あの人々が「座らせてください。参加させてください」と今さら言い出しても、もう席はありませんというほどに、多くの人々でこの家をいっぱいにしてください、ということでしょう。



このたとえ話におけるイエスさま御自身の意図は、何でしょうか。わたしは、これは、15節の人への“反論”と見ます。なぜ“反論”かと言いますと、「神の国の食事をする人」は、必ずしも15節の人が言うように「なんと幸いなことでしょう」とだけ言われるようなものではない、と言わざるをえない、ということを、明らかにしておられるからです。



「神の国の食事」には座れない人もいる、ということです。ただし、神さまが座らせてくださらない、という話ではありません。招きはきちんとなされています。招かれているのに、自分から断るのです。神さまの責任にすることはできません。



「神の国の食事」に招かれていない人は一人もいません。そこにはだれでも参加できるのです。



ところが、です。「だれでも参加できるところには、参加する意義がない」と言い出す人々がいます。だれが上席に座るべきかとか、お返しがどうとか、その種のルールがきちんと守られているようなところならば参加する意義がある。しかし、だれでも参加できるような場所は嫌だなあ、と感じる人がいるのです。



しかし、イエスさまはここで明らかに、そのような考え方や生き方をする人々にとっては、非常に厳しい言葉をお語りになっています。わたしたちは、少なくとも“教会”の中に、そのような考え方を持ち込むべきではないと思います。



教会は、だれでも参加できます。どういう人だから参加できるとか、参加できない、というようなことは、全くありません。しかし、わたしたちの教会は“だれでも参加できる”ゆえに“安っぽい”わけではありません。それは皆さんが証言してくださることでしょう。



最も重要なことは、祝宴の主催者の心を思いはかることです。



どういう思いでこの集まりを開こうとしているか、です。



どういう思いで人々を招き、どういう恵みを準備しようと心に決めておられるか、です。



そのことを、わたしたちは、よく思いめぐらす必要があると思います。



(2006年1月29日、松戸小金原教会主日礼拝)