2005年7月31日日曜日

贖いの契約

ルカによる福音書10・17~24


今日の個所には、とても印象的な言葉が、繰り返し出てきます。それは「喜び」です。


「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。』」


彼らは「喜んで」帰って来ました。喜んでいる理由は明白です。もちろん、彼らの使命を果たすことができたからです。


彼らは、イエス・キリストのお名前を使うことによって、人々の心の中から悪霊を追い出すことができたのです。


「イエスは言われた。『わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。』


彼らの喜びの報告をお聞きになったイエスさまも、彼らと一緒に喜んでくださっているようです。


「イエスさまが、喜んでくださった」というように、はっきりと書かれてはいません。しかし、彼らの報告内容を、肯定的に評価してくださっていることは、明らかです。


「サタンが稲妻のように天から落ちる」とか「蛇やさそりを踏みつける」などの言葉は、ユダヤ教の伝統に由来する表現であると言われています。


しかし、イエスさまは、明らかに、これらの表現を、象徴的な意味で用いておられます。これらすべての表現は、彼らが人の心の中から悪霊を追い出すことができた、という一点を表わしています。


人の心の中から悪霊を追い出すこと、そして、いわばその代わりに聖霊を注ぎこむこと。そのために、まだ洗礼を受けていない人々に、洗礼を授けること。それこそが、まさに、イエスさまによって遣わされた弟子たちに委託された、重要な使命なのです。


ところが、イエスさまのお答えには、続きがあります。


「『しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。』」


ここでイエスさまが問題にしておられることは、弟子たちが喜んでいる理由は何か、という点です。


七十二人の弟子たちは、「悪霊さえもわたしたちに屈服します」という点を喜びました。ところが、イエスさまは、そのことを喜んではならない、と言われています。喜びどころが違う、というわけです。


なぜ彼らは、この点を喜んではならないのでしょうか。その理由は記されていません。


しかし、これは、わたしたちにとって分かりにくい話でも、身に覚えのない話でもありません。むしろ、よく分かる話であり、身に覚えのある話です。


悪霊がイエスさまの弟子たちに屈服したのは、彼らがイエスさまのお名前を使ったからです。彼ら自身の名前によるのではなく、また、彼ら自身の力によるのでもありません。


「悪霊がわたしたちに屈服する」ということを喜ぶ人々が陥りやすい罠は、そのことをなしえたのは、自分自身の力であると、いつのまにか、思い込んでしまうことでしょう。


教会の中でこの種の罠に最も陥りやすいのは、牧師たちであると思います。


教会の成長を自分の業績のように考えてしまう。いつのまにか、神の栄光ではなく、自分自身の栄光を表わすために、わざをなす。


そのようなことは間違いであると、イエスさまは、注意しておられるのです。


「『むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。』」


あなたがたの喜ぶべきことは「あなたがたの名が天に書き記されていること」であると、イエスさまは、語られています。


このわたしの名前が天に書き記されているとは、このわたし自身が天国の住人であることの証拠としての名簿に名前を書き記されている、ということです。


そのことをこそ喜びなさい、と言われているわけです。


これで分かることが、少なくとも二つあります。


第一点は、イエスさまの弟子たちは、いわば誰よりも先に、自分自身がまず天国の住人であるという自覚と喜びに満たされていなければならない、ということです。


「わたしは天国に迎え入れられるかどうか分かりません。でも、どうぞ、あなたは天国に行ってください」というような伝道の言葉は成り立ちません。それは奇妙な言葉です。


「わたしは、たしかに救われています。だから、どうか、あなたも救われてください」と語るべきです。そのことを、すなわち、このわたしが救われているということを、伝道者たちは、だれよりも先に、喜びをもって語るべきです。伝道には、この喜びが必要なのです。


第二点は、先ほど触れたことです。イエス・キリストの御名を宣べ伝えることが命ぜられている者たちは、自分の力で、人を天国に連れて行くのではない、ということです。


自分の名前を自分の手で天の名簿に書くことができる人は、誰もいません。伝道者たちもまた、自分の力ではなく、神御自身の力、また救い主の力によって、天国の名簿に名を記していただいた者である、という自覚と喜びを持たなくてはならないのです。


「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした』」。


ここでもまた「喜び」という言葉が出てきます。イエス・キリスト御自身の喜びです。


この喜びは、弟子たちの喜びとは明らかに異なるものです。まさに、喜びどころが違うものです。


弟子たちには、はっきり言って、勘違いがありました。悪霊がわたしたちに屈服した。わたしたち自身が、悪霊に打ち勝った。もしそう思っているならば、それは誤解であると、イエスさまは、厳しく注意されました。


イエスさまの喜びは、御自分の力を誇るものではありませんでした。


神の御子イエス・キリストに、地上における救いのみわざに必要かつ十分な全権を委任された天地の主、父なる神をほめたたえるものでした。


イエスさまは、救いのみわざの実現によって輝きはじめた栄光を、御自身にではなく、父なる神にお返しになりました。


イエスさまはそのようなお方である、ということに、わたしたちは、魅力を感じます。もしイエスさまが、そうではなく、いつも自分を誇るようなお方であるならば幻滅です。


しかし、です。そうは言いましても、ただ一つの点だけ、わたしたちが誤解してはならないことがあると思われます。


それは、神の御子イエス・キリスト御自身は、父なる神さまに栄光をお返しになりますが、しかし、父なる神さまは、御子イエス・キリストに救いにかかわる一切の全権を委任されているのだ、ということです。


そのことを、イエスさまは、次に語っておられます。


「『すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。』」


父なる神さまが御子イエス・キリストに、救いにかかわる一切の全権を委任されている、というこの真理を、わたしたち改革派教会は、伝統的に「贖いの契約」と呼んできました。


それは、父なる神と御子キリストとの間に、一つの厳粛な契約関係がある、という教えです。


その契約の内容は、父なる神が救うこと(贖うこと)を決意され、そのような者としてお選びになった人々を、御子イエス・キリストにお委ねになった、というものです。


この教えは、わたしたちにとって、きわめて重要な意義を持っています。少しも大げさではなく、キリスト教信仰の根幹にかかわる教えです。


なぜならば、この教えの核心は、父なる神の御心をわたしたちが知り、かつ信じる道は、ただ一つ、神の御子イエス・キリストを通してだけである、ということにあるからであり、だからこそ、わたしたちは、イエス・キリストを通して神を知る、というただ一つの道を通らなくてはならないからです。


そして、なぜこのことが、キリスト教信仰の根幹にかかわるのかということを一言するならば、キリスト教信仰の一切がイエス・キリストにかかっているからです。


たとえば、です。イエス・キリストを抜きにした、ただ単なる神信仰というようなものは、キリスト教の信仰ではない、ということです。


もっと単純に言って、「キリストの出てこないキリスト教」などは、ありえない、ということです。


それどころか、むしろ、正反対に、キリスト教のすべてはキリストにかかっている、と言わなくてはなりません。


「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」


ここでイエスさまが語っておられる「あなたがたが見ているもの」、また「あなたがたが聞いているもの」とは何でしょうか。


多くの預言者や王たち、すなわち、旧約聖書の登場人物、そしてまた神の民イスラエルに属する多くの人々が待ち望んできた救い主(メシア)であるイエス・キリスト御自身である、と答えることも可能だと思います。


しかし、もう少し広げたところで考えておくほうが、よさそうです。言うならば、それは、イエス・キリストを通して実現した救いのみわざのすべてです。


また、そのみわざは、イエス・キリストの弟子たちによっても行われました。


ですから、それは、イエスさまの弟子たちを通して、さらに、弟子たちの集まりとしての教会において実現した救いのみわざのすべてです。


それを見ることができ、救いの喜びを味わうことができる人々の「目」は、幸いであると言われています。


わたしたちも、今、それを見ています。わたしたちの「目」は、幸いなのです!


(2005年7月31日、松戸小金原教会主日礼拝)